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『天には平和。
栄光は、いと高き所にあるように。』

2013.12.15 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
ルカの福音書 19章37節~38節

『イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」』

 ハレルヤ!おはようございます。聖歌隊の賛美、すばらしかったですね。息が止まりそうでしたけれど、いつも私たちにすばらしい賛美を聴かせてくださっている聖歌隊に、大きな拍手で感謝しましょう。ありがとうございます!

 クリスマスは世界中で祝われています。イエス様ほど、多くの人から誕生日を祝ってもらっている人はいないと思います。すばらしいですね。
また、イエス様についての歌は数限りないです。世界の国々の言葉で賛美されています。
 今日も、私たちは日本語で賛美しました。先ほど聖歌隊は初めは、何語かなと思いましたが、英語の賛美ですか。そして、今日はなんと、タイ語の賛美もしました。タイ語ともなると、ちょっとついて行けません。どうやって歌っていいのかなと思いましたけれど、なぜ、いろんな国の言葉で賛美するのかといったら、イエス様は、全世界の救いのために生まれてくださったからです。日本人だけではないのです。世界の人たちのために来てくださったのです。

 先ほども、タイ語で賛美をしましたが、先週は、滝元開先生夫妻がタイで奉仕をしました。来年の二月二十、二十一、二十二日と、タイでリバイバルミッションが開かれます。チェンマイという街で開かれるのですが、かつて、日本は、アジアの諸国に出て行って、福音を伝えるどころか、偶像礼拝を伝えたわけです。アジアの諸国に神社を造り、人々を苦しめ悪い力で支配をしました。
 このままではいけません。良い知らせをもって、世界に出て行く、特に、アジアに出て行くことが、重要ではないかと思います。
 今日は、私のメッセージの前に、開先生から少しタイでの働きの報告を聞きたいと思います。クリスマス、「全世界」に目を向けていくと祝福があるのです。では、少し報告を聞きたいと思います。よろしくお願いいたします。

<開先生>
 ハレルヤ!主の御名を賛美します。お祈りいただきまして、タイ、チェンマイにお伺いすることが許され、本当に感謝します。今回は、短い滞在でしたが、タイにおける来年の二月の働きに備えて少しでも賛美で仕えさせていただければと思い行きました。金土日という滞在の中で、四つの集会をさせていただき、どれも全て祝福されました。
 少し映像がありますが、この緑の部分がタイで、下の方にバンコクがありますが、上の方にチェンマイとあります。あの場所でリバイバルミッションが行われます。

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 三日間、行われますが、一日目は、チェンマイで行われます。タイ第二の都市と言われますけれど、三十数万人の人口を抱えている、かつてタイ王朝の土台が築かれた霊的にとても意味合いのある場所だと思います。
 そして二日目が、そのちょっと下にあるのですが、「ホット」という、約百キロくらい南下した所にある街で、リバイバルミッションが開かれます。
 そして三日目が、「メイトム」という場所で、さらに七十キロくらい山奥に入った場所です。今回、その三カ所にお伺いさせていただきました。集会をしたのは、チェンマイとホットでしたが、メイトムにも行くことが許されました。
 一月には順先生が行き決起大会をされるので、そのための備えもすることができたのではないかと思い感謝でした。

 写真でご報告させていただきたいと思います。

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 チェンマイ市内の写真です。見て分かるようなに、トゥクトゥクという、ちっちゃな車がタクシーのように走っています。そして後ろの赤い車が、「ソンテウ」という乗り合いタクシー、荷台に乗るタクシーです。

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 これが、チェンマイの街の真ん中に流れているピン川ですが、チェンマイの北からバンコクまで続いている大きな川です。

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 そしてその夜、一つの教会で奉仕をさせていただきましたが、チェンマイシティーチャーチという教会で、大きな教会ではないのですが、ここの牧師先生がこの方です。

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 黄色い服を着ておられる方が、ギアット先生という、今回のリバイバルミッションのために協力してくださって、いろいろと呼びかけてくださっている中心的な先生のお一人です。奥様と息子さんです。ここでの賛美はとても祝福されました。最後にダンシングを歌いましたが、ギアット先生ご夫妻が率先して踊り出してくれたので、とても励まされました。

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 そして、次の日、こういった車で、ホットに行きました。約百キロですが、朝五時半、とっても寒い中、風がびゅーびゅー吹く中、タオルでマスクして、ふきっさらしの中を行きました。しかも、ああいった状況で三時間だったので、かなりハードでした。たまたま来てくださった宣教師の先生の車だったのですが、タイの方々は私たちを横目にすいすいと綺麗な車で走り抜けて行きました。みなさんが行く時は良いバスで、すっと行くことができると思うので、こういった過酷なことはありません。私たちが経験しましたので、みなさんはスムーズに行けると思います。

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 そして、たどり着いた教会がホットの教会です。ここで二日目の大会が行われます。小さな町ですが、少し外れた広大な敷地の中にある教会でした。

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 ここが教会です。横に壁がないのです。それで私たちを待っていてくださったのですが、中に入ったら、

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なんと、三百人の子どもたちが待っていて、ざわめき賛美を一緒にすることができ祝福の時でした。「賛美の中に力がある。そして、イエス様の名前に力があるから、みんなでイエス様の名前を呼びましょう」と叫びました。「イエス様」というのは、「プライェス」と言うのですが、「プライェスとみんなで言おう!『プライェス!!』」と大声でみんなで叫んで、天井が破れそうな感じでした。なんとこの中の半分はクリスチャンんではない、仏教徒の子たちでした。毎週土曜日にここで勉強するのですが、子どもたちが勉強するために来てくれて、そういった中で奉仕をさせていただき、本当に祝福でした。

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 今回は二人だけで奉仕させていただきました。

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 これは、最後にダンシングを歌っているところです。恥ずかしそうに、にこにこしながら、みんな踊ってくれました。こういった広い敷地の中に、小さな家が点在していて、その中でみんな勉強するのです。

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 こういった所で勉強をして、昼食が出るということで、周りから来るのです。みんな、本当にかわいい子たちばかりでした。

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 この子たちも周りから来た子です。八十人くらいは、寮生活をしながら、そこで生活していました。
 ここで奉仕が終わって、メイトムという本大会の三日目の会場に行こうということで、そこから山道をずっと上がって、かなりのカーブでした。でも道はとても良かったです。メイトムという部落に入り出すと、三キロくらい、でこぼこ道になり、入って行くと、こういった高床式の家がずっとあります。

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 こういった中で現実に生活をされていました。
 全くタイムスリップした感じで、犬たちがうろうろしながら、子どもたちも裸足で走り回っています。でも、私はそういった子どもたちに、親しみを感じました。昔の自分と重なるところがあって、本当に楽しかったです。

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 これは教会に向かう道ですが、ここをずっと上がって行くと、大きな教会が建っていました。小さな部落の中に、こんな大きな教会で、礼拝は五百人ほど来られているそうです。一番多く入った時に、千六百人来たと言っていましたが、これが教会の中です。

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 まるでモスクの中のようですが、会堂の中で、椅子がないので、きっと下に座ることになると思うのですが、ここでは私たちは集会はしなかったのですが、ちょうど副牧師の先生がいらっしゃって、とても良い交わりをすることができました。副牧師の先生に「あなたと初めて会った気がしない」と言われ、私はどこに行っても日本人だと思われないらしくて、「どこかで会っただろ」と何度も聞かれましたが、「会っていない」と答えました。「今度私の兄が来ますのでよろしくお願いします」と言ったら、すごく期待しておられました。

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 これは、教会の窓から外を見た風景で、こういった状況です。農村地帯に多くのクリスチャンたちがいるというのは、リバイバルの御業だなと思いました。

 ただ、かたや、高床式の住居の横に、ぴかぴかの車があるのです。4WDのトヨタのぴかぴかの車があって、洗ったりしてるのです。このギャップはなんだろうと聞いたら、大変な現状を耳にしました。
「どうやってこれを買っているのか」と聞いたら、「子どもを売って買っているんだ」と言いました。この地域は、人身売買が横行するような地域でもあります。そんな中で、子どもたちはセルフイメージがすごく低いそうです。「私は車か、家財道具か、電化製品なのか」というような、セルフイメージです。そこでイエス様の福音を伝えなければいけないという現状を耳にしました。

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 会堂で、先生と一緒に、賛美して、お祈りしました。短い時でしたが、本当に聖霊様の臨在を感じる恵みの時でした。

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 そして、最後の日曜日に、礼拝と、午後の集会をしたのですが、ここは、ランナーチャーチという、三百人近くの人たちが集まっている教会で、賛美の奉仕をさせていただきました。
そもそもタイ語は難しいので、私たちのタイ語の賛美が果たして通じているのか不安だったのですが、お世辞かもしれませんが、「全く問題ない」と言われました。みなさんも今日覚えていただいた「プラーシィリ」と歌ってくだされば、全く問題ないはずです。是非覚えていただければと思います。喜んで「二月のミッションに行きます」と、牧師先生がおっしゃってくださっていました。

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 そして、最後の集会を、小長光先生が牧会されている教会で行いました。彼女はリバイバル聖書神学校の卒業生で、チェンマイで家の教会をされているんですけれども、この教会の集会、普段は家の中で礼拝をされているそうですが、とても家の中では入りきれないので、外でしました。
 この写真には見えないのですが、隣には、大きな寺があるのです。会衆の後ろ側は寺で、私たち側からは、寺と仏像が並んでいるのを見ながら歌うという、まさしくヨシャパテの賛美のような時でしたが、とても祝福されました。
 クリスチャンではない方も来て下さいました。一人はミャンマー人で、「俺はまだイエス様を信じていない」と言う、すごく不思議なおじさんでした。「イエス様はあなたのことを愛している」と言うのですが、にこりともしない彼でした。
しかし集会が終わったら、本当に心を開いて「すごく良かった」と言ってくれました。
松葉杖で来ていたので、どうしたのかと聞いたら、足を見せてくれました。片方の足がないのです。ミャンマーから来たのですが、地雷で足をなくし、四十歳くらいの方でしたが、「十三歳くらいの時から松葉杖生活をしている」と言いました。彼がイエス様の愛に触れられている姿も見ることができて、心から感謝しました。
 ということで、皆様のお祈りに支えられ、タイにおける賛美の時、本当に祝福されたことを感謝します。是非、二月、お時間作って行って下さい。主がタイにおいてなされている御業も見させていただけますし、またみなさんの歌声、祈りがタイに必要だと思います。是非ご参加いただければと思います。お祈りありがとうございました。以上です。

<メッセージ>
 ありがとうございました。みなさん、是非タイのために祈ってください。チェンマイ・リバイバルミッションのツアーの申し込み書ができていますから、是非、持って行っていただきたいと思います。ちゃんとしたツアーですので、心配しないでください。良いバスで移動し、良いホテルで過ごしていただけます。

 古来、日本人は、どこから来たのかというと、日本人の大半、七十パーセント以上は、中国、朝鮮半島を経て日本に来ました。その根源はどこかというと、タイにアカ族という人たちが住んでいるのですが、そこがルーツじゃないかと言われます。その人たちは、日本人と同じような顔をして、日本文化の源流があるというのです。
 ですから、タイで集会をすることは、結構大きな霊的意味があると思います。是非ともみなさん、ふるって参加していただきたいと思います。

 先週の日曜日は、ヘブンリーキングダムのコンサートがありました。本当に素晴らしかったです。少し写真をお見せしたいと思います。

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 ここに大変すばらしい歌声が響きました。大勢の方が来られ、会堂いっぱいでした。また、内容的にもすごく良かったです。

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 クリスマスの集会が続いていきますけれども、この機会に、全世界の人々のために生まれてくださったイエス様を伝えていきたいですね。

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 タイでも三百人の子どもたちが集まったそうですが、日本でも昨日は三百人以上の子どもたちが集まりました。本当ににぎやかでした。
 また、先週は、韓国から十六名の方々が来てくださいました。それも豊かに祝福されました。
 いろいろインターナショナルな働きですが、これはすべてイエス様が全世界の人たちの救いのために来てくださった事を表しているわけです。

 さて、今日、みなさんと一緒に学んでいきたい箇所は、先ほど読んでいただきましたルカの福音書十九章です。これは、イエス様が王としてエルサレムに入場する場面をレポートしたところなのですが、弟子たちが聖霊によって、突然、賛美を歌い始めました。
 それは、自分たちの見た、すべての力あるイエス様の業を心から賛美して、大声で賛美したというのです。どんな賛美だったのかというと、十九章三十八節、

『「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」』

 弟子たちはこんな賛美を突然、大声で歌ったのです。これは、イエス様がエルサレムに王として入場される、預言的な賛美でした。やがてイエス様が再び帰って来られる時、王として世界を治められるという、預言的な歌でもありました。

先週は、ルカの二章の、イエス様がお生まれになった場面から学びましたが、ルカ二章十一節から見ますと、イエス様がお生まれになる知らせが、羊飼いたちに届いたのですが、こんな風に語られました。ルカの福音書二章十一節~十四節、

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」』

 イエス様の生涯を、始めから終わりまでを見てみると、一つのテーマがあります。それは、「天と地に平和があるように」という「平和」という二文字がテーマとなっています。
そして、そこには賛美の歌声が響いています。
 クリスマスに多くの賛美が歌われるのは、イエス様の生涯のテーマが関係しています。この頃「様々な領域に入って行って賛美しましょう」と勧めていますが、賛美とは、大変重要な、イエス様の人生のテーマでした。

 賛美には「神の栄光のために」という大いなる目的があります。イエス様の一生は、神の栄光のために生きた人生でした。もちろん、イエス様は、神ご自身でしたが、人として来てくださいました。そして、私たちが、どのように生きたらいいのかの見本となってくださいました。

 私たちは、どのような生き方をしたらいいのか。基本的には神の栄光のために生きるのです。私たちの人生、いろんな目的があるかもしれないけど、究極的には、神の栄光のためにあるのです。

 そして「平和」がイエス様のキーワードであったように、私たちも「平和」というテーマを持って、生きる必要があるのです。
マタイの福音書五章九節に、こんな言葉があります。

『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。』

『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから』と。
 イエス・キリストを信じると、神の子どもとなれるのです。神の子どもとは、どういうポジションなのか。それは、平和をつくり出す者です。
 イエス様の生涯も、平和をつくり出す働きをされたのです。神の子どもたちも、平和をつくり出さなければならないのです。

 平和とは、自然に生まれるものではなく、つくり出さなければならないものです。それを、ここから学ぶことができるわけです。

 私たちは「平和」という言葉をよく使います。この頃日本は「平和ぼけをしている」と言われたりします。しかし、「平和」「平和」とよく言うわけですが、「平和ってどういう意味なのだろうか?」と考えたことがありますか?
平和を英語でなんと言うのでしょうか?「ピース」ですよね。日本人は写真を撮る時に、いつもこういうポーズをします。なんで「ピース」が「V」なのか、「チョキ」なのか。三河弁でいうと「ピー」というのですが、ピースがなぜ、Vなのかなと思います。
 「平和」という言葉を、私たちは口癖のように使っていますが、あまり意味を理解していないと思うのです。
ピースは英語ですが、これは元々、ラテン語の「パックス」という言葉から生まれた言葉です。平和という言葉の意味を定義すると、

「英語のピースは、ラテン語のパックスが語源で、戦争と戦争の間。停戦の期間。武力による平和。次の戦争のための準備期間」

という意味です。私たちは、「平和」と言いますが、平和の意味は、「次の戦争のための準備期間」なのです。どおりで平和を「V」とやるはずです。「戦争に勝ったぞ。人々をやっつけたぞ。ビクトリーV」それが平和なのです。

 平和とは、何も悪い事が起こらなくて、心安らかな期間だと捉えがちなのですが、平和は、そういうものではないのです。戦争と戦争の間、停戦期間だというのです。次の戦争のための、準備期間なのです。
そんなことを考えたらどうでしょうか。真の平和なんて、ありえないのではないかと思います。

日本で、一番長く平和が続いたのは、いつでしょうか。戦後七十年くらい経ちました。こんなに平和な時代が続いているのも久しぶりだと言われます。明治、大正、昭和と、日本は戦争に明け暮れたわけです。そういう中で生まれた方々もいて、本当にご苦労されましたよね。
 今の時代は戦争がなくて、良い時代だというのですが、これも次の戦争の為の準備期間なのです。
日本において、一番長く平和な時代が続いたのは、江戸時代です。実に、二百数十年、戦いもなく、平和な時間が続いたのです。
 しかし、その平和は、どういうものかといったら、力による平和でした。徳川家が民衆を力で押さえ込んだのです。
 日本人って、前回のメッセージでも話しましたが、あまり明るさがないですよね。先週も、韓国から十六人の方々が来られましたが、来日してから帰国まで、わっはっは、わっはっはと笑っていて、夜中まで明るく騒いでいるのです。「元気だね…」と日本人は冷めていました。ちびちゃんから、おじちゃんから、おばちゃんまで、みんな明るいのです。
 しかし玄界灘を越えただけで、元気がないです。誰のせいかといったら、徳川家康のせいです。五人組を作って、知らない人たちと五人のグループを作って、お互いに監視させたからです。二百数十年の間、ちょっとでも悪い事をしたら、すぐに報告するぞ!死刑にするぞ!と、特にキリシタンになることを禁止するために、五人組が使われたのです。

 二百数十年平和だったと言いましたが、それは真の平和ではありません。
真の平和とは、悪い力によって治められるのではなく、良い力で治められることを意味します。これは天地宇宙を造られた神の力によって支配される中で、真の平和が訪れるということです。

 今回も、韓国からグループが来てくださり、金曜日には、「クリスマス・コリアンナイト」を開催しました。私は金曜日だからあまり人は来ないかなと思っていましたら、結構大勢、来られました。新城教会は、食事付きの集会だとうまく行くみたいです。焼き肉も足らず、急遽買いに行ったほどでした。
 そこで張先生がメッセージを語ってくださったのですが、「この世の中に『力』とは二種類ある」と話していました。なるほどと思いました。
 「この世界には『力』と呼ばれるものが存在するけれど、それは二種類しかない。選択は二つに一つだ」と言うのです。それは「一つは良い力。もう一つは悪い力だ」というのです。そして、「良い力によって支配されたら、良いことが起こるけれど、悪い力に支配されると、ある時は良さそうだけど、最終的には、悪い結果が生まれる」と話しました。

 私たちは、常に、良い力、天地宇宙を造られた良い神様、ひとり子イエス様をこの地上に送ってくださった方の力に頼らなければならない」という話でした。

 日本は、歴史を見ると、どういう力を利用してきたのかといったら、良い力ではなくて、悪い力ばかりを利用してきたのです。ですから、どうでしょうか。結果は、悪い結果ばかりでした。
 でも、イエス様を信じたら、今までの人生が悪い力を利用していたのが、今度は、良い意図を持った神様の力と共に生きるようになるのです。

 イエス様がこの地上に来られたテーマが、平和だというのは、何でしょうか。どういう力で、平和が成し遂げられるのかというと、「人類を、良い意図を持って創造してくださった神の力で支配される」事を意味します。そこに真の平和があるのです。

 イエス様が、王として、エルサレムに入場される時「天には平和」と、弟子たちは賛美しました。
しかし、イエス様がお生まれの時、天の軍勢の賛美は「地の上に平和」と賛美しました。天に平和、そして地に平和。

 これらは何を意味するのでしょうか?天というのは、神が支配している神の国は、常に完全な平和が保たれている場所です。神の権威によって治められている所ですから、そこは誰も手出しすることが出来ません。完璧な平和があるはずです。
 しかし、天とは、神の天だけでなくて、悪魔が支配している天、領域があるのです。そこは悪い意図と力が満ちています。もし人がその天に力を求めて手出しすると、悪魔・悪霊どもは、人に、悪い力を貸し出すのです。そうすると、初めは、うまく行くかもしれないけれど、必ず問題が起こるのです。
 しかし、「天に平和」とは何かというと、イエス様がこの地上に来てくださって、力ある業を行ったのです。弟子たちはそれを見て「天には平和!」と賛美をしたのです。

それはどういう意味かというと、イエス様が地上に来て、悪い天の力を打ち破ってくださったのです。今まで、悪魔、悪霊どもが支配していたのが、打ち破られ、なんと平和が訪れたのです。
神の国の平和が、地上に降りてくるために、イエス様はこの地に来て、力ある業を行われたのです。ゆえに「天と地に平和」なのです。

 私たちがやらなければならないことは何か。先ほども読みましたように、マタイの福音書五章九節、『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから』と、イエス様が語られたように、「平和をつくり出さなければいけない」のです。
 それは神から委ねられた権威を持って、暗闇の支配を打ち破る働きです。神の平和の訪れの為に働くのです。

 近頃私は、新城市のために祈る、大変すばらしい場所を発見しました。また一緒に祈りに行けたらいいなと思うのですが、新城教会の目の前に雁峰山があるのですが、そこに登ると、新城市一円が見えるのです。

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 これは新城教会付近です。私はここによく登り、先週も二回くらい行きましたが、ここから新城、豊川、豊橋、全体が祝福されるように真剣に祈っています。

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天に平和があるように、地にも平和があるようにと、暗闇の支配が、覆いが取られるように、ここで祈っています。

今日は午後から、大変すばらしいプログラムがあります。教会の屋上から、「天に平和。地に平和」というテーマで賛美し、祈るプログラムです。その後は、焼き芋も出るそうです。是非ともみなさんで、祈っていただきたいと思います。

 「平和」とは、天を支配する悪魔・悪霊どもが打ち破るただ中に訪れるのです。平和とは、「つくり出すもの」であることを、知らなければなりません。

 先週、山の上で祈っている時、一つの言葉が与えられました。主が、私に語ってくれました。イザヤ書二十七章です。これは二年くらい前に、みなさんと一緒に学んだことがあるのですが、イザヤ書二十七章一節~六節の言葉をもう一度、語って下さいました。

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。』

 この言葉を、心の中に語ってくださいました。二節の所に『その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。』と書かれています。ここにも歌があります。この歌を誰が歌ったのか。
『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。』
 「わたし、主は」とありますから、神ご自身が歌ってくださっているのです。『麗しいぶどう畑』とは、神の民を表しています。私たちは神様の目から見たら、麗しいぶどう畑のように見えるのです。なんと私たちのために、神様が歌ってくださっているのです。どんな歌を今日、歌ってくださっているのでしょうか。

 『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。』

神様が、今日、私たちを見守ってくださっている。夜も昼も、誰もそこなわれないように、見守ってくださっているんですよと、主ご自身が歌ってくださっているというのです。
 今日、私たちは、主によって見守られ、支えられている者です。しかしここに『その日』と書かれているのですが、その日とは、どういう日なのか、一節に、

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

 主ご自身が、暗闇の力を打ち破ってくださる、「その日」に、守りは完璧なものになると教えているわけです。この祝福を私たちが受け取るためには、一つの条件があります。二十七章五節、

『しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。』

 『わたしと和を結びなさい』というのです。この近所には、古い砦がたくさんあります。ご存知のように、近くには、長篠城がありまして、長篠の戦いという、歴史的な戦いがありました。また、新城には、新城城という砦があって、かつては栄えたものでした。
 かつて各町々村々には、砦がありました。砦とは、どういうものかと言ったら、砦には城主がいまして、城主の元に集まった民たちがいました。戦国時代は、日本中に砦があり、どこの砦に付くのか、どこの砦の城主と和を結ぶかで、自分たちの将来が変わったわけです。

 それは霊的にも同じです。私たちが本物の平和を手に入れたかったら、どうしたらいいのか。「わたしのとりでにたよりなさい。わたしと和を結びなさい」というのです。
 本当の神様、天地宇宙を造られた、良い力の源である神様の砦に頼る、その方と和を結ぶのです。
これは、イエス・キリストを自分の救い主として、信じ、受け入れるということです。

 昨日は、子どもクリスマスがありました。今回、子どものクリスマス集会は二つに分かれていまして、子どもたちの集会と、親子クリスマスとに分かれています。なので、今年の子どもクリスマス会は違いました。屋台風になっていまして、子どもたちが好きな所に行って無料で好きなものを食べることができ、ゲームができたりして楽しかったです。
 三百人近い子どもたちはマルイチさんから賞品を提供してもらっているので、それを目当てで来ている子も多いのですが、メッセージがありました。
 誰がメッセージを語ったのか。それは上條実先生でした。どういうメッセージをしたのかといったら、かなり鋭いメッセージをしていましたよ。イエス様を信じたら天国。信じなかったら地獄、という究極的福音メッセージでした。「天国に行きたい人?地獄に行きたい人?」という質問を子どもたちにしました。初め、子どもたちはふざけて、地獄でもいいなんて言っていましたが、だんだんと真剣になって来て、最後にはみんな真剣に「イエス様を信じます!」と祈りました。祈りの時も「声が小さい!」なんて言われて、ここは日本なのか、タイの山奥なのか、分からないくらいでした。真剣に、イエス様という砦に頼る祈りをしていました。今年は、本気で、子どもたちが、砦に頼り、和を結ぶ所にフォーカスがしぼられていました。本当に良かったと思いました。

 イエス・キリストを信じて、イエス様の砦に頼ったら、永遠のいのち、真の平和の中に入ることができるけれど、悪魔の砦に頼ったら、その平和は、戦争と戦争の準備期間にしか過ぎないのです。真の平和ではないです。みんな滅びていくのです。世界に真の平和が訪れるならば、イエス様という砦に、人生を預けるしかないのです。二つに一つの選択です。

 そして、私たちクリスチャンは、神の子どもとして、平和をつくり出す使命が与えられているのです。平和は、放っておいて自動的にできるものではないのです。神の民が、神の子どもたちがつくり出さなければならないのです。イエス様が帰って来られる日に備え、「平和をつくり出しなさい!」と命令されているのです。

 クリスマスとは、平和、それも「真の平和」をもたらすために地上に来てくださった、イエス様を伝えるための働きです。クリスマスは、平和をつくり出さなければならない時でもあります。

 実は、マタイの五章は、山上の垂訓といいまして、イエス様がガリラヤ湖のほとりで語られた有名なメッセージです。山上の垂訓には、八つの教えがあります。マタイの五章一節~十節で八つの祝福が語られました。イエス様が山上の垂訓を語られた、ガリラヤ湖畔の丘の上に、記念教会が建っています。八角形の教会です。それは、八つの教えを表しています。
 ここで、マタイの福音書五章三節~十節、

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』

 イエス様は真の平和が支配している場所について語られました。その七つ目で、『平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから』と告げられたわけです。

 これを全体から位置づけると、特に「平和をつくる」という事が、具体的にはどういう意味か分かってきます。それが、マタイ五章四十三節から見ると分かってきます。マタイの福音書五章四十三節~四十八節、

『「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』

 これが、「平和をつくる者は幸いです」の説明としてイエス様が語られた部分であると私は思います。聖書は、個人的に語られた言葉として受け取っても良いですが、もっと大きな視点があるのです。
 平和というのが、お隣の人との平和とか、国内の平和だけでなく、国を越え、言葉を越えて、民族を越えて、平和について教えているわけです。
 特にここにおいては、「自分の兄弟、異邦人」という言葉が出て来ますが、イエス様は何を語ったのかといったら、ユダヤ人たちは、「自分たちは特別な者だ。選民だ」と思っていたのです。他の国の人や、民族に対しては、差別的な意識を持って、その人たちには目を向けませんでした。そこにはいつも争いと差別がありました。

 しかし、イエス様は何と語られたのかといったら、「それじゃいけないですよ。あなたの隣の民族、サマリヤ人たちに、あなたはどういう気持ちを持っているのですか?また、お隣の国の人たちに、どういう気持ちを持っているのですか?それでは真の平和は来ませんよ」と語っているのです。
 『「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』
 これは、個人というよりも、他民族紛争であったり、国と国との間まで、イエス様は言及していると思われます。
 平和をつくるとはどういう事かといいますと、もちろんお互いに平和を願って、平和に過ごしましょうという、意味もあります。奥さんとご主人、子どもたち。そういう平和ももちろん含みますが、大は小を兼ねるのです。大きな視点をもって、平和を求めていくなら、神の国が訪れますよと教えているのです。

 日本人には、「俺たちは単一民族だ。自分たちの民族は最高だ」という、おごり高ぶりがあります。国内に住んでいる、他の国から来た人たちを差別しているのです。
また、かつては実際に支配していました。それは決して、真の平和をもたらすことはありませんでした。
 数年前から、私たちと一緒に住んでいる隣人、他民族の方々のために祈らなくちゃいけないと教えられ、「特に日本に住んでいる在日コリアンの方々、とりわけ、朝鮮籍と呼ばれるような方々のために、とりなして祈りなさい」と主から教えられ、真剣にとりなして祈るようになりました。
 それから国内に住んでおられる在日コリアンのコミュニティーが何故できたのか、いろいろ調べるようになりました。現実を知って「本当に申し訳ない」と思いました。日本は、良い力ではなくて、悪い力を使って、隣の半島から人々を連れて来て、そのようなコミュニティーが出来たのです。

 新城教会には、豊橋から来られている方々が結構多いのですが、豊橋で在日コリアンの方々が、戦後、多く住んでいた地域がありました。そこには朝鮮学校もありました。
 なんでそこに住んでいるのかというと、大崎町はこの赤い所です。

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 豊橋の人ならよく分かるでしょう。偶然だろうと思うかもしれません。しかし、偶然ではないのです。実は、ここはどういう場所かというと、今は白い所になっていますが、昔は、八画形の島がありました。

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 ここには昔、日本海軍の飛行場があったのです。五本の滑走路があり、巨大な飛行場でした。セントレアは滑走路は一本しかありませんが、ここは五本もあったのです。相当大きかったのです。終戦間近の頃は、ここで訓練を受けて、特攻隊が出て行ったそうです。
 ここは元々はどういう所だったかというと、昔は普通の島だったのです。

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 しかし、埋め立てて作ったのです。人造の島なのです。海軍は誰を使って作らせたのかということです。日本人ではありません。お隣の国から、大勢の人たちを徴用して来て、ある人は自由に来たかもしれません。ある人は、強制的に連れて来られ、その人たちの力で海軍の基地が造られたわけです。ゆえに今でもその地域に、韓国系の方々が住んでいるということです。
 戦争と特殊なコミュニティーを重ねて見ると、日本が悪い力で、平和をもたらそうとしたのです。大東亜共栄圏と呼んでアジアをまとめようとしましたが、良い事は何もありませんでした。これでは滅びが最初から決まっていたようなものです。
 私たちクリスチャンは平和をつくり出さなければならないのです。その地域に行って、とりなしをし、その地域に住んでおられる方々に愛を表す中で、真の平和が訪れるということです。それを今回も強く教えられました。
小さな愛でも、育てていったら大きくなっていきます。私たちは平和をつくり出していかなければなりません。

 今週は「天には平和。地にも平和があるように」と、主が語られているのを重く受け止め、平和をつくり出す者になろうではありませんか。

そのためには、蛇、レビヤタンを打ち破らなければなりません。そして、地に平和を引き下ろさなければなりません。最後に一言お祈りして聖餐式に入っていきたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたが、すばらしいクリスマスを用意してくださったことをありがとうございます。私たちは、平和を求めています。しかし、この平和がどんなものであるかを、今日は学びました。主よ、私たちは真の平和を求めています。私たち、神の子どもが、平和をつくり出す者となることができますように。
 この時を心から感謝します。今から聖餐式をもちますけれども、イエス様、あなたは、この地上に真の平和をもたらすために来てくださいました。そのために、私たちを使ってください。今日は、神の子どもと呼ばれる者として、決断を表します。聖餐式にあなたが臨んでくださいますように。尊いイエス様の御名を通して、勝利を宣言して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。