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『あなたはどの道を選びますか?

2013.6.16 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書 14章5節〜6節

『トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』


 ハレルヤ!おはようございます。すばらしい演奏を聴くことができました。今夜はたっぷり聴くことができますので、楽しみにしていただきたいと思います。
 頌君のファッションは、今から田植えに行くのではないかというような格好でした。

 教会は、一つの大きなファミリーです。先週は、山崎先生のメッセージで恵まれたでしょう。私はいらないと言われそうですけれど、教会には多くの器官があり、一つのからだなのです。そして教会に属する時、主はあらゆる危険から守ってくださいます。

今日のメッセージには映像が多くあるので、子どもたちは楽しみにして下さい。短い映像があります。短いので、あっという間に終わってしまうから、よく見て下さいね。



 皆で心を一つにする時、危険から守られるのです。

 みなさんのお祈りに支えられ、先週はスペインのマドリッドで奉仕させていただきました。スペインには、たった四日間の滞在でしたが、お祈りに支えられ、大変すばらしい集会を持つことができました。

 スペインには近代的な街が広がっている反面、古い街並も残っています。
 歴史の深い国です。スペインの空は普通は、晴れていて気候的にも過ごしやすい場所です。

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 スペインがなかったら、世界の歴史は大きく変わっていたと思われます。今回は、「霊的戦いセミナー」で奉仕をさせていただきました。

 マドリッドに到着早々、ホルヘ先生にラジオ局に連れて行かれました。

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 何の打ち合わせもなく、突然、一時間のラジオ番組をやってくれと頼まれました。ホルヘ先生はなかなかタラントがあり、週に二度、一時間番組を一般のラジオ局で担当しています。
 「何を話してもいいよ」と言うのですが、公共の電波ですし、イデオロギーや宗教等、微妙な社会情勢がスペインにはありますから、ちょっと緊張しました。しかし、良い番組となりました。ラジオを聞いている人たちから、番組中に多くの祈りのリクエストが届きました。
 今回のメインは「霊的戦いセミナー」でしたが、スペイン教会の牧師や、スペインには多くの南米系の牧師も多いのですが、牧師やリーダーたちが集まりました。

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 みんな真剣に私の話を聞いてくれました。スペインにはいろんな国の人が住んでいます。人種の全色揃っている感じです。

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 フェルナンド先生が通訳をがんばってくれました。

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 セミナーの最後に、真剣に手をあげて祈る姿がとても印象的でした。「戦いの剣を受け取り、暗闇の力を打ち破りましょう」と勧めて、祈りました。

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 今回も「チーム新城」でした。ホルヘ先生、フェルナンド先生、そして、私です。皆、新城教会出身者です。スペインでこんな奉仕が出来るとは、夢にも思いませんでした。
 日曜日の礼拝では、子どもたちのためにお祈りました。

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 子どもの時代に霊的戦いの剣を受け取ったら、一生、守られると思います。私は世界中、どこに行っても、子どもたちが戦いの剣を受け取るように、祈ることにしています。

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 これが新城教会のマドリッドにある支部教会のメンバーたちです。是非とも、続けて、お祈りしていただきたいと思います。

 私はスペインから帰って来てすぐに、和歌山に行きました。現在、「和歌山リバイバル・ミッション」の決起集会が行われていまして、これは和歌山県の隣、奈良県での集会です。ロン・ブラウンさんもがんばってくださっています。

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 是非とも、和歌山リバイバル・ミッションのために、お祈りしていただきたいと思います。

 私は明日から栃木県で奉仕があります。忙しい毎日ですが、みなさんも忙しいと思いますが、お互いに精一杯、主の為に働きたいと思います。

 昨晩は中高生の「レッツプレイズ」という集会がありました。

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 中高生たちが二百人近く集まりました。大変すばらしい集会でした。出し物も全て中高生によるのです。私はたいへん感動しました。バンド演奏、ダンス、何から何まで中高生が企画して、多くの若者たちが集まり、福音を聞きました。きっと参加した若者たちの人生は変わると思いました。

 先ほどみなさんと読んだ聖書の箇所は、大変有名な箇所です。『わたしが道であり、真理であり、いのちです』と、イエス様が人類に道を示された箇所です。
 人生には一般的に、多くの道があるように思います。それで、どの道を歩んでよいのか選択に困ります。
 人生は山あり谷ありで、それを乗り越えていかなければなりません。しかし教会に来ると、様々な問題を乗り越える力が与えられます。

 もう一つの映像をご覧下さい。これは人生を表しているのかもしれません。様々な障害を乗り越えるのが人生です。なかなか痛快な映像です。



 これがオチです。順調に障害を乗り越えても、最後に行き詰まることもあります。
 人間は悲しいもので、誰でもやがて死ななければなりません。それは悲しい現実です。時に、人生をろうそくで例えたりします。

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 だんだんと短くなって消えていくわけです。

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 しかし中には、このような豪快なばあちゃんもいるわけです。なかなか、この年まで生きるのは難しいです。
 以前にもお見せした、人生を現す映像をもう一度、見せたいと思います。



 今、どの辺を飛行中なのでしょうか?遅かれ早かれ、皆、終着駅は墓場というわけです。生きることは厳しい現実です。そして、死ぬことも、誰もが避けて通れない、悲しい現実です。ならば、「死後の世界」も現実です。

 日本人は厳しい現実に対し、現実を直視して、力強く生き抜く民だと思います。しかし、死後の世界となると、急に、空想の世界や宗教の世界にしてしまうのです。
 生きることも現実、死ぬことも現実、死後の世界も現実です。ならば、私たちは皆、死後何が起こるのか、しっかりと把握しなければいけないのです。それでこそ、真に力強く生きることができるのです。

 トマスという人が「あなたがどこに行かれるのか、その道が分かりません」と言いました。トマスの言葉は、日本人を代弁しているかのようです。
 日本人に生まれたら、死後、三つの道が用意されているように感じます。三つの中から、一つを選ぶことになるのかもしれません。
 人間には選択の自由、自由意思が与えられています。自由意思を持っているのは人間だけです。他の動物には、自由意思はないようです。しかし人類には自由意思が与えられていて、自由に物事を選ぶ権利があります。今日、礼拝に来ることも、来ないこともできました。みなさんは、良い道を選ばれました。「今日は新城教会の礼拝に行こう!」と決断したから、ここに来ることができたわけです。
 レストランに入っても、メニューの中から、自分の好きな物を選ぶことができるわけです。それは選択の自由です。

 死後の世界も、選択の中で決まるのです。今日、クリスチャンの方もおられますし、クリスチャンでない方もおられます。近頃、教会に来られた人など、様々な方がおられます。しかし、考え方は多少違っても、人生の終着駅は同じですから、正しい選択をしなければいけないのです。
 一般的に、死後の世界は三つの選択肢しかないと思われます。三つしかなかった場合、どれを選ばれるのでしょうか。今から、三つを申し上げます。

 第一、「死んだらすべてが消えて無くなる」。第二番目は、仏教がよく言う死後の世界です。「死んだら四十九日後に、輪廻して地上に戻ってくる」。そして三番目は、日本人が最も広く受け入れている世界観です。「死んだら先祖の霊の一員となって、墓場や仏壇に寄りつく」。以上のような選択肢です。

 一般的に、クリスチャンでなければ、日本人として生まれたら、この三つの世界観しかありません。ゆえに、三つの中からどれか一つを選ぶということではないでしょうか。
 しかしこの三つ、よく考えたら、どれも選びたくない世界ばかりです。日本人は死後の世界に関して、深く考えていないのです。現実については、真剣に考えていますが、最も真剣に考えなければいけない死後の世界については、あいまいにして、考えていないのです。
 三つしかない死後の世界から一つ選べと言われたら、どうしますか。「この三つの中から選ぶのかよ・・・」と、戸惑ってしまうはずです。

 皆さんの中で、「死んだらすべてが終わり。すべてが無くなる」という世界があったら、それを選択する人はどのくらいおられるのでしょうか。
 死んだらすべてが無くなるとしたら、虚しいです。一生懸命働いて勝ち得た地位も、名誉も、財産も、人間関係も、死んだ瞬間、すべて砕け散って消えてしまうとしたら、そんな悲しいことはありません。
 今日、ここに多くの方が集まっています。すばらしい関係が築かれています。しかし死んだ瞬間、それらがすべて砕け散って、世界のどこを探しても、宇宙のどこを探しても、魂の片鱗さえも見つけることができないとしたら、あまりにも悲しいです。これを選べと言われたら、私なら、かなり戸惑ってしまいます。

 次に、日本人がよく言うのは「死んでも輪廻してくるさ・・・」ですが、輪廻も考えてみれば、悲しい現実が待っています。
 日本人は誰かが亡くなったら、四十九日間は一生懸命拝みます。なぜなら仏教においては、死んでから四十九日間は、地獄で閻魔大王の裁きを受けるらしいのです。地上での行いに応じて、閻魔が輪廻先を決めるそうです。
 しかし仏教においては、「世」とは「悲しい苦の世界」という前提があります。前世の行動如何においては、人間に生まれ変わることは難しいみたいです。人間ではなく、犬になったり、猫になったり、猿になったり、虫になったりもするらしいのです。

 日本人の動物愛護の精神は西洋の動物愛護の精神とは、ちょっと違うと主張した社会学者がいました。なぜかというと、日本人には輪廻思想があるからです。飼っているペットを、最後の最後まで看取ってやりたいという気持ちがあります。
 アメリカなんかに行きますと、案外ペットに関してさばけています。自分の家で長いこと飼っていた犬が弱くなったら、ある日、獣医さんの所に持って行って安楽死させ、その帰りに新しいペットを買ってきたりします。「さばけてるな~」と思います。でも、日本人は違います。最後の最後まで、看取ってやりたいという気持ちが強くあるのです。
 もちろんそれは、ペットに対する愛情があるからですが、その社会学者によると、根底に、輪廻思想が関わっているのではないかというのです。
 徳川綱吉は犬将軍で、犬を保護したのはなぜかというと、「目の前にいる犬も、もしかしたら、前世は人間だったかも知れない・・・。自分も犬によくしないと、犬に輪廻させられては困る」と考えていたからでした。

 愛し合っていた夫婦が死に別れたら、ご主人は犬になり、奥さんは猿になった。生まれ変わったら「犬猿の仲」で、大げんかじゃないですか。
 ある人は虫になって、蝉になったら悲惨です。一生を暗い地下で生活し、やっと地上に出られた!と喜ぶと、七日くらいで木から落ちて死ぬのです。一度、輪廻地獄にはまったら、二度と再会は許されません。ずっと、おっかけっこです。
 苦しい世に生まれては死に、生まれては死に、それが永遠に続くのかと思うと、ぞっとします。本気で輪廻を選択したい人は、どのくらいいるのでしょうか。輪廻思想をよく研究するなら、絶対に選びたくないです。

 そしてもう一つ、「人は死んだら先祖の霊の一員となり、死者の霊は地上に残る」という考えです。
 実は、「輪廻」と、先祖の霊を拝む「先祖供養」とは、真っ向から対立する思想です。日本人は輪廻と先祖崇拝を同時に口にしますが、全く矛盾する対立した考え方なのです。本気で輪廻を信じるなら、墓は作らないし、先祖の霊もいないことになります。なぜなら、四十九日もしたら、死者は地上に生き物としてリサイクルしますから、先祖の霊なんていないのです。輪廻思想とは、地上に古い体を残しておくと綺麗に輪廻できないという考え方なので、決して墓は作りません。
 私は二回ほどネパールに行きましたが、彼らは真剣に輪廻を信じています。ですから、人が死んだら火葬にします。日本も火葬すると言うかもしれませんが、日本は火葬ではないのです。骨を残すから「土葬」なのです。
 輪廻を信じている国々では、火葬にしたら、残った灰さえすべて川に流してしまうのです。お金持ちは薪をたくさん買えるので、体を綺麗に焼くことができますが、お金がない人たちは薪を十分に買うことができないので、体を焼き切ることが出来ません。焼き切ることができないと、輪廻できないのです。ではどうするのかというと、うまくできていて、火葬場は川のほとりにあり、火葬で少し残った体は全て河原に落とします。すると下に犬が何匹も待っていて、綺麗に食べてくれるわけです。輪廻思想には、先祖の霊がこの地上に住むという考えは全くありません。

 しかし日本ではどうでしょうか。人が死んだら、地上に霊魂が残ると考えるわけです。だから墓参りに行ったり、仏壇を拝んだりするわけです。「それは習慣だ、文化だ」と、簡単に片づけていますが、前提になる論理があるのです。それは仏教ではなく、「儒教」の考え方です。
 先祖の霊が墓に、仏壇にいるという考え方により、人々は先祖礼拝を行っているのです。それは日本人が一番自然に受け入れている、死後の世界観だと思われます。しかしこれもよく分析してみると、選択することに躊躇します。
 多くの人は、先祖の霊となって、家族と死後も関われるからいいと考えます。

 私は先日、儒教の専門書を読みました。そこに、おもしろい事が書いてありました。日本人は人生に問題が起きると、どういう行動を取るのかについてでした。日本人はまず第一に、科学の最先端の手法を選択し、問題解決を探るというのです。もしも病気になったら、どこに行って治療してもらいますか?やはり、最高の医療を求めたいです。
 しかし、最先端にかかわりながら、一つの方法にも手を出すというのです。
 何か事件が起こると、「あんたの家、悪いことがよく起こるね。祟られているんじゃないの?あそこによく当たる拝み屋さんがいるから、行って拝んでもらったら?」と、誰かに言われるというのです。それで拝み屋さんに行く人が多いというのです。

 拝み屋は世界中、どこにでもいます。人類は同じ考え方を持っていると思われます。スペインにも霊能者が多くいました。南米にもいます。どこにでもいるのです。

 霊能者の所に行くと、なんと言われるのか…、ほにゃほにゃと拝んでまず言われることは「あんたのじいちゃん、ばあちゃんは死にましたか?」と。「死にました」と答えると、「じいちゃん、ばあちゃんをよく供養してあげてくださいね」と言うわけです。一般的に孫は、じいさんや、ばあさんとは麗しい人間関係がありますから、「供養してあげてくださいね~」と言われたら、一生懸命拝んであげたい、という気持ちになります。
 続けて、「あなたの両親はどうですか?亡くなったんじゃないですか?」なんて言うのです。だいたい霊能者はインチキですから、相談者の年格好を見て、両親が死んでいないのか、生きているのかを見極めながら言うわけです。だからだいたい当たるわけです。「あなたの両親のためには、もっと真剣に供養してあげてくださいね」と言うわけです。
 さらには「あなたのひいじいちゃん、ひいばあちゃんの事も忘れずに、供養してあげてくださいね」と言います。

 どうでしょうか。ひいじいちゃん、ひいばあちゃんの世代までが、地上で生活を共にできる限界です。私も、孫がいますから、私の両親から見るなら、四代が共に生きている事になります。四代とは、人間関係を築くことのできる、限界であり、最大スパンです。
 拝み屋は、「よく知っている親族に関しては、よく供養してあげてください」と言うのです。
 相談者が「問題はなぜ起こるのですか?」と質問すると、だいたい世界中同じ答えだというのです。「あんたの十代前の先祖が祟っている」と答えるのだそうです。五代以上の先祖は「祟る存在」なのです。
 「どうしたらいいですか」と聞くと「それは祓わなければならない」というのです。「じゃぁ祓ってください」と頼むと、「お祓いのためには、お金がいります」と、拝み屋は相談者の足下を見て、値段を決めるのです。

 何が言えるのかというと、先祖の霊は三代、四代先までは身内でも、五代目から先はころっと変わって、家族・親族に対して敵となるのです。
 「先祖の霊になる」というのが、日本人がもっとも受け入れている死後の世界観ですが、三代・四代先までは身内でも、五代目から先は敵となって「災いを与える存在と化す」のです。地上を生きる親族に、祟りを与えるおそろしい存在に変わってしまうのです。
 いかがでしょうか?死後、そんな存在になりたいでしょうか?

 日本には、三つの道しか用意されていないわけです。その中から一つを選べというのですから大変です。三つとも、お互いに対立する考え方ですから、同時に二つとか、三つを選ぶことはできません。一つしか、選べないはずです。
 死んだら完全に無くなるのか、輪廻転生してくるのか、または、先祖の霊となって五代先には呪ったり、祟ったりする存在になるのか…。日本人に生まれついたら、死後は三つの中から一つを選ぶしかないことになります。

 本気で死後の世界について考えたら、どの道も選びたくないはずです。その三つは一口で言ったら、「滅びの道」と言わざるを得ません。他に道はないものでしょうか?

 しかし教会に来ると、一般では三つしか選択肢がないのが、もう一つ、選択肢が増えるのです。
 一般の日本人なら、三つしか選ぶ道はないけれど、クリスチャンになると、もう一つの道が加えられます。その道は何かというと、今日、最初にお読みしました「ヨハネの福音書十四章の道」です。十四章一節から見ると、このようになっています。ヨハネの福音書 十四章一節〜六節、

『「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」』

 教会に来ると、普段は三つしかない道が、なんと、もう一つ道があることに気づくのです。その道が「イエス・キリスト道」です。イエス・キリストの道です。
 クリスチャンは死を、どのように捉えているのかと言いますと、それは「魂の引っ越し」です。
 引っ越しをしたことはありますか。私は人生の中で、あまり引っ越ししたことがないのですが、一回だけあります。結婚して三十数年、同じ家に住んでいましたが、ある夏の日に、風呂場を開けたら、中に羽アリがびっしり付いていました。どこから入ったんだろうと調べたら、柱から出入りしていました。よく見てもらったら、柱も土台も羽アリの食べ物になっていました。地震が起こったら倒れるよと言われました。それで、新しい良い家が建ちました。古い家は全て壊し、新しい家に引っ越したわけです。
 しかし、中に住んでいる家族は同じです。古い家から、新しい家に移った途端に自分が変わったわけではないです。外側は変わっても、同じ人が住むのです。
 私たちクリスチャンにとって死は、消えてなくなるのでもなく、輪廻するのでもなく、先祖の霊になって、やがて鬼になるのでもなく、魂の引っ越しです。イエス様が、場所を備えてくださるのです。場所が備えられたら、迎えに来てくださるのです。
 だいぶ肉体がぼろくなったな…。これじゃ、かわいそうだからと、イエス様が天で新しい住まいを備え、やがてお迎えの日が来るのです。
 日本人も「お迎えが来る」と言いますが、誰がお迎えに来るのかさっぱりわかりません。鬼が来るのか、曲がった鎌を持った黒い服を来た死神が来るのか、分かっていません。しかし私たちは、分かっています。

 家を備えたら、「あなたをわたしの所に迎えてあげる」と言われます。お迎えは、イエス様ご自身が来てくださるのです。
 その家は二度と虫もサビも付かない、永遠に朽ち果てない家です。そこに移ることができるのです。だから私たちクリスチャンは、現実の生活も、死も、死後の世界も、同じ土台、同じ神様の御手の中で捉えることが出来るのです。だから不安はないのです。

 遅かれ早かれ、やがてお迎えの日が来ます。その時、どの道を歩むのでしょうか。イエス・キリスト道を知らないで、三つの中から選ぶとしたら、本当に希望がないです。しかしイエス様を信じたら、永遠の希望があるのです。

 仏教では人が死ぬと法事があります。一周忌だ、三周忌だ、五周忌だと。いつまでやればいいのかと聞くと「そうだね。三十三回忌までやればいい」と言うのです。三十三回忌までやるような家は特別かもしれません。しかし本来は、三十三回忌までやらなければいけないそうです。三十三回法要が終わると、弔い上げで完成だそうです。
 しかしその後はどうなるのかと質問したら。「三十三年も経ったら、その人のこと、忘れちゃうね」と言っていました。人間は悲しいですよね。華やかな時代はあったとしても、三十年、四十年経ったら、皆、記憶が薄れていくのです。地上にいたことすら、記憶に残らないのです。
 百年もすれば、人類は総入れ替えです。百年後、戻ることができるなら、建物と椅子は残っているかもしれないけれど、誰一人残っていないのです。「あんただって、残っていないよ」と言われます。全員、この地上から、出ていくわけです。

 でもみなさん、私たちクリスチャンには希望があります。地上では、だんだん衰えていくかもしれないけれど、それにつれて、神様は天で新しい家の工事を始めて下さいます。地上のからだが壊れる前に、ちゃんと天の体が完成します。完成したら、イエス様自ら迎えてくださり、新しいからだに引っ越させ、住まわせてくださるとは、なんと大きな希望ではないでしょうか。
 普通なら三十三回忌もやったら「もう疲れた…」と言うわけですが、私たちはそうは言いません。クリスチャンに供養は必要ありません。
 誰かが天に帰って、三十三年経ったらどうでしょうか。記憶から薄れるのではないのです。地上で愛し合って、先に天に帰った人と三十三年も出会う期間が近づいたのです。私たちは日一日、別れた家族や友人に出会う日が近づいているのです。なんと大きな希望ではないでしょうか。

 普通は、じいちゃん、ばあちゃんから先に天に帰り、父さん、母さん、やがて、自分、子どもたち、孫たち、という順序で天に帰るでしょう。やがて、天の新しい住まいで全員集合する日が来るのです。この地上で育んだ愛が、天においてはもっと大きく育まれること、間違いなしです!

 しかし、ある人は言うかもしれません。「俺は天国なんか行きたくない。俺は地獄で十分だ。もしも、あのじいさんが天国に行っているのなら、再会なんてまっぴらだ。天国も地獄になる」と言う人もいます。
 いろんな考え方があるかと思いますが、地上でどんなに悪い人でも、天国に行くと良い人になるのです。

 引っ越しの時、不要品がたくさん出たかと思います。我が家でも引っ越しの時、荷物が三分の一くらいになりました。良いものだけを新しい家に引き継ぎました。
 人生も同じです。この地上では、悪い物もたくさん受け取ってしまいます。しかし新しい家に住まう時には、地上で受け取った悪い物はすべて、捨ててくださるのです。天で不必要なものは全て、捨て去って、新しい家に移るのです。
 この地上で荒れ狂っていた人でも、イエス・キリストを信じて天に帰ったなら、柔和な人に変わっているはずです。
 天国でおじいちゃんに出会ったら、おじいちゃんに出会うのではないのです。新しいからだに住まっていますから、青年の時代のおじいちゃんであるはずです。おばあちゃんだって、しわくちゃなおばあちゃんじゃありません。絶世の美人が出て来るはずです。私なんぞ、どんな髪型にしようかと、今からわくわくしています。みんな一番良い時の姿が、バージョンアップされ天に受け継がれるのです。

 本当に、そんな道があるならば、その道を選ばなければ損です。キリスト教は宗教だと言われますが、宗教だと思わないで欲しいです。生きることが現実、死も現実なら、死後の世界だって現実なはずです。
 さきほどの三つの死後の世界観は、空想の世界であり、同時に「騙しの世界」です。暗闇の力の騙しの原則が働いています。そんな世界に手を出したら、大変なことになります。

 しかし永遠のいのちを与えてくださるイエス様の道を歩むなら、それは真実であり、永遠に守られるのです。
 すべての方がイエス・キリスト道を選んでいただきたいと思って、教会は存在しています。宗教や哲学を押しつけるのではなく、現実はなんなのかをしっかり知っていただく為に、教会は存在しています。是非みなさんも、これからイエス様の道を歩んでいただきたいと思います。

 道を歩くためには、やはりルールが必要です。日本にも、道路交通法というルールがあります。ルールを守らないと、道を正しく歩むことはできないのです。
 イエス様が『わたしが道であり真理でありいのちです』と言われたことは、イエスの道を歩むルールも知らないと、幸せに生きることができません。
 教会は、道を歩むルールを教えます。イエス様の道を歩くルールを知り、この道を歩んでいくなら、この地上でも幸せに生きることができ、やがて永遠の世界に入ります。家族は天で全員集合し、イエス様と共に生きることができます。 最後に、ヨハネ十四章五節〜六節を読んでみたいと思います。

『トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」』

 私たちはやがて、どこに行くのでしょうか。もしも分かっていなかったら、今日しっかりと定めようではありませんか。イエス・キリストを通してでなければ、誰一人として、父の元に至ることはできないのです。今日はイエス・キリスト道を選択しましょう。

 最後に一緒にお祈りの時を持ちたいと思います。イエス様の道に入るために、特別な儀式は必要ありません。ただ、「イエス様。私はあなたの道を選びます」と声に出して、祈るだけで十分です。今から私がお祈りしますから、私の後について、声に出してお祈りしていただきたいと思います。

 この祈りは、あなたの永遠を変えます。大きな声で祈りましょう。子ども達も、若い時にこの道を選ぶなら、人生は幸せです。


 「イエス様。私はあなたの道を選択します。この世の三つの道ではなく、イエス様の道だけを選びます。私のために、天に住まいを備えてください。私の家族のために、天に新しい家を用意してください。今日私は、イエス様を、私の道として受け入れます。人生も守り導いてください。イエス・キリストの御名によって、祈りをお捧げいたします。アーメン。」