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『主の道を備え、
道筋をまっすぐにする者たち

2013.5.5 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書 3章1節〜6節

『そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。』


 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日も共に、礼拝が守れますことを感謝します。今も「歌いつつ歩まん」という、素晴らしい聖歌隊の賛美を聴かせていただきました。日々、賛美しつつ生活できることを心から感謝します。
 今日はゴールデンウィークで、明日まで休みかと思います。教会はゴールデンウィークが一番忙しいわけですが、みなさんはどのように過ごしておられるでしょうか。
 今日は特に忙しい日になります。礼拝が終わりましたら、二時から「子ども礼拝スペシャル」があります。毎週、礼拝と並行して、隣の施設で子どもたちのための礼拝が持たれていますが、今日は、子どもたちのためのスペシャル・プログラムが中庭であります。みなさんもぜひ、励ましてあげてください。
 四時からは、インターナショナル集会があります。また、それと並行し、全日本リバイバルミッションのゴールデンウィーク「PP聖会」が始まります。毎年は、二十四時間賛美でしたが、今年はちょっと趣向を変え、聖会です。おちついてメッセージを聞く集会です。
 今年は「和歌山ミッション」が、八月に和歌山市で開催されます。この働きは「アジア・環太平洋ミッション」の一貫で行われます。和歌山は太平洋に面しています。

 今回、和歌山ミッションのテーマにあった食事はないかなと考えていました。それで、和歌山と言えばやはり、鯨だろうという話が出たのですが、鰹も多く捕れます。それで、鰹と言えば岡本信弘先生。信弘先生といったら鰹。彼は若い頃、魚屋でした。鰹で若き日の財を得、車を買った人物です。それで、先生が鰹をたくさん仕入れ、鰹パーティーがあります。鰹を食べながら「和歌山リバイバルミッションのために祈りましょう」という、お楽しみ集会です。ゴールデンウィークの最後を、共に教会で過ごしたいと思います。
 今日の夜は有賀先生がメッセージしてくださいます。全日本リバイバルミッションは、今年、二十周年です。それで甲子園ミッションのビデオ上映会もありますので、是非お越しくださいませ。
 また、明日の早朝は、「早天山頂プレイズ」です。滝元開先生が本宮山頂にバンドも一緒に連れて行って、賛美するそうです。明日の朝、耳の良い人は山の下でも賛美が聞こえるはずです。賛美とメッセージが、二日間続きますから、ぜひともお出かけ下さい。

 この頃、新城教会では葬式が多くあります。昨日もありました。三週間以内に四つ葬式がありました。「葬式が多いねぇ」と言いますが、こんなに多くの葬式をやらせていただける教会は、日本中でも多くはないかなと思って、感謝しています。
 誰かが亡くなるのは決して好きじゃありません。しかし、葬式を司式させていただけるのは光栄です。その方の人生の最後のイベントを導かせていただけるのは光栄な仕事です。
 昨日は、ご一家で教会に来られている伊藤さんのお母さんが亡くなられました。お母さんは十五年前に洗礼を受け、教会に来られていたのですが、近ごろは体を弱くし、療養中でした。七十九歳。老衰で亡くなられました。

 三週間弱で四件のお葬式は、予定が立ちませんのでちょっとたいへんでした。
 上條実先生から私の所に、時々、電話がかかって来ます。良い話しは今までほとんどありません。夜かかってきたら「誰が亡くなったのだろう?」という感じです。「飯食べに行こう」とか「何かあげる」という電話は来ないのです。ほとんどが、葬式司式依頼の内容です。でも、彼の役割ですので文句は言えません。
 なんで数週間に四件も葬式が連続するのかなと思って祈っている時、主が御言葉を与えてくださいました。それは葬式の時、よく読む御言葉ですけれど、テサロニケ人への第一の手紙、四章十三節〜十八節です。この御言葉が、心に浮かんできました。

『眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。』

 『眠った人』と表現されているのは、亡くなった人のことです。イエス様を信じて死んだ人のことを『眠った人』と表現しています。
 一般なら暗くなって葬式なんか好きじゃないと思うわけですが、クリスチャンにとってはそうでもないのです。
 葬式が続いたら、何に気づかなければいけないかといったら、「先に天に帰った人たちは、やがてイエス様が再臨される時、一緒にこの地に戻って復活する」という事です。その事を思って、互いに励まし合いなさいと言っているのです。

 近ごろ私は「再臨と復活」について語るように、主から強く促されています。誰かが亡くなったら、それで終わってはいけないのです。イエス様は再び帰って来られ、彼らは復活するのです。
 もしもイエス様が地上に帰って来た時、私たちが生き残っているなら、瞬間的に栄光のからだによみがえり、『たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ』、空中で先に天に帰った兄弟姉妹をはじめ、イエス様と顔と顔を合わせるのです。
 誰か天に帰った時は「主が帰られる日に、復活することを思いなさい。この言葉で、互いに慰め合いなさい」とパウロは告げています。

 四件の葬式は、いずれもご高齢のおばあちゃん方でしたが、四人も集中して天に帰られたのは、何を語られているのでしょうか?
 それは、「もうすぐ、主は帰って来られます!」ということだと思います。その日は、先に天に帰った人たちがよみがえる日なのです。そして私たちも、よみがえるのです。
 パウロはテサロニケの教会の人たちに手紙を送ったのですが、「生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられる」と記していますから、自分は地上でイエス様をお迎えできると、堅く信じていたようです。

 しかしそれから、二千年近く経ちました。ということは、今の時代は本当に、救いが近づいた時代なのです。そのことを主が印象づけるために、短い期間に四人も、天に引き上げられたのではないかと思います。
 その事を意識し、目標をもって日々を歩んで行きたいと願います。これからは、終わりの日の究極的勝利を見据えた働きをしたいです。

 今日、テキストとして選ばせていただいたのは、マタイ三章一節から六節です。この箇所はイエス様が公に人々の前に現れ、宣教を開始する前、一人の男が現れたことを現しています。その人の名は「ヨハネ」です。彼の働きは、人々を悔い改めに導き、バプテスマを授ける役割でした。ですから彼は「バプテスマのヨハネ」と呼ばれました。バプテスマのヨハネの漫画が、インターネットに転がっていましたから、持って来ました。

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 彼は人々に、バプテスマを授ける働きをしていました。イエス様とバプテスマのヨハネは親戚関係にあったようです。しかし、どのくらい親交があったかについては、詳しく分かりません。イエス様のお生まれも預言者イザヤによって詳細に預言されていたのですが、バプテスマのヨハネについても、イザヤによって預言されていました。

 彼の使命は、三章三節に『この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。』と預言されていたのです。
 バプテスマのヨハネの使命は、『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする』働きでした。

 新城教会では、毎週、いろいろな家庭で家庭集会をしています。隔月だとか隔週だとか、いろんなタイプがありますから一週間にどのくらい集会があるのか分からないのですが、全体で四十箇所くらいになる時もあります。結構多くやっています。中には二十年以上、集会をやっている家庭もあります。この間も、あるお宅にお邪魔した時、「この家庭集会は何年になりますか?」と聞くと「うちは二十七年になります」と言われました。よくやってきたと思います。ある集会は、山の中の家で開かれています。

 去年はここから一時間以上山の中に入った、豊根村でコンサートが開かれました。豊根村でも、かれこれ二十数年に渡って、家庭集会が開かれています。私は豊根村の家庭集会の担当です。二十年以上前、豊根村に行くのは本当に大変でした。道がぐにゃぐにゃ曲がっていて、その上、でこぼこ道で本当に苦労しました。特に下りは、谷底に落ちるのではないかと、ひやひやしながら帰って来たものです。しかしこの頃は、快適に行けるようになりました。なぜなら、道がまっすぐになったからです。

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 曲がった道は走りにくいし、時間がかかります。でも、このようにまっすぐな道になったら、あっという間に到着するのです。

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 この頃、日本も道が良くなり、曲がりくねった道がまっすぐに整備されています。

 ヨハネの働きはどういう働きだったかというと、『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』という、ぐにゃぐにゃに曲がった道、でこぼこな道を平らにし、まっすぐな道を作る使命でした。その道が完成した時、イエス様が登場されたのです。

 相撲が好きな人がいると思いますが、相撲は結構偶像礼拝と繋がりがありますから、微妙な所があるのですが、横綱が出て来る前には必ず、「露払い」という力士が出てきます。
 露払いの元の意味は、高貴な人が通る前に身分の低い人が、昔は道路に草が生えていて、朝露で濡れていたわけですが、露払いが分け入って、露を払って高貴な人が通れる道を作ったのです。露払いが来たら、必ず、その後にお偉い様が出て来るのです。
 コンサートも始めに「前座」がいます。前座が出たら主役が出るというサインです。落語も、前座の落語家が出たら必ず、真打ちが出てくるのです。
 バプテスマのヨハネは前座であり、露払いでした。それは、イエス様の道を備えたのです。

 私たちの人生も準備があってことが起こり、さらなる準備があって次のことが起こる連続です。主の働きもまさにその通りです。準備がなされ、道が備えられ、一つのことが起きるのです。
 この教会も考えてみれば、六十年以上になりますが、最初の人たちが準備をし、でこぼこ道を平らにし、道をまっすぐにして下さった結果、今があるわけです。最近クリスチャンになられた方も多くおられますが、一朝一夕に新城教会ができたわけではありません。

 葬式は伝道のたいへん良い機会になります。クリスチャンではない親族や友人が多く来られるからです。いつも私は「どの道を選びますか?」というメッセージを語ります。「先祖の霊になって自分の家族を呪いたいですか?それとも天国に行って家族と会いたいですか?どちらか選んでください」というと、みんな「イエス様を信じて、天国に行きたい」と言われます。葬式が終わって帰る時は感動して、「キリスト教の葬式は良かった。私もここでやりたい」と言われる人も多いです。今回もどれだけ、仮予約を受けたのかわかりません。将来、相当、葬式が増えると思います。なぜなら、教会の葬式は心温まる、希望に満ちたものであるからです。ですから、私はそこでメッセージを語るのが喜びです。

 仏教の葬式は意味が分かりません。この間も、地域の人とお話をしたら、「教会のお葬式はいいね」と言いました。地域の人たちは知っているのです。「仏教なんて大変ですよ。盆の時なんて、坊さんの手が足りないものだから、ちょっとだけ来て、カセットで録音した経をかけて次の所に去って行ったよ。それでも、しっかりお布施を十万円請求された」と言って、怒ってました。
 私は、「教会ではそんなことはありませんよ。教会の葬式は、遺族にお金が入るんです」と言ったら、驚いていました。この地域でも、まもなく、キリスト教に鞍替えする人たちが多くなるのではないかと思います。

 しかし、地域の人たちが変わったのは、やはり、六十年以上に渡る、準備があったからです。私の両親が地域に入って来た時は、「出てけ!」という感じでした。しかし、徐々に信頼を勝ち取って、「教会はいいもんだな・・・」と心に変えられたわけです。それまでの道備えがあって、結果が出て来たわけです。
 私たちは、地域がリバイバルされるように祈っていますが、「リバイバルのビジョン」は、一九九二年頃から与えられました。
 当時の若者たち、当時は私も若者からおっちゃんになったくらいで、だいぶ髪の毛もあった時代でしたが、その時代の若者たちが一生懸命、リバイバルを求めたのです。

 一九九二年七月のことでした。ちょっと暖かくなると、思いだすのですが、「ハートフルサパー」という集会が計画されました。どこでやるのかと聞くと、豊川の河川敷でやるというのです。それで、若者たちが三ヶ月くらい、河川敷にテントを張って、毎晩真剣にリバイバルの為に祈りました。「この場所に多くの人が来ますように。預言的な集会となりますように」と祈っていました。
 その中で、祈祷会に聖霊が激しく注がれました。ある意味、あの時から教会は新しい時代に入った感じでした。
 河川敷に舞台を作ったのですが、何を作ったかと言えば、新城教会の形そのものを作りました。その時の写真が残っていました。千二百人を集め、大バーベキュー伝道集会をしたいというのです。私はいくら来ても、せいぜい三百人だと思っていました。
 その写真を見せましょう。

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 すごいでしょう。これは預言的な写真だと思います。いのちの川のほとりに教会は建ち、教会に大群衆が押し寄せているこの写真は、二十年前に主が未来を示して下さった預言的な写真だと信じています。バーベキューの煙がそこら中からたっていますけれど、すごかったですね。七月の超暑い最中に、よくも食中毒を恐れずに、こんな集会をやったもんだと思います。無知は恐ろしいなと、いまさら思いますが、みんな生きていてよかったです。これも、当時の人たちが新しい道を備えたからです。今までの曲がった道をまっすぐにする働きをしてくれたわけです。

 主の働きは最初に露払いが出て、やがて本番がやってくるという手順です。ヨハネの働きは「イエス様が来られる」ことを目標にして働きました。それは、今を過ごしている教会とクリスチャンに対する、メッセージでもあると思うのです。
 今の時代、私たちは何を目標にして生きるのでしょうか。この頃、毎回話しているように、イエス様が再び帰って来られる「再臨」と完全勝利を目標に、存在しているわけです。
 ということは、クリスチャンと教会は、現代におけるバプテスマのヨハネの働きであると言えます。バプテスマのヨハネは、曲がった道をまっすぐにする働きでした。でこぼこ道を平らにする働きでした。曲がった道がまっすぐになると、目的地に早く到着すると先ほども語りましたが、現代のバプテスマのヨハネによって、曲がった道がまっすぐにされたら、イエス様がお帰りになる時期も早められるはずです。
 今を生きるクリスチャンと、現在この地に置かれている教会は、重要な存在です。なぜなら、主が帰って来られる道を用意する役割が与えられているからです。

 私は牧師になる前は土木技術者でした。あの職業も預言的だったと近ごろ思います。親父は土方でしたが、でこぼこ道を平らにする働きでした。あの時期は機械はありませんでしたから、苦労したと思います。しかしだんだん技術が進んで、スムーズに道もできるようになりました。毎日の生活は、主が帰って来られる日に備える働きです。
 前回もお話ししましたけれど、人生は様々な戦いに遭遇します。「なんでこんなに辛いことがあるのだろう。なぜ、こんな戦いがあるんだろうか・・・」と思います。しかし今は分かりませんが、その戦いは、主の道を備えているのです。私たちはやがて、その全容を知る日が来ます。「あなたが道を平らにしてくれたから、わたしは早くこの地に帰ることができました。ありがとう!」と主から言われたいものです。

 バプテスマのヨハネは、ちょっと異様な格好をしていました。四節を見ると『らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった』とあります。この格好、変人ですよね。イエス様の時代でも変人だったと思われます。
 夏、イスラエルに行くものではありません。私は七月くらいに行って、本当に焼け死ぬかと思いました。沙漠に行ったら、日本の暑さなんて問題にならないほど暑かったです。目の前でヘアドライヤーの熱風を浴びているような暑さでした。
 ヨハネは暑い砂漠に住んでいました。にも関わらず、らくだの毛皮を着て、腰に革バンドをはめていました。当時でも「大丈夫この人?」という感じだったと思われます。
 食べ物も、いなごと野蜜を食べていたのです。当時の食糧事情から考えても特殊でした。
 しかし、この変人ヨハネが果たした役割は大きかったのです。ある意味、私たちクリスチャンも、日本の社会においては変人です。このような田舎だと、クリスチャンは変人扱いです。「なぜ皆と一緒にできないの?なんで墓参り行かないの?なんで仏壇、拝まないの?」と、変人扱いされるかもしれません。しかし、それでいいのです。私たちはバプテスマのヨハネですから、多少変人っぽい所がないといけないわけです。
 しかし、この変人ヨハネの所に、地域の人たちが集まって来たのですからびっくりです。五節には『エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き』とあります。

 彼は変人のように見えましたが、みんな彼のところに来たのです。それは何を意味するのかというと、実は、彼の格好は旧約時代から伝統的に続いていた、預言者の格好でした。らくだの毛皮を着て、皮バンドの人を見たら、ユダヤ人たちは預言者のイメージを持っていたのです。だから、人々は彼のメッセージを聞く為にやってきたのです。

 私たちクリスチャンも同じでなければなりません。ある意味、変人のように見えるかもしれないけれど、地域にあって預言的な者でなければなりません。クリスチャンが預言的に生きるなら、人々はクリスチャンに注目する事でしょう。教会が地域において預言的な存在ならば、地域の人たちは教会に目を向けるはずです。

 現代ほど、預言の賜物と油注ぎが必要な時代はないのではないかと思われます。なぜなら、これから日本がどういう方向に向かって行くのか、皆目見当がつかないからです。しかし私たちが預言的に導かれたらどうでしょうか。主を知らない人々とは、一線を画し、主は私たちを守られるはずです。
 和歌山ミッションのテーマソングの歌詞も、なんだか怖いですね。「焼け付く日照り」だとか、「逆巻く波」だとか、地震かなにか起こるかのようです。祈って与えられた賛美だと言っていましたが、もしかしたら預言的な賛美かもしれません。
 しかし、クリスチャンが主の霊によって、預言的に生きるなら、何があっても「主はあなたを守られる」のです。ヨハネが預言者として地域に知られていた故に、多くの人たちが彼の元に集まりました。

 そして、彼のメッセージは「悔い改めなさい。天の御国は近づいた!」というメッセージでした。ヨハネのメッセージの中心は「悔い改め」でした。悔い改めとは、自分が罪人であることを認め、正しい道に戻ることです。
 主を知るための必要最低条件は、自分が罪人であることを認めることです。キリスト教から悔い改めをなくしてしまったら、キリスト教ではなくなります。
 この間もある牧師が嘆いていました。「この頃、キリスト教がキリスト教じゃなくなってきた」と言うのです。なぜかと聞くと「悔い改めのメッセージが少なくなってきたから」と言うのです。「メッセージの中で、罪の指摘がなくなった」と言われました。ヨハネが悔い改めを説いたのは、イエスと出会う前にとても重要なメッセージでした。
 私たちは、罪について認識し、人々に罪とは何かというメッセージを発信する教会にならなければいけません。ヨハネは、イエス様が現れる前、この働きをしたのです。

 バプテスマのヨハネは新約聖書に登場しますけれども、旧約最後の預言者と言っても過言ではありません。イエス様が現れる前、神がどのようなメッセージを人類に送られたのかを、彼のメッセージから理解できます。それは「救い主と出会う前に、まず、自分の罪を認めなさい」ということです。彼はイエス様の十字架に向かい、人々に罪を意識させました。

 旧約聖書には「罪とは何か」が記されています。それが「十戒」です。みなさんで読んでみましょう。

一.わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
二.自分のために偶像をつくってはならない。
三.主の御名をみだりに唱えてはならない。
四.安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ

 この四つは、自分と天地宇宙を造られた神との関係です。四つをまとめるなら「偶像礼拝をやめて、真の神を礼拝せよ」という一言に尽きます。それが新約聖書では「神を愛する」という一言にまとめられています。
 『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ』とありますが、私たちは主を礼拝するためにここに集まって来ました。今日は、一番から四番までの最も重要な戒めを守っています。
 しかし、教会に来るまではどうでしたでしょうか。そんな事が罪だなんて、夢にも思っていなかったでしょう。しかし、教会に来たとき、罪として認識したのです。
 人々に「偶像礼拝は罪です」というメッセージを伝えなければいけないのです。
 『主の御名をみだりに唱えてはならない』とありますが、日本人は多くの神々の名を使っています。ある新興宗教はイエス・キリストさえ、自分たちの神々の一人としています。それは罪です。イエス・キリストの名前以外、救いはないのです。
 五番目からもみなさんで読んでみましょう。

五.父と母を敬え。
六.殺してはならない。
七.姦淫してはならない。
八.盗んではならない。
九.隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
十.隣人の家の者を欲しがってはならない。

 出エジプト記二十章二節から十七節に十戒が記されています。五番から十番は、誰でも良心では理解しています。しかし、良心では分かっているけど、守れないのです。それが罪です。罪についてしっかりと意識し、罪と戦うことは、主が帰られる道を用意する為に重要です。
 私たちクリスチャンが聖い生活をし、主の道を歩む為には、「罪と戦う」必要があります。日本の社会で偶像礼拝から離れる為には、戦いがあります。それは、主の道を整えることになるのです。
 五番から十番の罪と戦うなら、主が帰られる道が用意されるのです。

 ヨハネのメッセージを聞いた人たちは、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けたのです。
 「バプテスマ」は教会において重要な働きとして捉えられています。プロテスタント教会で儀式のように見えるのは二つだけです。それは神秘、「サクラメント」とも呼ばれます。今日も行われる聖餐式も神秘です。パンとぶどうのジュースが、イエス様の肉と血を表すのですから神秘です。
 「バプテスマ」も重要な神秘を担っています。バプテスマのヨハネは、人々に罪を意識させ、神の前に出てバプテスマを受けさせたのです。まだバプテスマを受けていない方は、早めに受けていただきたいと思います。近頃、バプテスマを受けたい方々が多くおられ、感謝です。
 バプテスマのヨハネは人々に罪を意識させ、悔い改めのバプテスマを授ける働きをしたのです。そしてその延長線上に、救い主、イエス様が出現されたわけです。
 ヨハネの働きは、あくまでも、真打ちであるイエス様の登場の為の道を備える働きでした。

 これは、私たちにも通じることだと、先ほどもお話しさせていただきました。イエス様が十字架にかかり、復活された後、弟子たちに命じられた言葉が残っています。それがマタイの福音書二十八章十八節〜二十節です。

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』

 イエス様がよみがえり、天にお帰りになる直前、弟子たちを集め、『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい』と命じられました。
 『あらゆる国の人々を弟子としなさい』と言われたのです。「イスラエルの人たちだけを弟子としなさい」ではなく、『あらゆる国の人々』と命じられたのです。
 ゆえに、弟子たちは万難を排して、当時の世界と呼ばれる国々に出て行きました。当時、最も大きな国はローマ帝国でした。その中枢にまで、彼らは福音を伝えたのです。

 私たちも同じ視点を持たなければなりません。現在、「全日本リバイバルミッション」は、「アジア・環太平洋ミッション」という働きを展開させていただいています。これはどういう働きかといったら、日本だけでなく、世界に福音を伝える働きです。
 ある人は「日本に福音が十分、伝わってないのに、なぜ世界に出て行くのですか?」と言われますけれど、私たちの働きの根本は「主が帰られる道を用意する」ために存在しているからです。そのためには「全世界の人たちを弟子とする」働きがどうしても必要なのです。自国の人たちだけではなく、他の国の人たちにも到達しなければ、道はまっすぐにならないのです。

 聖書を見ると、すべての人が救われたらイエス様が帰って来るとは言われていません。「福音が伝えられたら」帰って来られるのです。
 それと共に、「霊的戦い」が大変重要だと話しました。世の終わりに向け、教会を通して暗闇の力を打ち破るよう、主が強く促しておられると思います。
 特に、主が帰られる為のには、テン・フォーティ・ウィンドウと呼ばれる「アジア諸国」に対する霊的戦いが、大きなテーマであると私は信じています。

 イエス様は『あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け』るように命じられました。
 バプテスマのヨハネも、イエス様が来られる準備として、人々にバプテスマを授けました。
 続けて、イエス様が弟子たちと初代教会に命じられたのが、「バプテスマを授けろ」でした。そして、『見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます』と語られました。
 まだ世は終わっていませんから、この御言葉は現代を生きる私たちに対する御言葉でもあります。
 時々に、聖書の言葉は当時の人々に語られたのだから、自分とは関係ないと言う人がいます。また「当時の人たちに語られた言葉を、なぜ現代に関連づけるの?」と言う人もいます。
 この所で『見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます』と語られています。また世が終わっていないということは、この御言葉は、現代を生きる私たちに語られた御言葉なのです。

 ということは、私たちに対する命令も、「全世界に出て行って福音を伝える」ことと、「バプテスマを授ける」ことにあるのです。
 それはバプテスマのヨハネと同じ、主の道を用意する働きです。でこぼこ道を平らにし、曲がりくねった道をまっすぐにする働きです。我々は、バプテスマのヨハネと同じ働きをしなければなりません。日々、バプテスマのヨハネのような、上からの油注ぎをいただき歩んでいきたいと思います。

 しかし、バプテスマのヨハネの時代は、イエス様の十字架は完成していませんでした。ゆえに彼の働きは、ただ罪を指摘するだけでした。人々は「あぁ、私は罪人だ・・・」と罪を認め、バプテスマを受けたわけです。バプテスマを受けたとしても、その後、イエス様に出会わなければどうにもなりませんでした。

 しかし今私たちの働きは、イエス様の十字架が完成した後ですから、バプテスマのヨハネの働きといっても、「グレードアップしたバプテスマのヨハネの働き」です。
 この頃、第一コリントをよく読むのですが、コリント人への第一の手紙十五章五十五節〜五十八節にこんな言葉があります。

『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』

 この御言葉は、前回も引用させていただきましたが、「罪」とは何かということが定義されています。それは『死のとげは罪であり、罪の力は律法です』とあります。先ほど、十戒を朗読しましたが、罪の力は律法にあるのです。律法に反する行為が、すなわち、罪です。
 しかしここでは、『しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました』と宣言されています。十字架によって、罪に勝利する道が備えられたのです。あなたの犯した罪は赦されていますと、宣言されています。十字架において、あらゆる罪が赦されることを、しっかりと受け止めなければならないのです。

 イエス・キリストを信じ、罪を悔い改めるならば、罪は赦されるのです。ゆえに私たちは、バプテスマのヨハネよりグレードアップした働きができるのです。
 今の時代、教会に託されている宣教は、バプテスマを授けることにあります。そして、この長い聖書の歴史の中で、私たちは今や最終章を生きているのです。

 究極的勝利がいつかについて、私は何度もお話しさせていただいています。それは『死ぬ者が不死を着る時、死は勝利に飲まれた』という、御言葉が実現する日です。
 死ぬ者が死ななくなる日、その日が完全勝利です。
 私たちは案外、救いを近視眼的に見ているのではないかと思います。「イエス様、私を救ってください。私の病気を治してください。私の経済を助けてください」と祈ります。それが満たされたら「イエス様は救い主だ!」と言うのです。でも、それが満たされないと「あれ、イエス様は祈りを聞いてくれないじゃないか」と文句を言うのです。救いを近視眼的に捉えてはいけないのです。救いは永遠のスケールで見なければなりません。
 ある人の病のために「一生懸命祈った。とりなしの祈りもした。霊的戦いもした。しかし残念ながら、その人はいやされずに死んでしまった・・・」というようなこともあります。牧師をやっていて、「私の働きは無駄足・無駄骨だったのかな・・・」と失望することがよくあります。「私のやっている仕事は、本当にこれでいいのか・・・」と疑問に思う時があります。
 みなさんの多くは、工場などで生産活動や経済活動に従事されています。私は、どのくらい生産的な仕事をしているのだろうかと、疑問に思うことがあります。みなさんが働いている間に、私の仕事は、山の上で「主よー!」と叫んでとりなし、祈っていたりすることがあります。
 また、草木がいっぱい茂っている森を分け入って、古い祠の前で「悪霊の力を打ち砕きます!」と、祈る仕事もあります。
 時々、「この働きがどのくらい、生産活動につながっているだろうか?何かの足しになっているのだろうか・・・」と、疑問に思うこともあります。「俺の職業って、ばかみたいだよなぁ・・・」と、ふっと思うことがあります。

 しかしすべての働きの本質は、イエス様が再び帰って来られる道を用意する為の働きなのです。ですから、時には私たちが考えているような結果が見えない時もあるのです。「結果が出なかった。がっかりだ。イエス様は救い主だなんて、嘘だ。救ってくれなかったじゃないか・・・」と、近視眼的に救いを判断してはいけないのです。私たちが完全に勝利するのは、不死を着た時だからです。
 ですから、今は分からなくても、やがて分かる日が来るのです。「おまえが山に登って叫んで祈ってくれただろう。生産性のない仕事かと思ったかもしれないけれど、あの時、曲がった道がこのようにまっすぐになったんだぞ!そのおかげで、わたしは早く地上に帰ることができた!」とイエス様に言われたら、うれしいなと思っています。

 結果を見せてくれる働きもあるし、結果が見えないものもあるけれど、ゴールをしっかりと見据えて走り続けるのです。あくまでも、私たちが不死を着る日、死はいのちに飲まれ、すべてが勝利するのです。その日を目指し、主の道を準備する働きをしなければならないのです。

 しかしながら、最後にもう一つ学びたい事柄があります。ヨハネがバプテスマを授けていたように、現代でもバプテスマを授けろと主は命じられました。バプテスマは水の中に入って出て来る、なんとも生産性の低い行為に見えます。なんで水の中に入らなきゃいけないんだ、と言う人もいます。だからこの頃、教会も、洗礼式が簡素化されています。コップに水を入れて、ちょっとだけ水滴を飛ばし、「あなたはバプテスマを受けました!」と言います。
 実際、水の中に全身が入ると、耳に水が入ったり、鼻に水が入ったりするし、服も濡れる。そんなの現代にはそぐわないということで、ちょっぴり水をかける形式になったのでしょう。しかし、バプテスマにはたいへん重要な意味があります。

 新城教会でのバプテスマの時は、必ず、お読みするのですが、コロサイ人への手紙二章十二節〜十五節、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 バプテスマは、何を意味するのかというと、水の中に入って出て来た瞬間、イエス様と共に復活するというのです。
 我々の勝利は、やがてイエス様が帰って来られ、復活する日が勝利だと先ほども語りましたが、バプテスマは、復活を先取りすることなのです。すごいじゃないですか!水の中に入って、ひょいと出るだけで、なんと、イエス様の再臨を待たずして、不完全な肉体をまとっていても、なんとイエス様のよみがえりと同じポジションに立つのです。

 教会に与えられた、新しいバプテスマのヨハネの権威とは、イエス様のよみがえりと同じ権威です。やがて私たちがよみがえる日に授けられる、同じ権威が与えられるということです。その中身が、ここに述べられています。

 私はコロサイ二章十二節から十五節を「コロサイ二章保険事務所」と呼んで、このように図示しています。

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一階は「罪の赦し」、二階は「債務証書を無効にする」、三階は「問題解決(武装解除)」、そして四階が「悪霊どもを捕虜とする(完全勝利)」事務所だとします。

 罪が赦され、債務証書が無効になり、すべての支配の権威が武装解除され、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えるとありますから、バプテスマを受ける時に与えられる権威は「悪霊どもを捕虜とする」権威です。
 主イエスを信じ、バプテスマを受ける時、その権威で地上を歩むことが出来るのです。

 太平洋戦争に参加された方もおられますが、最前線では血で血を洗うような、血みどろの戦いが繰り広げられたのです。日本軍も、連合軍も、互いに多くの捕虜が出ました。日本は多くのアメリカ兵、イギリス兵などを捕虜として捕まえました。しかし、日本が戦争に負けた時、捕虜となった兵隊たちがすごく怒ったそうです。「日本軍はひどい。食事はかなりひどいものだった!」と訴えました。何を食べさせられたのかと聞くと「我々に、木の根っこを食べさせた」と怒ったそうです。「日本人は本当に野蛮だ!木の根っこなんかを食べさせやがって」と。
 しかしそれは「きんぴらごぼう」だったそうです。おいしいですよね。食文化が違うから、しょうがないわけです。

 捕虜となったらどうでしょうか。戦争が終結するまで、捕虜となった兵隊たちは、全く自由がないのです。やがて戦争が終結したら、捕虜たちは戦争に勝った軍隊の権威に委ねられるのです。
 霊的には私たちも同じです。私たちは、地上に置かれた天の軍隊です。私たちは日々の戦いの中で、悪霊どもを捕虜としていくのです。やがて霊的戦いが前進する時、天の司令官が地上に戻って来られるのです。

 私は何年か前に「悪霊を捕虜とせよ!」という本を書きました。それはコロサイ二章からタイトルを付けました。私たちの働きは悪霊を捕虜とする働きです。「悪霊を捕虜とせよ」の中に、こんな挿絵が入っています。

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 私たちの日々の戦いは、悪霊どもを捕虜とし、引きずり出す働きです。それが拡大する時、何が起こるのでしょうか。天の司令官が帰って来て、この地を治めるのです。その日、私たちは不死を着て、主と共にこの地を完全に支配するのです。
 それまで地上軍は、主の道を用意するために戦い、働かなければならないのです。

 毎日、様々な戦いがあるかもしれません。しかし、あなたは現代を生きるバプテスマのヨハネです。しかも、よみがえる時に与えられる権威を先取りし、悪霊どもを捕虜とし続け、やがて天の司令官がこの地に戻られるまで、戦い続けるのです。
 今、世界の歴史の最終章を教会は生きています。もしかしたら、パウロが望んでいたように、地上でイエス様をお迎えできるのかもしれません。そのためにも、私たちは、曲がった道、でこぼこ道を修理して、まっすぐな高速道路を主の為に用意したいと願っています。今週も、そのような気持ちで働きたいです。
 最後に一言お祈りして、終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。私たちは天から派遣された地上軍として、主がお帰りになる道を用意出来、感謝します。日本の霊的でこぼこ道を平らにし、曲がりくねった道を、まっすぐにできますように。イエス様がすみやかに帰られる為の高速道路を、私たちは作らせていただきます。
 今日、私たちはバプテスマのヨハネのように歩みたいと願っています。私たちの罪を聖め、聖い心を持って、主に仕えることができますように。今から主が与えてくださった神秘のひとつ、聖餐式を行います。「見よ、わたしは世の終わりまであなた方と共にいる」と言われたイエス様が、私たちと共にいてくださることを、心から信じ、聖餐式を行います。この時を祝福してください。イエス・キリストの御名を通して、祈ります。アーメン。