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『主はあなたに災いではなく、
平安を与えます!

2013.9.15 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書 29章10節〜12節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』


 ハレルヤ!おはようございます。今日もみなさんと共に、礼拝が守れますことを心から感謝します。今の「エージェント」の歌と演奏、すばらしかったですね。彼らは毎月、ミュージック・スクールで真剣に練習しています。だんだんとうまくなってきました。すばらしいと思います。主がこの教会の一人ひとりを用いて、神の国の拡大のために働いてくださると信じています。

 こうして一週間に一度ですけれど、教会に来て礼拝を守る事はたいへん重要なことです。みなさんも保険に入っていると思いますが、一番入らなければいけない保険は、「イエス様保険」です。
 日曜日の午前に教会に集まるのは、人生において最も大切な保険だと思っています。今日も若者たちが賛美していましたけれど、なかなか今の時代、若者たちを御するのは難しい時代です。しかし若者たちが礼拝に出ると、正しく育っていくわけです。
 私にも子どもが二人いますが、二人ともすでに結婚しました。子育てって何をやってきたのかなと思いますが、私は、彼らが小さな頃、必ず教会に行くことを強調しました。「日曜日は何があっても礼拝に出るんだ」と話して来ました。だから、大きくなっても、その習慣はずっと続いています。
 昨日も、私の息子とか、何人か、新城教会で育って、今は東京でプロのミュージシャンとして働いている人たちが来て、音楽を教えてくれました。息子も音楽業界で果たして喰っていけるのかな、と心配でしたが、この頃はおかげさまで、いや「イエス様で」、仕事がたくさんあるというのです。来年の三月まで、一日も暇がないというのです。今はAIという歌手のサポートで、これからコンサートで全国、三十数カ所まわるそうです。でも日曜日は、何処に行っても必ず、教会に行って礼拝に出てから仕事に行くそうです。何があってもまず、主を第一にして礼拝に出て、人生を歩んで行ったら、「あなたの将来には希望がる」ということです。

 今日は敬老の日です。新城教会では、七十五歳以上の人たちを老人と呼ぶことにしていますが、本当に、長生きご苦労様です。今日は敬老の日ですから、お年寄りの方々に敬意を表し、感謝していただきたいと思います。
 明日はお休みですから、教会でカレーでも食べて、ゆっくりして行ってくださいね。これが今日のカレーです。

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 このカレー、たいへんリラックスしていますね。しかしちょっと食べにくそうです。こんなカレーは出ませんが、この写真を子どもたちチェックしたら「いいね!」と言っていました。本当にこんなカレーが出たら、ずっと飾っておきたい感じです。
 教会にはいろいろなプログラムがありますけれど、最も参加しなければならないのが、「イエス様保険」です。今日も一日、是非とも、教会で過ごしていただきたいと思います。

 今日は午後から「霊的戦いセミナー」をやります。これは大変重要なテーマですから、是非、出席してみてください。先週は新城教会のスタッフたちが、日本全体を視野に入れたとりなしの祈りをしました。
 先週は、全国各地に出て行ってとりなしの祈りをしました。山口県から福島県まで行きました。

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 この図を見て、ぱっと意味が分かる人は、なかなか賢いです。日本の歴史をよく分かっている人だと思います。日本の近代がどうしてできたのかを知って、日本の未来をとりなして行かなければいけないと思います。
 その意味については、午後からお話しさせていただきます。私は今回初めて、会津若松にとりなしに行きました。それから、福島第一原子力発電所にもとりなしの祈りに行きました。今回のとりなしで、原発も大きなテーマでした。この赤いピンが原発ですが、すぐ近くの富岡町まで行きました。

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 直線距離で原発まで数キロくらいまで近づきました。

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 私は行ってびっくりしました。ここから向こうは立ち入り禁止で行けないのですが、道路での距離は原発まで十キロくらいですが、この辺までは自由に入れるのです。

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 この地域で見たものは、ほとんどゴーストタウン化した街です。誰も住んでいません。二〇一一年の三月十一日から、全く時間が止まっています。車も放置してあるし、家も放置してあります。

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 これは第二原発ですけれど、第一と第二はあまり距離的に離れていません。家も津波で壊れたまま、この辺は放射能のレベルがかなり高いようです。ですから家も壊れたまま放置されています。直したり片付けたりしていません。まだまだ復興には時間がかかるだろうと思いました。
 放射能の問題など、本当にこれからどうなるのかなと思わされました。安部首相はIOC総会で「すべてコントロールされています!」と言い切りましたが、東電は「できていません」と言いました。本当は、できていないと思います。私も現場に近づいて、本当に大変な状況だと感じました。
 現在、事故を起こした原発をコントロールするために、毎日、何千人という人たちが働いています。私たちが行ったのは夕方だったので、原発に近づいたら、作業員の方々が仕事を終えて帰って来られるのです。それで道は渋滞していました。
 どれだけ原発から離れれば、安心なのかは分かりません。新城から福島までは遠いと思いますけれど、今回、雅也先生の安全運転で、福島第一付近まで六時間でした。常磐道で行くと、本当に近いのです。ゴーストタウン化している街から一歩外に出ると、そこでは野菜作ったり、稲を作ったり、普通の生活をしています。人間の感覚で、遠い・近いってなんなのかなと思いました。日本の将来、誰にも分からないんじゃないかなと思います。

 しかし、私たちクリスチャンは、聖書の御言葉に立って、日本の将来のために、とりなし祈る者でなかったらいけないと思います。
 案外、私たちは自分たちの身の回りの生活に追われ、国の未来のために祈ることがおろそかになるのですが、私たちは先回りして、国の未来のために祈っていかなくてはいけないのです。
 今日は敬老の日ですが、七十五歳以上の方々はどうでしょうか。青春は、すべて戦争によって奪われた世代です。国が戦争に巻き込まれたら、誰も幸せだと言えなくなるわけです。ということは、私たちは国の未来のために、真剣にとりなす必要があるのです。

 神が私たちに与えてくださっている御言葉は、どういう言葉でしょうか。今日、エレミヤ書二十九章を読ませていただきましたが、十一節を読みますとすばらしいです。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 時代がどんなに変わっても、神が私たちに持っている計画は、災いではなくて平安を与える計画です。その計画を引き出すことができるのは、主を信じる者たちだけです。
 その秘訣が十二節にありました。十二節をみなさんで読んでみましょう。

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 主に祈り、主を求める中で、神の計画が来るのです。今日も私たちは集って、主を礼拝し、主を求めています。これは大変重要なことです。私たちの国の未来に関わることでもあります。
 今日はエレミヤ書二十九章十一節の御言葉を中心に学んでいきたいと思います。『主はあなたに災いではなく、平安を与えます!』というタイトルで学んでいきたいと願っています。

 聖書は、旧約聖書と新約聖書とで構成されています。私たちは聖書を手にしていますが、今日初めて教会に来られた方もおられると思います。旧約聖書は、イエス・キリストがお生まれになる前に書かれました。それはイスラエルの歴史が中心となっています。新約聖書は、イエス様のご生涯と、その後の、弟子たちの行動が記録されています。聖書一冊が完成するまでには、何千年という時間がかかりました。また、多くの人たちによって、地域によって記録された不思議な書物です。
 この六十六冊が一冊になった本、聖書を読んでいきますと、旧約聖書から新約聖書まで、一貫した主張があります。それは何かと言いますと、「人類を救い出す」という、神の壮大な救いのドラマです。神が人類を救うために、どのように働いてくださったのかを表す、壮大なドラマを見ることができるのです。

 旧約聖書は、イエス様がお生まれになる前の記録ですが、そんな中にも、人類の救いに関する事柄が、モチーフとして様々な場面に散りばめられています。
 一番有名なのが、イスラエル民族が四百三十年にもわたって、エジプトに奴隷となった時、モーセという一人の人物を通して、エジプトから推定二百万という人たちが救出されたストーリーです。それは壮大なドラマです。しかしそれは、やがてイエス・キリストがこの地上に現れ、人類全体を救ってくださることを、あらかじめ表した預言的ストーリーです。

 エレミヤの時代、イスラエル(ユダ)がバビロニア帝国という、当時、世界で最も強力な国の奴隷となっていました。
 イスラエルには、大変な歴史がありまして、エジプトから帰って来たと思ったら、またもやバビロンに連れて行かれ、奴隷となりました。
 しかし、そんなただ中から救い出されたのです。その時にエレミヤを通して語られた言葉がエレミヤ書二十九章十節です。

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』

 どんなに、奴隷のような生活をしていても、イスラエルは神の選びの民であり、顧みの日が来る、「助けてあげます」という預言でした。そして、その通りに助け出されたのです。
 旧約聖書の中で「救い」を見て行くと、一人の人物が起こされ、多くの民が救出されるというストーリーです。
 エジプトにおいても、モーセという一人の人物によって、四百三十年も奴隷となっていた民族が助けられたのです。
 またバビロンに捕囚されていた時も、クロスという一人の人物によって、解放されたわけです。
 「一人によって多くの人たちが解放され、救われます」というのが、旧約聖書が告げている救いです。
 しかしこれはすべて、やがて起こるであろう、全人類の救いにつながっていくのです。一人の人物はどこに集約されるのかというと、「イエス・キリスト」です。イエス様によって、全人類が救出されるということです。
 イエス様が地上に生まれたことによって、今や、全人類が救われ、永遠のいのちを持つことになったのです。

 大変有名な御言葉ですが、ヨハネ三章十六節を読んでみたいと思います。これは「聖書の中の聖書」と言われている所ですから、暗記しておくといいです。ヨハネの福音書三章十六節、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 すばらしい言葉ですね。「御子」とはイエス様のことです。イエス様を信じるならば、誰でも、国の違い、民族の違い、肌の違い、すべて背景を越えて、永遠のいのちを持つのです。
 今、私たちは、イエス・キリストを信じています。永遠のいのちを持っているのです。これは、私たちに究極的な平安を与える神の計画の実現に他なりません。
 これからどんな時代が来ようとも、恐れることはありません。なぜなら、私たちには永遠のいのちがあるからです。この世が終わってしまうことがあっても、私たちは永遠の御国、天国があります。そればかりか、「よみがえる」ことができるのです。こんな完璧な救いは他にはありません。

 旧約聖書の中で「救い」とは、「敵の国から帰って来る」という、「敵の国からの解放」でした。敵とは、ある時はエジプトであり、ある時はバビロニア帝国でした。しかしそれもやがて、イエス様によって現される、一つの国からの解放を現していました。
 世界には現在、多くの国々がありますけれども、世界の人々の国籍は、突き詰めたら、二つしかありません。みなさんも、どちらかの国に属しています。
 今日は、日本国籍の方もおられますし、韓国の方もおられますし、アメリカの方もおられますし、南米の国々から来られた方もおられます。様々な国に私たちは属しているのですが、それは仮の宿です。究極的には、人は「神の国か、悪魔の国か」の、どちらかなのです。それ以外にないのです。世界には二つの国しか存在しないのです。それは神の支配される国か、または、悪魔の支配する国です。
 私たちが救われるとは、敵の国、それは悪魔の支配する国からの解放だということです。悪魔に囚われていた人たちが、神によって救出され、神の支配される国に入ることです。救いとは、暗闇から光、サタンの支配から神の支配に移ることです。
 今日、イエス様を信じるならば、もう敵の奴隷ではありません。神の国の住民です。『私たちの国籍は天にあります』とありますが、ここにおられる方々はすべて、神の国に属する者たちです。
 もしも今日、初めて教会に来られた方がおられたら、イエス様を信じて、悪魔の支配する国に国籍を持つのではなく、神の国に国籍を持つ者に変えていただきたいと思います。
 どうしたら変わるか。それは「イエス・キリストを自分の救い主として、個人的に受け入れる」ことです。「イエス様、あなたが私の救い主です」と、信じ告白することが、国籍を変える唯一の方法です。一生懸命努力したり、修行をしたりではなく、ただ信じるだけです。
 敵の手からの解放されるとき、私たちは将来と希望を見いだすのです。

 今日、読んだ、エレミヤ書二十九章から、さらに読み進めて行きますと、エレミヤ書三十一章にも、同じテーマで語られていることが分かります。エレミヤ書三十一章十六節〜十七節、

『主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主の御告げ──彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──主の御告げ──あなたの子らは自分の国に帰って来る。』

 二十九章に続き、三十一章も、同じことを神は語っておられます。ここでは「あなたの目の涙をとどめなさい」と言うのです。
 人生って、長くなればなるほど、振り返ってみると、泣き声と涙の連続かもしれません。私の人生はなんだったのだろう…と。
 私も今年で六十二歳になりますから、六十二年間、振り返ってみれば、「俺は何をしてきたんだろう…」と、時々思います。「もう少し、時間を有効に使えば良かった。適当な人生だったな…。もっと早くから、こうすれば良かった…」などと、悔やまれるのです。しかし主は言われます。『あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがある』と。

 普通、人生に報いがある事は少ないです。六十二年間、どこに行っちゃったんだ‥というようなところがあります。しかしイエス・キリストを信じる人生には、「報いがある」と宣言されています。これを信じようじゃありませんか。

 三十一章をさらに読み進んで行きますと、エレミヤ三十一章二十七節〜三十一節、

『見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。──主の御告げ──その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 将来と希望が、いつ実現するのかについての預言があります。『見よ。その日が来る。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』とあります。
 「新しい契約」が結ばれる日、あなたは、災いではなくて、平安を受け取るであろうとエレミヤは預言したのです。
 「新しい契約が結ばれる日」とは、いつなのかというと、やがてイエス様がお生まれになって、イエス様が全人類の罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んで、三日目によみがえってくださった日です。
 聖書は、旧約聖書から新約聖書まで通して読むと、一貫性があります。エレミヤは、イエス様がお生まれになる何百年も前の人ですが、「やがて新しい契約が結ばれる日が来ますよ。今まで、泣き声と涙の連続だった人生が、今度は希望に変わる日が来る!」と預言し、励ましているのです。

 今、私たちは、どういう時代に生きているのでしょうか?それは、すでにイエス様によって、新しい契約が結ばれた後に生まれ、生きているのです。すばらしい恵みです。
 私たちは、新しい契約の中にあります。ということは、今日、私たちがイエス・キリストを信じるならば、なんと永遠の希望と共に、新しい契約を受け取ることができるのです。

 現代社会は契約社会です。常に私たちは、契約を結びながら生活しています。お店に行って、買い物をするのも、商取引契約です。
 一番分かり易い契約は、クレジットカードを使う時だと思います。みなさんもクレジットカードをよく使うと思います。ある人は使うのが嫌いな人もいるかもしれません。なぜなら、「後から請求が来るから」です。それは当たり前です。私も後から請求が来ないクレジットカードが欲しいです。そんな物ありません。後から必ず請求が来ます。
 私は時々、海外に行って、誰も知らないような地球の裏側で「ここでカードを使ったって、絶対に後から請求なんて来ないだろう…」と思うのですが、一ヶ月後、ちゃんと請求が来てます。今週はアメリカに行きますけれど、アメリカで使ったら日本でちゃんと請求があるのです。なぜかといったら、契約が結ばれているからです。
 契約とは、中身がどういうものであるかをよく知らないと、時には大変なことになります。また、すばらしいメリットがあるのにも関わらず、それを逃してしまうこともあります。
 クレジットカードを使えば、本来は後ろに分厚い約款があるわけです。それをすべて「認めましたよ」ということで、サインするわけです。「滝元順!」と真剣にサインしても、「滝元順…」と適当にしても、同じ契約が結ばれますから怖いです。契約の中身をよく知らないといけません。
 神様との契約もそうです。私たちが真剣に信じるも、簡単に信じるも、中身は同じですから、その中身が何かということを、よく知らないといけないわけです。

 みなさん、イエス・キリストを信じたメリットは、なんでしょうか。先ほど申しましたように、永遠のいのちです。永遠のいのちが与えられるなんて、そんなすごいことはありません。それはみなさんよくご存知の、契約の中身です。
 しかし、イエス・キリストを信じる新しい契約の中身は、さらに、他の契約も含まれているのです。
 もう一度クレジットカードの話になりますが、この頃、クレジットカードは、使うとポイントが貯まります。ご存知でしょうか?私はそういう、ちまちましたことはあまり好きではなく、あまり気にしていませんでした。けれども、結構、周りには細かくチェックする人がいまして、カードでも使い方によっては、かなりポイントが貯まるらしいです。
 私も一枚のカードを良く使っていましたが、知らなかったのです。「ホームページを見たらポイントがわかる」と言われ、開いてみたら二万円くらいポイントが貯まっていました。放っておいたら、有効期限が切れてしまうのです。知っていれば二万円得するのです。とはいうものの、ポイントとは、カードを使う時に、ちょっとずつポイント分のお金を取られていて、バックされるだけの話だとは思うのですが、知っているのと知らないのでは、大きな差が出るわけです。
 この頃、そういう事が分かってから、クレジットカードもちゃんとポイントを貯め、マイルを一生懸命貯めています。私は自分の旅行で、海外に行く時、チケットのお金を払ったことは一度もありません。なぜならば、いろんな所に行く時にマイルが貯まるので、海外旅行は結構タダで行きます。うまく使えば、うまくいくのです。

 私たちも、イエス様と新しい契約が結ばれる時、どんな中身があるのか。永遠のいのちだけなのか、中身をよく知らないと損します。先ほど読んだエレミヤ書三十一章二十七節から見ると、

『見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。──主の御告げ──その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。』

 当時、イスラエルには一つのことわざがありました。それは『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、ことわざがよく使われていたようです。
 このことわざ、どう思いますか。「あぁ、歯が痛い!多分、親がぶどうを食べたな…」という感じです。

 言葉を読んでもピンと来ません。なぜなら日本ではぶどうは甘いからです。みなさんはぶどうは好きですか。この頃、ぶどうがたくさん出回っております。もう少し大きくて、食べやすいといいなと思うのですが、食べるのは面倒くさいですが、本当に近頃のぶどうは甘いです。でもあれは、種の品種改良によって甘くされたのです。
 しかし、旧約聖書が書かれた時代、ぶどうは「酸い」という代名詞だったわけです。イエス様が十字架に架かって苦しんでいた時、ローマの兵隊が酸い葡萄酒を差し出した、という記述があります。そもそもぶどうは酸かったのです。
 近年になって、何度も何度も品種改良がなされて、ぶどうは甘くなったわけです。このことわざを今風に言うならば、「父が酸いレモンを食べたので、子どもの歯が浮く」と言った方が、分かり易いかもしれません。
 普通、お父さんが酸いぶどうを食べたり、またレモンをかじって、子どもの歯が浮くことはありえないのです。しかし、そういうことわざが流行るほど、イスラエルでは不可解な事が起こっていたのです。

 しかし「その日」にはどういうことが起こるのか、「そのことわざを使わなくていい日が来る」という預言だったのです。
 「今まではあなた方は、ことわざのように『父が酸いレモンを食べたので、子どもの歯が浮く』という不可解な事が起こっていたけれども、このことわざを忘れてしまう日が来ますよ。それが新しい契約が結ばれる日です」とエレミヤにより、語られているのです。
 父が酸いぶどうを食べたため、子どもの歯が浮くとは、平たくいえば、家系の中に起こる、それも繰り返し起こる問題について語っていると思われます。

 私はこのような仕事をしていて、多くの方々の問題に関わるのですが、あなたの両親はどうですか?おじいちゃん、おばあちゃんはどうですか?ひいじいちゃん、ひいばあちゃんはどうですか?と聞くと、皆、同じ問題を持っている事があります。
 おじいちゃん、おばあちゃんは離婚した。両親も離婚した。子どもも離婚した。孫も離婚した。同じ病気で死んで行く…というような、同じ災いがあるのです。それは、父が酸いぶどうを食べたから、子どもの歯が浮いていると表現できます。

 しかし、なんと、新しい契約が結ばれる日、そのようなことわざを使わなくて済むようになるのです。イエス・キリストを信じる時、世代間を飛び越える呪いのようなものから、あなたは解放されると語られているのではないでしょうか。二十七節に、

『見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。』

と書かれています。『人間の種と家畜の種を蒔く。』
 この頃では、種なしぶどうなんてありますが、種がなかったら将来どうやって、ぶどうを育てるのかと不安になる時がありますが、植物でも動物でも、種がないと実を結ばないのです。人間も、人間の種があって生まれるわけです。
 父が酸いぶどうを食べるたびに、子どもの歯が浮くとは、人間の種とか、家畜の種の中に、すでに問題の種が含まれているわけです。

 私は三週間前、ここで遺伝子について話しました。

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 遺伝子という言葉はどうでしょうか。「子どもに伝え、遺すもの」と書きます。時々、「世代の呪い」とか言うと、「ちょっと、うさん臭いんじゃないの?」なんて言われます。しかし、この頃では、科学的にも否定できない時代になって来ました。
 私は三週間前に、最近のNHKスペシャルの番組について紹介しました。人間とは、遺伝子のもととなっている「DNA」という、たったの四つの塩基物質で出来ているのです。
 また、この遺伝子の元となる、DNAは三十億個くらいあって、三十億はたった四つの塩基の配列により構成され、体の器官も、また将来起こるであろう事柄も、ほとんどがその中に情報が含まれているというのです。

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 DNAは、巻物のようで、ATGCという四つの物質が延々と並んでいます。引き延ばすとだいたい二メートルくらいになるそうです。そこに三十億くらいのDNA物質が並んでいるわけです。

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 この物質の配列を今では、手軽に調べることができるようになり、将来起こるであろう病気や災いなど、すべて含まれている可能性があるというのです。しかし、配列の中で、どこが何の役割をしているのか、わかっているのは、三十億の配列の中で、たったの一パーセントくらいだというのです。あとは「ジャンクDNA」といって、「意味はない」と思われていたそうです。しかし近年、すべてに意味がある事が徐々にわかってきたのです。
 ある説によれば、我々が人生を歩んで行く、すべての情報がその中に入っているかもしれないとも言うのです。いつ誰と出会い、どんなことがあり、病気になり、何が起こるのかという、何もかもがその中に含まれている可能性があるのです。もしかしたら私たちは、人生のすべての情報を先に持たされ、生きているのかもしれません。
 段々と科学が発達して、人間がどういうものかが分かって来ました。

 遺伝子とは、「子に伝えて遺す」と表記されるのですが、人間の種が蒔かれると、すでにその中に、親からの悪い情報が入っていて、ある時は引き抜かれたり、ある時は引き倒されたり、壊されたり、滅ぼされたり、災いが起こったり、種の中に全ての情報が仕込まれているわけです。ぜひ、人ごとみたいに聞かないでください。私の中にも、あなたの中にも、それがあるのですから。私のDNAってどんな感じかなぁと、時々思います。

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 配列が延びていますが、手前を現代としたら、未来に遡るDNAの配列の中に何があるのか不安です。もしも先にそれが読めたら、「あっ!ここではこんな病気になる!あっ!ここでは‥」なんていう風に、全て先に仕込まれているとしたら、夜も寝られなくなってしまいます。
 「世代間の呪い」だとか「家系の呪い」なんて表現すると、「えっ?」と思いますが、現代の科学で表現すれば、私たちの種の中に、子に伝えて遺す、遺伝子の中に、すでに悪い情報満載ということが分る時代なわけです。

 アメリカは百ドルくらいで、かなりの項目の病気になる確率が分かるそうです。もちろん環境的要因が加わって、遺伝子が動くかどうかは変わるそうですが、八十パーセント、九十パーセントという確率が出たら、ほとんど将来、発病するそうです。
 今では国民の半数が癌になるというのですから、たまったもんじゃありません。そして、三分の一は癌で死んでいくというのです。
 なぜ癌になるのか、それは環境的因子もあるけれど、それ以上に、遺伝子の中にそういう情報がすでに入っているがゆえに、発病するわけです。逃げようがないのです。それは上の世代から新しい世代へと流れ、親は子に伝え、子は孫に伝え、孫はひ孫に伝え、延々と続くのです。

 しかし、新しい契約が結ばれる日とはどういう日なのでしょう。『その日には彼らはもう「父が酸いぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」とは言わない』というのです。すごいことじゃないですか。

 現代の科学と聖書の言葉を突き合わせてみれば、もしかしたら、私たちの将来に向けて配列されている遺伝子の悪い情報さえ、変化するという事が、救いの契約書には含まれているのではないでしょうか。新しい契約書の約款の中には、「それを消してあげます」という項目が含まれているということではないでしょうか。
 私たちは、やがて永遠のいのちをいただくことができますが、その間においても、すばらしい約束があることを知るのです。それを知って生活を送るのか、知らないで送るのか、大きな差があるのではないでしょうか。

 私は新しい契約の中身を、よく知って生きて行きたいと願っています。どんな悪い情報がDNAの中に過去から現在、そして未来にまで流れているとしても、新しい契約の中では、決して役に立たない、動くことはないと、宣言できるのです。
 「私たちのための計画はわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 この御言葉を受け取ろうじゃありませんか。イエス・キリストを信じるという保険は、他の何よりも大きなものです。

 先週は近江八幡の教会で奉仕をし、先々週は静岡県の三島の教会で奉仕をしました。新城教会にいなくて、本当に申し訳ないです。今朝もある方と出会って「ひさしぶりですね!」と言ったら、「ひさしぶりじゃないですよ。毎週来ていますよ。先生が来られていないんじゃないですか」と言われちゃいました。「すいません」という感じですが、私は二週間前は三島で奉仕をしました。
 五年ぶりにその教会に行ったのですが、五、六年前、すばらしいことがありました。その時に私は、その教会で一つの証しをしました。前にもここで話したことがあるのですが、この教会に今から十年以上前に、一人の奥さんが来られました。当時、その家には多くの問題がありました。
 しかしある時、気づいたというのです。その家系は、五月になると長男が死ぬという、嫌な法則があることに気づいたそうです。近年も、親族の中の長男が死んだというのです。仏壇の中にある過去帳を見たら、長男はみんな五月に死んでいたそうです。

 日本人はそういうことがあったらどうでしょうか。必ず、占い師の所に行きます。その人も占い師の所に行って、拝んでもらったそうです。すると「先祖供養がちゃんとなされていない。十代前の先祖が祟っている」と言われたそうです。十代も遡れば、先祖は何万人にもなりますから、その中の誰がたたっているのか特定するのは大変だと思いますが、「一生懸命拝め」と言われて、先祖を真剣に拝んだというのです。
 にも関わらず、その年も、結婚したばかりの長男が、五月に交通事故で死んでしまったというのです。そんな中、この教会に来られるようになりました。それから十年以上経ちますが、振り返ると、それから五月に死んだ人は誰一人いません。その方がクリスチャンになって、家族、親族、友人関係、二十人くらいはクリスチャンになっています。本当に祝福されました。

 その事を私は三島の教会で五、六年前にお話ししました。そうしたら、みんな思い当たる節があったみたいで、祈りの時間を持ちましたら、大勢の方々が残りました。
 その日は日曜日で、私は翌日も予定があったので、新城に帰らなければいけなくて、新幹線の最終の時刻をちゃんと押さえていました。もしも、それでも帰れない場合の為に、三島から浜松まで来て、在来線で豊橋まで帰る時刻を調べておきました。それは夜中の一時くらいに豊橋に着くのです。それはあまり使いたくないから、豊橋に停まる新幹線で帰れるように、時間を考えながら祈っていたのですが、あまりにも人が多くて、祈りきれませんでした。
 途中で適当にして帰ろうかなと思ったら、主が私の心に語りました。「おまえが一本くらい電車を遅らせたって、おまえの人生は変わりはないけれど、おまえが祈らなかったことによって、誰かの人生に問題が起きたら、おまえのせいだぞ…」と言われたような気がして、私は最後の手段の新幹線を選びました。おかげで家に着いたのは夜中の二時頃になりました。でもその時に、奇跡を体験しました。

 すべて祈り終えて、「疲れた…。さぁ帰ろうか」と思った時、後ろのドアが開いて、一人の奥さんが幼い子どもを連れて、私の目の前に立っていました。彼女がなんと言ったかというと、「私は結婚していたのですが、主人は交通事故で死にました。それ以来、私の人生は無茶苦茶です。」という話でした。
 だから私はこう言いました。「あなたによく似た人の話を先ほど、集会の中で話したけれど聞いていなかったの?」彼女は「子どもが泣いたので外に出てしまいました」と言いました。
 新城教会に来られている方の親族で、五月に主人が亡くなって、奥さんはその後、どこに行ったか分からなかったのです。
 しかし、私が三島の教会で、最後の最後に出会った女性の話が、私が新城で聞いた話と、たいへんよく似ていました。

 それで私は聞きました。「あなたはどこで結婚生活されていたのですか?」と聞くと、「浜松です」と答えました。新城教会に来られてる方も浜松で、話の内容があまりにもよく似ていました。
 なんとその女性は、この教会に来られている方の親族で、行方不明になっていた奥さん本人でした。その人が私の目の前に立っていたのです。私はびっくりしました。
 「なんであなたはここにいるんですか?」と聞いたら、その方は、ご主人を亡くしてから、一人の子どもを連れて、全国をあちらこちら巡ったそうです。
 しかし、最後に三島に来たそうです。ある日、電車から降りたら、駅前で誰かがギターを弾いて賛美歌を歌っていたそうです。その人は日本人じゃなくて、フィリピンの方で、日本の家庭に嫁いでいたのですが、昔、フィリピンで賛美歌を聴いたことがあったそうです。「あっ!これは昔、教会で聴いた賛美歌だ…」と、賛美している人たちに近づいたそうです。「あなたたちはクリスチャンですか?どこの教会ですか?」と聞くと「駅からすぐ近くの教会ですよ。あなたも来てみませんか?」と言われて、三島に住みつくことになって、彼女はその教会に時々来ていたようです。

 私はなぜか、その教会に招かれ、私はその人の元嫁いでいた家の話をしたのです。そして、なんと最後の最後に、出て来たのが彼女だったのです。私が行方不明の人を見つけたのです。本当にびっくりしました。
 そんなことがありました。今回、五年ぶりにその教会におじゃましたら、その方がちゃんと教会に来ていました。息子さんも大きくなって、再婚して二人子どもが生まれたらしく、「今はみんな幸せに暮らしています」と言っておられました。本当に神様の計画はすごいと思いました。
 私は、行方不明になった奥さんについて聞いたとき、「そんな人がおられたのか…」くらいにしか思っていませんでした。見つかるなんて、全然期待していませんでした。まさかその方が救われて、家族が幸せになるなんて、これっぽっちも考えていませんでした。しかし神様は愛の深い方です。行方不明になった、ある意味、立場の弱い方に、神様はちゃんと目を留めて、教会に導き、私もそこに行かされ、その人を発見し、今では両方の家族がクリスチャンになっているのです。
 これこそDNAの中の悪い情報が消え、将来と希望、平安が現されていることに他なりません。

 イエス様を信じることは、気休めではありません。宗教ではありません。実際に、私たちの将来に関わるのです。こんな重要なことは、人生、他にありません。是非ともイエス様を信じて、永遠のいのちをもらうだけでなく、父が酸いぶどうを食べたために、子どもの歯が浮くという、種の中に仕込まれている悪い情報さえ、クリアされ、将来と希望に向けて人生を歩んで行こうじゃありませんか。

 今から聖餐式を行います。聖餐式は「新しい契約」です。今から新しい契約を確認する一時を持ちたいと思います。
 第一コリント十一章に、

『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」』

 聖書の順序を見ると、「パンを取り、杯を飲みなさい」とあります。これは新しい契約の確認です。永遠のいのちと共に、「父が酸いぶどうを食べたために子どもの歯が浮く」ということわざを忘れてしまうほど、種の中の悪い情報さえも消えてしまう約束です。エレミヤの預言の実現につながる新しい契約です。

 今日は、「新しい契約を感謝します。新しい契約が結ばれていることを宣言します!」と祈り、聖餐式を受け取りましょう。イエス・キリストを信じている人は、受け取ってください。一言お祈りして、聖餐式に移りたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様。心から感謝します。私たちには新しい契約があることを心から感謝します。私たちの目の前には、パンとぶどうのジュースがあります。父が酸いぶどうを食べたために、子どもの歯が浮くというような、私たちの種の中に仕込まれている悪い情報が無効になることを、心から感謝します。
 私たちは人生の中で、将来に向け、将来と希望、平安があることを宣言します。聖餐式の中で、もう一度、新しい契約の偉大さに感謝します。イエス様を地上に送ってくださり、十字架の血により、復活によって、新しい契約が打ち立てられたことを心から感謝をいたします。
 今からのひとときを祝福してください。イエス・キリストの御名によって、祈りを父なる神様の御前にお捧げいたします。アーメン。