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『一つのからだ、多くの器官

2013.6.9 (日)
リバイバル聖書神学校長 山﨑ランサム和彦師
コリント人への手紙第Ⅰ 12章12節

『ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。』


 主の御名を賛美いたします。私は普段はリバイバル聖書神学校の教師として講義をさせていただいていますが、今日このようにしてこの礼拝のメッセージの奉仕を、新城教会では初めて仰せつかりまして、少々緊張しておりますけれども、よろしくお願いいたします。

 少し前のことになりますが、五月十二日に新城文化会館の大ホールで、「とべないホタル」というミュージカルが上演されました。私の妻と娘たちも参加していましたので、私も観に行きました。この教会からも何人かの方々が観に行かれたようですが、当日は一〇〇〇人を超える盛況で、たいへんな好評でした。私もこの劇を見て大きな感動を受けました。それは家族が出演しているという身びいきだけでなく、劇自体のストーリーがたいへん良くできているということも大きかったのです。それはこんなお話です。

 ある夏の夕暮れ時、水辺で一斉に羽化したホタルたちは、元気に飛び回っていました。しかしその中に一匹だけ、生まれつき羽が縮れて飛べないホタルがいました。仲間たちは一生懸命励まそうとしますが、どうすることもできません。やがて皆は一匹また一匹と飛び去って行き、とべないホタルは一人取り残されてしまいます。

 ある日、とべないホタルが木の枝に登っていると、やってきた人間の子どもに捕まりそうになります。絶体絶命のホタルを救うために、仲間の一匹が自分から子どもの手に飛び込みます。「自分は一人ぼっちだと思っていたけど、みんなは僕を見守ってくれていたんだ。そしてあのホタルは僕のために子どもの手に飛び込んでくれた」。とべないホタルは仲間の自己犠牲に心を打たれます。

 やがて身代わりになった勇気あるホタルは、人間に逃してもらって、仲間の元へ帰って来ます。けれども、再会を喜んだのもつかの間、ホタルたちは嵐に巻き込まれてしまいます。嵐が去った後、とべないホタルは泥に埋まった仲間を助けますが、そのホタルは目が見えなくなっていました。それはかつてとべないホタルの身代わりになってくれた勇気あるホタルだったのです。また別のホタルは嵐のショックで光を失ってしまいました。ホタルたちは絶望してしまいます。でも、とべないホタルは皆を励まします。「見えなくても、光れなくても、たとえ飛べなくても」僕らはみんな同じホタルなんだと。

 嵐と人間の開発で住処を追われたホタルたちは、新天地を求めて行こうとします。目の見えないホタル、光れないホタル、とべないホタルたちは、力を合わせて助け合い、皆で旅立って行きました。

 「とべないホタル」のあらすじは以上のようなものです。この話は元々ある小学校の先生がいじめをなくそうと思って書いた話だそうです。作者の方がクリスチャンかどうかは存じ上げませんし、キリスト教的なメッセージを意図して書かれた物語でもないかもしれませんが、この劇を観た時に、私はこの話にはとても聖書的なメッセージが含まれていると思いました。

 人間に捕まりそうになったとべないホタルの身代わりとなって、仲間のホタルが自分から子どもの手の中に飛び込むシーンを見て、クリスチャンなら誰でも、私たちの罪のために身代わりとなってくださったイエス・キリストの十字架の犠牲を思い起すのではないでしょうか。また、ホタルたちが様々な傷を抱えながらも、助けあって一緒に飛び立っていくところは、まさに今日の聖書箇所でパウロが語っている教会の姿を連想させます。今日はこのところから、教会の一致ということについて、ご一緒に学んでいきましょう。

 コリント人への第一の手紙は、今で言うギリシャに位置するコリントという町にあった教会に宛てて使徒パウロが書いた手紙です。このコリント教会はパウロが二度目の宣教旅行で開拓した教会でしたが、さまざまな問題を抱えていました。その中でもっとも根源的な問題は、教会の分裂でした。コリントの教会は様々な賜物や知識にあふれた、ある意味では豊かな教会でしたが、そこのクリスチャンたちは互いに賜物の優劣を競い合い、いくつもの分派を作って対立していました。そのようなコリント教会に対して、パウロはキリストにあって一致するように呼びかけます。そして十二章では、先ほどお読みいただいた十二節から始まって、教会をキリストのからだに、そしてクリスチャン一人一人をその器官に喩えて詳しく論じています。

 この有名な「からだと器官」の比喩は、教会における多様性と一致を見事に表現しています。私たちクリスチャンはそれぞれ異なる背景、性格、賜物、使命が与えられていますが、そのような違いは互いの優劣を表しているのではなく、また一致を妨げるものでもなく、キリストにあって一致するために必要なものだ、とパウロは言います。コリントのクリスチャンたちは様々な聖霊の賜物を豊かに与えられていましたが、それらの賜物を教会を建てあげるために使うどころか、自分の霊的能力を誇示して、互いに批判しあっていたのです。パウロは十二章から十四章にかけて、賜物について詳しく論じていますが、十二章では、様々な賜物の働きは違っても、それらはみな、同じ「御霊の現れ」(七節)であると言います。ですから、クリスチャンは互いに働きや能力が違っても、同じ御霊によって力を与えられ、同じ神様を信じ、同じキリストに仕える存在なのです。

 そのような「からだ」の中では、互いに異なっていることは悪いことではなく、むしろ良いことだ、とパウロは言います。「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。」(十七節)。癌というのは、同じ種類の細胞が無制限に増えていく現象です。たとえば胃がんというのは、胃の細胞が際限なく増殖していくことから起こってきます。胃は重要な器官ですが、身体全体が胃になってしまったら人間は死んでしまうのです。私たちは他人と同じである必要はありません。いいえ、違っているからこそ、互いに助け合い、全体を生かしていけるのです。

 二二節から二六節では、パウロは引き続き身体と器官の喩えを使っていますが、議論の焦点は少し異なってきています。

 「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」

 ここでは、パウロは身体の中で「弱い」器官、「劣った」器官について語っています。けれどもこの手紙全体をよく読むと、パウロは本当の意味で他のクリスチャンより「弱い」とか「劣った」クリスチャンが存在するとは考えていないことが分かります。それはあくまでも人間的な視点から見ての「弱さ」なのです。しかし、実際には私たちは人を外面で判断し、「あの人は劣っている」とか「信仰の弱いクリスチャンだ」といったレッテルを貼ってしまうものなのです。けれどもパウロは、そのような人間的に見て「弱い」クリスチャン、「劣った」クリスチャンも、教会の中で大切な存在なのであり、私たちは互いに助け合わなければならないのだと言うのです。

 二八節以降では、パウロはさらに議論を進めて、教会内での種々の役職について論じていきます。しかし、今日私たちは、ここで立ち止まって、パウロの言う「弱さ」ということについて、もう少し考えてみたいと思います。

 パウロは手紙の中で何度も、教会の中で弱い人々を助けるようにと命じています。たとえばローマ人への手紙十五章一節では、

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」

と書かれています。教会の中で弱っている人々を助ける。これはパウロの教会理解から考えて当然のことでしょう。

 しかし、パウロが「弱さ」について語っているのは、このような箇所だけではありません。一見私たちの個人的な弱さを神様がそれぞれ強めてくださると語っているように見える箇所も、「キリストのからだ」という視点から見てみると、さらに深い理解を得ることができると思います。いくつかそのような箇所を列挙してみます。

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第Ⅱコリント十二章九~十)

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ人への手紙八章二六節)

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ人への手紙四章十三)

 まだ他にもありますが、このくらいにしておきましょう。私たちは普通これらの箇所を読むと、個人のクリスチャンが、それぞれ弱さの中で神様から力をいただいて、強められるというイメージを持ちがちです。私たちは「人に頼るのは恥ずかしいことだ」という意識があって、自分の弱さに直面したときに、その問題を自分と神様の間の関係の中だけで解決してしまおうとするところがあるのかもしれません。

 けれども、パウロがこれらの箇所で語っているのは、ばらばらのクリスチャンがそれぞれ神様から力をいただいてパワーアップしていく、という個人主義的なメッセージではないと思います。もちろん、クリスチャン個人が祈りや聖書の学びを通して神様から助けをいただいていくことは大切ですが、それと同時に、神様が私たちを力づけようとなさる時には、教会という共同体を通してそのことをしてくださるという側面も忘れてはなりません。パウロは彼が第一回目の伝道旅行でガラテヤ地方の諸教会を開拓した当時のことを、次のように振り返っています。

「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。」(ガラテヤ四章十三~十五節)

 このように、パウロ自身が伝道旅行の中で弱さを覚えていた時、ガラテヤの人々に助けられたのでした。私たちは「使徒パウロ」というと、弱さや問題とは無縁の霊的スーパーマンのような伝道者で、人に頼らなくても何でも自分でできた人のように思うかもしれませんが、そうではありませんでした。実はパウロの「力強い」伝道活動はこのように、他の兄弟姉妹たちに支えられながら前進していったのです。

 最初にお話しした、「とべないホタル」の中で最も感動的なシーンは、ホタルたちが新天地を求めて行こうとする場面でした。目の見えなくなったホタルは、皆と一緒に行きたくても、一人では飛ぶことができません。そのホタルにとべないホタルが語りかけます。「僕が君の目になるよ。君は僕の羽になって、僕を抱えて飛んでくれれば」いいんだと。

 一方のホタルは、羽は動かせるけれども、目が見えません。もう一方のホタルは、目は見えるけれども、飛ぶことはできません。この二匹のホタルはそれぞればらばらでは、どちらも飛ぶことはできません。けれども、目の見えないホタルが、とべないホタルを抱えて一緒に飛ぶとき、飛べないホタルは目の見えないホタルに行くべき方向を教えて、自由に行きたいところに飛んでいくことができるのです。このイメージは、私たちクリスチャンのあるべき姿を表しているように思います。

 私がこのホタルの姿に感動したのは、一方的に強い者が弱い者を助けるというのではなく、それぞれに弱さを抱えながらも、互いの弱点をカバーしあっていく姿が描かれているからです。パウロもコリント人への第二の手紙の中で、マケドニヤの諸教会が、自ら極度の貧しさと試練の中にありながらも、困っているユダヤの教会を助けるために精一杯献げた姿勢を賞賛しています。

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。」(第Ⅱコリント人への手紙八章一~四節)

 教会はこのようなものでなければならないと思います。私たちは「自分も弱っているのに、他の人を助ける余裕なんてない」と思ってしまうことがありますが、自分の弱さに目をとめるのではなく、自分にできることは何か、と視点を変えていくときに、私たちにも他の人を助けることができるのに気がつくと思います。逆にあなたの弱さを支えることのできる人も出てくるでしょう。

「とべないホタル」の劇の最後の方に、こんな歌詞の歌があります。

「飛べないことよりも、見えないことよりも悲しいこと、それは心の通う仲間がいないこと。心の通う仲間があれば、同じ思いで飛べる。」

 これをクリスチャン的に言い換えるなら、こういう風に言えるかもしれません。

「目立った賜物がないことよりも、問題を抱えていることよりも悲しいこと、それは共に祈り支えてくれる信仰の友がいないこと。キリストのからだに属する仲間がいれば、同じ神の国の希望を持って歩むことができる。」

 いま弱さを覚えている方に申し上げます。あなたは一人ではありません。また、周りにそのような弱さを覚えている人がいるなら、あなたにもできることがあります。キリストのからだとして一つになって、神の国を目指して、一緒に飛んで行きましょう。