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『この秋、あなたは
「祝福された主の勇士」です!』

2013.10.6 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
民数記 二十三章二十節〜二十三節

『見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、主は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は国を越え言葉を越え、共に礼拝できますことを、心から感謝します。今日は韓国語が分かる方には良い日です。別の国の言語を通訳と共に聞くことは、あまりないかもしれません。
 私は先週までアメリカにいました。ずっと、通訳付きでメッセージをしていました。家内が言いました。「あんたは通訳付きの方がいいメッセージをするよ。落ち着いて話すからよく分かる」と言いました。そうなれば嬉しいです。

 今日はチェ先生と一緒に、日本で奉仕できることが嬉しいです。韓国から五名の方々が来てくださいました。ちょっとお立ちくださいますか?拍手して歓迎しましょう!
 数年前から、神様が韓国と日本を繋げてくださり、共に奉仕するようになりました。そんな中、多くの恵みを受けました。他の国、他の民族、他の言語と共に主を賛美する時、大きな勝利が来ます。

 私は二週間アメリカで奉仕をしましたが、今回はアメリカの黒人教会で奉仕をしました。

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 今回のメインは、「ミュージック・アーツ・リバイバル・ムーブメント」という、賛美と霊的戦いがドッキングした集会での奉仕した。二週間のうち、三分の二は黒人の方々の教会での奉仕でした。
 黒人の方々には賛美の賜物があります。礼拝はとても元気がいいです。今日私は礼拝の雰囲気に、ちょっと違和感を感じています。なぜなら、みなさんが静かだからです。黒人の方々の礼拝はすごくうるさくて、テンションが高いです。その後にメッセージを語る私の気分にもなってください。しかし、みなさんのお祈りに支えられ、本当に良い集会でした。

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 ロンさんや、いつも日本に来てくださるミュージシャンの方々とご一緒に、奉仕をさせていただきました。

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 今回は、特に黒人の方々の教会で霊的戦いセミナーをさせていただきましたが、「これってもしかしたら、日本人がやらなければいけない働きなのかもしれない・・・・
」と思わされました。
 先週の日曜日も、黒人の方々の教会で礼拝奉仕でした。そこの牧師先生を見て、人間ってこれほど顔かたちや姿がお互い違うんだ…とびっくりしました。せーの!どん!

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 なかなかすごいでしょ。これを本物のアフロヘアーと言うのです。ある者とない者が並んで仲良く立っています。これも神様の創造の偉大な御業かもしれません。いい先生でした。

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 また、タコマに行き、綾子先生にも会いました。私はこの方と出会って人生が変わりました。先生と会わなかったら、このカップルはありえません。

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 みなさんの祈りによって祝福されたことを、心から感謝します。

 私は世界の教会で時々奉仕をさせていただき、「すごいな!」と感動することがあります。それは、日本で学んでいる御言葉を他の国で語っても、同じことが起こるからです。人々は救われ、解放され、癒されるのです。それで「私たちが信じているイエス様は、間違いない!」と、いつも感動するのです。
 今日はみなさんと共に、旧約聖書の一節から学んでいきたいと思います。タイトルとして、『この秋、あなたは「祝福された主の勇士」です!』とつけました。

 私たちは霊的なイスラエルです。神様がイスラエルに語ったみ言葉は、私たちクリスチャンにとっての言葉でもあります。それは祝福の言葉です。
 今読んでいただいた民数記の二十三章の二十節から二十三節の言葉は、大変すばらしい言葉です。
 しかしこの言葉は、誰が語ったのかというと、神の預言者が語ったのではなく、バラムという、敵方の霊能者が語った言葉です。普通では悪魔の声を伝える存在が、なんと、神様にねじ伏せられ、神からの祝福の言葉を語ったのです。
 この箇所から私たちは、敵のただ中にあっても、祝福を受け取る存在であることを確認したいです。

『見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。』

と語られています。神様が「祝福せよ」と言ったら、敵方の霊能者も、それを覆すことはできないのです。二十一節から、

『ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、主は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。』

二十二、二十三節を見ると、

『彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。』

 私たちの中に「災いはない」というのです。神を信じる者に「災いはない」と保証されています。特に私は二十三節の言葉を読んで大変感動しました。

 時々、私たちは将来のことを知りたいと思います。クリスチャンではない人たちは将来のことを知る時、占い師のところ、韓国では「ムダン」の所に行きます。クリスチャンも、時には、預言の賜物をいただいた人に祈ってもらって、「将来のことが分かるといいな…」と思ったりします。
 しかしイエス・キリストを信じるなら、基本的に、『神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。』と約束されています。
 こんな人生があったらすばらしいじゃありませんか。別に、将来のことを知ろうとしなくても、神様の方が全てスケジュールを管理してくれるのです。時に応じて、必要なことを私たちに告げてくださるというのです。こんな人生、歩みたいと思いませんか?
 韓国なら全員アーメンと言います。こういう人生、歩みたいと思いませんか?「アーメン!」私も心からアーメンです。黒人教会なら、全員立ち上がって、大騒ぎなはずです。日本人は静かですが、心の中では手をたたいています。
 私たちには主がおられますから、時が来たら、時に応じて、必要な情報を与えてくださるのです。このような祝福を、手に入れたいものです。

 イスラエルは、基本的には、このようなすばらしい祝福を受けていたのです。しかし、祝福を受け取ることができませんでした。その原因はどこにあったのでしょうか。
 私たちが聖書から、祝福について学ぶと同時に、祝福を受け取ることができなかった原因を知ると、どうしたら人生を正しく歩むことができるかが分かって来ます。
 民数記は、二十二章から二十四章までバラムという霊能者と、バラクという王様との会話で成り立っています。家に帰ったらこの二十二章から二十四章までを読んでいただければと思います。一つのストーリーをかなりのボリュームで述べられています。聖書の中でも、ボリュームを多く使って語られている箇所は重要な箇所です。また一カ所だけでなく、他の箇所でも引用されているなら、相当、重要なテーマであるということです。

 バラムとバラクの会話は、民数記でも結構ボリュームをさいて述べられていますが、旧約聖書全体では、申命記、ヨシュア記、ネヘミヤ記、ミカ書でも取り上げています。さらには、新約聖書では、ペテロ第二の手紙、ユダ書、ヨハネの黙示録にも引用されています。多くの著者たちが、このストーリーを引用しています。
 ということは、ここは相当重要な情報を私たちに提供していると言えます。本来、私たちが受けるべき祝福は素晴らしいのに、なぜ、祝福を失うのかの原因について教えていると思われます。

 イスラエルの人たちは、エジプトに四百三十年間も奴隷になっていたのですが、モーセによって、エジプトから解放されました。しかし解放された時、難民が国から流出したようではありませんでした。脱出した時には、すでに一つの国のように、軍隊組織を仕立てて荒野を旅しました。
 私たちが救われるのも同じです。私たちは悪魔の国から解放され、神の国に入れられるのですが、難民のように苦しみながら神の国を目指すのではありません。神の軍隊として、パワーを持って突き進んで行くのです。
 イスラエルが荒野を四十年間旅したのですが、カナンの地が目の前という時に、周りの民族はイスラエルを見てたいへん怖がりました。特にモアブの王であるバラクが、イスラエルを見て、自分たちも征服されてしまうのではないかと、たいへん心配したのです。それで、なんとかならないだろうかと考えました。

 その時に何をしたかというと、バラムという、当時大変有名な霊能者を、結構遠い地域、ユーフラテス沿岸から招きました。しかしバラムが神に伺ったら、「バラクと一緒に行ってはならない」と語られました。
 するとバラクは「あなたを手厚くもてなします。お金もあげますよ」とバラムを誘惑しました。そうしたら、バラムは「行っちゃいかん」と神に言われていたのですが、心が揺れたのです。
 人生にはいろいろ誘惑があります。しかし誘惑に引っかかると、良いことはありません。バラムがバラクの誘惑に引っかかったことが分かったので、神は「バラクと一緒に行ってもいい」と言われました。
 しかしバラムがバラクの所に行く途中、世界で初めてのことが起こりました。それはバラムが乗っていたロバがしゃべるという、前代未聞の、信じられないことが起こりました。民数記二十二章二十八節〜二十九節に、バラムとロバの会話が記されています。

『すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」』

 これは人間とロバとの会話です。聖書には、おとぎ話ではないかと思われるような物語も載っています。もしも、私に聖書の編集を任されたら、こんなストーリーはなるべくカットします。なぜなら、こんな事を入れたら、せっかくの神の言葉が台無しになっちゃいそうだからです。「ロバがしゃべるんだって?そんな馬鹿な!」と読者はみんな笑うでしょう。だからこういう事はなるべくカットして伝えると思います。
 しかしバラムがバラクの元に行こうとした途中、彼が乗っていたロバが突然、しゃべったのです。イソップ童話じゃあるまいし、何でこんな事が聖書に記されているのかということです。
 内容全体を読んでみると、二十二章から二十四章の内容は、ものすごくシリアスな真面目な内容です。ロバがしゃべるなんていうストーリーを入れたら、台無しになりそうです。
 しかしこれは何を意味するのかというと、「ロバがしゃべらなければならないほど、この問題は重大」だったのです。
 それがどういう問題だったのかというと、バラクはバラムを招いて、何をさせたかったのでしょうか。

 イスラエルがモアブの平原に移動して来ていました。周りは山に囲まれていました。
 それで、バラクはバラムを山の上に連れて行き、山の上から、下に見えるイスラエルに対して呪いをかけて欲しかったのです。呪いさえかければ、イスラエルは力を失い、戦争に負けることを、バラクは知っていました。
 なんとか霊能者バラムに、イスラエルを呪って欲しかったのです。バラムを説得して、三カ所の山上に連れて行ったのですが、神はことごとく、呪うことを阻止されたのです。
 なんと、ロバがしゃべるほどのことさえ起こし、宿営しているイスラエルが呪われないように阻止されたのです。
 バラクはバラムに「さぁ、呪ってくれ!」と言いました。しかし神はバラムに、呪いの言葉ではなく、イスラエルを祝福する言葉を与えました。ある意味、それでイスラエルは助かりました。山上から下に住んでいる人たちを呪う言葉が投げかけられると、神の軍隊でさえ、力を失ってしまう危険があるようです。

 私たちが住んでいる日本には、山がいっぱいあります。しかし日本の山は、ただの山ではありません。
 今年は富士山が世界遺産に登録されたと人々は喜んでいます。

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 富士山は日本の山を代表し、日本の心だというわけです。ところで富士山が世界遺産に登録されたタイトルって、ご存知ですか?「美しい山だから」ということで登録されたわけではありません。富士山は「信仰の対象と芸術の源泉」というタイトルで登録されました。信仰の対象の山ということで、世界遺産に登録されてしまったのです。

 近頃、富士山は爆発するかもしれないと言われます。富士山が爆発したら、日本は大変なことになってしまいます。この間、富士山大爆発というタイトルの写真が載っていました。

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 こんな爆発なら良いかもしれませんが、富士山は、信仰の対象として人々は登るのです。

 新城市も山に囲まれています。新城教会は山々の麓にあるわけです。霊的なイスラエルである私たちは、低地に住んでいます。しかし山から何がなされているのかというと、神様がロバをしゃべらせても、絶対にやめさせかった事がなされているのです。それは、山の上で偶像礼拝がなされ、山上で悪霊を呼び、山下に住んでいる人たちに呪いをかけるような祈りがなされているからです。
 私たちはそのような環境下に住んでいるのです。しかし私たちは、どのくらいその事を意識しているでしょうか。
 和歌山リバイバルミッションのテーマ曲は、「私たちは山に向かって目を上げる」という歌でした。私たちは何気なく、山を見上げるのですが、日本の山々は、油断ならないバラムの山々です。バラムのような霊能者が、下に住んでいる人たちを呪う、呪術がかけられているからです。

 「世界の山々」を研究して本が出版されているのですが、その本によると、世界中で、山々には女神が住んでいると信じられているようです。富士山も同じように女神が住んでいると言われます。

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 気持ちが悪いですね。富士山には「コノハノサクヤヒメ」という、女神が住んでいるというのです。世界遺産が制定されてから、富士山ケーキなんていうのも発売されたそうです。
 しかし富士山には、悪霊が山上に座って、日本中に呪いをかけているような構図があります。

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 これは新城の街ですけれど、新城はぐるっと山で囲まれています。この辺も同じように、頂上には女神が祭られていて、下に住む人たちに祈りが流れる構図があります。
 神は、谷に住む神の民イスラエルが、呪われないように、真剣に阻止されました。
 今週は、山を見たら「きれいな山だなあ、高い山だなあ」ではなく、みなさんに与えられている神の権威を使ってください。山を背景として働いている、暗闇の力と呪いの言葉が打ち破られるよう、祈ろうじゃありませんか。そうしたら、私たちは安全に過ごすことができるはずです。

 イスラエルは、山の上から知らないうちに、呪いの言葉をかけられそうになっていたのです。それを神は全力で、ロバの口まで開いて阻止された、というのがこの箇所が告げているテーマです。私たちの住んでいる街のためにも、とりなして祈らなければいけないことが分かります。

 イスラエルは祝福を受けていたのですが、結果的に、神の裁きを受けたと記されています。
 民数記二十五章を見ますと、九節を見ると、イスラエルに神罰がのぞんで、二万四千人もが死んでしまったのです。神の民が二万四千人も死ぬようなことが起こったというのです。なぜ、そんなことが起こったのか…。
 この箇所から、人生に問題が起きる原因と、起きない秘訣をも学ぶことができるのです。

 バラムは、山の上から呪うことはできませんでした。しかし、バラクにイスラエルを滅ぼす秘訣・秘策を教えたのです。その結果、イスラエルはせっかく神のすばらしい祝福を受けていたのですが、祝福は奪われ、大変なことが起きたのです。そのような策略を、バラムはバラクに教えました。
 たぶんそれは、もてなしの席、宴会の席で告げられたのだと思われます。宴会で酒が入って気持ち良くなった時、「山の上から呪うことはできないけれど、神の民、イスラエルをやっつける秘策があるんだ…」と、バラムはバラクに教えたのではないかと思います。そしてバラクはそれを実行したのです。
 すると神の民、イスラエルに大きな問題が起こって、なんと一度に二万四千人も死んでしまう事件が起こったのです。それはどういうことだったのでしょうか。
 その理由が二十五章に記されています。一節〜三節にあります。

『イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。』

 バラク王は、イスラエルと戦争をするのではなく、自分たちの祭りにイスラエルを招いたのです。戦うのではなく、「イスラエルの皆様、ご苦労さまです。長い旅路でしたね。疲れたでしょう。実は私たち、今週は祭りがあるんですよ。おいしい食べ物がありますよ。楽しい踊りもありますよ。いっぱい酒もあります。つきましては、みなさんを、私たちの祭りに招待したいのですが」と言いました。
 戦いをしかけて来るかと思ったら、なんと、彼らのフェスティバルにイスラエルは招かれてしまいました。荒野で不自由な旅をしてきたイスラエルにとって、それは、新鮮な体験だったと思われます。だからみんなそこに行きました。
 行ったら、山ほどのバーベキューがあって、酒があって、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎでした。イスラエルの人たちも、喜んでその輪に加わり、食べて飲んで踊りました。

 しかしそこにバラクの策略があったのです。バラムはバラクに何を教えたのかというと、「彼らが来る前に、食べ物をあんたたちの神々に捧げなさい」と言ったのです。イスラエルが来る前に、食べ物をモアブの神々、悪霊に捧げる祈祷をしました。
 それらを、イスラエルに食べさせたわけです。それを食べた時、どういうことになったのかといったら、イスラエルは悪霊と交わることになってしまったのです。悪霊と関わりができると、良心が弱くなります。その時、バラクは売春婦たちをイスラエルの男たちに送りました。そうしたら、みんな良心が弱くなっているから、罪を犯し、彼らの神々を礼拝しました。
 その時に何が起こったかと言うと、イスラエルの神の怒りが発せられ、二万四千人もが死んでしまったというのです。

 これは何を教えているのかというと、私たち、神の民が気を付けなければいけない事柄を教えています。日本も韓国も、偶像の神々に仕える人たちは何をするのかというと、宗教的内容についてはあまり教えません。ただ祭りをやって、偶像礼拝をさせ、食べ物を悪霊に捧げ、食べさせることをします。
 秋は祭りのシーズンです。秋祭りには、宴会がつきものです。飲めや歌え踊りが繰り広げられます。神道の教えの勉強会なんて、全くありません。
 仏教ではどうでしょうか。盆の時、必ず仏壇に食べ物を捧げ、それをみんなで食べます。しかしそれは大変危険なことだと言っているのです。

 私は韓国によく行きますが、韓国では先祖を真剣に拝むのですが、チェサといって食べ物を先祖の霊に捧げるのです。女の人たちはチェサの三日も四日も前から、その日の為の食事を一生懸命作ります。子どもたちは、それをすごく楽しみにします。なぜなら、先祖に捧げても、先祖は食べることはしませんから、セレモニーが終わったら、みんなに食べさせてくれるから、楽しみなのです。
 しかし先祖の霊に捧げた食べ物を食べると、何が起こるのかというと、それは先祖のふりをした悪霊ですから、悪霊とのつながりができて、予期しない悪いことが起きますよ、と注意を喚起しているのです。

 十月にある家のお父さんが、洗礼を受けられます。その方は、三重県から来られている方です。先週は、三重の伊勢で遷宮という大きな偶像礼拝がありました。三重県の田舎の方ですが、その方がクリスチャンになって、洗礼を受けられます。
 その方は閉鎖された部落に住んでおられます。娘さんがこの教会で救われて、実家に戻り、家族に伝道しました。家族は六人ですが、すでに三人が洗礼を受けられました。やはりお父さんがクリスチャンにならないと、家族はうまく行きませんから、みんなで福音を伝え、ついにお父さんは決断しました。
 そこは本当に因習の深い村で、伊勢神宮との繋がりがたいへん強いのです。村では、毎年、大型バスを借りて、一泊二日で代表者たちが伊勢神宮に行くそうです。そして伊勢神宮から札をもらってくるそうですが、そのバスが戻った時は、村人全員が村の入り口に整列して、拍手でバスと札を迎えるというのです。そんな地域が今でもあるのです。そこからクリスチャンになるのは、本当に大変です。
 札が来たら何をするの?と聞くと、札を神社に持って行って、村全体で宴会をするそうです。そこで神社を拝んで、食物を捧げ、みんなに食べさせるというのです。そういう所から抜けるのは大変です。その村の人たちは、神道のことなどあまり知りません。知っていることは、ただ、祭りの時には、みんなで神社に手を合わせ、ご飯を作って食べるということだけしか知らないのです。
 また月に一回、村の婦人たちは交代で寺にも行かなければいけないというのです。何をするのかと聞いたら、味噌汁を作りに行くというのです。月一回、村人のための味噌汁を作るそうです。そんなことして何をするのかと聞いたら、仏前に米を捧げてあるというのです。月一回、その米を、寺で炊いてご飯にし、味噌汁を作って、味噌汁とご飯を食べて帰るというのです。仏教の教えなど知らないのですが、その習慣からは抜け出すことはできないのです。
 私は聞きました。「村ってどんな感じですか?それだけ一生懸命やっているんだから、その神様が本物なら、相当、村は祝福されていてもいいと思いますが…。」と。
 しかし村には、何もいい事はないのです。村にはなぜか、自殺する人が多くいるそうです。こんなストレスがなさそうな田舎で、自殺するのかなと思います。
 この頃、その家で家庭集会をやっていますが、「大きな声では言えないけれど、あの家の人も自殺した、あの家の人も吊る下がっていた…」と。なんでそんないやな事件が起きるのでしょうか。聖書に照らしてみると、これは偶像礼拝と、偶像に捧げた食べ物を食べる習慣に、原因の一端があるように感じます。

 バラムとバラクのストーリーによって、聖書は何を教えたいのかというと、いろいろな側面と理解があるとは思いますが、祝福を失いたくなかったら、これらの事柄を意識しなさいということを教えていると思います。
 一つは、山の上から呪いがかけられている地に住んでいても、その呪いを打ち消す祈りをしなさいということです。
 そして、偶像礼拝と「偶像に捧げた食べ物」を食べる危険性です。偶像礼拝は悪霊礼拝だからです。

 そしてもう一つ聖書は、性的な罪から離れなさいと語っています。偶像礼拝と性的罪のセットが、人生から祝福を奪うと教えています。

 先ほど、山の神が、世界中女神だと言いました。私は昔、土木技術者をやっていました。トンネル工事とか、山の工事は、絶対に女性が山に入ってはいけないのです。そんな所に女性が入って来たら、作業員たちは「早く出て行ってくれ!」と言うのです。なぜなら、山の神は女の神で、男が来るのは大歓迎だそうです。しかし女が入ると嫉妬深いから、落盤を起こしたり、事故を起こすというのです。そんな神が良い神であるわけがありません。「男大好き。女大嫌い!」というような淫乱女神に従って、はっきり言って良いことはありません。

 世界の山々には女神が祀られているという研究結果がありますが、たぶんバラクとバラムが登った山も、カナンの女神が祭ってあったのではないかと思われます。そんな中、女神フェスティバルが催され、偶像に捧げた食べ物や飲み物が出され、イスラエルが性的な罪を犯した時、せっかくの祝福が失われたことを、ここから見ることができます。
 私たちクリスチャンが幸せに生きるための秘訣が、ここに記されています。

 黙示録の二章を見ますと、七つの教会が出てきます。ペルガモとテアテラという二つの教会に対して、主は、「つまずきの石」がバラム事件にあったと告げています。テアテラの教会では、バラムのことを「イザベル」という女に例えています。偶像に捧げた食べ物と、性的な罪がどういう結果をもたらすかについて教えています。
 それは「大きな患難」、「病気」、「子どもたちの死病」につながると警告しています。
 毒を飲んだら害を受けますが、人生に、悪魔は毒をもろうとしています。しかし何が毒なのかが、はっきり分かったら、害を受けることはありません。祝福を受け継ぐことができるわけです。

 今から聖餐式を受けます。聖餐式はたいへん重要です。第一コリントの十章と十一章には、聖餐式の奥義について記されています。
 私が小さい頃、この教会では、伝統的な聖餐式がありました。今日も私の父親がここにいますが、必ず、聖餐式の時に読まれる聖書箇所がありました。それがコリント第一の手紙十一章二十七節〜三十一節の言葉でした。
 私は、この御言葉が読まれる度に、「聖餐式って恐いものだ…」と思っていました。なんでこんな恐いことを、毎週やるのかと疑問に思っていました。二十七節から読んでみると、

『したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。』

 私はいつも、「神様の前にふさわしくない」と思っていました。「今週もいろんな罪を犯してしまった…。嘘も言ったし、喧嘩もしたし、いろんな悪いことをした。聖餐式にそんな状態で参加したら、弱くなったり、病気になったり、死んでしまうかもしれないじゃないか…。なんでこんな毒入りみたいな食べ物を、教会では毎週、みんなに喰わせるんだ。」と、私はいつもイライラしていました。
 将来、万が一、牧師になったら、聖餐式は削除しようと考えていました。みんなに毒入りみたいな物を食べさせることはできないと考えていました。

 しかし聖書は、ある箇所だけで解釈すると間違い、誤解します。旧約聖書から新約聖書までを通して、意味が位置づけられなければなりません。第一コリント十章七節〜八節にこう記されています。

『あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。』

 ここでパウロは、『一日に二万三千人死にました。』と記しています。これはどこからの引用かというと、民数記からの引用です。民数記の記録は「二万四千人」としていますが、パウロは二万三千人でした。聖書が記されるとき、資料がいくつかあったと思われます。また、昔は人数を数えるのがすごくアバウトでした。ヨセフスという当時の歴史家がいますが、彼は一万人くらいを百万人とまで書いていますから、二万四千人と二万三千人というのは、かなり正確です。パウロはバラムとバラクの事件から引用して、第一コリント十章、十一章を書いているのです。

 私たちが聖餐式の時に、何を意識しなければいけないのかというと、十字架の勝利の感謝と、すべての罪が赦されることにありますが、何を悔い改めなければいけないかというと、偶像礼拝の罪と、性的な罪、偶像に捧げた食べ物を食べ悪霊と交わった事を悔い改めなさいというのです。
 また、山から呪われている地に住んでいたとしても、「私たちは決して呪いを受けない」という、宣言が重要な聖餐式のテーマであると思われます。

 聖餐式が悪いのではないのです。これは大きな祝福です。それはイエス様と一つとなることです。しかし、悪魔が提供している聖餐式ならぬ、悪餐式に参加してはいけないということです。そうすると、いろんな問題が起きますから気をつけてくださいと告げているのです。

 今朝の経済新聞を見たら、一つの記事が載っていました。

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 「がん、原因は遺伝子の傷」という記事でした。ほとんどの癌は、遺伝子に傷がつくことによって起こるというのです。この頃、遺伝子という領域を祈らなければいけないと思っているのですが、悪い情報が私たちの遺伝子の中にすでに組み込まれているらしいのです。
 では、なぜ遺伝子が傷つくのかということです。いろんな医学的理由があるとは思われます。しかし一方では、霊的理由があるのです。偶像に捧げた食べ物とか、性的罪が、遺伝子に傷をつけるのだと思うのです。

 この間、朝日新聞に一つの記事が載っていました。東京のある医師が、ある考えをブログで述べ、ブログが炎上するというか、賛否両論だったのですが、それは「歌舞伎俳優の多くが、若くして癌で死ぬのはなぜか」という記事でした。それは、「多くの女性たちと、性的な関係を持つことが原因ではないか」と書いていました。「歌舞伎俳優ほど、多くの女性たちと性関係を結ぶ者たちはいない」そうです。性関係を多くの女性と結ぶのが、自分の芸を高めるために必要だと考えていて、性的にだらしないそうです。それが原因で免疫不全となり、若くして癌で死ぬのではないかと、それは彼の医者としてのカンなのでしょうか。そのような意見でした。私もその意見に賛成です。なぜなら、聖書はそう告げているからです。

 私たちは、神の前にも、自分の身の安全のためにも、聖く歩むことが大切です。私たちの遺伝子が傷つかないためにも、様々な問題が起こらないためにも、聖書の中から真理を発見しなければならないのです。
 私は新城教会で、みんなが健康で長生きして欲しいです。「教会に行っている人は、なんで、あんなに幸せなんだろう?」と。みんなが秘訣を聞きに来るようになって欲しいです。「それは聖書の中から、幸せに、健康に生きる秘訣を勉強しているからです!」と答えたいです。
 私たちは、既に祝福された者としての宣言を受けています。その祝福を失わないためにも、共に、戦い続けていきたいです。最後に一言お祈りして、今日は聖餐式を通して、悪霊と関連づけられた食べ物を通して、遺伝子が傷つけられていたら、それが取り去られるように祈りましょう。

 特に、偶像に捧げた飲み物があります。それが酒です。酒は、確実に、醸造の始まりと終わりには神事が行われます。偶像礼拝が行われるのです。酒を飲むということは、悪霊に捧げた飲み物を飲むことです。自分の安全のために「飲まない」と決断した方がいいのです。
 今日は、偶像に捧げた食べ物、かつて犯した性的な罪、偶像礼拝、また山とのつながり、それらをすべて断ち切り、御霊の食べ物、御霊の飲み物である、聖餐式に預かろうじゃありませんか。今、私が祈りますから、みなさん後について祈ってください。

 父なる神様感謝します。
今、イエス様を私の神として心から信じます。
あなただけが神です。私たちは神の民であることを宣言します。
祝福を受け取っていることを宣言します。
今、イエス様の名によって、山々から発せられている、すべての呪いを打ち破ります。
山々は主のものであることを宣言します。
 かつて犯したすべての罪を赦してください。
偶像礼拝の罪を赦してください。その契約を断ち切ります。
偶像に捧げた食べ物によって、遺伝子が傷がついていたら、それを直して下さい。
また、肉体で犯したすべての罪も赦してください。
今日私の遺伝子は、神の計画通りの、何の傷もない遺伝子に変えられますように。
祝福に置き換えてください。
今日、聖餐式を心から喜んで、赦しを受け取って、受け取ります。
今からの時を祝福してください。
イエス様の御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。

アーメン。