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『霊的維新2013
〜聖霊の力を熱心に求めよう〜』

2013.2.3 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 11章9節〜13節

『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』


 ハレルヤ!今朝もこうしてみなさんと共に、礼拝を守ることができますことを、心から感謝します。
 今から韓国から来てくださった方々に、賛美をしていただきたいと思います。去年、私は春川という街に行き、聖会を持たせていただいたのですが、そこで初めて三姉妹にお会いしました。この方々は「ウー三姉妹」と言います。日本の各地で奉仕をしておられます。また一緒に来てくださったのは、福岡の久留米で宣教されているチェ先生です。今日は三姉妹の賛美を聞けることを、心から感謝しています。
 彼女たちはすごく元気が良いです。本当に明るいです。この人たちは絶対に鬱病になるわけがないと思いました。そう話したら「あなたたちは鬱病の薬だ」と、人からよく言われると話していました。そのくらい元気がいいです。イエス様を信じて、本当に喜んで、元気よく賛美される方々です。
 近年、韓国と日本が一つになって働きが進められていますけれど、韓国から新城に来てくださいました。大きな拍手でお迎えください。



 ありがとうございました。本当に主の臨在溢れる、素晴らしい賛美でした。
 彼女たちは三人姉妹ですが、財布も三人で一つだそうです。また、携帯電話も三人で一台だそうです。本当に仲が良いですね。
 神様のために一生懸命働いています。彼女たちは歌ったり、踊ったりすると共に詩人です。詩集も出しています。近ごろ、「ザ・ラスト・プロポーズ」というエッセイ集を出しました。彼女たちはラスト・プロポーズを受けましたから、結婚できないのではないかと思うのですが、イエス様からプロポーズされたらしいのです。その中に、こんな詩が載っていました。

 『世の中にはアドレスを入力すると目的地まで案内してくれて、しかもその目的地まで、途中に注意を要することがあると事前に通知してくれる、カーナビゲーションがあります。
 私はどこに行く時にも目的地まで道のりを案内してくれる、このカーナビのように天国に行く道を案内してくれて、しかもその前途にある危険な状況さえも教えてくれる天国へのナビゲーションがあったらいいなぁ、という考えを持つようになりました。
 そんなことを考えていたある時、私の心に主の声が聞こえました。「天国へ道を示すナビゲーションがありますよ。そのナビゲーションは、アドレスを入力する必要もなく、途中に障害がある場合には、事前に通知することはもちろん、それを取り除くことまでしてくれます。しかしそのナビゲーションは、人の心にしか取り付けることができません。そして、そのナビゲーションは、その人の心と完全に一つとなった瞬間から、作動するのです。
 そのナビゲーションとは何かわかりますか?それはまさに、わたしの心そのものです。「天国へ行く道を案内してくれる、ナビが欲しいですか?それならば、わたしの心をいだけば、可能になります」とイエス様は教えてくださいました。』

 こんな詩がこの本に載っていました。みなさんの心には、聖霊様のナビゲーションは付いていますか?イエス様を信じると、ナビが心に設定されるみたいです。イエス様と心が一つになると、目的地まで自動運転してくれるのです。そんな人生があったら、素晴らしいですね。
 今日すでに、ここにおられる方々には、聖霊様のカーナビが付いています。だから多少道を外れても、また元来た道に戻してくれます。何がなくとも、イエス様が与えてくださる、ナビゲーションシステムを心にいただきたいものです。

 毎回「霊的維新2013」とタイトルをつけていますが、今日で止めにしようかとも思っていますがまだ、分かりません。副タイトルは「聖霊の力を熱心に求めよう!」です。
 日本は本当にクリスチャンが少ないし、教会も少ないです。しかし韓国に行きますと、教会が本当に多いです。国民の二割から三割がクリスチャンだと言われます。特にソウルは四割くらいが、クリスチャンじゃないかと言われます。キリスト教王国は韓国です。
 彼女たちが通っている教会は、日曜日に何回も礼拝があって、一回目の礼拝が終わると、次の礼拝に出る人たちが、戸口に待ちかまえているのです。そして一番いい席を確保するために、扉が開いたらみんなで走るのです。すごいですね。うちの教会は、私が怖いのでしょうか、一番前の席が空いています。韓国の方々は、熱心に主を求めておられます。
 一つのビルに幾つも教会があるので、自分の教会かと思って座ったら「あれ?ちょっと雰囲気が違うな・・・」と、他の教会に間違って座ってしまうこともあると聞きました。私は初めてそれを聞いた時、「まさか、そんな馬鹿なことがあるわけない」と思いました。
 しかし、しばらく前、韓国のある教会から夕拝の奉仕を頼まれまして、住所をカーナビに入れて、通訳の方たちと一緒に出かけました。すると住所の場所に、教会がありました。
 それで教会に入って行きました。私はその教会の夕拝の講師ですから、韓国では講師を丁重に扱ってくれます。私はきっと歓迎してくれるに違いないと思って、会堂に入って行きました。すると雰囲気がちょっと違いました。「よくいらっしゃいました」と言われ、「どちらから来られましたか?」と聞かれました。「日本から来ましたよ」と言うと、「遠くから来られたんですね。何しに来たんですか?」と言われるのです。
 「どうもこうもない、私はこの教会でメッセージするために来た・・・」と、ちょっとおかしいと思いました。
 そうしたら通訳の方がトイレに行っていたのですが、慌てた顔をして出て来ました。「順先生!この教会じゃなかった!」と言うのです。「えっ?なに?」と聞くと、同じ住所で壁を隔てて、向こう側とこっち側に教会がくっついて二軒あるのです。一方の教会の講壇はこっち側を向き、もう一方の教会の講壇は反対を向いているわけです。同じ住所でも二つの教会がありました。私たちは逆の玄関から入ったのです。私が奉仕する教会は、反対の入り口の教会だったのです。いや〜、本当にこういうことってあるんだと、びっくりしました。
 でも、韓国の方々って寛容ですよね。二つ教会を同じ住所に作ってしまうくらいですから。日本もそのくらいの国になれたら嬉しいですね。
 では韓国が、なぜ、そうなったのかといったら、それは真剣に聖霊様を求めたからです。

 今日のタイトルは「聖霊の力を熱心に求めよう!」ですが、近ごろ、ルカ十章から学んでいますが、二〇一三年のテーマとして主が与えて下さった御言葉は、ルカの福音書十章十九節です。
 この御言葉を今日も、みなさんで朗読してみましょう。もうすでに自分の御言葉になったかと思います。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 この御言葉が自分のものになったら、怖い物なしです。今年は今までの人生の中で、最高の年となります。御言葉を信じて、もう一度読んでみましょう。自分に直接、主が語って下さった言葉として受け取りましょう。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 ではなぜ、このような勝利があるのかといったら、「天に名が記されている」、それもただ記されているのではなく、「刻み込まれている」ゆえに、この事が起きるとお話ししました。
 その流れの中から、先週は「永遠のいのち」について学びました。イエスを信じるなら、永遠のいのちをいただくことができるとお話ししました。
 永遠のいのちを受けるためには、どうしたらいいのかという問いに対して、二つのことが大切だと話しました。それは「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことが重要だと学びました。
 永遠のいのちを自分の物とするためには、神様を心から愛し、隣人を愛することをいつも心に留めておくべきです。
 でもそれは、お隣に座っている人はもちろん含まれますけれど、ユダヤ人とサマリヤ人という話しですから、ユダヤ人にとってはサマリヤ人。サマリヤ人にとってはユダヤ人という、隣に住んでいる異民族を意味します。一般的に隣に住んでいる異民族同士は、あまり関係が良くありません。
 日本もやはり、近い国々とあまり関係が良くありません。韓国とか中国とか、近い国々となると、いろいろ摩擦があるわけです。しかし近い国々の人たちの隣人となる時、神の国が現され、永遠のいのちがあなたのものになるのです。

 それがルカ十章三十節から三十一節に記されています。これはみなさんよくご存知の箇所です。良きサマリヤ人の例えですけれど、ここに祭司、レビ人、サマリヤ人が出て来ます。倒れている一人の旅人をめぐって、誰が助けたのかをイエス様は語られました。ルカの福音書十章三十三節〜三十七節、

『ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 新年に語られた御言葉の中に、信弘先生が「あわれみ」というテーマで語ってくれました。『あなたも行ってそのようにしなさい』とイエス様が語られたように「あわれみ深い人になりなさい」と語られました。
 このサマリヤ人は旅の途中、倒れていた旅人に出会ったわけです。サマリヤ人には、自分の旅の目的があったのです。その人を助けるのは、普通からいったら面倒な気がしたかもしれません。目の前に倒れている旅人は、たぶんユダヤ人であったと思われます。しかしサマリヤ人は、倒れている旅人を助けるために、全力を尽くしました。これが「あわれみをかける」姿であり、最も大切なことだったのです。自分のことよりも、他の人のことを思いやるのが重要だというのです。

 聖書は章とか節が付いているゆえに、分断されてしてしまうのですが、元々は章や節は付いていません。それらにとらわれずに読むと、ストーリーがよく理解できます。
 十一章に入ってから出て来るストーリーが、今日読んだ箇所です。十一章五節から読んでみましょう。ルカの福音書十一章五節〜九節、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』

 実はこのストーリーは、どういうことかというと、夜中に友達が急に訪ねて来たというのです。非常識な友達ですよね。それも、みんな寝静まった深夜に来たというのですから。その友達は「泊めてくれ」と頼んだだけでなく、「腹が減った~」と言ったのです。「腹が減ったから、なんか食う物ない?」と言ったのです。しかし彼の家には食べる物がありませんでした。
 それを聞いたその家の主人は、隣に彼の友達が住んでいたので、その家に行って、それも寝静まっている人たちを叩き起こし、パンを三つ借りて来たというストーリーです。
 私だったら絶対に、この主人のような行動は取らないと思います。夜中に友達が来ただけでも腹が立つと思いますし、その上、「腹が減ってるからなんとかしてくれ」なんて言っても「朝まで我慢しろ」とか「自分で近くのローソンに行け」とか言うはずです。まさかお隣をたたき起こして、パンを借りてくるなんて絶対にしないと思うのです。しかしこの家の主人は、真夜中に訪ねて来た友達のために、ここまでやったのです。
 このストーリーは、良きサマリヤ人と同じ内容を含んでいます。通りがかりに倒れていた人のために、とことん助けた、夜中に訪ねて来た腹をすかした友達のために、とことんがんばってパンを手に入れたからです。
 それも自分のためではなく、他の人のために全力を尽くす「あわれみの行為」でした。それが永遠のいのちに繋がり、今日の箇所では、なんと「聖霊の力を受ける秘訣」につながるというのです。

 世界には数多くの宗教があります。比較宗教学といって、宗教を比較する学問があります。私が牧師だから言うのではありませんが、他の宗教と比較してみても、キリスト教は他を圧倒しています。
 私は先々週、カンボジアに行きました。あの国の宗教は小乗仏教です。それは「努力して、努力して、自分だけが解脱する。他の奴らは地獄に行ってもいい」という考えです。ですから自分の益となることは、何でもやるのです。だから自分勝手な性格になるのです。
 日本は小乗仏教ではなく、大乗仏教です。小乗仏教を舟で例えると、「向こう岸まで小舟で一人で渡る」というものですが、大乗仏教は「大勢で一緒に渡る」という考えです。だから「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」となるわけです。「他の人はどっちでもいい。ある特定のグループだけ救われればいい」という考えです。誰かの救いのために、誰かの癒やしのために、誰かの解放のために、全力を尽くすなんていう考えの宗教は、キリスト教以外にはどこにもありません。

 聖書の教えは本当に崇高です。自分のためではなく、誰かのためにあわれみの心をいだいて真剣に働く。そこに本当の幸せがあると説いているのです。
 「自己実現」という言葉がありますが、人は自己実現のためには一生懸命になります。またそのような性格の社会に住んでいます。しかし聖書の御言葉に触れ、少しでも誰かのために、あわれみの心を持って働く時、神の祝福を受け取ることができるのです。

 特に、ユダヤ人とサマリヤ人という、関係の良くない隣に住む民族のために、とことん愛を持って働く時、そこにいのちが溢れ、聖霊の力が湧き上がるのです。
 韓国から多くの宣教師の方々が日本を愛して来てくださっています。日本もただ受けるだけではいけないのです。これから日本も、与える国にならなければいけないと思います。
 日本は戦後、受けることばかり考えて生きて来ました。だからその癖がついています。受けることばかり考えて、経済的に豊かになりました。しかし与えることが欠けていた為に、経済が悪くなったのではないかと思います。

 その先陣を切らなければいけないのが、教会だと思います。教会は自分たちのことだけでなく、だれかのために真剣に祈り、隣の国の祝福の為に働く時、国に神の恵みが訪れるのです。

 ここに「求めなさい、探しなさい、叩きなさい」と、三つのパンに対するひたむきさが記されています。このパンは誰のためかというと、自分のためではなく、真夜中に訪ねて来た「泊めてくれ。腹が減った」と勝手なことを言う友人のためです。真夜中に隣の家に行き、パンを激しく求め、探し、叩く態度が、なんと聖霊が与えられる秘訣につながるわけです。

 最も大切なことの中で「神を愛すること」「隣人を愛すること」の大切さ、そして強調されているのが、「聖霊を受ける」ことです。それが最も大切なことですと、ルカは読者に訴えているのです。
 イエス・キリストを信じたら、永遠のいのちを受けることができますが、次の段階があります。それが「聖霊を受けること」です。イエス様を信じた時、聖霊様が私たちの心に宿られるのですが、聖霊様が私たちから溢れ出て下さる段階があるのです。

 この頃、少し暖かくなりましたが、朝、顔を洗うのが冷たくて大変です。でも、ほとんどの家に、瞬間ガス湯沸かし器が付いています。コックを捻ると、瞬間的にお湯が沸いて、温水で顔を洗うことができます。
 でも時々、コックを捻ってもなかなかお湯にならない時があります。「今日は寒すぎるのかな。でもおかしいな・・・」と思って、はっと気づくわけです。「そういえば、種火が点いていない!」と。
 湯沸かし器を見に行くと、どうも種火が消えてしまっているようです。これではいくらコックを開いても、お湯は絶対に沸かないのです。
 お湯が沸くための必要最低条件は、「種火が点いている」ことです。でも、種火だけでは、いくら待ってもお湯にはなりません。もう一回、コックを捻らないとお湯にはなりません。
 クリスチャンも同じです。イエス様を信じると、心に聖霊の種火が点きます。それで天国に行く特権をいただくのですが、それだけでは、他の人を温めることはできません。もう一回、コックを捻ってもらって、全体的に火が回らないといけないのです。
 聖霊の火を求めなさい、力を求めなさい、それが最も大切なことですと、ルカは伝えています。それを得る為には、ただ単に求めるのではなく、時には、探し回らなければいけないし、さらには叩いて求める「ひたむきさ」が必要だというのです。

 日本の未来のために、日本のリバイバルのために、聖霊の力を求め、探し、叩くひたむきさが、どうしても必要だと思うのです。その時、日本に霊的維新の扉が開かれると信じます。
 韓国に行くとそこが違います。祈りの時は「チュヨー!」と全身で叫んで、主を求めます。私たちもそのような態度で、聖霊様を求めたいと思います。
 しかし間違えていけないのは、自分のためでなく、誰かのためです。みなさんの周りを見渡すと、様々な問題で苦しんでおられる方々が多くいると思います。そのために、あわれみの心を持ち、真剣に主を求め、探し、叩いて祈り続ける時、主が新しい扉を開いてくださいます。これが最も大切なことであると教えています。

 霊的維新はどこから始まるのか、それは聖霊が来られる時から始まるのです。

 今日は二月三日ですけれど、私は二月になると、毎年、思い出します。なぜならば、いつもお話ししていますけれど、一九九二年二月十三日、愛知県民の森で真剣に聖霊様を求め、探し、叩いて祈っている時、突然、天が開かれたからです。激しく、聖霊様が訪れてくださいました。
 あの時の祈りは、自分たちのために祈っていたのではありませんでした。日本のリバイバルの為に祈っていました。一九九三年に甲子園球場で「甲子園リバイバルミッション」という、日本のリバイバルをかけた戦いがありましたから、そのために真剣に祈っていたのです。

 その週、新城教会のスタッフと共に、「一週間、リバイバルのために徹夜で祈ろう」と始めた祈祷会の最後の夜でしたが、疲れ切っていましたけれど、主が激しく私たちの所に訪れてくださいました。
 あれから私たちは変えられました。当時から、この教会に来ておられる方はわかると思います。私も本当に変えられました。聖霊様に触れていただくと、人は確実に変わります。
 今日はみなさんで、礼拝の後、今日は韓国からも来てくださいましたから、共に真剣に「主よ!」と叫んで、聖霊様を求めたいと思います。聖霊が注がれる時、今までの状況が大きく変えられるからです。

 そのためにはどうしたらいいのか、それは「求め、探し、叩きなさい」と教えています。ただ、棚からぼた餅式に聖霊を待っているのではなく、真剣に、求める、探す、叩くひたむきさが大事です。先ほどのルカの福音書十一章九節〜十三節、

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』

 みなさんも、子どもたちから「何かください」と言われたら、必ず良い物を与える事でしょう。それは人でもやっているじゃないですか。それなら、私たちが聖霊様を求めて、神が悪い物が与えられるはずはないのです。
 誰であっても、真剣に聖霊様を求め、探し、叩くなら必ず与えられるのです。
 「では、与えられないのはどうしてですか?」それは「あなたが求めていないから」です。私たちは、自分のためではなく、誰かのために、聖霊の力を求めて祈る者になりたいです。

 九二年に真剣に主を求めていた時、聖霊様が訪れてくださったのですが、その時私は、一生涯忘れることができない、重要な御言葉を主からいただきました。
 それは聖霊の油注ぎをもらう秘訣の御言葉でした。私は毎年必ず、この箇所を紹介することにしています。それは「第二列王記四章一節から七節」です。この箇所は、聖霊の油注ぎをもらう時の重要な鍵を、私たちに示しています。
 第二列王記四章一節〜七節、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 ここにはエリシャによる奇跡の物語が記されています。聖書解釈は最初に出てきた言葉が、最終的に何を意味するかで、前半のストーリーの解釈を変えることができます。ここに「油」というキーワードが出て来ますが、油とは最終的には、聖霊を表しています。ですからここに出てくる「油」を「聖霊」に置き換えることができます。また、「油が増えた」とは、「聖霊に満たされる」に置き換えることができるわけです。
 ということは、エリシャがどのようなプロセスで油を増やす奇跡を行ったのかを学ぶなら、どうしたら聖霊に満たされるかを知ることができるはずです。

 油が増える奇跡がどこに起こったのかというと、『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」』とあります。
 それは「預言者の家族」だったのです。今の時代で言えば「クリスチャンの家族」です。クリスチャンホームです。
 主を信じ、預言者までしていたのにも関わらず、この家には良い事がありませんでした。預言者の主人は死んでしまい、残された家族は、借金を抱えて毎日苦しんでいました。借金取りが「金返せ、金返せ」と毎日のように訪れる、最悪な状況だったのです。

 時々、イエス様を信じても「あまりいいことないな・・・」と言う人がいます。イエス様を信じたら、すべてがうまくいく場合もありますけれど、そうでもない時もあります。人生は、何をどう理解したらいいのか分らないときもあります。
 聖書を見ても、主を信じてうまくいった場合もあるし、問題が続いたこともレポートしています。聖書は苦しみの中でも、主を求め続ける姿も描いていることは事実です。

 しかし、そんな苦しみの家庭のただ中に、エリシャという預言者が来たのです。そしてその家族を救い出し、救い出すばかりか、私は四章七節の言葉が大好きです。『行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。』と。
 「負債がなくなる」とは、「二度と敵がやって来ない」状態を意味します。その上、「その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます」と、やもめの奥さんの人生だけでなく、子どもたちも幸せになったのですから、すごいです。

 幸せは、個人の幸せより、家族全体の幸せが重要です。この最悪なクリスチャンホームの一家に油が増える奇跡を通し、大きな勝利が訪れたのです。二度と敵が来ない、子どもたちの人生まで祝福されたのです。
 それがどこから始まったかと言うと、家の中にあった小さな油壺から始まり、用意された空の器に油が満たされた時に起こったのです。
 これは言い換えれば、聖霊様に満たされたら、敵は来なくなるし、自分だけでなく、子どもたちの人生だって祝福されることを意味します。だから、あなた方は「聖霊を熱心に求め、探し、叩きなさい」と語られていると思います。

 エリシャがこの家に来て、やもめの家族に「外に出て行って器を借りてきなさい」と告げました。それも「一つ二つではいけません」と言いました。「一つ二つではいけない」ということは、「最低、空の器を三つは借りて来い」と言うことです。
 なにかルカの福音書の「三つのパン」と似ている感じがします。「一つ二つではいかん。三つは借りてこい」と言ったのです。
 やもめの家族は、隣の家に頼み込んで、器を最低、三つは借りて来たはずです。ここもルカ十一章と似ています。

 この三つは何を意味しているのでしょうか。神様は三位一体です。父なる神様、子なるイエス様、聖霊様の三位一体なる神様です。私たちは天地宇宙を造った神を信じています。また、私たちを救ってくだるイエス様を信じています。しかし案外、ここで止まっている人が多いのです。もう一つのパン、もう一つの空の器「聖霊様」を理解し、求めなければならないのです。
 それは外に出て行って「すいません。空の器を貸してくれますか」と真剣に、求め、探し、叩く態度の中で与えられるのです。
 三つ目のパンは聖霊ご自身です。三つ目の器は聖霊ご自身を表しています。私たちが聖霊様を激しく求める時に、油が増え、どん底の家族に光が灯るのです。

 今日、もしもみなさんの中で、「私はやもめの家と同じように、いろんな問題がある」という方がおられたら、真剣に聖霊を求め、探し、叩く祈りをして下さい。その時、やもめの家族と同じように勝利が訪れるのです。

 一九九二年に私たちに聖霊様が訪れてくださった時、満たされるためには「求め、探し、叩く」という態度に加え、もう一つ、大変重要な真理を教えられました。それが何かというと、先ほど読んだ「第二列王記四章四節」にこんな言葉がありました。

『家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。』

 エリシャは油を増やす奇跡の前に、細かい指示を出しています。「家に入ったならうしろの扉を閉めろ。それから油を注ぎ始めろ」と指示しました。この言葉に従って、やもめの家族は、三つ以上の器を借りて来て、「うしろの扉をしっかりと閉め」てから油壺を空の器に傾けた時、際限なく油が増えました。
 「うしろの戸を閉める」という条件が油が増やされる為に、大変重要であると教えてくださいました。私はいろいろな場所で奉仕させていただいていますが、どの国に行っても語るのが、第二列王記四章一節から七節の御言葉であり、「うしろの扉を閉める」というテーマで語ります。

 エリシャはなぜ、「うしろの扉を閉めろ」と指示したのかというと、一節を読んだら理由がわかります。この家には負債があり、毎日のように借金取りが来ていました。「金を返してくれ!」「待って下さい。返すお金がありません。」
 毎日のように、こんな会話が借金取りとの間でなされていたことでしょう。
 金をすぐには返すことができないのが分かったら、借金取りは、「おまえには二人の子どもがいるだろう。その子どもを借金の形としてよこせ」と、やもめの二人の子どもが狙われていたのです。このような危機的な状況にあったわけです。借金取り立て人達は、やもめの何の罪もない子どもたちを奴隷として、売ろうとしていたわけです。

 今でも悲しい事に、アジアの諸国の中には人身売買があります。先々週もカンボジアに行きましたが、「子どもの家」に行きました。時々、子どもを捨てた親が子どもの家に来て、「子どもを返してくれ」と言うそうです。でも、そこの院長さんは、絶対に子どもを返さないそうです。子どもを受け取る時、ちゃんと念書を書かせて「正当な理由がなかったら、絶対に子どもは返しません」とサインしてもらうそうです。
 なぜかというと、そもそも子どもを捨てるような親だから「子どもを返してくれ」という時は、多くの場合、子どもをどこかに連れて行き、売り飛ばすことがあるというのです。私はネパールにも行きましたが、国の大きな問題が、子どもたちが売り飛ばされるということです。
 こういう現実が今でもありますが、昔はもっとありました。金を返すことができないなら、子どもを奴隷として売ると借金取りは言いました。こんな危機的状況に、やもめの家は直面していたのです。
 もしも、家の扉が開いていて、油が増える奇跡が起こったらどうでしょうか。毎日のように貸し主は子どもたちを狙っていたわけですから、彼らは家の中に入って来て、子どもたちも、増えた油も、全て持ち去った事でしょう。そうならないために、「扉を閉めろ!!」と言ったわけです。
 いくら油が増えても、扉が開いていたら、油はなくなってしまうし、子どもたちも犠牲になる可能性があるわけです。

 日本の教会でも聖霊様を求めていないわけではありません。しかし、「聖霊を一生懸命求めてみたけれど、あまり良い事がない・・・」と思っているようです。また、世界の教会を廻っても「求めることは重要だけれど、後からいろんな問題が起こった」なんて聞く事もあります。
 どうしてかというと、最大の理由が「扉が開いている為」だと思います。「扉を閉めてから、油を求めないと元も子もない」という主からのメッセージを、一九九二年二月に受け取りました。
 私たちが激しく聖霊様を求め、探し、叩くことは基本ですが、その前に「扉をちゃんと閉めてからやれ」ということです。

 扉をしっかりと閉めて聖霊様を求めたら、決して油を奪われることはありません。子どもたちも安全であり、四章七節にあるように『行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。』となります。

 では、扉を閉めることの具体的意味は何でしょうか?貸し主とは悪魔・悪霊どもを意味します。それらが家族全体を狙っているというテーマから聖書を見ると、それが偶像礼拝の罪につながっている事がわかります。

 私は来週、毎年恒例ですが、ペルーに行きます。祈っていただきたいと思うのですが、この教会には「インターナショナル・ミニストリー」があります。日曜日の四時からフェルナンド先生が中心となって、ペルーやブラジルから来た方々の為の礼拝が持たれています。
 ここで救われ、本国に帰った方々は本当に多いです。今まで二十年以上ミニストリーが続いていますが、本当に多いです。それでペルーには新城教会があります。しかし定期礼拝は、年間一度です。ちょっと写真をお見せしたいと思います。これは去年の集会の模様です。

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 年間一度だけの礼拝でも、みんな喜んで集まってくれます。だから、毎年、行ってあげなくちゃとなるのですが。
 また、ペルーには「リバイバル聖書神学校」を卒業した、下田先生夫妻が宣教師として働いています。彼らはたいへんがんばっています。

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今回も行きますが、彼らが伝道している場所は、貧しい地域です。

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 ここは電気も、水も、トイレもありません。トイレはないけれど、どこでトイレしてもいいよという感じですが。そういう場所で伝道しているのです。ここはアンデス山脈から降りて来た人たちが自分たちで小屋を作って、数年間我慢すると国が「じゃぁ、水とか電気とか引くか・・・」となるそうです。まずは石の上にも三年じゃないですが、こういう場所に住み着くのです。こういう所で、下田先生は伝道しています。是非祈っていただきたいと思います。

 私たちが毎回、新城教会から帰った兄弟姉妹の集会に行くと、喜んで迎えてくれる一家がいます。そしていつも食事に誘ってくれるのですが、その一家がこの家族です。

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 この一家も、かつて日本に来ていた人たちです。この左側の奥さん、新城教会に二十年以上前から来ている人なら、知っていると思います。この近くで働いていた人でエルサさんと言います。彼女は今、たいへん幸せです。一生懸命、新城教会の祝福をペルーから祈ってくれています。
 この方と出会う度に「本当に良かったな・・・」と思います。実は、この方は二十代にこの地域で仕事をしていました。
 ある時、教会に来ました。なぜ教会に来たのかというと「顔が痛い」と言って来ました。私は「あんた働き過ぎじゃないの?少し休んだらどう?」と言いました。顔がみしみしと痛むというのです。それで「一回病院に行って見てもらったら」と勧めて、新城病院に行きました。
 検査してもらって分かったことは、骨の間にいっぱい腫瘍が出来ていたのです。その事を聞いて、私は本当に心が暗くなりました。すぐに手術をしなければいけないと言われました。顔の後ろの骨に腫瘍ができているから、手術は顔を剥がしてするそうです。二十代の若い女の子が、そんな手術をしたら顔はどうなるのか、と思いました。手術の日程は決まっていなかったけれど、真剣に祈りましょうと言いました。彼女に教会に来てもらって、一緒に祈りました。この話は、何回もここでしたことがあるので、聞いたことのある方も多いと思いますが。

 私は彼女に聞きました。「あなたはなぜ、日本に来たのですか?」と。
 実は彼女、お母さんが偶像礼拝に熱心な人で、何かを決める時にはいつも、占いによって決めたというのです。すべての事を、占いで決めていたのです。
 特に人生の節目となるような時は、真夜中に自分の家の墓場に霊能者と行って、そこで霊を呼び出して、霊に伺っていたというのです。墓場で、先祖の霊と称する存在が現れて「日本に行け。日本に行ったら、幸せにしてやる」と言われたというのです。「日本に行ったら、幸せになれるんだ!」と信じて、彼女は日本に来たというのです。
 初めは順調に、お金も儲かったというのです。しかし、これからだという時に、そんな重病になりました。
 もちろん、病気は様々な理由があるので、なんとも言えませんが、この話しは彼女のことです。日本に来た理由の全てが悪霊の指示で来たのです。
 ということは、確実に扉が開いているわけです。彼女はその時点ですでに、クリスチャンでしたが、うしろの扉が開いていたのです。

 私は、扉を閉める祈りをしないといけないと思って、彼女のために祈ってあげました。「占いの罪を赦してください。騙されて、先祖のふりをした霊を呼んだ罪を赦してください。その扉を閉めます!」と祈った瞬間です。今でも忘れることができません。彼女の顔が変な顔になって「うるさい!うるさい!うるさい!」と叫びました。
 せっかく祈ってあげているのに、うるさいなんて何事かと思ったら、「黙れ。黙れ。黙れ。俺はこの女が嫌いだ。俺はこの女が嫌いだ。この女を殺してやる!」と男のような声で叫び始めました。

 それは誰の叫び声でしょうか?その人じゃないでしょう。背後の貸し主、家に入って来て、全員を滅ぼそうとしている悪魔の声を、主が、私たちに分かるように現して下さったのです。
 私たちには、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威がありますから、悪魔に立ち向かって祈りました。すると彼女に激しく、聖霊様が触れてくださいました。彼女はその場にぶっ倒れてしまいました。
 その後、何が起こったのかというと、完全に癒やされました。今では、彼女はこんなに元気になって、私たちを迎えてくれています。もう十年以上になります。イエス様の癒やしってすごいな、と感動です。

 でも、さらに不思議なことがありました。今年も私はフェルナンド先生とワッチョという街で集会をします。

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なぜここで集会を行うようになったかというと、これも不思議なことがありました。
 ある時、このワッチョに住む一人のペルー人牧師が苦しんで、祈っていたそうです。ここは、占い師が三千人くらい住んでいる街なのです。ワッチョの新聞を見ると、「占いします」とか「悪霊呼んであげます」とか、変な広告がいっぱいあります。そこいら中に、占い師が店を出しています。そして年に一度、「全国魔法使い大会」がこの街で行われます。だからこの街は霊的に重いのです。本当に重苦しい街です。
 その街のビクトルという牧師が祈っていたそうです。「神様。この重苦しい街は伝道できません。もう止めたいです。」と訴えて祈っていたら、夢だか、幻でイエス様が現れたそうです。そしてこう言われたそうです。
 「おまえを助けるために、まもなく、日本から一人の男を連れて来るから待っていなさい!」と。
 そうしたら誰が来たかというと下田先生が、彼のところに来たというのです。偶然のように、この街に下田先生が来てその牧師と出会ったのです。そして、下田先生から私に「順先生、この街でどうしても集会をやって欲しい。魔法使いだらけで、悪霊だらけの街だから一緒に行って下さい」と言うのです。
 それから四回目くらいになるでしょうか。毎年、この街の教会が協力して、敵の力を打ち破る、霊的戦いの集会を開催するようになりました。神様の働きってグローバルだなと思います。

 さらにびっくりしたのは、私は十年ほど前にエルサさんの解放の祈りをして、彼女は癒やされたのですが、どこの墓場でオカルトをしていたのかなんて、私は全く知りませんでした。ペルーはたいへん広いですし、どこの墓場かなんて、全く興味もありませんでした。
 しかし、びっくりです。なんと、それがワッチョの郊外の墓場だったのです。気持ち悪いけど、この写真です。

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 私たちが彼女のために、新城で戦った時、神様はすでにワッチョの街で戦っておられたのです。ワッチョの三千人の霊能者の中の一人が、エルサの為に悪霊を呼んだのです。それが、この場で打ち破られていたわけです。
 それは、やがて私たちがそこに遣わされて行く為の準備として、エルサはいやされたのです。神様の働きって不思議です。一人の女性を救うことは、見たことも聞いたこともない、ワッチョの街の人たちを救うためでした。きっと今年も、この街で多くの人が主を信じ、悪霊から解放され、聖霊の油注ぎを受けることでしょう。

 神は一つのことを通して、多くの領域を見ておられます。求め、探し、叩くは、ただ一人の為でなく、多くの人を救う為のきっかけとしてくださるのです。
 聖霊を求めて、力をいただくことは、ただ私たち個人に留まるのではなく、世界中の多くの人の癒やしと解放のきっかけとなるのです。

 今日は、扉を閉める祈りをしたいと思いますが、特に今日は二月三日です。節分と呼ばれる日です。豆をまきながら「鬼は外、福は内」と言っていますが、見えない世界では何が起こるのか知っていますか?それは「鬼は内、福は外」です。逆の事が起きるのです。鬼、悪霊が家の中に入って来て、祝福は家から漏れて行くのです。あれはオカルト的行為です。悪霊に対する扉が開くのです。

 「あぁ、そういえば、クリスチャンになる前、豆をよくまいていたな。偶像礼拝をやっていた」という方は、それを悔い改め、扉を閉め、油を求めたら、油は奪われることはありません。その残りで、あなたも子どもたちは幸せに暮らせる、と言われます。それを最も大切なこととして、ルカ十一章は告げているわけです。
 霊的維新のためには、聖霊の油注ぎがどうしても必要です。今日ここにおられるすべての方々が聖霊の油注ぎをいただいて、リバイバルのために用いられたいと願っています。最後にお祈りさせていただいて、終わりにします。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。あなたは私たちを愛してくださっていることを、心から感謝します。私たちの癒やしや解放が、多くの領域の解放や癒やしにつながることを、心から感謝します。
 主よ、この場所に訪れてください。一人一人の祈りに答えてください。多くの人々の癒やしと解放につなげて下さい。心から感謝します。この場所に、聖霊様がおられますから、心から感謝します。
 私たちはイエス様の流してくださった、血潮とパンをいただきます。私たちはこのパンを「三つ目のパン」として、御言葉と聖霊によって、聖餐式を行います。聖霊様、満たしてください。
 また、聖霊の油をもらう前に、うしろの扉を閉めます。聖餐式のひとときを祝福してください。イエス様の御名を通して、祈りを、主の御前にお捧げいたします。アーメン。