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『眠った賜物』

2013.11.10 (日)
新城教会 副牧師 公畑フェルナンド
第2テモテへの手紙 1章6節

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』

 いつも私たちのために、インターナショナル部会のためにお祈りいただき、心から感謝をいたします。
 前回、日本人の礼拝でメッセージをしたのはちょうど一年前になります。十一月十一日のことでした。しかし、インターナショナルの部会に私は責任を持っていますので、毎週毎週、週末はいろいろな仕事があります。今、浜松で土曜日の夜に礼拝を持っています。そして、新城で日曜日の午後に集会があります。たぶんみなさんは、インターナショナル部会の働きをあまりご存知ではなく、この地域に住んでいる外国人のための礼拝があるということくらいしかご存知でないかもしれませんが、一年間を通して、様々な集会をもっております。
ですから今日はみなさんに、今年あった様々な集会の写真を少しですが見せたいと思います。

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 五月にアルゼンチンから、ジョーエ牧師をお招きして、集会がありました。
三日間、金土日と、「聖霊の働き集会」を行いました。
とても祝福された集会で、多くの方が聖霊の力を受けました。

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 毎年夏には、インターナショナル部会で、「アイスクリームパーティー伝道集会」というのを持ちます。
 もちろん新しい方に伝道メッセージをしますが、最後に小さなパーティーを持ちます。アイスクリームが食べ放題です。すごい方でこのカップ、八杯から十杯、おかわりする方もいらっしゃいます。このアイスクリームの他に、かき氷もあるのですが、インターナショナル部会にとっては、とても楽しい時間です。

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 インターナショナル部会において、毎年、一番力を入れている伝道集会というと、このカフェコンサートになります。
 たぶん、毎年、クリスマス集会よりも力を入れているのではないか、というくらいの集会です。二週間前にちょうど十六年目のカフェコンサートを迎えました。この時にまた、アルゼンチンから他の牧師先生が来られました。もちろん御言葉を語る時間もあり、大勢の方がイエス様を信じました。もし、お時間があって、覚えてくださるなら、どうかインターナショナル部会、また私たちの働きのためにお祈りください。

 それでは御言葉にいきたいと思います。岡本先生がいって下さった通り、今日のタイトルは、「眠った賜物」という題です。もう一度、聖書箇所、第二テモテ一章六節を読みたいと思います。

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。』
 
 神様は私たち、クリスチャン一人一人に、1つまたはそれ以上の賜物を運用するため与えてくださいました。それはタラントのたとえ話にあるようです。そのたとえ話によると、神様は、ひとりひとりの能力に応じて賜物を与えられたとあります。ですから、ここにいる私たちひとりひとりが、一つまたはそれ以上の賜物を持っています。
ではなぜ多くの人が賜物を用いられていないのでしょうか?

 ギリシャ語で「燃え立たせる」を意味しているのがアナゾプレオという言葉です。その意味は、「もう一度火をつける、または炎が消えないように保つ」という意味です。パウロがこの若者を元気づけて、賜物を燃え立たせ、または火をつけなければならなかったとすれば、賜物には眠った状態になる可能性があるということです。私たちが理解しないといけないことは、賜物は自動的には働かないということです。たとえばバーベキューの時を考えると分かりやすいと思うのですが、火は、つねに燃え立たせ、保たなくてはならないのです。

 それでは、神から与えられた賜物が眠ってしまう原因とは何でしょうか?その答えは次の聖書箇所に見ることができます。第二テモテ一章六節~七節、

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛とつつしみとの霊です。』

 聖書を理解する時に、一つの御言葉だけを抜き出して理解しようとすることは危ないことです。その御言葉の前後を理解していかなければなりません。ですから、この六節と七節を一緒に見ていくならば、言葉を変えて言うなら、パウロはテモテに「テモテよ、あなたのうちにある神の賜物は、おくびょうによって眠った状態にあるのだよ。」と言っているのです。

 おくびょうなクリスチャンは賜物を使わないことで霊的権威を失っているのです。その結果、その人の賜物、または神から与えられた能力は眠った状態、非活動状態になります。
神様から賜物を与えているのにも関わらず、それが機能していないのです。
 例えば、多くの人の集まりで自由に意見を言うように求められた時、私たちはなかなか自分から意見を言ったりしません。なぜでしょう?それは間違ったことを言うのを恐れたり、傷ついたり、恥ずかしい思いをするのを恐れるからです。
 そのような恐れ、おくびょうの霊は、私たちに働いて、人間的に成長するのを妨げ、また同じように、神から与えられた賜物の成長も妨げます。悪魔は私たちが神から与えられた賜物を用いて神に仕えることを好みません。ですから悪魔は私たちのうちに、おくびょうの霊を置こうとするのです。

 おくびょうの霊の最大の目的は、私たちが行動を起こすことを阻止することです。おくびょうの霊は、人より自分が劣っているという感情と恐れによってあなたを圧倒させようとします。その結果、あなたの内にある神の賜物が働かない状態にされるのです。覚えてください、おくびょうの霊の根底には恐れがあります。

 預言者エリヤの例を見てみましょう。ご存知の通り、エリヤはものすごく力強い働きをした預言者でした。ある日、彼は神を恐れない、悪い王の前にかたく立って、『私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。』(第一列王記十七章一節)こう宣言しました。彼にはそれを王様に言う勇気がありました。
 それから彼は奇跡の生活をすることになります。まず、カラスに養われ、次にひとりのやもめに養われました。周りが飢えと貧困に苦しむ中、そのやもめのかめの中の粉と油は尽きることがありませんでした。またこのやもめの息子が突然亡くなった時に、神はエリヤの祈りをきき、その息子を生き返らせました。エリヤは力の宣教をする人でした。

 その後かなりたってから、またこの王の前に立つことになりました。この王は日照りの困難と苦しみをエリヤの責任にし、こうあいさつしました。『これはお前か。イスラエルを煩わすもの。』(第一列王記十八章十七節)
 それに対してエリヤは勇敢にこう答えました。『私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。』(第一列王記十八章十八節)
 そして次にエリヤは何をしたでしょう。エリヤは450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を集めるように命じました。全イスラエルと共にカルメル山につれてくるように王に命じました。対決の日、全イスラエルはどちらが本当の神であるかを見に集まりました。
 エリヤはバアルとアシェラの預言者たちに挑戦して、彼らが自分の神に生贄をささげる一方で、自分も神のために生贄を準備しました。そして一つの目標を立てました。『あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』(第一列王記十八章二十四節)と宣言しました。
 みなさん、この話をご存知だと思いますが、神である主が火をもって答え、イスラエルの民はひれ伏して神にたち返ったのです。そしてエリヤの命令により、すべてのバアルとアシェラの預言者たちは殺されました。
 その後、エリヤは雨が降ると告げ、熱心に祈り始めました。なにも雨の兆候が無いにも関わらず、しばらくすると空は暗くなり、激しい雨が降ってきました。
これはエリヤの人生でたった一日のうちに起こったできことです。イスラエルの民が神に立ち返り、悪者は殺され、大干ばつは終わりを告げました。エリヤは神の声をはっきり聞くことができ、神の奇跡と力のうちに動き、そして偉大な奇跡を見ることができました。

 しかし同じ日、アハブの妻であるイゼベルが、自分のバアルの預言者たちに起こったことを聞き、エリヤに使者を遣わしこう言わせました。第一列王記十九章二節、

『すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたの命をあの人たちのひとりの命のようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」』

 彼女は自分の預言者たちに起こったことで、エリヤに激怒していました。このイゼベルの脅しに対するエリヤの反応を見てください。第一列王記十九章三節~四節、

『彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来た時、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちに勝ってはいませんから。」』

 大勝利を収めた同じ日、自分の命を救うために、恐れて、逃げ出してしまいました。イゼベルのことで非常に恐れ、活気をなくし、死にたいと思うまでになりました。イゼベルの目的は、エリヤが神の御心をやり遂げるのを阻むものでした。彼女は結局、エリヤを殺すことはできませんでしたが、一つのことに成功しました。彼をおびえさせ、逃走させ、死を願うようにさせたのです。
 おくびょうの霊は、混乱や意気消沈、挫折を生み出します。その目的はあなたの未来の見通しを失わせるものです。神ご自身がエリヤに二度、こう聞かねばなりませんでした。
第一列王記十九章九節、

『彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と仰せられた。』

 神様はエリヤに、「ここで何をしているのか?」と聞きました。それも、二回、聞かれました。神がエリヤのうちに始められた働きは、イゼベルに対決するまでは完全には完成されませんでした。しかしエリヤはイゼベルによっておくびょうになっていたので、その権威を失っていました。違う言葉で言い換えるなら、彼の任務を終わらせるべき賜物は火が消され、眠った状態になっていました。
神がエリヤにここで何をしているのかと二回聞いたあと、彼に対して言った言葉を見てください。第一列王記十九章十五節~十七節、

『主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いでアラムの王とせよ。また、ニシムの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。」』

 イエス様はこの法則を教えられました。順先生がよく私たちに教えてくださるのですが、マルコ三章二十七節、

『確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。』

 強い人とはリーダーです。家とは、その勢力の支配であり、または領土です。その家財とは、その勢力の実、または成果です。
 こう言えるでしょう。アハブはリーダーであり、エリヤは彼を恐れなかった。正解であり、間違いです。アハブはリーダーと言う肩書きをもってはいましたが、彼の権威は妻に渡っていたのです。それゆえ、霊的には、イスラエルの偶像礼拝に関しては彼女が「強い人」でした。彼女こそバアル崇拝の扇動者でした。彼女の影響はイスラエル全土に及び、神に忠実な七千人は別として、民に本物の神への礼拝をやめさせました。イゼベルは直接的に対決したわけではありませんでしたが、その彼女の影響は続きました。
 家に帰ってから、この後、何が起こったのかじっくりと読んでいただきたいのですが、エリヤが、自分の命のために逃げだしてからのちに何が起こったかを見ていくと、彼が始めた働きは消えてしまったことに気がつくでしょう。
アハブは民をその悪行で苦しめ続けました。そして、自分の夫と王国に対するイゼベルの影響力は、ますます強くなっていきました。バアル崇拝は復活してしまいます。エリヤがバアルの預言者たちとの対決をし、全国民が神の力の証人となったにもかかわらず、そのバアル崇拝は復活してしまったのです。
 ですから、エリヤがイゼベルから逃げた時、イスラエルの勇気も一緒に持って行ってしまったのです。そしてその後、アハブは死に、彼の後に王になった二人の息子たちも、彼らはイスラエルに、もっと深い偶像礼拝をさせたのです。

 エリヤが逃げ出したことで主は彼に、この悪い女に立ち向かうため、二人の男たちに油を注ぐように命じました。そして、エフーが最終的にイゼベルを殺すことになります。彼女がエフーを抑えようとしたとき、エフーはその恐れに屈しませんでした。そして、イゼベルが対決で殺されると、彼女の影響力の領域も崩れ落ちました。
 それでその後、エフーと彼についた男たちは、アハブの七十人の子どもたちを殺しました。またバアルの全ての信者たちを集め、剣で殺しました。バアルの宮に行き、すべてのささげられた品々を焼きました。そしてエフーたちは、バアルの像を破壊しました。そして、宮を破壊し、これを公衆便所としたと書いてあります。そして、神がエフーに言った言葉を見てください。第二列王記十章二十八節、

 『このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。』

とあります。このように、彼はバアル信仰をイスラエルから取り除きました。そして思い出して下さい、いくつか今日読んだ聖書箇所の中に、神はエリヤに、「エリシャに油を注ぎなさい」と、「エリヤの代わりに預言者にするように」とありました。なぜでしょう。それは神から与えられたエリヤの権威は失われていたからで、彼の内にある賜物が眠った状態にあったからです。しかしエフーとエリシャはおくびょうの霊に屈することはなく、また、彼らのうちの神の賜物は眠っていなかったので、彼らによって、国がバアル崇拝から解放されたのです。
 兄弟姉妹たち、私たちが臆病になっていると、私たちの権威ある身分を放棄している状態になります。その結果、神に仕える、または守る賜物は眠ったままになります。

 たぶんこうあなたは質問されるでしょう。「フェルナンド先生、私は自分の賜物が分かりません。」私の答えはこうです。
 一番目に、神に祈ってください。神に祈って、あなたの賜物が何か教えてもらってください。
 二番目に、それを主のために用いる意欲をもってください。
 そして三番目に、実践し始めてください。あなたが好きな事、または上手にできると思うことを実践し始めてみてください。神に仕えるという賜物は、教会で用いる賜物です。
 教会にはたくさんあなたにできることがあります。たとえば、食事をつくるのを助けたり、掃除をしたり、コーラスに入って歌ったり、楽器を演奏したり、小さな子どもたちを教えたり、教会のメンテナンスをしたり、手仕事であったり、元気のない最近教会に来ていない兄弟姉妹を訪問したり、教会の入り口に立って、教会に来た人たちを歓迎したり、などです。
 何か実践し始めてみてください。あなたが何か心地よいと思えるものを見つけるまで。
そこで自分がしていることをもって、主と教会に仕えていることが分かるようになります。

 全ての人は与えられた賜物に従って主に仕えなくてはなりません。ですから、私たちの賜物を成長させ、完成させていきましょう!たとえば私は、この教会のミュージックスクールをとてもうれしく思います。そこには特に子どもたちや若者が音楽の賜物を成長させているからです。それはこの領域で、教会において主に仕えて行くことができるためです。

 私たちは自分たちの賜物が眠った状態に陥ることのないように、おくびょうの霊と戦わなくてはなりません。それはおくびょうの霊が、あなたの主と教会に仕える賜物を使わせないようにするからです。神様は働いている人たちをお呼びになります。悪魔というのは、働いていない人たちを用いようとします。ですから、みなさん、神様に仕えていきましょう。
 私たちには、最低一つは賜物が与えられています。そして、私たちの責任は、それを使うことです。神様によって与えられた賜物を、与えられた目的に従って用いることです。
 あなたが自分の霊的賜物を知り、それを用いるなら、教会におけるあなたの機能を発見するでしょう。神様はあなたがただ教会に来て、座って、メッセージを聞くことを喜んではいません。神様はあなたに賜物を発見して欲しいと願っています。そしてそれを用いていくことを願っています。

 そうするとあなたはもっと実を結ぶものになり、結ぶ実はあなたに喜びを与えます。そして教会にますますの一致と調和を生み、主の御名があがめられ、そして最終的に神はあなたにこう言うでしょう。タラントのたとえにあったように、『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。』

 ですから、みなさん、自分の賜物を見いだしていきましょう。そしてそれを用いて、実践するということをしていきましょう。このメッセージを全部覚えていなくても、この三つのポイントは覚えてください。

 自分の賜物が何か分からない方は、まず一つ目、神様に祈ってください。そして、自分の賜物が何であるかを知らせてくださいと、神様に教えてもらってください。

 そして二番目に、その賜物を神様のために用いるという意欲を持ってください。私たちは一人一人、小さなコンプレックスをもっているものです。私たち、自分は何もできないと思いがちです。そして、他の人の方が自分より勝っていると思いがちです。それが臆病の霊のすることです。ですから、二番目のポイントとして、賜物を神様のために用いるという意欲を持つ。それが重要です。あなたは唯一の存在で、神様はあなたに賜物をおかれています。
 私たち、全員、すべての人が、順先生のようにメッセージをすることはできません。開先生のようにここで賛美をすることができません。しかし、神様は一人一人に目的をもって、賜物を与えられています。それは、神様のために用いるためです。

 三つ目のポイント。実践し始めてください。あなたが自分で好きなことを、それを始めてみてください。料理すること、掃除すること、自分で上手にできそうだと思うことを、まず始めてみてください。あなたにも働きができるのです。そしてあなたが、この教会において、神様に仕えながら、賜物を用いていくことができるということを見いだせます。

 前のことですが、山崎ランサム和彦先生が、メッセージが短かったのでみんな喜んだのではないかと言っていましたが、今日も同じように短いので、ここで終わりますので、喜んでいると思います。それではお祈りしたいと思います。どうぞ、お祈りの姿勢をとってください。

 神様、この朝を感謝します。あなたの御言葉を感謝します。あなたにお願いします。私たちが何の賜物を持っているか、一人一人に示してください。そして、あなたのために用いることができますように。もし、私たちの中に、臆病の霊、また、恐れの霊があるのならば、あなたに仕えることを阻むものがあるのならば、御言葉が言っているように、私たちはそれに立ち向かいます。
 イエス様の霊によって、おくびょうの霊よ、私たちの中から出て行け!
 主よ、私たちはあなたに仕えたいと思っています。私たちの教会に仕えたいと思っています。ただ椅子をあたためるだけのクリスチャンになるのは嫌です。心すべてを尽くして、あなたに仕えたいと思っています。それは、あなたがそのように私たちに賜物を与えてくださったからです。ここにいる私たち一人一人は、その賜物を用いるために、神様に与えられました。私たちを助けてください。私たちが自分の賜物をみつけることができますように。そして、教会における私たちの機能を見つけることができるように。喜んであなたに仕えることができるように。
 この教会の中で、もっと一致を見ることができるように。調和を見ることができるように。そして、一つの家族として、あなたに栄光をお返しすることができますように。感謝します。尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。