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『残ったのは骨だけ

2013.3.17 (日)
ヤキマ・バレー・ライフ・チャーチ
主任牧師 Joe Hite 師
エゼキエル書37章1節〜10節

『主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』


<順牧師より紹介>
ハレルヤ!今日はジョー先生を紹介できることを、心から感謝しています。ジョー先生は私の親友でもありますが、先生との出会いには不思議なものがありました。
 三十年くらい前、私たちは新城教会の教育館を建てるために、アメリカに視察に行きました。その時期にはいろいろな困難がありましたが、行くことができました。その視察の帰りにハワイに立ちより、日本に帰って来る途中、綾子ビラップスさんという婦人と出会いました。彼女は通路を挟んで、私の隣に座っておられました。彼女は飛行機に乗る前、「飛行機に乗ったら一人の男性に出会います。その出会いは大きなものです」と主から語られていたそうです。彼女はどんな神の人が乗っているだろうかと、緊張していたそうです。しかし、そんな人はまったく見当たらなかったそうです。隣にはおかしな青年が座っていたそうです。今から三十年以上も前のことです。それが私だったのです。
 そんな事から始まり、彼女を通して、ジョー先生と出会いました。あの時、私が飛行機の中で聖書を読んでいなかったら、綾子先生は私に話しかけなかったと思います。
 先日はジョー先生の息子のピアスと、私の姪のヤエが結婚しました。私が飛行機の中で週刊誌を読んでいたら、ヤエは結婚できなかったはずです。人生は本当にちょっとした出会いで大きく変わるものです。
 ジョー先生と出会って、今ではアメリカと日本が一つになって、とりなしの祈りをし、霊的戦いをするようになりました。思ってもみなかったことですが、神様はこれからもどんどん大きなことをしてくださると信じます。

 ジョー先生は昨年から「日本に行って、とりなして祈る時期が来てます」と主から語られたそうです。彼は日本の状況とか、あまり細かくは知らないのですが、そのように語られたそうです。そして今回、祈りのために来てくださいました。昨日と一昨日は、私たちは共に関東地方に行って、日本の未来のために特別、祈ることが出来ました。この祈りの働きは目に見えない世界では、大きなことであると思います。
 今日先生からメッセージを伺えることを、本当に感謝しています。水曜日にもメッセージを語っていただきましたが、深い、すばらしいメッセージでした。今日のメッセージもきっとすばらしいと思います。

 みなさん、先週のメッセージ・タイトル、覚えていますか?「いつまでも残るもの」でした。今日は「残るのは骨だけ」です。どういう意味があるのか分かりませんが、きっとすばらしい導きを主が与えてくださるのではないかと期待しています。
 通訳を山崎ランサム和彦先生がしてくださいます。大きな拍手で先生をお迎えください。


 「おはようございます。」これが私の知っているすべての日本語です。「食べましょうか?」も分かりますが。こうして新城に戻って来られたことを、心から感謝しています。本当にここに来るのがいつも楽しみです。私たちはもう正式に繋がりができました。私たちはヤエちゃんを奪い取りました。今、ヤキマの方では、ユーストリームでこの礼拝の様子を見ているかもしれません。もしみなさんが午前二時にコンピューターをつけることができたら、ユーストリームでヤキマの礼拝を見ることもできます。でも、おやすみになった方がいいかと思いますが。

 私は今回ヤキマから三人の祈りのチームと共に来ました。そのうち二人は皆さん既にご存知かもしれません。彼らにとっては三回目の日本です。一人目はジェイソンさんです。二人目はウィルさんです。三人目の兄弟は、今回初めて北米から外に出た方です。奥さんと十五歳の時に出会ったということですが、今はそれよりもかなり歳を取りましたが、奥さんと離ればなれになるのは、今回が初めてということです。テリーさんの奥さん、パティさんは新城に来たことがあります。髪の毛がたくさんあるご婦人を覚えておられるかもしれません。料理もできます。私たちの教会は、バレー・ライフ・チャーチといいますが、テリーさんと奥さんのパティさんは祈りのチームを率いておられます。

 ここ二、三日、順先生が私たちを東京と横浜に連れて行ってくれました。すばらしい時でした。たくさんの祈りをしました。たくさんのことを学びました。そして祈り、それはすばらしい時でした。
 私が日本に来るようになってすでに二十五年くらいになるかと思いますが、東京に行ったのは、実は初めてだったかもしれません。東京を通ったことはあります。厚木、箱根、横浜などに立ち寄ったことはあるのですが、東京で祈るために重要な場所に行ったのは、今回が初めてでした。日本をどういう風に理解したらいいのか、また、日本のためにどのように祈ったらいいのかについて、多くのことを学びました。
 ここに来る度に、私はいかに自分が無知であるかを思い知らされます。二回、三回来た時、私は日本についてもうだいぶ分かったと思ったのですが、二十五年経ってみて、いかに日本のことを知らないかを思い知らされました。何か失礼があったら許してください。私たち、ヤキマからの四人のチームは、みなさんに失礼なことがあるかもしれません。フェルナンド先生はにぎやかな南米の方ですので、もうそういうのには慣れているかもしれませんが、北アメリカから来た人たちは南米よりも、もっと騒がしい人々です。私たちはなるべく、ここできちっとするように心がけていますが、何か間違いがあったら許してください。

 水曜日の礼拝でお話ししたことですけれど、私にとって非常に恥ずかしい思い出があります。ヤエさんが私に話してくださったことなんですが、二十五年間、私は日本に来ていても、一度も習わなかったことがあります。順先生は私に、トイレのスリッパについて、何も話してくれませんでした。
 私が順先生の家に行った時には、履いているスリッパのままトイレに入ってしまったのです。奥様の享子さんはとても礼儀正しい方なんですが、たぶん順先生に「どうしてこの野蛮人を家に連れて来て、新しいスリッパを無駄にするのか」と言っていたのかもしれません。でも、享子さんはとても礼儀正しい方ですので、頭の中で考えていただけかもしれません。
 もし私が今までに、皆さんの家にお邪魔したことがあって、もし皆さんの家のスリッパを無駄にしたことがあれば、どうぞお許しください。

 先ほどの子どもたちの賛美、とてもすばらしかったです。そして新城教会の賛美もとてもすばらしいです。すばらしい教会に来る度に、恵みを受けています。私たちは強い繋がりを持っていることを感謝しています。私たちは長い間、友情関係にありましたが、今では親戚になりました。ピアスとヤエさんは、日本に来てしばらく住むことを計画しています。
 私がヤエさんに言ったのは「あなたたちが結婚することになったら、どちらかのおじいさんおばあさんは、孫を失うことになるだろう。」と言いました。なぜなら、アメリカに住むか、日本に住むかのどちらかですから。私が祈っているのは、望先生の一家が失うことになるのを祈っています。でも望先生がもし勝ったら、たくさんのスリッパを用意しなければなりません。

 私は新城教会のために祈って来ました。私たちのヤキマの教会で今起こっていることは、新城教会から大きな影響を受けています。ちょうど今の時間、ヤキマでは土曜日の夜になるのですが、普通、私たちはこの三人の方々と他の方々と一緒に、山の上に行って祈っています。私たちが祈る時には、いつもみなさんのために祈っています。そのような形で、私たちには繋がりがあります。
 昨日、私はこの集会のために祈っていました。そして聖書通読の箇所を読み始めました。私の教会の方々は、同じプランに従って聖書を読んでいます。他の方々も申命記三十章を読まれたと思うのですが、私はただ、その日にそこを読む予定だったから申命記三十章を読み始めました。
 どうしてか分かりませんが、この章は新城教会にとても大切な箇所だと主が教えてくださいました。みなさんに重荷を負わせたくありませんが、この章を読んで祈っていただけたらと思います。
 この章というのは「地の回復」ということと「繁栄」、神様の祝福が戻って来るということについて書かれています。これは新城教会にとって、とても意味のある箇所だと思います。神様は、新城教会の働きを祝福して、それを通して日本に回復と繁栄をもたらそうとしておられます。もうみなさんは既に、そのことを始めていることを知っていますけれど、何か新しくて、すばらしいものがやって来ようとしています。この箇所の一つの要約を、申命記三十章五節に見いだすことができます。

『あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。』

 神様はみなさんに、クリスチャン個人として、また、教会全体として、さらにすばらしい祝福を与えようとしておられます。みなさんの働きを祝福して、この国に大きな祝福を与えようとしておられるのです。それはさらに、どんどん大きくなっていくでしょう。
 時々、私たちは疲れを覚える時があります。今年の一月くらいには、私は同じように自分の街、自分の国について疲れを覚えていました。一月に集中して祈ったことは、神様が私たちにリバイバルを与えてくださるようにということでした。正直に申し上げると、私は本当に落ち込んでいました。私の街、私の国について見ると、またアメリカの教会の現状について見ると、私たちは後退してしまっているのではないかと。文化ということを考えても、社会ということを考えても、キリスト教がアメリカの中でインパクトを与えることができない状況にあるのです。多くの人々の人生には苦しみがあります。一般的にいうならば、アメリカの教会は日本の教会よりも大きいと思いますけれど、言ってみれば大きなアメリカ文化の津波が来て、アメリカ教会を飲み込もうとしているような状況です。

 私は神様に「どうやって、自分が仕えている教会を導いたらいいのですか。どういう風に祈ったらいいのですか」と祈っていたのですが、本当に希望がないように思いました。本当に奇蹟が必要だと思いました。
 もしかして、みなさんも同じように感じることがあるかもしれません。けれども、神様は「奇蹟を起こすことはわたしの仕事だ」と言ってくださいました。「あなたが私の声を聞いて、それに従うならば、どれほど否定的な状況の中にあっても、良い事が起こってくる」と言われました。そこで神様は、エゼキエル書三十七章の最初の十節から、御言葉を語るように導いてくださいました。

 それぞれにやり方があると思いますが、私の場合、説教のスケジュールは先に決まっていて、今ですと、六月くらいまでいつ、どういう説教をするかを決めてあるのです。この一月にも、そのスケジュールがありました。しかし、この説教は、スケジュールになかった説教でした。計画的にやっていくというのは、良い事なんですが、それと同時に、柔軟に、フレキシブルに神様が語られる時に対応していくことも、必要だということです。時には、神様に対していらだってしまうような時もあります。私はもうすべての説教を用意しているのに、土曜日の夜に「あなたはこれを説教してはならない」と言われることがあります。そして「あなたはこの説教をしなさい」と。
 ここでも、そういう事が起こりました。私は神様と議論しました。私はちょっと怠け者なので、新しい説教を作るのは好きではないのです。けれども神様と議論する時には、神様に負けるのが一番です。それはまさに、ここで言われていることです。この聖書の箇所は、神様に勝利を取っていただくという箇所です。物事が本当に悪いように見える時に、神様に勝利を取っていただくのです。

 通訳者は私に、この箇所はバビロン捕囚からのイスラエルの帰還について語っている箇所だと言いました。彼らはユダヤ人ですけれど、彼らは未だに神の民であるわけです。けれども彼らは、神が約束してくださった土地に住んでいない状態にありました。非常に状況は悪く、もう何も残っていないような状況でした。そこで神様は、エゼキエルに枯れた骨の幻を見せられたのです。開先生が、もうこの箇所を読んでくださいましたので、この話についてはご存知だと思います。

 みなさんもご存知のように、エゼキエルが出て行ってみると、この谷間に骨が満ちていて、もう死んで長いこと経っているかのように乾ききっていました。
 日本ではどうか分かりませんが、私たちアメリカ人が、このように枯れた骨を見たら、もうそこには命がないと思います。この骨が生き返るなんていうことは、全くないと思えるものです。骨を見たら、そこにかつて命があったということすら、想像しがたいものです。かつて骨が生き物だったということも、信じがたいのです。
さらに、その骨が生き返るということは、もっと信じがたいです。ですからそういった時に、私たちは命から遠く離れているように感じます。ですから私たちが枯れた骨が積み上がっているのを見たら、「もうここには望みがない。これが生き返ることなんて絶対にない」と思ってしまいます。
 今から少し写真を見せたいと思います。

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 これはイエロー・ストーン国立公園で撮った写真です。これは巨大な温泉のようなものです。普通と違うのは、みなさんがこの中に入ったら、骨だけになってしまうということです。本当に高温な温泉です。火山によって造られた地形です。世界の間欠泉と呼ばれるものの八十パーセントがこの地域に集中しているそうです。ワイオミング州、それからモンタナ州ですけれども、アメリカにおける縄文・アイヌ人のような原住民の人たちにとって、この場はとても霊的な意味を持った場所でもあります。それはイエローストーン国立公園にありますが、アメリカで最初に国立公園になった場所でもあります。
 私たちはここに日本人を三回連れて行ったことがあります。最初の二回は充彦兄弟と一緒に行きました。彼を訓練するために彼と共に、いろいろと野外で活動しました。三回目には順先生と一緒に祈りに行きました。

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 順先生と充彦さんとジェイソンさんとジョン先生です。半ズボンを履いていますけれども、みんな大人の男です。

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 これは地面からわき出してくる、温泉のような物です。ある時、充彦兄弟を訓練するためにイエローストーンに行った時、私と息子のピアスと充彦さんですけれど、そこでハイキングや釣りをしました。その冬とは、その地域に住む動物たちにとって非常に厳しい冬でした。非常な高地にあるので、動物たちが生きるのは難しくて、多くの動物が死んでしまいました。そこでたくさんの骨を見ました。鹿の骨とか、バッファローの骨とか、エルクの骨とかを見ました。春になると、熊が出て来てそれらの肉を食べてしまうので、肉はあまり残りません。ですから、ここに行くと地面に、からからに乾ききったような骨が落ちているのです。
 ピアスと充彦さんはこの動物の骨を拾って、間欠泉に投げ入れました。するとその骨は、あまりにも古くて干からびていたので、温泉に入れるとすぐに溶けてしまいました。全く、命というものがありませんでした。

 時々神様のいない生活を見ていると、同じように命がないと思うことがあります。世の中を良くする方法なんてないと思ってしまいます。今年の一月に、まさにそういう気持ちでした。骨にちょっとでも触れたり、水をかけたりするならば、たちまち溶けてしまうような、そういう状態です。私がその骨を生き返らそうとして、それに触れるなら、ただそれだけで壊れてしまうような状態でした。しかし、「私は何もできない」と、希望がなくなった時、信仰が働き始めます。

 神様は三十七章の最初の三節で、語りかけてくださいました。神様はエゼキエルに「これらの骨は生き返ることができるだろうか?」と訪ねられました。三節の最後でエゼキエルで正しく答えました。『神、主よ。あなたがご存じです。』
 神様、あなただけがご存知です。神様だけが、回復を与えることができるお方です。神様だけです。私たちは、神様に聞いて、神様が言われることを行っていかなければなりません。

 四節に行きますと、神様はエゼキエルに言います。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。』
 そして神様がエゼキエルに言ったのは、「あなたがこの通りにするとこの骨は生き返る」と。そして『わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。』と言われました。これはエゼキエルが言ったことではありません。神様が言われたことです。神様が、このもう望みのない状況に、回復が訪れると言われたのです。それは神様のご計画でした。

 私たちが申命記三十章に書かれていたように、この地に回復と繁栄を再びもたらせようとするならば、それは神様の計画に従ってなされなければなりません。神様の指示によって、秩序というものが与えられていくのです。これは霊的な秩序です。どんな政府もこれをすることはできません。神様の霊だけが、それをすることができます。神様の霊だけが、真の回復者です。

 そして七節を見ますと『私が命じられたとおりに預言すると、』とあります。エゼキエルは神様が語れる声を聞いて、その通りに行ったのです。もし神様の回復を見たいならば、あなたは神様から聞いて、聞いたことを行わなければなりません。神様への服従、神様がこうしてくださいということに従うことです。私たちがしたいことではなくても、私たちがこうなるだろうと期待していることではなくても、神様が私たちにしなさいということをする必要があります。それは大きな奇蹟をもたらします。

 突然、今にも消え失せそうだったものが、命あるものに変わっていったのです。皮が生じて、筋肉や筋がついて、そして九節、神様はエゼキエルに言われます。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え』。

 みなさんの中で一日一回呼吸したらいいという方はいますか。一回です。みなさんは常に息をしないといけないですよね。
 けれども私たちは神様に、そのような事を求めてしまうことがあります。神様の霊を一回吸って出て行ってしまうことがあるのです。私たちが神様の回復を見たいならば、常に、神の息を吸わなければならないのです。私たちは、神の秩序に従って、いろいろな計画を立てていくことができます。けれども大事なことは、いつも神様にあって呼吸していくことです。私が教会で言うことは「聖霊様は私たちに命を与える」と。私たちに命の息を与え、そして私たちを動かしてくださる。神様は、みなさんの人生に大きな事をしてくださいます。

 あるときは大きな挑戦を覚え、望みがないように思うかもしれませんけれど、それは信仰を持つには絶好のチャンスです。それは、あなた方ではなくて、神様があなた方に命を与えるからです。
 私がヤキマの教会の人々に、いつも言っていることがあります。「神様の計画がなるためには、私たち自身の計画を諦めなければならない。」という事です。
 なぜなら私の計画は小さすぎるからです。私が自分の力でできることは、本当に少ししかありません。私の力は、本当に少ししかないのです。けれども、神様の計画というのは、永遠のものです。そして神様の力と息は無限にあります。

 最後にヨハネの福音書を開きたいと思います。ヨハネの福音書一章一節〜五節、

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』

 ここで語られているのは『初めに、ことばがあった。』そして『ことばは神であった。』と語られています。『ことばは神とともにあった。』『すべてのものは、この「ことば」によって造られた。』とあります。
 水曜日にもお話したことですが、ここで「ことば」と訳されている元の言葉は「ロゴス」という言葉です。これは、聖書から来た概念ではなく、ギリシャのストア哲学から来ている概念です。ギリシャ人にとって「ロゴス」という言葉は「秩序」「いのち」「創造」といったものを表す言葉でした。この「ロゴス」を追求して、学んでいくならば、あなたは賢くなるということです。
 しかしヨハネがここで語っているのは、非常に大きな意味のあることです。それは「ここにロゴスがある」と言っているのです。これは過激な発言でした。彼が言ったのは「このイエス様というお方こそ、命の秩序を与える方だ」「この方こそ、世界の土台である」「この方こそ、世界の命であり、すべてである」と言ったのです。

 ギリシャ人の人たちにもこのことは理解できましたが、ユダヤ人の人たちにも大きなインパクトを与えました。というのも、この概念は創世記に関係があるからです。創世記でも『初めに』ということが語られています。ヨハネの福音書でも『初めに、ことばがあった』とあります。
 ですから、神様の御言葉、それから秩序、命というものは、最初からそこにあったのです。それは最も安定したものです。完璧なものです。私たちの人生に、また私たちの国にどんな事が起ころうとも、神様の秩序というのは変わることがありません。骨がどのように悪い状態にあるように見えたとしても、神様は「わたしに聞きなさい」と言われます。「わたしが言いなさい、しなさい、ということを行いなさい」と。いつも、わたしの霊を受けなさい。そうするならばそこには秩序が生まれるでしょう。

 この最初に『初めに、ことばがあった』と言われた時に、そこには一つのプライドがあったかもしれません。この人たちは、私たちと同じような人たちだったかもしれません。当時も今の私たちと同じように、人々は「私たちは人生を、うまくやっていくことができる。けれども神様から、ちょっとした助けがあればいい」と思っていました。アメリカの言葉に「自分で自分の問題を解決できると思っているんですね」と言う表現があります。「あなたはすべてが分かっているので、自分でどういう風にやればいいか分かっているんでしょう」と。
 そういう考え方が、時々私たちの頭に忍び込んで来ることがあります。「クリスチャンとして、どのように歩めばいいか。どのように問題を解決したらいいのか、私は分かっている」と。「神様を含めて、すべての人が自分の言うことを聞けば、問題は解決するんだ」と。

 けれどもヨハネは、ここでそういう考え方に挑戦しているのです。神様は「わたしから離れては、あなたのうちに命はない」と言います。あなたはそんなに賢くもないし力もない。ただ恵みによってその事が為される。私たちは神様の力を受けることができます。そして、神様から命が流れて来るのです。
 それは私にとって、本当に大きな励ましでした。特に私が、日本に来てたくさんのトイレ・スリッパを無駄にしてしまったように、いつも多くの間違いをしますし、しなければならない事もできないような者です。けれども、神様はただ「ただわたしに聞きなさい」と言われます。そうするならば、人生はいつでも希望があります。アーメンでしょうか?人生には希望があります。神様に聞いていきましょう。お祈りしたいと思います。お立ち上がりください。


 イエス様、感謝します。いのちを今必要としている方々のために祈ります。人生の中に、もう不可能と思えるような状況があるかもしれません。また家族の中に、そういう状況があるかもしれません。また自分の街、国の中に、不可能と思えるような状況があるかもしれません。その方々が神様から聞くことができますように。そして信仰を持つことができるように。そして神様が言われることをすることができるように。そうするならば、説明することができないような、不思議な方法で神様の奇蹟が始まるでしょう。
 この新城教会に与えられている、信じることのできないほどの大きな召しと奉仕のために祈ります。あなたがこの教会に、この土台を据えてくださったことを感謝します。神様は「その土台の上にあなた方が想像もつかないほどの、すばらしいことが起こるだろう」と言われます。それが解き放たれることを祈ります。そしてイエス様の御名によって、この枯れた骨のような状況の中に、命を与えてくださるように祈ります。
 この地域のために、また日本のためにも祈ります。イエス様によって人々が救われ、回復されるように。そして本当に力強いリバイバルが起こるように。そしてこの国を変えるだけでなくて、全世界を変えるほどのリバイバルが起こりますように。誰も想像できないほどの啓示と、祝福をこの教会に注いでくださいますように。

 あなたが王の王であることを感謝します。そしてあなたはすべてに勝って偉大な方です。サタンが敗北したことを感謝します。そしてあなたの光が輝いていることを感謝します。あなたの愛と恵みを注いでくださっていることを、感謝します。あなたの血潮は、私たちに十分です。そしてこの教会の方々が、神の武具を身につけることができるように。そしてその手に戦いの武器を持つことができるように。そして全日本に触れるほどの信仰の共同体となりますように。そして世界の国々に拡がりますように。あなたの御名によって祝福します。アーメン。