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『約束された聖霊を受けよう!』

2014年2月2日 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順

使徒の働き 2章17節〜21節

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』


 ハレルヤ!おはようございます。今日もみなさんと共に、礼拝を守ることができ、心から感謝します。
 もう二月ですね。本当に早いです。あっという間に一ヶ月経ってしまいました。この分では、一年も早いのではないかと思います。今月は、タイ・リバイバルミッションが開かれますので、是非とも祈っていただきたいと思います。私もいろいろと忙しいですが、みなさんの祈りに支えられ、守られていることを心から感謝します。

 二月は、私にとって、大きな記念月です。大きな思い出がある月です。それは、一九九二年二月十三日の深夜の出来事でした。夜中の十一時頃、愛知県民の森で、目前にせまった「甲子園ミッション」のために、真剣に祈っていた最中に起こりました。聖霊を求め、真剣に祈っていた時、突然、天が開かれて、聖霊様が訪れてくださったからです。私はあの夜のことを、決して忘れることができません。
 それ以来、私自身も、この教会も、大きく変えられました。当時から、新城教会に来られている方々は、よくご存じだと思います。
 なぜ主は、私たちに聖霊を注いでくださったのでしょうか。その理由が、今日読んだみ言葉の中に記されています。

 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。』

 旧約聖書を見ると、聖霊が注がれたのは。ごくごく一部の、預言者と呼ばれるような、特定の人にしか注がれませんでした。しかし、「すべての人に聖霊が注がれる時代が来る」と預言されていました。それがいつかというと、「終わりの日」だというのです。終わりの日になると、聖霊の注ぎが頻繁に起こるのです。

 先週は、「霊的戦い専門課程」がありました。霊的戦い専門課程を始めて、自らの首を絞めるような事になってしまいました。なぜなら、毎月、牧師先生たちが集まりますから、新しい情報をお届けしなければならないからです。私の身にもなってください。すぐに一ヶ月って経つのです。他の事をやっていると、「あっ!専門課程は来週だ!」という感じです。先週は特に最悪でした。その前の週は、一週間、タイに行っていたからです。いつ準備をしたらいいのだろう、という感じでした。しかし、いつも不思議な体験をするのですが、真剣に主に叫び求めると、必ず、その月のテーマが与えられるからです。

 今回扱ったのは、明治・大正・昭和・平成という時代に起こった、日本のリバイバル運動についてでした。私は、天皇の生き死にで時代区分がなされる事自体に、疑問を持っています。気にくわないのですが、便宜上、そのように時代を分ける中、明治から今に至るまで、日本に聖霊が注がれているのです。
 ある日突然、天が開かれ、明治時代にも、大正時代にも、昭和初期にも、そして、平成になっても、聖霊が注がれているのです。これは紛れもない、「主が日本に自ら介入された証拠」です。
 それは何が言えるのかといったら、まさに、今は終わりの日であるという事です。イエス様が再び帰って来られる直前だから、特定の人にしか注がれなかった聖霊が、すべての人に注がれているのです。時至って、預言が実現しているのです。
 私のような者にも、主は触れてくださいました。ということは、何が言えるのでしょう。それはまさに、「終わりの日」を過ごしていると言う事です。
 『すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』というのです。子どもからお年寄りまで、全員に聖霊を注ぐと約束されています。
 使徒の働きに記されているみ言葉は、ヨエル書からの引用です。これは紀元前九世紀、イエス様がお生まれになる八百年から九百年くらい前に、ヨエルによって語られた言葉でした。「終わりの日になると、すべての人たちに聖霊が注がれる」と。

 一九九二年二月、県民の森にいた、私を含め、八名の若者たちに聖霊が注がれました。当時、私も若者の一人でした。姿も形も違いました。
 その後に起こった事を覚えておられますか?一九九二年の七月、賛美集会の中、突然、子どもからお年寄りまで、全員に聖霊が注がれたことがありました。子どもたちは聖霊によって走り出し、老人たちは踊り出し、まさに全会衆に聖霊が注がれることを体験しました。あれは今から三千年近く前のヨエルの預言が、この場所にも実現した瞬間でした。
 それはなぜかといったら、終わりの日が近づいている証拠でもあるのです。

 世界では様々な宗教運動が起こるのですが、ある宗教学者によると、一つのムーブメントは、必ず、同じプロセスを辿っていくというのです。どんなプロセスを経ていくのかというと、「生成→発展→対抗→迫害→円熟→衰退」と進んでいくというのです。
 ある運動が生成、発展過程を経ていくと、必ず、対抗勢力が出て来て、それと戦うというのです。そうすると今度は、迫害が起こって来るというのです。迫害が起こると、運動はだんだんと円熟するというのです。おとなしくなるというのです。そして、最後には、衰退していくというのです。この過程を繰り返すそうです。
 ある意味において「リバイバルミッション」の働きも、同じようなプロセスを踏んでいるような気がします。一九九二年当時、若者だった方々、リバイバル運動の生成・発展過程を体験したじゃないですか。当時、みんな燃えていました。明日にでもリバイバルが来るような、そんな気持ちで働いていました。
 聖霊が注がれたあと、いろいろと、対抗・迫害の過程が生じて苦労しました。迫害は、今まで続いています。それに耐えて、今年で二十二年目です。だいぶ円熟してきたのかもしれません。しかし、円熟したらおしまいです。次に待っているのは衰退だからです。

 しかし二十二年以上、霊的戦いを続けることができたのは、不思議なことだと思っています。だいたい、このようなムーブメント、運動は、数年で衰退します。
 明治・大正・昭和の聖霊運動も、二、三年で衰退していきました。当時、聖霊が注がれたグループも、今や、リバイバルの働きに対抗しています。
 二十二年間、心から感謝しなければならないと思います。一九九二年当時から、私を知っている方々は、一九九二年当時より、今の方が燃えているのがわかるでしょう。ピリピ人への手紙三章十三節〜十四節に、こんなみ言葉があります。

『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』

 これはパウロが語った言葉ですが、私たちは「生成→発展→対抗→迫害→円熟→衰退」というような、この世の法則に絶対に従ってはいけません。
 私は今月のリバイバルミッションニュースの巻頭言にこんな風に書きました。

 「全日本リバイバルミッションは『日本にリバイバルを』という切なる願いと、熱い祈りと共に、一九九三年に開催された「全日本リバイバル甲子園ミッション」をきっかけに発足しました。以来、私たちはこの一時に励んで参りました。ある宗教学者は、世界各地で発生する宗教運動を類型化すると、「生成→発展→対抗→迫害→円熟→衰退」へと推移すると論じています。そして、日本に起こったリバイバル運動も例外ではないと言います。
 リバイバルミッションの働きも、ある意味、この類型に当てはまる部分もあるような気がします。しかし、この働きに長年携わってきた者の一人として、はっきり言えるのは、働きが始まって、二十年以上が経過した今も、実行委員を始め、この働きに携わっている者たちは、今もなお発展途上にあり、円熟も衰退もしていないということです。あの日に灯されたリバイバルへの情熱は、さらに燃えています」

 私たちは「この一事に励む」というパウロの言葉を心にしっかりと刻む必要があると思います。決して円熟も、衰退もしてはいけないのです。
 聖霊が注がれ続けるなら、決して、円熟することも、衰退することもないのです。常に、追い求めていくのです。いつまで追い求めるのかといったら、「主が帰られるその日まで」、主を求め続けなければならないのです。その事を、ここから教えられます。

 牧師の働きって、結構、おもしろい仕事が多くあります。私は先週、ある教会からある事を依頼されました。普通、私が他教会から呼ばれるのは、メッセージとかが多いのですが、今回は、「いろいろな問題があるので、一日目は相談に乗って欲しい」と言うのです。そして「翌日には、是非とも、地域のとりなしをして下さい」と言うのです。
 問題があって、あらゆる手を尽くしているけれど、霊的なものがうごめいている気がしてならないというのです。「あなたは霊的戦いを専門にやっているでしょ。私たちも霊的戦いを一生懸命やっています。しかし、何か超えることができない壁を感じます。だからその壁を越える祈りをよろしく」と言うのです。あまり楽しい仕事じゃないな~と思いました。しかし、甲子園時代からよく知っている教会で、お邪魔させていただきました。

 その教会は、教会活動だけではなく、キリスト教精神の社会活動もやっています。それが結構大きくなりました。しかしやはり、「生成→発展→対抗→迫害→円熟→衰退」という過程を経ているようでした。その働きの生成過程と発展途上の時はみんな燃えていたのです。働きをする人たちも、みんなクリスチャンで、主を礼拝し、真剣にやっていたのです。しかしだんだんと一般化され、ビジネスのようになり、クリスチャンでない人たちも多くその働きに加わり、今や、クリスチャン職員は数名だというのです。だから、いろんな問題が起こって、経済的にもすごく大変だというのです。
 私たちも、その事から、多くを学ぶことができます。ある時期は燃えて、主のための働くのですが、だんだんと悪魔に攻め取られ、浸食されるのです。初めに与えられたビジョンから変化し、ビジネスになったり、御心から離れていくと、必ず、様々な問題が起こって来ます。
 聖書の中に、「賜物と召命は変わらない」とありますが、主が与えてくださった賜物と召命を最後まで、大事にしなければなりません。その一事に励み、聖霊によって保ち続けなければならないのです。十年経っても、二十年経っても、五十年経ったって、百年、二百年経っても、最初の精神をしっかりと保たなければなりません。どんなにいい働きでも、悪魔はちょっとずつ陣取り合戦のように崩し、最後には落とすのです。
 宗教学者が世界の働きを見ながら、円熟期を迎えたら、働きは必ず衰退すると統計的に告げています。それは的を得ていると思います。この一事に励んでいかなければ、同じ過程をたどります。

 私はいろんな問題を聞きながら、「何を祈って差し上げたらいいのかな…」と思いました。それで私は「今、一番必要なことは一体何ですか?」と聞いたら、経済的な問題でした。聞いたら莫大な借入金がありました。やはり教会の働きですから、銀行も、結構高い利息を取っているのです。
 金を銀行から借りている方、どのくらいの利率で借りていますか。そこの利息は四パーセントだというのです。それが現実的な働きを、強く圧迫しているというのです。それで、切実な願いは、利息が二パーセントになったら、楽になるというのです。「だから具体的に、借入利息が、四パーセントから二パーセントになるように祈ってください」と言うのです。「そんなの無理だよ…。」と、話を聞きながら思いました。なんてことを要求するんだと、思いました。

 でも今年、私が主から示されていることは、経済的な祝福についてです。今年の祈りの課題について、みなさんにも、お話したと思います。それを毎日、私は祈っています。

「今日も未来に備えて、良い基礎を築き上げさせてください。
純粋に主に仕えさせてください。
今日も天が開きますように。
すでに開かれている天の破れが、さらに大きくなりますように。
今年は成就と再建の年になります。
いのちの日の限り、恵みと慈しみとが追って来ます。
今まで閉ざされていた扉が開かれる年となります。
今日も、下に根を張り、上に実を結ばせてください。
賛美の領域に、新しい変化を起こしてください。
私は、暁を呼び覚まします。
今年は、経済的に祝福されることを宣言します。
世界経済を支配するマモンの力を打ち砕きます。
そのために、神のものと、人のものとをしっかりと区別させてください。
マラナタ。主よ、来てください」

と毎日のように祈っています。特に今年は、「経済の領域を祈らなければならない」と教えられています。不正の富を勝ち取り、神の領域を宣言するという事を教えられています。そのことを意識して、自分の信仰が変わったような気がします。
 私は、そのことを証しました。そして「取引銀行のために、とりなして祈らなくてはいけない」と話ししました。
 すると、「まさにそうだ!私たちの活動って、イエス様のためというよりも、銀行のためにやってる」と言いました。そして「銀行に、とりなしの祈りに行ってください!」と言うのです。
 「簡単に言うな…」と思ったのですが、「取引銀行の前に行って、利息が二パーセントに下がるよう、祈ってください」と言いました。

 それで、その人たちの取引銀行の駐車場に車を停めて、みんなで真剣に祈りました。「主よ。この銀行は教会から四パーセントも利息を取っています。二パーセントにしてください。銀行の心を変えて下さい!」と、真剣に祈りました。
 でも、銀行って、監視カメラがついていていますから、不審者に見られないように気をつけながら祈りました。
 祈りを終えたら、その教会の借り入れを担当している人が、「今、祈ったから、今から、支店長さんに会いに行って来ます」というのです。「気が早いな…」と思ったのですが、その人は銀行に入って行きました。そして入ったきり、三十分、四十分、経っても出て来ませんでした。どうしちゃったのかなと思ったら、体を震わせ、泣きながら銀行から出て来たのです。
 「やっぱり駄目だったのか…」と思ったら、「今までは『これは契約ですから絶対に利息は変更できません。駄目です』と言っていたのが、二パーセントにしてくれるって言ったんですよ!」と、泣きながら出て来ました。
 「すごい!!」私も感動して、嬉しかったです。祈った時、天が開かれたんだなと、興奮しました。

 でも、銀行というのは、支店では駄目なのです。本店決済ですから。話が支店から本店にあがると、結構、駄目だと言われる事が多いのです。それで私は言いました。「本店で駄目と言われたら、それでおしまいですよ。だから、本店にも行って、とりなして祈った方がいいですよ。時間がある時に行って祈って下さい。」と言いました。
 そうしたら、「今から、本店に行って下さい!!」と言うのです。私も、本店に行って祈らなければならない気がしました。それで本店まで祈りに行きました。もう午後の四時過ぎでした。銀行って三時でシャッターが降ります。ほとんど、人気がありませんでした。駐車場の隅の方に行って、みんなで真剣に祈りました。「イエス様!先ほど、支店が二パーセントと言いました。これが本店でもなりますように!」と、みんな切羽詰まっていますから、真剣に、祈りました。
 祈りが終わりました。すでにシャッターは閉じ、銀行業務は終わっています。さあ、帰ろうかと言ったら、またその担当の方が、「今から、私、本店の中に行きます!!」と言うのです。
 「ちょっとやめてよ、後にしてよ…」と思いました。すぐに生の情報に接するのは怖い感じもしましたから、「後にしてよ」と言ったのですが、「いや、今祈ったのですから、今からいってきます!」と、裏口から入ってしまったのです。
 すると、またしても、三十分経っても出てこないのです。四十分経っても出て来ないのです。一時間くらいしたら、また泣きながら出て来ました。今度こそ、駄目だったのか…と思いました。

 その人が裏口から銀行内に入って「近くまで来たので、ご挨拶に来ました」と言ったら、なんと、本店の貸し付けの責任者が出て来たそうです。その人の気持ち次第で決済は変わるのです。
 「ちょっとだけ、ご挨拶に来ました」と言ったら、「まぁ、せっかくだからちょっと寄って行きなさい」と言って、対応してくれたというのです。
 そしてなんと、「四パーセントの利息から、二パーセントに下げてあげますよ」と約束してくれたというのです。それで、嬉しくて泣いて出て来たのです。「やった!」という感じです。先週の稼ぎは、数百万円でした。でもそれは、私の稼ぎではなく、その教会の稼ぎですが。
 それで一同、もう本当に喜んで、「奇跡を見た!!」と興奮しました。それで翌日も、真剣に、地域をとりなし祈りました。
 みんな、「初心に戻って、主の為にがんばりたいです!」と言っておられました。主が働いてくださると、不思議なことが起こります!

 経済の領域も、あきらめないで祈ってみるもんですね。本店に行った時、偶然にも、貸し付けの責任者が出て来たのです。はじめは、ちょっと戸惑ったというのです。「どうしようかな…」と。しかし聖霊様が、責任者の心を開いてくれたのです。いろいろと話しているうちに、「四パーセントを、二パーセントにさせていただきます」と約束してくれたというのです。人ごとながら、本当に嬉しかったです。
 主は祈りを聞いてくださいます。それは、聖霊様の働きです。聖霊様が働かれる時、勝利があるのです。聖霊様が来られる時、困難な領域にも勝利を与えてくださる事を、先週も体験させていただきました。うちの教会の銀行関係も祈らなくちゃ、と思ったのですが。

 一九九二年に聖霊が注がれた体験は、今も、忘れることができません。愛知県民の森に入って、一週間の徹夜祈祷会をしました。最後の夜、みんな疲れ切っていました。誰も声を出して祈ったりしませんでした。「三十分経ったし帰ろうかな…」と思っていた瞬間でした。私の耳には、何か飛行機が飛んで来たような、ゴーという、津波がこっちに来るような感覚を覚えました。それと共に、みんな真剣に声を出して祈り始めました。「主よー!リバイバルをください!聖霊を注いでください!」と。

 私はみんなが声を出して祈り始めた時、ちょっと腹が立ちました。三十分経ったら帰ろうと思っていましたから、「帰れなくなっちゃうじゃないか。なんで声を出して祈るんだ」と思いました。しかし、みんな聖霊によって祈っていました。
 突然、その波が、私たちの所にどんっと入って来ました。その瞬間、そこにいた人たちのほとんどが、固いコンクリートの上に倒され、私も気がついたら、頭をコンクリートの床にすりつけて「おぉ、主よ、おぉ、主よ!」と、なんだか訳の分からない祈りをしていました。それでハゲたわけではないのですが。あの日から、すべてが変わってしまいました。

 しかし、そこから一つの重要なことを、主から教えていただきました。毎年一回はこのみ言葉を引用するようにしているのですが、第二列王記四章一節〜七節です。今年も、みなさんに紹介しなければいけないと思います。
 それは、聖霊の油注ぎを奪われないためには、どうしたらいいかについてです。その秘訣を、聖霊が注がれた翌日から、主は教えてくださいました。これは本当に大きな霊的財産だと思っています。
 私は国内だけではなくて、海外でも奉仕をさせていただく特権に預かっているのですが、第二列王記四章一節から七節からよく話すのですが、世界中、どの教会に行ってもみんな心を開いて受け入れてくれるメッセージが、この箇所からのメッセージです。同じニーズが全世界にあることに驚いています。

 これは預言者エリシャが、やもめの家に起こした奇跡の物語です。第二列王記 四章一節〜七節、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 新約聖書を見ると、油は、聖霊を象徴しています。ですから、エリシャが実際に油を増やした奇跡は聖霊に関連していると理解できます。しかし、油は人格ではなく、物質ですから、聖霊ご自身と言うよりも、聖霊から与えられる「使命や賜物」に置き換え、理解できると思うのです。その視点で、油が増えたプロセスを見る時、聖霊に満たされる秘訣が分かって来ます。また、様々な問題の根源に、何が関わっているのかも分かって来ます。

 この事件が起きたのは、預言者の妻の家でした。ご主人は先に死んでしまったみたいです。残された奥さんと、二人の子どもたちは、大変な苦しみの中にいました。そこに、エリシャが来て、奇跡を起こしました。
 これは、いわば、クリスチャン・ホームのことを言っています。預言者とその家族は真剣に神に仕えていたからです。
 しかし、結果は惨憺たるものでした。中心的に仕えていた主人は、死んでしまい、残された奥さんと子どもたちは、借金地獄で苦しんでいました。そして、子どもたちは奴隷にされる寸前だったのです。
 そんな時にエリシャがやって来て、油を増やす奇跡を起こしたのです。その結果、何が起こったのか。油が増えた後、エリシャは言いました。
 『行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。』

 私はこの言葉が大好きです。負債が払われるとは、「二度と敵が来ない」ことを意味します。「その残りで、あなたと子どもたちも暮らしていける」。
 本当の幸せは、自分だけの幸せではなくて、新しい世代も含めての幸せです。それも手に入ったのです。
 そのために重要なことは何であるかというと、油が増えることでした。しかし、この油は狙われていました。なぜなら、一節を見ると、毎日のように貸し主が来て、子どもたちを奴隷にしようとしていたからです。当時、油は大変高価でした。貸し主の目の前で油が増える奇跡が起こったらどうでしょう。全て、持ち去られてしまい、以前よりも悲惨な状況になったはずです。

 しかし、エリシャが一つの指示を出しています。『家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。』と言いました。「うしろの扉を閉める」ようにと、エリシャはやもめに命じたのです。
 その結果、油は盗まれることはありませんでした。そして、やもめのすべての問題は解決へ至ったのです。

 私たちに聖霊が注がれても、うしろの扉が開いていると、せっかくいただいた油さえも持ち去られてしまいます。「扉を閉めろ!」というメッセージが、一九九二年二月、激しい聖霊の注ぎの中から出て来た、宝のようなメッセージでした。常に、油注ぎを内側に秘めておくためには、悪霊に対する扉を閉めなければなりません。
 それも、「あなたとあなたの子どもたちの後ろの扉を閉めろ」とエリシャは言いました。これは家族、家系の中に開いている、悪魔・悪霊に対する扉をしっかりと閉めることを意味します。それが油注ぎを内に秘めておくために、重要であることを、九二年二月に強く、体験的にも、教えられました。

 あれからこの教会に大きな変化が起こりました。うしろの扉を閉める祈り、解放の祈りが始まり、賜物と力をキープするために、後ろの扉を閉める祈りが始まったのです。そして二十二年間の間、その一事に励んでまいりました。
 二十二年間、聖霊様がずっと働き続けてくださっているのは、うしろの扉を閉めた故であると確信しています。その結果、油が残っているというか、燃えているのです。うしろの扉を閉めることは重要です。
 教会では、解放の祈りを、丁寧にさせていただくことにしています。それは、油注ぎを奪われないために、大変重要です。これからもうしろの扉を閉め続けなければなりません。一度閉められた扉を、決して、再び開けてはいけません。時々、私たちは自ら開けてしまうのです。その結果、悪魔に侵入され、せっかく主から委ねられた良い物を奪われてしまう結果になりかねないのです。やがて働きが衰退する理由に、うしろの扉が開きっぱなしのまま働きが進んだり、一度閉まっても、また開けてしまうことがあります。その結果、そのような悲しい事が起こるんじゃないかと思います。

 私たちは、常に後ろの扉をチェックしながら、エリシャが語ったように「外に出て行って空の器を、できる限り借りて来い」と、主に飢え乾き、油注がれたいです。
 油が止まった時、やもめの家族はきっと不満があったと思います。「もっと借りてこれば良かった…」。
 私たちは常に飢え渇き、主を求め続けることが重要です。今日も、空の器を持って、うしろの扉を閉め、主に油注ぎを求めていくならば、必ず、約束の聖霊は私たちに訪れてくださいます。その注ぎは無限であると教えています。

 油というのが聖霊が与える使命や賜物、力であると語りましたが、新約聖書に「油」というテーマで、こんな言葉があります。これも有名なみ言葉です。
 マタイの福音書二十五章一節〜十三節にある、五人の愚かな娘と五人の賢い娘のストーリーです。みなさんご存じだと思いますが、一度読んでみたいと思います。マタイの福音書二十五章一節〜十三節、

『そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。』

 こんなストーリーです。ここにちょっと絵があります。

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 この絵のように婚礼の時に、花婿を出迎える娘たちがいたというのです。聖書では、五人は愚かで、五人は賢かったというのです。五人の賢い娘は、油をちゃんと持っていた娘たちだったと言うのです。
 実は、このマタイ二十五章の解釈には、いろんな解釈があって、難しいところもあるのですが、プロテスタント教会の解釈は、油とは、やはり、聖霊と解釈していることが多いです。私たちが、常に油を持っている、聖霊に満たされ続けることが、大変重要です。

 このストーリーは、当時のイスラエルの結婚式が、どういうものであるか知らないと、理解しにくいです。あるホームページに、この箇所を説明するこんな図が載っていました。

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 ユダヤの結婚式は夜に行われたそうです。花婿の家から花婿は、夜、花嫁の家に花嫁を迎えに行ったそうです。そこには、花嫁の友人が灯火を持って、待っていたそうです。二十五章の記述では十人が待っていました。
 花婿は花嫁を連れて、自分の家に行くのですが、夜道は暗いので、この十人の未婚の娘たちが、夜道を照らすというのです。だから、油が必要なわけです。
 五人は油をちゃんと用意していたけれど、五人は油を十分に用意していなかったのです。だから、「油が足らないから、ちょっとお店に買いに行って来る」と行って、店に行っている間に、五人の油を持っていた娘たちと新郎・新婦は、花婿の家に到着し、宴会が始まってしまったというのです。五人は遅れて家に着いたけれど、宴会の行われている家の中には入れてくれなかったと、いうお話しです。

 これは、何を意味するのかということで、いろんな解釈と論議があるわけです。「聖霊に満たされないと、イエス様が帰って来られる日に、天国に入れてもらえないぞ」というような解釈もあります。こわいですね。
 また世界で救われるのは、半分、半分は滅びるというような考え方もあるみたいです。

 しかし、そのようにこのストーリーを捉えると、一方では矛盾や疑問点も生じてくるのです。聖書の中で、花婿、花嫁とは、イエス様と教会のことを言います。花嫁は、私たち、クリスチャンであり、教会です。と言う事は、「十人の娘たち」とは、いわば外野のような存在です。彼女らは新郎の出迎えを、花嫁から頼まれたはずです。本来、油は、花嫁の家が用意して、夜中に買いに行かなくて良いように、準備しなければいけないはずです。また、夜中に店が開いているのかと、いろいろ考えると、訳が分からなくなるというのです。では、このストーリーの真の意味は何かと言う事です。

 イエス様は何を語りたかったのか、一番言いたいことは何かということになります。それは「だから、目を覚ましていなさい」ということなのです。この中心的意味に、目をとめなければならないのです。
 賢いとは、「目を覚ましている」事です。主が帰って来られる日を意識し、目を覚ましていることが、最も重要なことであると教えているのです。目を覚ましているためには、聖霊の油注ぎが必要である事も、教えているのではないでしょうか。
 近頃、主が帰られる日を目標にして働いていきましょう、というメッセージを語らせていただいています。これは、「目を覚ましていなさい」という、イエス様が一番告げたかったことなのです。私たちは、目を覚ましていなければなりません。

 十人の娘たちは、もっと早い時間に、花婿が花嫁を迎えに来ると思い、花嫁の家の前で明かりを灯して待っていたのです。しかし花婿は来なかったのです。花婿は、準備に手間取ったのでしょうか。深夜になって、やっと花嫁を迎えに来たみたいです。しかし彼女たちは、夜が更ける前から、待っていたのです。しかし、あまりにも花婿が遅れた為に、油も使い尽くし、寝てしまったわけです。これは何を意味するのでしょうか。

 初代教会とは、夜が始まった頃に存在した教会かもしれません。新約聖書を見ると、イエス様の弟子たちは、「明日にでもイエス様は帰って来られるのかもしれない!」という緊迫感で、主を待ち望んでいました。しかしあれから、二千年くらいが経ってしまいました。
 ある意味、教会は、待ちくたびれて、油を使い尽くし、眠りこけている、油を失ってしまっている状況かもしれません。しかし主が帰って来られるのは、突然、それも、「夜更け」に帰って来られるのです。それは、今の時代を意味しているのではないでしょうか。
 私たちは、常に聖霊の油注ぎをいただき、目を覚ましていることが、重要だと思います。働きが衰退しないためにも、常に目を覚ましておくことが大切です。それは教会においても、クリスチャンにおいても、またクリスチャンの家族にとっても、たいへん重要なテーマだと思います。
 常に私たちが目を覚まし、主のお帰りを待ち望みつつ、油を絶やさないで歩むことが、衰退期を迎えないで働きを全うする、カギであると思います。やがて主とお会いするその時まで、走り続ける秘訣ではないかと思います。

 今日、ここにおられるお一人一人、すでに聖霊の油注ぎがありますけれど、それを決して絶やすことがないようにしたいものです。そのためには、まず後ろの扉をチェックしましょう。この頃、油注ぎを失っているという方は、うしろの扉をもう一度閉め直し、飢え渇きを持って主の前に出て行きたいです。

 それと共に、主が帰って来られるその日を常に意識し、目を覚まして主を待ち望んでいくことが重要です。ヨエル書二章二十八節、

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。』

 今は、イエス様が帰って来られる日が、間近に迫った時代です。常に目を覚まして、主のお帰りを迎えることができる者になりたいです。私たちが生きているただ中に、主が帰って来られたら最高です。灯火を灯して、主をお迎えしたいです。
 例えそうではなくても、次の世代が、聖霊に燃え、信仰の火を燃やし続けていく教会になりたいです。もう一度、約束された聖霊を心から求め、主に仕える決断をしていきたいと願っています。最後に一言お祈りします。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。終わりの日にわたしの霊をすべての人に注ぐと、約束してくださったことを心から感謝します。この二月、主が、私たちの教会に訪れてくださいました。心から感謝いたします。この二十二年間、主の守りの中で、生きることができたことを、心から感謝をします。これからも、決して油を奪われることのないようにしてください。イエス様、あなたのお帰りを、いつも意識し、目を覚ましていることができますように。
 今から聖餐式をおこないます。もう一度、十字架の血潮によって、私たちの内側を洗い聖めてください。『あなたと子どもたちのうしろの扉を閉めなさい』と語られていますが、私たちのうしろの扉をもう一度閉め、サタンに決して油を奪われることがないように、守りをお与えください。
 主よ、感謝します。あなたを待ち望みます。マラナタ。主よ、来てください。聖霊に満たしてください。すべてをお委ねし、イエス様の御名によって祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。