HOME > メッセージバックナンバー > 2014年バックナンバー > 1月 > 1月1日

「主の年、2014年に向けて」
ニューイヤー・セレブレーション・メッセージ

 2014年1月1日 (水)
新城教会 主任牧師 滝元順
ヨハネの黙示録 二十二章十二節〜十七節

P1050641.JPG
 ハレルヤ!新年あけましておめでとうございます。今年は二〇一四年ですが、イエス様がお生まれになり二千十四年も経ちました。この年も主にすべてお任せし、一歩一歩進んでいきたいと願っています。
 みなさんのお祈りに支えられ、旧年中も支えられ、教会を主が導いてくださったことを心から感謝します。今年も、共に、力を合わせ、心を合わせ、神の国の拡大のために働いていきたいと願っています。よろしくお願いします。

 昨晩は夜の九時から、カウントダウン・ワーシップという集会が開かれました。私は毎年、この集会が大変楽しみです。なぜなら、この教会には、私を含め、牧師、副牧師が七名いるのですが、その夜は、私を除いた六名の先生方が、二〇一四年に向けての言葉を語ってくれるからです。毎年それを、主が新城教会に与えてくださった言葉として、預言的に受け取っています。
 み言葉を聞いても、しばらくすると「今年は何を語られたのかな…」と忘れてしまうことが多いのです。

 私は昨年、先生方のメッセージを聞いて、また、私自身に与えられた御言葉を一年間、忘れちゃいけないと強く思わされました。それで七つのメッセージをドッキングさせて、中心的な部分を覚えて、毎日祈ろうと決断しました。それで、少しは忘れた日もあったのですが、だいたい毎日、み言葉を宣言し、祈るように心がけました。
 そして二〇一三年を終えたわけですが、一年を終えて、主はみ言葉通りに一年を進めてくださったという実感がありました。
 昨年、最初にメッセージを語ったのは上條実先生でした。サムエルのように神の言葉に耳を傾けましょうという話でした。主は私たちに常に語りかけてくださっていますが、案外、私たちはその言葉をキャッチしていないという話でした。「サムエルよ。サムエルよ」と語られましたが、サムエルは四回目にやっと受け取りました。私たちは常に、主からの言葉を聞きましょう、というメッセージでした。

 二番目に語ったのが、滝元明先生でした。日本に、ニネベというアッシリアの街でかつて起こったようなリバイバルが起こるように祈ろう、という内容のメッセージでした。ニネベは、ダゴンという偶像を拝む敵の街でした。どうにもならないような街でしたが、ヨナを通して、リバイバルが起こりました。神は、その街の人たちを見て、「この街には十二万以上の、右も左もわきまえない人々がいる」と街を哀れまれたというメッセージでした。
 日本もまさにその通りです。偶像礼拝の国ですが、意味すら知らずに偶像の神々にひざをかがめています。だからリバイバルのために祈りましょう、ということでした。

 三番目は、雅也先生が「イエス様とくびきを共にして歩んでいきましょう」というメッセージでした。だから私も、毎日、「主よ、今日も一日、あなたとくびきを共にして歩みます」と祈りました。

 その次に、四番目は滝元開先生が、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなさい」というみ言葉を語りましたから、毎日、「喜び、祈り、すべてのことについて感謝できますように」と祈り続けました。その祈りは大変恵まれた祈りとなりました。

 その次はフェルナンド先生が「今年は祈りがきかれる年になります」という、宣言でした。今年こそ祈りが聞かれると信じて、祈り続けました。昨年は、私たちの祈りが、結構多く、答えられた実感がありました。

 そして、信弘先生から、「あわれみの心を持って奉仕しなさい」という言葉が語られたので、私も様々な働きに従事させていただいていますが、あわれみの心を忘れることがないようにと祈ることができました。

 私は昨年、ルカ十章から、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』というみ言葉が与えられたので、いつもそのみ言葉を宣言して一日を始めました。

 二〇一三年を振り返ってみたら、本当に主が語ってくださった通りになった実感があります。それは二〇一四年にも続いていくに違いないと信じています。

 毎年、講壇からメッセージが語られますが、み言葉は「種」だといわれます。種だけもらっても、そのままでは実を結ぶことはないのです。良い地に蒔いたら、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。だから、私たちは御言葉の種を袋の中から出さないと行けません。袋を破って良い地に蒔かないといけないのです。ですから聞いた御言葉を実践する、口で告白することは、大変重要です。

 昨晩語られたメッセージは、二〇一四年に主が持っておられる計画を現している御言葉ばかりでした。語られたメッセージを文字に変換して、お手元にお届けできると思いますので、是非、よく吟味しながら、読んでいただきたいと思います。一つ一つをみ言葉の種として受け取り、一年間、忘れずに宣言する時、暗闇は打ち砕かれ、祝福が訪れると信じます。

 昨日は、どんな順番でメッセージが語られたのかというと、最初は、岡本信弘先生が語ってくださいました。
 毎年、どういう具合でメッセージの順番を決めているかといいますと、くじで決めています。誰が一番初めに語るのか。年功序列もいけないし、あいうえお順でも問題が起こるし、やっぱりくじが一番いいかなと思いまして。聖書の中には、「くじの決定権は主にある」というような言葉がありますから、厳正なくじで決めました。

 ところで、年末ジャンボ宝くじも、何億円か当たった人がいるわけですよね。先日、韓国から大勢のお客さんが来て、空港まで送って行きました。帰りに、刈谷のサービスエリアで飯を食べました。そうしたら、目の前に「年末ジャンボ宝くじ」売り場がありました。一等賞が5億円と書いてありました。私が食べていたら、目の前の人が何万円も宝くじを買っていました。「当たるわけない」と思って見ていたのですが、ポケットをさぐったら、六百円ありました。一枚三百円とあり、ちょっと買ってみようと思いました。「すいません…二枚ください。」と言ったら、「たった二枚かよ」というような顔をして売ってくれました。
 しかし結構、昨日まで楽しみでした。もしかしたら5億円、当たっているかもしれない・・。なんと、その一枚が当たったのです!下一桁0、「三百円」でした。
 「おまえに金を渡すとろくなことがない」ということで、三百円をくださったのでしょう。二枚買って三百円なら、まぁいいかと思いました。そんなことはどうでもいいのですが。

 昨日は、岡本信弘先生が最初に語ったみ言葉は、テモテへの手紙第一、六章十九節でした。

『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

 私たちは「二〇一四年の目標」と考えるけれど、主の働きは二〇一四年で終わりません。「未来」とは、ただ二〇一四年とか、短期間のものではなく、永遠の世界にまで続くものだと語りました。主が来られるまで、二〇一五年、二〇一六年、二〇一七年と続くのです。
 ということは、毎年、主が私たちに語ってくださる言葉は、一つ一つ神の国の現れのための準備となるというのです。主が帰って来られるその日まで、私たちは基礎をしっかりと造り続けなければならないということでした。「未来に備え、良い基礎を自分自身のためにも備えなさい。」という、み言葉が語られました。
 二〇一四年も、神の国に到達するための一つの礎です。毎年、私たちは神と共に歩むのですが、毎年、毎年、イエス様が帰って来られるその日まで、準備します。私たちは毎年、基礎を堅くしなければいけないということでした。
 そのためには、世に調子を合わせるのではなく、どこまでも主に仕えていくことが要求されるというメッセージでした。この世に調子を合わせるのではなく、主の声を聞いて歩んでいかなけらばならないのです。

 二番目に、フェルナンド公畑先生が語ってくれたのですが、そこで引用されたのが、ヨハネの福音書一章四十七節〜五十一節でした。これはイエス様がナタナエルについて語られた言葉です。

『イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」』

 「今年は天が開かれる年だ」と語りました。みなさん、信じますか?新城教会に属するすべての兄弟姉妹に、天が開かれるのです。新城市では、一九九二年から霊的戦いが始まり、悪魔の天が破られ続けていますが、そんな中、二〇一四年はさらに新しい天が開かれるというのです。そして「あなたは、それを見ます!」と力強く語ってくれました。

 「天が破られ、天使が上り下りする光景を、あなたは見ます」とイエス様はナタナエルに言われましたが、旧約聖書においては、ヤコブが、天から天使たちが上り下りするのを見たのです。「ここは天の門だ!」と、彼はそこを記念としました。私たちも、二〇一四年、天使たちがこの街を、また、みなさんの上を上り下りするような、天が開ける一年となるように、心から祝福します。
 日本は、天使が上り下りしているよりも、悪魔・悪霊どもが、彼らの天から上り下りしているような国です。けれども、天が破られる時、悪魔・悪霊どもが上り下りしていたのが、天使たちが上り下りするのです。私たちもナタナエルと同じ奇跡を見ることができるのです。そのためには、いつも主に忠実でありなさいと語られました。

 三番目に、上條実先生が語ってくれましたが、それはイザヤ書四十四章二十四節〜二十八節が引用されました。
『あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる』と言う。淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす』と言う。わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」』

 このみ言葉を引用し、今回、主から受けた言葉は、「成就」という二文字だったと語りました。四章二十六節に、

『わたしは、わたしのしもべのことばを成就させる。』

 成就という言葉が、二〇一四年のキーワードだと語りました。
 今年は、イザヤ書四十四章にあるように、成就と再建の年となる。今まで、涙と共に祈り、霊的戦いを戦い続けてきたのですが、涙の祈り、その戦いを、主は何一つ忘れておられないというのです。主を信じてこの方、ずっと祈り、戦い続けてきた事柄があると思います。時には、疲れ果て、倒れそうになる時もあります。「神は果たして私の祈りを聞いておられるのだろうか…」と疑ってしまいそうな時もあります。しかし、神は決して、私たちの祈りを忘れておられない。戦ってきた戦いを「なんだったっけ?」と忘れるような方ではないのです。すべて覚えておられ、やがて成就させてくださるのです。今年は、「成就と再建の年」という言葉を主から受け取ったと語りました。
 今日、「今年は主が成し遂げてくださる」年であることを、堅く信じようじゃありませんか。

 四番目に滝元明牧師が語ったのは、詩篇 二十三篇六節です。

『まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

 彼は、私の父親ですが、今年で八十五歳です。「二つに一つだ。神様のために働けるか、それともくたばるかのどっちかだ」と自分で言っていましたが、くたばらずにがんばってもらいたいものだと思います。しかしボケないで、シャープに主に仕えることが出来るように祈って下さい。私も自分の為に祈ります。ボケながら仕えるというのは一番始末が悪いですから。

 私たちクリスチャンはすばらしいですね。『いのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来る』というのです。クリスチャンになる前の「幸せ」の世界観は、追い求めていくものでした。チルチルとミチルの幸せの青い鳥の話は、一般の人たちの幸せの世界観をよく表していると思います。「あの山を越えたら、幸せの青い鳥に出会えるんじゃないか…」
 案外、私たちクリスチャンでも、そういう考え方を持っていると思います。「今年こそ、幸せに出会えるんじゃないか。今まで大変だった。」

 クリスチャンになったら、幸せの世界観を転換しなければいけません。幸せ、恵みは、追って来るものです。幸せに追いかけられるほど、幸せなことはないじゃないですか。幸せに追いかけられて、「もうたまらん。こんなに幸せで」と、笑いながら逃げ回る人生になりたいと思います。それが、「いのちの日の限り」です。
 退職の年齢になったらもうだめ、とか、そういうのではないのです。私たちがこの地上にいる限り、いつくしみと恵みが私たちを追って来るのです。ここに、『わたしはいつまでも主の家に住まいましょう』とありますから、これは地上に限らず、永遠の世界にまで続くものです。

 それと共に、明牧師が語ったのは、一九九二年に霊的戦いが突然開かれました。その前後の状況についていは、「主が立ち上がられた日」という本を書きましたので、是非とも読んでいただきたいのですが、本当にあれは、新城教会の歴史の中で、最も強烈で印象深い出来事でした。私たちが考えてみないことが、突然起こりました。聖霊が注がれ、敵は人ではなくて悪魔・悪霊どもであると教えられました。新城を覆っている霊的な黒雲に立ち向かえ!と、主からの声を聞きました。
 あれから、私の人生も全く変わってしまいました。その時、ある意味において、新城教会には痛みも伴いました。
 それまでは、ごく一般的な教会でした。それなりに伸びていたし、いつも楽しかったです。しかし、「教会は仲良しクラブじゃない、神の軍隊の最前線だ」と教えられた時、この教会が引き裂かれるような事件が起きました。

 ある意味、新城の霊的領域が開いた日に、一方では閉じた領域もあるのです。新城市民が「新城教会に何が起こってるんだ?」と、今まで教会に対して持っていた良いイメージが閉じてしまったような、悲しい側面がありました。私たちもそれを強く感じました。
 あれから二十年経って、だいぶ回復し、多くの市民の方が教会に出入りしてくださるようになり、心から感謝しています。今回、語られた中で、一九九二年に主が閉じられた扉を、もう一度、開いてあげると示されたというのです。そしてイザヤ書四十九章十八節〜二十節の言葉を引用しました。

『目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている。──主の御告げ──あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。あなたが子を失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい』と。』

 人生の中で、人生が廃墟になってしまうような時があるのかもしれません。しかし主なる神は言われます。「再び私たちは建て直されて、この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい」と言う時が来ると。

 二〇一四年は新城教会に、「この場所は私たちには狭すぎる。場所をあけてもらいたい。」というよう年になると、心から信じたいと思います。主が回復を現してくださいます。

 五番目に、四元雅也先生が語ったみ言葉は、第二列王記十九章二十九節〜三十一節でした。

『あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。』

 このみ言葉から、「今年あなたは、下に根を張り、上に実を結ぶようになります」と語りました。大風が吹いても木が倒れない為の条件は、多くの実をつけるよりも、地下にどのくらいしっかりと根を張っているかどうか、否かにかかっています。人生も同じだと思います。見えるところをいくら飾り立てても、根がなければ倒れてしまうのです。信仰生活も教会も、まさに同じだと思います。

 しかし今年は、あなたの根をさらに深くしてあげますよ、同時に、実を結ばせてあげますよと、主が語ってくださっていると信じます。大変、励まされるみ言葉です。
 それも、私たちの努力ではなく、「万軍の主の熱心」がそれを成し遂げるというのです。主自ら、そのことを熱心に願っておられ、主の熱心さがそれを成し遂げてくださるというのです。

 残された者、逃れた者、一見、弱く見える人たちが、今年は主によって用いられる年となるという、希望の御言葉を語ってくれました。

 最後に、滝元開先生が語ってくれたのは、使徒の働き十五章十六節〜十八節のみ言葉でした。

『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』

 今年は、主がダビデの天幕を建て直してくださる年だというのです。ダビデの天幕とは、賛美との関わりがあります。しかし、それはただ単に、旧約聖書の幕屋が回復するというだけでなく、新約的概念が付け加えられて、幕屋が回復するのです。それは新しい賛美によって、ダビデの天幕が建て直されるというみ言葉でした。
 悪魔は、かつて、エゼキエル書二十八章十二節を見ると、『全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった』というのです。悪魔・悪霊どもは、神の前で主を賛美する者たちでしたが、ある時、自分も神のように称えられたいという高ぶりにより、地に落とされたのです。
 その時、彼が持っていた笛の音も、神への賛美も、地上に落とされ、彼は自分自身を賛美させ、礼拝させるために音楽を使ったのです。
 しかし、私たち、クリスチャンにより、かつては、悪魔・悪霊どもが堕落前に天で賛美していた領域を回復するというメッセージでした。

 サタンは、「暁の子」と言われていました。それほど天で名声があった存在でした。けれども、地に落とされてしまったのです。
 クリスチャンはどういう存在でしょうか。神が天で失ったものを回復する存在であり、「暁を呼びさます」存在だと語りました。詩篇五十七篇六節〜八節、

『彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました。 セラ 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

 かつて神様の前で歌われていた賛美を、ダビデの天幕が回復される時、さらなる新しい思いで、暁を呼び覚ます者となるのです。それは国々の土台を勝ち取るものであるというのです。

 是非祈っていただきたいと思いますが、二月は、タイのチェンマイと、山岳地帯でリバイバルミッションが開かれます。明日から二日間、二十四時間連鎖PPHが開かれるのですが、そこにはタイから牧師が来て、メッセージを語ってくれます。明日からも来ていただいて、ナロン先生が語るメッセージを聞いて下さい。神様はただ日本だけでなく、国々の霊的な土台を勝ち取る働きをゆだねておられます。

 このように、六人の先生方を通して、主からのメッセージが伝えられました。是非、語られたみ言葉を心にとめ、一年、過ごしていただきたいと思います。きっと、み言葉通りのことが起こると信じます。

 さて、今年、私が主からいただいたみ言葉は、近頃のメッセージの中で語らせていただいていることと関連するのですが、マラキ書三章十節〜十二節です。

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる──すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。』

 この言葉は、すばらしい言葉ではないでしょうか。三章十二節。

『すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。』

 今年、周りの人たちから、「あなたって本当にしあわせだね」と言われるような年になると信じます。
 み言葉は約束の種ですから、是非、受け取っていただきたいと思います。今年あなたはすべての人々から、「しあわせ者」と言われるのです。なぜならば、あなたが「喜びの地に住んでいるから」です。教会に神の国が訪れるときに、天が開かれ、そこに住む者たちは幸せ者となるのです。なぜなら、この地においても、私たちは神の国に住むからです。悪魔・悪霊どもの支配ではなく、神の支配の中で生きるからです。

 今年主は、「経済的な領域で祝福を与えます」語っておられると、私は信じます。経済的にも豊かになるのです。
 しかし、経済的な豊かさにより、ある意味では、幸せを満喫できるのですが、一方では、大変危険な領域も合わせ持っています。その事に関して、今週の日曜日の礼拝の時にも語らせてもらいました。
 私たちは経済の世界から恩恵を受け、幸せになろうとするのですが、そここそ悪魔の軍団の最前線があると話しました。
 この世は、悪魔の支配下にあると聖書は告げていますが、悪魔・悪霊どもは、世界の経済界を握っています。私たちは、その中で、ビジネスをしたり、様々な活動に従事し、そこから上がってくるもので豊かになるのです。この世にある富は、イエス様が言われた「不正の富」と呼ばれるものばかりです。

 しかし、それは、いのちの道へとつながっている不思議な領域です。それについても日曜日に語らせていただきました。最も危険な領域から、「しあわせ者」と呼ばれるようになるのです。そのために何が一番、大切なのか。三章の十節に、

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』

と書かれています。聖書の多くの箇所は、「神様を試してはいけない」とありますが、ここだけは、「試してみよ」と勧められています。
 どうやって試すのでしょうか。これは、『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ』とあります。十分の一の定義というのは、なかなか難しいのですが、私たちは経済の中で活動していますが、そんな中、私たちが神の領域と、人の領域を、しっかり区別できるか否かに、かかっているのではないかと思うのです。
 経済の領域に働いている悪霊どもは、本当に強力です。気を許したら巻き込まれます。巻き込まれないで、経済界を支配するマモンの力に勝利するには、一つの原則をしっかりと身につけなければなりません。それは、神のものと、人のものを、しっかりと分けることです。
 ここで、「十分の一を、神様の家の食物をせよ」とありますが、例えば、「私たちの収入の十分の一は神のものだ!」とはっきりと区別し、神の国の働きのために捧げることは、悪魔が支配しているただ中に、神の領域を宣言する、現代を支配する暗闇を打ち破る、重要な戦いです。それを一回試してみなさいというのです。
 もしも自分の経済活動の中で、神の領域と、自分の領域が、明確に線引きされていないなら、是非、試して下さい。何が起きるのか楽しみです。新城教会が今まで祝福されてきたのは、貧乏な中にあっても、常に、神の領域と、人の領域をしっかりと区別する信仰が、継承されたからではないかと思います。その時神が、いなごをしかって、作物を食い荒らさないようにして下さるのです。

 人生って、ちょっとしたことでつまずきます。うまくいっていると思っていても、突然、病になって倒れたら、経済活動に従事出来なくなります。ある日、ちょっとしたことで、歯車が狂い始めます。人生の歯車が狂い始める原点は、見える世界ではなく、発信源は見えない世界から始まるのです。これを食い止めるためには、神のものと人のものをしっかりと区別することです。

 近頃、日本の経済が活発になってきました。四十数年ぶりに、大きく株価が上がったと言われます。一昨年末の日経平均は一万円そこそこだったのが、昨年の三十日には、一万六千台まで上がったのです。安倍首相が、「Buy my Abenomics」とか言って、「俺に期待しろ」とか言って威張っていますが、「安倍首相はうまくやった」と思わない方がいいです。なぜなら、経済の領域は、すべて作為的に操作されているからです。
 経済の領域は、偶然の世界ではなく「システム」なのです。システムとは何かというと、「誰かによって作られたもの」なのです。みなさんが何かのシステムを作るとしたら、どういう風に作りますか?それは、自分が不利益になるようなシステムは絶対に作らないはずです。作る人が利益を得るシステムを作るはずです。
 「金融システム」とは、作られたものですから、最初に作った人の意図により、利益が全てそこに集中するようにできているのです。
 現在のすべての通貨には、裏付けがありません。かつては、千円分の紙幣を持っていたら、千円分の金に交換できる、「兌換紙幣(だかんしへい)」でした。しかし今は、それは全て廃止されたのです。一九七一年からです。紙幣はただの紙っぺらです。現代人は、何の裏付けもない、紙っぺらに全幅の信頼を寄せているのです。そして、それらの動きは背後で操作されているのです。

 経済の世界は、魚釣りと同じだというのです。ある時は糸を出し、ある時は糸を引く、魚釣りのようです。近頃はどういう時期かというと、ある人たちが作為的に糸を出している時期です。だから、株価は上がるし、金利は下がるのです。そうすると人々は、「私の会社はうまく行っている、土地を、建物を、貴重品を手に入れよう」と、躍起になるのです。

 人々が実質資産を手に入れると、次に何がなされるのでしょうか。今度は、糸を出すのではなく、巻く方に転換するのです。それは、今までの世界経済の歴史を見れば明らかです。うまくいっているただ中に、ある日、突然、リーマンショックのような恐慌がやってくるのです。
 それらは、自然に起こるのではありません。作為的に起こされるのです。釣り糸を巻き取ったらどうでしょうか。株価は下がり、金利は上昇します。その結果人々は、返済の為に、自分の持っている財産を手放すしかなくなるのです。その結果、財産は誰の所に行くのですか?あなたに金を貸した「銀行」に行くのです。

 金融のシステムは、銀行に集約されています。糸を出したり引っ込めたりして、実質的な土地や建物や財産を手に入れる策略があるのです。
 自民党になって安倍政権に変わった途端、為替は変動し、株価が上昇したじゃないですか。その背後には取引があるのです。それはいつまで続くかは分かりません。
 私たちは、常に、祈って関わる必要があるのです。
 もしかしたら、今年はもっと株価も上がり、経済的には良いのかもしれません。でも、その時、私たちは、神のものと人のものをしっかりと区別して、敵の力に立ち向かう姿勢が大切です。マモンという敵に立ち向うのです。霊的戦いの視点が経済界に対してあるなら、危険から守られると信じます。

 我々は不正の富を勝ち取って、神の国のために使わなければいけません。世界の金持ちには、日本国を何回でも買えるくらいの超金持ちがいるのです。
 一度に、気兼ねなく使える額の限界はいくらですか。私は千円くらいです。千円くらいなら、ぱっと出してもいいです。千円が私の一つのリミットです。昼にランチ食べに行っても、千円より上か下かを基準にします。夜になったら千五百円くらいにあげたいところですが、千円のリミッターは中々外れないです。
 ある人は、五千円という人もいるかもしれません。一万円という人もいるかもしれません。しかし世界には、我々の千円感覚が、百万円とか、一千万円の人たちも存在するのです。自分の欲望のために、限りなく金を使い、人々を踏みつけている人もいます。それは滅びの道です。

 それは、経済の領域が悪魔・悪霊どもに支配されているからです。クリスチャンはそれを神の為に、取り戻さなければいけないのです。

 不正の富があったら、日本を変えることができます。例えば、ここに百億円あったら、日本全体を変える為の活動ができるでしょう。もう一回、甲子園ミッションだってできます。武道館を借りての集会も簡単にできます。また、テレビを借り切って、キリスト教番組を作ることもできます。でも、金がないからできません。

 しかし、どうでしょうか。クリスチャンが豊かになり、霊的戦いをしっかり知って、不正の富のただ中に入り込み、不正の富を勝ち取り、神の国のために使ったら、世界は変えられるのです。
 イエス様は言われました。時には不正の富と仲良くなる必要もあると。しかし、一方では、ふたりの主人に仕えることはできないとも言われました。神に仕えるのか、マモンに仕えるのか。本当に微妙な選択の中に、私たちは生きているのです。
 経済の領域は、大変重要な領域であり、霊的戦いの領域で、最も激しいものです。今年はこの領域の戦いに勝利しましょうと、主は語っておられます。

 そして、その中で必要なのは、神のものと人のものをしっかりと分けることです。旧約では、十分の一をしっかりと分けなさいと語られています。みなさんが、神様から与えられた、いわば不正の富から勝ち取ってきたものを、しっかりと「これは神のものだ!」と、宣言してください。神様を試してみたら、どんなことが起きるのか楽しみです。
 今年主は、みなさんに経済的な豊かさを与えようと願っておられます。その為に、マラキ書三章と経済の世界の霊的戦いをよく理解し、不正の富のただ中に飛び込んで、悪魔に渡る富を神のために取り戻しましょう。
 「あなたはしあわせですね。なんで、そんなにしあわせなのですか」と周りから言われるような、経済だけでなく、霊も、魂も、健康も、人間関係も、総合的な祝福を下さると信じます。

 最後に、今年語られている、もう一つ、重要だと思われる事柄がありますので、お分かちします。
 世界の歴史を見ますと、戦いの繰り返しです。かつてヨーロッパは、ローマ・カトリックに千年以上苦しめられました。そんな中から、マルチン・ルターや、カルビン等を通し、宗教改革が起こりました。特に、カトリック信仰を強く持っていた国がフランスでした。その結果、人々は真理から遠ざけられたのです。ドイツもその影響を受けていました。
 やがてドイツとカトリック信仰の強いフランスとの間に戦争が起こり、ドイツがフランスを破りました。民衆は「すばらしい!プロテスタント国がカトリックの国を破った!これでいい世界になる!」と喜びました。
 しかし、ドイツは帝国主義を身にまとい、ヨーロッパ全土を侵略するようになりました。
 それで今度は、ドイツに期待したイギリスは、フランスと一緒になって、ドイツの帝国主義に立ち向かったのです。それが第一次世界大戦です。
 「ドイツの帝国主義をやっつけたぞ!良い国が出来る!」と喜んだのも束の間。また次の戦いが起こったのが世界の歴史です。

 「この主義主張はおかしな考え方だ。共産主義なんてもってのほかだ!」と、つぶしにかかるのですが、資本主義が勝利しても、その後も戦いは延々と続くのです。正しい主義、主張はこの世には存在しないのです。

 平和とは、戦争が終わり、次の戦争までの準備期間なのです。しかし、私たちクリスチャンが求める平和は、「神の国の平和」です。それは、イエス様が再び地上に帰って来られる時に訪れます。私たちがフォーカスを当てなければならないのは、神の国の平和です。私たちは主が帰って来られる日をどのくらい意識して、毎日を過ごしているのでしょうか。
 そのように問われると、私たちは目の先のことしか祈っていないのかも知れません。

 今、日本が右傾化して危ないと言われます。しかしそれは当然のことです。太平洋戦争が終わって、六十八年。一つの戦いが終わって平和が続いていますが、平和とは、次の戦いのための準備期間ですから当然の事と言えます。放っておけば、必ず、日本はまた戦うのです。これは歴史が実証していることです。次の戦いが終わって平和になっても、また次の戦いのための準備が始まるのです。これは人類が滅亡するまで続くのです。

 そんな中で、私たちは、どこにフォーカスをあてたら良いのでしょうか。現政権の交代まででしょうか。中国、北朝鮮、韓国との関係回復まででしょうか。しかしそれは、真の平和にはつながらないのです。
 私たちは、主が再び帰って来られる日が早められるように祈らなければいけないのです。
 第一コリント十五章二十節〜二十五節。ここで霊的戦いの究極的勝利が、いつ勝ち取られるのかが示されています。二十四節、二十五節を見ますと、

『終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。』

 世界の国々の支配の背後に、悪魔・悪霊どもの力があります。それらが一掃される時、完全な神の国の平和が来るのです。それがイエス様が再び帰ってこられる日に起こされます。その日、世界のすべての戦いは終結するのです。私たちが目標にしなければならない平和と祈りは、ここにあるのです。

 日本のキリスト教会に大きな影響を与えた、内村鑑三という人物がいます。彼はキリスト教思想家として有名です。彼を通して、大正時代にリバイバルが起きました。同時に、いろんな問題も起こったのですが、リバイバルが起こったのは事実です。日本に聖霊が注がれて、日本の諸教会が変化したのです。
 内村は「私は生涯に、三度大変化を経験した」と語っています。第一回目は、「私がキリスト教の神を認めた時だ」と言いました。「第二回目は、私がキリストの十字架において、自分の罪のあがないを認めた時、人生が大きく変わった」と言いました。
 そして、「三回目の大変化は、キリストの再臨を確信するに至り、生涯に大革命が臨んだ。これは確かに私の生涯の大事件だ。再臨が分からなければ聖書は分からない」と語りました。そして再臨待望の集会を始め、聖霊が注がれ、日本にリバイバルが起こりました。
 時代的な背景もあり、そこにはいろんな問題が起こったことも確かですが、彼らの中心的な祈りは、「主よ帰って来てください」という、主が地を支配して下さるようにと言う究極的な祈りでした。再臨に対する渇望と祈りは、大革命を現す祈りである事は確かです。

 主が再び帰って来られ、地を治めてくださるように、祈らなければならないと、今回、強く教えられました。
 先ほども、マラナタと歌われました。マラナタ。主よ来てください。世界は主を待ち望む、と。「マラナタ」という言葉は、イエス様が当時使っておられた、ヘブル語の方言のような、「アラム語」でした。聖書の中でマラナタというアラム語が出てくるのは、第一コリント十六章二十二節です。

『主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。』

 ここに、「主よ。来て下さい。」すなわち「マラナタ」というアラム語がそのまま使われています。マラナタとは「マラナ」と「タ」という言葉がドッキングして出来た言葉です。「マラナ」というのは、「私たちの主よ」という呼びかけです。「タ」とは、命令形で、「来い!」という意味です。
 マラナタは命令形です。「主よ、来てください。」、荒っぽく訳すなら、「主よ、来い!」となり、これはまさしく宣言です。「御国が来ますように」と、主の祈りの中にありますが、「マラナタ。主よ、来たれ!」という宣言も同じ概念です。今を生きる、クリスチャンは、真剣にこの宣言をしなければならないのです。
 このままでは、世界は平和と戦いを繰り返します。本当の勝利は来ません。経済の世界も、釣り糸が出たり、引っ込んだり好景気と不景気の繰り返しです。しかし「主よ来たれ!マラナタ!」と叫ぶとき、神の国が訪れるのです。

 初代教会の祈りは、常にマラナタの祈りでした。彼らは「主よ来てください」という、マラナタの祈りをもって、常に祈りを結びました。黙示録二十二章十七節、

『御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 』

 「マラナタ。…主よ来たれ!」と、「神の支配がこの地に臨むように、毎日祈りなさい」と、今年、主は私に語ってくださいました。

 最後に、今回語られた預言的メッセージを、私なりに、私の感覚でまとめましたので、先生方にはちょっと怒られるかもしれませんが、勝手にまとめてみました。最後にそれをお読みし、ご一緒にお祈りしたいと思います。



〈2014年、預言的メッセージ〉

あなたは、未来に備え、良い基礎を築き上げなさい。なぜならわたしの働きは、今年で終わるものではなく、これからも続くからです。この世と調子を合わせる事なく、純粋にわたしに仕えなさい。

わたしは新城教会に属する、すべての者に天を開きます。聖霊が力強く訪れ、すでに開かれている天の破れが、さらに大きく広がります。わたしに忠実でありなさい。

今年は「成就と再建の年」となります。あなた方が長い間、涙と共に祈り、戦って来た事柄は、何一つ無駄になっていません。それらはすべて成就するのです。その為に準備しなさい。

「いのちの日の限り」、恵みといつくしみとがあなたを追ってくるでしょう。今年は1992年に閉ざされた扉が、開かれる年となります。今の場所はあなた方にとって狭すぎるようになります。

下に根を張り、上に実を結びなさい。その為に祈り備え、み言葉を信じなさい。万軍の主の熱心がそれを成し遂げます。今まで弱さを覚えていた人たちを、わたしは用います。

賛美の領域に変化を起こします。ダビデの幕屋は建て直され、かつてサタンが、天から奪った賛美を、奪い返すのです。暁を呼び覚まし、霊的土台を勝ち取りなさい。

今年、あなたがたに、経済的祝福を与えます。世界経済を支配するマモンを打ち砕き、不正の富を勝ち取り、神の国拡大の為に用いなさい。その為には経済の領域において、神のものと人のものを、しっかりと区別しなさい。そうすれば、すべての国民は、あなたをしあわせ者と呼ぶようになります。

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。マラナ・タ主よ、来てください。」


 このようにまとめさせていただきました。後日、印刷してお届けします。みなさんも自分の祈りを付け加え、主が継続して働かれる一コマの中、二〇一四年は大きな勝利を体験させていただきたいと心から願うものであります。
 最後にみなさんとお祈りの時を持って、終わりにしたいと思います。一度みなさんお立ち上がりください。今日、語らせていただきましたみ言葉の種をしっかりと受け取っていただき、二〇一四年に成就するように祈ろうじゃありませんか。
 「主よ。私はあなたを待ち望みます。マラナタ!主よ来てください!」と、主に叫び求めて、一年を初めて行きたいと思いますが、「主よー!」と大きな声で叫んで、主に叫び求めましょう。

 ハレルヤ。父なる神様。二〇一四年もあなたの年です。私たちは神の国の到来のために祈り続け、戦い続けます。霊的戦いは、あなたが帰って来られるその日に終わります。一日でも早く、この地に主が帰られるように、私たちは全力で道を備えます。私たちをそのために用いてください。
 主が語ってくださった事柄を、み言葉の種とし、剣として受け取ります。今年、三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせて下さい。
 願わくは、今年の内に、主よ。帰って来てください。世界の叫びを聞いて、世界を治めるため、来て下さい。人の支配はもう十分です。あなたの支配をこの地に現してください。
 そのことを宣言し、私たちは、勝ち取った不正の富を主にお捧げします。どうかその中でも、神の国の拡大を見ることができますように。霊、魂、肉体、経済、すべての領域の守りと祝福を宣言します。
 ハレルヤ。主よ。来てください。マラナタ。来てください。主のお帰りを心から待ち望みます。イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。

 イエス様に大きな拍手をしましょう!アーメン!
 お隣の方に、「まもなく、主は帰って来られます。マラナタ!」と宣言して、お座りください。