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『あなたに委ねられた人

2013.8.11 (日)
新城教会牧師 岡本信弘
使徒 十六章三十〜三十一節

『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。』


 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。皆さんで集まって共に賛美をささげ、主を礼拝できることを心から感謝します。
 このところ猛暑が続き、挨拶も、「暑いですね」という言葉しか出てこないような毎日です。食欲がなかったり、寝苦しくて熟睡できないといったことがあるかもしれません。私も、疲れを覚えることはありますが、食事はおいしく食べられますし、ぐっすり眠ることもできるので感謝です。
 私は今週の水曜日、五十七歳になります。五十七歳を若いと言うのか、若くないと言うのかは分かりませんが、皆さんのお祈りによって健康が支えられ、守られてきたことを本当に感謝いたします。
 でも、歳を取ってくるといろいろなところに支障が出てきます。二年前に足をくじいてから、少し疲れると痛みが出て、足を引きずるようなときもあります。また、数カ月前に手の腱鞘炎になり、一時は鉛筆も持てないような状況でしたが、だいぶよくなってきました。だんだん、無理が利かなくなってきたなぁと、歳を感じるわけですけど…。
まだまだ暑い日が続きますが、夏もあれば寒い冬もあり、だんだんと涼しくなりますから(笑)、お互いに体調に気をつけていきましょう。

 さて今日は、魂の救い、特に家族の救いについて共に学んでいきたいと思います。
 使徒の働きの十六章は、パウロが神の示しによって導かれたマケドニヤ地方第一の都市、ピリピで起こった出来事について書かれています。パウロはシラスと共に伝道に行き、その町で多くの神の業を行いました。その一方でサタンもいろいろと働き、ある占いの霊につかれた女奴隷に出会ったことから、事件が起きました。使徒の働き十六章十六節からお読みします。

『私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。』(使徒の働き十六章十六〜十九節)

長官は、パウロとシラスを牢に入れ、看守たちに、厳重に番をするように命じました。続けて二十四節から少しお読みします。

『この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。』(同二十四〜三十一節)

この御言葉は、皆さんもよく知っておられる有名な箇所です。
 看守は、囚人を取り逃がしたことで罪に問われることを恐れ、自害しようとしていたわけです。扉が開いて鎖が解けてしまったのを見て、看守は、みんな脱獄したと思ったのです。しかしパウロが、「自害してはいけない、私たちはみなここにいる」と叫んだことで、ふたりを外に連れ出して「救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねています。
ここで、「救われるために」と言っていますが、何からの救いを求めているのでしょうか。
 
 この夏も、多くの人が山や海に行っていますが、毎年多くの方が遭難したり、水の事故で亡くなっています。昨日もニュースが流れていました。
私もかつては水泳が得意でしたが、もう何十年も泳いだことがありません。古い会堂の時、クリスチャンホームの悪ガキ仲間と一緒に、昼間は海に、夜は川に行って遊んでいました。夜、川に行って何をしていたかというと、魚を取っていたのです。川に潜って防水の懐中電灯で照らし、モリという道具で魚を突くのです。あのころは、魚がたくさんいました(今はずいぶん魚も少なくなったと思いますが…)。本当に楽しい時でした。
 私は泳ぎというよりも、どちらかというと潜りが得意でした。何分も潜ることができ、五十メートルプールを、楽々潜って泳ぎきることができたくらいでした。
 皆さんの中にも海や川に行く計画を立てている人もおられるでしょう。しかしそのとき、家族が溺れたらあなたはどうしますか? 自分が少しでも泳げたら、すぐに飛び込んで助けに行くでしょう。
 でも、統計から見ると、溺れた人を救出しようと飛び込んだ人のうち、四割近くが救出に失敗して命を落としている、とありました。それは、泳げない人が行ったからではありません。どちらかというと、泳げる人が行って一緒に溺れてしまうことが多いそうです。
溺れた人は「助けてくれ!」と大声で叫び、手足をバタバタしてもがき、なんとか救われたいと思うわけです。そして、誰かが助けに来てくれたことを知ったなら、その人にしがみつきます。救出に行った人は、手を取られ、足を取られ、想定外のことであわててしまい一緒に溺れてしまう。それが、いちばんの原因だそうです。
 私も子どものころ溺れかけて、「もう駄目かな」と思ったことが何度かありました。幸い、自力で岸までたどり着きましたが…。このように、自力でなんとかできたなら、それは「救われた」のではありません。「助かった」とは言っても、「救われた」とは言わないのです。自分の努力や鍛錬ではどうすることもできないところから、誰かの手によって救出されたとき、初めて「救われた」という言葉が使われるのです。
 現代の多くの人たちも救いを求めています。ある人は、貧乏からの救い、またある人は、精神的な病や、悲しみ、苦しみ、孤独から救われたいと願います。しかし、問題が解決されたら、幸せになれるでしょうか。私たちは「救われた」と言い切ることができるでしょうか。 
私たちは、貧乏から解放され金持ちになっても、一時的に悲しみや孤独から解放されたとしても、本当の幸せを得ることができないことを知っています。 聖書は、こう教えています。

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』(マタイの福音書十六章二十六節)

 人々が本当の意味で求めているのは、永遠の滅び、死の恐怖からの救いではないでしょうか。
ヘブル書二章十五節には、『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』とありますが、多くの人々が死の恐怖におびえ、奴隷となっていると聖書は教えています。
ここにおられるほとんどの方が、永遠のいのちを持つ者とされていますが、以前は、罪の中を歩んでいた者でした。
 皆さんの中で、今まで自分は一度も罪を犯さなかったと言える人はいますか? いないと思います。そして、罪を犯した人間に対して、神様は何と言っておられるしょう。
ローマ書三章二十三節には、『すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることはできない』とあり、ヘブル書九章二十七節には、『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている』と書かれています。
 神によって良いものとして造られた初めの人間アダムとエバは、神と楽しく交わる者でした。しかし、高ぶり、神から離れ、神の命令に従わなかったことにより、人間の中に罪の本質である原罪がやどり、罪を持ったまま生まれ、罪を持ったまま死ぬ者となり、地獄へと落ちる者となりました。
 しかし、私たちには救いの道が示されました。あなたを造り、誰よりもあなたを愛しておられる神が、人類を救うため、今から二千年前、イエスさまをこの地上に送ってくださったのです。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネの福音書三章十六節)

 イエス・キリストは、あなたを愛し、あなたの罪を贖い、あなたのために命を投げ出し、血を流され、肉を裂かれ、あなたの身代わりとなって死んでくださったのです。しかし、死んだだけでなく、人類の誰もが打ち破ることができなかった死の力を打ち破り、三日目によみがえられたのです。そして今も生きておられ、私たちを守ってくださる方、これが真の神様です。
使徒の働き二十六章十八節を見ますと、
『それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』とあります。
 かつて私たちは、やみの中を歩み、罪の牢獄に入れられていた者でした。しかし、ただただ神の恵みにより、この御言葉のように、暗やみから光に、百八十度変えられ、サタンの支配から神の支配へと移していただいたのです。これが、救いです。
そして、私たちの救い主である真の神様を信じることなく、背を向けていきること、これがいちばん大きな罪であると、聖書は教えています。
 私たちは、今、救われているわけですが、信仰を持ったからといって、問題がなくなるわけではありません。時として、「イエス様、どうしてこのようなことが起こるのですか?」と神様に訴えるようなこともあります。しかし、信仰の戦いは、薄情なようですけれども、死ぬまで続きます。
第一テモテ六章十二節には、こんなことが書かれています。

『信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。』

私たちの人生の結末は、永遠のいのちをいただいて天国に行くか、または罪を重ね、永遠の滅びである地獄に行くかのどちらか一つです。私たちは、どちらかを選択しなければならないのです。

 先日、タコマから竹内先生が来られ、礼拝でメッセージを語ってくださり、大変恵まれました。また、午後の聖会でもご奉仕くださいましたが、その中でこんな話をされていました。
 「クリスチャンとは、罪の牢獄に捕えられていた者が、イエス様の十字架のカギによってその扉が開けられ、そこから出て来た者であり、自由にされた者です。しかし、サタンにとってはそれがおもしろくありません。サタンの支配から寝返ったクリスチャンに、当然のように攻撃を仕掛けてきます。
しかし、罪の牢獄の扉が開かれそこから出ても、何もせずにただ立ち止まっているような人には、あまり攻撃してきません。でも、サタンは、自分が救われただけでは満足できずに、今なお罪の牢獄にいる人に「早く出てこい」と声をかけ、働きかける人が特に嫌いです。ですから、あの手この手で攻撃を仕掛け、何とか伝道をやめさせようとします」
 なるほどとなぁと思いました。そのように、罪から救われ、永遠のいのちをいただいたクリスチャンが、他の人の救いを願うなら、天国にたどり着くまでには、誰であっても多かれ少なかれ戦いがあります。

 人生は、船に乗っている人にたとえられることがあります。航海では、大雨や突風、嵐で、命の危険にさらされるときもあります。
 たとえば、あなたが家族で船に乗っているとき、その船が転覆して皆が海に放り出され、あなただけが救助されたとします。でもどうでしょう。自分一人が助かっても、家族の安否が分からない状況では、「私は救われました!」と心から喜べますか? 当然、どうなっているか分からない家族のことが気になり、「家族はどうなっただろう」と必死で探しまわるでしょう。
 クリスチャン人生も同じだと思います。あなたは恵みによって救われ、永遠のいのちを手にすることができました。それは基本条件です。つまり、あなたが救われて永遠のいのちをいただいているということは、まず重要なことですが、それと同時に、あなたの家族、あなたの身近にいる人が救われていないとしたら、心から喜ぶことができないのではないかと思います。そして、家族・友人が何としても救われてほしいと願うはずです。

 先週は、ヘブンリーキングダムのコンサートが豊橋で開かれました。
初めのころは、約800席が埋まるだろうかと心配もありましたが、一週間前にはチケットが完売しました。
私は、詳しい内容も、またオープンしたばかりの会場でしたので、状況も分からないまま、当日の総監督を仰せつかっていました。四時半の開場でしたので、一時間前くらいには人が来るだろうと思い、三時少し前から準備をしていました。受付や会場係の人と打ち合わせをして準備を始めていると、三時過ぎに、一人の方から「どこに並んだらいいですか?」と尋ねられました。コンサートには時間がかなり早かったので、「何のために並ぶんですか?」と聞いてしまったのですが、コンサートのために来られた方でした。その後、みるみるうちに行列ができて、その建物の事務の方から、「開場を早くしてもらえませんか。これだけ人が並ぶと、他のお客さんにご迷惑ですから」と言われたほどでした。並んでおられる方たちを数えると、四百人以上にもなっていました。
四時半になり、会場係の誘導に従って人々が一気に会場に入っていきました。私はその様子を見ていて、すごく恵まれました。と同時に祈らされました。ここにいるクリスチャンの方々が、まだ救われていないご家族やご友人と一緒に来られている様子に感動し、「ご家族が、ご友人が、このコンサートで救われるように」と祈らされたのです。
コンサートは大変盛り上がり、恵まれ、皆さん「よかったよ」と言ってくださいました。続けて、来られたご家族、ご友人のために祈っていきたいと思います。
 また、先ほどご案内がありましたように、今晩は、サマーフェステェバルです。教会の礼拝にはちょっと行きにくいという方も、夜店ということなら来られる方もおられると思います。今からでもあなたの家族、大切な人を誘ってお出かけください。私は、青年会に頼まれて、いつものように餃子を作ります。昨日仕込みをして、キャベツを十五個くらい切り、全部で千個以上できる予定です。皆さん、是非食べに来てください。
 餃子のことはともかく、家族・友人が救われてほしいというのは、私たちの願いです。そして、私たち一人ひとりに委ねられた人、私たちにしか伝道できない魂があります。コンサートやフェスティバル、さまざまな機会をとおして、大切な人たちを誘い、教会に導いてまいりましょう。

 私の家族の救いについて、少し証しをしたいと思います。私は、クリスチャンホームに生まれました。母は、私が生まれる前、長男である康宏(皆さんに愛され八年前に天国に帰りました)が、ダウン症だったことをきっかけに、教会に導かれ、イエス様を信じ、若き二十代の滝元明先生から洗礼を受けました。もう五十七年前のことです。なぜはっきり覚えているかというと、私がお腹にいる時に母は洗礼を受けました。だから私は、二度洗礼を受けているのです。
母に続いて父が救われ、家族全員が救われましたが、その証しは、今まで何度もお話ししましたので、今日は省きます。
 私はこの家族の救いについてのメッセージを語らせていただくにあたって、滝元明先生が書かれた『われ土方なれど』と、『私の愛する日本のために』をあらためて読みました。その中には、いろいろな証しがあり、私の父方の祖母である石原いそのことも書かれていました。
新城教会の開拓当時、母が救われた数年後のことで、もちろん、私の知らないころのことです。祖母は病気があり、ふたりのおばあさんと癒しを求めて教会を訪れ、癒されて神を信じました。
ある晩、教会の集会が終わって、ちょうちんを片手に帰る途中、道に迷ってしまったそうです(祖母の家は、今のこの教会の近くですが、当時はここから二キロほど離れた所に教会がありました)。今もそれほど明るくはありませんが、そのころは、どこもかしこも真っ暗だったと思います。困った祖母が、「イエス様、イエス様」と祈っていると、一台の自転車が通りかかり、見知らぬ人が「おばあちゃん、家まで連れていってあげますよ」と言って、祖母の家がどこかも聞かないで自転車の荷台に乗せて、家のすぐ前まで連れていってくれたそうです。そして祖母は自転車から降りて、「ありがとうございました」と頭を下げて顔を上げると、不思議なことに、そこには誰もいませんでした。きっと神さまが天使を遣わしてくださったのでしょう。祖母はそれからも、熱心に神様に仕えたということです。

 もう一人、祖父の岡本啓一のことをお話しします。この祖父のことは私もよく覚えていますが、教会が大嫌いで、何かにつけて文句を言っていました。家族が伝道しても明先生に伝道していただいても、箸にも棒にもかからないといった感じで、取りつく島もありませんでした。私たち孫に対しては、そんなことはありませんでしたが、母はすごく迫害されていました。ですから私は「他のみんなが救われても、この人だけは救われない。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』という御言葉はよく知っているが、例外もある。この人は救われない」という確信がありました(笑)。
 そんな祖父も歳をとり、病気で寝ついていたある日、明先生が見舞いに来て、伝道してくださいました。明先生が「おじいさん、いかがですか?」と聞くと、祖父は弱々しく「もうだめだと思う」と答えたので、明先生は「もうだめかもしれませんね。おじいさんも天国に行く準備をしなくてはなりません。罪を悔い改めてイエス様を信じてください」とすすめました。でもそのときも祖父は聞く耳を持たず、「それはなあ、お前が商売だからそんなうまいことを言うんだ。天国を地獄もあるもんか」と言いました。次の瞬間、いつも優しい明先生が「おじいさん、今まで黙っておけばいい気になって、僕のことを商売で伝道していると言っているが、僕はね、東京に勉強に行っていたのに郷里の伝道のために帰り、人々から馬鹿にされたり、貧しい生活をしながら伝道してきた。商売でこんなことをするはずがない。商売とは何事だ!」と、大声で怒鳴りつけたとあります。私はその場にはいなかったのですが、すごかったと思います。
 この言葉を聞いて、それまで寝ていた祖父が布団の上に正座して、深々と頭を下げ、「俺が悪かった、許しておくれ。俺もイエス様を信じる」と言ったのです。一瞬にして変えられ、救われたのです。それ以来、そのショックか(笑)神様のあわれみか、病気も治ってしまい、三年間、ひ孫の手を引き教会に通いました。そして最後には安らかに、天国へと帰っていきました。私には奇跡としか思えない出来事でした。
 皆さんのご家族にも、なかなか救われず、この人は無理かもしれないと思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、あきらめてはいけません。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』の御言葉は真実であり、必ず実現します。
ローマ書八章二十五〜二十八節を見ますと、このような御言葉があります。

『もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

私たちが救われたときから、私たちの家族の救いの計画が立てられ、それは、計画通りに進められています。私たちが祈り求めていくときに、神様が扉を開いてくださいます。私たちは弱くても、主が共におられます。イエス様は、あなたのために、とりなしていてくださっていることを覚えて、日々祈り続けていきたいと思います。

 我が家の頑固な祖父が救われたのを、先ほど「奇跡だ」と言いましたが、それは偶然でも奇跡でもありません。そこには家族の祈りがあります。特に私の母は、どんなに迫害されても、祖父のために、二十年近くも毎日早天祈祷会で祈り続けていました。その祈りに、たしかに神様が応えてくださったのです。これは、神様の摂理であり、祈りに主が応えてくださったのだということを知っていただきたいのです。何もしないで事が起きるかといったら、そうではないのです。私たちが主に求めて祈り、神様が動いてくださるときに、主の御業が現れるということを覚えてください。

 私の家内の祖母も、二十年近く前にイエス様を信じて天に召されました。
そのころ家内の両親は豊川に住んでおり、少し体調を崩したおばあちゃんが東京から来ていたのです。私が「おばあちゃんは、仏教を信じているの?」と聞くと、おばあちゃんが「私は若いころ、ミッション系の学校に通っていたから、讃美歌を歌ったり、聖書も読んだことがあるよ」と答えました。今から七、八十年以上も前ですから、なかなかハイカラなおばあちゃんでした。私はその話を聞いてびっくりしましたが、続けて、イエス様の救いについて話をしました。おばあちゃんは、よく話を聞き、素直にイエスさまを信じる祈りをしてくれました。そのときまで、おばあちゃんと宗教の話をしたことはありませんでしたが、主が時を与え、おばあちゃんの心を整えていてくださったと感じ、心から主に感謝しました。
ここにも、家族の祈りが積まれた結果が現れています。それからしばらくして、おばあちゃんは亡くなりましたが、私が葬儀の司式をして、天に送ることができました。
 皆さんもあきらめないで祈り続けてください。伝道者三章一節には『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。』とあります。すべてのことに、神さまが定めた時があります。私たちは、神の前にへりくだり、神に近づき、神さまが与えてくださる時を悟る。神の時というのは「カイロス」と言いますけれども、私たちがこの神の時をつかむとき、主がそこに働いてくださいます。
 私の家族では、家内の父親がまだイエス様を信じていません。シオンタイムの遠足には時々参加していますが、なかなか難しいと思ったりすることがあります。しかし、この御言葉のとおり、必ず救われると信じて祈っています。

 初めにお読みした使徒の働き十六章に戻ります。
パウロとシラスから救いについて聞いた看守とその家族は、その後どうなったでしょうか。三十二〜三十四節を見ますと、ふたりが
『彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。』とあります。
この看守の家族に神様が訪れてくださり、家族皆が洗礼を受けたことが証しされています。私たちもこの御言葉を信じ、まだ救われていない家族のために祈り、すばらしいクリスチャンホームが次々とこの教会に誕生することができるように、祈ってまいりましょう。
皆さんで、お祈りしたいと思います。
 皆さんの中で、まだ家族が救われていない、どうしてもこの人を救ってほしい、そのように思っておられる方がおられると思います。「この人を救ってほしい」という方が思い浮かんだ方は、手をあげてください。はい、降ろしてください。今、手をあげられた方が、誰のことを思い浮かべられたかは私には分かりません。しかし、神様は知っておられます。そして手をあげられなかった方も、一人でも多くの人が、サタンの支配から神の支配へと百八十度移され、すばらしい喜び、祝福、恵みの人生を歩むことができるように、また、愛する人、大切な人を救っていただきたい、そのような願いを持って一緒にお祈りしましょう。しばらくの間、心に思い浮かんだ方のために、人々の救いのためにお祈りしてください。

 ハレルヤ! 愛する主よ、心から感謝します。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』この御言葉は真実であり、今までも多くの友人が救われ、そして家族が救われてきました。今、まだ救われていない家族、親族、友人のために、今手をあげられたお一人おひとりに、主が祈りの霊を注いでください。また、そこに神様の計画が成し遂げられ、一人でも多くの方が救われますように、主の御心を現してください。心から感謝をいたします。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。