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『究極の勝利を目指して

2013.3.3 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
第一コリント人への手紙 15章20節〜26節

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。』


 ハレルヤ!おはようございます。こうして、みなさんと共に礼拝を守ることをでき心から感謝をします。
 今日はヘブンリーキングダムの方々が、豊橋の子供会で奉仕をしています。四百人近くの子どもたちの前で、賛美しています。多くの機会を通して福音が伝えられ、主を信じる人々が多く起こされるように祈っています。

 三月になり、ある人たちには大嫌いな花粉の季節がやって来ました。どうも見たところ花粉症の方々が多くおられるようです。うちのスタッフも、みんな、鼻水をずらずらすすっていて、本当に大変そうです。花粉症と真剣に戦わなければなりません。以前、私は花粉症なんて、全然関係ないと思っていました。でもある日、涙が出て、鼻が出て、顔がかゆくて「あれ?風邪かな?」と思ったら、みんなが「花粉症だ。花粉症だ」と言うのです。私は「絶対にそんなことはない!」と拒否していたのですが、あまりにも苦しいので、近くの皮膚科に行きました。そうしたら医者がいろいろと検査をして「あなたは立派な花粉症です」と言いました。「花粉症に立派もくそもあるか」と思いましたが、ショックでした。薬をもらって来ました。弟の開は昔から花粉症をしています。私も同じかとがっかりして「くそー!」と思いましたが、薬を飲んだら、一発で鼻水が止まるのです。「すげぇ、祈りより力があるな」と思いました。
 でもこれではいけないと思って、ある朝のことです。花粉は近くの山から来るわけです。新城は「花粉の里」です。それで私は朝、雁峰山という花粉の山に向かって、祈りながら突進して行きました。「花粉に負けてたまるか。花粉よ出て行け!」と、花粉が出て行くのかどうか分かりませんが、何しろ花粉の山の中で祈りました。ちょっと過激ですね。しかし、それから花粉症が治っちゃったのです。以来、花粉症とは無縁の生活をしております。ちょっと過激ですけれど、花粉症の方は一度お試しくださいませ。花粉が飛んでくる山に行って、花粉が体に作用することを禁ずると宣言し、祈ったらいいのではないかと思います。
 今年の御言葉、毎回紹介していますが「ルカの福音書十章十九節」、みなさんはすでに暗唱していると思います。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 花粉があなたに害を加えることはありません!花粉にも打ち勝つことができるはずではないでしょうか。
 三月は本当に忙しい時期です。年度末ということで、大変忙しい毎日を送っておられると思います。教会にもいろんな行事があります。今週は、リバイバル聖書神学校の卒業式があります。新城教会からも卒業生があります。

 そしてまた十二日から二十日までは、ジョー先生と三人、全部で四人のやかましいアメリカ人たちが来ますから、みなさん覚悟してくださいね。しかしジョー先生が来てくださることは、たいへん嬉しいです。
 ジョー先生から先日「今、日本のために真剣に祈らないといけないと思う」と真面目なメールが来ました。「おい、ジョー。どうしちゃったんだ」という感じでした。先生がアメリカで祈っていたら、主が「日本のために真剣に祈らなくちゃいけない時が来ている」と教えられたと言うのです。
 それで「順、日本の為に祈りに行ってもいいか」と言いました。四人のとりなしの方々と共に来て下さいます。きっと、今回の祈りによって、目に見えない世界に大きな変化が起きると期待しています。

 三月三十一日は復活祭です。イエス様が死から復活されたことをお祝いする、キリスト教最大のお祝いです。
 キリスト教信仰は主イエスの十字架と復活を抜きにして、語ることはできません。これを信じることができなかったら、いくら教会に来ても駄目です。「イエス様があなたの罪のために十字架に架かり、死んでくださった。死んだだけではなく、三日目によみがえられた」というのが、最も大きな柱です。死を打ち破り、主はよみがえられ、今も生きておられるという、信仰をしっかりと心に刻むことが重要です。
 キリスト教信仰は十字架を中心とします。しかし十字架は拝む対象ではありません。ただのシンボルです。カトリックは十字架を拝みます。それは罪です。イエス様が身代わりとなって、死んでくださったシンボルが十字架です。しかし死んだだけではなく、よみがえられたのです。
 このような中心的信仰によって、キリスト教は(「キリスト教」の「教」という言葉は私はあまり使いたくないですが)支えられているのです。

 しかしもう一つ、キリスト教信仰の中で、どうしても落とすことができない事柄があります。それが今日語ろうとしていることです。今朝は「究極の勝利を目指して」というタイトルでお話しをさせていただきたいと思うのですが、コリント人への手紙第一、十五章二十節〜二十六節、

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。』

 一人の人によって人類に死が入ったのです。アダムとエバという最初の人類、このアダムによって罪が人類に入り、ドミノ倒しのように全人類が死に向かって行ったのです。
 でも、イエス・キリストは「第二のアダム」として表現されているように、イエス様によってドミノ倒しのフィルムが逆戻されるように、全てが生きるようになったのです。これはすごいことではないでしょうか。

 そしてもう一つ、重要な事は『しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のとき』とあるように、キリスト教信仰の中で絶対に落としてはいけないのは、イエス様が再び帰って来られるという「再臨」です。それを絶対に落としてはいけないのです。主の再臨を通して、究極的勝利が人類に与えられるからです。
 私たちは日々、霊的戦いを戦っていますけれど、霊的戦いの究極的勝利はどこにあるのかというと、イエス様が地上に再び戻って来られる再臨によって成し遂げられるのです。
 どのように主が帰って来られるのか、聖書に預言されています。そのことに注目して聖書を読んでいただきたいと思います。しかし再臨のスケジュールと理解に関しては、さまざまな神学的議論があります。それは横においても、はっきりと言えることは「イエス様はもう一度、この地上に戻って来られる」ということです。それは、聖書信仰の中で、最も重要な柱の一つです。

 二十四節にあるように、主の再臨の後、『それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。』と述べられています。
 今の時代は教会に霊的権威が手渡され、私たちは委ねられた権威によって暗闇の力に立ち向かっています。しかし究極的勝利は、イエス様の再臨によって宣言されるのです。イエス様が再び帰って来られ、すべての権威、権力を滅ぼし、国を父なる神様に返される、究極的勝利の日が来ると預言されています。
 究極の霊的戦いの勝利は、イエス様が地上に帰って来られるその日に訪れるのです。ということは、私たちが十字架と復活による勝利をスタートラインとし、主が帰って来られる日を目指して、主が帰られる道を準備することが、霊的戦いの重要な役割です。
 マタイの福音書二十四章七節に、このように書かれています。それは世の終わりが訪れるサインです。世の終わりと再臨はリンクしており、このような状況が起こったら終わりが近いと、二千年前に主は語られました。

『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。』

 世の終わりのしるしは、「国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こる」というのです。人類の歴史は、すなわち戦争の歴史です。一時も戦いを休んだ年はありません。
 けれども「国は国に敵対して立ち上がる」という、「世界規模の戦争」がいつから始まったのかというと、それは近年です。私たちのおじいちゃん、おばあちゃんの時代に第一次世界大戦がありました。また、第二次世界大戦もありました。世界中が二分して互いに戦ったのです。それは単発の戦争ではなく、国々が入り交じっての戦いでした。そのことをイエス様は預言されていました。二度にも渡って行われた世界規模の戦争は、まさにその預言の成就であったと思われます。それはイエス様が帰って来られる、しるしのひとつです。
 やがてこのまま進んだら「第三次世界大戦」もあるかもしれません。怖いですね。今度の戦争は、誰が生き残れるのか分かりません。

 近年最大の科学者、アインシュタインにある人が聴いたそうです。「博士。第三次世界大戦はどんな戦いになるのでしょうか?」と。すると彼はなかなかユーモアとウィットに富んだ男で、「第三次世界大戦はどうなるか分からないけれど、第四次世界大戦がどんな戦いになるのか分かる」と答えたそうです。「どんな戦いになるんですか?」と聞いたら、「人類は石と棒で戦うようになる」と言ったそうです。
 どういう意味かというと、もしも第三次世界大戦があったら、文明を維持できる人たちはいなくなり、人類はリセットされ、石を投げたり、棒でたたき合うような昔の時代に戻るという意味です。世界では毎年、軍備が拡張されています。人間は兵器を作ったら、やがて必ず使いますから、第三次世界大戦は否定できません。
 「国は国に敵対して立ち上がる」とイエス様は言われましたが、その預言はすでに成就しています。

 また「方々に飢饉と地震が起こります」と言われました。日本は食べる物が豊富ですが、世界に出て行ったら食糧難の国は結構あります。すぐ近くの北朝鮮は食糧難で苦しんでいます。アフリカの諸国も食べ物がなくて困っています。日本は食糧がたくさんあるからいいと言いますが、世界規模で見たら多くの人たちが食糧問題で苦しんでいます。食糧問題は、これからさらに深刻化していくと思われます。

 そしてもう一つは「地震」です。イエス様が二千年前に「方々に地震が起こる」と言われました。地震は日本においては深刻な問題です。しかし世界中で地震が起こると言われました。近年の地震を示した世界マップがあります。

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 この赤い箇所が大きな地震が起こった場所です。特に環太平洋を見てください。本当に、方々で地震が起こっています。イエス様はこれを二千年前に語られたわけです。世の終わりが近い時、イエス様がこの地上に帰って来られる直前に、地震が多発すると語られました。

 この三月になりますと、思い出します。二年前、「三月十一日」の出来事です。先ほど滝元開夫妻による被災地での支援コンサートについて聞きましたが、大きな地震が東北地方を襲ったわけです。
 三月十一日前後、日本の地震がどのように変化したのかをまとめた動画があったので、ちょっと見ていただきたいと思います。



 恐ろしいですね。「突然」このような大地震が起こりました。このような現象を、私たちはどのように理解するのでしょうか。ただの自然現象としてだけ捉えるのか、それとも、背後に神のなんらかのサインが含まれていると理解するのか。
 地震には両面あると思われます。自然現象であると共に、世の終わりのサインです。イエス様が再臨される前に『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。』と語られたのです。こういう事が起こったら、私たちはしっかりと終わりに向かって、いや、究極の勝利を目指して、準備しなければならないのです。

 先週も雅也先生が語っていました。大変すばらしいメッセージを語りました。私は先生方のメッセージにいつも感動するのですが、「あくまでも続けなさい」と語られていた中で、「リバイバルは突然、起こってくる」と語られていました。神の国の現れには「突然」というキーワードがあります。
 イエス様がもう一度地上に戻って来られる「再臨」も、「突然」というキーワードと共に理解しなければなりません。マタイの福音書二十四章三十五節〜四十二節、

『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。』

 主がいつ帰って来るかは、誰も知らないというのです。しかしながら、私たちは時代のしるしを通して、それを見分けて準備することができるのです。今の時代、私たちは霊的な目を覚まして、究極的な勝利が近づいているという視点に立ち、準備しなければならないと思います。
 イエス様が今日帰って来られても、明日帰って来られてもいいように、常に準備をしておく必要があるのです。みなさん、準備はいいでしょうか。イエス様は突然帰って来られます。
 『そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。』とあります。
 『畑にふたりいる』というのは昼間を表します。仕事中です。また『女が臼をひいていると』というのは、朝ご飯の準備だそうです。女性が小麦を臼でひいてパンを焼いて朝ご飯の準備をしました。イエス様のお帰りは、朝かもしれないということです。また『目をさましていなさい。』といったら、夜のことです。
 イエス様は朝帰って来られるのか、昼帰って来られるのか、夜帰って来られるのか、地球は丸いですから、どこを基準にすればいいのか分かりませんが(多分、イスラエルです)いずれにしても、イエス様が地上に帰って来られるということは確かです。そのために、私たちは準備しておくことが重要です。

 家に帰ったら、マタイの福音書二十四章から二十五章を読んでいただきますと、世の終わりに際しての準備について書かれています。マタイの福音書二十五章三十一節〜三十六節、

『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」』

 イエス様がその栄光を帯びて、すべての御使いたちを従えて、地上にもう一度戻って来られる日が来るのです。
 今から約二千年前、イエス様はこの地上に目に見える形で肉体を持って、お生まれになりました。十字架の後、よみがえって天にお帰りになり、その代わりに聖霊様がこの地を支配しておられます。けれども、もう一度誰もが見える形で、主が帰って来られるのです。そしてすべての国々の民が、御前に集められるのです。
 それは人ごとではありません。信じる者も、信じない者も、皆、神の前に出なければならないのです。
 そして羊飼いが、羊と山羊を分けるのと同じように、二つのグループに分けるというのです。それは羊グループと山羊グループです。それは何を意味するのでしょうか。それは「主を信じる者」と「信じない者」のグループです。

 イエス・キリストを救い主として受け入れているならば、あなたは羊グループです。その他の条件はありません。何はなくとも、イエス・キリストを救い主として信じることが重要です。神の前に出る日は、どんな宗教を信じていても、どのような背景があっても関係はないのです。人類は全員、真の神の前に出なければならないのです。そして、より分けられるのです。
 「あなたはイエス・キリストを自分の救い主として、信じていますか?」という問いにどのように答えることができるでしょうか。今が恵みのとき、救いの日です。

 右側の人たちに、主はなんと言われるのかというと「あなた方のために備えられた御国を継ぎなさい」と言われます。子どもは親の資産を受け継ぐことができます。私たちは活ける神の資産を受け継ぐ特権が与えられた、神の子どもとして選ばれているのです。すごいことですよね。
 そしてイエス様が、その時、どんな声をかけて下さるのかというと、『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』と、右側のグループの人たちに語られるのです。

 それを聞いた右側の人たちには、はてなマークがいっぱい飛びかいます。「え?イエス様、いつ空腹だったのですか?また、いつ牢にいたのですか?病気だったのですか?それはなんのことですか?」とたずねると、主はこのように答えられるはずです。マタイの福音書三十七節〜四十節、

『すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」』

 クリスチャンの働きは究極的には「神のために」です。私たちのすべての働きは「神の栄光のため」です。先日も、信弘先生が語っていましたけれど、神の栄光のために、私たちの人生はあるのです。私たちの人生は、すべて神への奉仕です。
 どんなに小さく見える仕事でも、どんなに汚く見えるような嫌な仕事でも、それは全て神の栄光のために、イエス様に対する奉仕です。『最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』と再臨の主は語られます。

 今日はヘブンリーキングダムの方々が、四百人くらいの子どもたちの前で賛美をしています。これはイエス様の再臨を目指した、究極的な勝利のための働きです。子どもたちに福音を宣べ伝えることは「わたしのための働きだ」とイエス様は喜んでくださるのです。
 人生には様々な模様がありますが、すべては神の栄光のためにという一つの目的を持って、歩んで行く必要があります。それはやがて、神の国に結びついていくわけです。

 「御国を受け継ぐ」とは、再臨の準備としての「リバイバル」をも含んでいます。リバイバルはどこから始まるのか、それは『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という、小さく見える働きを忠実に、主への奉仕として働く延長線上にリバイバルは位置し、主が再び帰って来られる「再臨」も位置しているのです。

 みなさんのお祈りに支えられ、私は先々週、ペルーに行って奉仕しました。みなさんも忙しい毎日を過ごしておられると思います。特に、年度末は大変忙しいと思いますが、私もペルーから今日に至るまで、怒濤のような日々を過ごして来ました。ペルーから帰って、先週は東京のある教会で奉仕をさせていただきました。
 スケジュールを立てる時、私は主にiPhoneのスケジュール・ソフトを使っています。私のiPhoneは他に三台のコンピューターと、二台のiPad、そして家内のiPhoneの六台に繫がっています。どこかでスケジュールを更新すると、六台が同時に変わるのです。すごいでしょう。しかし、このような文明の利器は、使い方を間違えると大変な事になるのです。iPhoneは文字が小さいじゃないですか。「ここを開いているはずだ」と思って、スケジュールを入れたのが間違っていたりするわけです。
 私はペルーから帰って、次の日曜日は新城教会で奉仕させていただくはずだったのですが、先ほども賛美の中で「時代のせいか未来が見えなくなってきた・・・」という歌詞がありましたが、私の場合「歳のせいか細かい文字が見えなくなってきた・・・」と歌った方がいいのかもしれません。「あれ?」と気づいたら次の週、東京の教会の奉仕が入っていたのです。でも、がんばって行きました。すばらしい集会でした。
 そして悪い事に、その翌日から「霊的戦い専門課程」が二日間連チャンで続いていました。「おぉ主よ!」という感じでしたが、弱い時にこそ主は助けてくださり、すべてを祝福の内に終えることができました。

 ペルーでの奉仕については、詳しくは午後から報告します。私はペルーに何回か行っていますが、今回は本当に重要なことを教えてくださったような気がします。この働きって、大切な働きだと、気づかされました。初めは最も小さき者たちの一人にしたことから始まったのですが、今や、大きく広がって、もしかしたらペルーは重要な世界の回復の鍵を持っている国ではないかという気がして来ました。その事については、午後から話します。

 今から二十数年前、教会でのクリスマス集会を控えて、近くの唯一のスーパーマーケット、当時はユニーと言いましたが、そこでチラシを配っていました。そこで日本人よりちょっと顔が浅黒い方がチラシを受け取ってくれました。「クリスマス集会に来てください」と言ったら、あまり言葉が通じないのです。しかしその二人が新城教会のクリスマス集会に来ました。
 「どこの国の方ですか?」と、多分、東南アジアかと思って聞くと「ペルーから来ました」と言われました。私は「ペルー」と聞いた時、「どこだ?どこだ?」と、はてなマークがいっぱい頭に出て来て「アフリカだったかな?」と思ったのですが、調べたら南米に位置する国でした。「そんな国があるのか〜」と、初めて気づきました。そしてこの地域に、多くの南米からの労働者の方々が来ていて、ひっそりと仕事をしていることを知りました。それも日本人がやらないような、三Kと呼ばれる仕事をその方々が受け持っていることが分かりました。
 「どこに住んでいるんですか?」と住所を聞いて、アパートを訪問したら、薄暗い倉庫を改造した所に十数人が寒い所に折り重なって住んでいるのを見て、ショックを受けました。
 「あたたかい服はありますか?」と聞くと「ありません」と言われたので、帰って来て教会のみんなに話をして、いらないジャンパーや厚い服を集めて配ってあげました。
 今から二十数年前のことです。彼らはあまりお風呂も入っていなかったようで、ほんのり特殊なにおいがしました。でも、その方たちのために、何か助けてあげなくちゃと思って、言葉もできなかったですが、少しずつ奉仕するようになりました。
 そうしたら、あっちからこっちから、ペルーの人たちが教会に顔を出すようになりました。それで共に礼拝を守るようになりました。しかしそれが、将来どんな風に展開するかとは、全く期待もしませんでしたし、予想もつきませんでした。

 昔私たちは、ある教団に属していました。その団体のボスが私に「そういう外人はあんまり教会に入れない方がいいぞ」と言うのです。なぜかと聞くと「俺の経験からいって、南米人は入れない方がいい」と言うのです。しかし私は、そのボスがなんと言おうと、彼らに親切にしてあげました。

 けれども、親切にするということは、ある時はボスが言うように、大きな犠牲も伴うことがあります。当時、ペルーは大変貧乏でしたから、逃げるように、国を追われて来たような人が多かったのです。どのような事情か知りませんが、隣町に、若い十代のペルー人の少年が一人で働いていました。
 ある時、ある人から連絡が来ました。その少年があまりにも寂しくて、寂しさに耐えかねて、精神的におかしくなってしまい、自分の部屋で稼いだ一万円札に火をつけて燃やしてしまったというのです。部屋も焦げて、アパートから追い出されてしまったというのです。
 当時そのような人たちを扱っている派遣会社は、ちょっと、あぶない系の人たちが多くて、一度追い出されたら路頭に迷う感じでした。その頃、日本ではそのような人たちを受け入れる体制ができていなくて、教会に連絡が来ました。「なんとかしてください」と、あどけない十七歳の少年でした。しかし精神的には本当におかしいのです。
 私の家に入れてあげたのですが、家の中でマッチを擦ったりするのです。危なくてしょうがないのです。どこにもやることができないので、私は一緒に布団を敷いて三日ぐらい彼の側で寝ました。夜中に裸になって、外に出て行ってしまったり大変でした。近くの精神病院に電話をして「なんとか見てくれませんか?」と頼むと、「外国人は見ることができません」と言われました。しかし、感謝なことに、浜松の聖隷病院が受け入れて下さいました。一ヶ月くらい治療をしてもらって、やっとのことで彼をペルーに送り返しました。彼が帰った時は、本当に嬉しかったです。「良かった!」と。でも人に親切にすることは大変だなぁとつくづく思いました。
 そして彼とは、一生会うことはないだろうと思っていました。そして二十年以上の歳月が過ぎました。

 近年、私たちはペルーのリマで、新城教会でクリスチャンになった方々を集めて、毎年一回集会をしています。新城教会ペルー支部があるのです。礼拝は年間一度だけですが、これは先々週行われた礼拝の模様です。大勢集まりました。

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 五十人くらいの人たちが集まりました。

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いつも私は、集会の後で全員にお昼をごちそうしてあげることにしているのですが、この長いテーブル、どうでしょうか。やがて私たちが天に帰った時の食事の光景のようです。毎年、テーブルの長さが伸びています。もうちょっとで、道路に出るんじゃないかという感じです。五十人もおごってあげて「相当、お金がかかったな・・・」と思いましたが、それでも一万五千円くらいでした。案外安いです。

 そこに今年も、一人の青年が来ました。青年というか、おじちゃんが来ました。二年前に初めて彼は現れました。「順先生!」と言うのです。その顔を見たら、「あれ?どっかで見たことがある顔だな・・・」と思ったら、なんとあの十七歳で日本に来て頭が狂っちゃったカルロスでした。今ではすっかり元気になって、四十代のおじさんになって、お母さんとお姉さんを連れて集会に来ています。

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 今回は家内も一緒に行ったのですが、家内は本当に感動しました。彼は家内を見るなり「キョウコさん!」と言って、とびついて来ました。彼は家内のことを今まで、覚えていたのです。あの時、十七歳の少年に愛を現すのは大変だったけれど、本当に良かったなと思いました。それは、イエス様を世話することだったのです。

 いまやペルーでの奉仕も祝福され、今年もワッチョで「霊的戦い聖会」がありました。現地の教会から招かれ、毎年聖会をやるようになるなんて思いもよりませんでした。現地の教会も一生懸命準備していました。第一聖会が始まると鼓笛隊の「どどどどっ、どどどどっ」というドラミングがあって、入って来たのがこの人たちでした。

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 テロリストが入って来たのかと思ったら、霊的戦いの集会だからこのようなパフォーマンスだったのです。多くの方々が来てくださって、主を賛美し、街を勝ち取るための聖会を毎年持つようになるなんて信じられません。

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初めは小さくても、後には大きくなるものです。
 以前にもお話ししましたが、この集会はビクトルという名前の、この街の小さな教会の牧師から始まりました。
 その街は占い師が多くて、たいへん霊的に重い街です。ビクトル牧師が「大変だ。もうこんな所での宣教は止めて帰ろう」と思っていた時に、夢だか幻だか知らないけれどイエス様が現れてこう告げられたそうです。今回、そのことを詳しく聞いてきました。
 「この街で宣教するのは大変だろ。しかしおまえを助けてやるぞ。日本から侍を連れて来てやる」と告げられたというのです。日本人というと、彼には「侍」というイメージしかなかったから、主はそのような言葉を使われたのだと思うのですが、「日本から侍を連れて来てやる」と語ってくれたというのです。その頃、日本人なんか全く知らなかったというのです。
 しかしその後ビクトル先生は、下田先生と出会い、今回その街で奉仕した面々は皆、日本人です。

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 左から竹内先生、家内、私、ビクトル牧師、下田先生、そしてフェルナンド先生です。すべて日本から来た侍たちです。本当に不思議なことだと思いました。初めは小さくても、イエス様に対する奉仕として一つ一つの働きをするとき、やがてリバイバル、そして、究極の勝利、イエス様の再臨にまで繫がるのです。私たちクリスチャンはそのような大きな働きをしているのです。それをここで教えているわけです。

 みなさんにも同じことが言えます。「この仕事、何か意味があるのだろうか」と思うかもしれませんが、すべてはイエス様に対する仕事なのです。それは神の国の現れの準備でもあるのです。そしてその神の国は、突然やってくるのです。

 マタイ二十四章から二十五章を読んでいただきたいと思いますが、二十四章から二十五章にイエス様が四つのたとえ話をされています。最初に出てくるたとえは「泥棒のたとえ」です。二十四章四十三節、

『しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。』

 みなさんの家に泥棒が入ったことはあるでしょうか?泥棒が「もしもし。今日泥棒に行くのでよろしく」という電話はないのです。突然、来るわけです。来ると分かっていたら、対処できたはずです。
 次にマタイ二十四章四十五節〜四十七節に「賢いしもべ」のたとえが出て来ます。

『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。』

 主人がいない時にしもべたちに「食事をちゃんと用意するんだぞ」と言われていた係の一人は「主人がいないから、適当にしておけ」と、しもべたちをいじめたりしていたのです。そこに主人がひょいと帰って来て「何やってんだ、おまえは」と叱られたしもべと、忠実にやっていたしもべがいたというのです。これも突然、主人が帰って来たというテーマのたとえです。
 マタイ二十五章に入って行くと、有名な十人の娘のたとえが記されています。二十五章一節、

『そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。』

 五人が油を持っていて、五人が油を持っていない娘でした。それは何を意味するのかというと、「主イエスを救い主として信じているか、信じていないか」を意味します。突然、主人が帰って来た時、油があるとはイエス・キリストを信じている、油がないとは、信じていない人を現します。
 また二十五章十四節〜十五節はタラントのたとえが出てきます。それらすべてのキーワードが「突然」です。突然、主人が帰って来るというたとえ話です。

 全人類の主人は、天地宇宙を造られた神です。それはイエス・キリストです。イエス様が突然帰って来られる、そのために準備しなさいというのが聖書の大きなメッセージです。
イエス様を信じているということは、すでに準備が整っているということです。でも「今日、私は初めて教会に来ました。」または「イエス・キリストを個人的に受け入れていない」という方は、是非とも、イエス・キリストを主として受け入れ、準備していただきたいと思います。なぜなら人類の主は、突然帰って来られるからです。帰ってこられた日に、「今から信じたい!」と言っても遅いのです。

 クリスチャンは基本的には準備が整っているわけですが、主が帰って来られる再臨が「究極的な勝利」につながるという理解は、もしかしたら薄いのかも知れません。リバイバルのためにも、再臨という究極的勝利を意識することは、たいへん重要です。
 今、私たちは霊的戦いを戦っていますけれど、その究極的勝利は、主が再び帰って来られる日にもたらされると意識し、準備しなければならないのです。そして、日々の小さく見える働きも、一つ一つ主に対する働きと意識して、忠実に誠実に働いていく、それが同時に神の国到来のための重要な準備となるのです。それをここで教えているわけです。

 毎日の働きで、「こんな仕事、やりなくないな・・・。こんな仕事やだな・・・」と時々、不平・不満が出て来るかもしれません。しかし一つ一つの働きを、忠実に行う事は、主に対する重要な奉仕です。それがイエス様の再臨につながるということは、すごいことではないでしょうか。
 今週も様々な仕事があるかも知れませんが、将来、未来が見えにくくなっていたとしても、私たちは永遠の国を目指して、イエス・キリストの再臨という究極的な勝利を目指して働いていることを、意識することが重要だとここから教えられます。

 霊的戦いの働きを進める中で、主が「究極的な勝利が再臨と共に現される、その事も合わせて祈りなさい」と語っておられるような気がしてなりません。
 第一コリント二十章二十三節〜二十六節、

『しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。』

 イエス様が再び帰って来られるその日、究極の敵である死さえも滅ぼされるのです。細かい仕事も主に対する働きとして、忠実に行いながら、霊的戦いを戦いぬき、主が帰って来られることを常に意識し、主の再臨を祈る時に勝利が訪れると教えているのではないかと思います。

 最後にみなさんと一緒に、一つの賛美を聴きながら祈りたいと思います。ざわめきの賛美の中に「マラナタ」という歌があります。あの歌は主の再臨をイメージして作った曲だと思います。三・一一の地震の後に、被災地の様子とマラナタがバックに流れて映像で紹介された時、「イエス様帰って来てください!」と心の底から叫びました。
 しかし、主の再臨を逃げではなく、積極的な思いで待ち望む必要があります。なぜなら、それが究極的勝利につながるからです。霊的戦いによって、主の再臨の日は早められるのではないかと思います。
 今からマラナタという賛美を流します。その賛美を聴きながら祈りたいと思います。心から主に仕えることができるように、「主よ。どうか早く帰って来てください、究極的勝利を人類に与えてください」としばらく、祈りの時を持ちたいと思います。

♪夕陽に赤く染まる大地が静かに時を刻む
家路を急ぐ車の波はいつもと同じように
迫る主の日に世界が揺れて叫び声天に響く
見上げた空の雲のどこかに主イエスは立たれる

マラナタ 主よ来てください
世界は主を待ち望む
マラナタ 主よ来てください
世界の叫びを聞いて

闇夜に灯る家の明かりが静かに街をつつむ
灯火かざし油を満たし主の日に備えて
東の空に明けの明星 暗闇に輝き出る
世界の希望 救いの光 イエス・キリスト♪


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。イエス様。あなたが私たちの救いであることを心から感謝します。十字架にかかり、死んで復活してくださいました。しかし、そればかりでなく、もう一度地上に帰って来てくださり、世界を治めてください。日々の働きを、忠実に働き、私たちはあなたを待ち望みます。
 主よ究極的勝利を人類に与えて下さい。主よ帰って来てください。一刻も早くこの地に来てください。私たちは常に、目を覚まして準備しています。どうか日本にリバイバルを起こすと共に、再びこの地にお帰りください。今日は、その事を思いながら聖餐式を行います。主よどうか、聖餐の一時を祝福してください。一人一人の心に、主が再び帰って来られることを刻み込んでください。この時を心から感謝いたします。
 私たちはあなたをもう一度この地にお迎えする準備を、させていただきます。感謝して今からの聖餐をいただきます。主の御名により、アーメン。