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『ひとりからの始まり

2013.7.7 (日)
タコマ JIBC 牧師 竹内正臣師
出エジプト記4章10節~20節

『モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい」と答えた。はミデヤンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。』


 ハレルヤ!感謝します。こうして皆さんに温かく迎えていただいて今、喜びでいっぱいです。ここには神様がおられて、こんな喜びは他にはないです。平安と喜びは他の場所にはないのです。感謝します。

 一九九二年二月、この教会に聖霊様が力強く訪れてくださり、一九九三年十一月の甲子園大会になんと私も参加させていただきました。
 私は滝元明先生、順先生、開先生、十字架ステージでのメッセージと賛美を聴いていた一人でした。そこで私も聖霊の力をいただきました。
 また一九九三年は私たちの教会の始まった年でもあったわけです。一九九二年二月に来られた聖霊様の火は、人間が想像できないような太平洋を越えて、タコマの私たち日本人教会にも燃え続けています。ハレルヤ!感謝します。

 そんな働きを今見ていただこうと思いまして、写真を用意しました。

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 これが一九九三年に教会をスタートした時のメンバーです。この内の半分くらいはすでに天に召されています。国際結婚をなさった六十五歳以上の集まりの中で教会は開拓されました。

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 この頃よく訪問に行きました。この頃のメンバーは、戦争の頃に結婚をなさった日本人の夫人もいて、中には英語は話せても、読んだり書いたりできない方を助けたり、そういう所から教会はスタートしました。

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 これは会堂を建てている途中ですけれど、会堂建築も少ない日本人の集まりで始めて、大変なことになりました。これは壊しているのではなく、今作っているところですけれども、本当に壊して止めようかと思ったことが何度もありました。

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 これは私がボランティアしているところです。いつもやっていたわけではありませんが。別に、原発事故じゃありません。二〇〇六年に建築を始めて、二〇一一年に終わったという、大変な工事でした。

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 これが会堂を建て始めた時のメンバーです。このように、ちょっと国籍不明というか、ごちゃまぜの状態で集っている教会であります。

 そんな中、私たちは二〇〇四年に滝元順先生をお迎えして、霊的戦いのセミナーを開いていただきました。そして、私たちは貴重な経験をいただきました。
 といいますのは、私たち日本人教会がなぜアメリカに必要なのか。神様はアメリカに日本人を必要としておられるのだ、ということを改めて預言的に学ばさせていただきました。
 今、日本はクリスチャンの数が少ないと言われていますが、日本と同じくらいクリスチャンが少ないのはイスラエルです。しかし、神様はイスラエルに特別な計画を持っておられることが聖書に記されています。
 それと同じように、日本人クリスチャンに、何かの問題があって数が少ないのではなく、みなさんのように熱心に祈っておられる日本のクリスチャンが神様の計画の中で、特別に用いられる民であるということを、滝元順先生を通して知ることができました。
 神様はアメリカのために日本人を送っておられます。先ほども申しましたように、会堂建築では本当に大変な思いをしました。その最後の年、二〇一〇年、私たちのリーダーの一人が癌に倒れて天に召されました。会堂ができあがる寸前で、本当にお金がなくてどうしていいか分からない時、突然、順先生から電話をいただきました。そして、皆さんがアメリカの西海岸に散らされている数の少ない日本人のために献金してくださいました。私たちはそれをきっかけに、最後の声を神様にあげて、二〇一一年八月、会堂は完成いたしました。みなさんの祈りが海を越えて届き、アメリカで日本人が用いられています。世界中で日本人が用いられています。神様は日本人に大きな計画を持っておられます。神様はみなさんを呼んでおられ、みなさんの働きを通し、アジアに、世界に、最後のリバイバルをもたらされます。
 そして次はいよいよイスラエルです。みなさん、そんなすばらしい計画が一人ひとりの中にあります。そんな計画について、この朝、みなさんと共に学んでいきたいと思います。

 先ほど開先生が読んでくださいました、モーセに起きた出来事ですけれど、このモーセという人物は神様からの声を聞き、イスラエルの為に立ちがありました。
神様は一人の人を選び、一人の人から働きを始められます。神様がイスラエルを造られたのも、アブラハムという一人の人物を通して作られました。
 今もそうです。みなさん一人ひとりに、すばらしい計画があります。一人の計画を通して、神様は大きな働きをなさいます。今日はそんなモーセ一人に語られた神様の声を通して、どんなすばらしい計画が起きたのか、そして神様は今も一人を選んで、どんなすばらしい計画をくださるのかについて、三つのことをお話したいと思います。

 まず一番目に、神様の大計画は、一人の人が主の選びを受け入れることから始まる、ということです。すべての人が選ばれています。すべての人です。実はクリスチャンではない人も、全員選ばれています。なぜか。一人というのは、世界で、歴史で、永遠の歴史の中で、たった一人しかいないからです。それが選びです。神様の選びというのは、特別な人だけ選んでいるわけではなくて、神様がみんなを造っておられる以上、すべての人を選び、他にはいない、その人だけを選んでおられます。その選びを受け入れる時に、神様の大計画がそこから始まっていきます。もっと別の言い方をすると、神様の大計画の中にみなさんが用いられていきます。

 その選びの最初の始まりは、みなさんがイエス・キリストを受け入れた時です。イエス様を受け入れた時に、天地万物の造り主が誰か分かります。
 そうしたら間違って信じている先祖の霊や、様々な人の手で造られたものたちに対する思いが間違っていて、人間は造り主によって造られ、その造り主を信じていくならば、すばらしい計画が一人ひとりにもれなくあることが分かります。
 神様が失敗作を造るはずがありません。神様のなさることは完全です。実はその完全なすばらしい計画が一人ひとりの中にあります。それはイエス・キリストを信じた時から始まります。八十歳で信じても、九十歳で信じても、百歳で信じても、決して遅くはありません。
 なぜでしょうか。聖書に出て来るモーセは八十歳で選ばれました。みなさん、この人が神様から選びを受けたのは八十歳です。しかもこの人はなんと、
四十歳まではエジプトの王子でした。プリンス・オブ・エジプトという映画もありましたが、なんとこの人は、エジプトの王家で特別な教育を受け、特別な人生を送って来たわけです。

 でも大事な時に、ここ一番という時に、こける人が時々いるのです。実は私もどちらかというと、そういうタイプの人間でした。例えば大学時代に勉強のできる友達を呼んで、その人から一生懸命学んで徹夜して翌日の試験に備えました。彼がどこから出るかを全て教えてくれました。一生懸命勉強しました。朝五時までやりました。もうこれでいいと思って、ちょっとだけ休んで、ちょっとだけ横になりました。
 試験は九時からなんですが、起きて時計を見たら十時。私はじっとその時計を見つめました。どうして私の人生はいつもこうなんだろうかと。そういうことが人生にはあったりするものです。人生は、私たちがしたいと思う通りにはなかなか行かないものです。
 しかし、イエス・キリストと出会って、神様の計画の中に生き始めると、遅いことは決してありません。足りないことは一切ありません。ローマ人への手紙八章二十八節に書いてあるように、すべてのことが用いられて、五時まで勉強して、九時からの試験に遅れて十時に目を覚ましたことも、すべてが用いられ、今私は牧師になっています。
 みなさん神様を信じると、人生捨てるところはありません。遅いことは一切ない。信じた時からすべてが始まります。

 モーセは四十歳まですばらしい人生を送りました。ところが彼は四十歳で人を殺してしまうのです。それもイスラエル人のために、イスラエルを愛して、イスラエル人のためにしたことです。
 でもエジプトでは人殺しです。彼はエジプトを追われていきます。彼はイスラエルのためにしました。でも誰も、イスラエルの人たちは彼を助けませんでした。そんなことをしたら、奴隷であるイスラエルはエジプトから迫害を受けます。
 彼は四十歳とは人生の一番大切な時、これからです。ここでエジプトで教育を受けたその教育が発揮される時、彼はこけるのです。このストーリーは私の心に響きます。モーセという人物を私は放っておけません。
 彼は四十歳でこけて、その後何をしていたのか。彼の相手は人間ではありませんでした。彼は羊を飼いました。それもミディアンの荒野でです。彼は四十歳から八十歳という、人生で一番大事な、人生で一番偉業を成し遂げるはずの時期に、羊を相手に人生を棒に振りました。こんなにこけている人はいません。聖書の中にいろいろ出て来ますが、こんな大事な時期に何もしていないのです。彼は何をしたのか。羊を相手に、しかもミデヤンの荒野で過ごしました。
 ですから彼が神様から呼ばれた時に「私は口べたです。私は舌が重いのです」と言いました。その理由はよく分かります。四十年間、お相手は羊だけでした。彼は書く必要も、しゃべる必要もありませんでした。お相手は羊だけです。四十年間。これはすごい人生です。

 そして八十歳。普通はリタイヤなさる年齢です。しかし、神様に呼ばれた人にはリタイヤなんてありません!ここにいる明先生は今でも、日本を動かしています。みなさん、神様に呼ばれると祝福と力が無限に注がれていきます。
 なんとモーセは八十歳で神様に呼ばれました。彼は全く期待もしていませんでした。羊が相手でしたから。でもそんな中で、神様がモーセに何をしろと言われたのか。イスラエルの人々を、あのエジプトから連れ出せと言われたのです。
 でもみなさん、四百三十年間、イスラエル人はエジプトにいました。四百三十年間です。今から四百三十年前と言ったら、設楽原の戦いか何か、それくらい昔の話です。それくらいずっと前からイスラエル人はエジプトにいたのです。自分がエジプト人だと思ってもおかしくないくらい、長い年月をイスラエル人はエジプトで過ごしたのです。しかし、イスラエル人をエジプトから連れ出せと言うのです。想像しただけで、何をどうしていいのか分からない話です。
 おまけに彼はエジプトに行っても、エジプトでは人殺しとして追われて来たわけです。でも神様は「もうあなたを付け狙っている人は、みんな死んだ」というのです。それはそうです。彼は八十歳になるわけですから、みんな死んでいるわけです。だからわざわざ八十歳まで、神様は彼を置いておいてくれました。八十歳というこの年月には大きな意味があったわけです。

 そして彼はエジプトからイスラエル人を連れ出す役割を神様から与えられます。でも彼は自分にはそんな経験もないし、イスラエル人の間に行っても、モーセなんか知りません。彼がなんのために人を殺したのか、それを理解する人すらいません。そんな彼が突然イスラエルの人々の所に行って「みんなエジプトから出るんだ」と言っても「この人、何を言っとるんだ?この人わけわからん」と、全く社会から外れているのです。
 でもみなさん、神様が用いられる人は、多くの場合、そのような人を用いられます。全く社会から見たら見捨てられています。彼の人生、普通なら終わっています。社会から完全に見捨てられ、社会から完全に放り出され、人生もほとんど残りカス。ほとんど力もない。彼はエジプトにも帰れなければ、イスラエル人からも相手にされない。言ってみれば八方塞がり。どうすることもできない。
 私もそういう気持ちはよく分かります。会堂を建てかけて、銀行にはたくさんの借金。会堂は途中まで出来て、それ以上進まない。お金がない。信徒はこれからどうしようか、ここにいようか、もう出て行こうか。どこにも行き場のない。人生にはそういう局面があるかもしれません。
でも、そういう時こそ神様の出番です。ここで神様が登場するのです。
 私たちが何もできないですから、どうすることもできないのですから、そこで神様が働かれたら、神様の栄光百パーセントに決まっています。神様はご自身が栄光を受けられることを喜ばれます。

 みなさんどんな人が神様に喜ばれるのでしょうか。それは神様の栄光を現す人です。みなさん、自分には何もない。八方塞がり。社会からは見捨てられ、人生は残りカス。それは最高です。神様の舞台が揃って御名があがめられる。こんな時はありません。それは信じた時から始まります。イエス・キリストを信じて造り主を知ると、私たちは用いられます。

 モーセという人がなんでこんな目にあったのか。なんで八十歳になるまで、このような人生を送ってきたのか。もちろん神様が計画して来られたということもあります。でも神様はあえて、この世を支配する悪い霊、第一ヨハネ五章十九節に書いてあります。今の世は悪い者に支配されている。悪い者というのは悪い政治家ではありません。みなさんよくご存知です。それはサタンです。サタンが支配しているわけです。
 そのようなサタンが支配するから、モーセも人殺しをしてしまい、エジプトからもイスラエルからも追われ、行く場所がないわけです。本当にサタンが悪く働くと、人生は追い詰められてしまいます。でも、時に神様はこの地上で人間を用いる時に、そのようなサタンの働きもあえて認めます。本当にこのサタンはモーセを苦しめました。
 モーセがここまでサタンから苦しめられたのは、それは、サタンがモーセに対する神の計画をもしかしたら、ある程度知っていたからかもしれません。彼は神様の側にいて、元々は最高位の天使でした。ですから神様の情報を盗んで、このモーセという男を見て、「こんな奴に働かれたら、自分はたまったもんじゃない。せっかくイスラエルをエジプトの中に奴隷状態で閉じ込めているのに、こういう奴が本気を出したらとんでもない。」
モーセはサタンの攻撃にあって、がんじがらめにされていました。それくらい重要な人物、これが神様に用いられます。

 ということは、サタンの目から見てがんじがらめで、人生、残りカス。ここまで社会の切れ端というか、使い物にならない。誰がどう見ても、八十歳、ただ生きているだけ、羊が相手。こうなったらもうサタンが働く必要もないくらい、どうしようもなくなっているわけです。
 みなさんこれがいいのです。これがいいのです。サタンが「こんなもの」と鼻にもかけていない、この状態の中で、神様はモーセを用いられたのです。ハレルヤ!感謝します!

 聖書の中にこんな預言があります。私はこの預言が大好きです。お読みします。
イザヤ書四十九章一節~三節、

『島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」』

 「あなたはわたしのしもべ、日本。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現す。」アーメン!ハレルヤ!主を信じます。感謝します。

 日本人がクリスチャンになっても数は少ない。そして〇・二パーセントでしょうか。一生懸命伝道してもなかなか救われない。みなさんそれは決して日本のクリスチャンが悪いわけでも何でもありません。神様には計画があります。選ばれているみなさん。イエス様を信じているみなさんは、すでに選ばれています。この選びは神様にとって大きな計画です。世の終わりに神様がこの日本を用いられます。
 サタンが全く気がつかない、サタンがまったく全く無視してふんぞり返っている。日本の全土の上にアマテラスか何か訳の分からないものが、あぐらをかいて日本列島の上にふんぞり返っています。
 でも神様の時が来て、日本人が立ち上がって、悪魔のおしりを槍で突き上げ、日本人は立ち上がります。矢筒の中に、神様は世界最大の武器を隠しておられます。みなさんはそんな神様のスーパーウエポンです。選ばれています。信じるならば神様の働きがみなさんのうちに実現します。アーメン!

 そのようにモーセは用いられました。ですから私たちは自分が何をしたとか、自分に何ができるとか、自分の人生が今までどうであったとか、そんなことに心を奪われてはなりません。この地上の繁栄や、この地上の名誉や、この地上の祝福や、この地上の幸福に目を奪われてはいけません。
神様が用いられる人がいます。みなさんが神様に声をあげるなら、あなたの人生のどんな暗い部分も、あなたの人生のどんな明るい部分も、すべて神様に用いられます。神様に用いられる人生は喜びの人生です。神様に用いられる人生は永遠にいたる喜びが続きます。みなさんはそのために用意され、神様に呼ばれています。

 エクレシア。これはカレーオというギリシャ語が元になっていると言われていますが、声を出して呼ばれた人々。みなさんはそのために呼ばれた一人ひとりです。みなさんの人生はすべて、百パーセント、神様の栄光に用いられますアーメン。

 二つ目のポイントは何かというと、神様の大計画は、一人の人が信仰によって霊的な権威と御言葉を行使することによって始まっていきます。霊的な権威と御言葉。
 このモーセという人は先ほども読みましたように、ことばの人ではないと言いました。彼は舌が重いと言いました。けれども神様がなんと言われたのかというと、十四節、

『すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。』

 そのことばによって働かれます。神様に口にことばを与えただけではありません。もう一つ与えました。何かというと、十七節、

『あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。』

 杖です。杖は何を意味するのか。それは権威です。神様の権威です。神様のことばと権威を用いるならば、神様の働きはみなさんの信仰を通して百パーセント実現していきます。
 みなさん、聖霊の賜物について、この教会ではよく学んでおられると思います。これは第一コリント十二章八節~十節に出て来ますけれども、聖霊の賜物は九つの賜物があります。信仰の賜物、知識のことば、知恵のことば、預言、異言、異言の解き明かし、このようにことばに関する賜物があります。それから、癒やし、奇跡を為す力、霊を見分ける賜物、三つの神の国の権威を表す賜物があります。
 ですから、賜物は大きく分けると、「ことばの賜物」と「神の権威を表す賜物」の二つに分けられます。最初のことばの賜物、信仰もことばですね。知恵の賜物、知識の賜物、預言も、異言も、異言の解き明かしも、この六つはことばの賜物です。
 そして、あとの三つはどういう賜物かというと、奇跡を為す力、癒やし、そして霊を見分けるというのは、全部、イエス・キリストを信じるならば、みなさんは神の国の人になります。そしてこの地上に生きていても、みなさんの国籍は神の国籍です。
 ですからみなさんがイエス様を信じて、神の国の者になると、この世を支配している霊は黙っていません。このことについては、みなさんもよくご存知ですけれど、今日の午後にもまたお話しします。みなさんがいったんイエス様を信じると、みなさんは神の国のものになりますから、この世の霊が黙っていないのです。だから必ず霊的な戦いが起こります。
 「クリスチャンは霊的戦いが起こらない。そんなこと信じてないし、そんな経験は私にはない」という人が、もしいらっしゃるとするならば、喜ばしいことではありません。私たちがイエス様を信じて、父なる神様を知って神の国のものとなると、この世の霊は黙っていません。

 そのようにすると、みなさんは必然的に、この地上で、神の国とこの世の霊との対決が起きるのです。その対決が起こることを、英語ではエンカウンターとかコンフロンテーションと言いますが、対決が起きるのです。その時に奇跡を為す力、神の霊がこの世の霊に対し、この世の霊の支配を打ち破って奇跡が現れます。
 その時に人間の医学では癒やされないような病気も、どんどん癒やされていきます。

 そして霊を見分ける力。何が悪い霊で、何が良い霊かが分かるようになると思います。私は未信者の日本の方と出会うと、日本の方は霊的にすごく敏感だなと思います。アメリカの場合は、キリスト教の文化が歴史的に長いわけですが、日本人はそうじゃない世界にいて、逆に、いろんな霊と関わっている方が多くいらっしゃるわけです。ところが、残念ながら、それが良いものか悪いのかみんな分かっていない。
 ところが、私たちはイエス・キリストを信じて、父なる神様のことが分かると、この父なる神様が天使も、あらゆる霊、なんと人間の霊も、人間は霊を持っていますから、死んだ後の霊も、神様の造られた存在です。目に見えない霊も、目に見える存在も全てそれを知るようになります。早い話が、イエス・キリストを信じると、霊界が分かるのです。

 アメリカで某新興宗教の方と出会いました。その某新興宗教、成長の家と言うんですけれども、その方と出会った時に、私と話をしていたら、急に顔が怖い顔になって、「あ、あ、あなたには霊道が開かれている」とか訳の分からんことを言って、去って行きました。私は何の意味か最初は分からなかったのですが、私たちは父なる神様と結ばれていて親子ですから、霊的世界を知っているわけです。
 失礼ですけれども、新興宗教の方では父なる神様との関係がないわけですから、霊的世界を知っていたとしても、一部分しか分からないわけです。だから先祖の霊だの、いろんな事を言うわけですから、当然それは間違った情報です。でも私たちは父なる神様を知っていますから、父なる神様がわかれば、良いもの、悪いもの、全て分かるわけです。
 みなさんもこの教会のメッセージでよくご存知だと思いますが、私たちの先祖の霊、人の霊は死後も実在しますから悪いものではありません。けれども、その霊と交わろうとすると、悪い霊が働いてきます。死んだ人の霊に簡単に交わろうとすると変なことが起きてくるわけです。
 そういったことも、父なる神様を知ると分かるのです。これを「霊を見分ける力」といいます。

 ですから聖霊の賜物は、言葉に関する賜物、そして、霊的な権威、「神の国の権威に対する賜物」に分けられます。そういった神のことばと権威を通して、モーセはイスラエルの人々をエジプトから連れ出すという、人間には到底出来ないことを成し遂げたわけです。
 今日の午後にも引き続きお話しますけれど、聖霊の賜物を私たちが使う時に、そういう賜物に満ち満ちた人がいっぱいいらっしゃるわけですけれど、自分が何かもっと力を受けたい、聖霊の賜物によって自分を力ある者にしたい、と思いがちです。
 でも、これはすでにサタンに騙されています。私たちは何も持たなくていいのです。何もなくていいのです。

 アダムが造られた時、アダムという人は裸で生まれて来ました。皆、裸で生まれてくるわけですが、あの人は裸で生まれて来て、裸で大きくなりました。裸のままです。大きくなったのか、大人として造られたのか、分かりませんけれども、とにかく裸でした。
 裸は本当に弱いです。私も短いズボンかなんか履いて草むらに入って行くと、足が痒くなったり虫に刺されたり、日本は蚊が多いらしいですが、本当に人間の皮膚は弱いものです。
 そんな裸でアダムは造られました。早い話、裸の状態は何もできない。動物ならいっぱい毛が生えていますけれども、中には毛の多い方もいらっしゃいますけれど、裸というのは本当に弱いです。人は弱く造られているのです。弱くていいのです。
 なぜならアダムは神様を信じるように造られていたからです。そして神様からことばを与えられていました。そして神様から権威を与えられていました。「産めよ、増えよ、地を満たせ。すべての生き物を支配せよ」という権威が与えられていたのです。ですから、権威とことばによってアダムは何でもできました。ですから、自分自身を強めたり、高めたりする必要は全くなかったのです。
 でもアダムが罪を犯して、父なる神様、本当の造り主から離れてしまい、その結果、アダムの子孫である私たちも神様を知らずに生まれて来てしまいました。そういう人間は、どうしても自分でなんとかしなきゃいけないと思うわけです。自分でなんとか身を守らなければいけない、自分でなんとか偉くならなければいけない、自分でなんとかもっと立派な人にならなければいけないと思ってしまいます。

 でも、そうではありません。あるがままでいいのです。そのままでいいのです。そのままの自分を喜んで受け入れて、私たちが神様のことばを信じる。そして神様のことばとイエス様を信じる信仰によって与えられた、イエス様の御名の権威を用いるならば、みなさんは霊的世界を動かす者になります。

 イエス様を信じるというのは、みなさんもよくご存知ですけれど、イエス様が私たちの罪の身代わりとして自分の命を代価として支払われました。私たちが今こうして父なる神様を知ることができたのは、イエス様が自分の命を代価として支払ったからです。それくらい神様から私たちは愛されていて価値のあるものです。
 みなさんに能力があるからじゃない。みなさんが何かができるからじゃない。みなさんが何かを持っているわけじゃない。アダムは何も持っていませんでした。神様はみなさんから何か欲しいなんて思っていません。そんな貧乏な神様ではありません。そんな弱い神様じゃありません。何もみなさんから欲しいなんて思っていません。
 でも神様はみなさんをそのまま愛しておられます。そのみなさんが、すべてのことを喜んで、人生にどんな悪いことがあったって、今自分の家庭にどんなことが起きていたって、今、教会で奉仕しようにも自分には仕事がない、教会で奉仕しようにも、車のガソリンが買えない。いろんなことが、みなさんはそうじゃないかもしれないけど、いろんなことがあっても、何もできなくても、すべてを受け入れ、すべてを喜んで、イエス・キリストを信じるならば、イエス様が自分の命まで与えて買い取られたみなさんのいのちですから、イエス・キリストの御名によって祈るなら、神様はすべてを与えてくださり、イエス・キリストの御名によって神様のことばを命じるならば、霊的世界を動かすことができます。

 午後もまた話すと思うのですけれど、クリスチャンの働きというのは、会社の社長さんに似ているのです。なぜか。「産めよ。増えよ。地を満たせ。すべての生き物を支配せよ」とおっしゃったのですから。これが人間の役割なのです。
 その時に、私たちはどのようにしてすべての生き物を支配するのか。どのようにして神様と一緒にこの世界に働くのかというと、先ほど言ったように、神様のことばと権威によってなのです。
 それは会社でいうと、社長さんの仕事に似ていますよ。どんな会社の社長さんも、どんな物を作っていても、社長さん自らが組み立てラインでネジを一生懸命回している、そういう会社があるかどうか分かりませんけれども、ちょっとめずらしい。社長さんの仕事というのは、電話で対応して、書類にサインをして、机に座っていてもどんどん事が動いていきます。
 このようにクリスチャンというのは、お祈りによって、御言葉を用いて、そしてみなさんがイエス・キリストの御名の権威によって、その御言葉を命じるならば、霊的世界が動かされていきます。それが人間本来の働きです。それが教会に来ると体験できます。
 この教会ではいつも祈りが捧げられていて、この教会ではいつも御言葉が語られていて、それを皆さんがお互いに語り合います。語り合った言葉の通りになっていきます。この教会には神の国の支配が満ちていきます。そしてこの教会を通してこの新城の街が変えられていきます。
 皆さんの存在は、社会の人たちから見たら、社会全体から見たらそんなに知られていないかもしれません。でも、霊的世界、サタンはよく知っています。霊的世界の人から見たら、霊界の新城市の市役所はこの教会です。みなさん、この教会を通して街は変わります。この教会を通して日本は変わります。みなさんはそんな神様のことばとイエスの御名の権威を持っている神のしもべです。アーメン!感謝します。

 ですからモーセはそのようにして、自分のあるがままを受け入れて、神に仕えるコマンダーとして、霊界を動かす者として立ち上がりました。ことばの人ではないのです。でもことばの人ではない方がいいです。自分がことばの人だと、いらない事を語ります。
 彼は本当に口が重かった。神様のことばだけを語ったのです。これだけですべてが動かされていきます。なんと神様はモーセという人をこのように用いて、神様はイスラエルを、四百三十年間もエジプトにいた人々をエジプトから連れ出すという、大きな働きを成し遂げられたわけです。これがモーセの働きです。

 ですから、間違えても、私たちは天使のようになろうとしてはいけません。天使にはいっぱい能力があります。人間と違って天使はすごい力を持っています。それは元々、天使が仕えるために造られた霊だからです。もちろん人間も仕えます。でも人間が神様に仕えるのは、神様の秘書のような存在です。神様の共に働くパートナーです。人間は神様のパートナーです。ですから神様のことばを語ります。神様のことばで祈ります。イエス様の御名で命じます。
 そんな人間を完全に回復できるのは、イエス・キリストを信じて、造り主を知って、神のことばと権威をいただいたクリスチャンだけです。みなさんはそんな働きのために用いられるように選ばれていることを忘れてはいけません。

 そして三つ目は何かといいますと、神の大計画は、一人の人が、キリストのからだ、教会の働きに参加することによって始まったということです。実はモーセという人はしゅうとのイテロにこのように言いました。

『それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい」と答えた。』

 みなさん、これは嘘ではありません。確かにモーセは親類のもとに帰らせて欲しいという思いを持っていたはずです。でも、彼はここで神様から言われた言葉をイテロには語っていません。実はこれが教会の大事な働きです。
 みなさんが教会で語られることは、必ずしもこの世の人には理解できません。でも、教会で語られることの中に神様の大事なメッセージがあります。私たちはイエス様のことを伝えなければいけません。でも私たちはクリスチャンにしか分からないことを教会の中で祈り、教会の中で信じ合っていく時に、神様は教会を通してこの世に働かれます。
 教会というのはキリストのからだです。イエス様は三年半の間、地上で働かれました。なぜイエス様が十字架に架かられるのに三年半の歳月を費やされたのか。それは私には分かりません。
 でも少なくともイエス様が三年半、十字架に架かられる前に働かれたことによって、イエス様という天地万物の造り主が地上で何をなさったかということを、私たちは知ることができます。
実は教会というのはイエス・キリストのからだですから、三年半にイエス・キリストがなさったことと同じ働きをするからだです。
 聖書を読むと、教会の働きが出て来ます。それはイエス・キリストの働きです。病を癒やし、悪霊を追い出し、神の福音が宣べ伝えられました。まさに新城教会です。この教会はイエス・キリストが遣わされたイエス・キリストのからだです。
 イエス様はあのガリラヤ湖で、そしてエルサレムで働かれました。イエス様はあの当時、バスも飛行機もないから、ガリラヤ湖からエルサレムまで歩いて行かれました。でも、今や、イエス・キリストのからだは世界中にあります。ですから、あのヨハネの福音書十四章十二節で「それゆえあなた方はイエス・キリストよりもさらに大きなわざをするようになる」とイエス様は言われました。
 それはイエス・キリストと同じからだが、イエス・キリストのからだが、今、世界中で、あのガリラヤ湖だけじゃない。あのエルサレムだけじゃない。今この日本にも、また日本から火が点いて、ワシントン州にも、世界中にイエス・キリストのからだが働いています。このようにキリストのからだを通して神様の働きが起きていきます。

 この時に神様はみなさんに語られます。そのことばというのは、必ずしもこの世の人が理解できる言葉ではありません。それには聖霊の働きが必要です。みなさんが共に心を一つにして祈っていくのならば、それが実現していきます。この世の人には理解できないような神の国の働きが起きていきます。教会を通して、エンカウンターと言われる、要するに、この世の霊と神の国の霊がぶつかり合います。
 この時に、新城教会のように、この世に一切妥協することなく、神様のことばをみんなが信じて一つになっていくならば、神の国は、この世のどのような霊の支配も打ち破ります。

 私たちにとって大事なことは、そのような教会の一致と、御言葉による一つ心です。これがあるならば、どんな問題も恐れることはありません。一つの教会の働きを通して、日本全体が変えられる。そんな力が神のことばと権威の中にあります。そのようにみなさんが選ばれているということなのです。
 ですからキリストのからだの教会には、この世にはない神のことばが語られています。この世にはないイエス・キリストの権威が与えられています。ですから、教会に来るならば、不可能はありません。みなさん、私たちはそんなすばらしいキリストのからだの中に集められています。

 でも私たちは同時に、ことばに気をつけなければいけません。このことばによって私たちは失敗をすることもあります。モーセという人は、誰に何を語るのかをわきまえていました。ですから、私たちはそのような霊的な見分けが必要になってきます。でもモーセは知恵によってイスラエルの人々に真実を語り、イスラエルの人々を、奴隷化していたイスラエルをエジプトから連れ出すという働きを成し遂げたのです。
 このように三つのことを覚えて、立ち上がっていただきたいと思っています。

 私たちはタコマというアメリカの田舎町で教会をスタートしました。何も分からずに、六十五歳以上の方たちが集まる教会で働きを始めました。そうしたら、どんどん人は救われていきました。でも人は救われても、日本に帰られたり、それから高齢であるために亡くなられていったり、ご主人が来るようになったら、今度はご主人と一緒に英語の教会に移って行かれたりして、私たちは本当に何のためにこのアメリカに呼ばれたのかなと思う時がありました。
 そして実際に会堂も神様から与えられていきましたけれども、それも思うように短い期間に終えることができませんでした。でもそんな中で私たちは順先生をお迎えして、霊的戦いの話を聞きながら、日本人が、日本人だからこそ、日本人にしかできない働きと計画があるということに気がつきました。
 今アメリカはたくさんクリスチャンがいて、クリスチャンの国のように見えるわけです。だけれども、その中身は、アメリカのクリスチャンたちはどんどんこの世と妥協していって、本当の信仰が失われつつあります。
 ワシントン州も悲惨な状況を迎えています。それは法律で女性同士が結婚したり、男性同士が結婚したりするという、本当に聖書が反することを法律が定め始めているのです。そして教会までも、そんなことを認め始めている教会も出て来ています。
 でも私たちは神様がどうしてこの日本人たちをアメリカに置かれたのか。タコマの街には二百人くらいの日本人しかいないと言われています。そんな所でどうして神様は日本人教会を作られたのか分からなくなる時がありました。
 でも、私たちが霊的戦いの厳しい日本という国で、日本人がクリスチャンとしての働きを続けておられる、その日本人としてその信仰を神様からいただいています。その日本人にしかできないことがあります。みなさん、日本においてこのような聖霊の働きを受けている教会ならば、世界中どこに行ってもこの聖霊の働きは、すべての悪霊の支配と壁を打ち破ります。それは本当に厳しい戦いの中で燃え続けて来た火だからです。

 神様はこの世の終わりの時にみなさん一人ひとりに選びを持っておられ、用いられます。私たちはそれが分かった時に、確かにアメリカで数少ない日本人かもしれない。でも私たちにしかできない、アメリカの国のために、私達にしかできないことがある。そしてまた日本という国のためにも、私たちのように海の向こうまで散らされている日本人にしかできないことがあるということが分かってまいりました。

 みなさん一人ひとりにも、すばらしいモーセのような計画があります。それにはみなさんが自分のすべてを喜んで、過去にどんなことがあっても、自分にどんな欠点があっても、自分にどんなハンディキャップがあっても、社会的に見たらどんなにどうすることができないような状況の中にあっても、既に選ばれています。
 みなさんは矢筒の中に隠された矢のようです。自分の力でもない。自分の経験でもない。自分が持っているお金じゃない。自分の家庭環境や、自分の能力なんかじゃない。自分の学歴でもない。何もない。モーセのように何もない。アダムのように裸で何もない。
 でも、イエス様の十字架の血潮によって救われた私たちは、神のことばと霊的世界を支配する権威を持っています。この権威によって立ち上がるならば、そして教会に集って、皆がこの教会で一つ心を持ち続けるならば、日本という国だからこそ、日本人クリスチャンだからこそ成し遂げられること、必ずしなければならないことがやってきます。それはもうすぐやってきます。社会が悪くなっています。だからこそ、必ずその時がやってきて、その時はもう近づいています。
 みなさん、私達は距離的には離れていますが、神様から呼ばれた同士です。一九九二年にここに降り立った聖霊の火は、なんと太平洋を越えてタコマの地にも同じ火が燃えています。そして神様は私たちを不思議な方法で用いて大リバイバルを、日本に誰も想像しなかったようなリバイバルを起こしてくださいます。そんな時を信じて共に立ち上がっていきましょう。お祈りしましょう。


 ハレルヤ。主よ、感謝します。イエス様、感謝します。天のお父様、今、主よ、このしもべは、あなたから呼ばれて、あなたが来なさいと言われた所に今立っています。天のお父様。この地にはかつて一九九二年にあなたご自身がしるしを持って教会の上に臨まれました。あなたの計画とあなたのことばは決して変わることがありません。それ以来、あなたの働きは続き、聖霊の火は太平洋を越えて、散らされたアメリカにいる日本人の上にも燃えつき、そして天のお父様、あなたはこの世的に見たら数が少ないと言われている、社会から見たら数えられてもいない、その矢筒の中に隠された人々を通して、あなたの最後の働きが起ころうとしています。
 イエス様、あなたがあのイスラエルに計画を持っておられるように、あなたはこの日本に計画を持っておられます。過去に多くの罪を犯した国民です。隣人、アジア諸国で人を殺し、生活を奪い、多くの悲しみをもたらした国民でもあります。主よ、その国民に大きな悔い改めが起こり、そしてその国民の多くの者があなたに立ち返り、そしてこの国民の中の散らされた者も共に声をげ、主よ、あなたの時が来ようとしておられます。主よ、あなたは用いてくださいます。今あなたに声をあげます。イエス様、あなたに声をあげます。イエス様どうぞ来てください。この国を哀れんでください。この国をいやしてください。そして用いてください。主よ、このアジアに来てください。
 天のお父様、主よ、あなたがあのエルサレムに、あのオリーブの山にもう一度降りて来られる日が近づいています。マラナタ。あなたを待ち望みます。どうぞ来てください。どうぞあなたを待ち望みます。イエス様感謝します。イエス様あなたを誉めたたえます。
 大いなる主よ、どうぞ主が今日ここにいる一人ひとりに触れてください。御霊様が触れてくださり、もう一度私たちを奮い立たせてくださり、主よ私たちを世に送ってくださいますように。切に願い求めます。感謝します。大いなる救い主、イエス・キリストの御名によって祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。