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『いつまでも残るもの

2013.3.10 (日)
新城教会牧師 滝元明
第一コリント人への手紙 13章1節〜13節

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』


 ハレルヤ!おはようございます。今朝はこうして、みなさんの前でお話ができることを感謝します。
 先ほども、雅也先生が紹介してくださったのですが、今週から私も少しずつ対外的に動くようになります。今週の土曜日と日曜日には、加古川の教会に行きますので、覚えて祈ってください。その集会は「日本のリバイバルのために」というテーマの聖会です。またその次の金・土・日は、沖縄で集会をすることになっています。
 そして、今週の木曜日は、I姉妹の出身地である加子母村に行くことにしています。加子母村についても覚えて祈ってください。というのも、四月二十五日にはロン・ブラウンさんと一緒に、加子母村で集会をすることになっています。私も行ったことがないのですが、姉妹はクリスチャンになって墓も全てキリスト教系の墓にし、村の人たちに対して素晴らしい証をしました。それで、なんとか今年はそこでも集会をしたいと願っておりましたが、姉妹から「加子母村でも集会してください」ということで、姉妹が費用をすべて出して村の為の伝道会をします。祈るだけではなく、少し援助してあげたらいいですね。
 また、四月十九日には島田から来られている、O姉妹の家で行います。家には百人くらい入れると思います。そのためにも援助してあげれば、嬉しいと思います。

 今日はみなさんと一緒に、すばらしい礼拝ができるということは感謝ですね。この場所に初めて教会ができたのは、一九六〇年でした。一九六七年には会堂を増築しました。そしてこの会堂が一九八〇年にできました。
 私も今朝、そのことを考えていたのですが、献堂式はすごく恵まれました。献堂式に出られた方も、その後救われた方もいらっしゃるわけですが、二回献堂式をしました。一回は一般の方々のために披露する献堂式でした。
 その時は、今は選挙制度が変わっていますが、当時この地区は愛知五区という所で三人の代議士がおりましたが、三人ともここに来てお祝いしてくれました。市会議員の人たちに「代議士が全員来る」と言ったら「そんな事があるわけない。祝電だけだ」と言ったそうですが、当日は全員来てくれました。かつて国務大臣をやった上村千一郎という先生がここで挨拶をしてくれました。それからもう一人、建設大臣をやった村田敬次郎という方もここで話をしました。
 その時にこう話しました。「みなさん、私は夜寝る時にいつでも枕元に新約聖書を置いています。新約聖書を読みながら眠ります。」と話をしました。その時、新城の市会議員もほとんど来ましたから、市会議員の中からもそれから枕元に聖書を置く人が増えたと言っていました。すばらしいことですね。

 その時、献金が三百三十二万円ありました。それでその十分の一は新しく会堂を建てる教会に献げましょう、ということで岡崎でMという先生が牧会をされていましたが、三十三万円持って行って献金したことを覚えています。今でも、こうしてすばらしい会堂で礼拝できることを心から感謝します。

 今日は、みなさんのよく知っている言葉ですけれど、「いつまでも残るものは愛です」という箇所から話をしたいと思います。私は「サインをしてください」と頼まれると「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と書きます。これは私の大好きな言葉です。

 これはコリント人への手紙ですが、コリントの教会にはいろいろな霊的賜物がありました。しかし聖霊を受けたけれど、賜物はあったけれど、その中には高ぶったり、賜物だけを強調し、クリスチャンらしからぬ生活をしている人もいたのです。そのような人たちに対して、「賜物があっても、一番必要なのは愛だよ」とパウロは語ったのです。
 第一コリント人への手紙十二章には次のように書かれています。第一コリント十二章八節〜十節、

『ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。』

 コリントの教会には奇蹟を行う人もいたし、癒やしの賜物がある人もいました。異言も語るし、すごい人たちがいました。しかし使徒パウロが十三章で教えていることは、「たとえ異言を話しても、天使の言葉を話しても、預言をしても、たとえ自分のからだを焼かれる為に渡しても、愛がないならそれはむなしいことだ」と語っています。
 私たちのクリスチャン生活も同じです。いろいろな賜物を、それぞれ与えられているわけですが、聖書は「鏡を見ているようなもので、愛がなければ何の役にもたちません。むなしい。」とあります。ですから私たちも愛を求めましょう。その為に、聖書を学んでいきたいと思います。

 「愛」とは何かというと、それは「神は愛」です。神様の中に愛があります。私たちがそれを信じたら、神の愛によって愛のある人になることができます。
 そこで具体的に愛ということを、一つ一つ考えてみましょう。もう一度先ほどの御言葉を出してもらいましょう。愛とは何か。ここに書いてあります。第一コリント人への手紙十三章

『・・・愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。』

 ここから少しずつ学んでいきたいと思います。ここにこう書いてあります。

 『愛は寛容であり』とあります。みなさん自分のことを考えて『愛は寛容であり』とありますが、もしも寛容さに欠けていたら「私は愛がないな…」ということです。寛容ということは、心が広い人のことです。

 それから、『愛は親切です。』とあります。
 私は毎日のように、田中政男先生の事を思い出します。彼とは三十六年も一緒に伝道をしましたので、よく田中先生のことを考えます。
 田中先生がある時のこと、こんな話しをしました。名鉄電車に乗った時のこと、自分の隣に、すごい派手な格好をしてぴかぴかに化粧をした、気持ちの悪い女が座ったというのです。先生は「気持ち悪い女だ…」と思ったそうです。その女性が近くに座ったそうです。田中先生は目をつぶって軽蔑していたら、少し経つと、急に天使のような優しい声で「どうぞお座りください」という声が聞こえたそうです。そして、体の不自由な人を座らせたというのです。誰の声かと思ったら、その女性の声だったそうです。「俺は反省した…」と言っていました。
 みなさん、うわべだけで人を見てはいけません。裁いてはいけません。そんな話を私は今でも思い出します。

 『また人をねたみません。』と記されています。ねたむ事は、クリスチャンでも時々あります。この教会に一九九三年に教育館が建ちました。その時に東京から、私の親しくしていた宇田川さんという日本信徒連盟の会長さんが来られ、いろいろと話をしました。甲子園ミッションにも来てくれました。
 甲子園ミッションをやった時には、随分、多くの牧師からも反対がありました。なんで反対したか知りませんが、随分牧師の中でも「甲子園なんか」と批判しました。鉱山の土方をやっていた男や、製材所で働いていた田中先生が先頭に立っているから、非難もあったと思います。
 その時に宇田川さんがこう話しました。「先生、聖めだ、聖めだ、言うけれど、結局はねたみだね。結局はジェラシーだ。」と。
 私たちの中にねたむ心があってはなりません。人が成功した、人がすばらしくなった、良い学校に入った、家を建てたとしても、ねたんではいけません。

 その次ぎに『愛は自慢せず』とあります。それから『高慢になりません。』とあります。この教会が建った時、私を導いてくださった穐近先生が私を随分攻撃しました。「新城教会は高ぶっている。滝元は高ぶっている。」とか、随分攻撃しました。しかし、そのおかげで良い教会が出来ました。へりくだるように言ってくださったと思います。
 昨日私は、献堂式の時に献金してくださった方々の名簿を見ていました。いろいろな方々が献金をしてくださったのですが、一番多く献金してくださったのは穐近先生でした。百万円献金してくださいました。それを見て、「いや〜、先生は偉いな」と思いました。「兄弟、高ぶるな!立派な教会が建っても高ぶるな」と随分怒られましたが、心から愛していてくださっていたと思います。ですから、私たちはどんなに恵まれても、高ぶらないようにしなければいけません。

 それから聖書はこう書いています。『礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、』とあります。礼儀正しくしなくちゃなりません。クリスチャンとして、よく挨拶をして無礼をしてはいけません。自分の利益を求めない、怒らないとあります。
 「怒りは神の義を現すことではない」とありますが、私もメッセージを準備しながら、ふっと考えました。怒るということは良い事ではない、という事です。

 私は三年間、鉱山で土方として働きました。最初は、津具鉱山で働いて、次は八橋マンガンというマンガン鉱山で働きました。山の上に登って、鉱石を運び出したり、重労働でした。そこには私と一緒に四人の女性が働いていました。感謝なことに四人とも、私の伝道で救われました。その内の二人は、すでに天に召されましたが、イエス様を信じていました。それから一緒に働いていた青年も、イエス様を信じました。ですからそこで、五人イエス様を信じました。
 私たちの上に、所長がいました。所長は所長ですから、何もせず、いつもぶらぶらして威張っていました。

 秋のことですが、仕事をしていたら、栗ができていました。そうしたら女の人が私にこう言うのです。「明さん、栗熟れたね」と言うのです。どういう意味かというと、私に栗を取って欲しいということです。私も早速、気を利かせて「取って来てやるよ」と言って、降りて行って熟した栗を取って「はい。取って来たよ」とあげました。
 そうしたら、その栗は所長が「俺が取りたい」と狙っていたのです。それを私が取ったというので、所長がものすごく怒りました。
 私に、「君!もっと君が聖書をよく読んでいたら、こんな事はしなかっただろう!」と言うのです。聖書と栗とどこが関係あるかと思いましたが、私はむかっとして、「聖書と信仰と栗と何が関係あるのか!」と、私は彼を殴りはしませんでしたが、怒鳴りました。所長はがたがた震えていました。「いいかげんにしとけ!あれはあの人たちが取ってくれ、と私に頼んだから取ってやったんじゃないか!なんだ、おまえは何も仕事もしないで、ぶらぶらしやがって、馬鹿野郎!」と、私は所長を怒鳴り倒しました。
 所長はがたがた震えだし、後からこう言いました。「キリストさんでも、そんなに怒るのか?」そうしたら、クリスチャンになった姉妹たちが「イエス様でも怒りましたからね」と、私を弁護してくれました。

 しかし、私は後でよく考えて、反省しました。あの時に私が「聖書をよく読んでいたから、そんな事しなかったろう」と言われた時、もっとへりくだって「すいません。所長さん、あんたが取りたかったんでしょう。許してください。ごめんなさい」と言ったら、あの所長も救われたかも知れません。
 それ以来、彼は私に対して心を頑なにしました。みなさん『怒ってはいけません』と書いてありますが、やはり私には愛がなかったのです。

 最近、聖書を読んでいて教えられた言葉があります。『人のした悪を思わず』という言葉が心に留まりました。みなさん、私たちは自分のした悪じゃなくて、人のした悪、「あいつ、悪いことしやがって。過去にこんな失敗をしたぞ。あいつには、こんな悪い所があるぞ。あんな汚い罪を犯して、あんな奴と交わりたくない」なんて人の悪を思うけれど、人の悪を思ってはいけないのです。裁くのは神様です。赦さなきゃいけない。
 この間もゴスペルサパーがありました。その時に私は、メッセージのために祈りました。どんなメッセージをしようかと、なかなかメッセージが来なくてお祈りしている時、朝、夢を見ました。どんな夢を見たかというと、その集会に出た方もいらっしゃるわけですが、ちょうど二〇〇〇年の年ですが、私を導いてくれた穐近先生が亡くなったので葬式に行きました。私たちは教団から、霊的戦いをやると言うことで追い出されたのですが、葬式に行ったら、私たちに反対した教団グループの牧師と奥さんがいました。なかなか頭が切れる方だったのですが、奥さんはご主人につかまってよろよろ歩く姿を見て「私たちを追い出したから、あんな姿になったかな・・・」と、ふっと、そんなに長くじゃないですが思ったのです。
 十三年前の出来事をその朝、夢で見たのです。その時に来た御言葉は『人を裁いてはなりません。裁かれないためです。』でした。この言葉を思い出しました。みなさん、今ご存知のように、私の家内も毎朝礼拝に来る時、私が手をつないで来ています。九十歳になりましたから、やはり歳を取るとふらふらするのです。「裁いたこと申し訳ないな・・・」と思いました。

 私たちクリスチャンが「裁かず、人のした悪を思わない」という愛をもらったら、教会はもっともっと祝されます。

 私は早速その御言葉をいただいた後、その教会に電話をしました。そうしたら若い方が電話に出ました。そして「この教会の牧師です」と言われたので「あっ、先生はお元気ですか?奥さんはお元気ですか?」と聞くと、「先生は二年前に亡くなりました。奥さんもその少し前に亡くなりました」と言われました。

 『不正を喜ばずに真理を喜びます。』クリスチャンはどこまでも悪を喜んではいけない。正しいことを喜ばなければいけない。『すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』
 そして八節からこう書いてあります。

『愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』

 最後をみなさんで一緒に読みましょう。『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』
 いつまでも残るもの、これは一時的なものではなく、いつまでも残るもの、それは信仰と希望と愛だと書いてあります。みなさんの人生の中で、家庭の中で残るもの、何を持っていますか?
 私も親しくさせていただいている、千葉のスティーブ・ケイラー先生。私はとても好きなのですが、彼のお父さんは九州にいて、レオ・ケイラー先生といいます。その方の先祖は、ドイツからアメリカに渡って、アメリカから日本に宣教師に来ています。その方がこういう話をしました。
 「私のおじいちゃんは、ドイツでクリスチャンになり、子どもたちに聖書を教えて、以来、子どもたち全員がクリスチャンになり、今私たち兄弟はみんな、宣教師になりました。そして最初にクリスチャンになったおじいちゃんの聖書を、次の世代の長男に渡すことにしています。今それを宝として持っています。」
 今、四代目か五代目か知りませんが、九州にいる先生が大おじいちゃんの使った聖書を宝として持っているというのです。いつまでも残るもの、神の御言葉。それは大切です。

 アブラハム・リンカーンの母さんは、死ぬ前に息子に聖書を渡したと言いますが、私たちはいつまでも残るものを、しっかりと持たなければいけません。

 時々、世の中に残るものというと、今の世界は経済や財産を考えます。金、金、金と考えますけれど、ある人が「いつまでもあると思うな、親と金」という詩を詠みました。親と金はいつまでもあるんじゃない、それで第一テモテ人への手紙六章十七節にこう書いてあります。

『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。』

 金があると人は高ぶります。どんなに金ができても、どんなに成功しても、どんなに立派になって有名になっても、まず、豊かにすべてを与える神に望みを置くようにと教えています。
 そして信仰とはいったい何か?「なんでもいい」のではないのです。「鰯の頭も信心から」なんて日本に言葉があります。日本は多神教で、何でも信じます。きつねでもたぬきでも豚でも、何でも信じる。蛇でも信じる。それではいけない。
 みなさん、信仰というのは天と地を造られた、まことの神様と私のための救い主であるイエス・キリストを信じる信仰です。いつまでも残るものは信仰だ、と書いてあります。
 みなさん。考えてみたら、イエス様は、二千十三年前にお生まれになったけれども、以来キリスト教信仰はいろいろと迫害がありましたが、ずっと生きて続いているじゃないですか。今、世界でクリスチャンの数は二十億人になったと言われています。生きている神様です。ですからみなさんしっかりと、信仰を持たなければいけません。

 聖書の中にこういう言葉があります。有名な言葉で、ピリポカイザリアでイエス様がお話しした言葉です。イエスは弟子たちに向かって「わたしのことを何と言うか?」預言者だと言います。エリヤだと言います。弟子達は、いろいろな事を返事したわけですが、「あなたはどう思いますか?」と言った時に、マタイの福音書十六章十六節、

『シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」』

とあります。みなさんで一緒にこの言葉を言ってみましょう。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』
 永遠にいつまでも残るものは何かというと「イエス様が神の子キリストだ!」これです。その時にイエス様がおっしゃったことは、マタイの福音書十六章十七節〜十八節、

『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

 信仰とは「イエスは神の子キリストだ!」この上に教会を建てます。ハデスの門というのは、黄泉の門ともありますから、地獄の力、悪魔の力です。それは勝つことはできない!
 私たちの人生において「イエスは神の子である」と信じたら、黄泉の門も勝つことはできない、ハデスの門も勝つことはできない、サタンも勝つことはできない。クリスチャンは最終的には、どんな戦いがあっても、勝利者なのです。ですから第一ヨハネの手紙五章五節にこう書いてあります。

『世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。』

 イエス様は神の子です。私のために死んで葬られて死人の中からよみがえって、今日も天においても地においても一切の権威を持っています。みなさん家庭で一番大きなことは「イエスは神の子です!よみがえりました!今も天においても地においても一切の権威を持っています!信じてます!」
 聖書は『心に信じて義とされ、口で告白して救われる』とありますから、今日みなさんイエス様を信じたら、永遠に残るものを持っているということです。

 子どもが良い大学に入ることも大切ですが、金持ちになること、有名人になること、テレビに出るとか、それは大したことではありません。一番大切なことはイエスをどんなことがあっても、第一に信じる、これが大切です。イエス様を信じてください。たとえ少しくらい頭が悪くても、良い学校に入れなくても、「イエス様を信じています。」これが一番大切です。いつまでも残るものです。

 その次は「希望だ」とあります。みなさんに希望はありますか?人間的に考えると、歳を取ると希望がなくなってきます。人生は長くて短いと思います。私の家のトイレにある方が書いてくださった色紙が貼ってあります。それは「千年は一日のごとく。一日は千年のごとく」とあります。
 私も家内と結婚して、今年で六十三年目になります。私の家内も子どもの時があったし、女学生の時代もあったし、花嫁になった時もあるし、若い時代もあったけれど、いつの間にかおばあちゃんになりました。私は良い人と結婚できて幸せだと思っていますが、もう先は短いです。いつ何時、何があるか分かりませんが、いつかはこの世から去ります。しかしクリスチャンには望みがあります。どこに望みがありますか?
 ピリピ人への手紙三章二十節〜二十一節、これはみなさんの希望、私の希望、信じる者の希望として読んでみましょう。

『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。』

 クリスチャンになることはすごい事ですね。死んでも天国に行ける。信じたら天国に国籍がある!私たちの国籍は天にあります。今は日本人ですので、国籍を二つ持っています。天国の国籍と日本人の国籍です。ここから出て行く時が来るけれど、その時には『私たちの国籍は天にあります。』
 その次にすばらしいことは『そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。』

 この間は順牧師がすごいメッセージを語りましたね。それは再臨に対するメッセージで、究極的な勝利について話をしました。「イエス様はまもなく帰って来ます!」すばらしいですね。
 イエス様がオリーブの山から天に帰って行く時、弟子たちが見ていたら「イエス様が天に帰って行く・・・」雲に包まれた時、二人の若者たちが側にいました。彼らは天使でした。
 「なぜ天を見ているのですか?あなた方がイエスが天に上って行くのを見たように、もう一度イエス様は帰って来ますよ」と言われました。クリスチャンの望み。世界の希望。いつまでも残るもの。それは、イエス様の再臨です。

 再臨の日、ここに書いてありますように『キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。』
 卑しいからだ。歳を取るとからだは弱くなります。だんだん足も弱くなったり、頭も弱くなったりしますが、それも結構です。どんなに卑しくなったとしても、ここに書いてあります。『キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。』イエス様が再臨なさる時、イエス様と同じ姿になるのです。復活のからだです。すごいじゃないですか。

 私も天国に行く日を楽しみにしています。天国に行って一番最初に会いたいのは誰かというと、イエス様です。また、私の娘でたった三ヶ月で亡くなった、ますみという娘がいます。彼女にも会いたい。そして新城教会から天に帰って行った人たちも大勢います。岡本康広君にも会いたいと思います。康広君はこの地上ではダウン症でしたが、天国に行ったらびっくりすると思います。「やっちゃんはどこだ?」すると、立派な、すばらしい姿で「おぉ、滝元さん。よく来た」なんて迎えてくれると思います。
 イエス様の再臨の時には、イエス様と同じ御姿になるのです。イエス様は復活なさった。同じ御姿になる。こんな希望がある。みなさん地位や名誉はいつかなくなるけれど、クリスチャンには希望があります。

 そして最後に『いつまでも残るものは愛です』とあります。これは何かと言ったらイエス様ご自身です。愛は神様です。第一ヨハネの手紙四章十六節、

『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』

 愛とは何かと言ったらイエス様です。愛がなければ何もならないというのは、賜物があって何があっても、いつの間にか賜物を重視して、イエス様を忘れてしまう。どんなに恵まれても、イエス様を忘れてはいけない。イエス様は私の宝です。イエス様は私の愛です。そのイエス様がなんとおっしゃったかというと、マタイの福音書二十八章二十節、

『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』

 神は愛です。永遠に残るもの。神が私と一緒にいます。信じますか?すばらしいじゃないですか。そしてイエス様が約束してくださったのです。ヘブル人への手紙十三章五節、

『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』

 みなさん、何よりも信仰と希望と愛をしっかり持って、愛について具体的に学びましたが、イエス様の中に全て含まれています。まずイエス様ご自身を私たちのものとして、愛の中でやっていきましょう。

 特に今日、私が教えられたことは「人のした悪を思わず」と「人を裁かず」です。いつの間にか高慢になって、人の悪ばかり考えたり、人を批判したりじゃなくて、自分自身が神の前にへりくだって生きると、祝福の道にあずかります。

 何か一つでも持ちましたか?今日「この言葉を私はつかんだ!」ある人は寛容が足らないとか、親切が足らないとか、私の場合は人の悪を思わずとか、人を裁くなとか、教えられたことですから、神の前に最もすぐれたものを求めながら、一緒に神の国のために働いてまいりましょう。

 ということで、一言お祈りします。そして聖餐にあずかりたいと思います。イエス様が私たちのために死んでくださった、血を流してくださった、心から感謝して聖餐にあずかります。一言お祈りします。みなさんも示されたことを祈ってください。自分の欠けた所に、愛を与えてくださいと一緒に祈りましょう。

 愛する天の御父様。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛だとおっしゃいました。今、イエス様あなたが生ける神の子、キリストであることを信じます。死人の中から三日目によみがえって、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられることを感謝します。あなたが私のために、肉体を裂かれ「これはあなた方のためのからだである」とおっしゃいました。また杯を取って「これはあなた方のための血である」とおっしゃいましたけれど、私たちのために肉体を裂かれ血を流してくださったこと感謝します。
 また私たちが信じることによって、神の子とされて、永遠のいのち、天国に行けることを感謝します。主よ、あなたは世の終わりまでいつも一緒にいてくださることを信じます。どうか愛のうちに過ごさせてください。お願いします。これからの聖餐、一人一人が祝福されますように。今日ここに来て誰もサタンの誘惑にあうことがないように、主よ守ってください。何よりも、今日みんなにイエス様に対する愛を与えてくださるよう、お願い致します。感謝してお祈りします。アーメン。