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『幸せになる秘訣

2013.6.2 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒4章29節~35節

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。』


 ハレルヤ!おはようございます。みなさんの前でメッセージを取り次がせていただけます特権を、心から感謝しています。
 梅雨の季節になり、うっとうしい季節になりました。私の一番嫌いな季節ですが、雨が降らなければ作物もできません。我慢しなければならない季節でもあるわけです。雨期が過ぎたらやがて暑い夏がやってまいります。変化に富んだ季節が日本に与えられていること感謝して、明るく過ごしていきたいと願っています。

 今日は「幸せになる秘訣」というタイトルで、お話をさせていただきたいと思います。先週、父がメッセージを語っておりましたけれど、そこでも幸せになる秘訣を語っていました。「赦す」ことが幸せになる秘訣だと語りました。先週一週間、どのように過ごされたでしょうか。
 私たちは毎週、礼拝に集っているわけです。六日間働いて、七日目には礼拝に集っています。礼拝には、神が天と地を六日間で創造し、七日目に休まれたことを記念する意味もあります。出エジプト記二十章十一節に、

『それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。』

とあります。主が安息日を「祝福した」とあります。ユダヤ人たちにとって安息日は土曜日ですが、クリスチャンにとっての安息日は日曜日です。それは日曜日の早朝、イエス様が墓からよみがえられたからです。私たちは安息日の主である、イエス様を礼拝しているわけです。神は六日間ですべてを完成され、七日目に休まれたのです。
 私たちは毎週、教会に集って御言葉を聞き、賛美をささげ、礼拝をささげているわけですが、これは大変重要だと思います。
 なぜなら、日曜日に聞いたメッセージを、次の一週間で実行に移されるからです。神は六日間で事を完成される方です。御言葉を六日間で完成してくださり、新しく次の週が始まるのです。六日間で完結し、新しい週が始まるサイクルは嬉しいです。

 今日も、ちょっぴり幸せになる映像を持って来ました。いつも子どもたちにせがまれるのですが、先ほども子どもたちチェックを受けたら「今日のはちょっと違うね」と言われました。

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 動物にも虚栄心があるのでしょうか。強い動物になりたいようです。

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 木になりすましていたのですね。

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 空にも幸せがあるというような、ちょっとしたことで幸せな気分を味わえるものです。

 二〇一三年のサラリーマン川柳が発表されました。それを読みますと、幸せってどこにあるのかなと考えさせられてしまいます。二〇一三年の大賞に選ばれたのが「いい夫婦、今じゃどうでもいい夫婦」でした。クリスチャンの夫婦はそんなことはないですよね。私も結婚して三十数年経ちますけれど、日々いい夫婦度がアップしている今日この頃です。
 五位に「ダルビッシュ、一球だけで我が月給」というのがありました。月給と一球をかけているわけですが、悔しいですね。彼が一球投げるだけで、私たちが一ヶ月働く程のお金を取ってしまうわけですから。しかし、金があれば幸せというわけではありません。
 こんな川柳もありました。「夢がある、君の話は無理がある。」私たちの夢は無理が多いですよね。
 「すぐキレる、妻よ見習えLED」あまり希望がないですね。「同窓会、顔より先に頭見る」我々の世代になると、もう諦めていますが。
 「ゆるキャラと思えば愛しい肥えた妻」というのもありました。
 全て寂しい川柳ばかりじゃないですか。「家族割り、あるのに妻と通話なし。」「孫が来て急に良くなる夫婦仲。」
 サラリーマン川柳を読みますと、「幸せって、どこにあるのかな・・・」と思います。

 しかし、幸せは天地宇宙を造られた神の中にあるのです。すなわち幸せは、イエス・キリストの中にあることを、私たちは知っています。

 今週は、使徒の働き四章二十九節からテキストを選ばさせていただきました。先々週は、教会の誕生、ペンテコステの日でしたが、その続きです。

 先週の日曜日、私は北海道で奉仕がありました。リバイバル聖書神学校を卒業し、訓子府という町で伝道をしておられる永易先生ご夫妻の教会で奉仕しました。

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 訓子府はたいへん広い場所です。この辺とは比べものにならない程、広い所ですが人口はたったの五千人です。そこで伝道するのはなかなか大変ですが、がんばっておられます。
 先生の娘と結婚したのが、新城教会にしばらくいた日吉伸也君です。すでに二人も子どもが産まれ、元気にやっておりました。

 今週私はスペインに行きます。是非、祈っていただきたいと思います。新城教会は国内に支部教会はありません。なぜなら「全日本リバイバルミッション」という働きをやっているからです。この働きは全国の教会をサポートする働きです。ですから私たちが国内に支部教会を作ることは難しいです。
 しかし海外には支部があります。スペインのマドリードにあります。カサ・デ・ディオスという名前の教会です。

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 ホルヘ先生が牧師をしています。以前にもお話しましたが、彼は十数年前、新城市からさらに奥に入った東栄町に労働者として来ていました。彼はそこで鶏を飼っていました。
 ちょうどその頃、東栄町では中村一夫という牧師が伝道をしていました。彼は最初その教会に行ったそうです。すると「うちの教会はスペイン語ができないから、新城に行ってくれないか?」と紹介され、新城教会に来たのです。彼は昔、ペルーで教会に行っていたそうですが、日本にきてからは信仰を失っていたのです。しかし新城で信仰がリバイバルしたのです。
 彼は東栄町から、よく愛知県民の森の祈祷会に来ていました。そこで聖霊の力を受けました。
 しばらくしたら彼は帰国して、いなくなりました。どうしたのかなと思ったら、数年後スペインから連絡が来ました。「私はスペインで現在、牧師をやっています」と言うのです。それから私はスペインに呼ばれるようになりました。
 なぜ彼はスペインに行ったのかというと、あまり嬉しいことではないのですが、彼には三人子どもがいます。その内の一人にアロン君という子がいますが、彼には、かなりひどい脳性麻痺があります。

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 彼らはペルー人ですが、ペルーでは治療ができないということで、政府の計らいでスペインで治療を受けるようになりました。家族全員悲しみの中でスペインに渡ったのですが、そんな苦しみの中、家族はしっかりと主と結びつき、今や牧師となってマドリードで教会をやっています。ホルヘ先生一家の為に、是非とも祈っていただきたいと思います。

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 今、彼らはスペイン国籍になり、スペイン人です。私たちは今回、この集会の為に行きます。GUERRA ESPIRITUAL(霊的戦い)のセミナーです。

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 なかなかスペインのポスターはすごいですね。しかし本当に不思議です。今や、彼が中心となって、スペインの教会やスペイン語系の教会に案内をし、セミナーが開かれるのです。私は有名でも何でもないのですが、昨年もこのセミナーで奉仕しました。

 スペインという国は綺麗な国です。実は、新城教会出身の山口長老の息子、M君がスペインの日本大使館で働いています。そして彼はホルヘの教会に通っています。
でも今回、彼はセミナーに参加できないみたいです。なぜなら、日本の皇太子がスペインに来るからです。「皇太子より、俺を歓迎しろよ」という感じですが、皇太子のスペイン訪問の為に、大使館は大忙しらしいです。しかし彼はその教会に通っています。
 不思議ですね。東栄町の山の中で鶏を飼っていた男が、今はスペインで牧師になっています。鶏を飼っていた頃は、山奥で、ただお金を儲けるために仕事をしていたと思います。でも彼には大きな神の目的があったのです。彼が新城教会でリバイバルされ、今ではスペインで霊的戦いを拡げるために用いられています。どう考えても、東栄町とスペインはくっつきません。神のご計画のネットワークはどのようになっているのでしょうか。一人ひとりに、神は偉大な計画を持っておられるのです。後から振り返ると、「えっ?」と驚くような計画がくっついているのです。

 私もまさかスペインにまで行って、毎年、福音を語るようになるとは思いませんでした。
ホルヘが「順先生夫妻には本当に感動した」と言うのです。「日本にいた頃、本当に世話になった。」というのです。何の世話したのかなと思ったのですが、彼は東栄町に住んでいて、毎週、新城まで礼拝に来ていました。それで、インターナショナル礼拝後によく、教会に泊まったというのです。すると翌朝、私の家内が朝食を用意してくれたと言うのです。大勢の方が来られますから、誰に朝食を出したのか覚えていませんが、家内が朝食を用意した事に彼らは痛く感動したみたいです。
 私は、「食事を出して良かった!」と思いました。めんどくさいと思って出さなかったら、スペインにまでつながらなかったかも知れません。一宿一飯の恩義とも言いますけれど、どこに神の計画と、霊的戦いがあるのかわかりません。食事を出すか、出さないかで、将来一つの国との関わりが決まるくらいの戦いがありますから。
 神様の計画に乗っかって行くと、幸せに生きることができるのです。

二〇〇六年に英国のある学者が「世界幸せ地図」を発表しました。それは健康・財産・教育の統計から、世界で人々が幸せに住んでいる国はどこかを統計的に調査した地図がこれです。

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 青い場所が幸せ度が高い国だそうです。そして一番幸せだと評価されたのが、もちろん、評価の視点で変わってくるとは思いますが、デンマークだそうです。そして、二位がスイスだそうです。
 ちなみに日本は百七十八ヶ国中、九十位です。アメリカは二十三位。中国は八十二位。日本は結構下の方です。
 一位と二位のデンマークとスイスは国旗に十字架を掲げています。

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 卍マークとか鳥居マークではないわけです。仏像ではないのです。やっぱり十字架マークの国が幸せです。
 世界規模で見ても、やはり幸せになる秘訣は「イエス・キリスト」にあります。
 今日、私たちは幸せのただ中にいるのです。

 使徒の働きの四章を見ますと、聖霊が注がれ三千人が救われ、五千人が救われ、その後の様子がレポートされています。先ほど読んでいただきました四章三十四節には、

『彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった』

と記されていました。『彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった』というのが、初代教会の様子です。そこに集っている人は、誰一人として乏しくなかったのです。経済的にも、霊的にも、精神的にも、何もかも安定していた様子を覗わせます。
 本来、教会はこのようにならなければならないのです。神が最初に造られた教会に注目する時、どのような視点で生きていったら幸せになるのかを学ぶことができるわけです。

 その第一は、なんと言っても、クリスチャンになることです。三千人、次に五千人がクリスチャンになり、彼らが教会に集っていたわけですから。これは必要絶対条件です。イエス・キリストを救い主として信じることが、幸せの第一条件であることは他でもありません。
 イエス・キリストを信じるとは、宗教に入ったとか、教えを守っているというのではなく、天地宇宙を造った神と共に生きる現実です。それは決して宗教ではないのです。この道を歩む時、地上においても、さらには、死後の世界も保証してくださるのです。

 先週も一件葬式がありました。教会も大きくなりますと、高齢者の方々とか、教会員の家族の方だとか、亡くなる方も多くなります。Oさんが天にお帰りになりました。教会には十五年間、来てくださいました。七十五歳でした。病気で危ないということを、聞いて祈っていたのですが、ご家族はまだクリスチャンじゃなかったのですが、教会で葬式をさせていただきました。悲しみの中にも、すばらしい葬式でした。

 教会は命も死も超越した場所です。先週は、私が今立っているこの辺に棺桶が置かれていました。この一ヶ月間に、五回ほど棺桶が横たわっていました。
どうでしょうか。普通ならそんな場所は嫌だというかも知れません。でもクリスチャンは、そうは思いません。
 教会は棺桶が置かれる時もあれば、同じ場所に新郎新婦が立つこともあるわけです。午前中にお葬式があって、午後から新郎新婦が棺桶が置いてあった位置に立つことも可能です。教会って便利な場所です。そして今日は、同じ場所を礼拝の場として使っています。
 普通はどうでしょうか。「斎場にて礼拝を行います」と言ったら「行きたくない」と思うでしょう。
 しかし「先週、葬式がこの場でありました」と言っても、皆さんけろっとしているじゃないですか。「塩まいたかな・・・」とか、誰も言いません。そんなのは関係ないわけです。教会は塩なんて、まかなくてもいいわけです。マルチにこの場所が使われるわけです。なぜなら命も死も、すべて神の手の中にあると分かっているからです。

 前にも話しましたが、私の息子の結婚式の時、「初めて聞く人もいるかもしれないので・・・」と先週、父も話していましたから語るのですが、息子と奥さんはすばらしいブーケを自分たちの結婚式の為に、名古屋の有名店に頼んでいたのです。
 でも、式が始まる三十分前になっても、ブーケは届きませんでした。「遠いからかな。道が渋滞してるのかな・・・。」
 しかし電話をしたら「え?今日でしたっけ?」と、花屋が忘れていたのです。冗談じゃないですよね。普通なら死刑だ!というような話しかも知れません。どうしようかと思いました。花嫁さんが手ぶらで出るのもなんだなと思ったのですが、ちょうどその前日、感謝なことにとは絶対に言いませんが、お葬式があったのです。それでお花がいっぱいありました。それで新城教会にはお花を上手にアレンジできる方がおられまして、その花をアレンジして花嫁さんに持たせました。
 彼女はまさかそれが前日、棺桶の前にあった花だとは知らずに出たみたいですが、後から話してもけろっとしていました。
 そのアクシデントで、いろいろもらって喜んでおりました。「すべてが相働いて益となると御言葉が実現した」と言うことです。
 一般でそんなことがあったら「そんな縁起の悪い!」と言うかもしれません。
 縁起ってなんでしょうか。そんなことは全く関係ないのです。どんな時でも、私たちは平常心で、生きることができるのです。なんとすばらしいことではないでしょうか。

 一般の葬式は何と言うでしょうか?「ご冥福をお祈りいたします。」と必ず弔電なんかに書いてあるじゃないですか。みんな適当にこの言葉を使っていますが、「冥福」とはどういう意味か知っていますか?「冥」というのは冥土の冥です。「冥土」とは「地獄」という意味です。だから「冥福」というのは「地獄でお幸せに」という意味になります。
 本来、冥福という言葉はたいへん失礼な言葉だというのです。「地獄で幸せになってね!」と言うわけですから。地獄で幸せになれるはずがありません。
 しかし私たちは、天国に行くことができるわけです。永遠の国、天国に入ることができるのです。

 新城教会も地上から天に帰られた会衆が大分多くなりました。もう百名以上になったのではないかと思われます。下の会衆よりも、上の会衆の方が多くなるようではちょっと寂しいので、下もがんばらなければいけないと思っています。今朝も、天国に帰った新城教会出身の兄弟姉妹は、天国で新城教会の様子を見ながら礼拝に参加していると思います。天国にも大きいスクリーンがあって、集まって応援しているのではないかと思います。そしてイエス様の側で、真剣にとりなして祈ってくれていると信じます。
 「雲のように証人たちが取り巻いている」とありますけれど、私たちにとっては、地上も、天国も、一心同体です。同じ神のみ手の中にあるのです。しかし、それだけで終わるのではなく、イエス様はやがて天から戻って来られ、全世界を治める日が来る!というのです。その日、私たちにとっては復活の日となるのです。私たちの働きは、主のお帰りを準備する働きに尽きます。
 教会の目的は何でしょうか?それは、人々が救われて永遠のいのちを得るためですけれど、それはイエス様が帰って来られる道を用意することに他なりません。
 今、スペインでM君は皇太子が来る道を用意しています。私の道は用意していないと思いますが。ホルヘ先生が私の為に用意してくれていると思います。偉い人が来る時には、必ず道を用意するのです。

 外務省の人から聞いたことがあるのですが、天皇がどこかに行く時はどのような台本を作るのかというと、「天皇が三歩歩いて何をするか」を予測して台本を作るそうです。三歩歩いて何をする、三歩歩いて何をするという、三歩ごとのスケジュールを組むそうです。三歩で何が起こるのかを想定するそうです。
 しかし私たちの神様は、「一歩一歩」私たちの足を守ってくださると聖書は告げています。イエス・キリストを信じた者たちは、天皇よりもすごい存在じゃないですか。一歩一歩、私たちの歩む道を守ってくださるからです。
 今週もイエス・キリストの中を歩むなら、幸せな道を歩むことができます。これが第一条件です。

 さらに、イエス・キリストを信じるとは自分一人の問題ではなく、新しい世代にも関わる問題なのです。この教会には六十年以上の歴史があります。初めて教会に来られた方は「クリスチャンになるか迷っている」というかもしれません。迷ったら、六十年物のクリスチャン、五十年物、三十年物のクリスチャンを見たらいいと思います。六十年物のクリスチャンがぼろぼろで、最悪の人生を送っていたらクリスチャンになるのはやめた方がいいかもしれません。
 しかしこの教会はどうでしょうか。六十年物、五十年物クリスチャンが、結構光り輝いています。イエス様に仕えて来て良かった!とみんな言ってくれます。それは大きな励ましとなるはずです。
 一人がクリスチャンになると、新しい世代も変えられていくのです。

 アメリカの社会学者が、十八世紀にヨーロッパからアメリカに移民した、二人の人生をピックアップして、その後八代、子孫がどうなったかを調査しました。一人はオランダからアメリカに移住したマックス・ジュークスという男。もう一人は、イギリスから入ってきたジョナサン・エドワーズという二人を対象に、それぞれが子孫に残した遺産について調査したのです。
 マックスはオランダから移民しましたが、大酒飲みで乱暴者、妻共々、利己主義的な人だったというのです。彼の子孫を八代、調査すると千二百四十人にもなったというのです。しかしその千二百四十人の人生の内訳を見ると、こんな内容です。
 マックス・ジュークスの子孫の千二百四十人のうち、

住所不定者 三百十人
窃盗常習犯 六十三人
受刑者 百三十人
乳児死亡 三百人
先天的異常者 四百人
貧窮者 三十人

 しかしジョナサン・エドワーズの子孫は、

大学総長 十四人
大学教授 百二十人
軍人 七十五人
牧師・宣教師 三百人
文学者 六十人
連邦議会議員 三人
弁護士 百十人
副大統領 一人
医師 六十人
裁判官 三十人

 ジョナサン・エドワーズは主を信じて、一家はクリスチャンホームでした。しかしマックス・ジュークスは乱暴者で神を否定し利己主義的な人だったのです。
 同じ時代にヨーロッパからアメリカに入っても、神を信じて家庭を築くのと、神に背を向けて生きるのでは、あまりにも対照的ではないでしょうか。
 一人がイエス・キリストを信じるとは、その人だけではなく、『主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます』とあるように、子々孫々、大きな影響を及ぼすのです。
 日本においてクリスチャンとして歩むのは少し困難があるかもしれませんが、一人の行動が未来を変えるという使命感を持って歩んでいただきたいと思います。
 それは自分の幸せだけでなく、将来、生まれ出るであろう新しい世代の幸せも関わるのです。
 私たちがイエス・キリストを信じるという、この一点において、幸せに関わるすべての条件が隠されています。

 続けて使徒の働き四章には、どのように記されているのかというと、四章二十九節から、

『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。』

 エルサレムでクリスチャンになった人たちは少し前まで、どのような人たちであったかというと、イエス様を十字架につける為の賛成票を投じたような人たちでした。イエス様の弟子たちでさえ、みんな逃げてしまいました。臆病者たちでした。しかし彼らが神の霊である聖霊を受けた後、同じ場所で大胆に福音を語り始めたのです。

 私たちの幸せをとどめるものの一つに「恐れ」があります。人が恐い、社会が恐いと、いろいろな恐れで幸せ度が低くなってしまうのです。しかし神の霊に満たされるとは、恐れの霊からの解放であることが分かります。

 神の霊である聖霊様に満たしていただかなければなりません。
 私たちは神の霊によってイエス・キリストを信じることができるわけですが、神の霊に生活全体を支配していただくことを、「聖霊に満たされる」と表現します。
 冬は顔を洗ったり水を使うのが冷たくて大変ですが、瞬間湯沸かし器があります。瞬間湯沸かし器には種火がついていて、コックを捻った瞬間にお湯が出ます。種火が点いていなければ、いくらコックを捻ってもお湯は出ません。お湯が出るためには種火が必要です。しかし、この種火だけではいくら待っても、熱いお湯は出ません。コックを捻るとバルブが開いて、ガスが出て炎で水を温め、お湯が出るわけです。
 イエス・キリストを信じると、心の中に聖霊の種火が点くようなものです。しかしそれだけではいけません。永遠のいのちはもらえるかもしれないけれど、個人の生活や他の人にまで影響を与えることは出来ないからです。
 しかし聖霊に満たされるとは、もう一回、コックを捻っていただく瞬間です。クリスチャンは、主を信じたら次に聖霊に満たされるよう祈らなければいけません。求めたらいただけるのです。聖霊様に満たされるということは、実に大きなテーマです。しかし、現代の教会は理解が少ないのです。
 弟子たちも聖霊に満たされた時、恐れから解放され大胆に福音を宣べ伝えるようになったのです。

 いつも話しますが、私も聖霊様に触れられてから、本当に変えられました。私は牧師の息子に生まれて「変な所に生まれちまったな…」といつも思っていました。両親は田舎で教会を始め、人が来ないからとりあえず、子どもをたくさん生んで教会を作ろうと思ったのか、兄弟ばかりやたら多くて、牧師の家庭なんて嫌だと思っていました。
 牧師の仕事は、関わらなければ一生関わらなくてもいい人たちの問題に自ら関わっていく仕事です。割に合わない仕事だと思っていました。そして、その割には評価されない仕事だと。「俺は絶対、将来牧師なんかなりたくない」と思っていました。
 しかし、聖霊様に触れられてから変わりました。この働きが楽しくなったのです。今私は、この働きが楽しくてしょうがないです。この仕事につけたことを、最高の幸せだと思っています。昔は最低だと思っていた仕事が、最高だ!と言えるようになったのです。エベレストの山頂に到達するよりも、神様のために使っていただけることを喜んでいます。

 「仕事があまりおもしろくない」とか、「なんでこんな家に生まれたのだろう?」と悩んでいる人もおられるかもしれません。しかし聖霊に満たされると、その場が変えられるのです。

 弟子たちに聖霊が注がれた時、周りで見ていた人たちは「こいつら、酒に酔っているんじゃないの?」と悪口を言いました。使徒たちが酔っ払いに見えたのです。だから「朝から酒を喰らっているのか?」と言ったのです。
 みなさんも酔っ払いを見たことがあると思います。見たことがあるどころか「酔っ払いだった」という人もいるかもしれません。日頃は弱々しくて、人前でしゃべれないような人でも、酔っ払うとどうでしょう。大胆になるじゃないですか。「部長がなんだ、課長がなんだ!」と言って、多弁になり、元気になりますよ。
 また、飲み屋の帰り道にどぶにはまって泥水に浸っても、「おじさん!おじさん!こんな所で風邪引くよ!起きて!」と言うと「うるせぇな。気持ちよく温泉に入っているのに、なぜ邪魔するんだ!」なんて言います。どぶ水でも、温泉と勘違いするのです。
 酔っ払いは人から見たら最悪の環境でも、最高だと思ってしまうのです。しかし酒が覚めたら、元に戻ってしまいます。

 聖霊に満たされると、どんな状況でも喜んで楽しんで生活が出来るのです。ですから、聖霊を求めてくださいと薦めています。
 皆が聖霊を求める教会になりましょう!韓国だったらこういう時、会衆は「アーメン!」というのですが、日本だと誰も言ってくれません。聖霊様に満たされたら、私たちの生活は変わります!「アーメン!」「いいですね!」
 私は今月、韓国で奉仕があります。ひさしぶりに韓国に行けるので、ちょっと嬉しいです。韓国教会では、みんな聖霊を求めています。何はなくとも聖霊様を求める態度が、祝福をもたらしていると思います。私たちも弟子たちと同じように、聖霊に満たされることを目指し、祈っていかなければなりません。
次に使徒の働き四章三十二節、

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。』

 先々週、私はこの箇所からお話しさせていただきました。聖霊が注がれて、三千人、五千人と救われた人たちは、どういう人たちだったのかというと、もちろん現地のユダヤ人もいたのですが、エルサレムに来ていた外国人も救われたのです。
 そして特に、神が目を向け集められたのが、「ディアスポラ」と呼ばれる海外に散らされたユダヤ人たちでした。その人たちが、たまたま五旬節でエルサレムに帰って来た時、聖霊が注がれたのです。
 ディアスポラの人たちに聖霊が注がれた時、リバイバルは力強く前進して行ったと話しました。初代教会は三千人、五千人と会衆が増えて行きました。
 そのように背景も全く違う人たちが、心と思いを一つにし、財布まで一つにしていたのです。

 共通項がある人たちは何も言わなくても集まります。みなさんもどうでしょうか。学校で友だちになるのは、趣味が同じとか共通項がある人たちですよね。共通項がない人たちが集まっても、なかなかうまく行きません。しかし教会は世の中のグループを超越しています。今日ここにおられる三百数十人の方々は皆、背景が違います。しかしイエス様を中心として集まっています。
 教会とは背景が違っても、国が違っても、民族が違っても、聖霊によって一つになる場所です。またそれを目指している場所です。その中に幸せは訪れるのです。

 幸せの鍵は自分と共通項を持った人たちの間にあるのではないかと、一般的に考えます。しかし、鍵は違った背景を持つ人たちと一つになる時、そこにあるのです。
 今日もここに様々な国から、ディアスポラと呼ばれるような領域からも来られています。また三河弁をしゃべる人も、関西弁をしゃべる人も、標準語をしゃべる人もいます。
 今日は午後から東京に行き、東京集会があります。東京に行けばみんな江戸弁です。私は三河弁でメッセージですが、よくぞ耐えてくださっていると思います。
 言葉も国籍も越えて一つになる時、幸せの鍵を与えてくださるのです。

 全日本リバイバルミッションでは、今年、和歌山でミッションを行います。そして来年は、タイのチェンマイで開催されます。また、今週私は、スペインに行きます。
 スペインに行きますと、日本とは文化も習慣もかなり違います。メッセージもやりにくい面があるわけです。しかしフェルナンド先生がいて、私のメッセージをうまく通訳してくれます。麗しい一致の中で福音が伝えられるわけです。

 私たち日本人は日本語を当然のようにしゃべっています。これがすべてだと思っていますが、すべてだと思ってはいけません。日本語はとても都合の良い言葉です。なぜなら、結論を先送りすることができるからです。
 「教会に行き・・」「ます」とか「ません」とか、結論は最後に決めればいいからです。相手の顔色を見ながら、「どうしようか。行かないとまずいかな。行った方がいいかな…」と考えながら「教会に行き・・ます」とか「行き・・ません」となるわけです。
 しかし英語は「私は行きます。教会に。」「私は行きません。教会に。」です。スペイン語はもっと結論を先に強調するそうです。
 だから私はあちらでメッセージを語るとき、いつも心に葛藤があります。日本だと最初に結論を言うと「結論は最後まで隠しておいてくれよ…」となるわけです。
 でもスペインで日本的論法でメッセージをすると、「あんた何言っとる?何が言いたいわけ?」となるわけです。結論を後に言うと伝わらないのです。向こうは最初に結論をぼんっと出しておいて、後から結論について説明するのです。英語も文法的にそうです。スペイン語はさらにその傾向が強いというのです。
 「先に結論を話すのは辛いな…」と思いますが、自分と戦わなければならないのです。
 日本語と韓国語はいいです。最後に結論を言えばいいわけですから、結論は最後まで隠しておけばいいわけです。言葉は人の内側を形作ります。しかしそれらすべてを越えて、神が全人類を支配しておられます。違いを超えて一致する時、幸せの鍵が私たちに手渡されます。教会が国を越え、言葉を越えて一致して神の国を拡げる時、そこに住む人は皆、幸せになるのです。

 さて、今までは、ある意味、幸せになる為の積極的な面と条件を見て来たわけですが、四章は、五章の記事とリンクして、幸せの条件を教えています。
 四章に引き続き、五章一節~五節を読むと、ちょっと読み飛ばしたいような記事があります。

『ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。』

 初代の教会の「乏しい人は一人もいなかった」と記されている中心的意味は経済的なことでした。なぜなら、そこに集まっている会衆、三千人、五千人という人たちが、自分の持っている家とか土地を売って分配していたからです。みんな助け合っていたわけです。
 お金持ちは自分の家を売ってささげ、使徒たちが経済を管理していたわけです。その光景を見ていた、アナニヤという男とサッピラという奥さんが、ある時、自分の土地を売って使徒たちの所に金を持って来たのです。自分の持ち物を売ったわけですが、その代金の一部を隠しておいて、「代金の全額を献金したい」と言って持ってきたのです。「これは全額ですか?」とペテロが聞くと「はい。全額です」と答えました。
 するとペテロは「おまえは何を言ってるんだ。それは嘘だ。一部を残しているだろう。それは神を欺いたことだ!」と厳しい言葉を語っています。その途端、アナニヤは倒れて死んでしまったのです。
 その後、奥さんが知らずに入って来て、奥さんも嘘をつきました。すると同様に倒れて死んでしまったのです。

 ひどい話です。現代社会なら「これは犯罪だ!ペテロは警察に捕まるぞ」という話です。こんな話を挿入したら、キリスト教布教には不都合です。けれどもこの話が挿入されているのは、後の世代のために、大きな教訓であると思われます。

 教会の誕生日は聖霊が注がれたその日であると言われます。しかし教会(エクレシア)という言葉が初めて使われたのは、このアナニヤとサッピラ事件の後なのです。五章十一節に、

『そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。』

と記されています。それまでは「教会」という言葉は使われていません。「信徒たちの群れ」だとか「使徒たち」という表現ですが、このアナニヤとサッピラの事件の後、初めて「教会」という言葉が使われました。
 何が言えるのかというと、これは聖霊が注がれて、聖霊による共同体、教会が完成するまでには、サタンの攻撃もあったし、犠牲もあったということです。
 このような厳しさの中から、教会は生まれたという事実 を、ここで告げていると思います。私たちも今こうして教会に集っていますけれども、初代に教会が形成されるためには、教会を壊そうとするサタンの力や犠牲もあったと言うことを、知る必要があるのではないかと思います。また、教会も一朝一夕にできたわけではないということです。

 しかし最初の教会ですから、そこに悪い物、混じり物があったら、土台が悪ければ全てが悪くなりますから、やはり神は純粋な物を求められたのだと思います。
そんな中で現代を生きる私たちが、学ばなければならないことは何かということです。「同じ事をしたら神の裁きに会うのか?」と直結してはいけないわけです。教会が完成するまでには、そういうことが起きたけれど、今は教会が完成しているわけですから、神様は世界の教会を良しとされているわけです。初代教会の中から、私たちが教訓として、幸せの条件の鍵がここには隠されています。
 それは何でしょうか。一つは金銭に対する正しい態度を持たないと幸せになれない、ということを教えていると思います。第一テモテ六章十節、

『金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』

私たちは、何を中心とする世界に生きているのかというと、経済を中心とする世界構造の中に生きています。日本が豊かになった、貧しくなった、という指標はすべて経済です。アベノミクスがうまくいっているか、いっていないか、株が上がったか下がったか、円が安くなったか高くなったか、すべてお金です。私たちは、お金がなければ生きることはできないけれども、お金が生活の中心ではないということです。
 私たちは経済の中に働く「マモン」という、最も強いサタンの軍団に勝利しないと幸せになることはできません。
 経済の世界は決して善ではありません。マモンと呼ばれる敵の力が働く最前線です。日々私たちは経済活動に従事していますけれど、そんな中でもいつも聖霊に満たされ、世界の経済を支配する暗闇に立ち向かう者でなければいけないということを、ここで教えていると思います。
 毎日お金を稼ぐために働いていますけれど、決してお金に飲み込まれてはいけません。経済の背後に働いている暗闇は、強力な敵の力だということを、しっかりと認識しなければならないのです。
 このマモンの力、悪魔に打ち勝つ霊的戦いは、初代教会にもあったように、献金だと思います。この後、献金があります。
教会に行くと献金が嫌だなという人もいるかもしれません。献金は自分が稼いだお金を手放す行為です。普通はお金は掴む物ですが、献金では手放すのです。これは逆の行動です。みなさんは掴む為に働いています。しかし、教会に来て手放すのです。実に、これは霊的解放であり、霊的戦いなのです。
 普通は一円でも多く勝ち取りたいと願っているのが、それを手放すわけですから、大きな戦いです。献金は世界を支配する強力な敵の力、マモンと呼ばれる悪魔の組織に対して立ち向かう戦いです。
 アナニヤとサッピラの事件は、今を生きるクリスチャンに対して、「お金に関して勝利しなさい。正しい態度を取りなさい」と教えているのだと思います。それが私たちの幸せです。
 アナニヤとサッピラは掴んでいました。これが問題でした。私たちもささげる額が問題ではなく、手を広げる行為が現代人にとって、大きな霊的戦いなのです。

 そしてもう一つは「虚栄心」です。このアナニヤとサッピラはみんなの前でいい格好をしたかったわけです。今の世は虚栄心に満ちた世界です。本当の自分は隠して、表面を飾り立て良く見せることを虚栄心といいますけれど、虚栄心が強いと幸せになることができません、と教えていると思います。

 最後に偽りから、私たちは離れなければならないことを教えています。仏教では嘘も方便とか言って、嘘を言うことも必要だと日本人は考えています。この偽りには、父親がいます。親父は悪魔なのです。私たちが偽りの父から離れるためには、真実に生きることが重要です。

 アナニヤとサッピラに厳しいことを言ったのは、他でもなく、ペテロでした。本来は「ペテロさん。あんたには言われたくない!」と言いたくなります。なぜならペテロは一番の嘘つき男だからです。イエス様が十字架についた時、ある所でペテロは言われました。「おまえはイエスの弟子じゃなかったかい?」『違う、違う。』「おまえガリラヤ弁じゃないか。おまえがイエスの弟子であったのは間違いない。」『違う、違う』と三回も嘘を言ったのです。
 しかし、なんとこの大嘘をついたペテロが、後にペテロの手紙に次のように書いています。第一ペテロ三章十節~十一節。

『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。』

 彼は人生の中で多くの失敗したけれど、一番気をつけなくてはいけないのは「偽り」だと語りました。
いのちを愛し、幸せな日々を過ごしたいならば、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを言わないのが、幸せの第一条件だと語ったのです。彼は自分が偽りを言ったことが人生一番の傷になったのを体験していました。それで、幸せの条件は、偽りを言わずに真実に生きることだと語ったのです。
 ゆえに罪赦された後、彼は、やはり人一倍偽りに関しては厳しかったのではないかと思われます。
 幸せになる条件は、金銭に対する正しい態度、虚栄心、そして、偽りから一線を画して生活することが秘訣です。

 今日、私たちは共に幸せになる条件を学びました。今週六日間の中で、主が完成を与えてくださるよう、今日の事柄を心に留めておいていただきたいと思います。「彼らの中には一人も乏しい者がなかった」と言われるような、すばらしい聖霊による共同体・教会となるよう、心から願っています。

 最後にイエス様の十字架の血潮を感謝し、聖餐式に移りたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝いたします。今日は幸せのための条件を学ぶことができたことを感謝します。私たちが決して経済の世界の中で、金に捕まえられたりすることがないよう、虚栄心に捕まえられたりすることがないよう、また、偽りを語る者でないよう守って下さい。悪から遠ざかり、幸せに生きることができるよう、支えてください。
 今日はこの場所で聖餐式を行います。イエス様、あなたは自分のいのちさえも捨ててくださいました。その愛を心から感謝して、また自分自身を吟味して、聖餐をいただきます。これからの一時を祝福してください。感謝を持ってイエス・キリストの御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。