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『主の弟子となる』

2014年4月6日 (日)
リバイバル聖書神学校 山崎ランサム和彦師

ルカの福音書5章1節〜11節

『群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。』

ハレルヤ!みなさん、おはようございます。久しぶりに新城教会の礼拝でみことばを取り次ぐ機会が与えられたことを感謝します。また、二〇一四年度最初の聖日礼拝でご奉仕ができることを光栄に思っています。厳しかった冬もようやく終わり、まさに「春爛漫」という感じのすばらしい季節になりました。一年の中でも春は新しい命の芽生えを感じる喜びの季節であります。皆さんの中にも新しい学校や会社でのスタートを迎え、期待に胸を膨らませている方々もおられるのではないかと思います。

ところで、我が家では昨年からふとしたきっかけでカメを飼い始めました。と言っても、ペットショップに買いに行ったわけでも、知り合いからもらったわけでもありません。私の家内が庭で何かの作業をしていた時に、たまたまカメが通りかかったので、捕まえたというのです。ご近所で飼われていたカメが逃げ出してきたというわけでもなさそうでしたので、結局我が家で飼うことになりました。我が家の一員になると結構愛着も湧いてかわいがっていたのですが、だんだんと寒くなってきて困ったのは、どうやって冬を越させるかということでした。インターネットでいろいろと調べて、見よう見まねでバケツに準備をして、カメをその中に入れ、玄関に置いておきました。冬眠に失敗して死んでしまうカメもいるということだったので、少し心配していましたが、先日無事に生きていることが確認できて、ふたたびいつものような飼育状態に戻しました。今は元気に動きまわって、餌も食べています。
それにしても、冬眠というのはすごい自然のメカニズムだと思います。数ヶ月も何も食べないで、いわば仮死状態になっていたわけですが、暖かくなると再び活動を始めることができるようになるわけですね。大げさな言い方をすれば、「死んでいたものが生き返った」ようなものです。もちろんこのカメは実際に死んでしまったわけではありませんが、身近な生き物の生態を通して、イエス様の死とよみがえりにふと想いを馳せることができました。
もうすぐ復活祭が近づいてきました。ある意味で死の季節である冬が終わって、いのちに溢れた春がやってくるこの季節に、イエス様の復活をお祝いすることができるのは、とても意義深いことだと思います。

さて今日は、ルカによる福音書から、「主の弟子になる」というテーマについて学んでいきたいと思います。このエピソードは、イエス様の公生涯の初めごろの話です。ガリラヤで宣教を始められたイエス様はガリラヤ湖畔(ルカ五章一節の「ゲネサレ湖」)で最初の弟子たちを召されました。
イエス様がガリラヤ湖畔に立っておられると、おびただしい群衆が押し迫ってきていました(一節)。拡声機器のない時代です。イエス様の言葉を聞くためには、すぐ近くまで寄ってこなければなりませんでした。そこでイエス様は群衆に押しつぶされないように、シモンの小舟に乗って少しこぎ出したところで説教されたのです。「すわって」教える(三節)のは当時の一般的な教師の姿勢です。イエス様の教えの内容は書かれていませんが、話が終わるとイエス様はシモンに網を降ろして魚をとるように言われます(四節)。それに対してシモンは「私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」と答えます(五節)。しかし、イエス様のおことばだからというので、その通りにすると、網が破れ舟が沈むほどの大漁になりました(六~七節)。
シモンとその仲間はプロの漁師でしたので、彼らはいつ漁をすれば魚が捕れるかを熟知していました。当時の漁師が使っていた網は亜麻糸を編んで作ったもので、昼間に水に下ろすと魚に網の目が見えて逃げられてしまうようなものでした。だから彼らは魚に網が見えない夜中に働いていたのです。昼間に網を降ろしても何もとれないことは分かりきっていました。むしろ彼らはその日は漁をすることをあきらめて、舟から降りて網を洗っていたのです(二節)。その彼らにイエス様は網を下ろして魚を捕れと言うのです。イエス様は元大工の巡回伝道者でした。大工さんが漁師さんに魚の取り方を伝授しようとしているという状況です。常識的に考えればシモンがイエス様に従わなければならない理由はなにもありません。けれども彼らは「おことばどおり」イエス様に従ったのです。

私たちも自分の信仰生活の中で、「この分野・領域は信仰とは関係ない」と思うことがあるかもしれません。私たちはともすれば、自分の人生を「信仰」の領域と「それ以外」の領域に分けてしまいがちです。永遠のいのちや霊的なことがらに関しては「信仰」を持つけれども、普段の生活の大部分、たとえば仕事や勉強、家事のことなどは、神様や信仰とは関係のない、自分の力や知恵で切り開いていく領域と思ってはいないでしょうか。
けれどもイエス様は私たちの生活の全領域を支配しておられ、私たちには霊的と思えないような領域(経済、事業、健康等々)においても働いてくださるお方です。そして時には、シモンたちに起こったように、奇跡的・圧倒的な祝福をもって私たちを満たしてくださるのです。
この話でシモンたちが大漁の奇跡を体験したのは、彼らが一晩中働いても何も獲れなかった後だった、というのは重要だと思います。人間の努力が限界に達してしまったところから、神様のみわざが始まっていきます。

このように、イエス様に信仰を持って従う時に、主は大きな祝福を持って臨んでくださいます。ところが、気をつけなければならないのは、ルカの福音書5章のこの話はここで終わっていないのです。この奇蹟的な大漁の話はとても有名ですが、シモンたちの話はその後も続きます。そして意外な展開を見せていくのです。
ふつう私たちがここで書かれているような奇跡的な祝福を神様からいただいたら、どのような反応をするでしょうか?ルカ福音書の十七章では、十人の人がイエス様にツァラアトをいやしていただいた時、その中の九人は主のところに戻ってきて感謝をすることをしなかったとあります(十一~十九節)。そのような態度は論外だとしても、普通はその奇跡を喜び、神様に感謝を捧げて終わり、ということではないでしょうか。私たちがシモンの立場だったら、「いったい何匹の魚が捕れただろうか」「これだけの魚はいくらで売れるだろうか」「これでしばらく食うには困らないだろう」などと考えたのではないでしょうか。そして、何よりも、このような祝福がいつも得られるように、イエス様にいつまでも一緒にいてくださるように願ったのではないでしょうか?
ところがシモンの反応は私たちの予想とはまったく異なるものでした。八節を読んでみましょう。この節はこのエピソードの鍵となる箇所です。

『これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。』

ここに「これを見たシモン・ペテロは」とあります。普通では考えられないような出来事を目にしたペテロは、しかし魚だけを見ていたのではありません。彼はその視線を網に群がる魚からイエス様というお方に移します。この視点の転換が重要であると思います。私たちは神様がくださる祝福のみに目をとめていくと、いつの間にかその祝福を与えてくださったお方を忘れてしまうことがあります。けれども、目に見える世界の背後にある神様の御手を意識していく時に、私たちの信仰は一歩前進することができるのです。ペテロもただ大漁を喜ぶだけでなく、そのような奇跡を起こしてくださったイエス様というお方がただの人間ではない、神の御子であるということが分かったのです。彼がイエス様の足下にひれ伏したのは、自分を遙かに超えた権威に対して身を低くする行為です。
またペテロはイエス様を「主」と呼びました。このギリシア語キュリオスはギリシア語訳の旧約聖書では神様の固有名ヤーウェの訳語として使われている非常に重要な言葉です。シモンは五節ではイエス様を「先生(エピスタテース)」と呼んでいることに注意しましょう。大漁の奇跡を見たペテロは、「先生」というイエス様に対する呼びかけを「主よ」に変えたのです。この呼び名の変化は、ペテロのイエス様に対する認識の変化を表しています。彼はイエス様が単なる偉い宗教家の先生以上の存在、神の御子であることに気づいたのです。
ペテロはさらに視線を転じて、自分自身を見つめなおします。第二の視点の転換です。自分が神から遣わされたお方の御前にいるということが分かった時、ペテロは自分の罪深さを思って恐れに満たされました。そこで彼は「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言ったのです(八節)。聖なる神の御子との出会いは、自分の罪の認識と神への健全な恐れへとつながっていきます。シモンは自分の罪を思い知らされ、イエス様の御前にとても居続けることはできないと思いました。シモンが具体的にどのような罪を意識したのかよく分かりません。最初イエス様を疑った不信仰でしょうか?魚に対する貪欲でしょうか?或いは具体的な罪ではなく自分が罪人だという漠然とした思いに駆られたのかも知れません。

神様は愛なるお方だけではありません。義なる方、聖なる方でもあります。聖い神の臨在の中に立った時、私たちは自分の罪を示され、恐れを抱くものです。たとえば、みなさんが車を運転している時にすぐ後ろにパトカーが走っているのに気づいたら、どんな気持ちがするでしょうか。たとえ何もしていなくても、なぜか居心地の悪い思いがして、「おまわりさん、私のような者から離れてください」と願うかも知れません。なぜでしょうか?それは、警官がもしそのつもりになれば私たちを捕まえることができる権威を持っているからです。自分の存在をコントロールできるような力を持った存在、自分より遙かに強力な存在を目の前にすると、人は恐れを持ちます。同じように、人間は聖なる神様の御前に立つ時、恐れを抱きます。これはある意味で聖書的な、健全な恐れと言えます。私たちは皆、本来は罪人であって、全能の神様の御前に立ちおおせることのできるような者は一人もいないのです。八節のシモンのことばのような祈りを一度もしたことの無いという信仰はどこか間違っているのではないかと思います。

しかし、そんなペテロにイエス様は優しく語りかけてくださいました(十節)。主は「こわがらなくてもよい。」とペテロの恐れを取り去っただけでなく、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と、彼に新しい使命を与えてくださったのです。自分の罪に打ちのめされ、イエス様の足下にひれ伏していたペテロは再び顔を上げて、主を見上げました。第三の視点の転換です。罪あるままでペテロを受け入れてくださり、召してくださったイエス様に視線を戻したペテロは、もう主から目を離すことはありませんでした。彼とその仲間は、「何もかも捨てて、イエスに従った」のです(十一節)。

私たち現代のクリスチャンが神様に用いられる存在となるためには、このペテロの姿勢に倣う必要があります。私たちはまず、目に見える世界の背後に働いておられる神の存在を認めなければなりません。クリスチャンと言いながら、目に見える生活の祝福だけを追い求めていたならば、主に従っていくことはできません。すべてを支配しておられる全能なるお方に目をとめましょう(第一の視点の転換)。次に、主の御臨在に触れて、きよい歩みをしていく必要があります。自らの信仰の歩みを吟味し、罪があれば告白して赦していただき、自分が主の恵みによってのみ生かされている存在であることを確認しましょう(第二の視点の転換)。そして、主イエス様の召しに応答し、このお方だけを見つめて従って行きましょう(第三の視点の転換)。

ルカ五章の冒頭に書かれているペテロたちの物語は、一節から十一節までで一つの完結したエピソードになっています。この話の前半に出てくる大漁の奇跡は有名でよく説教でも語られる箇所ですが、十一節までの話を全体として理解しなければなりません。実は同じように、イエス様がペテロたちを召される話がマタイとマルコの福音書にも書かれていますが、そこでは同じ出来事がもっと短く凝縮して書かれています。マタイとマルコの並行箇所では、イエス様はシモンたちにはっきりと「わたしについてきなさい」と呼びかけられます。ルカのバージョンでは、マタイやマルコと同様に彼らを「人間を取る漁師にしてあげよう」という約束は与えられますが、イエス様ははっきりとした形で「私についてきなさい」とは言ってはおられません。ルカの記述では、イエス様が言葉で「ついてきなさい」と言われる代わりに、態度で招きをされたことが詳しく書かれています。つまり、ルカのこのエピソードは、最初の大漁の奇跡も含めて、イエス様の招きという観点から読んでいかなければならないのです。

十一節がこの話の結論です。

『彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。』

ここで「何もかも捨てて」と書かれています。何もかも?この話のはじめで獲れたというあのたくさんの魚はどうなったのでしょうか?彼らはあの大漁の魚も捨てていったのです。なぜでしょうか?これらの魚はイエス様によって奇跡を通して与えられた、神様からの祝福ではなかったのでしょうか?この疑問に答えるために、二つのポイントを考える必要があります。
第一のポイントは、イエス様がシモンに「あなたは人間をとるようになる」と言われたことです。マタイとマルコの並行箇所では、「人間をとる漁師にしてあげよう」とあります。シモンたちは文字通りの魚をとる漁師でした。しかし、イエス様の弟子となることによって、人間をとる漁師になったのです。これは、多くの人々を救いに導く福音宣教者の比喩ですが、ここで大漁にとれた魚は、これからシモン・ペテロたちがしていく大きな働きを象徴するものであったと言えるでしょう。ちなみに、ルカのこの箇所の原文を直訳すると「あなたは人間を生け捕りにするようになる」です。ペテロたちは人々を捕らえて殺す働きではなく、活かす働きをするようになるというのです。
したがって、ここで大事なのは大漁の魚そのものではなく、それが指し示している霊的な収穫であると言って良いと思います。シモンたちはそれが分かったので、もはや文字通りの魚には執着しなくなったのでしょう。シモンが魚からイエス様に、そして自分へと目を移し、罪人の自分を神の御子であるイエス様が召してくださることが分かった時、彼はもう一度網に群がる魚に目を移したことでしょう。すると、今までただの魚と見えていたものが、神の国へと導かれていく多くの人々の顔に見えてきたのかも知れません。その時、その魚をどうするかはもはや問題ではありませんでした。大漁の奇跡は、すでに救霊の象徴としての役目を終えていたからです。
私たちは聖書の神様が今も生きておられ、奇跡をなさることを信じます。けれども奇跡はそれ自体が目的ではありません。それを通して神様は私たちに何かを語っておられます、また私たちを招いておられるのです。逆に、奇蹟を通して語りかける神様のメッセージを見逃して、その奇蹟のみに目を留めていくなら、神様の働きをすることはできません。ペテロも毎日大漁で大もうけすることだけを考えていたら、福音宣教の働きはできず、初代教会のリーダーとなる代わりに、ただのガリラヤのしがない漁師で一生を終わったかも知れません。

第二のポイントに移ります。私たちの信仰生活の中で、神様にいろいろな祝福を願い求めることがあります。それ自体は悪いことではありません。そして実際神様は祈りに応えてくださり、様々な祝福(いやし、解放、経済的祝福等)を体験することができます。しかし、私たちがその祝福に目を奪われてしまって、そもそもその祝福を与えてくださった神様を忘れてしまうなら、せっかく神様からいただいた祝福も偶像となってしまう危険性があるのです。
民数記十一章では、荒野をさまよっていたイスラエルの民が食べ物のことで不満を言った記事が書かれています。彼らに食べ物がなかったわけではありません。神様は毎日天からマナを降らせて、超自然的な方法で民を養われたわけです。奇跡も毎日起こると当たり前になってしまい、感謝の代わりに不平が出てくるという、信仰生活の落とし穴をここには見ることができます。そこで民は、もうマナには飽き飽きした、肉を食べさせろと叫んだのです。これに対して神様は、これまた奇蹟的にうずらの大群を送られて、民に食べさせました。けれども重要なのはその後です。三十一節から三十四節を読みましょう。

『さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、--最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた--彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが民に向かって燃え上がり、主は非常に激しい疫病で民を打った。こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。』

貪欲に駆られたイスラエルの民は、神様が送られたうずらをむさぼっている最中に裁きを受けて滅びてしまいました。なぜでしょうか?神様から送られた祝福に対して、それを送ってくださった神様に感謝もせず、また自分たちがその前に行ったつぶやきの罪を悔い改めることもせず、ただ自分たちの欲望を満たすための手段としてその肉をむさぼっていったからです。確かにうずらを送られたのは神様です。そして神様はそのうずらを民の祝福となるように送られました。けれども、彼らが神様への感謝を忘れ、悔い改めもせず、ただ食物だけに目を向けていった時、祝福が偶像となり、呪いとなっていったのです。
時として、神様は私たちが持っている様々な祝福を、それがたとえ神様ご自身から来たものであっても、手離してご自身に従うように求められる時があります。ある意味で、ペテロたちに与えられた魚は捨てられるために取られたと言えるでしょう。「何ともったいない」と思うかも知れません。けれどもこれは決して無駄ではありません。受けたものから手を離すという、このプロセスが私たちの信仰にとってたいへん重要なのです。私たちの主に対する献身、コミットメントは主のために何を捨てられるかで測ることができます。けれども持っていないものを捨てることはできません。より多く与えられた人は、主に仕えるためにはより多くを捨てなければならないのです。
十一節で感じるもう一つの疑問があります。話の冒頭に出てきた群衆はどうなったのでしょうか?ここでこの話のもう少し大きな文脈に目を留めてみましょう。四章までの時点ですでにイエス様はガリラヤ全土で宣教しており、大勢の群衆が付き従ってきていました。しかし、イエス様は五章になってはじめて「弟子」を作られるのです。この話でペテロたちがすべてを捨てて主に従って行った後、次に彼らが登場する時(五章三十節)には、彼らは「イエスの弟子たち」と呼ばれています。ルカは「群衆」と「弟子」を区別して描いていることに注意しなければなりません。「群衆」はイエス様の奇跡に驚き、そこから恩恵(病のいやしや悪霊の追い出し)を受けようとしてイエス様に従いますが、彼らはイエス様に従うことが自分の利益にならないことが分かると、後に主から離れてしまいます。四章四十二節でも群衆がイエス様の奇蹟を求めて主を去らせたがらなかったことが書かれています。
今日の五章の話でも最初に登場するのは「群衆」ですが、最後にイエス様に従っていったのは「群衆」ではなく、シモンをはじめとする少数の「弟子」たちでした。群衆はイエス様に従っていくことよりも、シモンたちが捨てていった魚をどう分配するかに頭を悩ませ、あるいは我先にと魚に飛びついて互いに奪い合っていたのかもしれません。けれども「弟子」はこの世の富には執着しません。また弟子たちは自分の罪深さと、罪人に注がれる主の恵みを知っています。ルカの福音書では、五章八節ではじめて「罪人」というギリシア語が登場しますが、「弟子」は自分の罪深さを悟り、それにもかかわらず手を差し伸べてくださるイエス様の恵みを体験した人々です。さらに、「弟子」はイエス様の下で訓練され、試練に耐える存在です。彼らはイエス様が十字架にかけられる際に躓いて散り散りになってしまいますが、主の復活後には信仰を新たにし、ついにはイエス様の働きを受け継いでいく者となっていったのです。
現代の「クリスチャン」と呼ばれる人々の中にも、「群衆」的クリスチャンと「弟子」的クリスチャンがいます。あなたは「群衆」の一人でしょうか?それとも「弟子」になりたいでしょうか?イエス様から何かいただくことだけを求めていないでしょうか?もしもイエス様があなたの必要、あなたの願いを叶えてくれるだけの存在であるならば、それはドラえもんやサンタクロースとあまり変わらない存在です。けれども、ドラえもんはあなたの罪のために死んではくれなかったし、サンタは「すべてを捨てて私に従ってきなさい」とは言いません。イエス様はいのちを捨ててあなたを救ってくださいました。そして今度はあなたも、その一生をささげて主について行く弟子となるように願っておられるのです。
あなたは自分の持っているものを捧げてイエス様に仕えていく覚悟があるでしょうか?イエス様の弟子になるためには完璧である必要はありません。嘘だと思ったら福音書の弟子たち見てください。彼らの中に完璧な人間は一人もいませんでした。弟子とは、フルタイムで働く牧師や伝道者のことではありません。説教や個人伝道がうまい人のことでもありません。たくさんの神学的知識を持っている人のことでもありません。教会の奉仕を何でもそつなくこなす人のことでもありません。欠点だらけでもいいのです。失敗続きでも良いのです。イエス様の愛と恵みを体験し、イエス様にすべてを捨てて従うスピリットを持っている人が、本当のキリストの弟子なのです。
「私は弟子なんて大それた存在にはなれないから、群衆の一人でいい」と思う人があるかも知れません。けれども、マタイ二十八章十八~二十節で復活のイエス様は、こう命じられました。

『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。』

つまり、洗礼を受けたクリスチャンは、本来みなイエス様の弟子となるように召された存在なのです。繰り返しますが、これは皆が牧師やフルタイムの働き人になると言うことではありません。どのような環境にあっても、今自分に与えられているすべてを主のために用いて仕えていく時、私たちはキリストの弟子なのです。
弟子となるために最も重要なことは自分の罪に死ぬことです(八節参照)。そしてイエス様の恵みを体験することです(十節)。罪に死に、恵みによって生きることを体験した者だけが弟子になることができます。「ペテロ」という名前がルカ福音書の中では八節で初めて出てきます。ルカ六章十四節によると、シモンはこの名をイエス様からいただいたことが分かります。「ペテロ」という名は使徒、つまりイエス様の弟子としての特別な意味が込められた名だったのでしょう。ルカは五章の話で一貫して彼を「シモン」と呼んでいるのですが、八節だけは「シモン・ペテロ」と呼び方を変えています。ここには重大な意味があると思います。教会に毎週通っていても、聖書をよく知っていても、神学校を出ていても、罪に死に、恵みに生きるこの体験がなければ、主の弟子になることはできないのです。
このことを本当に体験していれば、すべてを捨ててイエス様に従うのは苦痛ではなく喜びとなります。マタイ十三章四十四節でイエス様はこのようなたとえを語られました。

『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』

ここで「大喜びで」と書かれています。すばらしい宝を発見した人は、誰に強いられたわけでもなく、大喜びで自分からすすんで全財産を売り払ってその宝を買いました。主に従う人生、神の国に生きる人生の価値を知った人は、そのかけがえのないすばらしい宝を手に入れるためには、嫌々ながらではなく、すべてを自分から喜んで捨てることができるのです。ルカ五章十一節でもイエス様はシモンたちに「私についてきなさい」とも「舟や魚や持ち物を捨てなさい」とも何も言っておられません。しかし、主の恵みを体験したシモンたちは、それが何ものにも替えがたい宝であることがわかったので、イエス様が旅を続けられるのを見ると、進んですべてを捨て、主に従ったのです。

今、献身の思いを新たにしましょう。実はペテロたちはイエス様にこの時はじめて出会った訳ではありません。ヨハネ福音書を見ると、イエス様はペテロたちをこれ以前にも弟子にしておられることが分かります。その時ペテロたちはおそらく在家の立場で、漁師としての仕事を続けながらイエス様の教えを受け、主が近くを巡ってこられた時にお仕えしていたのでしょう。けれども、ガリラヤ湖畔で主に召された時、シモンたちは漁師の仕事を完全にやめて、フルタイムで主に従うようになりました。ですから、この話はペテロの「再召命」「再献身」の話と言うことができます。けれども、実はペテロの献身はこの二回だけではないのです。ヨハネの福音書二十一章を見ますと、復活後のイエス様がもう一度ペテロを召される話が書かれています。十字架にかけられる前にイエス様が捕らえられた時、主を裏切ってしまったペテロは、失意の内にふたたびガリラヤ湖で漁師としての生活を送っていました。そこに復活のイエス様が現れて、ペテロに対して「私の羊を飼いなさい。」と語りかけられます。主はもう二度と立ち上がれないほどの失敗をしてしまったペテロでさえ、また召してくださったのです。
ルカ九章二十三節にはこうあります。

『イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」』

救いは一回きりですが、献身は何度もしなければならないものです。このみことばに「日々」とあるように、私たちは毎日主に献身していかなければなりません。これは厳しいことばのように思うかも知れませんが、逆にそれは恵みでもあります。主は私たちに毎日献身の機会を与えてくださっているのです。私たちは主に従っていこうと思っても、すぐにその思いがなくなってしまうことが良くあります。日曜日に教会に来て神様のために生きようと思っても、火曜日か水曜日くらいにはもうそんな思いはどこかに行ってしまっているかもしれません。もしかしたら礼拝が終わって教会から一歩出た途端にそうなるかもしれません。また私たちは、ペテロのように失敗してしまうこともあるかもしれません。そのようにして、背負っているイエス様の十字架を放り出したくなってしまうようなこともあるかも知れません。けれども主は私たちが何度つまずいても、毎日繰り返し、「今日、あなたはわたしに従ってきますか?」と問いかけてくださるのです。その時、もう一度主の十字架を取り上げて、従って行きましょう。最初に亀の話をさせていただきましたが、亀の歩みのように、ゆっくりとでも着実に、一歩一歩、神様のあとに、イエス様のあとに、従っていく者になっていきたいと思います。
また、お話ししたように、イエス様は私たちの人生のすべての領域を支配しておられる全能の神様です。このお方に従っていく人生以上にすばらしい人生はありません。喜びをもってこの主に従っていき、人間をとる漁師にならせていただきましょう。お祈りします。

愛する天の父なる神様。あなたの御名をほめたたえて、心から感謝をいたします。イエス様、あなたは私たちの人生の主です。私たちの人生のすべての領域をすべ治めておられ、また私たちを日々導いてくださる方であることをありがとうございます。
私たちは、本来、聖いあなたの御前に立つことすらできない者でありましたけれども、イエス様の十字架のあがないによって、罪が赦され、神の子どもとされ、また御国の民として、あなたに仕えることを許されていることを感謝します。
私たちは各々与えられている職業やつとめは違いますけれども、あなたの弟子として今日もあなたについて行くことができるように、助けてください。群衆のようなクリスチャンではなくて、あなたの弟子にしてくださいますようにお願いいたします。
そしてあなたは、そのような私たちを日々助け、力を与え、あなたに従う人生を全うさせてくださることを信じます。感謝して、尊きイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。