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『100倍の実を結ぶ秘訣!』

2013.11.3 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
マルコの福音書 4章1節~9節

『イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」』

 ハレルヤ!おはようございます!みなさんと共に礼拝を守ることができますことを、心から感謝します。近頃、自分の職場で、家庭で、また様々な場所で賛美を捧げましょう、とおすすめしていますが、賛美してくださっているので、やはり、礼拝賛美が違いますね!恵まれます。
 昨日は、青年たちが六時間連続の賛美集会をしました。私も三時間くらい出させていただいたのですが、主の臨在が満ちていました。今週も是非、忘れないで遣わされた場所で、賛美を捧げていただきたいと思います。
 先週私は、いくつかの家庭集会にお邪魔させていただきました。そこで伺ったのですが、ある方は毎日、会社で賛美しているそうです。みんなに分からないように「グローリー♪グローリー♪」と歌っているそうです。「あんた、何ぶつぶつ言っているの?」と言われるみたいですが、普段は絶対に賛美が響かない場所で賛美する時、主の栄光が現され、主のものとして霊的に勝ち取られるのです。

 今朝、みなさんと共に学びたい聖書箇所は、今読んでいただきました箇所です。特に、マルコの福音書四章八節は大変すばらしいです。

『また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。』

 ここで述べられているように、神の与えてくださる言葉は「種」だというのです。
 私の家内の実家は種苗店で、彼女は種屋の娘です。種はそのままでは、煮ても焼いても、全くおいしくありません。普通では何の役にも立たないものですが、みんなそんな種を買いに来るのです。なぜ買いに来るのかというと、種を畑に蒔くと、環境さえ整えれば、芽を出して実を結ぶからです。人々は多くの収穫を見越して、種を買いに来るのです。
 私たちも御言葉を聞くのですが、御言葉は種ですから、教会に座っている間は、「そんなもんか…」と聞いているのかもしれません。しかし、御言葉を持ち帰り環境さえ整えれば、実を結ぶのです。自然界がそのことを証明しています。家庭菜園などで種を蒔いたことがあると思いますが、種を蒔いたら、一粒が百粒にもなったりするわけです。田んぼが色づいて、収穫はだいたい終わったと思いますが、米も始めは一粒だったのです。それが百倍くらいの実をつけるのです。なぜなら、種の中に、増える性質が入っているからです。
 私たちも、神の御言葉を学んでいますが、それは種ですから、三十倍、六十倍、百倍に増える性質を含んでいます。
 ということはどうでしょうか。御言葉を種のまま、放置してはいけないのです。御言葉の種を受け取ったら、環境を整え、実を結ばせるのです。

 先週も、山崎ランサム先生から、「御言葉は私たちの、ともしび」というメッセージをいただきました。私たちは種を持ち帰り、実を結ぶものと変えなければなりません。
 そして、「…百倍の実を結ぶ」とあります。今日は、百倍の実を結ぶ秘訣について、環境を整える意味で、学んでいきたいと思います。

 イエス様は多くのメッセージを、例えと共に話されました。例え話があると、心にしっくりきます。私も毎週、メッセージを語っていますが、ただ語っているだけだと、皆、寝てしまいます。しかしその中に、ちょっと昔話とか、例え話とか、冗談とかを入れると、聞いてくれるのです。だから無駄にやっている訳ではないのです。イエス様の法則にしたがって話しているつもりです。
 イエス様は例え話をされ、同時に、例えについて解き明かしもされました。この解き明かしが、マルコ四章十四節~二十節で語られています。みなさんで読んでみましょうか。
 マルコの福音書四章十四節~二十節、

『種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」』

 三十倍、六十倍、百倍を結ぶのは「良い地に蒔かれた種」です。私たちも、御言葉の種を、良い地に蒔かれなければなりません。
 この辺には多くの田んぼや畑があります。しかし、始めから田んぼや畑だった場所はどこにもないのです。誰かが荒れ地を開墾し、田んぼや畑にしたわけです。
 教会が建っている場所は、私の両親が今から五十数年前に、街の中にあった自分の家を売ってその代金で買いました。坪七百円だったのかな・・。そんな値段なら、いくらでも買ってやるわという感じですが、当時でも、たいへん安い値段でした。どうもみんな、この土地は使いたくなかったみたいです。なぜかというと、ここでは設楽が原の戦いがあって、多くの血が流されたからです。私が初めてここに来た時、「なんか生臭いな…。魚か何か死んでるのかな…」というのはウソですが、皆、嫌がっていたわけです。
 この土地の地番は「新城市富沢字市神」と言います。ここには昔、市場があったのです。しかしいろんな事があったから、街の中心が移ったのです。だから土地の値段が安かったみたいです。当時、この辺は荒れ放題の桑畑でした。この付近では養蚕が盛んで、桑畑となっていました。教会を建てる為に土地を買った後、子どもたちも一生懸命手伝って、手に血豆を作りながら、桑株を抜いた覚えがあります。それでこのような教会が建ったわけです。

 初めから整った土地なんてないのです。目的の為に、土地を整えなければいけないのです。ですから、教会に来たらすぐに良い地になるとは限りません。株があったり、血なまぐさかったり、石ころがあったりと、いろいろあるわけです。しかしそれを徐々に開墾し、良い地にしないといけないのです。
 その為にまず第一に超えなければならないハードルがあります。種が落ちる場所が、「道ばた」とあります。それは、『みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまう』と言われました。

 種が成長し、百倍になるためには、種が道ばたに落ちることがあるのです。するとサタンが来て、種を取り去るというのです。それをよく、知っておかないといけないのです。
 どうでしょうか。教会に来ると、途端に眠くなる方はおられませんか?結構おられるのではないかと思います。サタンは、教会では離れていて、家に帰って、テレビでも見ようかと、くつろいでいる時に「こんばんは…」と来るわけではないのです。「すぐに来る」というのです。すぐに来て、種を奪い去っていくのです。
 だから礼拝に来て、御言葉を聞くのも戦いです。「からすよ来るな!来るな!」と、サタンを追っ払いながらメッセージを聞かないといけません。

 ある親孝行息子が教会に来たそうです。牧師と面接して、「先生、ちょっとお願いがあります。うちの親父が不眠症なんです。でも、なぜか教会に来て、椅子に座った途端に眠くなるというのです。教会の椅子には力があります。だから、教会の椅子を一脚、分けてくれませんか?親父をその椅子に座らせて、ゆっくり眠らせてあげたいのです」と言ったそうです。
 牧師はそれを聞いて、『分かりました。いいですよ。分けてあげます。そして、おまけに、もう一ついい物をあげます。そうすると完璧に眠れますよ!』と言いました。「なんですか?」と聞くと、『私のメッセージテープです』と答えたそうですが、この二点セットなら、どんな不眠症の人でも寝てしまうかもしれません。
 しかし御言葉を奪うのは、サタンの仕業です。みなさんも御言葉を聞く時、しっかりと聞いてくださいね。聖書を読もうとすると眠くなるじゃないですか。私もこの頃、老眼で、聖書を開けた途端、あっ、逆さまだ!と戦いを感じます。最初にやってくるのは、サタンです。
 マルコの四章の言葉を、昔はよく歌いました。知っていますか?

♪石ころばかり、見える道
ぽろりと落ちた、麦の種
いたずらからすが飛んで来て(「カァ、カァ」と、ここで入れなければなりません。)
ぱくりと食べて逃げました♪

 いたずらからすというよりも、凶暴なカラスが飛んで来て、御言葉を盗んでいきます。まず第一に、御言葉の種を取られないように守らなければいけません。

 十六節から、岩地に落ちる種もあるというのです。道ばたでも、岩地でも、開墾すれば畑になります。サタンをやっつけて、道ばたを開墾し、良い地にしましょう。岩地だって砕けば砂になるのです。だから岩地でも、良い地に変えることができます。

『岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。』

 良い地に到達する為の次のハードルは、「困難や迫害」というハードルです。
 「私はクリスチャンです!」と宣言した途端、困難とか迫害がやって来ます。この時、「おっ!来たぞ!戦わなくちゃ!」と、マルコ四章の御言葉を思い出し、戦いのスイッチをオンにしなければなりません。

 この教会も、創立されて六十年以上になります。この地に来て、五十年以上になりました。でも、この土地に入って来た当初は、やはり迫害がありました。ご覧のように、この近所は田舎で、因習が深い所です。教会なんかない方がいい、とみんな思っているわけです。村からスーパーマーケットとか、ガソリンスタンドがなくなったら、「困った困った」といいます。しかし、教会がなくなったら「良かった、良かった!」と喜ぶ人ばかりです。ですから初めは本当に大変でした。
 両親がここに来て、「滝元と申します。この場所で教会をやりたいと思うのですが…」というと、村人はみんな嫌な顔をしました。この近所は隣組組織がすごく強いのです。隣組は、神社の祭りとか、様々な宗教行事で固まっているわけです。
 宗教行事を、村人は一つでも欠かしちゃいけないのです。一個でも欠かしたら、村人として認めてくれないわけです。「おまえなんか仲間じゃない」と言われてしまうのです。
 教会が「偶像礼拝はやりません」と言ったら、「それはどういうことだ!」と引っ張りだされ、戦いがありました。打つ手がないくらいでした。

 それに対抗するために、両親はしょうがないから、生んで増やせ作戦で対抗しました。八人子どもを産みました。お隣は十二人、その隣は五人産んでくれました。教会前の伊藤さんは六人産んでくれました。たったの四軒で四十人以上の、日本の平均的以上の教会ができたわけです。なんでそんなことが必要であったかといったら、迫害がひどかったからです。始めは福音を伝えているのか、村人に喧嘩を売っているのか、分からないくらいでした。喧嘩というと、いつもクリスチャン対ノン・クリスチャンでした。私たちはクリスチャンでない人たちの事を「異邦人」と呼んでおりました。特に、線路より向こう側を「異邦人の地」と呼んでいて、彼らとの喧嘩を「設楽が原の戦い」と呼んでいました。
 神社の祭りの日になると、異邦人たちは、神輿を教会にねじ込んできて、爆竹を教会の庭に投げ込むのです。そんな時、私たち、クリスチャン軍団は竹竿を持って、彼らに向かっていきました。そんなことで、宣教が進むわけはありません。肉的な戦いから宣教は始まりました。

 でもそこであきらめ、挫けなくてよかったです。御言葉が蒔かれる時、やはり困難や迫害も起こって来ます。困難や迫害があっても、めげちゃいけません。それから、六十年近くが経ちました。
 近頃、ある家のご主人が教会に来て、問題がいくつもあったのですが、良くなりました。家族はクリスチャンではなく、因習の深い家でした。でも、教会に来るようになってご主人が良くなったのは、誰の目にも明らかでした。だから家族も喜んでくれました。
 ある日、家族全員が教会にお礼に来てくれました。奥さんが「ありがとうございました。主人は教会に来るようになって、見違えるように良くなりました」というのです。箱菓子をくれて、「ありがとうございました」と家族全員でお礼を言ってくれました。

 けれども、「つきましては、これにて教会とのお付き合いは、終了とさせていただきます」というのです。『いやいや、そんなこと言わないで、ずっと教会来てくださいよ』と言うと、「病院に行ったって、病気が治ったら行かなくなるでしょ。それと同じです。教会で良くしてもらったら、それでおしまいです」と奥さんがいうのです。
 だから私は言ってやりました。『病院も定期検診がありますよ。教会でも定期検診があります。それが毎週日曜日の十時半からです。絶対に来てください』と言うと、「それはなりません」と言って、急に、奥さんの態度が急変し、「絶対に我が家ではだめです!」と言って、かばんの中から一枚の紙を取り出しました。それは離婚届でした。「もしも主人が洗礼なんか受けたら、すぐに離婚です!」と言いました。ご主人は小さくなってしまいました。

 それでも、ご主人は困難に耐え、がんばって教会に続けて来られています。するとこの頃では、家族が一緒に教会に来られるようになりました。やっぱり、めげないで戦うものだなと思います。続けて戦うと、じわりじわりと、敵陣を攻め取って行きます。

 教会員でカフェをやっている方の所に行った時のことです。前にもお話ししましたが、老夫婦がコーヒーを飲んでおられました。私を紹介してくださったのですが、その老夫婦は八十才以上の方なんですが、『私は教会の牧師です』と紹介したら、「新城教会の牧師さんですか。私も何回か、教会のクリスマスコンサートとかに行きましたよ。楽しかった」と言ってくださいました。『感謝します。また来てください』と言ったら、「新城教会は地域に食い込んでいますね。すばらしい!」と、ほめて下さいました。「それに引き換え、寺はなっとらん」と、彼は言っていました。
 街の人たちから、教会は地域にくい込んでいると評価されているのか…と、嬉しかったです。まだまだですが、迫害があっても絶対に引かないで、イエスの御名によって前進しなければ、良い土地は生まれません。
 迫害される時、天では大きな喜びがあり、主が絶対的サポートをしてくれます。迫害や困難のハードルを越えてこそ、土地は開墾されるのです。

 そしてもう一つ、「最後のハードル」があります。このハードルさえ越えたら、良い地は目前です。それが四章十九節です。十八節から見ると、

『もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません』

 百倍の実を結ぶための、最後のハードルは、「世の心づかいや、富の惑わし、いろいろな欲望」だというのです。私たちは、欲望渦巻く社会に生きています。ともすると、欲望の渦の中に巻き込まれてしまいそうです。それは、「いばらの中に種が蒔かれるようなもの」というのです。
 いばらが手に、足に、刺さった経験はありますか?痛いですよね。ちっちゃなとげでも、刺さっただけで全身が調子悪くなります。爪の間なんかにトゲが入ったら最悪です。
 私たちが住んでいる社会は、欲望の社会であり、それは「いばらの地」です。私たちは、毎日、欲望渦巻く地に住んでいるわけですから、このハードルが一番越えにくいハードルであり、良い地にならない最大の原因ではないかと思われます。

 さて、「いばら」とは何を意味するのでしょうか。第一テモテ六章六節~十節に、こんな言葉があります。

『しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』

 いばらとは、「金銭に対する欲望」と言えます。私たちが一番引っかかりやすい罠、刺さりやすいトゲは、欲望の世界、すなわち、「金銭の世界」です。

 二週間前に私は、私の一番不得意な分野、経済の話をさせていただき、「お金」について話しましたが、ほとんどの方が、「分からん」と言っていました。
 実は、午後からセミナーをやります。お金に関するセミナーです。ぜひ出て下さい。「セミナーに出たら絶対儲かりまっせ!」と言ったら、みなさんセミナーに出るでしょう。なぜなら、皆、お金に関心があるからです。
 でも一方では、「お金は危ない」ということは、誰だって分かっているのです。けれども、分かっているようで、分かっていないのです。
 経済の根源にある、金の背後にある闇の世界について知った方が良いのです。

 私は、クリスチャンの方々に、もっと儲けて欲しいと思っています。貧乏じゃなく、豊になってほしいのです。そして神のために、経済界を勝ち取って欲しいのです。世界の金持ちって、桁外れです。日本の国家予算以上の資産を、個人で所有しているような人もいます。何のために金を使うのかと思います。多分、自分の欲望のために使うのでしょう。そんな金持ちが、世界にいっぱいいます。それは、経済の世界が悪魔に乗っ取られているからです。金が悪魔のために使われている社会です。
 しかしこれからは、クリスチャンが経済界を勝ち取り、神の国の拡大のために資産を用いたら、世界宣教は急速に広がると思います。
 私たちは今週、海外で三つの働きをしています。今日は、岡本信弘先生、山崎先生、平岡先生がタイのチェンマイで奉仕しています。そして、ざわめきが韓国で奉仕しています。また今週は、ハワイでもハワイ・リバイバルミッションのミニバージョンがあります。海外で三つの働きを展開するのはたいへんです。
 来年の二月にタイでミッションがあるのですが、多くの金がかかります。リバイバルミッションにはあまり金がないから、最小限の費用で、一番効果をあげたいと願っています。それで現地の教会とも、いろいろ複雑な調整があるわけです。
 貧しい地域で伝道すると、難しい事があります。「集会させてあげてもいいけれど、ちょっとお金をくれる?」というような、あくどいのも出てくるわけです。しかしあげたいけれど、ないものはあげられません。でも、もうちょっと金があれば、スムースに話が進むとも思います。しかし金という世界が、なぜ危ない世界なのかを、しっかりと知って入って行ったら、トゲは刺さりません。知らずして入っていくものだから、トゲが刺さるのだと思います。

 私は経済に関して、あまり興味はありませんでした。しかしこの頃、何冊か経済に関する本を読んで、「俺は悪魔にだまされていた!」と思いました。人類は目の前に人参を吊るされて、あやつられている馬のようです。経済界に関して、真剣にとりなし、祈らなくちゃいけないと教えられました。先々週より、もう少ししっかり勉強しましたから、ちゃんとセミナーができると思います。

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 写真のように、こんな感じで人は育ちますから、みんな金の奴隷となるわけです。この子は、どこの子か知りませんが、ネットに載っていた面白写真です。国民全員か、こういう環境で育っていきますから、金の奴隷となって、トゲが全身に刺さるのです。
 金に支配されるのではなく、金を支配するものにならなければいけないのです。金を愛するとか、支配されるのではなく、逆に、支配して、神の国のために取り戻したらすばらしいです。
 百倍の実を結ぶとは、宣教に関しても、個人に関しても適用できると思います。日本においては百五十年以上に渡って、福音の種が蒔かれ続けていますが、中々、実を結びません。

 パウロが「エペソ」という街に行った時、街にリバイバルが起きました。それはすごいリバイバルでした。家に帰ったら、使徒の働き十九章を読んでいただきたいと思います。そこにいた十二人は熱心なクリスチャンでしたが、一つだけ欠けたところがありました。それは何かといったら、聖霊の働きについて理解していませんでした。
 しかし、パウロが行って、聖霊を受けるように祈った時、聖霊を受けたというのです。彼らが聖霊に満たされた時、エペソにリバイバルが起こったのです。

 エペソという街はアルテミスという、ギリシャ神話の豊穣の女神が祭ってある有名な街でした。街の人々はみんな偶像礼拝をしていました。しかしそこにリバイバルが起きました。どんな事が起こったかというと、使徒の働き十九章十一節~十二節、

『神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。』

 すごいじゃないですか。パウロが聖霊を受けた十二人の人たちと共に福音の種を街に蒔いたのです。そうしたら聖霊が働いて、病は治るは、悪霊は追い出されるはと、多くの奇跡が起こったのです。
 それもパウロが持っていた手ぬぐいを病人に当てただけで、癒されるというような事が起こったのです。聖書にはすごいことが書いてあるなと思います。それは一見、呪術的に見えるような行為です。
 これはどういうことかと言ったら、呪術ではありません。手ぬぐいとは、祈りの象徴でした。手ぬぐいが病人に置かれたのは、パウロの祈りが置かれたのと同じでした。「手ぬぐいを受け取る人は、いやしの祈りを受け取ったのと同じ」という、関係づけの祈りがなされていたと思います。そのくらい、パウロたちは忙しかったわけです。多くの人が「ここに来て祈ってください。祈ってください」と祈りを頼んだはずです。しかし頼まれても、祈ってほしい人が多くて手に負えなかったのでしょう。パウロは「手ぬぐい持って来て、その上に祈りを置こう」と、関係づけの祈りをして、「これを病人に置いてみろ」と伝えたのでしよう。そのような間接的祈りによっても人々は癒され、悪霊が追い出されるという奇跡が起こったのです。そんなリバイバルがエペソに起きました。日本でも、そんなリバイバルが起こって欲しいですね。
 そのために、私たちも今、がんばって働いています。エペソでは、たった十二人が聖霊を受けたところからリバイバルは始まりました。私たちが聖霊の力を受けると、普通じゃ考えられないようなことが起こるのです。
 新城教会も聖霊が注がれてから変わりました。けれども、まだまだです。街規模では変わっていないからです。私たちはさらに、聖霊様の力を求めなければならないのです。
 癒しと不思議としるし、悪霊が追い出されることが、エペソのリバイバルの特徴でした。

 その後、スケワという祭司長の七人の息子たちが、パウロのまねをしました。彼らは魔術師でした。多分、ユダヤ教の神秘主義「カバラ」という魔術をやっていた人たちであったと思われます。彼らも同じことを試してみました。
 そうしたら、悪霊に憑かれた人からぼこぼこにされ、逃げ帰りました。そんな光景を見て、人々はまたまたびっくりしました。エペソの人たちは、いつも魔術をやっていた人たちでした。しかし目の前で、自分たちが頼っていた魔術師が負けたのです。それで「パウロたちが信じているイエスの方が力がある!」ということで、みんな魔術を捨て、乗り換えて来たのです。それは力と力の対決です。モーセもエジプトで同じことをやりました。
 そうしたら人々は、何をしたかといいますと、使徒の働き十九章十八節~二十節、

『そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。』

 エペソという街は、アルテミス神殿があって、魔術が多くなされていました。そこに、ユダヤ教の神秘主義者も混ざって、魔術が街の文化のようになっていたのでしょう。
 しかし人々は、聖霊の偉大な力を見て「魔術をやってちゃいかん!」と気づき、魔術の本を焼いたのです。その結果、ますます福音は広がって行ったのです。
 日本も魔術の国です。多くの人たちが占いの本をいつも見ています。日本にリバイバルが起こり、魔術が一掃されたらすばらしいと思います。
 エペソでは結果的に、アルテミス神殿に行く人も少なくなってしまったみたいです。
 その時、一つの問題が起こったのです。どういう問題が起こったのかというと、使徒の働き十九章二十三節~二十八節、

『そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、彼が、その職人たちや、同業の者たちをも集めて、こう言ったからである。「皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。』

 リバイバルが起きているただ中で、「ただならぬ騒動」が起こったのです。それは、どういう騒動だったかと言うと、アルテミス神殿の模型を作って商売をしている人たちの、組合長と会員たちを中心に騒動が起きたのです。
 実は、ちょっと話は変わるのですが、今年、日本で一つの街が大変にぎわっています。どこかというと、三重県の伊勢市です。それは伊勢神宮で式年遷宮が行われたからです。遷宮とは何かというと、今まで向かって右側に本殿が建っていたのを、左側に移す神事でした。右の神殿はまだ全然使えるのです。何処も腐ってはいないし、結構、新しいのです。それを全て壊して、新しい神殿をほんの数十メートル離れた所に新築したのです。引っ張って移したのではなく、新しく建てたのです。
 そのためにかかった費用って、どのくらいだと思いますか?なんと式年遷宮にかかった費用は「五百七十億円」です。震災でみんな苦しんでいるのに「式年遷宮とは何事だ!」と言っている人たちも多くいます。五百七十億円を被災者に分けてあげた方がいいと。そんな莫大な金をなぜ使うのかと。

 なぜ五百七十億円も使うのかというと、すべて経済的理由です。実は五百七十億円かけることによって、三重県の経済効果は「二千四百十六億円」だそうです。遷宮の四倍くらいの金が三重県に入るわけです。
 この頃、JR東海の株が上がったそうです。なぜ上がったかと言ったら、東海道新幹線に乗車する人たちが増えたからです。みな伊勢に行くからです。遷宮でJRも儲かって、日本全体が経済的に上がるという理由です。だからやるわけです。

 それと共に、憲法改正に向けての布石です。そこに閣僚たち、皇族も行く事により、日本の神はアマテラスだと、みんなに印象づける為にやっているのです。私たちはその背後をしっかりと見抜かなければならないのです。

 これは何が言えるかといったら、エペソの状況と、日本は、よく似ているということです。
 例えばどうでしょうか。もしも私たちが伊勢に行って伝道し、エペソ型のリバイバルが伊勢に起こり、皆がイエス様を信じ、ハンカチや手ぬぐいを病人に置いたら、悪霊は出て行くし、病は癒されたら何が起こるでしょう。
 また、伊勢神宮の占い師たちが私たちの所に来て対抗し、伊勢の霊能者が私たちに負けたとします。
 人々は「伊勢神宮の神よりも、イエス様の方が強いじゃないか」と言って、皆、主を信じ、アマテラスの札とか神棚を持って来て、広場で焼いてしまったらどうでしょう。その結果、伊勢神宮に来る人たちが激減したら、何が起こるのでしょう?

 きっとこうなると思います。「そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。それというのは、伊勢神宮の、特に、おかげ横丁の組合が立ち上がって騒動を起こし…」となると思います。伊勢のおかげ横丁に行けば、人が溢れて歩く隙間もありません。
 でもそんな所に、エペソ型のリバイバルが起きたら何が起こるのか。おかげ横丁の組合が怒り出し、「アマテラスさまのおかげで、おかげ横丁はなりたっているじゃないか。今回の遷宮で、三重県だって、二千四百十六億円も儲かったじゃないか。JRの株だって上がったじゃないか。しかしイエスを宣べ伝えたのは誰だ。」それで私たちは殺されるかもしれません。

 パウロは、危うく命を落とす寸前でした。使徒の働き十九章にその事が書かれています。ということはどうでしょうか。リバイバルも考えものです。エペソ型のリバイバルには、必ず、迫害がつきものです。

 これは何を教えているのでしょうか。それは、私たちが越えなければならない、最後のハードルについて教えていると思います。それは経済の世界の背後に、最も強い悪魔の組織が働いているということです。
 はじめエペソにおいて、アルテミスというギリシャの神を拝んだら、何か、ご利益があったのでしょう。それは、ごく少数の人たちから始まったと思われます。けれどもご利益の噂が広まり、全国から人が集まるようになると、アルテミス神殿を中心に、経済圏が形成されたのです。
 やがて、アルテミス神殿はエペソの経済を支える中心的存在に変化し、アルテミスを利用して金儲けをする街となっていたのです。そのような構図が街に出来上がっていたのです。

 日本でも、偶像礼拝は、このレベルに達しています。伊勢市だって然り、隣の豊川市だって然りです。豊川市から豊川稲荷を取ってしまったら、豊川市の景気は悪くなります。日本中、みんなそういう感じです。偶像の神々でさえ、経済を底支えする手段となっているのです。
 ということは、経済界の中に、最も強い悪しき軍団が浸潤し、展開していることを意味します。それをエペソのリバイバルから、学ぶことができるのです。

 この事件が起こったのは、パウロの第三次伝道旅行の中だと言われています。その後、パウロはエペソ教会に手紙を送っています。それがエペソ人への手紙です。第三次伝道旅行から、エペソ人への手紙までには時間差があります。年代には諸説あるようですが、だいたい五年から十年くらい後のことであったと思われます。数年後、パウロはエペソ教会へ手紙を書いたのです。
 パウロがローマで、エペソで起きた事件を思い出し、祈っている時、主が一つのことを教えたのです。エペソ六章十節~十三節、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』

 パウロは十三節で、『邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』と語りました。
 「邪悪な日」、これは一体、何をイメージして語られたのでしょうか。それはエペソの街で、デメテリオを中心として、大騒動があったわけです。
 「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊」という、悪魔の所有している最も強力な軍団が、どこに侵入し、支えているのかと言えば、他でもない、強欲渦巻く、金の世界、経済の世界です。この領域に最も強力な敵の力が展開している事を示唆し、あの邪悪な日をイメージしながら、パウロはエペソ教会に手紙を送ったと思われます。

 日々、私たちは経済のただ中に身を置き、生活しているのですが、そこが最も激しい霊的戦いの現場であり、最も強い敵が展開している領域であることをよく知り、経済を支配している軍団に巻き込まれるのではなく、その力を打ち破り、金に支配されるのではなく、悪しき力を支配する時、「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」のです。これこそ、最後のハードルだということができると思います。
 経済活動の領域は、偽りの世界であり、暗闇の軍団が展開している場所なのです。決して、いばらに刺し通されることなく、いばらを取り除く者になり、良い地に変えていかなければならないのです。

 今日は午後から特に、経済という領域に関して、ご一緒に学んでいきたいと願っています。そこにある敵の策略について、具体的にお話します。そこに祈りを置いて、経済活動に関わるならば、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶと信じます。経済の領域についての敵の力について知らなければ、偽りの世界に巻き込まれ、金銭ばかりを追い求めるようになり、いばらに刺し通され、信仰さえ失ってしまうのです。

 経済の世界で、敵がどのように働いているのかを知るなら、サタンに奪われた財宝を、取り戻すことができると信じます。不正の富さえ使って、イエス様は「友を作れ」と言われました。不正の富を勝ち取って、主のために用いる者になりたいと願っています。
 今日は、一人ひとり、良い地に種が蒔かれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ者に変えられましょう。今から聖餐式を行います。一言お祈りさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。今、私たちに御言葉の種を与えてくださっていることを感謝します。これが種だけに終わることがないようにしてください。サタンが来て、種を奪うことがないようにしてください。
 また、迫害や苦しみによって信仰を失うことがないようにしてください。経済の世界のただ中にいますけれど、世の心遣い、富の惑わし、欲望によって、信仰が奪われることがないよう、心を良い地に変えてください。そこに種が蒔かれ、多くの実を結びますように。
 この時を心から感謝します。今から聖餐式を行います。私たちのために命をかけてくださったイエス様。あなたに心から感謝し、賛美いたします。
 自分自身を吟味し、聖餐式にあずかります。私たちを聖め、祝福してください。イエス様の御名を通して祈りを、父なる神の御前にお捧げいたします。アーメン。