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『まことの礼拝者

2013.9.8 (日)
新城教会副牧師 四元雅也
ヨハネの福音書4章19~24節

『女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』


 ハレルヤ。感謝します、今日もう一度皆さんの前でお話しできますことを感謝いたします。前回は六月三〇日にメッセージしました。最近、ちょっとメッセージする間隔が縮まっているなと感じる今日この頃です。先週は豪雨・竜巻といった物騒なニュースが飛び交った一週間でした。例年、一年のうちで九月がもっとも竜巻が多い月だそうなので、ますます注意が必要です。それに相反して、新城の周辺では水不足という事態で節水が呼びかけられています。先週も宇連ダムの貯水率が〇.八パーセントまで落ち込んで深刻でしたが、週末に降った雨で一〇パーセントまで回復しているようです。今日も恵みの雨が降っています。
この時期、日ごとに、また一雨ごとに涼しくなっていきますし、日照時間も秋分の日前後は朝明るくなるのも日ごとに遅くなり、日が暮れるのは早くなっていきます。ある意味めまぐるしい時です。そんな中夏風邪をひく人もちらほら見かけますので、お互いに健康管理に注意したいと思います。

先週はもう一つ大きな話題がありました。テレビを見ていても、オリンピック招致問題がメディアで大きく取り上げられ、日本中が五輪色だったように思います。今朝、東京に決定したということで、関係者らが大喜びしていました。これにかけて徹夜で行方を見守っていた人たちも報道されていました。
オリンピック招致で経済効果が三兆円だとか、世界のトップアスリートたちが日本に集結するとか、いろいろなメリットがうたわれていました。また、被災地に対する思いが感動的に宣べられ、オリンピック誘致が被災地に励ましになることが繰り返し語られていましたが、福島の原発問題についての話題は、ただ「大丈夫、我々が完全にコントロールしている」と、最小限にとどまっている点が気になりました。これから東京オリンピックにむけて機運が高まる中で、福島の収束が陰に隠れ、埋もれてしまわないように注視していかなければならないと思いました。

今日は「まことの礼拝者」というテーマで、みことばを学んでいきたいと思います。
皆さんもよくご存じのストーリーかと思います。イエス様は、スカルの井戸端で、サマリヤの女との会話を通して、それまでの「礼拝」というものについての概念を覆す、時代を経ても替わることのない大切なことをいくつか話されました。その中のひとつが「礼拝」についてであります。先ほどお読みいただいた箇所で、女はイエス様に対して言いました。「先生。あなたは預言者だと思います。さて、私たちサマリヤ人の父祖たちはこの山で礼拝しました。あなたがたユダヤ人は、「いや礼拝すべき場所はエルサレムだ」と主張しています。」するとイエス様は「この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのは聖書が言うようにはっきりとしている。しかし、救われた者たちが礼拝するのは、ユダヤ人であること、サマリヤ人であることは、今後問題にはならず、霊とまことによってすべての人が主を礼拝する時が来ています。神様はこのような人々をまことの礼拝者として求めておられるからです。」と、はっきりとおっしゃいました。
イエス様が、このようなことをおっしゃるのは、当時のユダヤ人の常識では考えられない、画期的なことでした。ユダヤ人たちは、ユダヤ人だけが神によって選ばれ、神様を礼拝する権利を持っているのだという考え方が、当時人々の間で信じられていましたので、イエス様が仰せられたように、場所は関係ない、形式も関係ない、霊とまことによる礼拝を父なる神様が求めておられるということを、イエス様は異邦人であった、サマリヤの女に初めて宣言されたのです。
私たちは、ユダヤ人から見れば異邦人であります。また、私たち会衆はいろいろな国籍を持った者たちであります。そんな私たちが毎週集まって礼拝できることは、イエス様が開示されたものであります。

プロテスタントのキリスト教会は世界中でありますけれども、教団の違いであるとか、お国柄、環境的な違いによって多少の差はあれ、ほとんど同じような形で礼拝が行われています。賛美があり、祈り、メッセージ、聖餐式、そして捧げものというのが、一般的な礼拝のスタイルです。これは、イエス様が十字架で死んで、三日目によみがえり、天に昇られて一〇日後に注がれた聖霊によって、教会がこの世界に初めて出現したその時から、新約聖書に書かれている初代教会の時代から今まで、変わることのない、賛美、祈り、みことば(メッセージ)、聖餐、そして捧げものというプログラムです。これは普遍的な形です。
しかし、礼拝において大切なのは、ただ漫然とプログラムを踏まえるだけの、形式的な礼拝ではありません。「霊とまことの礼拝者」を父なる神様はここにおられる皆さんの中にも探し求めておられるのです。

少し話は替わりますが、八月は教会の中はいろんなイベントがあり、大変忙しい中でした。八月三日にはヘブンリーキングダムのゴスペルコンサートが豊橋で持たれましたが、大変すばらしいものでした。私もそのコンサートに出演して歌わせていただきましたが、本当に恵みの時でした。
その前後は、アメリカのパサディナチャーチのカーウィン牧師他三〇名以上の兄姉が来会され、ともに過ごし、コンサートでも一緒に歌うことができました。
それで、疲れがたまってしまったのかと思いますが、彼らが帰られた後、風邪をひいてしまいました。約2週間にわたり風邪で、仕事はできたんですが咳がひどく、いつもコンコンしていました。少しのどに力を入れるとむせかえるように咳が出る状態でした。

余談ですが私の家内はとても丈夫で風邪なんかひかないんです。今回も2週間家の中、寝室でもコンコンしていましたけど、移りませんでした。前にも僕がインフルエンザにかかって三・四日寝込んでいた時も、その後子どもたちが順番にインフルエンザにかかっても、看病していても移らなくて、一人でピンピンしていました。彼女は本当にサイズは小さいんですが強い体を持っています。そんな家内を持っていることをいつも誇りに思っています。
彼女は肩こり体質ですので、僕は時々彼女の肩を揉んであげるのですが、風邪もひかずにバリバリ働きます。本当にぐうたらな僕にぴったりの奥さんだと神様に感謝しています。肩ぐらいいくらでも揉んであげたいです。家内を見ていると、やっぱりよく言う「丈夫で長持ち」が一番だなと思います。

話を戻しますが、僕は咳で大変苦労していたのですが、そんな時に限って、新城教会賛美主任の開先生が、ざわめきの奉仕が入っていて、その二週間、日曜日や水曜日の礼拝で留守にしており、僕が賛美リードしなければならなくなりました。また、一五日には「ざわめき同刻プレイズ」もあって、新城での賛美を僕が任されました。そこでは下手なギターを弾きながら一時間賛美リードしなければなりませんので、これは困ったことになったと思いました。
僕はこみ上げるような咳を一日中繰り返すような状態だったので、賛美リードはとてもできないと思いました。そこで、上條先生にもしもの時には代わっていただきたいとお願いしました。
しかし、そうはいったものの、心に「待った」がかかっていました。というのは、僕はいつも教会のスケジュールを立てる担当をしていまして、集会の中で誰が奉仕するか、奉仕者を考えてお願いするのが仕事です。たまたま礼拝日に牧師先生が奉仕で留守にしていて、ざわめきも外で奉仕していたりすると、上條先生に賛美リードやメッセージをいつもお願いしています。そんな時に上條先生がたまたま体調が悪くて、咳き込んで苦しそうなときでも、「他に代役もいませんので予定通り主のために頑張ってください!」とかいって、平気で賛美リードやメッセージをお願いしているのが常です。なので、今回いざ自分の時だけさっと代役を頼むことに、「おいお前、そんなことで良いのか?ちょっとムシが良すぎるんじゃないか?」と、何か心に責めのようなものを感じました。
考えてみると順先生や明先生も、稀ですが風邪をひくことがあります。しかし、あの先生方こそ代役なんてそうそう頼めませんので、たとえ体調が悪くても顔に出さず、いつもちゃんと奉仕されています。見習わなくちゃと、そんなことも考えました。
そこで、万全でなくても何とか全部やろうと思いました。特に八月十一日の礼拝、十五日のざわめき同刻プレイズのときは、もっとも大変な中でした。歌っていてもむせないように注意して、普段の半分の力以上は絶対に出さないようにしていました。それで普段よりも小さな声で歌いました。その分、音響の義也先生とか、コーラスの方にフォローしていただきましたが、そんなこんなで何とかすることができました。でも、奉仕が終わった後、ある方から、「先生今日はどうかしましたか?祈っています。」と声をかけていただくといった感じでした。

でもその時の奉仕を通して、僕自身礼拝することの大切な要点を、身を以て体験したような気がします。第二サムエル記 一二章二〇節を読むと、

「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、【主】の宮に入り、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。」

とあります。
 この箇所は、ダビデにとって生涯の中で最も悲しいと思われる出来事が起こった時のことです。
それは、自分の最愛の、生まれたばかりの子どもが亡くなってしまったのでした。それは、ダビデが犯した罪の結果として子どもに降りかかった、悪魔による仕業でした。ダビデは、人妻と姦淫の罪を犯し、それを隠ぺいするために、戦争の前線で夫を殺し、彼女を妻として迎え入れ、二人の間にできたのがその子どもでした。
そののち、預言者がダビデのもとに来て、彼の犯した罪を指摘しました。彼はへりくだって罪を認め、悔い改めました。神様はダビデの罪を赦されたと書いてあります。しかし、その罪によって、敵に大いに侮りの心を起こしたので、生まれた子どもは死ぬ、と宣告されてしまいます。ダビデが犯した罪のために、その子が死ななければならないとは、ダビデにとって大きな苦痛であったに違いありません。預言者の言った通りに子どもは病気で七日間苦しんで亡くなってしまいました。ダビデは、子どもが死なないようにと断食して、ひたすらあわれみを求め祈り続けましたが、かないませんでした。そして、子どもが死んだのをダビデが知ったとき、先ほどお読みしたように、第二サムエル記 一二章二〇節

「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、【主】の宮に入り、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。」

ダビデは、普通の人の親とは違う反応でした。普通ならば、子どもが苦しんでいるときにあれほど必死に祈っていたのならば、死んでしまったと聞いたときには一体どうなってしまうだろう、気が振れるか倒れてしまうのではないかと思いますが、彼はそうではありませんでした。そのとき彼はこう言いました。「主があわれみ深いので、もしかしたら子どもの命を救ってくださるかもしれないと思い断食していた。子どもが天に召された今は、どうして断食することがあろうか。私は彼のもとに行くであろうが、今彼は私のもとに帰ってはこない。」
この一連の出来事を通して、ダビデが、人の命を握り究極的に支配しておられる神様の御心に文句を言わず、服従し、礼拝をもって神に栄光を帰する姿に、本当の礼拝者としての姿を見ることができます。ここまで至った経緯を見るとき、ダビデの行いは神様の御心に背き、罪に身をゆだねたことで悲しい報いを受けたわけですが、ここに来て彼が捧げた礼拝は、神を信じる者として究極の礼拝の姿があると思います。ダビデはこの姿勢を一生涯貫きました。どんな窮地でも、苦しみの中でも、彼は主を見上げ礼拝し続けたのです。それこそが、ダビデが神様から祝福され、現在でも多くの人々がダビデを素晴らしい王であったと証しする最大の要因であると思います。元気な時、感謝できるときだけ主を礼拝するのではなく、逆境でも礼拝することができるかどうかに、クリスチャンとしての本当の強さは現れると思います。

弱い時にこそ強いのがクリスチャンだと思います。追い込まれて、倒されて、もう何もできないと思われるときにこそ、クリスチャンは神様を見上げることを通して、本当の強さを発揮できるものだと思います。そこで一番大切なことは「神様を礼拝する」ことだと思います。
私たちクリスチャンは弱い時、困難な時こそ、より強くより真剣に神様を呼び求め、祈ります。み心を探し求めて心を神様に目を向けます。逆に、すべてが順調で不安のない時にはそのような気持ちが比較的弱くなります。真の礼拝者として困難のとき・逆境の時に礼拝できるクリスチャンには、もはや怖いものはないのです。

イエス様の生涯も、そのすべてが神様の御心に従い、十字架の死によって悪魔の勝利かと思われたんですが、父なる神様がイエスをよみがえらせたことにより、人類がだれも打ち勝つことができなかった死に対して、完全勝利を取られました。負けたことによって勝利がもたらされたのです。

今日の午後はファミリーコーヒータイムがあります。今日はイエス様の生涯について、わかりやすく子どもの視点から見て描いた映画を見ます。これは、上條実先生がわかりやすくてすごくいいと絶賛している映画です。アイスクリームも出ますので、ゆっくりご参加いただきたいと思います。

先日行われた和歌山ミッションで、明先生がメッセージされた中に紹介されていましたが、今年の五月に行われたリバイバルミッションのPP聖会に石川県から一人の牧師先生が来られました。鈴木勉先生という先生です。九〇歳になる老牧師です。その先生の証を個人的に伺う機会がありました。大変感動しました。

太平洋戦争末期のこと、若かりし日の鈴木師は、豊橋市の陸軍駐屯地に属していました。戦車隊の整備士でありました。終戦間際の一九四五年六月、豊橋を大空襲が襲ったのです。頭上に爆弾が落ちてくるのを見た鈴木師は、あわてて防空壕めがけ走りだしました。そのときに思わず大声で「イエス様~!」と叫んでいたそうです。豪に飛び込むやいなや、轟音とともに豪が土砂で埋まってしまい、生き埋め状態になったそうです。しかし、直撃を免れた鈴木師は、蝉のごとく地中から這い出し、外に出てみると、辺りは惨劇でした。兵舎は跡形もなく吹き飛び、破壊された残骸や、バラバラになった人の死体があちらこちらに横たわっていた、しかし、鈴木師は一命を取り留めたそうです。

なんと、そのとき鈴木師はクリスチャンではありませんでした。クリスチャンでもないのになぜ「イエス様!」と叫んだのでしょうか?

鈴木師が幼かった頃、ある日、従兄のお兄ちゃんと遊んでいたとき、お兄ちゃんが、「おい、勉。今から日曜学校ごっこをしよう。」といったそうです。先生役がおにいちゃん、生徒役が鈴木師でした。「さあみんな、よ~く聞いてね。困ったとき、大変なとき、あるいは、病気で苦しんでいるとき、そして、命が危ない!と言うとき、難しいことは何も考えなくてもいい。ただ「イエス様!」と大声で助けを求めれば、イエス様がきっと助けて下さいますよ。みんな、わかりましたか?」「はーい」こんな事を遊びでやっていました。それから二〇年が過ぎ、記憶の彼方に忘れ去られていた、この「イエス」の名前が、死に直面したとき心に浮かんできて、思わず叫び求めたと言うことです。
それからまもなく終戦を迎え、鈴木師は地元に帰ったのですが、一〇年後くらいにクリスチャンとなり、定年を迎えてから神学校に学び、牧師となって約三〇年仕え、昨年若い伝道師に代表の座を渡して、今回実に六〇年近くたって、あのとき救って下さったイエス様に、感謝の祈りを捧げるためにこちらまで出てこられたそうです。私は先生を現場までお連れして一緒に祈ることができました。先生は六〇年ぶりに訪れた地で、感激して大声で感謝の祈りを捧げておられました。私も感動いたしました。周りの人たちが驚こうが怪しまれようが関係ない、感謝を捧げるんだという意気込みはすごかったです。これもまことの礼拝だと思います。黙示録 五章十二節

「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』」

「ふさわしい方」と告白するのが礼拝の根幹です。英語の「礼拝」という言葉は、もともとアングロサクソン語(古英語)のweorthscipe(ワーススキペ)が原型にあり、最終的にworshipワーシップとなったそうです。この意味は、何かに対して「価値あり」とすることです。神を礼拝することは、神に最高の「価値を帰す」ことです。

鈴木先生は、自分の体力、知識、財力、名誉も、立場も、そういったものが全く頼りにならない状況の中で、主のみが頼み、主のみが自分を救いうるという、最後の望みをイエスの名前に託したのです。まさしく、主にのみ価値があるという状態でした。ふさわしい方だと宣言するところに礼拝の根幹があります。イエス・キリストを信じ生きることの土台がこういった礼拝にあります。教会では様々な活動がありますけれども、その中で中心となっているのも、こういった礼拝です。「イエス様、あなたは私にとって最高にふさわしい方です」と心から宣言するところにあります。

歌手の武田鉄矢が俳優として有名になったとき、あるテレビ番組が、彼が若いころ恋をしたと本に書いてあった十人の女性をご苦労にも探してきました。テレビでは本人の武田鉄矢ぬきで、彼女たちに鉄矢を振った理由をたずねました。それを家で見ていた彼は、自分がかつて振られた理由は、容姿が悪い、短足ずんぐり胴である。歯がきたない、不潔であるといった理由だろうと考えていました。ところが彼女たちの十人のうち、八人までが「生活力がない」と思って振ったと言いました。この番組を、十一人目の恋人となって、めでたく妻になっている節子さんも見ていました。そして、ぽつりと言いました。「バカね。ダイヤモンドが目の前にありながら、ジャリ石にしか見えないとは…」

多くの人は、この「神に価値あり」とすることを理解することができません。私たちが捧げる「礼拝」についてわからないのです。なぜ一週間必死に仕事をして、待ちに待った休みなのに、毎週日曜日に自分の自由になる時間を削ってまで教会に行かなければならないの?と。しかし、私たちにとって主を礼拝することは、人生の目的であり、生きることの本文なのです。

先月中高生会では、サンデースクールで「炎のランナー」という映画を見たそうです。この映画は
一九八二年題五四回アカデミー賞で七部門受賞した名作です。この映画ではスコットランドに、宣教師の家に生まれたエリック・リデルという人のオリンピック出場にまつわるストーリーを描いた実話に基づいて作られています。エリックにとって、自らの才能によって競技会で勝利することは神の恵みを証しすること、陸上で走ることは信仰と同義でした。彼はオリンピックを目指して鍛錬し、ついに一九二四年パリオリンピックの代表に選ばれた。
ところが、パリへの出航の日、エリックは、彼が代表として選ばれた陸上一〇〇メートルの予選の日が日曜日であることについて知ります。彼はデイヴィッド王太子ら、英国オリンピック委員会の要人から、祖国と国王への忠誠のため出場するよう説得されましたが、彼は神への忠誠はそれに勝るとしてこれを拒否し出場を辞退すると宣言します。そこへ、貴族であるアンドリューが入室し、出場種目を変更するよう、つまりアンドリューが四〇〇メートル代表枠を譲ると提案しました。これを全員が承認して、エリックは日曜日に行われた一〇〇メートルを棄権して礼拝を捧げ、替わりに出場した四〇〇メートルで見事優勝したのでした。まさに、神こそ最高の価値があるということを物語っています。

礼拝に関して、聖書を見ると、神は個人的な人間との関係のみを考えておられたのではなく、神の民としての人間との関係を意図して人間を創造されたことがわかります。最初の人、アダムとエバの堕落によって罪人となった全人類に対して、神さまはなお神の民を持とうとして、アブラハムを見出して契約を結ぶわけですが、その時、アブラハム個人とだけではなく、彼とその子孫とに対して恵みの契約を結ばれました。その契約がモーセを通して結ばれたシナイ山のふもとでの契約では、神様とイスラエルの民との契約とし、イスラエルは「神の民、聖なる国民」とされました。ここで彼らは,主なる神を礼拝する「会衆」であり、そのために「集会する民」となりました。「教会」の語源となったエクレシアとは、まさに、この「呼び出された会衆」のことです。従って、聖書的な礼拝の中心的な概念は,神の恵みの契約に基づいて、「民が共に集まって行う礼拝」が意味としてあります。神との個人的な契約関係は、その人の生活全領域に及ぶものでありますが、神様は、神の民の礼拝のために特定の日を聖別されました。これが私たちが日曜日に集まって礼拝することの大切な意義です。

今日は「まことの礼拝者」というタイトルでお話ししましたが、それは、風邪をひいてもインフルエンザにかかっても、何が何でも礼拝にでなさい、というような姿かたちのことを申し上げているのではなく、毎週の礼拝に慣れとマンネリとではなく毎週新鮮な思いで神様を心から求めて集まり、心から賛美し、祈り、みことばを飢え渇きをもって耳を傾け、十字架の愛を覚えて聖餐式を守り、そして喜んで献金を捧げる、これが、「霊とまことによる礼拝」です。

これは、私たちが生きている間、ずっと追求していくべきものです。今回の礼拝は始めから終わりまで完璧だった。完璧に霊とまことで礼拝できた、ということのできる礼拝なんて一度だって持つことはできません。プロ野球の田中将大投手が開幕から負けなしで二〇連勝して、そのおかげで楽天が一位を突っ走って、それを田中のおかげだと言って周りがどれだけほめそやしても、本人は満足することなく、次の目標に向かって突き進んでいるように、私たちも自己満足してみても何にもなりません。
完璧な礼拝は天国に入って初めて体験できるものです。私たちは地上では完璧にはできません。ですからお互いに、毎回、新鮮な気持ちで神様の前に出ていきましょう。

個人と神との関係だけではなく、会衆と神様との関係、集まって神様を礼拝する礼拝を、私たちは毎週守っています。これも、神様が定められた日であり、私たちにとって必要な時です。

神様は、私たちの群れの中から、まことの礼拝者がどこにいるか、さがしておられます。クリスチャン生活の恵みは、充実した礼拝の繰り返しの中から湧き上がってくるのです。ですから、私たちは、ここに集まって、毎週毎週、霊とまことの礼拝を捧げていきたいと切に願います。

今日このメッセージを通して、礼拝というテーマで皆さんも感じられたことがあると思います。それぞれの立場にあり、このめまぐるしい、また複雑になっている社会の中で、仕事の都合、距離的な問題等、いろんな関係でここにいつも集うことができない方も多くおられます。しかし、どのような立場でも、イエス様を信じ、この教会に連なったものとして、霊とまことをもって神様に礼拝を捧げることができるように、また、お互いに心を一つにして、主を見上げ、礼拝していきたいと思います。もしも私たちの心の中で礼拝に対する感覚が鈍り、習慣的、形式的な中に陥っているなら悔い改めましょう。一言お祈りします。

ハレルヤ、主イエス様感謝いたします。今日私たちはキリストの体としてあなたのみ前に集まり共に礼拝を捧げることができ心から感謝いたします。私たちが捧げるこの礼拝、賛美を捧げ、祈りをささげ、あなたのみことばに聞き、そして聖餐式、捧げものをするという、この一つ一つのことを、私たちが心から、混じりけのないあなたに対する「ふさわしい」とする思いで礼拝することができますように。新城教会に連なる兄弟姉妹、インターネットで参加しておられる方々、今日来られなかった方々にも、同じ祝福と恵みが注がれますように。この教会が毎週毎週捧げる礼拝において、あなたこそふさわしい方ですと、全てをあなたにお捧げし、礼拝を捧げるものとなることができますように。自分の状況や、周りの環境に振り回されず、変わることのない信頼と愛とをもって礼拝を捧げることができるように、祝福してください。イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。