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『最も大切な事』

2014年3月2日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書 22章34節〜40節

『しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』

 ハレルヤ!おはようございます。ほぼ一ヶ月ぶりに新城教会で奉仕できますことを感謝しています。この一ヶ月間、大変忙しかったのですが、主の御手の中で守られ、祈りによって支えられて、心から感謝します。その間、冬季オリンピックもあったようですが、私はそんなのソッチのけで(おもしろくないかな?)いろいろな場所で、主のために励んでいました。大雪が降ったり大変だったですね。

 みなさんの祈りに支えられ、先週はタイのチェンマイと、さらに南に下った山岳民族の中で、リバイバルミッションを開くことができました。午後から報告会を開催させていただきたいと思います。新城教会からも多く参加してくださり、総勢、全国から集まった方々を合わせ、日本側は五十名くらいのチームで奉仕をさせていただきました。私もそんな中で、タイの皆様にメッセージを取り次がせていただき、「私は幸せだな…」と思いました。そんなにも多くの方々と一緒に、海外で奉仕ができるなんて、夢にも思っていなかったからです。人生は捨てたものではないです。本当にエキサイティングです。主の御手に委ねる時、見たことも、聞いたことも、思ったこともないようなことが始まります。これは、誰にでも共通しています。

 今日は、「最も大切な事」と題して、メッセージを語らせていただきたいと思います。聖書は分厚い本ですが、この中で最も大切な事は何なんだろう…?と、絞り込んでいくと、二つの事柄に行き着きます。この二つをしっかりと理解したら、人生は豊かになり、神の国は拡がっていくのです。

 それが何かと言いますと、マタイの福音書二十二章三十四節から四十節で、イエス様が語られた言葉の中にあります。イエスさまは「この二つにかかっている」と語られました。「一つは神を愛する事。もう一つは隣人を愛する事」。この二つにすべてがかかっているというのです。よく覚えておいてください。第一番目は、神様を愛する事。みなさんで一緒に言ってみましょうか。
 「神様を愛する事。」そして、二つ目は隣人を愛する事。「隣人を愛する事。」この二つだと語られました。
 この言葉を私たちがしっかりと心にとどめておくなら、神の栄光を見ることができるのです。今日はここから学んでいきたいと思います。

 神を愛する事と、隣人を愛する事は、二つに分けることはできないのです。これは表裏一体です。コインを持っていると思いますが、コインは、表と裏を切り離すことができません。表と裏で一枚のコインを形成しています。同じように、神を愛する事と、隣人を愛する事は、表裏一体であり、切り離すことができないのです。表面に「神を愛する」と記されていたら、裏を返せば「隣人を愛する」と書いてあるのです。隣人を愛する事は、同時に神を愛する事につながるわけです。聖書全体が、この二つにかかっているとイエス様は言われました。

 マタイの福音書と関連して、ルカ十章を並行して読みますと、同じ内容が記されていることに気づきます。
 「神様を愛する」と言いますが、神様は目に見えません。どうやって愛したらいいのか分かりません。目に見える対象であれば、愛は成り立ちますが、見えないわけですから。
 また、日本人にとっては、神を愛するという概念さえないのです。これは困ったことです。日本の神様といったら、全部恐い神様ばかりです。ですから、恐い神様を愛するとか、愛されるという概念を持つことができないのです。いつも話すことなのですが、不動明王なんて、目がつりあがった恐い顔をしています。あんな神を愛している人は、ちょっとおかしい人です。不動明王から愛されたいとか、千手観音に抱きしめられたいと思っている人はいないわけです。

 今回、私たちはタイの山奥に行きました。ホートとメートムという場所に行ったのですが、そこは、少数民族の人たちが住んでいます。タイには多くの民族、部族が、北のほうに住んでいます。
 その人たちは、常に神々を恐れています。しかし彼らの神々はどういう存在かというと、愛してくれる神ではなく、すべて「お化け」です。お化けが自分たちの神なのです。だから、いつもお化けを恐れて生活しています。彼らのお化けの名を「ピー」と言います。ピーにはたくさんの種類があり、彼らはそれらを恐れているわけです。

 しかし、聖書に出て来る神様は、恐い神様ではなくて、私たちを愛してくださっている神、私たちを創造し、生かしてくださっている神様です。「その方を愛しなさい」と教えています。
 けれども、目に見えない存在ですから、愛する事が難しいのです。しかしそれが具体的に現されるのが、隣人を愛するという、隣人愛の中で神の愛を感じ取ることができ、神への愛も、隣人愛の中から生まれるのです。
 ルカ十章三十節〜三十七節は、みなさんもよくご存じの「よきサマリヤ人」と呼ばれる大変有名な箇所です。読んでみたいと思います。

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 神様を愛するという事が、隣人を愛する事だと言いましたが、隣人を愛するとは、どういう事なのでしょうか。何を実行したら、神を愛する事になるのかが、ここで教えられているわけです。
 エルサレムからエリコへ下る道は、大変険しい、今でも当時の雰囲気を忍ばせる場所です。イエス様の時代、そこには多くの強盗が潜んでいて、旅人を襲っていたみたいです。旅人が強盗に襲われ、瀕死の重傷を負って道ばたに倒れている光景を、人々はよく目撃したのです。
 もしもそのような光景を目にしたらどうでしょうか。自分だって強盗に襲われる危険がありますから、助けるよりも先を急いだに違いありません。
 祭司とか、レビ人は、宗教家たちでした。本来は、倒れた人を助けなければならない存在なのに、宗教家たちでさえ、側を通り抜けてしまったほどでした。

 たぶん倒れていた旅人は、祭司とかレビ人と同じ「ユダヤ人」であったと思われます。仲間が倒れていても、関わりたくないと、側を通り過ぎたのです。しかし、旅人を助けたのが誰かといったら、サマリヤ人だったのです。
 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は良い関係ではありませんでした。これは隣り合って住む、二つの対立している民族でした。普通なら、サマリヤ人にとって、ユダヤ人が倒れているのを見るのは嬉しいことです。敵が倒れているわけですから。

 時に、敵が倒れた時は嬉しい気分になるのではないでしょうか。大嫌いな人が失敗して失脚したなんて聞いたら、どうでしょう。
 「ちょっと、ちょっと!聞いた?あの人が失敗したって!」「かわいそうだね〜」と言っても、内心は喜んでいるのです。案外、人間ってそういう、冷たいところがあるわけです。しかし倒れている敵に近寄って、とことん助けたというのです。
 そのことをイエス様は語られて、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られたのです。そして「これが神を愛する事だ」と示されたのです。

 一口に、神を愛する、隣人を愛すると言うのですが、その中身をよく見ると、結構ハードルが高いな…、と思います。
 さらに、このストーリーは「民族問題」を扱っている箇所です。ユダヤ人とサマリヤ人という、対立する民族を扱い、自分の民族だけでなく、敵のような隣の民族にも愛の手をさしのべなさい、とイエスさまは教えているのです。
 日本は島国ですから、国内にとどまっている時は問題なくても、一歩外に出ると、日本人も、民族問題に関して、例外ではないし、蚊帳の外でいることができないことがわかります。
 アジア諸国は、日本に対して、結構厳しい目を向けています。皆様方も、周辺諸国が日本に対して、どのような感情を持っているのか、日頃、見聞きしておられると思います。何が原因なのかというと、過去の歴史問題にあるわけです。
 日本人には「過ぎたことは水に流そう」という考えがあって、「昔のことをそんなに取り上げることはない」と言います。しかし、殴ったほうよりも、殴られたほうが痛みを覚えているものです。

 私は一ヶ月間の中で、様々な場所で奉仕をさせていただきました。一ヶ月前は、韓国の光州で奉仕させていただきました。それから、日本に飛び帰って、すぐに、二日間の「霊的戦い専門課程」があって、それが終わってから東京の教会で奉仕があり、終わってすぐにタイに行っての奉仕でした。何かめまぐるしく、国も民族も、語る内容も変えなければいけないので、ちょっと大変だったのですが、お祈りに支えられ、本当に祝福されました。

 海外で、特にアジア諸国で働く時、「これが神を愛する事につながるんだ」と、意識させられます。また、この働きを決して忘れちゃいけないと思わされます。
 現場に行かなくとも、祈りのうちに覚えてくださっていることを、本当に感謝します。同じ戦いに祈りと共に参加することは、聖書が教える最も大切な事の実行です。
 神を愛する事と、隣人を愛する事、いろんな問題を持っている人たちを助ける事ももちろん含みますが、それ以上に、過去の傷を癒す働きは、神の愛を実現するために、欠かすことができない働きであるのです。それを今回、強く教えられて帰って来ました。

 話は少し、中断しますが、タイのリバイバルミッションの様子を、写真でお見せしたいと思います。

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 チェンマイは、バンコクから北に位置し、大変美しい街です。バンコクは今、政情が不安定で、みなさんもタイが大変だと感じて、祈ってくださったと思うのですが、チェンマイに行きますと平和です。なぜなら、現政権をサポートしている人たちが大半なのでデモなどはないのです。バンコクには反体制派が多く、政治的な色の違いもあります。

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 真夜中に到着して翌朝から、この教会を会場に、牧師やリーダーたちのためのセミナーが開かれました。

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 二百名くらいの方々が来てくださり、熱心に日本チームの話を聞いてくれました。

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 今回、ロサンジェルスからティム・ケプラーも来てくれました。彼の歌は本当に多くの人の心を掴みました。たいへん人気がありました。

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 次の日はホートという、チェンマイから百キロ以上離れた、山の中の街で集会を持ちました。この教会を見てください。壁がないのです。床は地ベタです。建設途中で使っています。

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 民族衣装で身を固めた現地のチームの賛美があったり、和やかな雰囲気で集会は進められました。

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 今回、通訳も三次元通訳で、日本語から英語、英語からタイ語という順序でやりました。私も初めての体験でしたが、三次元通訳って、会衆は、結構落ち着いて聞けるのでいいです。しかし語るほうは、何を語ったのか忘れてしまうので、大変でした。「あっ!俺の番だ!」という感じでした。

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 このようなバンを五台借りて、タイ国内を移動しました。事故もなく守られたことを、本当に感謝しています。

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 これは先週の日曜日の写真ですが、メートムという場所での様子です。私たちが到着したら、村人たちが「何があるんだ?」という雰囲気で、民族衣装に身を固め集まっていました。 カレン族という、本当に可憐な方々でした。そこでの礼拝の模様です。

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 ざわめきも一緒に行って、タイ語で歌いましたが評判が良かったです。

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 カレン族の方々が体育館のような大きな教会いっぱいに集まって、主を賛美し、共に礼拝しました。

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 彼らの住まいは高床式で、縄文時代、弥生時代ではないかというような風景が広がっています。日本はアジア諸国に比べたら経済的には豊かですから、現地の方々に食事をプレゼントしました。食事の時間になると、「あれ?この人たち、礼拝に来ていたかな?」というような、知らない人たちがいっぱい集まっていました。喜んで食べてくださいました。大したもんじゃないですが、少数民族の方々に奉仕する事は喜びです。

 神を愛する、隣人を愛するという事が、別の箇所で、他の視点からも語られています。イエス様がこんな事を語られました。マタイの福音書二十五章三十一節〜四十節、

『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』』

 実は、よきサマリヤ人の例えの、「よきサマリヤ人」とは、イエス様ご自身を表しています。そして倒れていた旅人とは、私たちにも置き換えることができるのです。
 イエス様はナザレ人と呼ばれました。ナザレという地域は、歴史的に見ると異邦人の地と呼ばれるサマリヤ人の地でした。しかし途中から、ユダヤ人の支配下に組み変えられた地域だったのです。イエス様がナザレ人と呼ばれたのは、サマリヤ人としての呼び名でもありました。サマリヤ人であったイエス様が、ユダヤ人に救いをもたらしたわけです。このよきサマリヤ人とは、イエス様ご自身を表しているのです。そして、倒れているのはユダヤ人です。

 しかし、マタイ二十五章に行きますと、倒れている旅人がイエス様になるのです。「いと小さき者のひとりにしたのは、わたしにしたことだ」と。これはある意味、パラドックスです。イエス様が助けてくれたかなと思ったら、倒れていた旅人がイエス様だったというのですから。福音書にはその両面が描かれているわけです。

 やがて人類の歴史が終わり、右と左に分けられる時が来るのです。羊と山羊とを、羊飼いが分けるのと同じように、神に属する者と、悪魔に属する者がはっきりと分けられる日が来るのです。これは、信じても信じなくても、我々の人生の延長線に起こる事です。私たちは厳粛な思いで、神の前に立たなければならない日が来るのです。その時、私たちが人生においてとった行動の一部始終について、神からの評価があるのです。
 正しい者とされた人たちは、日頃、どんな生活をしていたのかというと、裸の人とか、病気の人とか、食べる物がない人とか、苦しんでいる人たちを助け、隣人を助ける働きをしていたのです。それも、下心があってではなく、何気なくやっていたようです。そのことが、『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』と評価されたのです。
 正しい人たちは、周りにいる苦しんでいる人たちに手を差しのばす働きを、自然にしていたのでしょう。しかし倒れていた旅人が、実は、イエス様ご自身であったと告げられ、びっくりするわけです。
 ルカ十章を組み合わせて理解すると、他民族に愛の手を差しのばすことは、実は、イエス様ご自身に対する奉仕だとわかります。

 今回、チェンマイでセミナーを持たせていただいたのですが、セミナーが終わったら、日本人に本当によく似た顔をした牧師が、私に話しかけて来ました。何かなと思ったら、「私はリス族ですよ」と言うのです。リス族と呼ばれる少数民族の方でした。ニコニコしながら、明るい人だったのですが、「実は、私の村は今までに四回、焼き討ちにあって、追われて今はチェンマイに住んでいます。」と言いました。「最初に入って来たのが、日本軍でした。私の父は、日本軍に捕らえられ、ひどい目に遭いました。父とおじさんが捕らえられ、父親は真剣に命乞いをして助かったけれど、おじさんは、日本軍に喉を切られて殺されました」と語りました。

 私はその事を聞いて、大きな衝撃を受けました。そんな山の中で、昔、一体何があったんだ…。その後も、その村に中国共産党が入って来て虐殺を行い、ベトナム戦争など、計四回、村は焼き払われ、住むことができなくなり、リス族は山を放棄して降りて来たというのです。そのきっかけとなったのが、「日本が入って来たことです。」と言われました。本当に心が痛みました。
 「でも私はイエス様を信じました。クリスチャンになりました。初めは日本人が大嫌いでした。でも、こうして、あなたと会えて嬉しいです」と言ってくれました。私は何と言葉を返していいのか、分からない心境になりました。そのような民族のただ中で、私たちが神の愛を表すことは重要です。もちろん完璧にはできないけれど、そのような視点を持ち、アクションを起こすことはたいへん重要なんだと、改めて、認識し、体験させられました。

 日本国内に住んでいますと、国内問題や、周りのことだけに終始することが多いですが、クリスチャンは、その枠を超え、働きを展開しなければしならないのです。個人では難しいかもしれないけれど、教会をあげて、日本の教会が、第二次世界大戦の時に傷をつけた、アジア諸国に対し、奉仕を続けなければならないことを教えられました。

 今回タイの教会と一つになって、この働きを進めたのですが、その責任を担ってくださったのが、ナロン先生でした。新年に、ここに来てメッセージをしてくださいましたが、彼は一生懸命やってくださいました。タイの教会は、結構、欧米を中心に世界の教会から、宣教チームが来て一緒に働いています。ですから、ある意味で国際的な協力関係に慣れている所もありまして、「ちょっと慣れているな…」という感じでした。
 でも一緒に働いて、ナロン先生もすごく感動したみたいです。「リバイバルミッションと働いて、他と違うことが分かった。ただ自分たちの働きを進めるのではなく、歴史的な問題も理解した上で、和解とリバイバルを願って働いてくれている」と言われました。「これから一緒に働きたい」と言うのです。

 すべてが終わってから、一緒に食事をする時間があったのですが、その時に、こんな申し出がありました。「リバイバルミッションはインドのナガランドという場所に行って奉仕すべきです」というのです。
 インドのナガランドという場所を知っている人はどのくらいいますか?知っている方もいらっしゃいますね。実は、日本軍は、インドのナガランドまで進駐したのです。そこではイギリス軍との戦いがあったのですが、日本に対する感情は良くないというのです。
 しかし今では、その場所にリバイバルが起こり、九十五パーセントがクリスチャンだというのです。すごいですね。

 ナガランドに、時々、日本から慰霊団が来るというのです。どういう団体が来るのかといったら、仏教とか、神道のグループが来るというのです。そして、仏教や神道のセレモニーを盛大に行うそうです。かつて日本人も多く死んでいるので、慰霊祭をやるそうです。しかしナガランドは、九十五パーセントがクリスチャンですから、日本人の慰霊団を見ながら、ナガランドの人たちは何と言っているかと言うと、「仏教や神道は来るけど、なぜ、日本の教会は来ないの?」と言うそうです。ナガランドの人たちは、慰霊祭を見て、すごく嫌な気持ちになっているというのです。
 「日本のクリスチャンがナガランドに行き、今回と同じような奉仕をする事は、重要ではないでしょうか?是非とも、一緒にやりましょう!」と言われました。
 なぜなら、ナロン先生の奥さんはナガランド人だからです。そんな申し入れもあったのですが、是非ともみなさんに祈っていただき、これが主の御心ならば、将来、実現するように、願っています。その中で、神の愛と、隣人に対する愛が実現していくのです。

 イエス様が、最も大切な事は二つだと言われたのですが、そこには、大きな祝福が伴っています。
 ヨハネの福音書十五章一節〜二節に、こんな言葉があります。実はヨハネの福音書十五章は、「主はぶどうの木。私たちはその枝」と教えているのですが、七節から読んでみますと、ヨハネの福音書十五章七節〜十二節、

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』

 これは、ある意味、イエス様が十字架にかかる前の、遺言のような章です。ここで強調されたことは、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』と語られました。
 今日、学んで来た一連の、神を愛する、隣人を愛する、という事柄の集約がここで述べられていると思われます。
 私たちが神様を愛し、イエス様を愛し、互いに愛し合う。民族の壁を越えて愛を表す時、『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』と語られたのです。

 なんと魅力的な言葉じゃないでしょうか。私たちが神を愛し、隣人を愛するという、この戒めにとどまるなら、ほしいものは何でも求めろというのです。それがかなえられるというのです。
 さて、みなさん、ここで質問です。今一番欲しいものはなんでしょうか?いろいろあるかもしれません。「やっぱり金だな…」と思った人が半分くらいかもしれませんが、いろんな必要があると思います。それがかなえられる為には、戒めにとどまるなら、叶えられるのです。

 そこれが何かといったら、神を愛し、隣人を愛するところに、欲しいものは与えられると、約束されているのです。
 最も大切なこととして、「神を愛する。隣人を愛する」とイエス様は語られましたが、そこには深いものがあり、戒めにとどまることが大きな祝福につながっていくわけです。

 今回のタイリバイバルミッションというのは、「いと小さき者のひとり」と呼ばれるような人たちに愛を表す働きでもありました。
 日本にもかつて身分制度がありました。士・農・工・商と呼ばれました。アジアでは、身分制度が残っているのです。韓国に行っても、中国に行ってもです。この根源はヒンズーのカースト制だと思うのですが、タイは八段階のカースト制のようなものが存在するそうです。そこにはヒエラルキーが存在するというのです。
 そして一番底辺の人たちが、少数民族の人たちだというのです。

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 今回、私たちが働いた、カレン族の人たちは、本当に明るい方々ですが、実は、タイの身分制度の中では、一番低い人たちだというのです。だから社会的には、何の保証もないというのです。自分たちが住んでいる地域から、出ることもままならないというのです。
 そのことを聞いて、このような方々に愛を表し、関心を持って祈り、支えていくことはみ言葉を実現するためにも、大変な重要だと知らされました。

 イエス様は誰一人として、差別をされなかった方です。私たちも決して差別の心を持ってはいけません。神の作品として、他民族の方々に尊敬心を持って関わることが大切です。民族を越え、国を越え、言葉を越えて、関わっていく時、それが、イエス様にとどまることであり、気がついたら、多くの実を結んでいるのです。

 実を結ぶには、苦労はないのです。お隣に三ヶ日町がありますが、冬になりますと、みかんがたくさん実を結びます。みかんが実を結ぶ時、苦労していないです。夜な夜な、みかん山からうめき声が聞こえ「うーん、うーん、、、ポン!」とか音がして実ることはないのです。気がついたら、実を結んでいるのです。

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 イエス様は私たちをぶどうに例えられたわけですが、ここにぶどうの写真があります。おいしそうですね。食べたいですね。気がついたら実を結んでいたのです。そしてイエス様のキャラクターが、私たちの中にも形成されるのです。イエス様にくっついていたら実を結ぶ。気がついた時に、神様の愛を体験するのです。
 ガラテヤ五章には、いろんな聖霊の実を結ぶと教えています。

 話は変わるのですが、今日、私たちがここで礼拝を守っていることも、不思議な神の結実の摂理です。
 二週間くらい前、大雪が降りました。その日、娘が、孫たちを連れて来て、「今日は東京に行こうと思っていたけれど、行くことができなかった。残念だ」と言っていました。どこに行こうと思っていたのかと聞くと、私の息子の家に泊まりに行くといったのですが、それと共に、「インターナショナルスクールのイベントがあってそこに誘われた」と言っていました。
 東京の東久留米市に、アメリカンスクールがあるのですが、「クリスチャン・アカデミー」という、結構有名な、学費も高い学校があります。

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 昨日、グーグルで見たのですが、大きな敷地を持っています。
 ここで何かイベントがあって誘われたから、行くと言っていました。私は「クリスチャンアカデミーは、うちのじいちゃんと、ばあちゃんが関係しているのを知っていて、行くのか?」と聞いたら、「全然知らない。そんなの初めて聞いた」と言うのです。「どんなこと?」と言うので、「どんなこと?断片的にしか聞いたことがないから、じいちゃんとばあちゃんに直接聞いて来い」と言ったら、「聞いてくるわ」と言って、聞きに行きました。

 しばらくしたら娘が目を丸くして帰って来て、「あの場所がなかったら、あんたは生まれてなかっただに!」と言うのです。「俺が生まれなかったら、おまえだって生まれてないぞ!」と言ったのですが、今日、私たちがあるのも、不思議な神の摂理の中で実を結んでいることを教えられました。
 最後に、その話を聞いて欲しいと思うのですが。

 私の母親は、今日もここにおりますが、今年で九十一歳です。しかし彼女にも、若い時代があったのです。ばあちゃんは東京生まれです。しかし父はここから奥に入った、山地族の男です。ばあさんはああ見えても、ちょっぴりインテリでした。戦後、日本女子大の助教授をやっていたというのです。それにしては、子どもたちの出来が今一歩なのですが。
 戦後、東京は、焼け野が原でした。しかし自分の勤めていた学校の近くに、アメリカからの宣教師たちが来て、活動を始めたというのです。ばあちゃんは、昔、英語ができたそうです。それで、その人たちと交わりをするようになり、一組のカップル、日本人だけど、アメリカで教育を受けた穐近先生夫妻と友達になったのです。その頃の写真を探してみました。この人たちです。

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 穐近先生と奥さんの初野さんです。この方たちと友達になったのです。特に、右側の奥さんと友達になって、伝道に付いて行ったというのです。当時、住んでいた場所は、日本女子大のすぐ近くですから、目白という場所でしょうか。東京のことはあまり分からないのですが。
 ある日、東久留米という郊外に伝道に行ったそうです。そしてある場所に来た時、初野さんが、立ち止まって、「この場所は、どこかで見たことがある!」と言ったそうです。「そうだ。アメリカで祈っている時、幻で見た」というのです。それと同じ光景に出会ったそうです。

 牛がいて麦の穂が風に揺れている、まったく同じ光景が目の前に広がっていたというのです。「アメリカで祈っていた時、幻の中で見せられた場所だ!」と。そして、「イエス様がこの場所を、日本に行ったらあげるよ」と言われたというのです。
 それで、「ここをイエスさまがくれるって言われた」と。これは戦後のどさくさの時代の話ですから、そのように聞いていただきたいのですが、三千坪くらいの広さの牧場だったそうです。そこに今にも壊れそうな小屋が建っていたそうです。それで、「ここに住もう」と言って、なんと、今まで住んでいた場所を引き払い、壊れかかった誰の持ちものなのかわからない小屋に、引っ越してしまったというのです。私の母の旧姓は斉藤というのですが、「斉藤さん、一緒に来てください!」と言って、一緒に壊れかかった家に住み着いてしまったというのです。
 普通じゃ考えられませんよね。いくら幻を見たと言ったって、人の土地や人の家に無断で住んじゃいけません。しかし、これは、戦後のどさくさの中での話ですから、爆撃で多くの人たちが死んで、多くの家は誰の持ち物か分からなかった時代です。それで、私の母も、初野さんに誘われて一緒に住んでいたのです。

 実は私の父親は、津具村の山男で、たまたま五十倍の倍率を突破して、日本農業研究所に入ったらしいのです。それで、農業経済の研究をしていたそうです。父が住んでいた下宿は、初野さんと母が住み着いたぼろ屋から、二十分くらいの所にあったそうです。
 ある時、戦後の農業の実態調査の為に、父は、地域に出かけて行ったそうです。近くに牧場があったので調査に行ったら、牧場内のぼろ屋から、若い娘が出たり入ったりしていたのを目撃して、奇妙だと思ったらしいのです。その時は、それだけの印象だったそうです。

 ある日、母たちが住んでいた家に、所有者が来たというのです。「おい!おまえら何んで無断で住んでいるのか」というような感じだったのでしょう。まぁ、当然のことです。そうしたら、初野さんが、「私はアメリからから日本の魂を愛して、伝道に来た宣教師です。アメリカで祈っていた時、この場所が見えて、イエス様がこの場所をくれると約束してくれたのです」と、所有者に話したというのです。
 そうしたら、所有者が、「そんな尊い働きのために来てくれたのか。俺は感動した。この場所はおまえたちにやる!」と言って、ただで牧場をくれちゃったというのです。三千坪です。信じられません。タダでもらったのです。それで、そこに教会を建て、地域の宣教が始まったというのです。

 それとは全く脈絡もない父は、そこから二十分くらいの場所にただ住んでいたわけですが、ある日、下宿の隣の人が、「明さん。知っているかい?すぐ近くに教会ができたのを。」『どこに?』と聞くと、「牧場の中」と聞いたというのです。「あぁ!あそこか!」と父は、すぐに分かったそうです。なぜなら、奇妙な娘が出入りしていたから、印象として残っていたからです。
 すると隣の人が「私はその教会に行きたいと思うんだけど…」と言ったそうです。すると父はなんと言ったかというと、「キリスト教だけはやめときなさい」と隣の人が教会に行くのを止めたそうです。彼は、今じゃ伝道者として働いていますが、その時は、「教会だけは行くな」と止めたというのです。

 しばらくしたある日、父が友達から「おまえの顔は牧師に似合いそうな顔をしているな~」と言われたそうです。「俺が牧師に似合いそう?」と言う事で、「教会ってどういう場所なのかな?一回行ってみたいな…。」と興味を持ったそうです。でも、どこに行ったらいいのかわかりません。
 しかし、「ピンポン!…そういえば、牧場の中に教会が出来たって聞いたな」と、思い出し、そこに電話したというのです。そうしたら、初野さんが電話に出て、「どうぞお越し下さい」と優しく言われたので、牧場の中にある教会に行ったそうです。そうしたら、そこにいたのが、なんと将来の伴侶となる、旧姓斉藤清子さんであったわけです。

 父は、その教会でクリスチャンになり、母と結婚して、私が生まれ、新城教会も生まれ、今日、皆様方がここにおられるわけです。
 まぁ、偶然といったらそれまでですが、この偶然のいたずら、どう説明したらいいのでしょうか。
 アメリカに住んでいた穐近ご夫妻には、日本人を救いに導きたいという熱い思いがあったのです。戦後のどさくさの中、国を越え、言葉を越え、民族を越えて、神を愛し、隣人を愛する熱い思いがあったのです。ぶどうの木であるイエス・キリストにつながっていたのです。そして、気がついたら実を結んでいたのです。
 とどまるなら、実を結ぶとあるように、御言葉の実現が今ここにあるのです。「実に深いものがあるな…」と思いました。今日こうして、メッセージを語らせていただいていますが、あのボロ屋に初野さんと母が強制的に住み込むことがなかったら、あの非常識さがなかったら、今日はないのです。

 しかし、よくぞ土地の所有者は、そんな広い土地をタダでくれたものだと思いませんか?信じられないでしょう?しかし、ここにも本当に、歴史のいたずらと申しましょうか。悲しい歴史が関わっているのです。
 私は、一ヶ月くらい前、韓国で奉仕をさせていただきました。一九一〇年、日本は韓国を併合し、日本の一部として扱ったわけです。一九四五年に日本は戦争に負けましたが、その時、日本列島に二百万人の朝鮮半島からの方々がおられたのです。しかし敗戦により、朝鮮半島は日本から切り離され、朝鮮半島からの人たちの身分は、GHQにより「朝鮮籍」とされました。そして、「国に帰るもいい、日本にとどまってもいい。自分で決めろ」という感じでした。日本におられた方々は、本当に苦しい選択を迫られたわけです。
 しかし多くの方々は、自分の祖国に帰って行かれました。けれども、帰って行く時、厳しい条件がつけられました。それは、当時日本を支配していた、GHQが付けた条件でした。日本に長く住んでおられた方々で、成功した方も多くおられ、土地や建物などの不動産を所有していた人も多くおられました。しかし本国に帰国するに当たり、財産はすべて放棄すること、所持品は、一人、百キロくらいしか持ち帰ることができないという、厳しい条件が付けられたのです。
 それでも、多くの人たちが、財産を放棄して、ほんの少しの荷物を持って本国に帰って行かれたのです。

 実は、この牧場を「おまえにやる」と言った人は誰であったかというと、朴さんという韓国の方でした。彼は、広い牧場を放棄して、本国に帰国する決断をしていた人だったのです。だから牧場を、「尊い働きに使ってくれるのなら、あなたたちにあげます」と言って、穐近夫妻にプレゼントしたのです。それが今は、クリスチャン・アカデミーというインターナショナルスクールになっています。

 私は今、韓国でも奉仕をさせていただいていますが、パクさんが、その土地を穐近夫妻にくれなかったら、私は生まれなかったのです。私はそのような深い摂理の中で、韓国でも働かせていただいている事に気づかされました。また、在日の方々のためにも働かせていただいているのだと言う事が、わかり感動しました。またタイや、少数民族の方々、そして、アジアの国々のために奉仕する事を許されていると、わかりました。
 その時には誰も気づかなかったけれど、各時代に一人一人の犠牲があり、その結果として、多くの実を結んで今があるのです。「わたしの戒めの中にとどまりなさい」とイエス様は言われましたが、本当に深い意味があり、何気なく私たちがとっている行動が、後に大きな実を結ぶ働きにつながるのです。
 実を結ぶには、時に時間がかかります。戦後、七十年近く経って、こんな事が起こるなんて、誰も予測していなかったでしょう。時間はかかるけれど、主からの働きを実行していく時、豊かな実を結ぶのです。韓国やタイの働きと、大雪が降って、娘たちが東京に行けなかったことから、こんな事がわかり、感動です。今まで、断片的には聞いていたけれど、点が線につながった感じです。私たちは未来に向けて、準備しなければならないのです。

 神の愛の中にとどまり続けるなら、必ず、多くの実を結ぶ、これは誰の人生にとっても同じことです。今日は、もう一度、そのことを意識して、主の前に出て、聖餐式を受けたいと思います。一言、祈りをさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたはぶどうの木で、私たちはその枝につながる者たちです。心から感謝します。あなたの戒めの中にとどまる時、多くの実を結ぶと約束してくださっていることを、心から感謝をいたします。ひとりひとりが、あなたの愛の中にとどまり、戒めの中にとどまり、多くの実を結びますように。今日は、あなたが私たちのために表してくださった愛、十字架の愛を、心から感謝し、パンとぶどうのジュースをいただきます。主よ、どうかこの時、もう一度、大切な戒めである神を愛し、隣人を愛する事を心にとめ、人生を主に明け渡します。
 この時を心から感謝します。深い歴史の中で、今日、私たちがあることを、心から感謝します。すべての栄光をお返しして、イエス様の御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。