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「あなたも主の勇士になろう!」

2014年6月1日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順

第二サムエル記23章13節〜17節

『三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。』

ハレルヤ!ひさしぶりに新城教会でメッセージを取り次ぐことができますことを、感謝します。
 昨晩は「レッツプレイズ」という、高校生の集会がありました。毎回、高校生たちが大勢来て、熱気溢れる集会ですが、昨晩はちょっと雰囲気が違いました。なぜなら、ゲストが去年のクリスマスにも来てくださった、名古屋の菊里高校の音楽科の皆さんだったからです。今日の礼拝にも出席してくださると言われたので、「演奏してくださいませんか?」とお願いしました。大きな拍手でお迎えください。
 昨晩の様子をお見せしたいと思います。

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 全員、高校三年生です。

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 素晴らしかったですね。みなさん、拍手をしてあげてください。この四人が素晴らしい音楽家になれるように、祝福をお祈りしたいと思います。

 「ハレルヤ。主よ、感謝します。すばらしい音楽を奏でてくださった菊里高校の四人の祝福を特別、祈ります。主よ、彼らが音楽を通して、神を誉め称え、賛美し、栄光を現す器となりますように。音楽界においても、豊かに用いてください。この四人の上に特別な祝福を与えてくださいますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 どうもありがとうございました。すでに何回も新城教会で奉仕してくれていますが、新城教会の専属になって下さいね。昨晩は、中高生に聴かせるのにはもったいないような音楽でしたが、素晴らしかったです。やっぱり中高生たちも、昨晩はおとなしかったです。だから私も激しいメッセージはできませんでした。だからちょっと勉強風にやりました。

 昨晩は「絶対に幸せになる秘訣」というお話しをさせていただきました。第一に「本物の神様を知ったら幸せになる」とお話をしました。
 そして、もう一つは、「見えない敵がいる」という話を、映像付きで説明しながら話しました。

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 透明人間みたいなのがいるわけです。この存在に気づかないと、幸せになれません。そして、敵は悪魔と悪霊どもだ!と話しました。人類の敵は、昔も今も、同じです。悪魔を友達としたら、人は不幸になるのです。友達にしていると骸骨にされちゃいます。

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 悪魔と手を結んだら、大変なことになるわけです。しかし「本物の神様はイエス様だ!」と話しました。聖書は「口で告白したら救われる」とあります。やはり、中高生ですから、日本語で告白するのはちょっと抵抗があると思ったので、英語で告白させました。「みんなでアイ・ビリーブ・イン・ジーザス!さぁ、いきましょう!」『アイ・ビリーブ・イン・ジーザス!』と叫びました。すごかったですよ。ちゃんと意味分かってんのかなと思いましたが、皆、力一杯告白して叫びました。全員、私の作戦にはまりました。私たちも、今朝、告白しましょう。「アイ・ビリーブ・イン・ジーザス!、イエス様を信じます!」という意味です。
 もう一つありまして、それはアイ・ラブ・ジーザスです。イエス様を信じると、今度はイエス様を愛するようになります。みんなで叫びましょう。「アイ・ラブ・ジーザス!」「アイ・ラブ・ジーザス!」

 今年は、「環・関西リバイバルミッション」がありますので、新城教会の牧師たちは、あっちに行ったり、こっちに行ったりして、準備をしています。「あんたが一番外に出て行っているんじゃないの?」と言われるかもしれませんが、様々な場所で奉仕をさせていただいています。本当に感謝をしています。新城教会では、毎週、様々な先生が、すばらしいメッセージを取り次いでくださっているので安心です。私は引退してもいいのかなと思うほどです。
 この頃、平岡先生も引退して、教会を息子さんに任せておられるようで、いいなぁ、と思いましたが、私もそういう年にちょっとずつ近づいて来ました。若い人たちが育っているのは、本当に感謝です。賛美の領域においても、様々な働きの中でも一人一人に与えられた賜物が生かされることは、本当に嬉しいです。

 今日は、以前にもお話しさせていただいた箇所なのですが、第二サムエル記二十三章十三節〜十七節から話をさせていただきます。
 旧約聖書はイスラエルの歴史を表しています。イスラエルは、神が与えると約束された土地から追い出され、エジプトに四百年以上に渡り奴隷となっていました。しかし、そこから約束の地へ戻って来て、敵の手から約束の地を奪還する、戦いの歴史が記されています。
 今日読んだ箇所も、ダビデという王様と、その部下たちが一つの町をめぐって戦いを繰り広げた様子です。第二サムエル記二十三章十三節〜十四節、

『三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。』

 「ベツレヘム」という町が敵の手に陥っていました。それを、ダビデと部下たちが攻め取っていく様子が描かれています。
 同じ二十三章八節〜十二節を読みますと、このように記されています。第二サムエル記二十三章八節〜十二節、

『ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、彼はその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。』

 もしも私たちが、旧約聖書だけを聖典としていたら、たいへん怖いことになります。それは、神を信じる民が、信じない民を皆殺しにするという、まさしく恐ろしい世界です。この記録は今から三千年も前の話ですが、旧約聖書の時代は、神に選ばれたイスラエルが、偶像礼拝の民を皆殺しにする、血なまぐさいストーリーです。
 もしも「神のみ言葉に忠実であれ」と旧約聖書のみで言われたら、たいへんな事になります。ほとんどテロリストの集団、カルト集団になってしまいます。
 では、旧約聖書の記録を、どう理解したら良いのでしょう。私たちはイエス・キリストにあって救われた者たちであり、新約聖書の時代に生きる者たちです。ということは、旧約聖書を新約聖書のめがねをかけて、理解しなければならないのです。
 ヤショブアムは、「槍で八百人を打ち殺した。」と記されています。彼の行動が一番すばらしいと讃えられているわけです。エルアザルは、「手に剣がくっついて離れなくなるほどペリシテ人たちを殺した」というのです。血のりで、剣が手にくっついちゃったのです。それが一番素晴らしい人だと讃えられているのです。また、シャマも、畑の真ん中に踏みとどまって、「大量にペリシテ人を殺した」というのです。

 しかしそれらを新約時代のめがねで見たら、どういう意味になるでしょうか。それは、決して殺人の話ではありません。敵とは、先ほど話したように、「人類の敵は悪魔・悪霊ども」です。悪魔・悪霊どもをやっつける勇士となりなさい、という意味になります。
 そして、この戦争は、ただの戦争ではなく、霊的戦いとなります。その勇士となってくださいと、教えているのです。私たちは、旧約聖書の記事を読む時に、歴史的視点と共に、新約の視点で読むことが必要です。その視点でストーリーを読むと、すばらしい霊的勝利と、霊的意味が浮かび上がって来ます。

 今日は、「あなたも主の勇士になろう」というテーマですが、お一人一人が聖霊に満たされ、暗闇の力を打ち破る、勇士になったら、日本は変わるはずです。
 イエス様の一番近い弟子たちは十二人しかいませんでした。一人は裏切りましたから、十一人でした。その外に七十人の弟子たちもいたようです。しかし、決して数は多くありませんでした。少ない人たちでした。少ない人数でしたが、世界を変えるほどの働きをしたのです。
 ダビデ王様は、今でもイスラエルの英雄です。彼も多くの軍隊によってというよりも、彼の周りに仕えていた、二十三章を見ると、たった「三十七人」の勇士たちによって町を敵の手から解放したのです。その中でも、三人が重要でした。
 お一人一人が主の勇士となって立ち上がる時、この日本は変えられ、アジアも、世界も、大きく変えられるはずです。

 来週の日曜日はペンテコステの日になると思いますが、聖霊が注がれて教会が誕生した記念の日です。聖霊が臨む時、力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして、全世界への証人となるのです。私たちは、武力やイデオロギーでによって世界を変えるのではなく、聖霊の力により、福音の力により、世界を変えていく者にならなければなりません。
 今日は上からの力をいただき、たった一度しかない人生、主の勇士となって行きたいと願います。

 最初に読みました箇所、どんな状況であったかというと、ダビデと三十七人の勇士たちは、ベツレヘムという町が見える谷の向こう側の洞穴に潜んでいました。
 ベツレヘムという町はどういう町であったかというと、イエス様がやがてお生まれになる町でした。そこは、ダビデ王の故郷でもあったのです。ダビデは自分の生まれ故郷を敵に奪われ、複雑な心境であったと思われます。
 イスラエル旅行に行かれた方が多くおられますが、この辺りの情景を思い出されると思うのですが、あの辺は荒野の中、ぽつんと町が出現するのです。ベツレヘムという町も、荒野の中の町です。周囲は谷で囲まれています。
 自分の生まれ故郷を失い、彼は複雑な思いであったと思います。彼はこの町で育ちましたから、様々な幼い頃の情景がよみがえって来たに違いないです。「・・・野山を駆け巡って、いろんな場所で遊んだなぁ。しかし故郷が敵の手に奪われてしまった。どうしたらいいだろう・・・」と。

 ペリシテ人は、イスラエルの宿敵でした。彼らは凶暴な海洋民族でした。現在、イスラエル近所を「パレスチナ」と呼びますが、パレスチナとは、「ペリシテ人たちの地」という意味です。海のほうから上がってきた民族、それも気の荒い民族がイスラエルに対抗していたのです。そして、敵の手に自分の生まれ故郷が陥ってしまっていたのです。
 そんな時に、ダビデが一つの言葉を発します。十五節に、

『ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」』

 つぶやいたというよりも、「しきりに」言ったとありますから、相当喉が渇いたのだろうと思われます。
 今日から六月になりました。すでに真夏じゃないかと思うくらいに暑くなりましたね。今日も大変暑い日になっております。是非とも、みなさん熱中症に気をつけていただきたいと思います。

 我が家も夏になると孫たちがやってきて、ベランダで水遊びをやります。私はそれがあんまり好きじゃないのですが、昨日からすでに押し寄せて来て、ぐちゃぐちゃにしています。しかし夏の暑い日は、水がないと辛いですよね。
 幼い頃の記憶は、だんだん年を取ると薄れて行くものですが、私は鮮明に覚えている小学一年生の夏の記憶があります。それは、朝礼の時間に新城小学校の校庭で、喉が渇いて、喉が渇いて、死にそうな思いをしたことがあるのです。本当に我慢するのが辛かったです。朝礼が終わったら、すぐに水飲み場まで全力で走って行き、水を飲みました。今でも蛇口の色まで覚えています。思いっきり、水を出してがぶ飲みしたのを今でも覚えています。たぶん、ダビデもそんな心境だったかと思われます。喉が渇いて、喉が渇いて、洞穴の中で喉が渇いて、あの付近の昼間の温度は四十度以上になりますから、殺人的な暑さの中で、「喉が乾いた。喉が乾いた!!」とわがままを言ったわけです。

 その時に、三人の男達が、ダビデの渇きを癒やすために、敵陣に乗り込んで水をくんで来たという物語です。
 その水がどこにあったのかと言うと、ベツレヘムは城壁で囲まれてたのですが、門の近くにある井戸から汲んで来たというのです。
 イエス時代の町とは、敵の侵入を防ぐためにぐるりと城壁が築かれていました。そこにはいくつかの門があり、その近くに井戸があったみたいです。

 当時の町で、軍事的にも、経済的にも、すべての点で重要な場所が、「門と水」でした。パレスチナの焼け付く地においては、水がなかったら絶対に生きることはできません。ゆえに、井戸は最優先で守らなければならない重要地点でした。
 それと共に、門とは、門を取られたら町を取られたのと同じ意味合いがありました。ですから、当時の街をめぐる戦いでは、最も強い精鋭部隊を門に配備したのです。なぜなら、門を攻め取られたら町を取られたのと同じだからです。
 ということは、ペリシテ軍の精鋭部隊は、どこに配備されていたのかといったら、門と井戸であったのです。特に、水のある門は重要な拠点でした。と言う事は、三人が水を汲みに行った場所は、最も危険な場所であったわけです。

 ダビデは「喉が渇いた!喉が渇いた!」と、戦争の最中で、わがままを言ったのです。すると三人の兵士たちが、「私たちが汲んで来ます!」と言って、なんと、危険を冒して、水を汲んで来たわけです。
 私はこのストーリーを初めて読んだ時、「ダビデはなんてわがままな男なんだろう。」と思いました。これはダビデのわがままストーリーだな、と思いました。そして、「親分のダビデも馬鹿なら、子分たちも馬鹿だな。なんで一番危険な場所に命がけでつっこんで、水を汲んで来たのか。ありえん!」と思いました。

 しかし、祈りつつよく読んでみた時、ダビデがしきりに「誰か、ベツレヘムの門にある井戸から水をくんで来てくれないか」と懇願した、真の意味が分かって来ました。
 もちろん彼は、喉が渇いていたこともあったのですが、それ以上に、先ほど話したように、「門と井戸」というセットは、最強部隊が展開していたわけです。水を汲む為には、ペリシテ軍の陣営を突き抜ける、すなわち、敵の最も強い精鋭部隊たちを打ち破らなければ、決して、水をくむことは出来なかったのです。
 ダビデの言葉は何を意味していたのでしょうか。「誰がこの町を勝ち取るために、先陣を切って、戦ってくれるんだ。勇気のある者たちは誰だ!?」と、三十七人の兵士たちに呼びかけていたのです。

 この三人が、なぜ勇士であったのかというと、それはダビデが話した真意を瞬間的に読み取ったからです。
 近頃は、言葉がなかなか通じない時代だと言われます。言葉を投げかけても、後ろの意味を受け取れない人たちが多くいるのです。
 しかしこの三人の勇士たちは、ダビデが暗に、「誰がペリシテの最強部隊を打ち破るんだ」という要求を、「のどが渇いた。誰か水を汲んで来てくれないか?」という言葉に置き換えて投げかけた時、真意をすぐに読み取ったのです。それで命をかけて出て行き、敵を倒した結果として、水を汲んできたところに、勇士としての所以があったわけです。

 私たちも同じようにならなければいけないと思います。主が私たちに何を願っておられるのかを、瞬時に悟るものになりたいです。ダビデは、イエス様を表す旧約時代の人物ですが、「誰が悪魔の最強部隊を打ち破ってくれるんだ。誰が水を汲んでくれるんだ」と、一人一人に語っておられるのではないかと思います。
 私たちクリスチャンの重要なことは、神が語っておられる真意、すなわち御心の中心を掴むことだと思うのです。私たちにしか破ることのできない、門と井戸があるはずです。あなたしか、勝ち取ることのできない門があり、また井戸があるはずです。
 主は、私たちに、その門に攻め込み、敵を打ち破り水を汲んで来て下さい、と語っておられるに違いありません。

 現在、関西で、「やっぱ祈りやねん・関西」という集会が開かれているのですが、前回、私はそこで奉仕をさせていただきました。
 一九九三年に甲子園球場で「全日本リバイバル甲子園ミッション」という大会が開かれましたが、一九九二年と九三年の二年間は、私の人生の中で一番思い出深い年です。なぜなら、甲子園ミッションのために、真剣に働かせていただいたからです。私はその準備集会に、初めから終わりまで関わらせていただきました。初めての準備集会をどこでやったかというと、大阪に中之島公会堂というのがあるのですが、たいへん古い公会堂です。その建物の前に細長い公園があって、狭い野外舞台みたいなのあります。そこを会場として、第一回の準備集会が行われたのです。
 「甲子園ミッションの準備のために集まってください!」と呼びかけると、二、三十人の若者たちが集まりました。私はその時、「こんなことで大丈夫なのだろうか・・・」と不安に思いました。
 しかし、その人たちが聖霊の力を受けたのです。彼らが核となって、甲子園ミッションをやり遂げたのです。大きな働きをする為に、主は決して大勢の人を必要としていないということです。少なくてもいいのです。主の勇士がいるならば、神の業は進んでいくのです。
 日本の現状、アジア、世界を見る時、これからどんな方向に向かうのだろうと、時々、不安になります。愛知県の片田舎に集まっている者たちで、何ができるのだろうと思いますが、これだけいたら十分です。一人一人、主の勇士として立ち上がるなら、国は変えられ、世界は変えられると信じます。ちょうど、イエス様の弟子たちと同じようなことが起きるはずです。

 この三人が、なぜ勇士として称えられたのかと言いますと、一つは、ダビデが言った真意を即座に読み取った事にあります。それと共に、ヤショブアム、エルアザル、シャマという三人は、ダビデに対する、絶対的な忠誠心を持っていたと注解書にありました。何があっても、ダビデの命令には逆らわない、命令を遂行するという強い意志と、絶対的忠誠心を持っていたと言うのです。それが、このような偉大な勝利につながりました。

 日本の国民は、忠誠心の強い国民だと言われます。ある意味、忠誠心とは、人間の本能なのかもしれません。リーダーに従っていくとか、一つの旗の下に集まり、忠誠を尽くすのは、歴史を見ても本能的なところがあると思われます。
 しかし、過去の日本の歴史を見ると、その忠誠心が必ずしも、良い方向に使われていません。この頃、日本の流れが徐々に、国民に対して「国に対する忠誠心」を求める方向に変わっています。今後、私たちがしっかりと意識しなければならないのは、どこに忠誠心を向けるのかという事です。それは、私たちを造ってくださった生ける神、イエス様に百パーセント仕える忠誠心を、人生の中心として据えなければなりません。

 動物にも本能的に忠誠心があるようです。今日私は東京に行くのですが、渋谷駅前に忠犬ハチ公の銅像があります。

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 犬でもかなり人に忠誠を尽くすみたいです。ハチ公は上野さんという人の飼い犬だったそうです。しかし上野さんが死んでも、ハチ公は九年間に渡って、渋谷駅に毎日、主人を迎えに行ったそうです。上野さんだから、上野の駅前に作れば良かったのにと思いましたが、渋谷にあります。犬でも主人に対する忠誠心があるわです。これは神様が与えた本能です。
 インターネットにこんな犬の写真がありました。私は犬への関心はまぁまぁですが、これを見てください。

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 この犬は、主人から頭に乗せられた物は、どんなものでも、絶対に落とさないというのです。主人に乗せられたら、何がなんでも忠実に落とさないようにするらしいです。犬がこのくらいなら、私たちはもっと強く、主への忠誠心を持たなければなりません。私たちを造ってくださった神様に、忠誠心を向けなければならないのです。

 江戸時代まで、武士は自分の主君に完全な忠誠心をもっていたわけです。失敗したら切腹でした。しかし明治時代になったら、明治政府はその忠誠心を、そのまま利用して、国家のため、天皇の為に持つようにけしかけました。そして、日清、日露、日中、太平洋戦争と突き進んで行ったわけです。
 靖国神社に行きますと、天皇の為に、国のために命を捨てたという二百数十万人を祀っているのです。本当に悲しいことではないでしょうか。日本の帝国主義時のイデオロギーは、現代では、完全に否定されています。では、なぜ、あんな愚かしいことをしたのでしょう。彼らの死はなんだったのでしょう。
 間違った忠誠心ゆえに、二百万人以上の人たちが、命を落としたのです。忠誠心は、気をつけないとたいへんな事になります。

 韓国では、今週、ヒョンチョンイルという国のために命を落とした人たちを祀る、特別なセレモニーがあります。韓国においても多くの戦争があり、国のために多くの人たちが命を捨てました。もちろんそのような人達がいて、今の歴史があるということも言えるのですが、どこに忠誠心を向けるのかで、人生も、国も、世界のも変わってしまうのです。

 現代における日本はどうでしょう。忠誠心が、会社に向けられています。仕事・仕事で、会社のために命がけという人たちも多くいます。
 しかしクリスチャンになったら、忠誠心をどこに向けるのか。それは、私たちを造ってくださり、生かしてくださっている神、イエス・キリストに全幅の忠誠心を向け、命をかけるのです。
 人はどこかに忠誠心を向け、寄りかからないと生きることができない動物です。では、誰に寄りかかって行くのか。人に寄りかかったら絶対に失望します。国に寄りかかっても失望します。けれども、天地宇宙を造られた神に忠誠心を向たら、失望する事はないのです。

 ダビデの三勇士は、ダビデに対して絶対的な忠誠心を持っていたのですが、新約的な視点から見るなら、「イエス様の為に、命がけで仕える」という忠誠心を学ぶ事が出来るのです。
 みなさんは何に忠誠を誓っておられるのでしょうか。ある方は「やっぱり仕事かな。会社かな。いや、家族です。」とか、いろいろあると思いますが、忠誠心の中心軸を変えなければならないのです。イエス様を一番にして、イエス様に絶対的服従と、忠誠を誓っていくなら、ダビデの三勇士のように、国を変えることが出来るのです。ベツレヘムが奪還された事により、やがて、その街で救い主イエス様がお生まれになったのです。

 国際社会には不穏な空気が流れており、国はなんとか人々の心を集中させ、国に忠誠を誓わせようとする気運が、さらに強くなっていくと予想されます。
 イエス様が昇天され、弟子たちが宣教を始めたのですが、当時は、ローマ帝国という巨大な帝国がイスラエルをはじめ、諸国を牛耳っていました。起源七十年にエルサレムはローマ軍により、完全に破壊され、ユダヤ人たちは散らされることになりました。そんな中、ペテロがこのような言葉を語っています。
 第一ペテロ五章八節〜九節。新共同訳ではこうなっています。

『身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。』

 「悪魔に立ち向かいなさい!」と語られていますが、何を背景としているかというと、「ローマ帝国による迫害」だったのです。それは裏を返せば、「悪魔があなた方を食い尽くそうとしている」と、ペテロは語ったのです。
 今の時代、右傾化していて、国に忠誠を誓わせる気運が高まっていますが、このような中、私たちは堅く信仰に立って踏みとどまり、「悪魔に対抗しなさい!」と主は語られているのです。そして国の背後に働いている、暗闇の力に立ち向かう勇士となってください語られているはずです。

 今の時代、イエス様が帰って来られる寸前の時代かもしれません。先週、雅也先生が、「主よ、来てください」というメッセージを語りましたが、私も日頃の働き中で、「人の手ではどうにもならない・・・」という問題があまりにも多くありすぎます。「主よ、なんとかしてください!」と叫びたくなります。「なんとかならないのなら、主よ。帰って来てください」という祈りがつい出て来てしまいます。
 しかし、そのような消極的な待ち望みではなく、もっと積極的に主が帰られる日を待ち望まなければいけない、と語られていました。

 主が帰って来られ、地を治めていただくために必要な条件は何でしょう。それは神のために、主イエス様のために、命をかけて仕えていく勇士が必要です。
 あなたしか勝ち取ることができない敵の門があり、井戸が任されています。そこには敵の精鋭部隊が陣を張って待っているかもしれません。しかし、「それを打ち破って水を汲んで来い!」と、主は私たちに語っておられるような気がしてなりません。

 三人の勇士を見ていきますと、ヤショブアムという人は、「槍を振るって、一度に八百人を刺し殺した」とあります。一人で八百人を刺し殺すのは、簡単にできることではありません。しかし、八百人の敵は、ヤショブアムに任された領域であったわけです。
 エルアザルもそうでした。自分の手が疲れて、手が剣に付いて離れなくなるまでペリシテを打ち殺したのです。彼も、持ち場を離れない人でした。
 シャマという人物も、「畑の真ん中に踏みとどまって」、これを救いペリシテを打ち殺したなっています。民はみんな逃げてしまったけれど、シャマはレンズ豆畑の真ん中に踏みとどまり、一人でも戦ったのです。
 この三人がなぜ勇士と呼ばれたのかというと、彼らは自分の持ち場をしっかりと理解していたからです。

 みなさんも社会において、様々な持ち場が与えられていると思います。そこがアドラムの洞穴であり、その面前に、敵に奪われた門と井戸があるのです。あなたに与えられた持ち場を離れないで、踏みとどまって戦ってくださいと語られているのではないかと思います。
 一度、自分のポジションがどこなのか、よく考えて見ましょう。新城教会には、職業はすべてあるくらい、多種多様な領域で皆さんは働いておられます。その場所は、あなたしか入って行くことができない場所なのです。

 今日も、「やっぱ祈りやねん」という賛美をしましたが、「この町を救うためにやっぱ祈りやねん♪」と。
 現代において、新約の時代において、敵陣に飛び込んで水をくんで来る戦いとは、一体なんでしょう。それは、「祈りやねん」。
 関西では「祈りやねん」と叫ぶと、「そやねん」とかえってきます。合いの手が入るのですが、「祈りの戦い」なのです。
 御言葉に基づく祈りは、神が人類に与えた最も鋭い剣であり、槍です。みなさんが面している門、そして井戸。それを攻め取るためには、祈りが必要だということです。
 今週自分の持ち場に帰ったら、持ち場を勝ち取るために、「やっぱ祈りやねん。」祈っていただきたいのです。

 この頃「私たちは管理人として造られた」という話をしていますが、あなたが遣わされている場所は、あなたしか管理することは出来ません。責任をもってその場に踏みとどまり、祈らなければいけないのです。
 祈りには二つの方向性があります。一つは「神様助けてください。なんとかして下さい!」という、祈りのベクトルです。
 しかし祈りは、それだけではありません。先ほども、主の祈りを祈りましたが、これは、「御国が来ますように、御心が天でなっているように、地でもなりますように!」。それは命令形で書かれています。「御国よ、来たれ!御心よ、なされよ!」という宣言です。まさしくそれは管理の祈りです。
 私たちには、神から管理権が委託されています。現場を管理する管理権が与えられています。それゆえに、ただ「神様!助けてください!」という叫びだけでなく、与えられた権威を宣言しなければならないのです。門の前に陣を張っている悪魔・悪霊どもに対し、「おまえたちのいる場所じゃない。出て行け!この街から出て行け!水から手を離せ!」と宣言できるのです。様々な領域に展開している敵の力に立ち向かう、戦いの祈りが必要です。
 祈りによる戦いが繰り広げられる中、道は整えられ、やがてイエス様がこの地上に帰って来られるのです。

 前にもお話ししましたが、第一コリント人への手紙十五章二十節〜二十六節にこんな言葉があります。二十四節だけ読みますと、

『それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。』

 イエス様がこの地上に帰って来られる日、あらゆる支配、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神様にお返しになるのです。
 イエス様が帰って来るその日まで、教会の時代です。教会の時代は、教会を通し、クリスチャンを通し、敵の門を勝ち取る戦いが要求されるのです。その戦いが前進する時、やがて司令官であるイエス様がこの地上に帰って来られ、世界を治めてくださるのです。

 今年は「環・関西リバイバルミッション」という集会が開かれます。九三年に開かれた甲子園ミッションを彷彿させる、何か、激しい聖霊の働きがあるような気がします。
 甲子園ミッションの時、今のおじさんおばさんの年代は、みんな若かったのです。私も若かったです。あの頃、主のために命をかけ、日本のリバイバルのために真剣に祈ったじゃないですか。あの時に天が開かれました。「今もう一度、若い者も年寄りも、立ち上がって主が帰られる道を準備しなさい」と、語られている気がしてなりません。
 私たちの忠誠心をイエス様に百パーセント向け、この国を勝ち取るために、世界を勝ち取るために、働こうじゃありませんか。

 私は来週から、また旅に出なければなりません。祈っていただきたいと思いますが、来週は関西のほうで集会があり、その足でアメリカに渡り、タコマとヤキマでも集会があるのですが、それと共に、ジョー先生と竹内先生ととりなしの祈りにも行く予定です。アメリカから帰ったら、すぐに関西で奉仕があり、新城に戻って来ます。それは私に委ねられた、門と水の源を勝ち取る戦いだと信じます。
 お一人一人、様々な場所で祈り、戦ってください。勇士となってください。今日は心の底から、主にお仕えする決断をしようじゃありませんか。
 最後に皆さんと共に、聖餐式を行います。

 水が汲まれて来た時、ダビデはあまりにも感動して、その水を飲もうともしなかったというのです。それを主の前に献げて、『「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。』とありますが、やがてそれは新約の時代になると、「イエス様が私たちのために命を捨ててくださり、十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださった」という、十字架のあがないにつながります。

 今日、私たちは、パンとぶどうのジュースを目の前にしていますが、これはダビデが三勇士から受け取った、井戸の水なのです。
 イエス様が私たちのために命をかけてくださった、それは、ただ単に一人が救われるためではなく、私たちが勇士となって地を勝ち取る戦いに参加するための契約であります。
 私たちは、もう一度、自分自身の忠誠心をイエス様にしっかりと向けようじゃありませんか。そして「主よ、残された人生。あなたの為に命をかけます」と、「敵の門を勝ち取らせてください」と、「私を主の勇士としてください」と告白し、共に、聖餐式を受け取りたいと思います。一言祈らせていただきます。

 ハレルヤ。主よ、感謝します。今日私たちは、イエス様の流してくださった十字架の血潮を目の前にして、このようにして祈ることができ感謝します。この聖餐式を祝してください。これはまさしく聖霊によって、御言葉によって、あなたの裂かれた肉であり、血であることを心から感謝します。
 あなたも私たちのために命をかけてくださいました。私たちも、この国の救いのために、リバイバルのために、命をかける者となりますように。今どうか、私たちの価値観を、イエス様、あなたに戻してください。心を燃やしてください。イエス様の御名によって、聖餐式を祝福し祈ります。アーメン。