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『イエス・キリストの名によって宣言しよう

2013.1.13 (日)
新城教会牧師 上條実
エペソ人への手紙 6章11節~12節

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』


 ハレルヤ!皆さんにお祈りいただき、今日ここに立てることを心から感謝致します。この二〇一三年、希望に燃えて始めたのですが、なんと目には見えないノロウイルスにやられました。先週の金曜日、就寝し、夜中なにか気持ち悪いなと思いトイレに行きました。そこで嘔吐してしまいました。その後胃が痛み、先週の礼拝は来ることができず自宅でインターネットで礼拝に参加しました。まだ本調子というまでにはいっていませんが、今日ここに立つことができますことを感謝します。
 去年の十二月に入って、咳がずっと続き、体調を崩していました。そして口に口角炎ができ、その後全身に湿疹が出ました。やっと直りかけてきたときにノロウイルスで胃腸炎になりました。私のためにお祈りくださり感謝するとともに、お互いの健康のためにお祈り、皆さんが健康で守られるようにお祈りしていきたいと思います。

 さて私が二〇一三年の為に与えていただいたみことばは、第一サムエル記 三章十節です。

『そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。』

ということです。いつもそばにいて下さる神様が私にも皆さんにも親しく名前を呼んで語って下さる。今年は教会の全ての兄姉が神の声を聞く事ができますように。そしてその語られたことを実行できるようにと教えられました。そのみことばに従っていこうとした新年早々病いで苦しみ、今回はとても辛い時でした。皆さんが見て分からないかも知れませんが三キロも痩せました。体重的にはこれを維持していきたいと思いますが、たぶんすぐに戻ると思います。今回胃腸炎にかかった初日はとても体が辛くて、OS1という経口補水液を飲んで水分を補給しなければと思いましたが、一口飲むだけで胃が痛く、初日は二百CCも飲めないような状態の中苦しみながらも「主よ。私にお語り下さい。私は聞いております。」と祈りながら過ごしておりました。家内に夕食を食べますかと問われたのですが、食べる気も起こりませんでした。しかし家内がゼリーを買って来て下さったので一口食べて見ました。それまで全く味のない物を飲んでいましたので、たった一口食べたのですが、とってもおいしくて「おいしい」と声を出すほどでした。しかしその後、胃がとっても痛くなり、苦しみ「食べるのを止めておけば良かった」と思いました。しかしそんなとき、私に主が語ってくださいました。

 昨年の十二月から体調を崩し、今回は胃腸炎。その苦しみの中、先々週の土曜日お昼頃にメールが入りました。それは四元先生から「来週の主日礼拝、メッセージをお願いします」と書かれてあり「こんな苦しい時に…」と、私はまだそのメールを返信していません。(笑)そのような状況では感謝ができませんでした。こんな状況では講壇に立つことはできないとか、昨年末からの体調を考えたりして、不平をこぼしていました。そんな時でした。ゼリーを一口食べ終わったとき主が語って下さいました。それは第一テサロニケ人への手紙五章十八節、

『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

 有名なみことばです。先ほども「主の祈り」をお祈りしました。その中で「日ごとの糧を今日も与えてください」と祈りました。私はゼリー一口食べた後「食べるんじゃなかった。」とつぶやいたときでした。主は私に感謝が足りないと語って下さり、みことばを思い出させて下さいました。私は食べられるのが当たり前になっていました。日ごとの糧を与えて下さいと祈っても、当たり前のように食べることができますので、心からの祈りができていませんでした。神様は「感謝しなさい」と言われました。感謝の反対語は何か皆さんご存知でしょうか?それは「当たり前」だそうです。昨日も息子とテレビを見ておりましら、あるコメディアンが「当たり前体操」というものをしていました。それが今話題になっているみたいですが、「食べられる」という事をもっと感謝しなさい。と語られました。また食べることだけでなく、全ての事に感謝がないと思わされました。

 うちの次男が一歳の時です。彼はもう二十七ですので、二十六年前になりますが、私は原因不明の病気になり、東京の病院に検査入院しました。当時七十二キロあった体重も、十五キロも減少し五十七キロに痩せこけてしまいました。また体力も全くなくなり、毎日検査が続きました。その時は病名がついていることは感謝だなぁと思いました。なぜなら何の病気か幾ら検査しても分からないと言われるのです。医師にとっては格好な研究材料だったかもしれませんがとても不安でした。その大きな病院の中で私ともう一人の方にだけ病名がありませんでした。その方と同室でしたのでお互いに励まし合い、検査に行くたびに「今回でわかれば良いですね」と語っていました。その時の私の症状の一つは胸が痛かったのですが、次第に痛みが下の方に下り、あばら骨の下あたりがとても痛みました。また痛みが出ると高熱が出て苦しみました。痛みがあるとき、はじめは痛み止めを口から飲んでいましたが、飲み過ぎで胃が荒れてしまい、座薬を打つようになりました。大人が、ズボンを下ろし、そしてその座薬を差し込むときとても惨めな気持ちになりました。座薬を入れると少し効くのですがすぐに痛みが出てくるのです。だから座薬を手放すことができず、酷いときは四時間間隔で座薬を使っていました。そんな時『すべてのことについて感謝しなさい』という内容の本を読みました。その中には「良い事は簡単に感謝することはできる。しかし悪い状況を感謝しなければならない。『すべてのことについて』と書いてあるからだ」という内容の本でした。自分はその時苦しんでいた時ですので、この著者は苦しみを味わったことのない人だなんて思っていました。そんな中ほとんど毎日検査があったのですが、ない日もありました。その時一度感謝することを試してみようと心に決めて、朝から全ての事を感謝して過ごしました。
 入院した病院は、健康に良いからと言うことで菜食主義の病院でした。ある夕食に鳥の唐揚げが出ました。しかし大豆で作った偽物の唐揚げでした。またお味噌汁のだしも魚も使ってはいけないのでおいしくありませんでした。病院の栄養士さんが来て「どうですか?食べられましたか?」と聞かれた時、私ははっきりと「食べられません。」と言うと、向こうはむっとしていました。体のことを考えて作って下さった食事に対して、「感謝していただきます」と祈っていながら不満だらけでした。しかしその日の朝食は「感謝します」と心から感謝していただきました。また感謝を必死に探しながら感謝しました。「目が見えることを感謝します。」「耳が聞こえることを感謝します。」「手が動くことを感謝します」等々様々なことを感謝しました。しかし五分、十分で感謝が終わってしまうのです。感謝がそれだけ少ないんですね。とにかく感謝という感謝を事細かく感謝した一日でした。
そんな日の夕方、自分の身に起きた奇跡で驚きました。それはいつも四時間ごとに痛みが増し、座薬を打っていました。しかし感謝し始めたその日は痛みが気にならならなかったのです。夕方になってその事に気付きました。座薬を一本も使っていない。すごいと意識した時、不信仰ですね。痛い気がしてきました。そして座薬をつかいました。私は感謝はなんとすごい力があるのだろうと思い、神様とみことばを恐れました。過去そのような経験をしながらも、いざ病いが癒されて、普通の生活に戻ると、感謝を忘れてしまいます。今の私の発してる言葉は、ほとんどが不平不満、そして感謝はほんの少ししか語っていないと思うほど「感謝」が足らないとイエス様に教えられました。
 私は感謝が足らなかったことを悔い改め、「全ての事について感謝できるように」と祈りました。すると主はもう一つ私に語って下さいました。それは最初に読んでいただいたエペソ人への手紙六章十一節~十二節でした。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 このみことばはよく開かれる箇所です。昨年の五月に滝元順牧師が「神の戦略と戦術」というタイトルで、すばらしい心に残るメッセージを語って下さいました。そのメッセージは新城教会のホームページで読むことができますのでぜひご覧下さればと思いますが、「聖書には神の「戦略」という全体計画があって、同時にその中には「戦術」がある」と語られました。「戦略」というのを辞書で調べると、「戦争に勝つための総合的、長期的な目的が達せられるように、前もって考えておく手段。また、相手を騙そうとする企み。はかりごと」と書かれてありました。そして「戦術」は「戦いに勝つためのおのおのの具体的な方法」と書いてありました。また先ほどお読みしたエペソ六章十一節の「策略」は、戦術とほぼ同じようなことですが、「自分の目的を達成するために相手をおとしいれるはかりごと。計略」と書いてありました。「聖書には神の「戦略」という全体計画があって、同時にその中には「戦術」「策略」がある」と言うことを踏まえながら、再度エペソ六章十一節~十二節を読んでみたいと思います。


『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 悪魔は私たちに対して「自分の目的を達成するために相手をおとしいれるはかりごと。」を考え、戦ってくる。私たちは立ち向かうことができるために神のすべての武具を身につけろと書かれています。悪魔の最大の目的は「人間を神様から離すこと」です。私たちクリスチャンに対して、悪魔の中でも特に精鋭たちが策略を練って、私やあなたにピンポイントで策略を巡らし戦いを挑んで来るのです。

 話はちょっと変わりますが、私は夏から秋にかけてハゼ釣りに出かけることがあります。全くの初心者なんですが自然の中でゆっくりするのが好きで行きます。私のようなものでもハゼは釣れますので、また興味がある方は行っていただければと思いますが、海釣りでアジなどを簡単に釣る方法として「さびき」という仕掛けがあります。そんなこと言っても分かっている人はお分かりだと思いますが、分からない方は何のことか分からないと思いますので、どんなものか写真をお見せしたいと思います。

さびき.gif<さびき>

 これがさびきというものです。下に網かごがありますが、かごに餌を入れます。その上に針が付いています。餌を入れて水中に落とし、竿をゆっくり上下するだけです。魚は餌と勘違いしてはりに食い付き釣れるのです。動画を見せてみたいと思います。こんな感じです。

キャプチャ.JPGキャプチャ.JPG
さびきのYouTube画像

 これはアジの群れですが、餌に集まって来ます。そして餌だと思ってはりに食いつき釣れるのです。これも誰でもできるので皆さんも暖かくなったら釣りに出かけてみて下さい。しかし私はこの映像を見ながら、悪魔の策略っていうのはこんなものじゃないかな?と思いました。魚はクリスチャンです。悪魔が策略を巡らせ餌を入れ、その策略に弱いクリスチャンが集まり、釣られるのです。
日本は、悪魔の最高の漁場じゃないかと思うのです。日本には教会が約八千あると言われています。都市部では少しずつ教会が増えています。すばらしいと思いますか?しかし教会が株分けしてというより、分裂して新しい教会ができています。また海外の教会が進出して教会を作り、今までの教会にもの足らないと思っている人が移動しているのです。しかしクリスチャン人口は増えていません。策略にはまって教会が傷ついているのです。
 またクリスチャン個人にも策略を巡らせて来ます。異性問題、お金の問題、酒、タバコ、人間関係などで、ピンポイントでその人の一番弱い所を攻めてきます。それも絶妙なタイミングで策略を巡らせて来るのです。クリスチャンに罪という策略を入れてきます。罪は黙っていれば分からないと語り、隠しながらクリスチャン生活を送らせ、知らず知らずのうちに神から引き離してくるのです。今日、私たちは胸に手を当て、悪魔の策略にはまり、神から引き離されていないかチェックしなくてはいけません。そして策略を巡らせてきている悪魔に対して立ち向かう者にならなくてはいけません。

 韓国でリバイバルミッションを行いました。大変すばらしい祝福をいただきましたが、あのリバイバルがあった国でも、多くの方が策略に対して負けていると聞きました。最近多くのクリスチャンがカトリックに離れて行ったり、なんと仏教に改宗して離れて行ってしまうと聞きました。せっかくすばらしい救いをいただきながら、知らない間に策略に引っかかり信仰を失ってしまいます。私たちは「悪魔の策略に対して立ち向かう」クリスチャンにならなくてはいけません。常にへりくだり、聖さを持ち続けなくてはいけません。今日も聖餐式がありますが、ただ毎週の儀式のように考えないで、十字架を心から感謝していただかなくてはいけないと思います。常にイエスキリストの十字架と復活を心から感謝していきましょう。もう一つ神さまから語られたのは、ローマ人への手紙十章九節~十節です。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

 もうひとつは「告白しなさい」ということです。感謝は告白だと思います。心の中で「感謝」と思うこともありますが、やはり相手に「ありがとう」と口に出して感謝することが大切だと思います。ある方からすばらしい食事をご馳走していただいた時、黙っていたら感謝が伝わらないのです。聖書は「口で告白する」ということがとても大きな意味があると語っています。今のローマ書十章九節~十節でも、

『あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

 『口で告白して救われるのです。』とあります。私たちただ「イエスを主と告白」したら救われるのです。暗闇の支配から神の支配に移されるのです。告白することで永遠の行き先が変わるのです。悪魔は私たちがみことばによって告白されたら困るのです。詩篇三十二篇五節には、

『私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。』

 『あなたの口で罪を告白したら赦される』とあります。隠していたら赦されません。しかし告白したら赦されるのです。難行苦行でもなく、お金をどれだけ払えばでもなく、どれだけ善行を積めばよいと言うのでもありません。ただ告白すれば良いのです。罪が赦されるのです。また新約聖書ヘブル人への手紙十章二十三節には、

『約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。』

とあります。『希望を告白しようではありませんか』。みこころの祈りは必ず答えられます。あなたのまだ答えられていない祈りを告白して祈りましょう。また教会全体で告白しましょう。新城教会の祝福のために。特にいつも祈っているリバイバルのため告白して祈りましょう。また第一ヨハネの手紙四章十五節、

『だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。』

 いつも主が共に居てくださいます。イエス様を神の御子と告白する時、主はいつも私たちと共にいてくださる。私たちがイエス・キリストを告白したら、様々な問題の時でも共にいてくださる、助けて下さるというのです。イエス様はあなたの問題をあなたの祈りによって初めて知るとおもいますか?そうではありません。問題の渦中でもともにいて下さるのです。
 告白には力があります。絶対的勝利があります。日本のリバイバル、教会のリバイバルのためにみんなが告白し始めたら、大変化が起こります。主が大きなことをこの日本にリバイバルを与えてくださると教会全体で告白、宣言していく時、圧倒的な勝利を与えてくださいます。
 「告白」は、霊的戦いのみ言葉の剣です。剣は戦いの道具です。今どんな状況であっても、希望を告白しましょう。宣言しましょう。

 新城教会は今まで多くの祝福をいただきました。しかし新城教会は今までに大変な出来事がありました。一九九二年に聖霊様の大きな訪れがありました。そして霊的戦いを開いて下さいました。
 一九九三年、今から二十年前に阪神甲子園球場にて三日間の大きな大会が開催されました。ご存じでない方は記録のDVDが残っていますので、ぜひご覧になって下さい。滝元明牧師がメイン講師で、三日間で十二万四千人もの方々が集いました。その時はみんながリバイバルを必死に求めて祈りました。その働きを新城教会が中心となって働きました。しかしがんばろうとした時、悪魔は策略をこの教会に巡らせていました。
 私たちにとってとても悲しい出来事が起きました。それは教会が分裂したのです。とてもつらい出来事でした。
 また霊的戦いを理解し、この霊的戦いによって日本にリバイバルが起こると信じて、毎日祈りました。聖書にも霊的戦いの箇所が多くあり、必ず他の教会も理解し、ともに祈っていくものと思いました。しかし危ないんじゃないとか、様々な策略で、教団教派が一致することもできず、苦しい時を持ちました。
 しかし今まで続けて霊的戦いが続けられ、いたる所でみことばによって宣言、告白がなされてきました。今年は教会全体で一致して宣言、告白して勝ち取りなさいと教えられました。

 先週の礼拝のメッセージで、『私たちは祈りの時に「イエスさまの御名によって祈ります」とお祈りしますが、「御名によって」というのは、印籠を出すようなイメージではなく、私たちはイエスさまの中にあるがゆえに、父なる神さまに祈ることができるわけです。今年私たちは、天に名が記されている、「私たちの本質は天にある。」ことを意識し、宣言しましょう 』と語られていました。「私たちの本質は天にある」と信じて宣言していく時に神は勝利を下さると語られていました。霊的維新を起こしていただこうというみことばでした。ですから今日みなさんと一緒に宣言したいと思います。ルカ十章十九節とイザヤ書六十五章十七節~二十五節を宣言したいと思います。ぜひ毎日宣言して下さい。仏教でも他宗教でも経や題目を毎日唱えています。悪魔も逆手を取って告白させているのです。それが悪魔の策略です。だから私たちはイエス・キリストの名によって宣言したいと思います。私たちの本質は天にあります。イエス様と直結しているわけですから、私たちが語ったならば主が動いてくださいます。このみことばを大胆に宣言したいと思います。みなさんが宣言した時、主がこの教会を変えてくださると信じます。まだ見ていない、あなたがずっと祈り続けてきた課題、あきらめてしまい、そのあきらめが化石になっているような、あきらめきった問題も、希望をもって告白しようじゃありませんか。主の前に宣言する。教会全体で宣言してください。全ての器官が声を上げて宣言したら、教会という体が宣言、告白したら圧倒的な勝利をいただくことができます。ではルカの福音書十章十九節を大きな声で宣言したいと思います。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 もう一度宣言しましょう。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 アーメン。ハレルヤ!感謝します。続いてイザヤ書六十五章十七節~二十五節を教会全体で宣言しましょう。

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と主は仰せられる。』

 この二つのみことばは主イエス・キリストの名によって新城教会の宣言であることを宣言します!アーメン。

 今から聖餐式を行いたいと思います。今日はお願いしますという祈りはやめましょう。感謝の祈りを捧げてください。告白してください。宣言してください。その時に主は大きな祝福を与えてくださることを信じます。お祈りします。

 ハレルヤ。主よ。私たちのために十字架に架かってくださり、復活して下さったことを感謝します。私たちは悪魔の策略にやられていました。だまされてきました。しかし、今日、まだ見ていませんけれども、私たちには圧倒的な勝利があることを感謝します。『確かにわたしはあなたがたに蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だからあなたがたに害を加えるものは一つもありません。』このみことばを宣言します。私たちの本質は天にありますから、これからは悪魔を踏みにじり、圧倒的な勝利をいただくことができますように。今から聖餐をいただきます。今日は救い主イエスキリストを心から感謝して、聖餐をいただくことができますように。感謝を常にささげるもの、策略に立ち向かい勝利するもの。そして常にみことばを宣言、告白していくものとさせて下さい。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン