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「聖霊が臨まれるとき」

2014年6月8日 (日)
新城教会牧師 滝元明

使徒の働き1章8節

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。皆様方の祈りに支えられて、無事今日はここに立つことができて感謝です。
 最近は環・関西のリバイバルミッションの決起大会や様々な外部奉仕があり、この教会で奉仕をする時間が非常に少ないです。今月は月の初め韓国へ行って来ました。五月最後の聖日には大阪の河内長野市にある教会へ行きました。その前の聖日は八尾の教会で礼拝の奉仕をしました。ほとんどの聖日はこの教会にいることがないのですが、みなさんの祈りに支えられ、ここまで来ることができ感謝です。
 決起大会は一人で出かけます。先月八尾の教会に行く時や、河内長野の教会に行く時は、茶臼山駅を朝五時四十三分発の一番電車に乗って出かけます。新幹線で大阪まで行って、それからまた環状線に乗って、新今宮まで行き、それから河内長野駅まで行きました。随分長い時間がかかりましたが、なんとか迷わないで行く事ができました。

 出かける時、見送りに来てくれる人はいませんが、感謝な事に、私を見送ってくれるものがいて、私は嬉しい思いがしました。それは、私がいる時には毎朝、小鳥に餌をあげています。昨日も私の家の前にベランダがあるのですが、その手すりにひよどりが来てキョロキョロしていました。餌を欲しがっていました。それで私は手すりの所に餌をあげましたら、喜んで食べているのです。とてもかわいいです。以前はあまりひよどりが好きではありませんでしたが、最近は餌を食べに来てくれるので、かわいくなって仲良くなり「ひよちゃん、元気かい?」とか、話しかけます。すずめもたくさん来ますから「ちゅんちゃん、元気かい?」と声をかけています。この前、私が河内長野の教会に出かける時に、「ちっちっちっち」とひよどりが鳴いていました。「ひよどりが僕を見送っているのかな」と思いました。それから茶臼山駅に行きましたら、またすぐ近くまで飛んで来て、「ちっちっちっち」と鳴いていました。かわいいなぁと思い、小鳥に見送られて出かけて行きました。

 また五月三十一日から韓国へ招かれ出かけました。六日の金曜日に帰って来ました。今回はどういう集会に招かれたというと、「主の道を備えよ!」というタイトルの集会でした。私を招いてくださった先生は、キム・ヘジャという、女性の先生です。

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 みなさん、この方、誰かによく似てると思いませんか?私は、すでに天に帰った白井立子姉によく似ていると感じました。出会った感じや、肌の色から、何から何まで似ている気がしました。この女の先生が私を招いてくださいました。その右側におられるのは、その方の娘さんです。この方には四人の子どもさんがいます。この方は十八年前までは、ソウル市にある梨花大学という大学の英語の先生をやっていたそうです。その方が献身し、十八年ずっと開拓伝道をして来られました。その先生がアメリカなどから講師を招き「主の道を備えよ!」という集会を計画し主催しました。

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この先生はご存じでしょうか?新城教会にも来た事がある人です。シンディー・ジェイコブスという先生です。預言をされる方ですが、覚えている人はいますか?ちょうど一九九三年に全日本リバイバル甲子園ミッションを開催しましたが、一年前の聖会を都ホテルというところで行い、その時に来て話してくださいました。その後この教会にも来て話してくださいました。この先生は、リバイバル、救いについて働いているアメリカの先生です。ご夫婦で来られていましたが、そのシンディー先生と一緒になって、キム・ヘジャ先生は韓国にリバイバルを。また韓国に霊的戦いをということで何年前からずっと集会を続けて来ていたそうです。
 この度は、シンディー・ジェイコブス先生をはじめ、何人かの先生方を講師としてセジョン大学というミッションスクール、そこは三千五百人入る会場ですが、そこで集会をし、私もそこに行ってまいりました。

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 ここに集まる人たちはほとんどが牧師先生、牧師先生の奥さん、献身者、それからこれから献身したい人だそうです。向こうのお金で四万ウォンか五万ウォンくらいの参加費がかかるそうですが、三千五百人くらい入る所に四千人くらいの方が集まりました。そして非常にすばらしい集会になり感謝でした。

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 私もその集会で三回奉仕しました。講師が四人います。一人はシンディー・ジェイコブス。それから、ダッチというアメリカの神学校の校長をしておられる方。それからジェロームというフィリピンの若い伝道者の先生。そして私のような年寄りが招ねかれて集会を導きました。

 なぜ私が招かれたかというと、実は私の書いた本が二冊韓国語に訳されました。一つは「われ土方なれど」、もう一冊は「どうしたら人生の意義を見出せるか」という本です。二冊韓国語で出版されました。それからうちの次男である瀧元望の本や、長男の滝元順牧師の本が韓国語に訳されていますが、その先生は、私の書いた本を読まれたそうです。またキム・ヘジャ先生の娘さんは、京都のエンパワードという五千人くらい集まった集会に参加し、私がセミナーで話した時に出席し、気に入ってくださったかどうかは知りませんが、キム・ヘジャ先生がお祈りしている時、聖霊さまに語られたそうです。「滝元明を招け」と言われたそうです。私を神様が知っていてくださるのですね。「滝元明を招け」と、この八十五歳になった老人を招けと神様が言われたというのです。そういうことで、私が招かれて行くことができました。本当に感謝でした。とても良い集会を持つことができました。とても感謝でした。

 今、韓国は、正直言うと教会が下火になっています。韓国が経済的に良くなり、一九七〇年代とは違い、経済的な恵みが傷害となりクリスチャンが少なくなっているそうです。少ないと言っても日本よりははるかに多いですが、なんとかしなくてはいけない。リバイバルされなきゃいけないと考えているそうです。

 四月に滝元明ミニストリーを韓国で開催しましたが、行っている最中に、釜山の近くでフェリー船が沈み高校生が三百人くらい亡くなりました。韓国の教会の偉いことは、沈没し大勢の方が亡くなり、船会社のオーナーなど様々な問題があるといわれていますが、教会としては「自分たちがもっと福音を伝えなかった」「人々に対して熱心に伝道しなかったことが問題なんだ」と悔い改めていました。「船舶会社の罪ではなく、これは韓国全体が堕落したからだ。教会が堕落したことだから、我々の責任だ」と悔い改めて祈ろうということで祈り始めているそうです。釜山でも集会を開催したそうですが、悔い改めのために何人集まったかというと、二十万人のクリスチャンが集り、そして自分の態度や伝道しなかったことを赦してくださいと、泣いて悔い改めたそうです。その日は野外で行ったそうですが、大雨が降ったそうですが、誰も動かずに悔い改めて祈ったというのです。みなさん、すばらしいじゃないですか。

 日本では東北で大地震があり二万人もなくなりました。地殻変動だ。地震の国だ。だから仕方ない。それで片付けてはいけません。ある意味において、日本に罪が満ちたので、一つの警告かもしれません。だからもっと教会自体がへりくだって、神様に祝福を求めなければいけないのに、日本にはまだ悔い改める姿勢がありません。

 今回私が招かれたソウルでの集会も、悔い改めと、聖霊の満たし、それからとりなしというテーマで開催されました。キム・ヘジャ先生の教会は、そんなに大きな教会ではありません。「礼拝どのくらい来られているんですか?」と聞くと、三百人くらいだというのです。三百人くらいの教会が、今度の集会のために二ヶ月間、二十四時間祈祷をしたそうです。二ヶ月間、二十四時間誰かが真剣に祈り続けたそうです。すごいことです。
 それから会場となるセジョン大学の周りをみんなで周り「今度の集会を祝してください」ととりなし祈ったそうです。感謝な事にこんなに集まると思わなかったけど四千人も集まったと喜んでおられましたが、本当に神様がすばらしい祝福を与えてくださったと思い、心から感謝でした。

 集会自体もすごく恵まれました。私を通訳してくださった方はお馴染みのチェ先生という方ですが、彼の奥さんは日本人です。とても良いい通訳をしてくださいました。私が韓国に行ったのは五月三十一日。六月一日は日曜日。日曜日は二つの教会で奉仕しました。一つはソウル郊外にある純福音教会に行きました。午後一時からの集会で、その後春川の教会に行きました。新城に来られたことのあるイ牧師先生の教会に行きました。
 純福音教会には初めて行きましたが、この先生が「この教会に滝元順牧師も来てくれました。それからざわめきも来てくれました。」と言うのです。ざわめきがいつ行ったか知りませんが、その時ざわめきのチームに、今日ここでドラムを叩いていた上條聖都兄が行ったそうです。そうしたら、彼はすごく人気があり、その女子高校生や中学生たちが、集会で賛美している途中でも、彼の顔を写真に撮ってばかりいたと聞きました。そしてその街は、スケートのキム・ヨナさんが住んでいる地域だそうです。その様な教会で集会をしました。非常に喜んでくれました。その後、春川の教会に行きました。そこは四月にも行きましたが、再度行きました。そこにも滝元順牧師、ざわめきも行っている教会です。また去年の十二月には新城教会に三十人くらいの方々が来てくださいました。まるで親戚のように、喜んでくださいました。
 その教会の礼拝後役員の選出がありました。執事、長老を選んでいました。執事が九人くらい選ばれていました。そうしたら、その中の一人が私をご馳走に招待してくださいました。会食の中で、彼がこう言うのです。実は四月に私が集会に行ったすぐ後に、夢を見たそうです。どんな夢を見たかというと、執事になり私、滝元が来て頭に手を置いて按手して祈ってくれたと言うのです。それも目までも手を置いて祈ってくれた夢だったそうです。だから「また滝元来るかな」と思っていたそうですが、四月に行って、また今度も行くなんて考えてもいませんでしたが、行くこととなり、役員たちのために按手して欲しいと言うことで、祈りました。やはり神様という方は、国を越え、言葉を越えて、祝福してくださることを見ることができて、心から感謝でした。

 今回の集会はすごくいい集会になりました。六月三日の日は私が午後の時間に説教をして、四日の日は夜の集会に私がお話をしました。その集会の前に、シンディー・ジェイコブス先生がこのように話をしました。僕のメッセージの後で、「日本と韓国」のための特別な祈り会を持ちましょうというのです。南北統一とともに日本と韓国のために祈ると言うことで、何を祈ったらいいかなと思った時に、一緒に行った娘の道子が、うちの次男の滝元望に電話をつないでくれました。シンディー・ジェイコブスと望は昔からの知り合いなので、シンディーにも電話をつないで話をしていました。

 みなさん、この本を読んだことがありますか?「隔ての壁を取り除くために」こういう本です。これは滝元望が書いた本です。案外ここの教会の礼拝には出席せずに、世界中を取りなしているので、影が薄いところがあるかも知れません。しかしいい働きをしています。どんな働きをしているかというと、彼はリバイバルクルセードのスタッフをしていましたし、グロリアシンガースで歌っていました。しかし聖霊が臨まれて、その時から彼の人生は変わりました。とりなしの器となりました。日本だけでなく、日本が犯した罪を悔い改め取りなすために、世界中回るようになりました。しかもどこからも、教会からもサポートを受けることなく、信仰によって二十何年、世界中、回っています。
 特に、二〇〇五年から二〇一〇年まで、彼は韓国にとりなしに出かけました。どういうとりなしを行ったかというと、日本が韓国を統合した時、神社を建てました。神社を建て、その地に呪いを置きました。なぜ神社を作ったというと、神社を造り、天皇を拝ませたのです。韓国に幾つくらいの神社を作ったかというと、千四十九くらい造ったそうです。それを、二〇〇五年から韓国中を自分の費用で出かけ、そこで祈り、「神様、日本が犯した罪をお赦しください。ここに置いた呪いを全部打ち砕きます。韓国を祝福して下さい。また日本も祝されるように」と、祈りつつ回ったのです。「隔ての壁を取り除くために」という、この本を読んだことがない方がいたら、ぜひ読んでみて下さい。これはとても良い本です。自分の息子だから誉めるのではなく、よくも書いたなというほどの本当にすばらしい本です。

 それで、瀧元望とシンディー・ジェイコブス師と話をしました。電話で話をしたのです。そして瀧元望は、韓国を回って、神社の跡に行きとりなしてきた。しかし日本を代表して、日本の罪を悔い改めるということをしていないから、今度私に、日本の代表して、日本が置いた偶像礼拝、神社を建てたこと、呪いのことを悔い改めるように祈った方がよいということになりました。
 特に皇紀二六〇〇年、昭和一五年くらいだったと思いますが、私が小学生の頃覚えていますが、日本は神国で、皇紀二六〇〇年になったと言うことでお祝いをしました。その時教会は何をしたかというと、日本の教会は、東京の青山学院に二万人集まり、彼らは悔い改めることをせず、まず宮城遙拝し、君が代を歌い、それから国家に忠誠を尽くす事をし、それから「神社は宗教じゃない」と言ったのです。そして最後には明治神宮に拝みに行ったのです。日本の教会は平壌のキリスト教の人たちをみんな集めて、「神道、神社礼拝は偶像礼拝じゃない」と決議させたのです。しかしある人たちは「いや、偶像だ!」と言い、牢屋にぶち込まれました。その事によって、韓国の教会は分裂しました。だから日本の教会の牧師を代表して、その罪を悔い改めたほうが良いという事で、みんなの前で私は祈りました。
 「日本の教会が韓国に対して犯した罪を赦してください。そして、どうか日本を祝福してください。日本にリバイバルが来ますように。」と日本の罪を悔い改め、祈りました。祝福されました。韓国の方も一生懸命祈ってくださいました。そして日本にリバイバルが来るようにも祈ってくださいました。私も跪いて講壇の上で心から悔い改めて祈りました。
 そうしたら、シンディー・ジェイコブスさんが、私と一緒に通訳をしているチェ先生の頭の上に按手師し、祈った瞬間に、チェ先生は講壇の上に倒れて起きることができませんでした。聖霊様が働いてくださったすばらしい集会を持つことができたことは本当に感謝でした。みなさんが祈ってくださり、こういう集会ができたと思います。心から感謝しています。

 最後に六月五日の十時半~十二時まで三度目のメッセージをしました。メッセジした後「滝元明がサイン会をしますから」と言われ、サイン会をしました。
 いやいや、感謝な事に大勢の人たちが、約百人くらいの人が本を買ってくださり、百人全員に「滝元明」と名前だけ書こうと思ったら、向こうの方が「先生、祝福と書いてください」「○○と書いてください」とリクエストがあり、それから握手して、祈りました。みなさん、韓国の方は恵まれると感情の表現が大きいですね。来ている人たちが握手して、「先生、一緒に写真撮っていい?」とか、「ハグしてもいい?」なんて言って、ハグされたりしました。でも、みんな言いました。「この度の集会を通して、日本人に対する悪い気持ちがなくなりました。」
私は、「みなさん、私も安倍総理に対して悪い感情がありましたが、悔い改めて、愛さなきゃいけない、祈らなくてはいけない」と言いました。すると「悪い感情がなくなりましたから、日本のために祈ります。」と言って下さいました。サインが終わった後、按手してくださいと言うのです。「じゃぁ、按手はサインが終わるまで待っていなさい」というと、三、四十人の人たちが按手を受けるために待っていました。
 それから、ひとり一人の為に祈りました。何を祈ってもらいたいか聞くと、普通は、「うちの子どもが悪いから祈ってください」とか、「経済的に祝されるように」とか、「病気ですから治るように祈ってください」とかの祈りの課題がほとんどです。しかし今回はそういう人はいませんでした。「聖霊に満たされるように祈ってください」「救霊の愛がもっと与えられるように祈ってください」「福音を大胆に語ることができるように祈ってください」と言うのです。やっぱり次元が違うじゃないですか。私も一人一人祈ってあげました。そうしたら、一人の娘さんが「先生、これから私は日本のために祈ります。先生、日本のために使って下さい」と、私に小遣いをくださいました。私に三十万ウォンもくれました。ということは、約三万円もくれました。また中国人の女の子がいて、「先生、私は中国人ですが、中国に伝道に来てください。」「是非中国に来てください」と依頼し、その方も中国のお金をくださったりしました。

 みなさん、私たちはやはり、自分が悔い改め、祝福されるということは大切なことです。シンディー・ジェイコブス師はいくらだか忘れましたが、集会の最後の日の献金で、この集会のためにあと三千万だか六千万ウォンだか必要ですと言うお奨めがあった後、「献金を出しなさい」と語っていました。「献金をみなさんしましょう」と言うのです。「思い切ってしなさい」と鋭い口調で語りました。その時シンディーさんが「みなさん、みなさんに出せというだけじゃありません。私も献げます」と、シンディー・ジェイコブス師は「私は百万ウォン献げます」と言いました。百万ウォンということは、日本円にすると十万円くらいですが、アメリカから来た講師が百万ウォン献げるとは大したことです。私もポケットの中にあった一万ウォンくらいでいいかなと思っていましたが、これはいけないと思い、私も悔い改めて、もっと多く出しました。必ず祝されますと、やはり言葉だけじゃなくて、行いをしている人に感動しました。

 またもう一つ感謝したことは、私の集会の前に代表祈祷をキム・エルシュという先生がしてくださいました。この先生は福岡市の純福音教会で牧師をされており、私のメッセージが祝されるように、またこの集会が祝されるようになどお祈りしてくださいました。私がキム・エルシュ先生に出会ったのは、全日本リバイバル甲子園ミッションの前でした。この甲子園ミッションは当初十月二十九、三十、三十一日、この三日間でした。甲子園球場側はこう言いました。「この約束は地震でも来てこの会場が壊れない限り守る」と言ったのです。私たちはポスターやチラシ、またさまざまな宣伝をその日程でして来ました。その費用はとてつもないお金がかかりました。しかしある日甲子園球場から電話があり、「十月二十九、三十、三十一日は、日本シリーズの可能性があるのでお貸しすることができない」と言って来ました。とてもショックを受けました。それは既に宣伝がされており、変更するには大変なお金と労力がかかるからでした。そんなときこのキム・エルシュ先生が多額の献金を送って下さいました。感謝でした。その献金などで再度ポスターなど印刷し直して宣伝することができました。
 甲子園ミッション後、私はこの先生にどうしてもお会いして感謝したいと思い、福岡県にある先生の教会へ行きました。「先生、多額の献金をお献げ下さり感謝します。」とお礼を言いました。すると『うちの教会ではバスを借り切って甲子園ミッションに参加し、大勢イエス様を信じました。すごく恵まれています。』と言って下さいました。実はなぜその時に多額の献金をして下さったかというと、その当時、先生は日本に失望していたそうです。日本のクリスチャンは妥協的で、偶像を拝むし、リバイバルも起きない。」と考え、失望していた時だったそうです。そんなとき福岡県宗像という所に一麦西宮教会の下條先生が甲子園ミッションのための決起大会に来られたそうです。そこにキム先生ご夫妻は出席したそうです。その時下條師のメッセージで「一九九三年の十一月に、甲子園球場を会場として日本のリバイバルを求めての集会を行います。是非祈ってください。日本にリバイバルが来るように祈ってください!」というメッセージを聞きました。キム師ご夫妻はとても感動したそうです。その時聖霊様が、先生ご夫妻に別々で語りかけたそうです。『あなたは本当に日本を愛するか?』「はい。日本を愛します。」『あなたは甲子園ミッションに協力するのか?』「はい、します。」と同じ事を語られたそうです。すると主は、『本当に日本を愛し、甲子園に協力するならば、おまえたちが持っている貯金を全部献げなさい』と言われたそうです。教会のお金ではなく、個人のお金を献げるようにと言われました。そうしたら、先生は「はい、お献げします。」と決心したそうです。次の日、聖霊様が言われたことを奥さんに伝えようとした時、奥さんのほうから「あなた、ちょっと話があるけど、昨日聖霊様が私に話しかけて下さり、甲子園ミッションのために、また日本のために、私たちの貯金を全部献げなさいと言われたの。」と言われたそうです。そうしたら先生も『おまえにも主は語られたのか?俺にも同じことを語られた。献げよう!』と言うことで献げて下さったというのです。今日、みなさんに言っているわけじゃありません。このキム先生ご夫妻に、別々に同じことを語られました。私は心から感謝しました。するとキム先生がこう言いました。「先生、神様は生きていますよ。私は神様を信頼しています。」続いて先生は、こんな証しを話して下さいました。
 私と家内は結婚し純福音教会の関係の神学校に入ったそうです。神学校に入った時にはお金が何もなくなり、あるときは食べる物もなくなってしまいました。その時に二人は相談し二人で「断食祈祷院に行きましょう。断食祈祷院に行ったら食べる物もいらないし、お金もかからないし、断食祈祷院に行って祈りましょう。」と言うことになり、断食祈祷院に行き祈ったそうです。
 先生も、奥様も一生懸命祈り、賛美していた時、ある牧師先生の聖会に出席しました。喜んで賛美している時に『あなたの持っている一番大切な物を献げなさい』と聖霊さまが語られたそうです。でも、献げろと言われても何も持っていませんでしたので、何にもないと思いつつ賛美していた時、手拍子している時結婚指輪がある事に気づきました。まさか神様は結婚指輪まで出せとは言わないだろうと思い、それをポケットに入れて、「何もない?♪」と賛美していたら、『ポケットの中にあるものを出しなさい』と語られたそうです。ご主人は分かりましたと祈り指輪を献げたそうです。

 一方奥さんのほうに主は、断食祈祷院で祈っていた時、その隣に一人の婦人が、ご主人の病気の事で祈っていたそうです。「神様、私の主人の病気を癒やしてください」と、熱烈な祈りをささげていたそうです。するとそのご婦人に主が語られたそうです。「主人の病気については主に任せなさい。それより聞きなさい。あなたの隣に貧乏な神学生がいるから、その人にお金をあげなさい」と聖霊様が語られたそうです。「隣の神学生?」何回も聖霊様が言われるので係の人に「私の隣に貧乏な神学生がいると主が言われるのですが、そんな方いますか?」と聞いたそうです。すると、「すぐ隣に座っているあの女性ですよ」というので、話しかけ、キム先生ご夫妻に二ヶ月分くらい暮らすことのできるお金を下さったというのです。キム先生は興奮しながら私に続けて語ってくれました。「それだけじゃないですよ。それから私たちが神学校を卒業するまでの二人分の費用を全部、その人が払ってくださった」というのです。みなさん、神様は生きているでしょう。「だから、私は神様が言われた時には、そのまま信じます。」と言っていました。この方は東京の純福音教会で副牧師をし、何年か前に福岡に伝道にきました。また「先生、私たちが福岡に伝道に出て来る時、一人のおばあちゃんが新聞紙にあるものを包んで来て、『先生、お金がいるでしょ。これ使って』と、開拓伝道のために新聞紙にお金を包んでくれました。開けてみたら、なんと三千万円入っていました。」と言うのです。今は福岡空港のすぐ近くに大きい教会があります。大きい教会であり、大変祝福されています。
 みなさん、神様という方は偽りのない方です。献げなさいと言って、貧乏にさせて喜ぶ神様ではありません。必ず祝福を返してくださるお方です。私は今回キム・エルシュ先生に出会って、心から感謝しました。あの時の献げものによって甲子園ミッションはできました。みなさん、信仰を持ちましょう。真実な信仰を持ったら、必ず日本にも大きなリバイバルが来ることを信じましょう。

 今日のメッセージのテーマは使徒の働きの一章八節のみ言葉を読みました。

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』

 これはみなさん、使徒の働きの一章にあるみ言葉で、イエス様が天に帰られる前に、「あなたはエルサレムを離れないで。上からの力を待ちなさい。」と言われ、彼らは待ちました。今日はペンテコステの日です。イエス様が死から甦られてから五十日目の日です。その日に聖霊がくだったと書いてあります。激しい響き。火のような舌。彼らに臨んだといいます。その時、弟子たちは聖霊に満たされ、他国の言葉で話し出したとあります。いろんな国の言葉で話し始めたというのです。それから変えられました。弟子たちが力を受け、立ち上がり、それからメッセージをしました。するとその日、イエス様を信じた人、イエス様の弟子になった人が三千人あったとあります。すごいことが起きました。その後、ペテロによって足の病気の方が癒やされたとか、ペテロが歩いてその影に触れただけで病人が治ったとか、悪霊が追い出されたとか、様々な奇跡が起きたのです。今日はペンテコステの日ですが、

『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。』

みなさん、聖霊を求める必要があります。聖霊を求めて、聖霊のバプテスマを受ける。頭だけの信仰ではなくて、聖霊の力を受けるというのは大切です。

 私はイエス様を信じてクリスチャンに成り、一生懸命伝道したりしたのですが、東京にいる時に、私の恩師がこう言いました。「兄弟たち、聖霊のバプテスマを受けるように祈れ。」と言いました。私は今でも忘れることができませんが、一九四九年十月くらいから十二月まで、毎日のように路傍伝道に出かけたり、祈り会を持っていました。祈って、「聖霊のバプテスマを与えてください。」と求め祈りました。なかなか頂くことができませんでした。そして、一九五〇年一月二日の日、先生が「兄弟たち!聖霊のバプテスマのために祈ってくださる先生が来たから祈ってもらえ!」と言うことで、献身して働いていた私と大原俊夫という先生と、丸山軍司という先生と、斉藤清子さん、斉藤清子さんは私の妻になっていますが、それからもう二人の人たち集まりました。私、丸山、大原、清子、など六人が集まり先生に聖霊のバプテスマを受けるよう祈ってもらいました。あまり大きい部屋ではありませんでしたが、聖霊のバプテスマってどんなものかと思いつつ、祈ってもらいました。祈った時聖霊が臨まれました。私は立ち上がって語ったことがないことば、異言でメッセージをしました。「みなさん、イエス様を信じなさい!」目の前に群衆が現れて、大勢の人の前で「みなさん!イエス様を信じなさい!」と一生懸命になって私は伝道しました。また、大原という先生も一生懸命になって、「みなさん悔い改めなさい!」と一生懸命やっていました。丸山先生という方は立ち上がらないで、その方は知的な方ですが、座り込んだまま、異言で話していました。何語で話しているかと思ったら、私の家内はインドネシア語を知っていたので、インドネシアの言葉を話していた。その方は教師の賜物が与えられ、私は伝道者の賜物を与えられ、私の家内は笑って喜んでいました。あの時に聖霊が臨まれたということは、とてもすばらしい体験でした。私は、「親が反対しているけど、津具に帰ろう!津具に伝道に行こう!」みなさん、父親は「馬鹿野郎!帰ったら勘当する!」『いくら勘当されてもいい。津具に帰ろう!』帰る決心をしました。そして三月十五日。津具に帰って来ました。あの時の迫害はすごかったです。兄貴も「馬鹿野郎!今の青年たちは言うことを聞かんけど、おまえほど馬鹿野郎はない。」と言ったり、母親は親戚中回って、「明には親戚付き合いしないでくれ」とか、「明は気が狂った」とか、いろいろな事を言われました。あの時に聖霊が臨まれたから、私は耐え凌ぐことができたと思います。

 みなさん、聖霊が臨まれると力が与えられます。私はつくづく考えました。私は東京で燃えて伝道をして、毎日のように路傍伝道を行っている時に、西村という同じ所にいた私の同級生ですが、彼がこう言いました。「おぉ!滝元、この頃素晴らしいな。おまえはこの頃、熱心に伝道し、毎日のように行っているなんてすごいよ」と誉めてくれました。
 私は「例え生涯、冷や飯を食っても、どんな貧乏しても伝道していく!」そんなこと言ったら、「おまえ、その意気はすごいと思うよ!」と誉めてくれました。少し高ぶりの思いがわき出た時、彼がこんな事を言いました。「滝元、悪いことは言わんけどな、おまえは熱しやすくて冷めやすいから、冷めないようにしろよ」と言われたのです。その時、私は燃えている火に、水をかけられたかのように、力を失いました。彼は私の性格をよく知っていました。熱しやすいが、冷めやすい。今こんなに熱心に伝道しているけど、冷める日が来る。罪から救われて喜んでるけど、また悪い所に帰っちゃうと困ると、ふと一人になった時に考えました。「熱しやすくて冷めやすいのは私の性格。今、私が信じたのは、私の性格を信じたのではない。『神を信じ、またわたしを信じなさい』と書いてある。私が信じたのは全能の神様。またよみがえられたイエス様を信じている。私の信仰は大丈夫だ!」確信を持ちました。あれからもう六十四年になります。今日まであの時に燃えたものと同じように燃えて今日まで来れたというのは、ただ聖霊様の助け以外になかったと思います。

 あの時に、聖霊が下り津具に入って、「日本を救ってください!」と祈りました。そんな事を言っても、たった四軒しかない地域です。
今度の六月十八日には津具で伝道集会をしますが、ぜひみなさん来て下さい。しかし新城に来て、宣教師に出会い、スウェーデンの宣教師と一緒に巡回して伝道して、一九七〇年くらいからはリバイバルクルセードという団体を作り日本中を回わり、それから一九九三年には甲子園で集会をし、また東京の武道館、東京で四十日伝道会したりしました。ここまでやって来れたというのは、人間の力ではなく。聖霊の力しかありません。
 私が伝道に出た頃一緒にいた大原先生も恵まれた方でした。大原先生は、私のクリスチャンになってからの一番の友達です。本当に良い友達でした。私は一九四九年二月十三日に初めて教会に行き、礼拝が終わった時、大原先生が話しかけてきて下さいました。大原先生は法政大学の学生でした。「いつ来られたんですか?」『来たばかりです。』「そうですか。教会っていい所です。一回来たら、もう来なくてはおられない楽しいことですよ。」その時私は、うまいこと言いやがるなぁと思いました。そうしたら、「一緒に食事をしていきましょう」と、そこには神学校があったのですが、そこに連れて行って食事も食べさせてくれました。とても愛のある人でした。彼がなぜ救われたかというと、彼は仙台市の近くの登米郡と言うところから上京して来たのですが、彼の先祖は伊達政宗だと言います。彼は大学に入ったのですが、戦争中は軍隊に入っていました。彼が新宿の駅前に出かけた時アメリカから来た先生が路傍伝道をしていたのです。「若い青年たち!悔い改めて目を開け!」と、熱烈に伝道をしていたそうです。そして『イエス・キリストは私たちの身代わりになって死んでくれた神。身代わりになってくださったから、信じるだけで救われる!』と語ることばを聞きました。彼は「分かった。信じる!」路傍で決心したのです。なぜそんな簡単に分かったかというと、その人は兵隊に行っていた時です。日本の軍隊の規律が厳しかったので、朝起きた時、誰かがこっそりと柿を食べました。しかし柿の種が落ち、それが上官に見つかり、みんな呼び出された。「誰だ!柿を食べたやつ、前に出て来い!」「誰だ!出て来い!」みんなは怖くてだれも出なかったのです。そうしたら、大原さんという先生は人のいい方で、もしだれもでなかったら、全員が殴られてしまう。「そうだ。僕が一人やったと言えば、みんなが助かる。」と思い、「はい、私がやりました」と前に出たそうです。「馬鹿野郎!」と上官に殴られ、耳の鼓膜が破れてしまい、一方が聞こえなくなったそうです。みんなは後から、「大原、おまえのおかげで俺たちは助かった。」と言われたそうです。そんなことがあったので、イエス・キリストが身代わりになって死んでくださったことを信じたら救われる。救いがわかり、信じたのです。そして、献身しました。ある時私が津具に伝道に来て、その後、大原さんは自分の田舎に帰って行きました。自分の村に帰って伝道しました。しかし苦しい伝道でした。あの方はいろんな苦しみに遭い、だまされたり、裏切ったりしてどん底に落ち、これからどうやって伝道していこうか悩みました。そしてわざわざ宮城県から、あの山奥の私が伝道していた、北設楽郡の八橋と言うところまで来てくれました。私は彼と一緒に祈りました。あの時の大原先生の言葉を忘れることはできません。「滝元兄妹。俺ほど世界で馬鹿者はないよ。騙されたり、裏切られたり、俺ほど馬鹿ものはいないよ。」と泣きました。私も一緒に彼と泣きながら祈りました。そして色々語り合い、「もう一回立ち上がって、伝道をする!」と決心しました。その後彼がこんな歌を歌いました。

「♪この世あとに仰ぐ十字架 この世あとに仰ぐ十字架 我従わん主なるイエスに。再び かえらじ」

彼は泣きながら、「滝元兄、帰る。」とまた宮城県に帰って行きました。今は宮城県登米市という所に立派な教会が建っています。みなさん、聖霊の力というのは、いろいろな困難があっても、苦しみがあっても、耐える力が与えられます。
私も考えました。熱しやすくて冷めやすいと言われたけど、良くそれでも六十五年の間、夫婦で愛し合うことができた。たばこも酒も飲まない。イエス様を信じてイエス様のために命をかけてこられた。これは私じゃない。これは聖霊様の力しかありません。みなさん、私たちが聖霊様に満たされたら、新しい事をしてくださいます。

 聖書の中にコリント第二の手紙十一章二十三節から二十八節に、こんな事が書いてあります。これはローマ人への手紙からヘブル人への手紙まで書いたといわれる使徒パウロの告白ですね。こう書いてあります。

『彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。』

 みなさん使徒パウロの人生を見ると、むちに打たれたこと、三十九のむちを受けたというのです。当時三十九回以上叩いてはいけないと聖書に書いてありますから、それ以上叩いたら死んでしまうというのです。その三十九のむち打ちが五度。それからさまざまな苦しみに遭いました。みなさん、キリスト教の歴史は、イエス様を信じなかったら殺す!と言われ、殉教した人がいます。それはなぜかと言うとこれは聖霊の力です。どんなに迫害されても、宣べ伝えなかったら人々は救われない。福音を伝えなくてはならない。これは神様の愛であり、聖霊の力です。イエス様が「人が友のために命を捨てるというこれよりも大きな愛はない」と言いました。イエス様は罪人のために命を捨ててくださった。このイエス様の十字架の愛を伝えなければならないのです。福音を伝えるというのは、この命のある限り、伝える義務があります。パウロはこう言っています。第一コリント九章十六節、

『というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。』

 みなさん、伝道しなければ、人は救われることはできない。聞かなければ信じることはできない。『あぁ、麗しき方の良き事を伝える者よ』と書いてあります。みなさんが伝えることを待っています。
 私は家内と結婚して、津具に入りました。私の家内は東京の娘で、本長篠からずっと奥に入って行く途中びっくりしました。「なんて山の中…。」行ってみたら、住む家がたった四軒しかない。そして親からは冷たい目で見られ、最初の日は、家内は気を失って倒れてしまいました。しかし私の家内はつぶやかず、宣教のために六十四年間、一緒に来てくれました。みなさん、今度の六月十八日、津具に来て下さい。伝道会をします。教会からもバスを出します。次の日は豊根で行います。ここもバスを出します。それから、二十日の日には豊橋で行います。この日もバスを出します。一つみなさん忙しいかもしれませんが、みなさんも犠牲を払って、この地方の救いのために祈り、支えて下さい。いよいよ今週から中部地区のミニストリーが始まります。十三日は鈴鹿、十四日は加子母村の岩木姉宅において、十五日今度の日曜日は西尾で行います。礼拝と午後の集会です。ロンさんとイヴォンヌさんが来て下さいます。その次は休んで、十七日は浜松で行います。十八日は津具で、十九日は豊根です。津具と豊根は入場無料です。なぜかというと、豊根のために使ってくださいとある方が、献げてくださった方からです。無料です。津具は私が出します。無料です。豊橋は入場料が千五百円いりますが、みなさん、福音のために命をかけて従って参りましょう。

 みなさんも心燃えてください。主のために私を使ってください。聖霊に満たしてくださいと共に祈っていこうではありませんか。一言お祈りします。聖霊様に用いていただくように、お祈りします。

 愛する天のお父様、『あなたがたは上から力を受けます。聖霊の力を受けます。そしてわたしの証人になります』とおっしゃいました。主よ、どうか、わたしを証人として用いてください。今日、ここにいらっしゃるクリスチャンたちが聖霊に満たされ、この新城市と近辺の街々がリバイバルされますように。また日本にリバイバルが来ますように。命をかけて福音を宣べ伝えることができますようにお願いいたします。あなたが十字架の上につけられる前に、弟子たちを集めて、あなたがパンを裂かれておっしゃいました。『これはあなたがたのための私のからだだ』と。杯をも持って『これは新しい契約の血だ』とおっしゃいました。イエス様、あなたの御肉をいただきます。血潮をいただきます。すべての罪を血潮によって洗い聖めてください。弱った体を、あなたの打たれた傷のみ体によっていやして下さいますようにお願いいたします。この時間を特別、聖霊様満たして下さい。一人一人にペンテコステの霊が注がれますように、あなたに対して献身することができるように祝福してください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。