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『主への賛美と、栄光が地に満ちますように!

2013.10.13 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇71篇5節~8節

『神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。』

 ハレルヤ!すばらしいピアノ演奏を聴くことができ、本当に感謝します。今日は賛美に関しての御言葉を選ばせていただきました。
 詩篇七一篇八節に、『私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。』とあります。毎日、こんな生活ができたらすばらしいと思います。
 私たちは教会に来て、賛美の中で喜びを感じます。しかし一般ではいろいろなところで喜びを感じているようです。この頃は、二〇二〇年でしょうか、日本でオリンピックが開催されるという発表で、みんな大喜びしていました。しかしオリンピックが決まった喜びよりも、学生たちはこちらの方がうれしいかもしれません。

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 分かりますかこの写真。東京が休校になっています。これがすぐに分かった方はよくニュースを見ている人ですね。

 今、Sさんが演奏してくださったのですが、彼女はこの頃、主から示されて、ある街にある病院が新しくなったのですが、そこで、賛美できないものかと、その街に住んでいる人たちと共に祈り始めました。病院のロビーにピアノがあるのですが、そこに行って「ここで賛美を演奏できますように」と祈りました。
 そうしたら不思議とボランティア申請が通って、先月から病院のロビーで演奏できるようになりました。一般の人たちは何の曲を演奏しているのかは分かりません。先週の金曜日にもコンサートがあったのですが、その時の演奏メニューのほとんどが、ざわめきとか賛美でした。患者さんたちは「いい音楽だね、いやされるね」と喜んで聞かれていました。
 普通じゃ賛美できない場所で賛美するようにと、今、主は私たちに語っておられるのではないかと思います。

『私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。』と、ダビデは歌いましたが、どこに行っても、一日中、主への賛美と、主の光栄が満ちている人生を送っていきたいですね。
 一週間、いろんな場所で仕事をしたり、あなたしか入ることができない場所があると思います。そこで賛美が捧げられるように、お祈りしていただきたいと思います。

 私がいくら病院の待合室で「メッセージさせていただけますか?」と言ったら、「絶対に駄目」と言われます。
 でも、「ピアノの演奏で・・少しゴスペルも混ぜて・・」と言うと「いいですよ。どうぞ」となるわけです。内容は主を誉め称える賛美なわけです。
 賛美とは、クリスチャンに与えられたすばらしい剣であることを、今日は共に学び、実際に使っていきたいです。

 教会に来ている時だけ賛美するのではなく、毎日、ダビデが語ったように、『私の口には一日中あなたへの賛美とあなたの光栄が満ちています』と、賛美で満たされた生活をするなら、この国にリバイバルが起こると私は信じています。

エゼキエルがこんな預言をしました。四三章二節、

『すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。』

 イスラエルから見て「東の方」とはどちらの方向になるのでしょうか。それは日本の方向になります。アジアから、日本から神の栄光が輝き出るという預言かもしれません。また、ハバクク書二章十四節にも、

『まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。』

とあります。主の栄光を知ることで地が満たされるために必要なことは、賛美に鍵があります。

 今週、是非ともおすすめしたいのですが、みなさんの職場で、学校で、家で、普通では賛美の歌声が響かない場所で、主への賛美を捧げていただきたいのです。その時、主の栄光がその場に満ちて、地が勝ち取られて行くと信じます。
 会社はどうでしょうか。会社で歌ったら、ちょっとおかしいんじゃないかと思わるかもしれませんが、小さい声なら歌えるのではないでしょうか。「おまえ。何をぶつぶつ言ってるんだ?」と言われたら、トイレの中でも入って賛美するとか、会社の敷地の中で、人のいない場所を見つけて賛美を捧げたらいいと思います。

 私は九月に、賛美に関する二つのセミナーに出ました。一つは先々週、この教会で霊的戦いセミナーがあり、そこで滝元開が賛美と霊的戦いに関するセミナーをしました。それで「本当にそうだな」と目が開かれました。
 もう一つは、ロサンジェルスで「MARM」という集まりがあったのですが、そこで、私の友人のケイラブ・クウェイのセミナーでした。この男です。

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彼はエルトン・ジョンのギタリストを二十年以上に渡ってつとめていた凄腕ギタリストです。その頃の写真を見るとまるで別人です。人ってよくぞ変わるものだなと感じます。彼はアフロ・ヘアーでやっていたみたいです。MARMは恵まれ、祝されました。有名なクリスチャン・ミュージシャンの方々が演奏をしてくださいました。

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 彼らの奏でる音楽は世界最高峰です。そんな中でケイラブがこんな事を語っていました。

 彼は、音楽を極めた男ですが、先日、アメリカの若者の中で現在、有名な賛美グループと一緒に、音楽セミナーをやったそうです。彼は世界中でセミナーをやっているのですが、この頃トレンドの賛美をリードするグループが一緒という事で、たいへん楽しみだったというのです。それで彼らの音楽がどういうものか、一番音響のいい所で、彼らの音楽を聴いたというのです。
 今、そのグループの歌う賛美はアメリカ全土の教会で歌われているというのです。世界中で彼らの作った賛美が歌われているそうです。
 ケイラブは彼らの演奏をしばらく聴いたけれど、音がむちゃくちゃでかくて、「気分が悪くなった」と言っていました。彼は「批判するわけじゃなく、率直に」と語っていました。
 彼は、このグループの若者たちと話がしたいと思って、演奏が終わってから彼らに質問したそうです。どんな質問をしたかというと、「君たちに一つ質問をしたいけれど、君たちの、賛美や演奏に関する哲学とか神学はどういうものですか?」という、質問を投げかけたそうです。

 「あなたたちの音楽に関する、哲学や神学はなんですか?」と質問したそうです。すると彼らはお互いに顔を見合わせて「えっ?哲学、神学?そんなこと考えたことはなかった・・・」と答えたそうです。また、「そういうものが必要だということを、考えてみたこともなかった。ケイラブさんありがとうございます。これからは、そういうことを考えて賛美したいと思います」と言ったそうです。すばらしいですね。
 彼らが目指している音楽がどういうものかを話し合う中で、一つのことが分かったそうです。それは彼らが現在一般で流行っている音楽やグループを意識して作曲し、演奏していると言うことでした。

 今、一般の世界で、いろいろな音楽が流行っています。けれども、近ごろの音楽は、コンピューターを駆使した機械的な音楽が主流になりました。ただノリが良ければ歌詞など関係がないような音楽が多いのです。メロディーも気分さえ良ければいいというタイプの音楽が流行っています。ケイラブたちが音楽をやっていた頃とは、全く違う音楽環境になっていると言うのです。
 それでケイラブが言うのには、今、世界の音楽レベルが下がっているというのです。なぜなら、自分でテクニックを磨いて演奏しなくても、機械が全てやってくれるからです。ドラムなんかいらない時代です。なぜなら、コンピューターでドラムの演奏を全て再現出来るからです。ミュージシャンたちは大変な時代です。私の息子もミュージシャンをやっていますが、ほとんど機械で音楽が作れてしまうからです。昔は手で演奏しなければいけなかったのが、ほとんどコンピューターで演奏できてしまうのです。ただ一つ、機械ではあまりうまく表現できないのが、エレキ・ギターなどだそうです。ギターは微妙なニュアンスを指で奏でるので、実際に演奏する事が多いようです。息子がやっているようなベースなどは機械で音ができてしまうものだから、たいへんです。

 それらで安易に作られた音楽がインターネットやスマートフォンなどで、簡単にダウンロードされ手に入る時代です。昔は一生懸命、楽器を練習して演奏していたのが、だんだん演奏のレベルも音楽の質も下がって来ているというのです。
 そして教会も、どこに照準を合わせて賛美を作ったり、演奏しているのかというと、天にある最高の音楽を意識しているのではなく、世の中の音楽界に合わせているというわけです。
 こういう状況の中、何が起こっているのかについて彼が話をしました。

 実は、私たちが戦っている相手、悪魔・悪霊どもは、元から悪魔・悪霊ではなかったのです。彼らは、神の前に仕える天使たちでした。それも、神の前で賛美を捧げる聖歌隊のような天使たちではなかったかと言われます。

 イザヤ十四章は、一義的には、バビロンの王について語っています。しかし、この箇所について初代教会は、バビロニアの君主のことを語っているだけではなく、「バビロニアの君主の人格をもって象徴的にサタンについて語っている」と理解していました。古代の神学者の一人、アウグスティヌスもそのように語っていると、ある所に出ていました。イザヤ十四章十節~十五節、

『彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』

 これはバビロンに住む王を指しているだけではなく、かつては神の前で賛美を捧げていた天使たち、やがて神以上の存在になろうしたことにより、地に落とされたあのルシファーと一味たち、サタンと悪霊どもを指して語っていると思われます。
 『あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ』とありますが、現在、悪魔・悪霊どもになっている堕天使軍団は、かつては神の前で最高の賛美を捧げていた連中であったと考えられます。
 しかし、最高の賛美を献げていた天の賛美チームが、神に氾濫を起こし、地上に投げ落とされたのです。黙示録十二章七節~九節、

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。』

 新約の記述も合わせながら、神の前で最高の賛美を捧げていた天使たちが、地上に投げ落とされ、今や、悪魔や悪霊どもになってしまったのではないかというのです。

 しかしそんな中で神は何をされたのかということを、この間、滝元開副牧師がセミナーで語りました。それは、地上に人類を創造し、教会を造って、神を賛美させる役割を与えたというのです。
 今日私たちは主を賛美していますが、これは何を意味するのでしょうか。それは、ルシファーとその一味が、天から投げ落とされ、神のみ前で最高の賛美を捧げる存在がいなくなってしまったわけです。
 いなくなったらどうでしょうか。神様は「いなくなっちゃたな・・・。しょうがねぇな」じゃあないのです。その代わりとなるものを創造されたわけです。何を創造されたのかといったら、人類でした。そこから教会を造って、かつては現在の悪魔と悪霊どもが神の前で担っていたポジションを、教会に与えられたのです。
 ということは、教会に与えられた賛美の使命は、とてつもなく、大きなものです。私たちが賛美を捧げるのは、他でもなく、とてつもなく重要な役割だというのです。

 賛美するというのは、ちょっと神様の気分をよくする為とか、自分も落ち込んでいたけれど賛美したら直ったとか、この程度にしてしまうのですが、そうではなく、かつて神の国において賛美のパートを受け持っていた存在が失われましたが、教会に集うクリスチャンたちにその役割を与え、神が失った、欠けた所を満たす働きであるという、内容のセミナーでした。

 私はケイラブ・クウェイと滝元開のセミナーに出て、目が開かれた思いでした。「本当に賛美って大事だ!」と。

 詩篇一四九篇に、こんな言葉があります。この箇所は何度かみなさんに紹介しましたので、ご存知かと思います。詩篇一四九篇一節~九節、

『ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。 踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。彼らの口には、神への称賛、彼らの手には、もろ刃の剣があるように。それは国々に復讐し、国民を懲らすため、また、鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行うため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』

 一四九篇六節に、『彼らの口には、神への称賛』という言葉がありますが、ここで使われている「称賛」という言葉は「神様を賛美する」という意味ですが、この単語は、聖書の中、一回しか使われていない「最高の賛美」を現す為に使われているのではないかと言われます。
 旧約聖書はヘブル語で記されましたが、ギリシャ語に訳された七十人訳聖書があるのですが、それを見ると「The High Praises」「最高の賛美」と訳しています。

 私たちが最高の賛美を捧げると、何が起こるのか。
 『彼らの手には諸刃の剣があるように』とあります。日本の剣は片方しか刃がついていないのですが、西洋の剣は右左、両方に刃がついている「諸刃の剣」です。
 諸刃の剣は何を表しているのかというと、一方の刃は、「神を最高に誉め称える」ところに光が当たるわけですが、もう一方は、『鎖で彼らの王たちを、鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。また書きしるされたさばきを彼らの間で行うため。それは、すべての聖徒の誉れである。ハレルヤ。』という役割です。
 最高に高められた賛美を献げる時、鎖で王たち、鉄のかせで貴族たちが縛られるのです。

 これは何を意味するのでしょうか。悪魔には組織がありますが、組織の親玉どもが縛り上げられ、打ち砕かれるのです。最高の賛美が捧げられると、一方では、ハイランキングな敵が打ち負かされるのです。この剣をすべての聖徒たち、すなわち、クリスチャンに与えたというのです。
 なぜならば、かつては神の前で天使たちが賛美していたのですが、彼らは地上に落とされたのです。しかし神は彼らの代わりに教会を造って、最高に高められた賛美を献げさせる為でした。教会において、かつて悪魔や悪霊どもが神の前で歌っていた賛美なんて、比べることが出来ない高められた賛美が、神の御前に、同時に敵の面前で歌われるのです。
 そのとき、かつて神の前から反逆し、地に落とされた悪魔や悪霊どもは縛られるのです。そんな強力な武器を、教会に、また一人一人に授けられたのです。

 『それはすべての聖徒の誉れである。』・・・今日、私たちが神のみ前に出て最高の賛美を捧げる時、敵の力が打ち砕かれるのです。神は人類に、教会に、そのような使命を与えたばかりか、かつて、神の前から反逆した堕・聖歌隊をも打ち破る両刃の剣を与えて下さったのです。

 悪魔はそのことをよく知っています。そのため、悪魔は何をしているのかというと、「教会の賛美の質を落としている」というのです。
 ケイラブ・クウェイが語っていたのですが、教会が何を手本に賛美するかと言ったら、天の最高の賛美を意識しないで、この世の中のトレンドに標準を合わせているというのです。その結果、機械的で、ただ縦ノリの、何の哲学も神学も持ち合わせていない、賛美が流行っているというのです。
 一般の音楽を手本として、「あのグループかっこいいな。あのグループの音楽性に合わせて賛美チームを編成したらどうだろう?」となると、結局、悪魔によってレベルが下げられた音楽が標準ですから、最高の賛美は献げられないどころか、悪魔・悪霊どもはやっつけられなくて済むのです。ここに気付かなければいけないのです。

 私たちは常に、神のみ前に、最高の賛美を捧げる者として、主の前に立ちましょう。技術ではなく、そのような御言葉の理解に立つと言うことを意味します。
 神を褒め称える賛美が、諸刃の剣となって、敵の勢力を打ち破る役割を持つ武器であるからです。
 今週は、「賛美」が、そのように大きな使命をもつものであることをしっかりと理解し、心に留め、普通では入ることができない場所で賛美するのです。それは技術的とか、声が大きいとか、小さいとか、声がいいとか、悪いとかではなく、御言葉の意味を理解した上で賛美するのです。その時、あなたの賛美は諸刃の剣となって、敵の勢力は打ち破られ、神の栄光が現されると信じます。それは、リバイバルに繋がっていくのです。

 セミナーで、日本の古来の音楽についても学んだのですが、日本古来の伝統音楽は「雅楽」です。先日も、伊勢神宮で、「遷宮」があって、テレビを見ていたら気分が悪くなりました。その時に演奏されていた音楽が雅楽でした。この辺の祭りの音楽も雅楽です。
 日本の伝統音楽、雅楽を分析すると、全くリズムがないそうです。そして、和音がないそうです。そして、スピードが一定じゃないそうです。

 日本人ってどうでしょうか。リズムに弱いと言われます。しかし、新城教会は日頃から慣らされているというか、なかなかのものです。賛美の中で、四拍子なら、どこで手を打つか意識していますか。ここでは二拍目と四拍目で手を打っています。普通は、「えんやこら、えんやこら~」と宴会調、一拍目と三拍目で手拍子します。しかし新城教会では、お年寄りも、二拍目と四拍目の裏打ちです。これはすごいと思います。普通、なかなか日本人はこういう風にはいきません。会社の宴会で裏打ちで手拍子して歌ったことはほとんどないと思います。みんな頭打ちです。一拍目と三拍目です。
 日本人って、リズム感が悪いのです。それはなぜかというと、リズムと和音、スピード感、躍動感を敵に奪われているからです。それらを奪われた民族が日本人です。雅楽がそれを象徴しています。

 神様は、どういう方かというと、秩序のある方です。そして三位一体なる神ですから、ハーモニーのある方です。天地創造を見ても、秩序正しく創造されています。そして、そこには躍動感があります。
 ということは、元々、神の前で捧げられていた賛美は、決して、雅楽のようなものではありません。日本の神々の前の音楽が「雅楽」である事自体、にせの神々である証拠です。
 神の御前での音楽は、秩序のある、ハーモニーのある、躍動感溢れる音楽なのです。
 旧約聖書を見ますと、ダビデが行っていた賛美の様子、レビ人が行っていた賛美の様子などを見ると、様々な楽器を使い、リズムとハーモニーと躍動感の中、神が賛美されていました。元々、神が人間に与えた賛美は、旧約聖書でも示されているように、リズム的な、躍動感溢れる、重厚なハーモニーに満ちた賛美を与えているのです。

 しかし、どうでしょうか。日本人ってどこからか知りませんが、悪魔にそのような感性を盗まれたわけです。教会もどうでしょうか。この頃は楽器を使うようになりましたが、私の小さい頃の賛美は悲惨でした。リズムも和音も躍動感もない賛美でした。母は今年で九十歳ですが、教会では母が足踏みオルガンを単音で弾いていました。またよく間違えていましたから、ついていくのが大変でした。だから私は教会の音楽が大嫌いでした。しかし主は、徐々に賛美を変えて下さいました。そして不思議と、ロン・ブラウンさんを始めとする、アフリカ系アメリカ人たちと出会ったわけです。
 アフリカ系のアメリカ人の方々は、神様から与えられたリズムとか、和音とか、躍動感を失っていない人たちです。日本の雅楽と比べたら、全く月とスッポンというか、別物です。
 日本人ってなかなか教会に来てくれないのですが、唯一、一般の方々が多く来てくれるのが、ご存知のようにゴスペルコンサートです。
 今年もヘブンリーキングダムがパサディナのチームと一緒に、豊橋でコンサートを開催しました。豊橋でうまくいくかなと思いましたが、いっぱいの人が来られました。

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 会場が人で埋め尽くされ、二週間前くらい前にチケットは売り切れでした。普通じゃ「当日券いっぱいあります。タダで入れてあげますよ」くらいの教会のプログラムですが、開場前からずらっと人が並びました。「こんなに大勢、人を並ばせないでください」と信弘先生は会場の人に怒られていましたが、大勢並びすぎたのです。

 なんでブラック・ゴスペルを聴くと、みんな感動するのでしょうか。「俺はイエス様を信じることはできない」と言っていた若者がいたのですが、ゴスペルコンサートが終わったら、「本当に良かった!今日は本物に出会った!イエス様のことがはっきり分かった!」というのです。「あのコンサートで新城教会さんは信者さんを増やしたでしょ!」と言われて「そうでもないな…」と思ったのですが、彼はすごく感激したそうです。「あれを聴いて、イエス様を信じないなんて信じられない。あの時に本物に出会った」というのです。「俺たちも本物やってるつもりなんですけど…」と言ったのですが、駄目みたいです。パサディナのチームが来たり、また、ヘブンリーキングダムが真剣に主を賛美したら、本物に出会ったと言われました。

 なぜかということです。これは賛美の中で、日本を覆っている覆いが取れたわけです。福音の光が照り輝いたわけです。『彼らの口には神への称賛』、最高に賛美した時に、諸刃の剣となったのです。だから大勢集まり、人々は主に近づいたのです。
 これはかつて、悪魔・悪霊どもが、彼らがポジションを失う前、天で捧げていた賛美のポジションを、教会が勝ち取った証拠です。だから皆、感動したわけです。
 ゴスペルがなぜ、人々を感動させるのかといったら、ぶ厚いハーモニーと、躍動感溢れるリズムではないでしょうか。そこに、心打つものがあるわけです。あれはただのテクニックじゃありません。神の御前に最初からあったものの回復に他ならないのです。

 まもなく、クリスマスがやってきます。ロンさんは毎年来られているので、今回はちょっとお休みにして、今年のクリスマスコンサートは、「ヘブンリーキングダム」で行きたいです。パサディナチームもうまかったけれど、ヘブンリーもうまかったですね。私は感動しました。だから彼らのコンサートを教会でやってもらいたいと思っています。今度は黒人の方々はいないけれど、日本人だけで、どこまで回復された賛美に近づけるのか楽しみです。

 賛美は、元々神のみ前で賛美を捧げていた悪魔・悪霊どものポジションを、教会が勝ち取り、神のみ前に捧げるものです。神の失ったものの回復のポジションです。そのことを意識して賛美する時、すばらしい事が起きると信じます。クリスマスには、多くの賛美が捧げられますけれど、今年の賛美は、「最高の賛美を捧げる」という意識で、諸刃の剣で、敵の王たち貴族たちが縛り上げるなら、すばらしい事が十二月に起こされると信じます。

 最後に、第二歴代誌の二十章一節から三節の所を見て終わりにします。
 ユダの王、ヨシャパテの時代に一つの事件が起きました。それは、モアブ人とアモン人が連合してユダに攻めてきたことが記録されています。先週もモアブ人の王、バラクについて学びましたが、時代はさらに新しくなり、ヨシャパテ王の時代で、やはりモアブは宿敵でした。それらが大群をなして、ユダに攻めて来たのです。ヨシャパテ王は恐れて、ひたすら主を求め、全国に断食を布告したというのです。

 その時に、国民全体が断食して、「神様助けてください!モアブ人、アモン人の大群が攻めてきます。負けてしまうかもしれません。国の存続が危ないです!」と祈った時、神様が「聖歌隊を最前線に出せ」と言われたのです。
 帰ってから第二歴代誌二十章を読んでいただきたいですが、第二歴代誌二十章二十節~二十二節、

『こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。』

 軍隊の最前線に、主を賛美する者たちが出て、主を賛美した時、『伏兵を設けた』とあります。「伏兵」というのは隠されている兵隊です。たぶん天の軍勢か何かだったかもしれません。それらが出て、敵を全て打ち破ったのです。それでユダが助かったと記されています。ここからも、賛美が重要な武器であることがわかります。

 今日最初に読んだ聖書の箇所は、七十一篇八節には、『私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。』とありますが、私たちの口には一日中、主への賛美、主の光栄、主の栄光が満ちている者になりたいです。

 今週は、あなたしか入ることができない場所に入って、賛美していただきたいと思います。その時に何がが起こるのでしょう。最前線で主が褒め称えられる時、主が伏兵たちを遣わして、暗闇の力を打ち砕いてくださると信じます。

 日本のリバイバルのために、主は様々なツールを与えてくださっています。先週は山の上から祈ることについて話しましたが、今週は、賛美のツールです。この夏の一連の教会の動きを見ながら、「主は、普通では入ることができない領域に私たちを入れて賛美させて下さった。それにより、新しい扉が開かれた」と気付かされました。
 悪魔がレベルを下げているこの世の音楽に目を留めるのではなく、常に、主に目を向け、最高の賛美を捧げる者にならなくてはいけないと教えられました。

 ケイラブがアメリカで一番有名なグループの若者たちに話しをしたら、彼らは深く感動したそうです。ケイラブが彼らのギターを使って演奏したら、「なんで俺たちのギターで、そんな音が出るの」とびっくりしたそうです。彼らはギターをただ激しくかき鳴らすことしかやっていなかったのです。これからはケイラブが、そのグループにギターを教えることになったそうです。

先程、詩篇の一四九篇を読みましたが、三節に、

『 踊りをもって、御名を賛美せよ。タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。おのれの床の上で、高らかに歌え。』

 踊りをもって賛美し、タンバリンと立琴をかなでて賛美していたのは、元々が悪魔・悪霊どもが堕落する前に天で行っていたことでした。
 しかし、今は私たちに、その役割が教会に与えられていることを、感謝しましょう。

 今週、みなさんと約束をしたいと思います。みなさんが遣わされている場所で、是非、賛美をしていただきたいと思います。そうしたら、きっと大きな勝利が現されると信じます。一言お祈りして、決断の時をもっていきたいと思います。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちに賛美というすばらしい武器を与えてくださって感謝します。すばらしい賛美と栄光がこの地に満ちるために、私たちを使ってください。教会が、真に主を心から褒め称えるポジションに変えられますように。
 今週は、普通では入ることができない場所に入って賛美させてください。一人一人にその役割を与えてくださっていることを心から感謝します。
 今からの聖餐式の時を祝福してください。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。
アーメン。