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『霊的維新2013
〜聖霊の力を熱心に求めよう! パート2〜』

2013.2.10 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 11章9節〜13節

『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」』


 ハレルヤ!おはようございます。今日もみなさんと共に、礼拝に出席できて心から感謝しています。本当に寒いですけれど、風邪などひかないよう、祈りながら毎日生活したいと思います。
 私は本日の礼拝が終わりましたら、東京で集会がありまして、その足でペルーに出かけます。当たり前ですが、地球は丸くて、私たちは北半球という赤道から上に住んでいます。しかしペルーは南半球です。私たちは暑い地域というと、南を連想するのですが、南半球の人たちは北が暑いのです。なぜならば北に赤道があるからです。
 ですから季節も真反対です。今、日本は冬ですけれど、この季節、ペルーは真夏です。カンボジアも暑かったですが、ペルーに行きますと真夏です。成田を出る時にはダウンジャケットが必要でも、ペルーのリマ空港に着いた途端、むっと暑い空気です。本当に地球っておもしろいですよね。
 神様が丸い地球の中に、七十億くらいの人間を住まわせているわけです。そして、神を求めるならば誰にでも出会ってくださるのです。今回も、このペルーでの働きで、多くの人たちが救われるように願っています。是非ともお祈りしていただきたいと思います。

 現在、全日本リバイバルミッションでは「アジア環太平洋ミッション」という働きを行っています。実はペルーは環太平洋の一番端です。ですから、私は環太平洋ミッションの一つと言う気持ちで行くつもりです。
 毎年恒例ですが、ワッチョという街で聖会があります。ポスターが先週、私の所に送られてきました。

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 すごいですね。このポスター。現地の先生方も一緒にこのような集会が開かれます。何と書いてあるのでしょうか。「悪の力からの解放」でしょうか。何と書いてあるかわりませんが、何しろ「霊的戦い国際大会」という感じです。
 ワッチョのサンタマリアという、あまり良い名前の場所ではありませんが、戦うには十分な所です。ワッチョは街に多くの魔法使いが住んでいます。是非とも祈って支えていただきたいと思っています。
 みなさんの祈りによって、良いご報告ができるのではないかと思います。祈りがないとうまく戦えません。本当にとりなしの祈りってすごいです。祈ってもらうと、何か後ろから風が吹いて来るのです。そして祝福されるのです。でも祈りがないと、うまくいかないのです。みなさんの祈りが最前線を支えますから、是非とも祈っていただきたいです。

 私はいろんな国で奉仕をさせていただく機会があり感謝ですが、そこで心がけているのは、人々が聖霊様に触れて、聖霊の力を受け取ることが最も重要だと考えています。
 私は時々、貧しい国でも奉仕をさせていただきます。日本から一歩外に出てみると、日本が物質的に豊かな国であることを、感謝せざるを得ません。食べる物もたくさんあるし、環境も良いです。しかし、日本から一歩出たら、環境が良い所は少ないのかもしれません。
 お風呂に入る時、たっぷりのお湯が使えるとか、日本を出たらなかなか難しいです。今回行く、ワッチョのホテルでも、一応はシャワーが付いているのですが、ひねるとシャワーの根元から水がぼとぼと落ちてきます。頭を出すとぴちぴちぴちと、冷たい水が当たります。夏だからいいのですが、「髪の毛を洗うのは大変だろうな・・・」と、私は髪の毛がないので良かったといつも思います。神様が私を国際仕様にしてくださっています。
 世界には食糧もあまりない所も多いです。そのような場所で、何をして差し上げればいいのか。食べ物をあげたって、数時間後にはお腹はぺっちゃんこです。
 では何をあげたらいいのか。よく使われる言葉ですが「魚をあげるよりも網をあげろ」というのです。なかなか良い言葉でしょう?「魚をあげるより網を渡せ」魚をあげても食べたらおわりです。しかし網をあげたらどうでしょうか?自分で魚を捕れるのです。
 聖霊の力とは暗闇の力を打ち破り、神の国を到来させます。様々な貧困の背後に、暗闇の力が関わっています。そこにいる人たちが、霊的戦いの剣をもらって、自ら立ち上がるならば、環境は変えられるはずです。
 これはネパールの写真ですが、ネパールに行った時も、子どもたちを集めて、みんなに剣を与える祈りをしました。

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 村人たちも集まって、悪魔をやっつける剣を受け取りました。「さぁ、みんな、この村を支配している悪霊どもがどこにいるのか、霊の目を開いて見て下さい」と言ったら、全員同じ方向に剣を向けました。

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 そして「イエス・キリストの御名によって、剣を投げます!」と投げました。何も見えないですが、何かが山の上の方に飛んで行った感じがしました。
すると、五分も経たないうちに、剣が飛んで行った方向から、一人のじいちゃんが降りて来ました。それが、このじいちゃんです。

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 このじいちゃんはこの村の酋長であり、霊能者です。このじいちゃん、山の上にあるヒンズー寺院で儀式か、拝み事をしていたみたいですが、みんなが聖霊の剣を投げたら、頭に何かが刺さったのが分かったのか知りませんが、山から降りて来て私たちの所にやって来ました。私は彼を見て、ちょっとびっくりしました。

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でも、このおじちゃんにイエス様のことを伝えたら、なんと涙を流してイエス様を信じました。本当に聖霊様が、顕著に働いてくださいました。

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 これはペルーです。ヌエボパライソという場所ですが、本当に貧しい地域です。そこには多くの子どもたちが住んでいます。村の真ん中には、古代に作られた大きなピラミッドがあります。ピラミッドはエジプトが古いのではないのです。ペルーの方がもっと古いのです。五千年くらい前に作られたピラミッドです。それは悪霊を呼ぶ施設です。周は貧困の村で、子だくさんです。村の子どもたちを崩れかかったピラミッドの頂上につれて行って、みんなで剣をもらう祈りをしました。

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 アメリカから、竹内先生が来てくれた時の写真です。今回も、竹内先生が一緒に行きます。先生と一緒に奉仕できるのが楽しみです。先生は明るくて楽しいです。アトランタの空港で、待ち合わせになっています。是非、先生の守りの為にも祈っていただきたいと思います。

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 子どもたちが「この村の悪しき力を打ち砕く剣を投げます!」と、剣を投げました。これは三年くらい前のことです。
この場所が今、変わって来ました。道が舗装され、なんと下水道まで通りました。この地域に下水道なんて、考えもしませんでした。下水道は、その辺の道そのものじゃないかという場所が、変わってきました。

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 これはカンボジアです。カンボジアでも、子どもたちが剣をもらって、暗闇の力を破る祈りをしました。

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これは去年のペルーでの集会です。

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 ワッチョの人たちが聖霊の力と御言葉の剣をもらって、暗闇に対して立ち上がるように祈ったら、みんな倒れちゃいましたが、聖霊様が強く働いて、どこの集会も本当に良かったです。特に、子どもたちが次世代を担いますから、御言葉の剣を受け取って立ち上がるように祈らなければなりません。

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 これはリマ郊外の、インマヌエルという場所での集会でしょうか。この時も子どもたちに聖霊様が臨んで、あっという間に子どもたちがぶっ倒れてしまいました。今回も、どういう集会になるのか分かりませんが、みなさんの祈りにかかってます。是非、祈っていただきたいと思います。

 今年は主がすばらしい御言葉を、私たちの教会に与えてくださっています。毎回、この御言葉を宣言していますが、ルカ十章十九節です。もう覚えられたでしょうか。御言葉の剣です。全世界の人が、この言葉を自分の物としたら、世界はかわります。悪魔に勝利することができるはずです。

 この御言葉を覚えましたか?三歳の孫が毎日我が家に来て、この御言葉を暗唱するのです。ちょっと証拠をお聞かせしましょうか。



 じじ馬鹿ですね。本当に。ごめんなさい。三歳の子が覚えるくらいですから、みんな覚えることができます。三歳ぐらいから、この御言葉を覚えたら、一生が変わるはずです。みなさんで、もう一度暗唱し、宣言してみましょう。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。ルカの福音書十章十九節』

 今度は「あなたがたに害を加えるものは」という所を「私に害を加えるものは」と変えてみましょうか。私たちに語られている言葉ですから。

「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、私に害を加えるものは何一つありません。」

 「私に害を加えるものは何一つありません!」ハレルヤ!イエス様に大きな拍手をしましょう。この御言葉がすべての方々に根付いたら、この国は変わって行きます。また世界も変わって行くと、私は堅く信じています。

 この御言葉を中心として、ルカの十章、十一章を一月から学んでいるのですが「霊的維新2013」と言うタイトルは、先週で止めようと思ったのですが、またつけてしまいました。「パート2」ということで、先週と同じ箇所から続きを話します。ルカ十一章十三節、

『とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』

という結論に繫がっています。権威が、聖霊の力に繫がっているわけです。ルカ十章十九節を自分の物とするためには、聖霊の力を求め、探し、叩かなければなりません。

 先週もここからメッセージさせていただき、最後に「主よー!」と思いっきり叫んで祈ったじゃないですか。本当にすばらしい祈りでしたね。
その後、一人の方が私にメールをくれました。「私は信仰歴三十七年ですが、初めての経験です。あの時突然、異言が出て止まらなくなりました。びっくりした。三十七年間、こんな体験したことはなかった」とありました。
 聖霊様が触れてくださった証拠を見せてもらったわけです。その方は喜んでいました。私にだけにメールをくれたのかと思ったら、いろんな人に、同じメールが届いていました。相当、嬉しかったみたいです。求めたら聖霊が与えられる、これは確実なことです。

 「求めたら聖霊をくださらないことがありましょうか」と、これは二千年前の記述です。しかし先週、求めたらその方は異言が与えられたというのです。神の御言葉は今でも生きています。これは御言葉は、昔も今も変わらないことを表しています。そうしたら、ルカ十一章十九節の言葉も同じことです。

牧師として嬉しいのは、聖書に書いてあることが現代社会でも実現するということです。
 プロテスタントの牧師なんて、ある意味で、最も弱い立場です。私はある時、神主さんのためにお祈りをしてあげました。神主さんでも教会に来て「私のために祈って下さい」なんて頼む時があります。いろんな問題があるみたいでした。
そこで私が「さぁ、祈りましょう!」と言うと、神主さんが言いました。「えっ?その格好で祈るんですか?」と。私はその時、冬でしたからユニクロのフリースと綿パンを履いていました。祈りますと言ったら「その服装ですか?」と言うのです。
 私は言いました。「神主さん。私たちプロテスタントの牧師は、あなたのような麻の服もありませんし、山高帽もありませんよ。振り回す榊もありません。持っているのは、二千年前の古文書、聖書一冊と、舌べろ一枚です。それだけで商売しているんです。神々しい服も何もありません。それで何かが起きるとしたら、キリスト教会の神様が本物である証拠ですよ。」と話したら、「すごいですね」と言って、祈りを受けました。みなさん、本当に聖書の言葉は生きています。
 ということは、今も生きて働いてくださる神様ですから、この神様と出会ったら間違いないのです。

 救いとは恵みによる一方的な祝福です。イエス・キリストを信じ、受け入れたら天国に行くことができるのです。すばらしいじゃないですか。
 先週も高部さんの「思い出の会」がありました。私は司式をさせていただきました。高部さんはこの教会でイエス様を信じて、洗礼を受けられました。死ぬ間際に「あっ!イエス様の顔が見える」と言っていたそうです。また、「いろんな人がニコニコして私を見てる」と言っていたそうです。「外人さんもいるね」と言っていたそうです。日本人だけでなく、いろんな国の人たちが天国にはいます。
 しばらくして、安らかに天に帰って行ったという証しを聞きました。私たちには、永遠のいのちが与えられています。天国に帰ることができるわけです。それは恵みです。それは、イエス・キリストを信じるだけで、受け入れるだけでいいのです。

 私は何が無くとも、永遠のいのちだけはもらって欲しいといつも思っています。誰でも、祈りの輪に加わったら、聖書は『二、三人わたしの名によって集まる所にはわたしもそこにいる』とありますから、病気で声が出なくても、自分で告白できるか分からない人たちでも、祈ってあげることにしています。
 その人が最後に「アーメン」と言っただけで、「アーメン」というのは「その通りです」という意味ですから、私の祈りに「アーメン」と同意してくれれば、救って下さると信じています。
だから私はどんな所に行っても、祈る空気じゃないなという時でも、祈るようにしています。
 日本人は水と空気で生きているそうです。「あんた空気読めん人だね。KYだね。あんな時に水を差すもんじゃないよ」と、空気と水で生きているのです。時には空気を読まなければいけませんが、読んでばかりいてはいけないのです。祈るような雰囲気ではない時でも、切り込んで祈らなくてはいけません。私はそういう中で、祈りに同意して、天国に行った人も大勢おられるのではないかと思います。

 昨年のことですが、私は韓国のある場所に行きました。その近くに住むある家族を訪問しようか、迷っていました。スケジュール的に、ちょっと無理かなと思ったけれど、そのお宅を訪問しなきゃいけないと思いました。それで私は田舎の方でしたが訪問しました。初めてお会いした方々でしたが、歓迎してくれました。その方々はクリスチャンじゃなかったけれど、ちょっと祈るような空気じゃなかったけれど「私は牧師なので、ご家庭の祝福を祈らせていただいてよろしいですか?」と言ったら「どうぞ。祈ってください。私たち韓国人は家系の中にクリスチャンもいるから」と言ってくれたので、私はその家族のために真剣にお祈りしました。特に私を迎えてくださった一人のおじさんのために、真剣に祈ってあげました。それで帰って来ました。
 でも、後から聞きました。私は三月に訪問したのですが、そのおじさんは四月に亡くなったと言うのです。「あの時しかチャンスはなかった。行って良かったな」と思いました。
 伝道って、タイミングを掴むことだと思います。みなさんも聖霊によって「あの人の所に行って福音を伝えなさい」と言われる時には、万難を排して行った方がいいです。私は何回もそのことを経験しています。それを語りかけて下さるのは、聖霊様です。

 救われるのはただ恵みによって救われるけれど、聖霊に満たされるためには、「求め、探し、叩く」ひたむきさが必要だと先週、お話しさせていただきました。それは自分のためではなく、誰かのために、滅び行く誰かのためには、聖霊の力がどうしても必要なのです。聖霊様に触れていただくと、救いのレベルから、聖霊の満たしのレベルに変わります。すると、聖霊様が私たちを、様々な場所に連れて行ってくれます。
 今回ペルーに行くことを楽しみにしています。なぜなら、私には分かりませんけれど、神のプランがあるに違いないからです。
 先週もお話しさせていただきましたが、この教会で一人のペルー人の女の子が解放され、奇跡が起こったと話しました。それがなんと今回、私たちが聖会を持つワッチョの人だったのです。まさかそんな風に導かれるとは夢にも思わなかったけれど、一人の救いと解放が、共同体の救いと解放に繫がるのです。これはまさしく、聖霊様の働き以外の何ものでもありません。

 そのためにも私たちは、求め、探し、叩くことが大事であることを先週も、お話をさせていただきました。
特に先週は、第二列王記の一章一節から七節の、エリシャがやもめの家族の所に行って油を増やすという奇跡から、「後ろの扉を閉める」という、「聖霊の油をもらうために必要な条件」についてお話しさせていただきました。奇跡を行ったのはエリシャですが、彼は庶民のただ中に入って、人々の必要を満たす多くの奇跡を行う預言者となりました。

 エリシャは、どのようにして聖霊の力を受けたのでしょうか。それは、彼はエリヤという預言者の弟子でしたが、エリヤから、聖霊の油注ぎを引き継いだゆえに、そのような働きができたのです。エリヤを通して神からの権威をもらったのです。

 私もエリシャのような権威と油注ぎを頂きたいと、いつも祈っています。新城教会のためにも、エリシャのような油注ぎが必要です。みなさんも是非とも祈ってください。
 私は第二列王記六章八節〜十二節の言葉が大好きです。こんな記述があります。

『アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 アラムの王は常にイスラエルを狙っていました。様々な悪どい策略を巡らせ「あの道からイスラエルに攻め込んだら、奴らをやっつけることができる」と秘密の会議を何度も催していました。その最初の原案は、王が后と、誰もいない彼らの寝室でひそひそと話し、草案を練りあげて大臣たちに告げ、作戦が立てられていたと思われます。けれども、 アラムの王がどんな悪しき計画を立てても、すべてイスラエル側に見破られたのです。イスラエルは事前に軍隊を配備し、アラムはいつも待ち伏せをくらって、完全に打ち破られていたのです。それが一度や二度ではなかったというのです。
そんなことがあったら決まっています。アラムの王は「絶対にスパイが我々の中にいるはずだ。だれだ!」という感じでした。
 そうしたら、ある人が言いました。「王様。どうしようもありませんよ。イスラエルには預言者エリシャというのがいて、王様が后と寝室でひそひそ話していることさえも聞いているんですから」と。
 一般的にこういうのを「地獄耳」と言うのかもしれませんが、エリシャは地獄どころか天国耳で、悪魔の情報を事前に察知して、敵の策略を打ち破っていたのです。エリシャのような神からの知恵と知識、力、油注ぎが与えられたらすばらしいですね。

 こういう記述があることは、私たちもエリシャのように聖霊の力さえもらったら、あり得るのではないでしょうか。
 私たちも時々、人生の中に突然事件が起こって、うちひしがれることがあります。しかし悪魔が立てているすべての悪しき計画を、原点で見抜き、先回りしてカバー出来たら、すべての災いから守られるはずです。まさしくルカ十章十九節の御言葉通りになるはずです。
 そのために必要なことは「聖霊の油注ぎ」であると第二列王記は情報提供しているわけです。

 ルカは十一章で、聖霊に満たされる条件は『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』と、「ひたむきに求める」と言う、イエス様の言葉を紹介しています。
また、エリシャは旧約聖書の人物です。イエス様がお生まれになる何百年も前の人物です。しかし、列王記も聖霊の力をもらうためには、原則的には同じことを告げています。
 エリシャの師匠は、エリヤでした。名前は似ていますがちょっと違います。エリヤがエリシャの主人でした。

 実は聖書の中に、死を見ないで天に引き上げられた二人の人物がいます。いや三人です。一人はエノク。それは、うちの親戚のエノクではありません。この頃彼はいませんが、天に上げられたわけじゃありません。東京におります。
天に生きたまま引き上げられたのは、エノクとエリヤです。もう一人はイエス様ですが別格です。

 しかし、もしかしたらもう一人います。それは誰か分かりますか?それは、あなたです。
もしもイエス様が私たちの世代に帰って来られたら、私たちは死を見ずして、天に昇ることができます。イエス様はやがて帰って来られます。そのことを再臨と呼びます。みなさん信じますか?イエス様はやがてこの地に帰って来られます。それを予表するサンプルのように、エリヤは死を見ないで天に上げられたのです。
 私たちもいつイエス様が帰って来られてもいいように、準備しなければならないです。

 私の小さい頃、私の両親、ここに今居りますが、霊的戦いとか聖霊の働きがあんまり分かっていない時代だったからか、クリスチャンホームの子どもたちが信仰から外れないために、いつも再臨の話をしました。
「イエス様がいつ何時、再臨されるか分からないぞ」としょっちゅうおどされました。
 それで、私はびくびくしていました。「いいか。順。いつも聖い歩みをしなくちゃ駄目だぞ。イエス様はいつ帰って来るのか分からんぞ。おまえが学校に行っている間に、悪さをしている間に、イエス様が帰ってきたら、おまえはこの地上残されるんだぞ。お父さん、お母さんは天国に行っちゃうんだ。クリスチャンはみんな天国に行っちゃうんだ。残るのはおまえと悪者だけだ」なんておどされ、いつもびくびくしていました。
 みなさん、これは極端に聞こえますが、本当です。私たちは基本的にはいつも危機感持っていなければいけません。

子どもたちはよく聞いてください。いいですか。イエス様はいつ帰って来るか分からないですよ。子どもたちだけが残されて、お父さんお母さんが瞬間的に天に行っちゃう場合もありえます。でも近頃は、逆もあるかもしれません。

私はいつもびくびくしていました。私は学校から帰って来て、家がシーンとしていたら、「再臨か!」と慌てたものです。
よく話す話ですが、我が家の隣は十二人兄弟の見城さんの家でした。あの家に行って、誰かがいれば再臨はまだか、自分と同じ居残り組がいることになります。誰かがいたら「あぁ良かった」という感じでした。あの家は誰もいないなんて事は、まずありませんでした。でも万が一誰もいなかったら、その隣は岡本さんの家でした。あそこは私の小さい頃、おじいちゃん以外、みんなクリスチャンでした。だからおじいちゃん以外に誰かがいたら、再臨はまだか、仲間がいるという感じでした。
 ある日、家に帰って来て「ただいま」と言ったら「シーン」としていて、なんとなく嫌な感じがしました。それで、第一のチェックポイントに走って行って「おーい。誰かいる?」と叫んだら、あの大家族に誰もいませんでした。あの時は本当に血の気が引きました。「うわぁ、やられたかも!」という感じで、すぐに岡本さんの家に行きました。
 絶対、岡本正広はいると思っていました。「おーい、誰かいるか?」と言うと誰も居なかったんです。誰も。そして、その日に限って、クリスチャンじゃないおじいちゃんが「なんか用か?」と出て来ました。私は本当にパニックしたことがありました。

 私のようなクリスチャンは駄目ですね。いつイエス様が帰って来ても「待ってました!」と天に帰れる者になりたいですね。みなさん、今週、もしもイエス様が帰って来ても、喜んで天に引き上げられるクリスチャンでありましょう。

 世界は今、混乱しています。これからの歴史を「もう終わり」と言えるのは、神以外にはありません。今度、世界的な戦争が起こったら、核爆弾が使われます。そうしたら、どっちが勝つ、どっちが負ける、ということはありません。世界中が焚き火の山です。誰も和平会議を開催できません。人類を造った神様が「歴史はここまで。もう終わり!」と介入しない限り、止めることは出来ません。そのようになる前に、イエス様に帰ってきてほしいです。
エリヤは死を見ないで天に帰った者でした。そのことが第二列王記二章一節〜二節に記されています。

『主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。』

神様がエリヤに「おまえを天に引き上げるよ」と語られた為に、エリヤは弟子のエリシャに「もうおまえここに止まっていなさい」と告げたわけです。でもエリシャは「私はあなたから離れません。どこまでも付いて行きます」と離れることをしませんでした。
 一般的に、誰かに付きまとう時は、何らかの魂胆がありますよね。だからエリヤはエリシャに聞きました。二章九節〜十節。

『渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った。エリヤは言った。「あなたはむずかしい注文をする。しかし、もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。できないなら、そうはならない。」』

 「おまえ俺に付きまとうのは、何かあるんだろう。何が欲しいんだい?」と聞きました。
エリヤは当時、相当な地位があった人ですから、財産もあったかもしれません。地位も名誉もあったわけです。だから「あなたの土地が欲しい」とか、「あなたのポジションが欲しい」とか、何か物質的な物を要求することもできたはずです。しかし、エリシャはそう言いませんでした。
 「あなたの持っている霊の二つの分け前を私にください」と言ったのです。「あなたが神から注がれた、聖霊の油注ぎの二倍が私に来るようにしてください」と頼んだのです。イスラエルにおいては長男は他の二倍の相続を受けたのですが、エリシャは「私は、あなたのような預言者になりたい!」とひたむきに願いました。
 その時にエリヤは「エリシャ。おまえは難しい注文をする」と答えました。
これは本当に難しい注文ですよね。霊の二つの分け前を上げるなんて、人間業では無理です。しかしエリヤは「難しい注文をする。でも私が天に上げられる瞬間を見るならばそれがかなう」と答えました。
 その事を聞いてから、エリシャはエリヤに片時も離れずついて回った事でしょう。エリヤがトイレに行けばトイレの前で待っていたでしょう。
 そしてついに、エリヤが竜巻に乗って天にあげられる瞬間が到来したのです。その時にエリヤが羽織っていたマントが天からひらひらと落ちて来ました。エリシャがマントを拾った途端、エリシャはエリヤの二倍の霊を受けました。
 エリシャのひたむきさのゆえに、聖霊がエリシャに臨んだのです。それも、エリヤの二倍の権威をもらったわけです。

 原則は同じです。聖霊様に触れていただくためには、求め、探し、叩くひたむきさが必要です。ルカの記述と、何百年も前のエリヤとエリシャの関係も、原則は同じだったのです。
 ということは現代でも同じはずです。私たちが主を真剣に求め、探し、叩く時、聖霊が注がれるのです。
 イエス様の弟子たちも同じでした。イエス様がよみがえった後、弟子たちはよみがえりのイエス様の側を片時も離れませんでした。やがてイエス様がオリーブ山から天に昇って行かれる光景を見た後に、何が起こったでしょうか。ひたむきに十日間祈っていると百二十人の弟子たちの上に、聖霊が注がれて、彼らは全く新しい人に変えられました。

 旧約聖書と新約聖書の関連は、本当にうまくできています。韻を踏んでいます。原則は同じです。イエス様の時代も、旧約時代の原則も同じですから、今の時代も原則は同じなわけです。
 「ひたむきに主を求めるならば、必ず、主は私たちに触れてくださいます」

「あなた方は聖霊を熱心に求めなさい。それは最も大切なことですよ。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を行使するためにも、聖霊の力は欠かすことはできない。」と教えています。そのためには「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」と、今日でも主は語っておられます。

 私も聖霊様に触れていただいてから、変えられたと思います。この教会に古くからおられる方がよく私に言いました。先に天に帰った田中政男先生のお母さんがよく言いました。「新城教会にいろんな奇跡が起こったけれど、一番大きな奇跡は順ちゃんが変わったことだね」と、嬉しいような悲しいような言葉でしたが、事実です。本当だからしょうがありません。
 私は聖霊様に触れていただきました。なぜなら結果的に、求め、探し、叩いたからです。でも私は自主的にはしませんでした。

 そもそも、我々が生まれたということは、目的があるわけです。滝元順という男がここに存在しているのは、神の目的があるわけです。でも人には自由意思があることにより、適当な生活をして逸れてしまうことも出来ます。しかし、目的を実現するために主は、私たちを御心の道に導くわけです。私たちが道から外れ、ふらふらしていると、真剣に求め、探し、叩かなければならない状況に強いて向けられる時があります。それはちょっと辛いです。私は、まさにそうでした。私と同じような道を辿らないでいただきたいと思います。
 御言葉を学んで「あ、そうか。聖霊をいただくためには求め、探し、叩けばいいんだな!」と、すぐに主の前に出て祈り始める人は幸せです。でも、空耳の人にも目的はありますから、私のように強制的にその方向に持って行かれる人もいます。

 私なんかその良い例だと思います。ここに家内がおりますが、結婚する時のプロポーズの言葉はなんだったと思いますか?「結婚してくれる?」と言ったら家内が「将来牧師になるの?」と聞きました。私は「牧師?俺は絶対に牧師にはならんよ」と言いました。すると「本当にならん?なら結婚してもいいよ」と、彼女もちょっと目的がずれていたわけです。「あんな儲からない仕事はやらない。俺は。」と、言いました。その頃私は土木技術者をしていましたから、仕事もありました。
 でも私には、主のために直接働くという使命があったわけです。しかし、その道ではなく他の道を行っていたわけです。そのために道を正しい方向へと、家内もろとも曲げられたわけです。
 よく話しますが、家内があるとき病気になりました。詳しい事は話しませんが、これは一大危機だと思いました。あの時、上條先生も病気になって、同時に問題が爆発的に周りに起こりました。

 私は祈りが嫌いでした。「なんで祈らなくちゃいけないんだ。神様は全部知っているだろ」と思っていたのですが、辛いことがあると祈るしかなくなります。それで二十数年前のことですけれど、自分で真剣に主を求めてみようと一大決心をしました。
 その頃、韓国でリバイバルが起こっていて、韓国では真剣に徹夜で主を求めていることを聞いて「俺は韓国に生まれなくて良かった〜」なんて思っていました。でも、いろんな問題が起こったもんだから、これは主を求めるしかない、と思いました。
 それで私は夜中に一人で愛知県民の森の山の頂上に登って、叫んで主を求めて祈ってみようと思いました。なんでそう思ったかと言えば、日本には夜中に祈っている人なんか誰もいないだろう、私が真夜中に山頂で祈ったら、世界中から聞こえる日本語の祈りは私以外にないと思ったからと、山の頂上なら神様の所に近いのではないかと思ったからです。でもよく考えれば、そんなはずはありません。私は夜一人で県民の森に入って行くような勇気はなかったけれど、そのくらい追い込まれていたのでしょう。
 家内は病気だったので、夜中に腹が減ったらいけないと思って、自分でおにぎりを二つにぎりました。それをこの間、家内に話したら「私が作ったよ」と言っていましたが、私は自分で作ったつもりでした。そして温かいお茶も入れて、聖書も入れました。でも考えてみたら「どうせ暗くて聖書は読めないし、重いな」と思って出しました。
その夜、真剣に山の上で祈り始めた時から、主の働きが始まりました。

 時々いろんな苦しいことがあると、真剣に主を求めます。それは、私たちを主の定められた道に戻すためです。一人一人に使命があるから、他の道に行っていると曲げられるのです。しかし強制的に曲げられる時は痛いわけです。だから御言葉を学んだら、自主的に聖霊様を求めましょう。

 新城教会に来たということは覚悟してくださいね。みなさん一人一人に、キリストのからだの中での大きな使命があります。うっかり来ちゃったかもしれませんが、「残念でした、主の計画がありました」ということです。
 神様がみなさんに使命を与え、日本の、いや世界のリバイバルの為に用いようとされています。エリシャのように「最後まで離れません!」という、主へのひたむきさを最優先にしてください。

 痛い目に遭ってから主を求めるのではなく、初めから求めればよいわけです。私は自分の体験からも「もっとひたむきに主を求めていたら良かったな。夫婦で求めていたら辛い体験をしなくても良かったのかな」と思うのですが、主を真剣に求めたら、主は必ず訪れてくださる方です。

 先週のメッセージで語ったように、第二列王記四章の中から油が増える奇跡が始まる前に、エリシャが「家に入ったならあなたと子どもたちの後ろの戸を閉じなさい。それから油をつぎなさい」と言いました。後ろの扉を閉めることが重要だと、私は毎年強調させていただいています。後ろの扉を閉めるとは、何を意味するのか?

 それは「聖い歩みをする」ということです。聖霊とは「聖なる霊」と書きます。汚い霊のことを「悪霊」と言います。分かりますでしょうか。霊は同じだけど頭に付く一字で全く存在が変わるわけです。聖い霊は聖い所に住まわれ、働かれる霊です。どぶ水のような所には住む事はできません。そういう所に住むことができる生物は「悪霊」というやつです。

 ということは、私たちが聖い歩みをするか否かが重要なわけです。「教会に来ると聖さとか、罪とかいろいろと言うからな…」と思わないでください。聖い霊に満たされるためには、聖さが必要です。もちろん完全に聖くなることはできないけれど、求め、探し、叩くという、ひたむきに聖さを求める態度が大切です。
 毎日汚れをもたらす悪霊どもは、周りに洪水のように溢れています。けれども、そんな流れに逆行していくのが生きたクリスチャンです。
鮭という魚は、どんなに急な流れでも上がって行きます。それは生きているからです。でも鮭が死んでしまうと、体は流されて行きます。私たちクリスチャンも同じです。生きていたら汚れた流れに逆行して、上がって行くのです。しかし死んでしまうと、流されるのです。
 「この世の流れにしたがい、空中の権威を持つ支配者」とありますけれど、私たちは、この世の流れに逆行する者でなかったらいけないのです。それが生きるクリスチャンの証拠でもあります。それは、聖さを求めることです。

 罪の中でも悪魔が人をがっちりと掴む、強力な罪が三つあると思います。人間には「霊・魂・肉体」がありますが、霊の領域から、魂から、肉体からくい込んでくる強力な敵がいます。それが、三つがあります。
 他にもあるとは思いますが、この三つが特に強力です。霊の領域からは、偶像礼拝とか、オカルトとか、霊的な罪を媒体に悪霊は侵入します。
 魂から食い込む為の媒体は「憎しみ」です。『怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えるな』とあります。誰かを憎んで許せないと、悪魔が機会を捕らえ、魂から割り込んで来るのです。
私たちは自分の安全のためにも、いろんな事があっても「赦します。祝福します」という立場が必要です。
 そしてもう一つ、悪霊が侵入する為の媒体となる罪が、不品行、姦淫と言う「性的な罪」です。今、世の中はそのような情報が濁流のように流れていますけれど、絶対に負けてはいけません。不品行、姦淫は「二人が一体となる」とあるように、相手が持っている霊的領域とがっちり結びついてしまい、引き離すことが出来なくなります。性的な罪は、偶像礼拝の罪よりもある意味、怖い罪だと思います。

 私たちが罪から離れて、聖く歩むことは重要であり、聖さの為の戦いが、後ろの扉を閉める戦いです。これは、求め、探し、叩くという、ひたむきさの中で戦うのです。その時、主が訪れてくださいます。
 罪の流れは濁流のごとく、土石流のごとく、津波のごとく、押し寄せて来ますけれど、それに打ち勝つ、生きたクリスチャンになりましょう!必ず、主は訪れて下さいます。日本にリバイバルを起こしてくださらないはずはありません。それは決して大勢の中からではなく、一握りの人々から始めようとされるのです。
 新城教会は、他の教会から比べたら多少は多く人が集まっているかもしれません。しかし一般社会からみたら本当に少数です。でも私たちが、真剣に聖霊様を求め、聖さを求めるならば、必ず、この会衆に聖霊を注ぎ、リバイバルのために用いてくださるに違いないと信じます。

 今日、私たちは、国の未来のために、子どもや孫やひ孫たちのためにも、聖霊を求めなければいけないと思います。私たちの生きている世代に、どうしてもリバイバルを起こしていただきたいです。そのためには、激しく求める必要性を教えられます。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

この御言葉は必ず実現します。今日、主が、そのように語っておられると堅く信じます。

 今日、みなさんと共に、聖霊様を激しく求めたいと思います。その前に、聖餐式を共にすることができることを、心から感謝します。聖餐式は、自分を振り返って、霊、魂、肉体の中に破れがないだろうかと点検する機会となるからです。もしも罪があったら、十字架の血潮の原則で赦していただき、心を聖くして、後ろの扉を閉めて聖霊様をお迎えする準備になります。
 エリシャのように、二倍の霊を求め、受け取りたいと願っています。

 最後に、私が祈りますので、みなさん、私の後について、霊・魂・肉体のすべての罪が赦され、悪魔・悪霊どもとの契約も無効になるようにお祈りしますので、ご一緒にお祈りください。

主よ、今私は、心の底から聖霊様を求めています。
探しています。叩いています。
聖霊様、私の所に訪れてください。
その前に、後ろの扉を完全に締め切ってください。
霊と魂と肉体に侵入しようとする、悪しき力を打ち破ってください。
偶像礼拝の罪を赦してください。
憎しみの罪を赦してください。
肉体の汚れを聖め、けがれから守ってください。
いっさいを聖めて、聖い霊が私を覆いますように。
エリシャと同じように、二倍の霊を与えてください。
日本のリバイバルを求めます。
イエス・キリストの御名によって、祈りを父なる神に捧げます。
アーメン。

 では、私が祈ります。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。主がここにおられますから、心から感謝します。今日はあなたを心から求めています。私たちは十字架の血潮によって、聖めていただきたいと願っています。霊も魂も肉体も聖め、後ろの扉をしっかりと閉めてください。イエス様、あなたがいつ帰って来られてもよろしいように、準備してください。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。