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『「マラナタ」主よ。来て下さい!』

2014年1月5日 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
ヨハネの黙示録 二十二章十二節〜十七節

『「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』

 ハレルヤ!おはようございます。十二月三十一日から今日まで、教会におきましては、毎日のように集会が開かれておりまして、今日が何曜日なのか分からないような感じですが、皆様は新年、どのように過ごされたでしょうか。教会と自宅を行ったり来たりで終わってしまった、という方もおられるかもしれません。

 十二月三十一日は、カウントダウン・ワーシップといいまして、二〇一四年に向けての指針となるような言葉が語られました。新城教会には私を含めて七名の牧師、副牧師たちがいるのですが、二〇一四年のガイドラインを受け取り語りました。どの御言葉も、すばらしいものばかりでありました。それがすでに印刷され、お帰りになる時に受け取ることができます。それらの御言葉を今年の一つの指針として、歩んでいきたいと願っています。
 一月一日にもお話しさせていただいたのですが、昨年、私は指針となる御言葉を聞いて、普段なら一ヶ月くらいで忘れるのですが、「一年間、忘れないようにしよう!」と心がけました。語られた一つ一つの御言葉を心にとめ、朝起きたらその言葉を宣言して一年を過ごしました。やっぱり昨年は違ったと思います。自分の中でも、「御言葉にそって道を開いてくださった」という実感がありました。今年与えられた御言葉も大切にし、それを良い地に蒔きましょう。

 御言葉は種です。ですから、どこに蒔かれるかで成長が違うのです。道ばたに落ちたり、岩地に落ちたりすると芽を出しても枯れてしまいます。しかし、良い地に種が蒔かれたら、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。
 毎週、日曜日に神の御言葉、すなわち「種」をいただくのですが、それを蒔くか蒔かないかは、私たちにかかっています。御言葉をそのままにするのではなく、良い地に蒔いていきたいと思います。

 一月一日は、新年聖会が開かれ、二日、三日は、全日本リバイバルミッション主催の「二十四時間連鎖PPH」、プレイズ&プレイヤーアワーが行われました。多くの方々が全国から来られ、二十四時間、賛美と祈りが捧げられました。
 なんと二十四時間すへて連続して、祈り、賛美した強者もおられました。すごいなと思いましたが、今年は私も少しがんばろうと思い、張り切って出席しました。しかし今回、なぜか出番が多く、いろいろと準備しなければならず、出られない時間もありましたが、二十時間近く出ました。たいへん恵まれ、良かったです。
 二十四時間PPHには毎年、過激なプログラムがありまして、朝の五時から、本宮山という標高七百メートル級の山の頂上で歌うというプログラムです。山頂は、あまりにも寒いので、あまり行きたくないと、今まで避けていたのですが、一回くらい行かなきゃと思い、登って賛美したらたいへん恵まれました。この写真がそうです。

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 始めは真っ暗で何も見えない感じでしたが、

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 少しずつ明るくなってたら、七十人くらいの方々が街を見ながら賛美し、祈りました。本当に天が開かれる感じでした。

 今日は午後から、愛知県民の森に行って一年のための祈り会をします。個人的に祈り、またみんな一緒に祈る時間も用意されています。是非とも、祈りましょう。
 時々、「私は祈りしかできないんです」とか、「祈るしかない」という言葉を聞きますが、「祈り」は霊的最前線です。祈りという武器は、何にも比べられない、すごい武器です。祈るなら、扉は開かれます。祈らなかったら、扉は開きません。これは霊的法則です。
 聖書は「絶えず祈りなさい」とあります。今年一年間、「絶えず」祈り続けるなら、必ずうまくいきます。日本の未来、世界のために、大きな視点でも祈っていきたいと願っています。

 私たちは案外、ちっちゃな視点ではよく祈ります。自分の周りの問題とか、足下のためには真剣に祈るのです。もちろん、それも大事です。しかし、大きな視点で祈る時に、その中に足下の問題もすべて含まれるのです。ですから、祈りの視点を、足下から世界規模へ引き上げなければいけないのです。
 平均台という競技があります。たった十センチくらいの幅の板の上で、選手たちは宙返りをしたり、いろんな業を披露するわけです。すごいと思います。普通なら、落ちて頭打って死ぬのが関の山です。けれども、あの幅の上で宙返りが出来るわけです。どうして出来るのかというと、もちろん練習ですが、競技する時、足下ではなく遠くの一点を見ているそうです。それでぶれないのです。
 祈りも同じです。近くではなく、遠くを見ながら祈るなら、勝利します。今日はそんなテーマでも、お話させていただきたいと願っています。

 二十四時間PPHの中で、いろいろなメッセージが語られました。今回は、タイのチェンマイからナロン先生が来られ、三回のメッセージを語ってくださいました。それから、リバイバルミッションの先生方もメッセージを語りました。
 私の友人の平岡修治先生が、いつにも増して、すばらしいメッセージを語りました。毎回お互い、どんなメッセージをするかと、ライバル同士みたいなところもありますから、彼も私のメッセージを聞きに来ますし、私も先生のメッセージを聞いてお互いにプレッシャーをかけ合います。お互いにメッセージの中で嫌みを言い合うのですが、それがおもしろいです。

 今回、先生が結構おもしろいことを語っていました。それは井上陽水の「傘がない」という歌を引用して話しました。私は全然気づかなかったのですが、先生はきっと新聞か何かで読んで知ったのだと思いますが、みなさんはその歌の歌詞を知っていますか?一九七〇年代にヒットした歌です。

♪都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ 雨にぬれ
つめたい雨が今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?

 この歌詞、ちょっと考えさせられますよね。新聞には自殺する若者が増えているという記事が出ていたというのです。それは大きな社会問題です。
 でも、自分の問題は、「今日の雨の傘がない…」が大きな問題だというのです。二番の歌詞はこんなです。

♪テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
だけども問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ
つめたい雨が僕の目の中に降る
君の事以外は何も見えなくなる
それはいい事だろ?

 私たちの社会には大きな問題が結構、転がっているのですが、自分の問題は、彼女に会いに行くのに「傘がない」という、ごく身近な問題しか見えないというのです。多分、当時の社会を風刺しながら、彼は歌詞を書いたのだと思うのですが、「それはいい事だろ?」と、ハテナマークがついているところがいいですね。
 私たちも案外、「傘がない」という視点でしか、祈りができていないと思うのです。「社会には多くの問題があるけれど、そんなのはどっちでもいい。俺の傘がないんだけど…」と。
 
 この歌詞についてある評論家が、「これは大変哲学的な歌だ」と批評していました。陽水は、ただ「傘がない」と歌っているのではないというのです。社会には問題の雨をよける、本当の傘がないと歌っているのではないか、と。作者に聞いてみなければ分かりませんが。そこまで深い人かな?分かりませんが。
 いずれにしても、私たちはどんな傘の下に身を寄せて、人生を歩んでいるのかが重要です。

 けれども、私たちクリスチャンには、「傘がある」のです。それは、イエス・キリスト傘です。世界には常に、嫌な雨が降っています。二〇一四年は、さらに雨脚が強くなり、毎日のように冷たい雨が降るかもしれません。しかしあなたには、傘があるのです。それがイエス・キリスト傘です。

 実は、昨日は、葬式がありました。二〇一三年度は十二回、葬式をやらせていただきました。日本で一番葬式をやっている教会じゃないかと思うのですが、Hさんが召天されました。肺炎で亡くなりました。この頃、肺炎って、日本人の死亡原因の三番目くらいでしょうか。かなり危ないらしいです。特にお年寄りがかかると、危ないらしいです。おじいちゃんは、去年の暮れに肺炎にかかり、医者から何度も、危ないと言われ家族は呼び出されました。そういうことがあると、教会スタッフには一斉にメールが来ます。教会スタッフメールが来た時は、いつも、どきっとします。いいことでメールが来たことはありません。「みんなで食事に行きましょう!」とか、絶対に来ないです。誰かが死にそうとか、何か問題があると来るのです。
 特に、夜中に上條先生から電話がかかってきた時は、覚悟しなければなりません。誰かが亡くなった知らせの電話です。容赦なく寝込みを襲われます。
 昨日の葬式で、一つの御言葉を読みました。それは、ヨハネの黙示録十四章十三節でした。

『また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」』

 一般的に、不幸の極みは、やはり死ぬことだと思います。「あと五分しか命がありません」と言われたら、どんな心境になるでしょう?よほど、うろたえると思います。また希望を失うと思います。
 葬式では、いつも「故人の愛唱歌」が歌われます。この頃、葬式というよりも、天国に行ったのですから、召天式の方がいいと思って、召天式としたのですが、一応、ご遺族に、「葬式がいいですか?召天式という名称がいいですか?」と聞くと、「葬式」というと、なんだか地下に下るような気分になりますが、「召天式」は上に上がる気分で、みんな「召天式がいい」と言われます。その時には、必ず、故人の愛唱歌を歌います。みなさんも来るべき日のために、歌を用意した方がいいと思います。みなさんなら、何を選曲しますか?
 私は今まで、たくさん葬式をやりましたが、昨日の愛唱歌ほど、場違いというか、歌っていいものかどうか迷う歌はなかったです。それは何かと言えば、「Singing Dancing」でした。
 ♪Singing Dancing さぁ、主の御前でSinging♪と、召天式に参列した人たちは、踊り出しそうでした。直立不動の姿勢で歌うのが、たいへんつらかったです。昔の歌手で東海林太郎のように、直立不動で歌うのは、なかなかつらいものがありました。
 Singing Dancingがどうして、故人の愛唱歌なのかと聞いてみたら、おじいちゃん、亡くなる二日前にこれを孫たちと一緒に、病室で歌ったというのです。病気で体はあまり動かせなかったけれど、手だけは動かして歌っていたというのです。
 おじいちゃんは、何度も何度も、「もう命が危ないですよ」と言われ、家族も呼ばれましたから、自分でも、「俺はまもなく死ぬんだろう・・・」と、自覚していたはずです。でも死ぬ直前に、「Singing Dancing」を歌って、踊りながら天国に帰れるっていいじゃないですか。相当、気持ちが突き抜けていないとできないです。
 クリスチャンって傘があるのです。それは永遠の傘です。死ぬ直前でも、Singing Dancingを歌えるのは、傘がある証拠です。

 『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と語られています。「幸いである」とは、「幸せだ」というのです。普通なら不幸の極みである死。しかし、クリスチャンにとっては、死に際しても傘があるのです。「あなたは幸せです」と言っているのです。
 『彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。』とあります。どういう意味でしょうか。私たちは死んでも、本質は全く変わらないということです。天国に行って、新しいからだに宿っても、その本質は変わらないのです。地上での思い出も、すべて、天国に受け継がれるのです。

 しかし日本人はそのようには考えていません。ある宗教学者の論文を読みましたら、日本人が一番真剣にやるのは祖先崇拝ですが、正月にも墓場に行く人が多いです。しかし、先祖を何故拝むかというと、先祖に対する愛情とか愛着ではないというのです。突き詰めれば、根底にある恐れだというのです。先祖をよく拝まないと「たたられる」からと拝むというのです。
 みなさんもクリスチャンになる前、何故、先祖を拝んでいましたか。「おじいちゃん、おばあちゃんに、墓場で会いたい!」というよりも、恐れがあったからだと思います。「拝まないと、先祖にたたられるといかんで・・・」という理由です。
 私たちもやがて先祖になりますが、先祖になった時に、自分の家族・親族にたたるはずはないです。もしもたたるとしたら、それは先祖じゃなくて、「先祖のふりをした、悪魔・悪霊ども」です。それに気づかないといけないのです。

 私たちは死んでも変わらないと聖書は告げています。鬼になったり、お化けになったりはしないのです。すべての記憶も思い出も、天に受け継がれ、やがて家族は天国で集合し、地上ではぐくんだ愛は回復し、さらに大きくなるのです。喜びが何倍にもなる日が来るのです。
 イエス様を信じるとは、永遠の傘の下で過ごすことを意味します。こんなすばらしい救いは、キリスト教以外にありません。

 比較宗教という学問があります。世界の宗教をずらっと並べて、教えを比較する学問です。比べてみると、キリスト教ほど理にかなった、納得できる教えはありません。私たちはこれを宗教のカテゴリーには入れたくないです。まさに真理であり、完璧です。死んだら地上の体は滅びるかもしれないけれど、天において再会できるという、大きな望みです。仏教も、神道も死後の世界はきわめて曖昧です。他宗教の悪口を言うつもりはありませんが、他宗教はキリスト教の死後の世界観を拝借して、天国だの、極楽だの言っていますが、本来はないのです。しかし私たちクリスチャンには、永遠のいのちが与えられるのです。
 今日も読んだ黙示録二十二章十七節、最後の所に、

『渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』

と書かれています。いのちの水が欲しい人は「ただ」でくれるというのです。そんなすばらしいことは、ありません。宝くじが当たるより何百倍も、いや、比べものにならないほどすごいことです。ただで永遠の命がもらえるのですから。私たちの命は、永遠に続くのです。

 聖書の救いは完璧だと言いました。なぜなら、死んで天国に行くだけで終わっていないからです。地上で使っていた肉体が滅びたら、それは完全な救いとは言えません。なぜなら、体は滅びた事になるからです。
 しかし聖書は、一見、死によって滅びたように見える肉体さえ、やがて栄光の体に復活するというのです。それはまさに究極の救いです。
 イエス様はもう一度、この地上に帰って来られます。この地を治めるために来られます。その時、死ぬべき体も、朽ち果てていく体も、瞬間的によみがえり、栄光の体に回復され、永遠に生き続けるのです。なんだか、気が遠くなるような事を聖書は告げています。

 地上で使っていた体は滅びるとしたら、ある意味、地上での人生は無駄なものになってしまいます。どんなに努力したとしても、地上のすべては死によって消えるからです。
 しかしそうではないのです。私たちは肉体は悪いもので、天で過ごす体が良いもののように考えがちですが、決してそうではないのです。神はすべてを良いものとして創造されました。肉体さえも、朽ちないものに、また、この地上さえ、回復されるのです。
 それがいつ起こるのかというと、イエス様が地上に再び帰ってくださるその日です。コリント人への手紙第一、十五章二十節〜二十五節、

『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。』

 イエス様は十字架に架かって死なれましたが、三日目によみがえったお方です。なぜ、よみがえったのか。「俺は神だから、死なんて関係ない!」と自分が神であることを証明するという為でもあったのですが、イエス様のよみがえりは、「初穂」だというのです。初穂とは、最初に出る穂です。最初の穂が出ると、農夫たちは次に続く穂に期待するのです。「あっ!収穫に向かって最初の穂が出始めたぞ!」と農夫は収穫を見極めるのです。それと同じだというのです。
 イエス様のよみがえりは初穂で、それに続く者たちがいるのです。それが誰かというと、「イエス・キリストを信じる者たち」です。やがて私たちは、滅びる肉体さえも回復され、よみがえり、二度と朽ち果てないからだに変わるのです。気の遠くなるようなことを、聖書は教えています。

 前にもお話ししましたが、もしもキリスト教が、誰かによってでっちあげられたものだとしたら、どうでしょう。もしも私がキリスト教を作るとしたら、「死んで天国に行き、みんなで幸せに過ごす。」で終わります。それ以上は言いたくないです。「地上に帰って来て、よみがえる」なんて言えば、話は複雑になりますから、そこまでは言わない方が得です。天国で幸せに暮らせれば、それでいいじゃないかと。
 しかし聖書は大胆です。死後、天国に行くけど、イエス様と一緒に地上に帰って来てよみがえると告げています。その時この地上に生きているクリスチャンは、瞬間的に、彼らに続いてよみがえるのです。そのことが第一コリント十五章に書かれています。
 その日、何が起こるのでしょうか。

『そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。』

 地上にある、「すべての支配、あらゆる権利、権力」は滅ぼされるのです。この世界は、神の支配と同時に、暗闇の支配があります。近頃、日本が右傾化していると言われます。どっちの方向に行くのか、本当に心配です。それは暗闇の支配との強い関連があります。
 昨年は、この国の未来のために、とりなしなさいと主から教えられ、国の原点におかれている偽りを見抜いて、祈りました。その内容については、霊的戦いセミナーなどでお分かちさせていただきましたが、日本には明治時代に、大きな偽りがおかれました。今に至るまで、人々は支配されているのです。

 日本人って自由だと思うかもしれませんが、日本人ほどマインドコントロールされている国民はないのかもしれません。様々なところで、マインドコントロールされています。まずは明治維新以後、大きな偽りの中で縛られ、さらに太平洋戦争以後は、新しいコントロールの中にあります。
 ところでみなさん、スポーツは好きですか?スポーツ好きな人は、多いと思います。今年のドラゴンズはどうかな?ジャイアンツはどうかな?でも、近ごろのプロ野球はおもしろくないですね。ちょっとうまくなると、みんなアメリカに行っちゃいますから。どこのチームが勝っても、国民にはあまりメリットはありません。楽天が優勝して、楽天インターネットショッピングが安くなると聞いていましたが、そうでもありませんでした。車が安く買えるなんて言われて、応募してみましたが、やっぱり当たりませんでした。

 「スポーツが大好きだ」という方、あなたは見事にマインドコントロールされています。分かりますか?また「私は映画が大好きだ」「テレビが大好きだ」という方もいるかもしれません。「私はテレビに釘付け。テレビさえあれば、他のものはいらない」という人がいたら、あなたもマインドコントロールされています。

 実は、太平洋戦争が終わった後、GHQは、日本人を政治から遠ざけるために、ある策略を置きました。それは何かというと、「3S」と言いまして、三つの事柄を強調したのです。それは「スポーツ。スクリーン。セックス。」の三つのSです。
 日本って、テレビの普及はやたらに早かったじゃないですか。日本は戦争に負けたのに、その八年後、一九五三年にはテレビ放送が始まっていました。

 テレビが家に来た日のこと、今でも忘れることができません。家にテレビが入るのが文明の象徴みたいでした。「明日は家にテレビがつくぞ」という前夜、わくわくして寝れませんでした。私が小学生の時でした。
 学校から帰って来たら、文明の最先端を担っていることを自負している電気屋さんが、何人も屋根に上り、「もっとこっち。右。右。左。左。」とアンテナを調整していました。家の前には○○電気というトラックが停まっていて、そこに村の子どもたち全員が集まり、遠巻きに行方を見守っていたものです。
 「すごいことが起こっている。家にテレビが入った。」と思いました。しかし、それも洗脳の一環だったのです。
 メディアさえ掴めば人々を支配できるという、GHQの政策でした。アメリカ議会で、爆撃機B29を二機作る費用で、日本にテレビ放送を始めることができると決議され、実行されたのです。その後、テレビを通して同じ情報が流され、知らないうちに人々は洗脳されて行きました。特に、政治のことよりも、スポーツ番組を放送し、国民の心を政治よりもスポーツへと向けたのです。また、映画のスクリーンに首ったけにし、性的罪がいっぱいはびこっているのが今日の世界です。
 私たちは、このような策略を見抜かなければならないのです。見抜いて、祈り、とりなす必要があります。

 昨年の暮れから何度も語っていますが、人類の平和とは、定義すれば、「一つの戦争が終わって、次の戦争が始まるまでの準備期間」です。それが平和の定義です。これは人類の歴史を見れば明らかです。戦争の準備をしているから、戦わないので「平和」なのです。
 日本は六十数年前に戦争が終わりました。しかし今、右傾化しているというのは、当然のことかも知れません。すでに次の戦いの準備が始まっています。それは特別なことではなく、人類の歴史が証明しています。

 去年の暮れ、安倍首相が靖国神社に参拝に行き、思わぬほど、世界からたたかれています。中国や韓国だけでなく、ヨーロッパやアメリカさえもクレームをつけています。私は、世界がもっと日本にクレームをつけてくれたらいいと思っています。
 靖国神社とは、国家神道そのものです。古来の神道でも、なんでもありません。神道は自然崇拝ですから、戦争で死んだ人など祀らないのです。靖国神社には、太平洋戦争を正当化している「遊就館」という博物館が併設されています。それを見たら、アジア諸国は怒るに決まっています。
 「なんで他の国々は、日本についてとやかく言うんだ!」と思わないで下さい。あそこに行ったら、なぜ中国や韓国がとやかく言うのかが、よく分かります。靖国神社は「太平洋戦争は正しいものだった。もう一度、国家神道を回復する」という、イデオロギーの中心地です。
 今回、あまりにも世界の反響が大きかったから、彼もだいぶ考えたはずです。しかし彼は岸信介の孫ですから、もう一度国家神道を回復するというのが、首相になった最大の目的です。

 世界に、どんな主義・主張が現れたとしても、良い世界は決して出来ないのです。必ず、それに対抗する勢力が出て来て、戦いになるのです。それは世界の歴史が証明しています。
 昔、ローマカトリックがヨーロッパを長い間支配していました。そんな中で宗教改革が起こり、ローマ・カトリックは戦争に敗れました。「やった!これで良い世界になる!」と人々は期待しました。その時に戦ったのがドイツでした。しかしドイツは、その後、帝国主義の衣を着て、ヨーロッパ諸国を侵略するようになりました。それで世界は、みんなでドイツをたたいたわけです。
 しかしドイツがつぶれても、また次の主義・主張が出てきました。共産主義が出て来て、大きな影響を世界に与えました。世界は、共産主義をつぶさなければいけない!と言いました。それから冷戦時代を経て、自由諸国が共産主義に勝利したかのように見えました。けれども次に、イスラムが出て来て、今やテロとの戦いです。一瞬、平和が訪れたかと思っても、必ず、次の相手が出て来るのです。いたちごっこみたいです。

 こういう中、クリスチャンとして、何を祈っていかなくちゃいけないかが問われます。その視点が、先ほどお読みました、第一コリント十五章に記されていました。
 イエス様がもう一度この地上に帰ってくださる時、『あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになる』と。その時神の支配による、完全な神の国の平和がこの地に訪れるのです。
 ということは、国に戦争が起こらないように祈るだけでは不十分なのです。神の国の平和、すなわち、イエス様がお帰りになるその日を、待ち望んで祈らなければいけないのです。

 去年もこのことについてお話しさせていただきました。教会とは、イエス様が帰られる道を用意するために置かれた、神の軍隊です。私たちが人ではなく、背後の暗闇の霊に立ち向かっていく時、神の国の勝利が訪れ、イエス様の帰られる道が用意されるのです。
 日々の霊的戦いは、イエス様が帰られる道を用意しているのです。今年も、霊的戦いは継続すると思いますが、それは、イエス様が帰って来られる道を用意する為の局地戦です。戦いの最中では、深い意味は分からないかもしれないけれど、それらはすべて、イエス様が帰られる道を用意する戦いなのです。教会が暗闇の力を打ち破る延長線上に、司令官であるイエス様が地上に帰って来られます。
 そして、『キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになる』のです。

 それから世界は、天地宇宙を造られた神によって支配されるのです。主ご自身が世界を支配される、そんな日が来るのです。私たちクリスチャンは、その日を夢見ながら、積極的な意味で、イエス様のお帰りを待ち望み、祈らなくちゃいけないのです。
 今年、私が主から語られている一つが、黙示録二十二章です。
ヨハネの黙示録二十二章十二節〜十七節、

『「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』

 黙示録の二十二章は聖書における最終章です。ここで『御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。』とあります。
 「主よ。来てください!」、これをアラム語でいうと「マラナ・タ」と言います。ざわめきの中にも「マラナタ」という歌がありますが、これは「主よ。来てください」という意味です。
 「主よ。この地にもう一度帰って来て、この地を治めてください」という叫びと共に、聖書は締めくくられています。

 祈りの生活の中で、「主よ来てください!」という、「マラナタ」の祈りは、大変重要な祈りです。それは、私たちの信仰の完成を目指した祈りです。私たちは、足下のことや、周りのことも祈りますが、「主よ来てください!」というマラナタの祈りを、祈る必要があるのです。
 今年、「マラナタ。主よ来てください!」と、是非とも加えて祈っていただきたいです。

 マラナタとは、「マラナ」と「タ」が、くっついてできたアラム語だそうです。「マラナ」とは、「私たちの主」という意味で、「タ」とは、「来い!」という命令形だそうです。荒っぽくいえば、「主よ来い!」という激しい祈りです。
 主の祈りの中でも、「御国が来ますように」とありますが、これも命令形です。「御国よ来たれ!」。これは、祈る者たちに主から委ねられた、権威の行使です。

 「マラナタ!」というのは、「主よ来たれ!」と宣言するのです。誰が宣言するのですか?「御霊も花嫁も言う」とありますから、聖霊によって促された花嫁、すなわち、「教会」の宣言です。「マラナタ!主よ来たれ!」と教会が宣言する時、神の御国が訪れるのです。
 イエス様が天に帰られてから、すでに二千年以上の時間が経ちました。なぜ、イエス様は帰って来られないのか。多くの人たちが疑問に思っています。様々な理由があり、その日は、父なる神さましか知りません。
 しかし、主を信じる者たちが、特に教会が「マラナタ!主よ来てください!」と宣言しない事が一因のように思われます。「御国よ来たれ!」と宣言するなら、主が帰られる道が用意されると信じます。
 今年は、「主よ来てください!」と祈って下さい。この祈りを付け加え、イエス様が帰って来られ、すべての支配を勝ち取ってくださるように、祈っていただきたいと思います。

 先日、日本のキリスト教会の中に起きた、リバイバルの歴史についての論文を読みました。それは「国立民族学博物館調査報告」の中で「キリスト教と文明化の人類学的研究」という論文でした。
 日本で大正時代と昭和の初期にリバイバルが起こりました。一日にも少しお話したのですが、日本のキリスト教会に大きな影響を与えた、内村鑑三という人物がいるのですが、彼を含め、何人かの人たちが、キリストの再臨に関して、強い主から確信を受け取り、「主が帰られる」ことを願って、祈祷運動を始めました。大正、昭和の初期は、国家神道がとても強い時代でしたから、様々な問題も起こったのですが、「主が帰って来られる」という強い期待と共に始められた祈祷運動でした。その中で、リバイバルが起こったのです。
 その論文に、こんなことが書かれていました。「大正八年、一九一九年、十一月に、大正のリバイバルと呼ばれるものが起こった。それは、切迫した再臨を強く待ち望みつつ、大きな期待を原動力に展開された運動であった。ここでの再臨信仰は静かに座して終末を待つ、といった来世思考の態度をはぐくむよりも、むしろ積極的な布教と伝道によって、教会を成長させる現世のエネルギー源として働いた。」
 その結果、ホーリネスの群れは全国で千五百名足らずだったのが、「リバイバルを契機に活性化され、十年後には一万人を超える教派にまで成長した」というのです。それは、再臨を求める祈りの中で起こったのです。

 長野県の飯田市でも再臨待望の祈り会が開かれ、聖霊が注がれ、リバイバルが起こりました。彼らの祈り会のタイトルは、私たちよりずっと過激なタイトルです。それは「サタン打ち」という祈祷会だったそうです。サタン打ち祈祷会を四日間続けた中で、飯田市に聖霊が注がれたのです。その時の記録がありました。

 「集会は始めより聖霊の臨在あざやかに、サタンの妨害を許さず、聖書は旧約より新約より流るる如く御器を通してはたらき、探らるる者、掘り下げらるる者多く、涙をともに流しつつ悔いくず折れて祈り、ひたすら主の前にさけび求むる一つの声となり、俄かに天開かれた如く、聖霊の大傾注となりまして、ハッキリと救わるる者、慰められた者、癒しを受けた者など続出、立ち上がって感謝する人、大ごえに讃美する者、聖霊が降り、会衆は号泣の中に打ち崩れ、恵みの座も講壇も、泣き叫ぶ人々で満たされ、ある者は確実に救われ、ある者はきよめられた。会衆は時間が経っても帰る者は一人もなく、席を立つ者は外に出て悔改めの祈りをしては、また教会に戻ってくる。まさにペンテコステ的光景で、ぶっ倒れる者、踊る者、はねる者さえあった。」
とレポートしています。

 そして、「聖霊に満たされて踊り回る状態に,『聖霊踊り』」などという巧みな命名もなされた」とありました。「聖霊踊り」は私たちに聖霊が注がれたときにつけた名前かと思っていたら、すでに日本で起こっていたのです。
 リバイバルは二波に渡って起こりました。しかしその後、様々な問題が起きて崩れてしまいました。けれども、その運動の中心は「主が再び帰って来られる」をという信仰により、教会が祈り始めた中で起こったのです。
 この運動の中で「霊的戦い」が開かれたのですが、途中で戦いを見失った為に、リバイバルが収束したように感じました。

 主が再び帰って来られる日を叫び、祈り求めていく時、リバイバルが訪れると信じます。
 このように再臨待望の祈りと共に、リバイバルが日本に起こった事を、歴史的見地からも見いだすことができます。
 今年、私たちも「マラナタ。主よ、来てください!」と宣言しましょう。しかしそれは、「イエス様、私たちは大変ですから、早く帰って来てくださいよ・・・」という消極的思考ではなく、積極的に主のお帰りを求める祈りの中で、主が聖霊を注がれるのです。それも霊的戦いの延長線の上で、主の勝利を見ることができるのです。

 昨年もお話しさせていだきましたが、太平洋戦争の時、兵士たちはさまざまな場所で局地戦を戦いました。戦っている最中は、日本兵もアメリカ兵も、この戦いの意味は分からなかったと思います。しかし、それは国と国の支配権の戦いでした。様々な局地戦の集大成として、やがて連合軍が勝利し、日本が降伏する日が来たわけです。一九四〇年八月十五日、日本はポツダム宣言を受け入れ、降伏しました。同月、厚木海軍飛行場に、八月の三十日、一人の男が降り立ちました。
 それは誰かというと、GHQ司令官、ダグラス・マッカーサーという男でした。彼が、敵地であった、飛行場に降り立ち、日本の地を踏む瞬間の写真です。

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 この瞬間に何が起こったのか。それまでの日本のあらゆる支配、あらゆる権威、権力が一掃され、日本は連合国の手にゆだねられたのです。

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 これと一緒にしたくはないのですが、イエス様の再臨も同じだと思うのです。私たちが日々の戦いを、雄々しく戦い続けるなら、やがて宇宙の主管者である神ご自身、イエス様が再びこの地に帰って来られるのです。イエスさまが再びこの地を踏む瞬間、あらゆる支配と、あらゆる権威、権力は滅ぼされ、国を神様の手にお渡しになり、地は、、神の国の平和で支配されるのです。

 そのためには何が必要か。私たちが「主よ来たれ!」という、「マラナタ!」の祈りと共に、霊的戦いが重要です。それを今年の初めに、主から教えられたような気がします。

 今年、私たちは、毎日、究極的な祈り、「主よ来てください。マラナタ!」という祈りを主のみ前に捧げ、同時に身の回りのことも祈るならば、必ず、主の勝利が私たちの所に訪れると信じます。最後に一言お祈りして聖餐式に入りたいと思います。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたは、この地に帰って来たいと願っておられると信じます。しかし私たち教会が、「主よ来てください!」という祈りが足らなかったことを赦してください。身の回りの傘がないことばかりを問題にしていたことを赦してください。私たちがさらに、あなたのお帰りを待ち望んで、祈ります。
 今日のこの時を感謝をいたします。私たちは主が帰って来られるその日まで、聖餐を続けます。私たちを聖めてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。