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『すばらしい知らせがあります!!』

2013.12.8 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
ルカの福音書 二章一節〜十一節

『そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日はすばらしいクリスマス礼拝を持つことができ、本当に感謝しています。安武さんのすばらしい演奏、感動したでしょう?もう一度、大きな拍手をしてください。
 今日の夜、私は期待しています。ヘブンリー・キングダムがたっぷり賛美を聴かせてくださるからです。安武さんも一緒に加わって下さいます。すばらしいコンサートになると思います。
 八月にヘブンリーが、豊橋でコンサートを開きました。大評判でした。私も本当に感動しました。今日は、その感動を超えることができるのか、真価が試されるわけですが、彼らはボランティアで、毎晩のように集まって練習しています。漏れてくる歌声を聴くと、感動しました。今日はこの場所に多くの方が来られ、喜びの知らせを受け取ることが出来たら嬉しいと思います。
 八月のコンサートの時も、初めて来た人たちもたいへん感動しました。「何か知らないけど、涙が止まらなかった」と言っていました。今晩もそのような聖霊様の働きがあることを心から信じます。

 早いもので、十二月になりました。あっという間に一年が経ってしまいます。この十二月は教会にとって、一番忙しい時期です。なぜなら、イエス様がお生まれになった、記念の月だからです。今週もクリスマスの集会が続いて行きますが、ぜひ祈って参加していただきたいと思います。

 実は今週は、冬のソナタで有名な春川から、十六名の方々が来られます。韓国の伝統音楽は、三拍子です。その拍子にのせて賛美する歌手が来て下さいます。
 今週は、その方々が水曜礼拝でも奉仕してくださいます。また、金曜日は「クリスマス・コリアン・ナイト」と名前を付けましたが、焼き肉大会の後、クリスマス集会をします。いいですね〜。クリスマスに焼き肉は付き物です。あっ?焼き肉じゃあない?まぁ、なんでもいいですが、クリスマスって本当に楽しいですね。何か、十二月になると、心うきうきします。

 ここにメリークリスマス!という写真があります。

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 「メリー」とは、メリーさんではなくて、「ハッピー」という意味だそうです。時々、「ハッピー・メリークリスマス」というと、「ハッピー・ハッピー・クリスマス」となります。幸せの二乗です。なぜうれしい気分になるのか。プレゼントがもらえるのか、ケーキが食べられるのか…。日本人はあまり理由が分かっていないです。

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クリスマスというと、サンタクロースが出て来て、トナカイがそりを引いているようなイメージしかないのですが、サンタクロースは、後からついた話です。サンタクロースも空を勝手に飛んでいると、こんな風になりますから、気をつけて飛んでほしいものです。

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 クリスマスは、イエス様の誕生日を祝っています。それで「ハッピー」です。世界で「一番の喜びの月」が12月です。

 今日、読んでいただきました聖書の箇所は、イエス様のお生まれの知らせが、どのように告げられたのかが述べられていました。ルカ二章の八節から見ると、

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。』

 みなさんどうでしょうか。羊飼いたちの心境にもなってみてください。羊飼いたちは、通常の業務のただ中だったわけです。彼らは野宿で、羊たちが逃げないよう番をしていたわけです。逃げないというよりも、夜は、猛獣が羊を襲うのです。だから、羊飼いたちは、たき火をしながら見張っていたのです。そんな所に突然です。天の郡勢が現れて、二章十節〜十一節、

『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 救い主の誕生を告げ知らせたわけです。羊飼いたちは、当時のイスラエルにおいては、社会の片隅に追いやられ、不安がいっぱいな人たちでした。今でもイスラエルに行くと、その状況がよく分かります。羊飼いたちは、ユダヤ人ではありません。ユダヤ人たちは羊なんか飼っていないのです。飼っているのは、ユダヤ人たちから「異邦人」と呼ばれる、アラブ人たち、ベドウィンと呼ばれる遊牧民たちです。季節と共に砂漠を移動する人たちが羊を飼っているのです。
 国籍も持たない、定住地も持たない、明日はどこに行くのか分からないような人たち、夜も羽布団で寝るのではなく、固い岩の上に寝なければならない人たちの所に、喜びの知らせが最初に届いたのです。

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 「あなたがた」って誰ですか?羊飼いたちです。最初に、メッセージが届いたのは、王宮でもなく、金持ちの家でもありませんでした。今日、ベドウィンと呼ばれている、遊牧民の所に届いたのです。
 神様は、どういう人たちに目を向けておられるのかというと、行き先不安の、心配の中、苦しみの中に生きている方々の所に、喜びの知らせを届けてくださるのです。
 ベドウィンたちだけでなく、全世界に住む、恐れの中、束縛の中、不安の中で生きている人たちのために、イエス様は生まれてくださったのです。
 教会に、ハッピーな事があって来る人はほとんどいません。行き先が不安になって教会を訪れるわけです。しかしそこに、神の救いのメッセージが届けられるのです。

 最初にメッセージが届いたのは、今年は、西暦二〇一三年ですが、二〇一三年も前のことです。しかし西暦は、原点で四年の誤差があると言われますから、たぶん、二〇一七年前のことです。日本の時代区分で言ったら、「縄文時代」です。日本が始まった頃、なんと、イスラエルにおいて、救い主がお生まれになったのです。以来、二千年以上にわたって、全世界に救いの知らせが響いているのです。歴史と伝統があります。
 それでもなお、イエス様の誕生が、全世界で祝われていることは、ただ事じゃありません。嘘だったら、途中で消えてしまったはずです。二千年以上に渡って、ただ一人の人物の誕生日を盛大に祝っているのは、よほど人類にとって、喜ばしい知らせに違いありません。

 今日のメッセージの題は、『すばらしい知らせがあります!!』という題をつけさせていただきましたが、「すばらしい知らせがありますよ!」と、誰かから言われたら、心がわくわくします。
 近頃、あんまり良い知らせがありません。これから日本は、どこに行ってしまうのか不安です。
 先週も国会が、荒れに荒れました。なぜなら、特定秘密保護法案が通ってしまったからです。これから、すべてが秘密になるかもしれません。テレビでも繰り返し報道していますが、今後、若者たちが戦場に送られるような時代が来るかもしれません。日本がどうなってしまうのか、分からない。暗黒の幕開けのような、法案が通ってしまいました。
 私たちは真剣に、国の為に祈らなくちゃいけないと思います。この国の未来のために、祈らなければなりません。しかし唯一、希望があるとしたら、イエス・キリストです。

 イエス様の誕生は、すでに旧約聖書の中に預言されていました。
 聖書は、六十六冊の本が一冊にまとめられた本です。脈略があるのが当然のように考えるのですが、実は、六十六冊の本が、地域も、時代も、著者も違って、一冊にまとめられた本です。それでも一貫性があるということは、これは世界の七不思議のひとつです。どうして、こんな本ができたのでしょうか。

 イエス様がお生まれになる七百年前、預言者イザヤが現れて、イエス様の誕生について預言しました。BC七世紀のことですから、今から、二千七百年くらい前の事です。日本の時代区分なら、縄文時代を飛び越えて、石器時代です。そういう時代、既に、イエス様の誕生が、イザヤによって預言されていたのです。それが有名なイザヤ書六十一章にあります。

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 「わたし」とは、イエス様のことを表しています。イエス様は、地上に何のために来てくださったか?それは『貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。』と告げられています。
 先ほど、ルカの二章の紀元元年のクリスマスメッセージと、紀元前七世紀に、イザヤに神が語られたメッセージをつきあわせてみると、何の矛盾もないのです。まさしく、イエス様は心傷ついた、国籍を持たない、国々から追い出され、砂漠を旅していた人たちにメッセージを届けられたのです。
 『捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、』とあります。最も捕われていた人たちに来てくださり、福音を宣べられたのです。

 日本人って、本当に捕われているなと思います。この間、ちょっとした小話を読んだら、いつも私はメッセージのためにいろんなネタを探しているのですが、「刑務所と会社、どっちが幸せ?」というのがありました。それを見たら、刑務所の方が、会社よりも自由だなと思ったのですが。

刑務所:三度の食事が無料。
会社:一食だけで自費。
刑務所:まじめに働けば早く出られる。
会社:まじめに働けば仕事が増える。
刑務所:専用トイレ。
会社:共用トイレ。
刑務所:経費は税金で支払われる。
会社:給料から税金が引かれる。
刑務所:見張りがいる。
会社:見張りがいる。

 いや〜、我々、自由だと思いますが、刑務所よりもひどい社会に住んでいるのかもしれないです。人類は自由を求めましたが、実は自由じゃないのです。
 この頃、大きな社会問題があります。それは何かというと、子どもたちの間にあります。私たちは現代の子どもたちを、守らなければなりません。子どもたちを自由にするために与えているアイテムが、実は、子どもたちを縛っているのです。それは何かというと「ゲーム」です。
 ゲームって、日常から解放され、すごく楽しく感じるかもしれません。しかし、のめり込むと、そこから出ることができなくなるのです。

 「子どものゲーム依存度」と言うのがある本に出ていました。
初めは、〇〇段階から始まります。

〇〇段階:ゲームに興味を持たない。
〇段階:ゲームを欲しがるが、持ってはいない。
第一段階:時々プレーする。
第二段階:週に一、二回。
三段階:毎日一時間。
四段階:毎日二時間。
五段階:毎日三、四時間。
六段階:ゲームをしないと、落ち着かない。不登校。引きこもりになる。

 五段階、六段階になったら、治療しないと、ほとんど自分では抜け出せないと言われています。
 どうでしょうか。ゲームって、楽しいと思ってやるじゃないですか。しかしだんだんと、牢屋の中に入って行くようなものです。抜け出すことができなくなります。
 このリストの中で何段階に入っていますか?四段階くらいになったら、三分経ったウルトラマン状態です。ランプが点滅しています。そして、倒れるのです。
 子どもたちは、ゲームが楽しいと思ってやっていますが、ちょっとずつ、ちょっとずつ、悪魔に餌をまかれ、捕虜となってしまうのです。一度捕まえられたら、最も体力がある十代の若者でさえ、抜け出すことができないのです。一番自由に体が動く年代でも、一度捕まったら離れることはできません。
 子どもたちに、むやみにゲームを渡さないようにしなければなりません。私の孫たちにも、泣いたりするとつい、スマホを渡してしまいます。渡すと、二歳の孫が、すごい集中力でユーチューブを見ています。「俺が高校受験や大学受験の時に、このくらいの集中力があったら、どこの学校にでも入れたな…」と思うくらいの集中力です。このまま歳を重ねていったら、どういうことになりますか。みんなメディアの奴隷です。

 しかし、メリークリスマス!イエス様は、そのような奴隷を解放するために、来てくださったのです。「捕われ人には解放を、囚人を釈放するため」に、縛られ、苦しめられている人たちを解放するために来られたのです。ゲームで縛られ、どうにもならない子どもたちを解放する為にも、イエス様はこの地上に来てくださったのです。良い知らせではないでしょうか!
 どこに行っても解放できない事柄を、解放してくださるのは、イエス様だけです!

 イエス様は神ですから、天にいて、私たち人類を操作することも簡単にできたはずです。なぜなら、私たちを創られた方ですから。地上にまで来なくたって、天にあるコンピューターの前に座って、遺伝子か何かをちょっと操作したら、私たちは変わったと思います。しかしなんと、神が、自分のポジションを捨て、地上に来てくださったところに、クリスマスのすばらしさがあるのです。
 ヘブル人への手紙二章十四節〜十五節、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 私たち人類は、神の創造の産物ですが、血と肉を持って創られました。私たち人間は、肉体の中に血液を流し、その中に命の息を吹き込まれて生き物となりました。このような肉体を持った生物として、人は地上に創造されました。
 神は、高次元に生きる生物をも創られたのです。身体なんかなくたって、存在できる生物も事実、創られたのです。しかし人間とは、肉と血があるのです。不自由な身体の中に、一定期間、閉じ込められている生物です。
 その為、身体を持たないで生きている、高次元に住むような生物、すなわち、天使たちや、悪魔・悪霊どもとは違った特殊な存在です。彼らは別に肉体がなくたって生きています。
 人間って、はっきり言って、結構面倒くさい存在です。一日に三回、食事をしなければいけません。朝起きたら飯を食べないと、お腹が空いて仕事ができないのです。お昼なんて、朝食から考えたら、ほんの四時間、五時間後です。それでまた食料を補給しないと、生きることができないのです。車だって、一週間に一回ガソリンを入れたら持ちます。しかし、人間はややこしいです。数時間経ったら、すぐにお腹が空くのです。
 近頃、「五分経ったらお腹が空く」という人の話を聞きましたが、それは多分、ボケだと思います。朝食べた五分後に「俺まだ、朝飯食べてない…」

 神様はすばらしいですよね。数時間で補給しなければならない、不自由な生物として造られた人間ですが、そんな中、一番の楽しみは何でしょうか?やはり「食べること」ですよね。食べることが一番の楽しみです。最も不自由な中に、神は「自由と喜び」を与えて下さいました。日曜日の教会カレーをこころ待ちにしておられる方が、数名はいると思いますが、一番不自由だと思われるところに、自由を与えて下さるのは神のみわざです。神の業は、最も不自由なところから、最高の自由が出てくるのです。しかし悪魔の働きはその逆で、自由に見せかけ、実は、不自由にします。

 神様は、人間をただ創っただけでなく、人間の世界に来られて、人間目線で人の苦しみ、悲しみ、不自由さを体験して下さったのです。すごいことじゃないですか。ですから、メンテナンスもばっちりです。現場に出てメンテナンスするのと、遠くから遠隔操作でメンテナンスするのでは、全然違います。現場目線で、私たちの所に降りて来て、「人間って、こんなにお腹が空くものか…。人を地上に造ったけれど、体験してみると、結構大変なもんだなぁ…。家庭の中にも、いろいろと問題が起きるもんだな。仕事もしなきゃいけないのか…」と、実体験して下さったのがイエス様です。

 人って悲しいことに、一日の中で、最高の時間を労働に奪われています。朝の八時くらいから五時ごろまで、一番、明るく、暖かく、過ごしやすい時間は労働に奪われています。会社とか仕事にとられています。どうでもいいような、夜とか、朝早くしか、自由時間はないのです。本当に不自由です。
 現代人は、最低でも八時間は仕事をしないといけません。残業なんかあったら、十二時間以上、働いておられる方もいます。
 実は、縄文時代って、今から二千年くらい前ですが、ある本を読んだら、彼らが働いていたのは四時間ほどだったそうです。彼らは狩猟民族でした。「あそこに魚がいるぞ!あそこに動物がいるぞ!捕れ!」とか言って四時間ほど仕事をして、あとは、歌を歌ったり、踊ったり、飲んだり食べたりして遊んでいたというのです。
 現代はどうでしょうか。人類は発達してきたというけれど、全然発展してないです。進化なんかしていないのです。労働時間は倍になったわけですから。どんどん不自由度が増しています。

 二千年前、日本は縄文時代でしたが、同じ頃、イスラエルはローマ帝国が支配していました。日本では、狩猟民族が原始的な生活していましたが、同時代、ローマ帝国では、現代社会の基礎となった都市型社会が、すでに発展していました。現代と同じような社会が、ローマ帝国を中心とする中に、すでに出来上がっていました。
 ということは、イエス様は、今の私たちと同じような、都市型社会を体験されたのです。ですから、イエス様は現代人の苦しみ、悲しみを、現場で体験してくださった方です。ゆえに、同情心とか、哀れみの心は、格別大きいのです。

 どういう家に生まれたのか言えば、大工のせがれでした。誰も知らない、ヨセフとマリアの家庭にお生まれになったわけです。神様だから、どこに生まれたって良かったわけです。天から地球を見て、「どこに生まれようかなぁ。そうだな。王様の家の皇太子になろうか…」ということも出来たはずです。
 しかし、そうではなかったのです。馬小屋に生まれ、当時、一番大変な社会にわざわざ生まれたのです。人間の生活のすべてを体験してくださったのです。

 私たちも、体験すると、今までになかった同情心とか、思いやり、哀れみの心が生まれてきます。みなさんもそうだと思います。
 私には、現在、四人の孫がいます。三人が女の子で、一人が男の子です。十二月で一番下の男の子も二歳になるのですが、名前を「選生(えりぃ)」と言います。「主によって選ばれ生きる」という、たいそうな名前を娘夫妻が付けたのですが、生まれてまもなく、顔にいつも湿疹ができていました。赤ちゃんにはそういうことがありますから、そんなもんかと思っていましたが、ちょっとおかしいと思いました。
 六ヶ月くらい経ったある日、病院に連れて行って、血液検査をしたら、「この子には、食物アレルギーがあります」と言われたのです。調べてみたら、小麦、卵、牛乳、乳製品、大豆など、全て駄目だったのです。それも、お母さんのおっぱいの中に、それらの成分が入っているだけで、湿疹が出るわけです。
 どうでしょうか。小麦、卵、乳製品などを抜いて食事をしようとすると、ほとんど食べるものがありません。私も、食物アレルギーについては聞いてはいましたが、私の時代なんて、道ばたに落ちている物も拾って食べた時代ですから、選んで食べなければいけないなんて、考えられないことでした。
 しかし孫にそんなことが起こって、はっきり言ってショックでした。それらをちょっと食べても、一瞬にして湿疹が体中に出るのです。
 「選生」なんていう名前をつけたから、食物を選ばないと生きることができない子になっちゃったじゃないかと…。

 しかし、これはとりなして祈らなければいけないと思いました。真剣に彼の為に祈りました。
 でも、ちょっぴり食べても湿疹が出るわけです。二歳近くになると、食べ物を私の所に持ってきて、「じいじ、かいー?かいー?」なんて聞くわけです。「これを食べたらかゆくなるか?」と聞くのです。私も何を食べさせていいのか分かりません。そんな時、すぐに、姉ちゃんの架語(かたる)が走ってきて「ちょっと私に、そのお菓子を見せて」とか言って、お菓子の袋の裏面を見て、読めてもいないのに、「うん!これは大丈夫!イー君、お食べ!」とか言って世話をしています。「ほんとかよ、おまえ…」という感じですが。お菓子を一個食べるのにも、ピリピリです。小麦が入っていたり、卵が入っていたりしたら、湿疹が出ます。そうしたら、すぐに病院に連れて行かなければいけないのです。これが一生続くのかと思うと、本当に落ち込みます。

 しかし、この事を通して、娘が「アレルギーの子どもを持つ母の会」に入会したのです。入会して分かった事は、テレビや報道で、アレルギーの子どもたちのことを、よく見聞きしますけれども、身近にも、そのような子どもたちがあふれているという、現実でした。それを知ってショックでした。
 お姉ちゃんが通っている子ども園にも、何人かアレルギーの子どもたちがいて、みんなと給食も食べられないというのです。お母さんが特別食を持って来るそうです。夏なんか腐ってはいけないので、冷蔵庫に保存して、冷たいものを食べるそうです。電子レンジは入れたものの成分が飛び散るそうです。卵なんかチンすると、アレルギー物質が拡散してしまうので使うことができません。その子専用ならばいいけれど、他の人が一緒に使うと、それだけでアレルギー物質が移ってしまい、反応を起こすというのです。
 また、日光に当たるだけでもアレルギー反応を起こすとか、米も食べられない子もいるそうです。米も、北海道の方で作っている超まずい一つの銘柄しか食べられない子もいるそうです。本当に、とりなしてて祈ってあげなくちゃいけないと思いました。

 やはり、そういうことを体験すると、その領域に目が向き、哀れみの心が湧いて来ます。孫もひどいと思ったけれど、世間には、それ以上の子どもたちが多くいるという現実に目を向けるようになりました。それで、そういう子どもたちも含めて、孫の為に、真剣に祈るようになりました。

 皆様方も、教会に来るきっかけとなったのは、あまり嬉しくないことがあって、来られたかもしれません。「本当につらかった。思い出すだけで涙が出る…」と。
 先週も、あるご家庭で家庭集会がありました。二つのご家族が集まってくださったのですが、一人の奥さんが涙を流していました。「もう、あの時のことを考えると、今でも涙が出る」と言うのです。いつのことかと聞くと、三十年も前のことだというのです。
 なぜ、二つの家族が集まったのかといいますと、三十年前に、その奥さんが教会に来て、その事をきっかけに、家族が皆、クリスチャンになったからです。そして今回、家庭集会があった家にも、同じような問題があるのです。どういう問題かというと、子どもの問題でした。子どもの問題といっても、かなり大変な問題があったのです。
 それで、やはりこの二つの家族はお互いに同情心があるのです。
 それぞれ、いろいろな体験の中で、あまり嬉しくないようなことで教会に来るのですが、そこから祝福が溢れてくるのです。イエス様も一番大変な領域に生まれ、同情心や、哀れみの心を、神自らが体験してくださったのです。その上で、私たちを助けてくださるのです。
 イエス様は決して、上から目線で助ける方ではなく、同じ目線で私たちに救いを与えてくださるのです。しかし、彼は、神ご自身ですから、私たちを助けることができ、捕われ人を解放することができるのです。

 今夜、ゴスペル・ワイヤーのコンサートがありますけれど、一人でも多くの方々をお招きしたいと思います。人間って、誰でも、いろんな問題を持っています。助けを模索しています。しかし、なかなかうまくいきません。でも、人類のすべてを体験してくださり、助けの手を伸ばして下さるイエス様と出会うならば、すばらしい喜びの知らせが届くのです。

 先週、孫たち家族と一緒に食事に行きました。孫たちと食事に行くと、いろいろ面倒くさいのですが、最終的に、とんかつの店に行きました。安い店だったので、うれしかったです。私が支払うので。選生も一緒に行きました。
 とんかつは、我々にはおいしいのですが、アレルギーを持つ子どもには最悪の食べ物です。あれは肉の周りに卵をつけ、小麦粉をつけて、パン粉をつけて油で揚げるからです。
 でも先週、選生が、とんかつを食べていたのです。彼は人生で初めてとんかつを食べたみたいです。本当に幸せそうな顔をしていました。「うめぇ!こんなうめぇ物がこの世にあるのか!」という表情をして、のけぞっていました。私は「危ない!」と思いました。
 しかし、湿疹は出ませんでした。彼はこの頃、アレルギーが良くなってきました。小麦もクリアしてきたし、牛乳はまだちょっと出るようですが、卵も少しずつ食べられるようになって、だんだんクリアーし、今回ついに、とんかつデビューを果たしたわけです。嬉しかったです。じいじとしては。「良かったな!おまえ!」と涙が出そうでした。彼は本当に幸せそうな顔をしていました。本当にイエス様が助けてくださったと、感謝しました。
 これからどうなるのか…、お先真っ暗、というような中でも、勝利を与えてくださるのです。『捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ』と、イエス様は言われました。

 人類は、魚に例えたら、鮭みたいな存在かもしれません。卵の時も狙われ、稚魚になって、海まで下り、何千キロも旅をして生まれた川に戻ってきます。そこまでも常に敵がいます。川に戻れば急流で、力を振り絞ってさかのぼっていくのです。でも、最後の最後まで、敵が待っています。こんなアラスカの映像がありました。


 これは缶詰屋の宣伝みたいですが、イエス様は私たちが食われる寸前、敵から助けてくださる方です。食われそうな方がおられても、心配しないでください。イエス様が、命がけで滝つぼに飛び込んで、あなたを助けてくだいます。だから、メリークリスマス!
 最後にみなさんと共にお祈りをし、今日の礼拝を終わりたいと思います。一言お祈りをさせていただきます。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。あなたはすばらしい神様です。私たちを命がけで助けるために、この地上に来てくださいました。ありがとうございます。私たちに良い知らせが届いていることを心から感謝します。
 人生の中に、様々な出来事がありますけれど、その事さえ使い、同情心を養い、哀れみの心を与えて、成長させてくださることを心から感謝をいたします。
 私たちはあなたの御前にいます。あなたの助けを必要としています。今日、ここに、地上を体験されたイエス様がおられることを心から感謝いたします。この時を心から感謝して、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。