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『健康なクリスチャン』

2013.12.1 (日)
新城教会牧師 岡本信弘
ペテロの手紙第一 1章8節~9節

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。今日こうして、皆さんと共に、健康で、主の御言葉を学ぶができることを心から感謝します。
 早いもので、今日から十二月。あと一ヶ月で今年が終わってしまいます。今年は、夏が長かったとか、秋がなかったと言われていますが、そんな暑い日々から急に寒くなって、皆さんの中でも、風邪を引いたり体調を崩しておられる方もおられるかもしれません。今日は、体はもちろんですが、クリスチャンとしての健康を皆さんと一緒に学んでみたいと思います。

健康というのは、誰もが願っているテーマだと思います。皆さんの中に、「健康ですか?」と尋ねられて、即座に「健康です」と答えることのできる方がどのくらいおられるでしょうか? しかし、人は誰でも年とるにつれて、体のいろいろなところに不具合が出てくるものです。
 私は、二年半くらい前にひどい風邪で寝込んだことがあるのですが、それ以降は、風邪をひくこともなく健康が守られていることを感謝しています。しかし時々、手足に支障を感じます。皆さんから、「先生はいつも元気ですね」と言われるように、普段は大丈夫なのですが、三年ほど前に足をくじいたのが原因で、東京など出張に出かけ、たくさん歩いた後には、痛くて歩けなくなるときがあったりします。また、腱鞘炎もあって、何かの拍子に激痛が走ることがあり、胸を張って「健康です」とは言えないのが現状です。
 皆さんが肉体的健康を維持する理由の一つは、この地上において、健康で長生きするためだと思います。中には、ジョギングをしたり、ダイエットしたりと、努力されている方もいらっしゃると思います。
 しかし、体を鍛えて注意をしていても、頭痛や腹痛、怪我をして足腰の自由が利かなくなり、手術が必要になったりすることもあります。このように、はっきりと病気だと自覚できる場合だけでなく、気持ちがすぐれない、イライラする、将来に対しての不安がある、また、金縛りにあうとか、科学的には証明できないような領域で圧迫を感じ、心だけでなく、実際的なダメージを受けたときなど、精神的、霊的に弱さを覚えるとき、「元気です」とはなかなか言えません。

クリスチャンの健康であるという基本は、初めに読んでいただいた御言葉にあります。

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』(第一ペテロの手紙一章八~九節)

そして、このような御言葉もあります。
『肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。』(第一テモテへの手紙四章八節)

 たとえ疲れていたとしても、風邪を引いて熱があったとしても、イエス・キリストを信じていることのゆえに、魂に平安があり、いつも喜びが満ちあふれているとき、健全なクリスチャンとしての歩みができるのです。

 では、健全なクリスチャン生活を送るためには、何が必要かということを考えていきたいと思います。
 健全なクリスチャン生活を送るためには、まず毎日のケアーが大切です。皆さんの普段の生活を振り返って、いつも行っていることは何ですか? 朝、起きて顔を洗い、歯を磨き、食事をして学校、会社で出かけ、家に帰って夕食を食べ、お風呂に入り睡眠をとる。そんな毎日の生活があります。夜勤の人もいれば、サイクルが違い、何を重要視するかも人によって違うと思いますが、食事や睡眠をうっかり忘れる人はいないでしょう。健康維持には、毎日の規則正しい生活が、かなり重要な要素です。一日三食のバランスのとれた食事と十分な睡眠が取れたらと思います。
 大人の一日に必要なエネルギーは、二千カロリーと言われています。一日食事を取らなくても死ぬことはありませんが、何日も続いたら弱ってしまい、動けなくなり、遂には死んでしまいます。皆さんも、毎日ご飯をおいしく食べることができなくなったら要注意かもしれません。
 私は毎日、おいしく食事を食べられますが、家族から「食べるのが早すぎる」と時々注意されます。先週の日曜日には、教育館でカレーをいつものように、一気に食べ終わったとき、隣に座っていた姉妹に「水も飲まなくて、そんなに早く食べて大丈夫ですか?」と、心配されました(笑)。
 先日、教会の運動会がありました。私にはあまり出られるような種目はないのですが、一つだけ、いつも出させてもらっている種目があります。それは、パン食い競走です。圧倒的に一番でした!(笑) 同じパン食い競走に出る何人もの人たちから、「先生、どうやったらパン食い競走で一位になれますか?」と聞かれました。私はアドバイスをしましたが、何の役にも立たなかったようでした(笑)。
 いつもパン食い競争の練習をしているわけではありませんが、皆さんと違って、早く食べないと食べた気がしないのです。これも困ったものですが…。いつまでも若くないですから、これからは気を付けないといけないと思っています。
 しかし、おいしく食事をしてカロリーは十分でも、栄養が偏っている場合もあります。皆さんは、苦手な食物がありますか? よく「先生は、好き嫌いなく何でも食べられそうですね」と言われますが、実は、苦手なものがいくつかあります。「今日も食べてきた」という方もおられると思いますが、私は納豆が苦手です。そのほかにも、セロリとかパクチーとか、においの強いものは好みません。
時々、ミッションの働きなどで海外に出かけることがありますが、外国語ができないというのも海外が苦手な理由の一つですが、何より、食事が苦痛なのです。ですから、国によっては、トランクの中にカップラーメンをいくつも詰めていくという、変なおじさんです(笑)。
 そのように、人の好みはそれぞれ違うわけですが、皆さんもたぶん嫌いな物があると思います。自分の嫌いな食べ物が売っているのを見ると、「なんでこんなものが売れるのかな?」「これは本当に栄養があるのかな?」「一日、何人の人に売れるのかな?」などとすぐに考えてしまうのですが、自分の認識とは別に、意外なものに多くの栄養が含まれていたり、重要な役割りをしている場合があります。私が言うのもなんですが、皆さん、好き嫌いなく、バランスのよい食事を心がけてください。

 では、それが、クリスチャン生活に、どのようにかかわりがあるのでしょうか。
聖書のマタイの福音書四章四節には、このように書かれています。

『イエスは答えて言われた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。』

 クリスチャンにとって、神の御言葉は食事と同じです。バランスのとれた健全なクリスチャンライフを楽しむためにも、毎日少しでも聖書を読むことは、とても重要なことです。
先ほどお話ししたように、自分の好む食事ばかりでは、栄養が偏ってしまうように、聖書も自分の好むところばかりを開いて読んでいては、心地はいいかもしれませんが、ある意味では、偏った信仰をもってしまう危険性があります。
 聖書通読をしていくと、意味が分からないこともたくさん出てきますし、こんな箇所が何の役に立つのかと思うこともあると思います。そして、読んだ後に、「今日、何読んだかな?」と、思い出せないようなこともあると思います。しかし、聖書にある神の御言葉に、何一つ不要なところはありません。覚えていても、覚えてなくても、毎日聖書を読み、御言葉の食卓に預かるということは、私たちの健康なクリスチャン生活を維持するために、とても重要なことです。
また、数週間前から順先生が「いろんな所に行って賛美しなさい」と、語っておられように、賛美も大切です。私が家で、大声で賛美をしていると、「お父さん、ちょっと音程がくるっているよ」と言われたりすることがありますが…。しかし、喜んで賛美しているときは、人を憎んだり、人を悪く思ったりすることはありません。心から神様を褒め讃える、賛美をささげることは、健康の秘訣だと思います。

 またもう一つ。毎日、気が付かないでしていること、それは呼吸です。当然、空気がなければ、そして呼吸しなければ、人は生きていくことはできません。クリスチャンの祈りは、呼吸だといわれます。皆さんも毎日、祈りで神様との交わりをしておられると思います。でも、考えてください。二、三分くらいは呼吸を止められたとしても、一日中呼吸を止めていたら死んでしまいます。でも、「いや~、昨日祈らなかった。でも、生きてる!」と、一日祈らないからといって息が絶えるわけではありません。しかし、その状態が続けば、呼吸の酸欠状態と同じように、いろいろなところに支障が出て苦しくなり、知らないうちにクリスチャン生活に大きなダメージを受けることになります。ですから、日々、聖書に親しむこと、そして、神様との交わりである祈りを、大切にしていきましょう。

第二に、定期的に信仰点検をすることが、健全なクリスチャン生活を送るには必要です。
皆さんは、健康管理のために、定期健診をしておられますか。教会やプレイズ出版でも、毎年一回、健康診断を受けています。健康診断の日が近くになると、「少し体重を落としたほうがいいかな」と考えたりします。いまのところ、それほど悪いところもなく守られています。
 私は毎週日曜日、教会の玄関で皆さんをお迎えして挨拶をしています。時には、包帯を巻いて来られたり、手を固定していたりして、何かあったとすぐ分かる方もおられますが、これといった怪我もなく、何も問題がなさそうな方でも、「お元気ですか?」と声をかけると、「あまり元気じゃないのよ」と言われるときがあります。どうしたのかなと思って話を伺い、一緒に祈らせていただいたりするわけですが、元気じゃない、と言っても、その原因は人それぞれ、千差万別でしょう。風邪を引いて熱があったり、仕事や子育てで疲れがたまっていたり、怪我をして痛みがあったり、またある人は、悩みがあったり、霊的な攻撃を受けて疲れてしまい、やっとの思いで一週間の戦いを終えて、礼拝に来られたような方もおられるかもしれません。
 痛いとかだるいとか、何か異変を感じたときに検査をしてみたら、意外な病気が見つかるときがあります。また、自分は健康だと思っていても、健康診断で引っかかってしまうことが時々あります。自覚症状があれば、自分で気をつけ、少しひどくなれば病院に行って早期に治療を受けることもできますが、自覚症状がない病気というのが厄介です。たとえば、肝臓は、沈黙の臓器と言われていて、病気になってもはっきりとした自覚症状が少なく、検査で引っかかったり、病状が進んでほかの症状が出るようになって、初めて病気の存在に気がつくことが多いそうです。

 では、クリスチャン生活はどうでしょうか。第一コリント十章十二節には、
『ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』
とあります。自分では大丈夫だと思ってもいても、時々に、しっかりとした定期点検が必要だと教えています。
 皆さんは、毎週礼拝に来られています。では、なぜ毎週来るのでしょうか。もちろん、イエス様を心から賛美して礼拝するためだと思います。メッセージを聞くことによって、力を受け、養われ、信仰生活の軌道修正をすることができます。ですから、前もお話ししたのですが、私は礼拝メッセージを語らせていただくのは、すごくプレッシャーです。子どもから、若い方、年配の方、いろいろな事情の方がおられるわけですから、「神様、何を語ったらいいですか」と深く祈らされます。
 また、教会は、交わりの場でもあります。クリスチャンの少ないこの日本において、様々な誘惑や迫害で、信仰を守り通すことが困難なときがあります。また、岐路に立たされて悩むとき、クリスチャンとの交わりによって、いろいろな人の体験、証を聞くことにより、励ましを受けたり、良い導きを得ることも多々ありますし、自分の信仰を点検することにも役立ちます。このように、礼拝に出席し、クリスチャンと交わることは、信仰生活にとても重要な役割を果たしていることを覚えてください。

  第三には、健全なクリスチャン生活が、あなたの未来に希望を与えるということです。
先日、ネットに死因ランキングが掲載されていました。皆さん、何が一位だと思いますか?「一位=悪性新生物(がん)、二位=心疾患(心臓)、三位=肺炎」となっていました。この三つに共通している点は、状態が外から見えないことです。

第二コリント人への手紙四章十七~十八節には、見えないものが大切だと教えています。

『今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』

 たとえば、腕の骨を折るような怪我をしたとしても、それが直接的な原因で死に至ることは、少ないでしょう。傷ついていることが分かれば、すぐに手当てができます。しかし、見えない部分に関しては、意外に気を付けていないのが現状ではないでしょうか。
 皆さんは、自分の家の床下を見たことがありますか? 家の中で基礎の部分は特に重要ですが、隠れた所にあるため、普段はなかなか見ることはないと思います。しかし、知らないうちにシロアリが入り込み、気が付いたときには相当食い荒らされて、土台が揺らいているということもあります。順先生の前の家もそうだったと、以前に話をしておられました。
 見えないところが重要と分かっていても、見えないだけにそのままにしておくことが多く、事前に備えをするのは、なかなか難しいことです。クリスチャン生活も明日のことは誰にも分かりません。そんなあなたに神様は、準備をしなさいと言われています。何の準備でしょうか。ルカの福音書には、ある金持ちの記事があります。

 この人は、『自分のために何年分もの物を貯め込み、自分のたましいに語ろうとした。「たましいよ。これから先、何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」その時、神が言われた『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』と、いのちが取られたのです。
 私たちが、どんなに金持ちになっても、どんなに有名になっても死んでしまったら終わりです。『人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。』(マルコによる福音書八章三十六節)と、あるとおりです。

 今、私たちは生きていますが、私たちの最終目的は、永遠のいのちを獲得して天国に入ることです。しかし、そのためにはいろいろな戦いがあります。

『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。』(マタイの福音書七章十三節)

皆さんの周りに、クリスチャンは何人いますか? 職場や学校には、ほとんどいないのが現状です。その中で、天国への道を見つけることができたことは、神様の恵みです。私たちの地上での生活は、天国に入るための猶予期間とも考えられます。すべての人は罪を持ち、永遠の滅びである地獄に行くことが定まっています。しかし神様は、愛と憐みによって、この地上にイエス様を救い主として送ってくださり、それを信じた者に天国への切符を与えてくださったのです。
先ほど言いましたように、クリスチャン生活にはいろいろと妨げがあります。しかし、これからどんな問題にぶつかろうとも、クリスチャンとしての健康を維持して、天国行きの切符を、何が何でも手放してはなりません。このことをぜひ、覚えておいていただきたいと思います。
 自分を顧み、今、自分が何を求めて、どこに向かっているかを点検し、もし、自分の欲によって神さまに喜ばれない部分があったら、罪を悔い改め、神さまの前に富む者とさせていただきましょう。また、自分だけでなく、家族、親族、知人、多くの友が共に天国に入れるよう、働きかけていくことが大切です。
来週、十二月八日のクワイヤーのコンサートを皮切りに、教会では多くのクリスマ集会が計画されています。あなたの身近な人に案内する絶好のチャンスです。今朝の時点では、チケットがまだ四十枚しか売れていないそうです。ですから皆さん、今日お帰りの際、自分の分は買っていただきたいのですが、案内したいと思っておられる方の分も買って、今週の早いうちに案内しましょう。そうしないと、予定が入ってしまって来られないかもしれませんから。このクリスマス、多くの人が集められ、一つ一つの集会が豊かに祝福されるように、祈っていきたいと思います。

 第四は、成長することです。

『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』(第一ペテロの手紙二章二節)

 人は生まれ出たときは、三㎏ほどしか体重がありません。私は四㎏あったそうですが…。赤ちゃんは、お母さんのおっぱいを飲み、離乳食を食べ、その成長は目覚ましく、少し見ないと大きくなっていて驚かされます。
 私たちクリスチャンは、神の御言葉の乳を慕い求め、神様からの恵みを受け取り、それによって栄養を吸収し成長していくのです。先ほど言ったように、私たちは天国への切符を手にしました。中には、もう手にしたのだから何もしなくてもいい、と考える人がいますが、それは違います。実をならせるために、成長しなくてはなりません。

『わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』(ヨハネの福音書十五章四~五節)

私たちは実を結ぶために、神様から選ばれました。そのためには、しっかりと幹につながっていることが条件であり、神様は、「わたしにとどまり成長しなさい。多くの実を結ぶものとなりなさい」と教えています。そのように成長していくことが、健康の証しです。

 第五に、健康なクリスチャンにしかできない働きがあります。
人間の体には多くの器官があります。そして、それが独立して働きをしているのではなく、お互いにかかわりを持ち、補い合って機能しているのです。その中でも、心臓はたくさんの器官にかかわりを持っています。
 皆さんは、人間の血管の長さがどのくらいあるかご存知ですか? 調べたところ、毛細血管まで入れて血管を全部つなげると、大人の血管の長さは、およそ十万kmにもなるそうです。この長さは、日本からアメリカのワシントンまでの、およそ十倍の距離だそうです。すごいと思いませんか。それほどの長さの血管が、体の中に張り巡らされ、お母さんのおなかの中で形作られたときから休むことなく動き続け、酸素や栄養を体の隅々まで送っています。ですから、細い血管がちょっと詰まっただけでも、手足がしびれたり、麻痺が起こり、体の自由が利かなくなります。人間の体は、実によくできているなあと感心します。
私たちクリスチャンも、キリストにあって一つのからだで、それぞれが器官だと、聖書は教えています。

『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(ローマ人への手紙十二章四~五節)

一つの器官が同じではなく、「どの器官も必要不可欠」なのです。だからこそ、私たち一人ひとりが健康なクリスチャンでなければなりません。このように一人ひとりが神様につながっていて、それぞれの役割を果たすとき、完全なからだとなり、教会の健康が保たれ祝福されるのです。

 皆さんは、自分は弱く、何の役にも立たないと思っておられませんか。しかし、それは、大きな間違いです。先日、フェルナンド先生が、ここにいらっしゃる方全員に、必ず賜物があると語られました。一人ひとりに必ず一つ以上の賜物が与えられています。スポーツ、音楽など、目立つような特別な才能だけでなく、祈ること、賛美すること、話すこと、聞くこと、食事を作ること、掃除をすることなど、そういった何気ない一つ一つを神様のためにするときに、それは立派な賜物です。与えられた賜物を生かして、できることを一つでも神様の前にさせていただきましょう。

最後に、一つの御言葉をお読みして終わりたいと思います。

『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』(第三ヨハネの手紙一章二節)

信仰の結果である、たましいの救いを得ている者にふさわしく、皆さんが、健康で幸せに生きられますよう、心から願います。