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『究極の勝利を目指して パート3
〜何を目指して生きるのか?〜

2013.4.7 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
コリント人への手紙第一15章20節〜26節

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。』


 ハレルヤ!おはようございます。今日は足下の悪い中、また、春の嵐の吹き荒れる中、お集り下さり、共に主を礼拝できますことを、心から感謝します。
 二〇一三年度が始まりました。今日は、新しい年度にふさわしい礼拝ではないかと思います。新しいことが起こっている感じですね。
 先ほどの「エージェント」の賛美も本当に良かったですね。若者らしいというか、プロジェクターの文字まで高校生文字でした。ストレートに主を信じ、人生を歩んだら決して間違いはありません。

 先週は復活祭でした。イエス様がよみがえられた記念日でした。主はよみがえられ、今も、生きておられます。また、私たちに生きる権威を授けてくださるお方です。
 今年の御言葉を、何回か紹介しましたけれど、新年度の始まりにあたり、もう一度、確認したいと思います。ルカの福音書十章十九節。すでに覚えておられると思います。ご一緒に宣言しましょう。

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 アーメン!『確かに、わたしは』という『わたしは』とは、イエス様のことです。『あなたがたに』というのは、私たちのことです。ですから『あなたがたに』という所を、「私に」または「私たちに」と、どちらでも良いですが入れ替えて宣言しましょう。「私たちに」と言う方は、家族を代表し、「私に」と入れる方は自分を強調して、どちらでもよろしいですから、入れ替えて宣言しましょう。

「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、私たちに害を加えるものは何一つありません。」

 大きな拍手を主に捧げましょう、ハレルヤ!この御言葉が、今年度の御言葉として一年間、いや永遠にまで続くことを宣言します!

 人間にとって一番生き甲斐がないというか、がっかりする事は何でしょうか。それは「生きる目的がない」事だそうです。何の目的もない人生ほど、辛い人生はないといわれます。
 かつてロシアで、ある拷問の方法があったそうです。どんな拷問かというと、鞭で叩くとか、水攻めにするのではないのです。最初、二つの砂山を作っておいて、右の砂山から、左の砂山に砂を移させるのです。移したら、今度は自分で作った砂山を壊して、右にすべての砂を移させるのです。また右に砂山ができたら、壊してまた移すのです。その作業を繰り返させると、大体の人間は頭が狂うそうです。なぜなら、その作業には、全く意味がないからです。目的がないと、人は生きることができなくなってしまうそうです。
 近頃、多くの人たちが人生に悩んでいます。その原因として、「人生の目的がない」というのが、根底にあるのではないかと思われます。
 さて、みなさんは、何を目的に生きておられるでしょうか?

 新年度は、新しい目標に向かって歩み出す時期でもあります。新城教会からも、中学生が高校生になり、高校生が大学生になり、大学生が就職するという、様々な新しい出発がありました。
 うちの三歳の孫も先週は保育園に入園しました。この頃は「こども園」と呼ぶらしいですが、ちょっと前まで赤んぼだと思っていたのが、制服なんか着ちゃいまして、ピンクのネームプレートを付け、防空ずきんのような帽子をかぶって登園する姿を見て、じいじとしましては、ちょっぴり感動すると共に、複雑な気持ちでした。
 私の父、ひいじいちゃんが「おぉ架語、おまえもついに人生が始まったな」としみじみと彼女に語っておりました。人生は、それぞれ始まっていくわけです。

 人生は一つの目的が達成されると、また次の目標が設定される繰り返しです。なかなか大変ですよね。こども園に入ったら、次は小学校が待っています。六年間は長いです。私も小学校の六年間はすごく長かった印象があります。続く中学校の三年は「これからまた三年か…辛いな…」と思っていたけれど、案外簡単に終わりました。高校は「あれ?」という感じで終わりました。そして大学の四年間なんて「もう終わっちゃったの?」って感じでした。そして気が付いたら、この通りです。本当に人生は早いですね。

 この頃、私も昔話が多いのですが、気が付けば昔を振り返るような年になってしまったわけです。
 前回、「僕の人生」という曲を途中で止めたら、「全部聴きたかった」という人が多かったです。「なんで途中で止めてしまったの…」と何人かに言われました。でも今日は止めておきます。人生は早いものですね。人生は目的を持って生きると、満足感があります。目的をもつことはたいへん重要です。
 
 ところで私たちは、イエス・キリストを信じて生きているわけですが、信仰のゴールは、一体何処でしょうか?
 先週は復活祭がありました。復活祭は、毎年、この地上だけでなく、永遠の世界、死後の世界にまで目を向ける時でもあります。なぜかというと、毎回「召天者記念会」があるからです。それは、かつて共に礼拝を守り、先に天に帰られた方々のことを思い出しながら、やがて天国での再会を望み、神を礼拝する集いです。
 人生の目的は、天にあります。辛くても、やがて天国に行けるという目標があります。私たちクリスチャンの人生は、地上だけで終わりません。永遠の国に思いをはせながら、その国を目指して生きるのです。地上では旅人ですが、やがて天の御国に着く希望があるのです。

 先週もお話ししましたが、毎年、地上で別れた人たちと再会する日が、近づいているのです。それはすばらしいことです。新城教会は設立されて六十年以上になりますが、六十年近く前に天に帰られた方々の写真も、プロジェクターで映し出されました。普通ならどうでしょう。仏教の世界なら、死んで数年は一生懸命法事をするかもしれません。しかし五十年、六十年経ったら、「やらないと祟られるかもしれない…」という、恐れでやるわけです。
 しかし私たちは違います。六十年前に別れた人でも、たとえ百年前に別れた人でも、「やがて天で会うことができる」という、希望があるのです。私たちは天国を目標に歩むことができるのです。

 二〇一三年度が始まりましたが、お一人一人、短期目標もあるかもしれません。しかしそれだけでなく、「永遠目標」で日々を歩みたいものです。
 また、教会においては「リバイバル」という目標があります。私たちは日本のリバイバルを目指して歩んでいます。今年こそ、主が日本に訪れてくださるように、先ほども「主よ来てください」という賛美が、プレイズ・タイムで歌われましたが、目的を持って歩むことが重要です。

 このように、私たちは目標を持って生きるわけですが、「究極の目的・目標」とは何でしょうか。それを信仰生活の中でしっかりと握っておく事は、たいへん重要です。そこにゴールを定め、信仰生活を送ることは重要です。なぜならそれが「究極の勝利」につながるからです。
 今まで、三回シリーズで「第一コリント人への手紙十五章」から学ばせていただいていますが、初代教会の人々は、どんな心構えで毎日を生きていたのでしょうか。何を強く意識して、生きていたのでしょうか。新約聖書を見ますと、それが分かります。
 第一ペテロの手紙四章七節にこんな言葉があります。

『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。』

 この言葉が記されたのは、今から二千年ほど前です。二千年前の初代教会のクリスチャンたちが、「万物の終わりが近づいた」と、常に危機感を持って祈り、心を整えていた姿を伺うことが出来ます。
 それからすでに二千年経っているわけですから、私たちは初代教会の兄弟姉妹以上に、「万物の終わりが『さらに』近づきました」という思いで、日々を過ごす必要があります。
 そのことに関して、二回に渡って語らせていただいたのですが、第一コリント人への手紙十五章二十節〜二十六節から、信仰生活の目的・目標を学ぶことが出来ます。それが「究極の勝利」につながることを知ることが出来ます。
 二十節から読んでみます。

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。』

 ここには、私たちが目指すべき「究極の目的」と「究極の勝利」が記されています。やがて私たちは終わりの日を迎えます。しかし終わりの日とは、「主が再び帰られる日」です。
 みなさん、この時間の継続の先に、主がもう一度帰られる日が含まれているのです。それを「再臨」と呼びます。
 みなさん、その日が来るのを信じますか?「アーメン!!」
 イエス様は再び、この地に帰って来られるのです。今から二千年前、イエス様は、人の子として地上に来てくださいました。しかし、次に来られるときには「万軍の主」として、「王の王・主の主」として、地を治めるために戻って来られるのです。私たちの未来に、そのような輝かしい日が待っているのです。

 そのスケジュールについては、聖書を詳しく学ばなければなりません。聖書を詳しく学びたかったら、是非とも「リバイバル聖書神学校」にご入学ください。聴講もできます。
 昨年度は八名の方々が、修了し、卒業されたのですが、今年度は十名の方々が入学してくださいました。さらにもう少し、人数が増えるみたいです。聖書を詳しく学ぶことは重要です。
 聖書は再臨について「一.○○。二.○○○」と箇条書きにしているわけではないので、全体を読んで理解する、考察が必要なわけです。それが神学です。ゆえに、ある視点から解釈すると、一つの結論でも、違った角度から解釈すると、それとは違った結論が出る場合があるのです。
 特に、終末に関しては、様々な考え方や論議があります。しかし様々な角度から、聖書を理解する態度を養う必要があります。それが最終的に、偏ることのない、聖書の正しい理解につながるのだと思います。

 やがて主は、空中にまで帰って来られるという「空中再臨」があると言われます。しかし、空中再臨の前に、七年間の患難時代が来る、いや、空中再臨が終わってから、七年間の患難がある、という二つの説があります。
 さらには空中再臨はなく、地上再臨だけだと主張する学者もいます。どれが本当なのか、主が帰って来られた日にしか、分からないこともあります。

 けれども、確実に言えるのは、さまざまな論議は横に置いても、「主が再び帰ってこられる」ということは、「確実であり、確か」です。
 
 先週はイエス様の「復活」の意味について話させていただきました。十五章二十節に、

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』

 「初穂」とは、初めに出る穂です。初穂に続いて、新しい穂がどんどん出るのです。ということは、イエス様が初穂なら、次につながる人たちがいるのです。それが誰かというと、なんと、私たちクリスチャンです。十五章二十三節に、

『しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。』

 「イエス様は神様だから、よみがえるのは当然!」と私たちは考えるのですが、イエス様のよみがえりは、「初穂としてのよみがえり」です。すなわち、「後に続く者がいる」事を意味しています。それは誰かというと、「イエス・キリストを信じた者」なのです。
 人はこの地上に一定期間しか生きることはできません。やがて天に帰らなければいけないのです。しかし、それだけで終わりではないのです。
 教会では人生の四季を体験できます。赤ちゃんが生まれましたという報告が今日も週報にもありました。時には、お葬式もあるわけです。牧師は様々な人生の局面に関わらなければなりません。葬式はやっぱり寂しいです。

 考えたら、人類は百年も経ったら総入れ替えです。百年経ったらどうでしょうか。今日生まれた赤ちゃんだって、死ななければならないのです。今、政治が、経済がどうのこうの言っていますけれど、どんなに偉大な政治家・権力者が出たとしても、百年以内には全員、地上からいなくなります。
 百年後、この場所に戻って来たらどうでしょうか。もしかしたら、この会堂はまだ残っているかもしれません。鉄筋コンクリート製ですから、残っているかもしれないです。また、みなさんの座っている椅子も、もしかしたら、残っているかもしれません。今の椅子も三十年以上経っていて、かなりぼろいですが、さらにぼろぼろになって、スプリングが出ておしりに刺さりそうな状態で、残っているかもしれません。

 しかし残念ですが、今、座席に座っておられるあなたは、ここにはいません。百年後、「すいません。この辺に、百年前、滝元さんという人が住んでいたと思うのですが、知りませんか?」と聞いたら、「滝元さん?知りませんね。そんな人は」と、誰も私のことなんか、覚えていないと思います。百年経ったら、人類総入れ替えです。
 その人たちは、どこに行っちゃうのでしょうか。消えて無くなるのでしょうか。そうではありません。永遠の世界があるのです。
 イエス・キリストを信じる者たちは、神と共に永遠を過ごすのです。しかし信じなかったら、「永遠の滅び」です。それは本当に大変なことです。

 イエス・キリストを信じるなら、永遠の国に入るのです。けれども、それだけで終わりではないのです。イエス様がよみがえられたのは、再臨の時、先に天に帰った聖徒たちが、よみがえる為の初穂としてよみがえられたのです。

 私たちの究極の目標は何でしょうか。それは「よみがえり」です。やがて私たちはよみがえるのです。ちょっと、信じられないですね。
 先週もお話ししましたが、一般的に宗教をこしらえるとしたら、教えの中によみがえりなんていう、極端な教えは入れない方がいいと思います。死んだら天国に行って終わり。その方がいいです。なぜなら、そんなこと言ったら「この宗教は大丈夫か?」と言われますから。
 でも聖書はすごいです。からだのよみがえりが、究極的勝利だと述べているからです。

 誰かが亡くなって火葬が終わり、骨になったときは本当に寂しいです。二時間くらい前まで、顔を見ることができたわけです。けれども、火葬を終えて出て来た時に残っているのは骨だけです。本当に、「この人の人生って、一体、なんだったんだろう?」と考えてしまします。
 しかしみなさん。体が滅びてしまうように見えるけれど、やがて栄光のからだによみがえるというのです。本来「救い」とは、「究極の救い」でなければ、救いと呼ぶことは出来ないはずです。
 ある一定の期間だけの救いなら、本当の救いではなくなります。死んだら救いが終るとか、一定の期間で救いの効力がなくなるなら、それは本物の救いではないのです。
 死んでしまって体が無くなったら、肉体は滅びたわけですから、本当の救いではありません。しかし二度と朽ちることのない、栄光のからだに作り替えられるのです。それこそ、本物の救いです。

 主は先に天に帰った人たちを連れて来られ、地上に残っている体の片鱗を使い、栄光のからだへと再創造されるはずです。「そんなことあるわけない」と思うかもしれません。けれども、現代科学は、よみがえりの可能性を示唆しています。
 日本人は骨を礼拝します。なぜ、骨を拝むのかというと、骨の中に霊が宿っているという考え方を持っているからです。しかしクリスチャンは、骨を拝むことはしません。骨なんて考えてみれば、カルシウムの塊です。あんな物をなんで拝むのか不思議です。

 しかし一方、骨には神秘的な部分もあります。骨は焼いても残ります。何年か前、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの遺骨とされる骨が、北朝鮮から返還されました。その時、日本は何をしたかと言うと、その骨の遺伝子を解析したのです。そうしたら、骨に残っていた遺伝子は、めぐみさんの遺伝子とは全く違う人の遺伝子でした。それで「この骨は違う」と言って、骨を北朝鮮に突き返したのです。
 人間って、死んだら全てなくなってしまうように見えますが、神様がその人の為に書いた設計図、DNA配列は地上に残るのです。骨の中には、個人のDNAが残っているわけです。人類は枯れた骨からも、個人を特定する技術をすでに持っています。さらに近頃は、iPS細胞と言って、新しいいのちや器官まで、再生可能な技術さえ、習得しつつあります。人間でも、そこまでできるとしたら、神が人を再生できないはずがありません。一欠片でもDNAが残っていたら、古い設計図を元にして、二度と朽ちることのない、栄光のからだを創造するくらい、神にとっては容易いはずです。

 家のリフォームをしたことがあるかもしれません。リフォームは元々の図面を使いながら、よりよい家に作り替えるのです。また、新築する時は、昔の古い家より、もっと高機能な家を作ります。神様も同じだと思うのです。時間の経過と共に、朽ち果てていく体を元にしながら、栄光のからだに作り替えてくださるのです。
 第一コリント人への手紙十五章五十節〜五十二節にこのように記されています。

『兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。』

 この描写は、再臨の瞬間を表しています。もしも再臨の時に私たちが地上にいたとしたら、まずは先に天に帰った聖徒たちが、栄光のからだによみがえるのです。そして次に、私たちの体が、「一瞬にして」栄光の体に作り替えられるのです。
 「あれ?」気づくと瞬間的に、よみがえりのからだに変わっているのです。
 みなさん。そんな日が来るのを信じますか。「そんな事、絶対に信じられない!」と言うかも知れません。しかし、今日のメッセージをよく覚えておいてください。みなさんの人生の延長線上に、それを体験しますから。
 「そういえば昔、教会で聞いた事あったな。私の体が変わった!」と気づく日が来るのです。栄光のからだに、一瞬で、朽ちないものによみがえるのです。
 しかし血肉のからだではだめだというのです。それは何を言っているのかと言えば、「イエス・キリストを信じてないとだめだ」と言うことです。主を信じない者は、ただ、血肉のからだだけです。その人たちは復活にあずかることは出来ません。
 しかし主イエス様を信じたら、御霊のからだが与えられ、復活できるのです。終わりの日に、もしも地上に残っていたとしたら、死を体験することなく、一瞬にして変えられると約束しています。そして究極的な勝利が現されるのです。
 最初に読んだ聖書の箇所、第一コリント人への手紙十五章二十六節、

『最後の敵である死も滅ぼされます。』

と約束されています。イエス様の十字架の勝利は、死の霊であるサタンを打ち破ったことです。ということは、究極的勝利は、私たちが復活する時に与えられるはずです。その日を目指し、私たちは歩んでいるのです。
 『最後の敵である死も滅ぼされます』…イエス様は、十字架に架かって死んだだけでなく、よみがえってくださいました。それは私たちがよみがえるとき、「死が滅ぼされた」という言葉が実現するためでした。
 その日を目標にして人生を歩みなさいと、教えています。よみがえりの日、敵であるサタンが究極的に敗北するのです。私たちは、究極的な勝利を最終的ゴールとし、人生を歩んでいくのです。

 イエス様がよみがえって後、天にお帰りになりました。その後、聖霊が注がれて教会が誕生しました。今はどういう時代かというと、再臨の日までは教会の時代です。今は、教会を通して、人々はイエス・キリストを知り、永遠のいのちをいただくことができるのです。現在、私たちは「教会の時代」に生きています。
 「教会」には重要な使命があります。エペソ人への手紙三章八節〜九節でパウロは次のように述べています。

『すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。』

 教会には、どのような目的があるのかというと、一つは、『この恵みが与えられたのは、キリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え』という、「福音宣教」にあります。教会を通して福音を伝えるという、大きな使命が教会には託されているのです。
 イエス様は公生涯として三年半、過ごされました。その時イエス様は、街々・村々に出て行って、福音を宣べ伝えられました。
 その使命は弟子たちを通して、教会に託されたわけです。今の時代、教会の使命は「福音を伝える」という使命です。この使命は、やがてどこにつながるのかと言うと、マタイの福音書二十四章十四節、

『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

 教会が福音を宣べ伝える使命は、仲間を増やすという目的ではありません。福音が全世界に宣べ伝えられ、あかしされると「終わりの日が来る」というのです。イエス様の再臨を早めるためには、教会が「福音宣教」をしなければならないのです。それも、「全世界」に、宣べ伝えなければならないのです。この解釈は、全ての国々と言うよりも「すべての民族」という、言語グループであると言われます。

 現在、「全日本リバイバルミッション」では、アジア・環太平洋ミッションというプロジェクトを実行しています。その一環として、昨年は台湾でミッションを開きました。
 今年の環太平洋ミッションは、日本の「和歌山」で八月に開催されます。和歌山県は何処にあるか知っていますか?環太平洋に接して、位置しています。今年は和歌山のために祈りましょう。
 昨晩、テレビを見ていましたら、NHKスペシャルで、今度地震が起こるとしたらどこかについて、最新の科学による検証がなされていました。一番危ないのが、四国沖から和歌山にかけてだそうです。和歌山には住みたくないな、と思います。
 今朝は、和歌山からも来られた方がおられますが、気を付けてくださいね。あの近所に、最も大きなストレスが貯まっており、地震が起こりうるそうです。
 そして、もう一つ危ないのが東京らしいです。東京は、本当に危ないらしいです。東京と四国から和歌山近所に住んでいる方々は、気を付けなければいけません。でも一番危ないのは、その真ん中に挟まれている東海地方です。
 いずれにしても、日本には、逃げ場がないです。今日本は本当に危ないというのです。急いで福音を伝えなければなりません。
 いつ何時、終わりが来るのか分りません。特に、環太平洋に福音を伝えるようにと主は語られています。
 私たちは主が帰って来られる日をめざし、福音を伝えるのです。

 教会が福音を伝えないと、イエス様は、なかなか帰って来られません。歴史はどんどん引き延ばされ、地上にはどんどん人が生まれ、多くの人が滅びに行ってしまうのです。この辺で、主に帰って来てもらわないといけないと思います。日本に大きな災害があって、大勢の人たちが死ぬ前に、イエス様に帰って来ていただきたいと切に願います。そのために必要な事は、「福音を伝える」ことです。

 それと共に、教会には宣教と表裏一体の使命があります。今読んだエペソ人への手紙三章十節〜十一節に次のようにありました。

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。』

 『これは、今、天にある支配と権威とに対して』とは何を意味するかというと、「悪魔と悪霊どもの勢力」です。なんと教会とは世界で唯一、悪魔と悪霊どもに対抗できる組織であり、神の軍事基地です。地上に置かれた、天の軍事基地です。
 教会を通して、天にある支配と権威と戦うことができるのです。これは「奥義」だとパウロは述べています。これが、神の永遠のご計画に沿ったことだというのです。
 神の奥義、神の永遠の計画のスケジュールの中で、教会時代において神は何をさせたいのか、それは、悪しき支配と権威に立ち向わせることです。この二つの大きな使命を教会に託しておられます。

 この使命が果たされると、主が地上にお帰りになられるのです。初代教会の人たちは、すぐにでもイエス様が帰って来られるくらいの危機感を持って過ごしていました。でも、あれから二千年も経ちました。「なんだ。イエス様は帰って来られないじゃないか。聖書は嘘じゃないか。」と言うかも知れません。
 しかし嘘ではないのです。なぜ帰られないのでしょうか。それは教会が使命をまだ、完全に果たし切っていないからです。

 世界には「未伝地域」と呼ばれる場所が数多く存在します。福音が伝えられていない地域です。一番うまく福音が伝わっていないのが、もしかしたら日本かもしれません。福音を受け入れるか否かは別にしても、まずは伝えることが重要です。特に、福音が伝わっていない地域が、アジアに広がっています。10/40ウインドウと呼ばれる、北緯10度から40度の地域に、未伝地が特に集中しています。
 神様は公平なお方です。「すべての人たちに、一人残らず、福音を伝える」という使命を教会に与え、その使命を果たすように励ましておられます。

 しかし、この使命は、ほとんど完成しているかと思われます。今はインターネットの時代です。メディアが発達しているので、どの国の人でも、福音を聞くチャンスがあるからです。
 今日、こうして礼拝を守っていますけれど、同時に、二十数名から三十名くらいの方々が、インターネットで新城教会の礼拝に出ておられます。私はその方々にも、ここから挨拶します。地球の裏側からも、礼拝に出ているのです。私がペルーに行った時、ペルーから新城教会の礼拝に出たことがあります。午後からはインターナショナルの集会がありますが、それもネットで中継しています。ペルーとか、ブラジルからも、礼拝に出ることができるわけです。どんなに迫害されているような地域でも、インターネット環境さえあれば、誰にでも福音を伝えることができる時代です。だから教会の使命、福音宣教はかなりの率でカバーされていると思われます。その事から考えても、終わりの日は近づいています。

 ではなぜ、イエス様はいまだに帰ってこられないか?それはもう一つの要素に、着目しなければならないと思われます。教会は、天にある支配と権威に対抗する特殊な場所です。教会は、「霊的戦い」という使命を負っているのです。
 「全日本リバイバルミッション」の働きは、宣教と、宣教に伴う霊的戦いです。霊的戦いについて、いろいろと批判されたりするのですが、霊的戦いがなぜ必要なのか。それは地上軍である教会がどのくらい、地上における霊的戦いを前進させるのかによって、主がお帰りになる日が決まるのではないのでしょうか。
 教会の使命は、福音宣教と、霊的戦いです。暗闇の勢力に立ち向かうという使命を果たしていく中で、やがて見えない世界で勝利が勝ち取られ、主がお帰りになる道が備えられるのではないでしょうか。

 私たちは日々、福音を伝え、霊的戦いの働きをしています。先週も、いろいろな場所でとりなし祈ってくださったと思います。それは何のためでしょうか?霊的戦いによって、ちょっとでも霊的環境が良くなれば良いくらいに考えているのかもしれません。しかし、そうではないのです。この戦いは、主の戦いであり、見えない世界で勝利が確立する時、天の司令官であるイエス様が、地上に戻って来られるという、再臨と霊的戦いが、密接な関係にあると私は考えています。
 ゆえに、日々の戦いを、「主の再臨」と「体のよみがえり」という、究極のゴールを目指して戦い続けなければなりません。どんなに小さく見える戦いでも、それは主の再臨と、大きな関わりがあるのです。
 日々の働きを通し、主の再臨を一日でも、二日でも、早めることができたら感謝です。そんな気持ちで、私は福音を伝え、霊的戦いに励んでいます。

 この新年度、一人一人の働きはイエス様の再臨と、体のよみがえりをゴールとする、重要な働きです。私たちは究極の勝利を目指した、重要な霊的戦いのただ中にいるのです。

 一九四一年八月十五日。太平洋戦争が始まりました。当時のことを知っておられる方も、ここには多くおられると思います。初め日本は制海権を握り、アジア諸国に順調に攻めて行きました。「日本はアメリカに勝つかもしれない」と、始め、日本国民は思ったわけです。
 しかし、その後、アメリカをはじめとする連合軍が巻き返し、ミッドウェー海戦で敗北したことを機に、負けに転じました。先に征服した地域を連合軍にどんどん制圧され、ついに、一九四五年の八月十五日。ポツダム宣言を受け入れ、日本は降伏したのです。
 当時の日本は、国家神道に支配され、教会も大きな迫害を受けました。その中で教育を受けた方々もおられます。困難な時代を通過された方々も多くおられます。
 しかし一九四五年の八月十五日、日本が降伏した後、何が起こったのでしょうか。
 この写真をご存知でしょうか。多くの人が知っている大変有名な写真です。

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 この写真は、日本海軍の厚木飛行場に、連合軍司令官であった、ダグラス・マッカーサーが到着した日の写真です。これがタラップを降りる瞬間の写真です。

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 これがいつかというと、一九四五年八月三十日です。日本は八月十五日にポツダム宣言を受けて降伏したのですが、八月三十日、今まではアメリカにとっては敵国の飛行場に、連合軍司令官マッカーサーが降り立ったのです。彼の足が日本の土を踏んだ瞬間、何が起こったのかというと、日本を支配していた、あらゆる支配、あらゆる権力・権威が滅ぼされ、日本はGHQの支配を受けることになったのです。その後、全く新しい国作りが始まったのです。
 それを実際に体験された方々も、この中には多くおられると思います。今まで使っていた教科書は墨で黒く塗られました。「私は教科書に、墨を塗った体験がある」という方は、どのくらいおられますか?「いや〜、何人もおられますね。」
 今までの日本が真理であると考えていた事柄が、すべて否定され、その部分を黒く塗ったのです。
 司令官が日本に着陸した瞬間、日本のあらゆる権威・権力・支配は滅び、全く新しい支配を受けるようになったわけです。

 みなさん。これは霊的にも同じではないでしょうか。
 私たち教会は、神から遣わされた地上軍です。私たちが福音を伝え、悪しき力に立ち向かって行く時、悪魔の軍勢と神の軍隊である教会が激突します。その戦いを通し、悪魔の軍隊はどんどん支配権を失い、最終的に、彼らが降伏する日が来るのです。悪魔・悪霊どもの軍隊が、神の国のポツダム宣言を受け入れる日が来るのです。
 その時、何が起こるのでしょうか。天の司令官が、この地上に到着されるはずです。聖書はその瞬間について預言しています。

『そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。』

 悪魔の支配下にあった地球に、天の司令官が下りて来て、この地球を悪魔から取り返し、父なる神にお返しになる日が来るのです。

 その日、聖徒たちはよみがえります。地上で主を迎えるクリスチャンの肉体は一瞬にして、栄光の体に変えられるのです。二度と死ぬことのない、死に打ち勝った、栄光のからだによみがえるのです。その日、地上に残っていたとしたら、なんと幸せでしょうか。
 その瞬間、教会は死に打ち勝つのです。

 イエス様が復活したのは、私たちの復活を示しています。究極の勝利を目指して、目標として、歩んで行きなさいと聖書は励ましています。
 日々の歩みには、様々な目標があるかもしれません。しかし究極的な勝利を目指し、私たちは前進するのです。
 何を目指して生きるのか、主が地上に戻って来られ、よみがえる日を目指して生きるのです。主と共に世界を治める日がやがて来ます。
 そのためには、どうしたらいいでしょうか。条件として、福音を宣べ伝え、天にある支配と権威に立ち向かうことが重要です。

 聖書の結びの言葉は、ヨハネの黙示録二十二章二十節〜二十一節です。これが最後の言葉です。

『これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。』

 この言葉で聖書は結ばれています。イエス様はすぐに帰って来ると言われます。私たちも「帰って来てください!」と言わなければなりません。主をお迎えする道を備えなければなりません。

 できることなら、死を体験しないで、地上でイエス様をお迎えできる光栄にあずかりたいですね。イエス様がタラップを降りられる時、レッド・カーペットを引く役割があるかどうか知りませんが、その役割に任じられたら最高です。
 終わりの時代に生きることができるのは、幸せなことです。

 しかし、たとえ天に先に帰ったとしても、イエス様が再臨される日は、地上に戻って来て、よみがえりを体験するのですから、それもすばらしいです。
 私たちは、そのどちらか分かりませんが、今の時代を生きるのは、本当にすばらしい特権です。

 まもなく終わりのラッパが鳴る日が来ます。それを日々意識しながら、同時に、落ち着いた生活をしなさいとも聖書は語っています。「もう再臨が来るんだから!」と、舞い上がっていてはいけないのです。第一テサロニケ人への手紙四章十一節には、

『また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。』

 落ち着いた生活をし、自分の仕事に身を入れて働いていただきたいです。私たちは、主が帰って来られる道を整える、地上に遣わされた兵士の一人です。最後に一つの賛美をしたいと思います。

♪世の終わりのラッパ鳴り渡る時♪

1.世の終わりのラッパ鳴り渡る時
世はとこよの朝となり
救われし者はよものすみより
すべて主のもとに呼ばれん

※そのときわが名も
そのときわが名も
そのときわが名も
呼ばれなばかならずあらん

2.その時眠れる聖徒よみがえり
栄えのからだに変わり
我らも共にたずさえ上げられ
空にて主にあいまつらん


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。私たちは地上軍として、地上の戦いを戦っています。この戦いを、今週も、今年度も、前進させてください。あなたがお帰りになる日が近づいていることを、心から感謝いたします。その日を目指し、私たちは戦い続けます。主よ、私たちを励まし、聖霊によって力づけてください。二〇一三年度は、宣教がさらに拡大しますように。また、暗闇の力がさらに打ち砕かれ、天の司令官が地上に帰ってくださる日が近づきますように。
 一人ひとりの上に、豊かな祝福と恵みがありますように。
 主よ来てください。イエス・キリストの御名によって、今から聖餐式をおこないます。このひとときを祝福してください。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げします。アーメン。