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『神の計画を実現できる者

2013.5.12 (日)
新城教会牧師 岡本信弘
エペソ人への手紙 1章11節

『私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。』


ハレルヤ!
私が先回この場所に立ったのは三ヵ月前で、まだ寒かったのですが、一気に暖かくなりました。昨日はけっこう雨が降りましたが、今日は良い天気が与えられ、皆さんと共に礼拝を守ることができることを感謝します。
私もいつも「お元気ですか?」と皆さんにご挨拶するのですが、私と私の家族も皆さんのお祈りに支えられて、今日まで守られてきたことを心から主に感謝いたします。
二年ほど仙台のボランティア団体に属してた娘も、この四月の初めに帰って来ました。震災から二年が過ぎましたが、まだまだ支援が必要ですので、祈りつつ、できることをしていきたいと思います。少しですが、東北の仮設住宅の方々の手作り商品がブックスにおいてありますので、よろしかったら立ち寄ってみてください。
やっと戻った娘ですが、今度はタイに行くと言っています。次にいつどこに行くか分かりませんが、続けて守りをお祈りいただければと思います。

今日は、『神の計画を実現できる者』というテーマでお話ししたいと思います。
新年度が始まり、慌ただしく一ヵ月が過ぎました。教会では数々の出来事があり、この間に四人の姉妹が天に召され、葬儀がありました。こんなに葬儀が続いたのは、新城教会では初めてです。もちろん私たちには天国での再会の希望があります。しかし、この地上で会うことができないのには、すごく寂しさがあります。
私の母も私の家内の母も、すでに天に召されましたが、二人とも四月に亡くなりました。私の母が召されたのは、ちょうどその年の復活祭の朝でした。夜中に胸が苦しいと言って、私が駆けつけたときには、もう心肺停止の状態で、あっと言う間に天に召されて行きました。スッと天国に行きたい、というのが母の願いであったので、神さまがそのようにしてくださったわけですけれども・・・。亡くなったばかりのときには実感が湧きませんでしたが、家に帰って来て母のことを考え、寂しい思いで涙がとまらなかったということを今でも思い出します。
今日は母の日です。親孝行したいときには親はなし、とよく言われます。皆さん、ぜひ親孝行してください。プレゼントを用意された方もおられるかと思いますが、インターネットで、「お母さんが一番願っていることは?」というアンケート調査がありました。一位は、「何もいらない。でも、「お母さんありがとう」という言葉が欲しい」でした。そして第二位は、「一緒に外食」だそうです。なるほどと思いました。毎日の食事の支度は大変です。それだけでなく後片付けまであるわけですから。小さい子どもさんに、片づけは難しいかと思いますけれども、ちょっとでもお手伝いしてあげたらお母さんは喜ぶと思います。それか、高級料亭でなくても、どこか一緒に食事に行ったらどうでしょう。

五月三日には教会の遠足がありました。我が家で参加できたのは、私一人でしたが、朝起きて自分で弁当を作り、みんなとマイクロバスで出かけて行きました。陶芸を楽しみ、芝生に寝っころがったりして、のんびりと、すごく時間がゆっくりと流れているというような感じでした。
遠足の写真を一枚お見せしたいと思います。

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みんなで賛美集会をしたあとの記念写真です。大勢の方とともに青空の下、楽しいときを持つことができ、心から感謝します。

また五、六日には、ミッションのPP聖会が行われました。食事にカツオの食べ放題があり、私は二十本近くのカツオをさばきました。人数が思ったより少なかったこともあり、皆さん、たくさん食べて満足していただけたのではないかと思います。
皆さんは魚を見て、「これがマグロだ、これがカツオだ」と区別できますか? 最近は、店先に丸ごと一本で売っていることが少ないので、あまり見たことがないかもしれません。
カツオの写真をお見せします。

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カツオだけでなくBBQもあり、おなかが満たされましたが、聖会でも大変恵まれました。
『甲子園から二十年』と銘打った今回は、懐かしい映像が流され、あのころの感動がよみがえりました。また、先生方のメッセージも力強く、話のうまさに感心しました。一方で、自分はとてもあんなにうまく話せないなぁと少し落ち込みました。しかし、そこは立ち直りの早い私ですので(笑)、自分にできることをするしかない、と気持ちを切り替え、今日もこの講壇に立たせていただいています。

さて、ここで最初にお読みした御言葉に出てきた「神のみこころ(御心)」について考えてみたいと思います。
神の御心とは、神さまの思い、神さまのしたいと願ってこられることです。ある人は、自分のいちばん身近くにいる家族が何を考えているか分からないのに、神さまが何を考えているかなんて、分かるはずがないと考えておられるかもしれませんが・・・。
エペソ人への手紙一章十九節に『私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となった』とあります。私たちは神の子どもとされ、また神の友と呼ばれ、神の御国(財産)を受け取る者とされました。私たちは神さまの近くにいるのですから、神が何を考え、何を望んでいるかということを知るために、神の御心とはどんなものかを学んでいきたいと思います。

皆さんは、五月病という言葉を聞いたことがあると思います。五月病とは、「新しい学校や会社に期待を膨らませて入ったけれど、その環境に適応できずに、多くの不安を抱えたままゴールデンウイークに突入して疲れが一気に噴き出し、連休明け頃から、理由もなく体や心の不調に陥ること」を言うそうです。
私たちは、新しい年度の始まりや人生の節目など、新たなスタートラインに立つとき、どうしようもない不安に襲われることがあります。しかし、神はこんな言葉をもって、私たちを励ましてくださいます。
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』(イザヤ書四一章十節) 

人生の岐路に立たされ進むべき道を選択しなくてはならないとき、誰もが失敗をしたくない、正しい選択をしたいと願います。
人は、どうしたら、正しい決断ができるのでしょうか。
クリスチャンである私たちは、正しい決断をするために神の御心を知ることが大切なことを知っています。私たちには先のことは分からないけれど、あなたのことをいちばん知っておられ、後のことも知っておられる神さまは、あなたに、行く道を教えてくださいます。
よく「私は主の御心に従って歩みたいと願っていますが、何が御心であるかを具体的に知ることができますか? 私の考えていることは神さまの御心ですか?」と質問されます。御心が分かるように祈ってあげることはできますが、実際それが御心であるかどうかということは分かりません。一人ひとりが神さまから受け取っていかなければなりません。

先日のPP聖会において、明先生が昔話をされました。先生が伝道を志したところから、実際に伝道を開始された当時のこと、何度も聞いた話ですが、毎回恵まれます。
先生は、麻工場で働いているとき、直接神さまから語られたそうです。「今日、あなたの家に一人の人があなたにメッセージの依頼に来る」と。その日、実際にメッセージの依頼を受け、そのときから、日本各地、海外からも招かれて、伝道者として活動が始まり、いまや、日本を代表する伝道者となられています。あらためて感動して聞いていました。
そのように、神さまが直接私たちに語ってくださることがあります。迷ったとき、皆さんの前に神が現れて、カーナビのように「二百メートル先、右折です」とか、「次の交差点を左」と言ってくれたらどんなにか楽なのに、と思っている人もおられるでしょう。私もそう思います。私は、残念ながら直接神の声を聞いたことはありません。しかし、そのような体験があったとしても、毎回毎回、神さまが直接語ってくださるとは限りません。それでも私たちは、前に進んでいかなければなりません。
それでは、御心を知る原則を学んでみましょう。それは、聖書の御言葉と、神の摂理、そして聖霊の導きの三つです。

まずは、御言葉をよく読み、蓄えることが大切です。
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。』(テモテへの手紙第二 三章十六~十七節)

聖書の言葉とは、単なる小説や参考書ではありません。それは、『神の霊感によるもの』だとあり、この聖書の中には、神の御心に関する原則が残らず書かれています。
私たちは、何か行動するとき、この御言葉の裏づけがなければなりません。もし御言葉に照らし合わせてみて、御言葉に反していたら、やめなければなりません。はっきりとした確証がなければ進むことはできません。
リバイバルミッションの働きも、ここまで神さまの祝福のうちに導かれてきましたが、順調なときばかりではありませんでした。甲子園ミッションの少し前に、霊的戦いが開かれ、異端、あるいは悪魔呼ばわりされたこともありました。また、今進めている環太平洋ミッションにおいても、「日本もまだキリスト教化されていないのに、なぜ外国へ出て行くのですか」言われます。
しかし、霊の戦いも海外宣教の働きも、御言葉による裏づけがあります。
『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(エペソ人への手紙六章十一~十二節)

また、『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』(マルコの福音書十六章十五節)

霊的戦い、海外宣教、いずれも、私たちの使命です。かつて大伝道者であった、ジョン・ウェスレーは、「世界はわが教区なり」という言葉を残しました。神の働きには地上における境界線はありません。すべての人が神さまの愛を知って、そしてその愛を知った人が、さらに宣べ伝えていく。そのために私たちは選ばれていることを知らなければなりません。

有名なヘレン・ケラーは、生後まもなく熱病にかかり、目が見えない、耳が聞こえない、言葉を話せないという三重苦を負いました。彼女の家庭教師になったアン・サリバンは、クリスチャンでした。彼女はヘレンに根気よく「しつけ」「指文字」「言葉」を教え、同時に、神の言葉である聖書の御言葉を覚えさせたそうです。
やがてその御言葉は、ヘレン・ケラーの心を支え、目となり耳となり、大学に入れるほどの知識を得、最後には名門ハーバード大学を卒業したのです。このサリバン先生は、ヘレン・ケラーと五十年の生涯を共にしたと書いてあります。

私たちは、過去を振り返ったり、目の前の世界を見ることができても、未来を見ることはできません。先のことが分からない、見えていない、という点では、ヘレン・ケラーと同じではないでしょうか。
そんな中、私たち一人ひとりは、一歩一歩、未来に向かって手探りで歩んでいるようなものです。そのとき私たちを導いてくれるのは、神の御言葉です。私たちは主の御心を、御言葉によって知ることができます。
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩篇一一九篇一〇五節)

また、どうやって進んで行ったらいいか、どちらに進んだらいいかと考えるとき、詩篇一一九篇十一節『私はあなたに罪を犯さないため、あなたの御言葉を心にたくわえました』の御言葉に、ヒントがあります。
皆さんも、毎日、少なからず聖書を読んでいることでしょう。また祈っていることでしょう。御言葉を覚え、できる限り暗唱しましょう。私たちは、四六時中聖書を手に持っているわけにはいきません。しかし、問題というのは、突然私たちに訪れます。その、いざというとき、あなたの中に蓄えた御言葉が、あなたの力となり、あなたを導いてくれるに違いありません。今まで私も、何度となく御言葉に助けられ、御言葉によって導かれてきました。
そのように、御言葉を熱心に慕い求め、心に蓄えるなら、御心の生活をすることができます。

次に、神の摂理です。
「摂理」を辞書でひくと、「創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く」とあります。簡単に言うと、神が、ご自身の計画にしたがって、事の成り行きを導かれるということです。神さまのご摂理の中で、道が開いたり、反対に、思いも寄らぬ所で道が閉ざされたりすることがあります。

旧約聖書に現れるヨセフという人物を見てみましょう。
ヨセフは、兄弟たちの妬みから奴隷商人に売られ、エジプトに連れていかれました。ヨセフはエジプト人のもとで、しもべとなりましたが、やがて能力を買われ、次々に出世し、ついにはエジプトの総理大臣にまで上りつめました。
あるとき、生まれ故郷のカナンの地にききんがあり、ヨセフの父ヤコブとその子どもたちが、エジプトに導かれてきました。そしてヨセフは自分を売った兄弟たちと対面したとき、こう言いました。
『今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わして下さったのです。』(創世記四五章五節)
私たちは、現在のことしか分かりませんが、神は後々のことまですべて知っておられ、私たちを最善の道へ導こうとしてくださっています。ヨセフは、神の摂理に対して目の開かれた人物であり、そしてどんな逆境の中でも、神の目的があることを信じていたのでした。
誰も、自分で父母を選んでこの世に生を受けた者はありません。また、生まれる場所も、自分で選択したわけではありません。それは神の摂理の中で行われたことであり、同時に、私たちが天に召されるときも同じく、誰も自分でその時を決めることはできません。

人生には、いくつかの大きな選択があります。進学、就職もそのひとつです。
あまり頭もよくない私には、入ることのできる高校も限られていましたので、真剣に祈って進路を決めたというわけではありませんでしたが、少し数字が強かったので、商業科に入り、高校卒業後は、就職して厨房機器の営業をしました。
私の実家は、ご存知の方も多いですが、スーパーをやっています。私の小さいころは、駄菓子屋だった店を、兄がスーパーにして、何年かしてから鮮魚を売ろうということになり、私は会社を辞めさせられて(笑)店に入りました。「店の改装に二週間かかるから、その間に、魚屋の修行に行って来い」と言われ、豊橋の魚屋さんに毎日習いに行きました。今でこそ皆さんから「先生、魚を切るのがうまいですねぇ」と言われるのですが、初めは、魚をまったくさばけませんでした。
三月の海の荒れる時期で、魚があまり獲れず、もちろん高級な魚は切らせてもらえませんから、ほとんど練習することもなく、あっという間に二週間が過ぎて、店はオープンしてしまいました。
四月になると、一気にたくさんの種類の魚が獲れるようになり、私が注文してもいないのに、次から次へと魚が来るわけです。魚を前に、どうやって売ればいいのだろうか、と途方にくれましたが、修行に行かせてもらった師匠に電話をして「こんな魚が来たけど、どうやって切るのか、どうやって食べるのか」と、そのたびに聞いて対処していました。
そんなことをしている間に五月になり、カツオのシーズンになり、「特売をしよう!」ということになりました。当時はすごく安くて、一本四百八十円くらいでした。
特売の当日、店に行ったら大変なことになっていました。私が注文もしていないのに大きな樽に、二十本ほどのカツオが氷に刺してあって、その樽が当時の店(茶臼山駅前)の前に十樽並んでいたのです。あまり魚を切ったこともないような男の前に、こんなに魚が並べられて、「どうしよう、誰が買いに来るのか。こんなに売れるのか?」と思って青ざめましたが、一日のうちに、飛ぶように売れました。急に私の腕がよくなって、さっさとさばいたからではありません。おぼつかない私の切っている姿をみかねたのか、お客さんが、一本丸ごと袋に入れて買っていってくれた人が多かったのです。朝から晩まで、本当に忙しかったですが、そのころは、商売をとても楽しんでいました。
しかし、私は一生懸命魚屋をやりながらも、小さな頃から持っていた「将来神さまのために働きたい」という夢を捨ててはいませんでした。ですから時々、「こんなところで魚を切っていていいのだろうか。こんなことが何の益になろうか」と思っていました。
それから肉屋も経験し、数年後に献身し、フルタイムで教会で働くようになりました。教会のサパーや、今回のミッションの集会などで、時々魚を切らせてもらう機会があります。あのとき、何の役に立つだろうかと思ったことが、今、こうして神さまの働きの中で用いられていることを考えるとき、神さまの摂理を感じずにはいられません。

人生にはいろいろな選択がありますが、私にとっていちばん大きな決断は、結婚を決めるときでした。
どんな決断も、簡単に翻すことはできませんが、就職なら自分に合わないと思えば、辞めてほかの就職先を探して、転職できます。しかし、結婚は引き返すことができません。
私は、二十一歳で結婚を決めて二十三歳で結婚しました。普段は、いい加減な者ですが、そのときは、真剣に祈り求めました。結婚に至る経緯を話すと時間が足りませんので省きますが、そのとき、私は、マルイチで朝の四時から夜の十一時まで、魚屋で働き、すぐ横では天ぷらを揚げていて、周りには食べるものだらけの中で、五日間の断食をしました。そんな断食の祈りの中で、箴言一九章十四節にある『家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの』の御言葉を頂き、妻を得ることができました。結婚して今年で三十二年、今の私があるのも家内があってのことと、神の摂理を心から感謝しています。
すでに結婚された人は、神の摂理の中で最善の人が与えられたと信じ、まだ結婚していない方は、神さまが最善の人を備えてくださると信じて祈ってください。

世の中では、間違った道を選択したときは、運が悪かったと考えます。一方、成功したときは、何か自分に能力があり、人よりも勝っていると錯覚したり、運が巡って来たと考えます。ある意味、行き当たりばったりのところがあります。しかし、私たちクリスチャンは、人生の大切な事柄について、祈ることができ、確かに導いてくださる神さまが共にいてくださるのです。
困難にあうこともあります。しかし「困難だからこれは神さまの御心ではない」とは限りません。時にはその困難を乗り越えて、主の道を探し求めるようにと導かれることも忘れてはなりません。

神の摂理とは、神が私たちを最善の道に導こうとするご計画であり、それこそが神さまの御心なのです。あなたがこの教会に導かれたのも、すべては神の摂理によるものであることを覚えてください。必要だからこそ、また神さまの計画の中で今一人ひとりがここにいるわけです。

三つ目は、聖霊による導きです。
導きとは、私たちの心に対する神の語りかけです。クリスチャンが御心を求めるとき、あるときは御言葉から、あるときは祈りの中で、またあるときは、メッセージを通してあなたに語りかけられます。

ピリピ人への手紙二章十三節は、私の大好きな御言葉の一つです。『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』
神は聖霊によって、私たちの心の内に、まず「志」を立てさせてくださり、それを受け取って実行していくとき、事が成功に導かれ、成し遂げられていくのです。
志、ビジョンを持つことは、素晴らしいことです。しかし、「志」というのは、自分の好きな事をやる、というのではありません。『あなたがたのうちに働いて志を立てさせ』の前に、『神はみこころのままに』と書かれているように、自分の欲のためではなく、神さまの御心かどうかが重要です。
神さまの御心と信じて受け取ったなら、たとえ今、どのような状況に置かれていたとしても、それが困難であっても、ピリピ人への手紙二章十四節に『すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい』とあるように、あなたに与えられ、委ねられていることを喜んで行いましょう。

今、私の中にも一つのビジョンが与えられています。老人ホームをつくることです。教会員が多くなり、教会も高齢化が進んでいる中、安心して教会に集うことができる環境を整えたいと願っています。これが、単に金儲けや、自分の欲であったら立ち行かなくなるでしょう。しかし、御心のうちに立てられた志であるならば、必ず実現に至らせてくださいますので、皆さんにもぜひお祈りいただきたいと思います。

このように、神の御心を知り、神の計画を実現するために必要なのは、聖書の御言葉・神の摂理・聖霊の導きの三つです。
世の多くの人が、自分の夢を実現していこうとするとき、世の中で成功した人の参考書を読んだりします。摂理を無視して、自分の気の向くままに進んでいきます。また、占い師や霊能者、偶像などに頼り、それらのまやかしによって、あたかも自分の人生が間違ってなかったかのように過ごしています。しかし、その結果はどうでしょう。自殺が増え、家庭が崩壊し、悪が増大し、苦しんでいる人がたくさんいるのが現状です。
では、今、あなたが進もうとしている道はどうでしょうか。自分の身勝手な思いであるのか、本当に神の御心なのか、どこで見分けることができるでしょう。
私が何かをするとき、何かしたいと思うとき、自分の思いが優先されていないかどうかということをいつも確認します。神さまが、私にとって一番だと考えて用意してくださっている摂理を、自分の思いが最優先となっていないか、聖霊の働きを無視していないかを祈り、御言葉を読み、神の導きを求めるようにしています。
皆さんも祈るときに「ああしたい、こうしたい。神さま、これをしてください」ではなく、自分の思いはまず横に置いておいて、神の摂理、神の御心を求めてみてください。そのとき、はっきりとした答えが皆さんに与えられると信じています。

プレイズ出版の働きは、今から二十二年前に始まりました。甲子園ミッションが行われる数年前でした。この働きを広く宣伝するための印刷物を作成するためには、プレイズ出版が不可欠でした。しかし、それは私に先見の明があったわけではありません。まさかあんな大きな大会の印刷物を手掛けるようになるとは、夢にも思っていませんでした。
甲子園の働きが始まったときには、知恵もなく力もない私たちでしたが、真剣に祈り、がむしゃらに前進してきました。その中で、確かに主はプレイズ出版を用いてくださり、今も祝福してくださっています。これも、神さまの摂理です。
一九九二年七月、霊的戦いの火ぶたが切られました。今まで何度も聞いたことがあると思いますが、あのときは、本当に大変でした。これが本当に、神の働きなのか、続けていくことが神の御心なのか。反発が起こり妨害がありました。多くの人たちが動揺し、ここから離れたり、信仰を失ってしまったりしました。新城教会はこれからどうなるのだろうと、ここにいた誰もが思ったことでしょう。
しかしそのことを通して、一人ひとりが主に向き合い、祈り、教会が一つとなって戦ったことにより、甲子園ミッション、そして武道館での東京ミッションなどが祝福されました。御心でなかったならば、私たちは到底このさまざまな戦いに勝利することはできなかったでしょう。
そのときに私が教えられたことは、「私たちの敵は人ではなく、人々を操っているサタンだ」ということでした。
皆さんの中にも、いわれのない中傷や心ない言葉に苦しんでおられる方もいらっしゃるかもしれません。そのとき、人の背後に働き、関係を悪くしようとしているサタンがいること、そしてそんな中にも神さまが共におられることを覚え、立ち向かってください。
今、事を起こそうとされている人、あるいは、人生の岐路に立たされている人もいるでしょう。その人は、主の御心を祈り求めてください。たとえ目の前が真っ暗な状況であったとしても、神は、御言葉によってあなたの進むべき道を教え、神の摂理を示してくださり、聖霊なる神が私たちを正しい道へ導いてくださるはずです。
主の御心であれば、神は、あなたに強い願いと同時に、揺るぎない平安を与えてくださるはずです。世の中の人々が、いかに反対しようとも、その道を進んでいくとき、必ず平安を与えてくださり道が開かれると信じます。

最初にお読みした御言葉『私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。』(エペソ人への手紙一章十一節)にあるように、私たちはすでに天国の財産を受け継ぐものとされているのです。続いて、『みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って』とあるように、私たちは、神の御心を実現するために、ご計画に従ってあらかじめ定め、そのために一人ひとりを選んでくださったのです。

皆さん、主の御心を尋ね求めながら、人生を歩んでいきましょう。「あのとき、こうしておいて良かった」と言えるような人生を送ってまいりましょう。

今、お祈りしたいと思います。皆さん一人ひとりに、神が持っておられる計画があり、与えられた使命があることを覚えてください。そして皆必要だからこそ神の勇士として選ばれ、神さまの摂理の中でこの教会に導かれて来ました。この神の計画を実現する者として私たちが選ばれたことをしっかりと自覚し、主の前にもう一度「主よ、あなたがリバイバルを起こそうとしているこの終末のときに、私を使ってください」と、共にお祈りしましょう。

一言お祈りします。

ハレルヤ。愛する主よ、心から感謝します。私たちはいつもいつも主の御心を求めて祈っています。そして主よ、あなたがいつも私たちに恵みと祝福、主の栄光を現してくださることを信じます。主よ、今ここにいるお一人おひとりを主が選んでくださいました。私たちが、主の選びにふさわしい働きをすることができるように、上からの油を注いでください。そして私たちが決して自分の思いを優先したり、神さまの御心から外れたところに行くことがないように、主よ助けてください。そして後の時代の中にあって、私たち一人ひとりを、このリバイバルのために尊く用いてください。
今から聖餐にあずかります。イエス様が私のために十字架にかかり、死んでくださって血を流された、このことを告げ知らせる者としてください。復活の主に共に歩む者として、この聖餐にあずかります。豊かに祝福してください。主の御名によって信仰を持って祈ります。アーメン。