HOME > メッセージバックナンバー > 2014年バックナンバー > 8月 > 8月10日

『幸せになる秘訣

2014年8月10日 (日)
新城教会副主任牧師 滝元順 
マタイの福音書 7章12節

『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』

ハレルヤ!すばらしい演奏を聴くことができました。今夜、五時半からはザ・コールがあります。是非、お越し頂きたいと思います。今も、迫力のあるすばらしい演奏を聴かせていただきましたが、他にも、ダンスあり、他のバンドありと、すばらしい音楽の夜になります。
先週は、新城教会で月一で行なわれているミュージック・スクールのスペシャルコースがありました。若者たちが目を輝かせながら学ぶ姿は感動的でした。主がこの教会から、賛美の勇士たちを起こしてくださっています。心から感謝します。

また、みなさんに祈っていただき、二十四名の方々がネパール宣教旅行に行きましたが、無事に帰って来ました。韓国から二人ほど加わり、総勢、現地の方も合わせたら三十人近くのチームになったと思うのですが、大変すばらしい宣教活動ができたそうです。少し開先生から、報告を聞きたいと思うのですが、二十四日の午後には、ネパールツアーに参加した若者たちにも証しをしてもらいたいと思います。では、ネパール宣教の様子を聞きたいと思います。

プレゼンテーション 10_2.jpg

(開先生)
ハレルヤ!感謝します。皆様のお祈りに支えられ、二十四名、無事に帰国できたことを心から感謝します。先々週の日曜日に、ここでお祈りをいただいて、また御言葉をいただいて、七十名の弟子達のひとりとなって、二十四名が遣わされました。狼の中に子羊を送り出すようなものだと、御言葉をいただいて出ていきましたが、まさに、御言葉どおりに、皆、喜びを持って帰ることができたことを、心から感謝します。
行く先々で、大きな祝福と勝利がありました。今回は「ネパール・ダンシング&プレイズ」というテーマで行きました。ネパールに主への賛美とダンスを携えて行こうという目的で行きました。いろいろな場所で賛美しました。中高生十二名と、大学生と青年で二十四名だったのですが、若い世代の中に主が持っておられる、新しいご計画の扉が、しっかりと開かれた旅でした。
セントレアを飛び立ち、今回は中国の二都市を経由してカトマンズまで行ったのですが、中国も戦いのルートの中でした。悪しき霊的ルートを一つ一つ、主への賛美と踊りによって、勝ち取る旅となりました
また、お祈りいただいた天候も、みなさんの祈りが聞かれ過ぎたと思われるほど、良い天気になりました。登山は、若者の足ならきっと三、四時間で十分だろうと言われたのですが、あまりにも良い天気で、雨が降らずに、太陽が照りつけたので、六時間かかりました。登山は想像を絶するほど大変でした。私も本当に大変で、ここでいってしまうのではないかと思うくらい、くらっと来たのですが、皆で助け合い、本当に麗しい姿を見ました。
熱中症で三人くらい倒れたのですが、そんな中、アメリカからの医療宣教チームが同行して介抱してくださったり、また若い兄弟たちが疲れた人の荷物を背負い、また、いのちの水と呼ばれる水を、暑いのでどんどん飲んでしまうのですが、水がなくなった子に、分け合いながら、なんとか山頂にたどり着くことができたことを、感謝します。
また一人、ちょっと足をくじいてしまった姉妹もいましたが、現地の人がかついで下がってくれました。ある意味、壮絶でした。結局、登山は甘くなかったなという感じでしたが、神の助けがあったことを本当に感謝します。
いろいろな場所をとりなし祈り、そこで賛美しました。世界遺産と呼ばれるような所ばかりでした。その場はヒンズーの総本山といいますか、霊的ルーツのルーツにあたるような場所でした。チベット密教のルーツのような所でも賛美して祈りました。そこでの戦いは激しいものでしたが、神様が若い世代の中にある力をもって、計画をもって、扉が開かれる様子を見ることができ、本当に感謝でした。
普通だったら絶対にありえないような場所で、皆で踊り、賛美しました。多くのヒンズー教徒たちが、悪しきものに礼拝を捧げるような場所で、心から戦いの賛美を捧げることができた。
ヒンズーの総本山は、火葬場でもあります。多くの火葬がなされている場所でも、主の御業が現されるのを見ることができて感謝でした。
最後は、クマリという場所でしたが、最後の最後に主が何をしてくださるのかなと思ったら、寺のステージみたいな所で、主を賛美して、皆で踊りました。二百人以上の人たちが見に来てくださり、最後の記念撮影には「私も!私も!」と、どんどん地元の人たちが入って来て、僧侶も入ってきたり、本当に、いろんな光景を見ることができて感謝でした。
二十四日に詳しくご報告させていただきます。
(ここまでが報告)


だいぶワイルドでクレイジーな旅のようでした。一緒に行かなくて良かったなと思いましたが、やっぱり山を登るのは、若者でも、なかなか大変みたいでした。
しかし私は、その山に二回登りました。あの山の子どもたちは、ほとんどが裸足です。この頃では、にわとりまでスニーカーを履いているような時代です。

プレゼンテーション 10_1.jpg

しかしその子どもたちは、みんな裸足でワイルドな子どもたちが大勢住んでいます。彼らと共に賛美し、祈ることができたのは本当に大きな勝利でした。
みんな、「来年も行きたい」と言っていました。親御さんたちは、今からお金を貯めていただきたいと思います。

今日は台風が来ていますが、不思議とこの地域だけ守られています。ここは雨が降っていません。なぜか知っていますか。近頃、「あなたは地球の管理人!」というメッセージを語らせていただいていますから、台風に邪魔されちゃいけないと思い、先週は本宮山に登って真剣に祈りました。「台風よ、他の場所に行け!」と、他の地域の方々にはちょっと悪いですが、他に行ってしまいました。でも、他の場所のクリスチャンが、「台風よあっちに行け!」と命じたら、こちらに来るかもしれません。

私は、「あなたは地球の管理人」というメッセージを六回に渡り、語らせていただきましたが、六回のメッセージをまとめて本にしました。もう少ししたら差し上げたいと思います。今日は短い時間ですが、「幸せに生きる秘訣」を共に学んでいきたいと思います。

聖書には、永遠の世界にまで及ぶ大きな枠組みもあるのですが、それだけでなく、日々の生活の中で「幸せに生きるツール」も提示してくれています。
今日読んでいただきました聖書の箇所は、大変有名な箇所です。もう一度、ご一緒に読んでみましょうか。マタイの福音書七章十二節、

『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』

これは聖書の中で、黄金律、「ゴールデンルール」と呼ばれる、大変有名な箇所です。ここでイエス様は『これが律法であり預言者です。』と語られましたが、どういう意味かといいますと、イエス様の時代は、旧約聖書がありました。旧約聖書って、結構、分厚いものです。この旧約聖書を一言でまとめるなら、『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』という言葉に集約されてしまうくらい重要な言葉だという意味です。
この言葉さえ、実行できたら、人類は幸せになります。個人的にも、家庭の中でも『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』という心で、お互い生きるなら絶対に幸せになれますよね。

この頃も、戦争がいろんな場所で起きています。イスラエルやイラク、他の国々でも戦争があります。今週は、終戦記念日でもあります。あのような戦争を考えてみると、どこの国の人だって、戦争は嫌です。自分の国に爆弾が落とされたら嫌です。ならば、「やっちゃいけないよ」という、ただそれだけのことです。
個人の生活でもそうです。悪口を言われたら、心傷つきます。ならば悪口言っちゃだめですよ!と。いじめられたら悲しいです。それなら、誰かをいじめないでね。…これだけのことです。
しかし、人間は悲しいです。この小さな事が守れないゆえに、問題で苦しんでいるわけです。
『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』この言葉を、心に深く刻んでおきたいものです。
幸せに生きるためには、この言葉を心に留め、行動の中に反映させていったら、きっと幸せになることができます。

前にもお話しさせていただいたのですが、人間にとって欠かすことのできない愛というテーマ、「愛」という言葉は、誰でも好きな言葉です。しかし「愛」という言葉に関しても、人間は悲しいことに、「愛する」よりも、「愛される」という概念を愛と表現しているというのです。
『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』という、この原則からずれています。誰かと結婚する場合も、やっぱり自分の基準があるわけです。基準通りの人に出会わなかったら、なかなか結婚も決まりません。結婚生活の中でも、様々な出来ごとがあります。愛される為にではなく、積極的に愛を投げかけていく人生を歩んでいきたいと思います。

イエス様には、十二人の弟子たちという、中心的な弟子たちがいました。またその外側には、先日もお話しした、七十人の弟子たちがいたのですが、十二人の弟子たちの中心人物は、ペテロでした。ペテロという人物は、聖書の中でも大変ユニークな存在で、多くの箇所に登場します。
彼が、イエス様との生活を終え、自分の人生を終える中、一番重要なこととして学んだことが第一ペテロ三章八節〜十二節に記されています。これも幸せに生きる秘訣です。

『最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」』

ペテロは幸せになる秘訣について、『あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。』と語りました。これはまさしく、黄金律にそった言葉です。そして「何事でも自分にしてもらいたいことは他の人にもそのようにしなさい」という命令が、さらに具体的に記されているわけです。ペテロが人生の最後に語りたかったことは、「心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜である」事でした。

みなさんも、幸せな日々を送りたいと願っておられると思います。願っていない人は誰一人いません。その秘訣が、ここにあります。それは、『舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、』という秘訣です。
人生は、口から発せられる言葉で支配されるのです。言葉って、結構、強力な武器になります。ある時は、人を癒やし、ある時は、人を殺してしまうほどの武器になってしまうわけです。私たちが語る言葉が、自分に反映されるのです。

つい最近、ある教会におじゃましましたら、一人の方が私に近づいて来てこう言われました。「順先生。私はあなたに心からお詫びを言いたいのです。」と、会うなり、お詫びを言われました。
「どうしてですか」と聞いたら、一九九三年に甲子園ミッションがあったのですが、大会や新城教会に対して、反対した人たちも多くいました。その方は、反対派の中心的教会に属していた人でした。周囲のみんなが悪口を言うもんだから、一緒になって、私たちの悪口を言ったそうです。
悪口って結構、盛り上がるもんですよね。会話の中で、誰かをターゲットにして悪口を言うと、結構盛り上がった経験があると思います。彼も教会の友人たちと、私たちの悪口を毎回言っていたそうです。
しかし、悪口を言っていたら、だんだんと心から喜びがなくなったそうです。そして、気がついたら、すべてを失っていた、と言われました。信仰も、家庭も、仕事も、健康もすべて失ってしまったというのです。一緒になって悪口で盛り上がっていた友人たちも信仰を失い、教会から去って行ったというのです。
彼はどん底に落ちてから考えたそうです。何が悪かったんだろうと。そんな中で、「私はこの口を通して、悪口ばかりを語っていた。ゆえに、こんな問題が起こってしまったんだ」と気づいたそうです。
それで、いつか私に謝りたいと思っていたそうです。それで彼は、私に会うなり心から謝られたのです。私は彼に出会って感動しました。きっと彼の人生は、大きな回復が起こるに違いありません。

先日、一つの記事を読んだのですが、近頃、脳の働きや構造が詳しく分かって来て、様々な問題の原因が脳にある事が分かって来たというのです。脳科学という分野の学問が発達し、脳が私たちの生活にどのような影響を与えているのかが、研究されています。
昔は、精神的な病は心の病と考えられていました。しかし現在は、脳の病であるとされています。躁鬱などすべて、脳の作用です。この頃、子どもたちの間にも、アスペルガーだとか、ADHDとか、様々な障害が見受けられます。それらも、脳の作用だというのです。
人生は脳の中の環境で左右されてしまうのです。脳は、自分が語っている言葉に対して、主語が分からないというのです。例えば、私たちが誰かに対して悪口を言うと、自分では「誰に対して語っているのか」分かって話しますが、脳の中枢では、主語が分からないというのです。ということは、誰かの悪口ばかり話していると、脳はどのように作用するのかというと、自分に言われていると理解するらしいのです。だから、人の事を語っていても、だんだん暗くなり、喜びを失うのはその為だと思われます。
毎日の生活の中、『いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、』とありますが、悪口は自分自身に悪い影響を与えるということです。だから、何があっても、人を呪うのではなく、祝福しなさいとペテロは語りました。

『侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』

逆に、誰かを祝福すると、脳は、自分を祝福していると理解するのでしょう。気がつくと関係も回復しているわけです。日々、自分の舌を聖霊によってコントロールしてもらいたいものです。

やはり人生の中で一番難しいのは、人間関係です。人間関係に傷ついたことが多くあると思います。会社において、学校において、家庭において、常に私たちは人間関係の力関係で生活しています。どちらが優位に立つかという、力関係の中で生活しています。しかし、その力関係を一発で優位に転換する「一発変換キーワード」があるらしいのです。そんなワードがあったら使ってみたいと思いませんか。教えてあげましょうか?
先日、ある大学の講師の方の文章を読んだのですが、人間関係を優位に立たせる一発変換キーワードは、「傷ついた!」という言葉だそうです。
「傷ついた」という言葉、すでによく使っていませんか?「傷ついた!本当に傷ついた!」と、よく言うじゃないですか。この言葉は、人間関係の力関係を勝ち取る、一発変換ワードだというのです。じゃぁ、これからもっと使おうと言わないでください。
「傷ついた」という言葉は、結構頻繁に使いますよね。しかし、この言葉の背景には、様々なカラクリがあるのです。その先生によると、「傷ついた」という言葉を発した瞬間、傷ついた弱者は一転して、被害者という名の下の強者となり、傷つけた強者は加害者となって、傷ついた者は、傷つけた者に対して心理的優位に立つというのです。

『「傷ついた」という言葉は、それまでの人間関係を一瞬にして、「傷つけられた者=被害者・義人・強者」、「傷つけた人=加害者・罪人・弱者」という関係に変換する、力関係一発変換ワードです』とありました。
そして、この言葉が発せられると、まじめな人ほど、自分を本気で加害者だと思ってしまいがちだというのです。「私は傷ついた」と言った人の持っている課題とか、罪とかは全く不問にされてしまうというのです。「傷ついた」と発言した発言者は、この言葉の故に義人でいられ、皮肉にも、まじめな人は、絶好のかもにされてしまう危険性があるというのです。
また、「傷ついた」という言葉は、「言ったもんがち」だというのです。先に言ってしまえば、相手が加害者・罪人、自分が被害者でいられるからです。
ゆえに、「傷ついた」と言える状況は好都合で、時には一発逆転のチャンスとなり、野球で言えば、相手のエラーにつけこんで、大量得点を奪い、逆転するようなものだというのです。
私たちは案外、簡単に「傷ついた」という言葉を使っていますが、このような力関係メカニズムがこの言葉の後ろにあるというのです。

この頃、精神疾患の中で、大変やっかいな病が、「自己愛性パーソナリティ障害」と呼ばれる疾患です。社会問題になっています。それは、「自分は愛されて当然」という発想で生きている人たちの中に起きるそうです。
そういわれますと、誰にでもそういう部分はあります。「自分は愛されて当然だ」と。教会でも「君は愛されてます」というような情報を、結構発信します。神様が人類を愛してくださっていることは、まぎれもない事実です。
しかし、その前提に「悔い改め」がある事を忘れてはなりません。もしも、私たちが悔い改めなかったら、すでに裁かれている存在なのです。
現代社会の中での大きな問題は、自分の罪が分からないことです。しかし教会に来ると、自分の罪が分かるようになります。「私は本当に罪深い者だ」と分かるのです。その結果、罪を赦していただき、神に愛されるようになるわけです。

しかし社会には、「自分は愛されて当然」という強い風潮がありますから、「傷ついた」という言葉も、平気で多用されるわけです。
「傷ついた」という言葉をよく使う人を分析してみると、「自分は傷つきやすいが、他者を平気で傷つける」というタイプが多いというのです。その先生は、知らないうちに平気で他の人を傷つけてしまう人を「さそり系タイプ」と呼んでいましたが、そのような人格が形成されるには、多くの場合、長年蓄積してきた怒りや憎しみが凝縮されているからです。ゆえに、すぐに傷つきやすいし、同時に、自分も人を傷つけてしまうのです。
私たちが普段何気なく使う言葉も、注意しなければなりません。案外、簡単に、私たちは「傷ついた」と言いますが、この一言の背景に、様々な病理が隠れているというか、様々な霊的問題が隠れているのです。その結果、本来の課題とか、周囲の問題とか、全くスルーされてしまい、解決にならないのです。ゆえに問題は繰り返され、継続されてしまうのです。

では、どうして、こんなに自己中心的社会が出来たのでしょうか。それは、あの人が悪いと私たちは言うのですが、その原因は、経済社会にあると私は見ています。
以前にも、ユダヤ人社会心理学者のエイリッヒ・フロムについて紹介しましたが、彼はなかなか鋭い指摘をしています。自分は愛されて当然というような、王様的発想はどこから生まれるのかというと、彼によると、「経済の発展と共に、何もかもが商品化され、物質的成功が最も価値あるものとされたことにより、愛情関係さえも市場経済と同じ思考に従っている」と指摘しています。
会社では、少しでも価値あるもの、少しでも良いもの、少しでも高く売れる製品を生産することが要求されます。このような価値観の中に、私たちは常に生きています。その為、知らないうちに、「値段が高いものが価値あるもの」という刷り込みがなされるわけです。そのような経済社会に住んでますけれども、クリスチャンは常に、神の国の経済の中に生きなければならないのです。悪い言葉を口に出すのではなく、聖書の価値観から、発言しなければならないのです。
今週は、聖書が語っているように、

『あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」』

この御言葉を深く心に刻んでいただきたいと思います。ペテロの語った言葉は、言い換えれば、イエス様が語られた、

『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』

という、言葉に集約されます。
誰かの悪口を言いたくても、悪口を語ったら自分に戻って来ますから、悪口ではなく、祝福を宣言することです。傷ついた!傷ついた!と、何気なく言ってしまいますが、それは力関係一発変換ワードを使っていると知ったらどうでしょうか。言葉がコントロールされ、祝福を受け取ることができるはずです。
簡単なことのようですが、結構難しいかもしれません。しかし意識があるなら、きっとうまくいくと思います。聖書の言葉を学ぶだけでなく、心に留め、実行するのです。
今週の生活、「自分にしてもらいたいことを他の人にもそのようにしなさい」を基準とし、『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』を実行しましょう。聖霊によって唇をコントロールしていただきたいと願っています。幸せな一週間でありますよう、心から願っています。

最後にみなさんと一緒にお祈りの時を持ちたいと思います。今日は、聖餐式を行います。聖餐式の前提は、「私たちは罪人だ」という事です。人間は、神の前に罪を犯し、祝福を受け取る資格はない存在です。
しかし、そんな罪人のために、イエス様が十字架にかかって死んでくださったのです。十字架は神の愛を現しています。
経済活動のただ中で、自分は愛されて当然という発想から始まってしまいがちですが、そうではなく、本来は罪人であって、神から拒絶された存在である事を認めましょう。しかしそんな罪人を、イエス様は救ってくださったのです。ゆえに、神の愛を受け取ることができるのです。そのことを意識する時間にしたいと思います。一言お祈りします。

ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。私たちは裁かれて当然のような者でしたが、私たちを愛してくださったことを、心から感謝します。今日は、罪を、罪として認め、聖餐式に与ります。今からのひとときを祝福してください。特に唇を聖めてください。イエス様の御名を通して、祈りをおささげいたします。アーメン。