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『あなたに与えられる神の夢、幻、預言

2014年8月17日 (日)
新城教会副副牧師 公畑フェルナンド
創世記15章1~6節

『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

 ハレルヤ。いつもインターナショナル部会と私たちのために祈ってくださって感謝します。みなさんのお祈りのおかげで、インターナショナル部会も神様に祝福されていることを感謝します。
 日本人の礼拝では、なかなかインターナショナルの事を知ることはないと思いますので、感謝の報告をしたいと思います。先週の金曜日に八人の方のバプテスマをすることができました。写真を見せたいと思います。

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 新城の川でバプテスマを行いました。この方たちがバプテスマを受けられたことを感謝します。

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 これはまたインターナショナルの教会の兄弟姉妹との交わりの時でもありまた。このバプテスマの後、一緒にバーベキューをして楽しみました。インターナショナル部会のためのお祈りを感謝します。

 そして、また、ペルーで宣教をしている下田先生のためにもお祈りしていただきたいと思います。先週、事故がありまして、いつも順先生と一緒に霊的戦いセミナーを行っているワッチョという街に向かっている時に事故にあいました。首都のリマから三時間くらいかかる所にワッチョという街があるのですが、そこへ行くには砂漠の真ん中を通るような道を行くのです。
 詳しい事故の状況というのが分からないのですが、下田先生が乗っていた車が何回かひっくり返ってしまったそうです。ちょうど砂の上に落ちて何度も回ったので良かったのですが、もしアスファルトの上だったら、もう死んでいたかもしれないということです。

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 乗っていた車はこんな風になってしまいました。

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 下田先生と一緒に乗っていた方です。その傷以外は、何も体には何もなく済みました。感謝します。いつも、セミナーのために準備をする期間になると、下田先生は霊的にいろいろと攻撃を受けるようです。去年の事を覚えている方もいらっしゃるかもしれませんが、去年も、どこかの場所にとりなしに行く時に、すごい高熱が出て、下田先生はしばらく目が見えなくなってしまうことがありました。一緒に行った車の免許を持っていない、よしや君が運転をして帰って来なければいけなくなりました。
 そして、二年前も、その霊的戦いセミナーに行く前に彼は病気になり、入院しなければいけなくなりました。その時期が過ぎると何もないのですが。ですからいろいろな霊的な攻撃があると思うので、彼のためにお祈りをお願いします。
 しかし、神様に本当に感謝したいことは、いつもその霊的戦いセミナーでは勝利と祝福をいただいているこです。

 それでは、メッセージにいきたいと思います。
 皆さん、神が人に語られることはご存知ですか?神様はこれまで私にも何回も語ってくださいました。本当に神の声を聞くことほど、すばらしいことは他にありません。神が人に語られる時、その人の考え方を変えます。神があなたの心に一つの御言葉を送るなら、あなたの考え方を新しくします。あなたが今までとは異なった視野で見るようにされます。神様の視野で見るようにされるのです。なぜなら神の思いは私たちの思いよりもはるかに高く、神の道は私たちの道よりはるかに高いと書いてあります。天が地より高いのと同じです。
 ですからあなたの考え方を持っているとしたら、それは地面の高さなのです。しかし、神が語られると、あなたは天の高さにのぼり、神があなたに用意されていることを見ることができるのです。そしてアブラハムのようにそれを信じることができるようになります。ですから、人間の考え方をやめるために、神の声を聞く必要があります。そして神が考えるように考え、また神様が判断するように、判断するようにしましょう。

 それでは、いくつかの例を見ていきたいと思います。士師記六章には洞窟の中に穀物を隠していたギデオンと言う男が出てきます。ミデヤン人の軍隊十三万五千人はイスラエル人を抑圧していました。イスラエル人は彼らを恐れ、彼らに食料を取られないように、その洞窟に隠していました。そこに神の使いがギデオンに現れ、こう言いました。「勇士よ。」と。この男は臆病で、敵を恐れ、食料をかくしていたのに、神様は反対の事を彼に語られました。神は「勇士よ。」と言われたのです。その言葉が彼に与えられると、彼の考え方が変わりました。
 ですから神の言葉を聞くということが教会にとって必要なことだと、私は確信するのです。「臆病」と言う洞窟から出て、勇敢なものとなり、神のために征服者となりましょう。

 聖書には、『神はないものを有るもののようにお呼びになります。(ローマ人四章十七節後半)』と書いてあります。神様はそのように私たちのうちに働きます。ないものに神が語られると、神が宣言されると、私たちにそれが見えなくても、神が仰せられると、それは霊的な世界で私たちのためにそのようになるのです!神はこのように、人の考え方を変えるために語られるのです。神様は聖書を通して私たちに語ることができます。ですから毎日聖書を読む必要があります。聖書を勉強する時間を毎日とる必要があります。ただ聖書の知識を身につけ、神の思いを知るためだけではなく、少しずつあなたの心に神様が聖書を書き込むように行いましょう!それこそ教会が「レーマ」と呼ぶものです。それはあなたの人生に与えられる神の言葉です。
 しかし神は、あなたが御言葉を探し求めなければそれを与えることはないのです。あなたが聖書に行かなくてはなりません。それを読まなくてはなりません。その中で神はあなたの考え方を変えるような、素晴らしい祝福を与えてくださるのです。
 神様が働かれる方法の一つに教会があります。そのために私たちは教会に来ているわけで、神が私たちの人生に語られるのを期待してみなさんも来ているのだと思います。私も同じように期待をもって来ています。なぜなら、神様が私に「レーマ」をくださるなら、私の幻や考え方も変わるということを知っているからです。
 私が御言葉を受け取り、それが聖霊から来たものだとを知るなら、私は今までとは違う、異なる人間になります。なぜなら、神様は私に違う幻を持つようにされるからです。

 インターナショナル部会で今までに行ってきたことの多くは、神様のレーマによって来たものです。私が聖書を学んでいるうちに、または講壇からメッセージを語っている時に与えられているものです。聖書を教えている時、神様は一つの御言葉をとり、それに油を注ぎ、それを燃える矢として、私の心を刺し、それによって私の考え方を変えたのです。そして神はそれをあなたにもしようとされています。聖書を通してあなたに語られようとされています。

 また聖書のヨエル書には終わりのときにすべての人に聖霊を注ぐと書いてあります。ヨエル書二章二十八節、

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。』
 
「夢を見、幻を見る」とは、神様がどのようにあなたの考えを変えるかという一例です。預言をするとは、神様が言われることを宣言することです。これは何かの推測を語るのではなく、聖書の預言と言うのは神の言葉を宣言することなのです。
 例えば、エゼキエル書三十七章には「人の子よ、預言して言え。」と書いてあります。この預言者が口を開くまでは、エゼキエルが預言の言葉を言うまでは、何も起こらなかったのです。教会の出来事の中には、神の言葉を発した時に起こったものがあります。しかしそれを宣言しないなら、何も起こりません。このように知識のことばは働くのです。「その言葉をただ言いなさい」もしあなたがそれを言わないなら、何も起こりません。エゼキエル書を見てみましょう。エゼキエル書三十七章三節~十節、

『主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』

 この聖霊の働きはいつ始まったのですか?エゼキエルが預言して言い始めた時です。違う言葉でいうならば、神が彼に命じた通りに宣言した時でした。それが預言の言葉の働き方なのです。

 他の例を見ます。預言者エリヤはどうでしょう。彼の時代に天が閉じて、雨が降りませんでした。彼はケリテ川という小川のほとりに住んでいました。そして、そのケリテ川が枯れた時、神はこう言いました。「シドンのツァレファテに行きなさい。なぜなら私は一人のやもめに命じてあなたを養うようにしている。」と言われました。ですから、この預言者はシドンのツァレファテへ行きました。ちょうど、ひとりのやもめがたきぎを拾い集めているところでした。そして預言者はやもめにこう言いました。「水をコップ一杯いただけませんか?」と。そしてやもめが水を持ってくると、またエリヤはこう言いました。「一口のパンも持ってきてくださいませんか?」やもめは「できません。私は瓶の中に少しの小麦粉と、壺の中の少しの油しか持っていません。たきぎを二、三本集めて、帰って行って私と私の息子のためにそれを調理し、死のうとしているのです。」と、彼に言いました。
 ですからエリヤはこの時神にこう言いたかったでしょう。「主よ!あなたはこのやもめに私を養うように命じたと言われましたが、このやもめは私に何もくれようとしませんよ!」と。しかし、そこでは預言をする必要があったのです。それでエリヤはこう言いました。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかしまず私にパンを作りなさい。」まず私に!と言いました。預言の言葉と信仰による行動が何を起こしたか見てください。
第一列王記十七章十四節、

『イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』』

 これを言ったときに小麦粉は増え、また油も増えました。ですから、神様が言った通りに預言することは、とても大切なことで、ですから、増えることを期待して預言しましょう。

 この朝、あなたの心を変えるため、神の御声の重要性を理解していただきたいと思っています。それは聖書からであったり、メッセージからであったり、預言のことばからであったり、またそれは夢から来るものであるかもしれません。私の後について言ってください。「夢」!
あなたは夢を見るでしょう。それはあなたを立たせ、守り、導くものです。

 ご存知でしょうか、ヨセフの生涯は驚くべき人生でした。なぜならまだ十七歳の若者であったのに、夢を見たからです。その夢は奴隷になる夢ではなく、支配者になる夢でした。彼は夢の中で彼の兄弟たちが彼にお辞儀をするのを見ました。彼の夢は権力者になる夢でした。彼は奴隷として売られましたが、ポティファルのところへ行った時には奴隷としての考え方を持ってはいませんでした。支配者としての考え方を持っていました。彼はしばらくすると、主人の全財産の管理人となりました。なぜなら、彼は、奴隷とは異なる考え方を持っていたからです。その後、彼は中傷され、監獄に入ることになりました。しかし間もなく、彼は監獄中の管理人となりました。なぜでしょう。なぜなら彼には夢があったからです。
 神様があなたに夢を与えるとき、苦悩があなたを打ち壊すことはありません。なぜなら、あなたは心の中では分かっているからです。神が夢の中であなたに約束したことは必ず果たされると、あなたは分かっているのです。勝利を与えてくださいます。そして苦悩にも耐えることができます。夢があるなら。

 それでは、ギデオンの箇所に戻りたいと思います。ギデオンは預言の言葉を受け取りました。聖霊が彼に臨み、角笛を吹きならすと、戦士たちが集まりました。しかし後に、ほとんどの戦士たちは帰って行きました。それは主がたった三百人を残されるようにされたからです。大きな戦いであり、十万人以上の敵の数がいたはずですが、たった三百人しか戦士が残らなかったのです。そこで疑いが出てきます。これは本当に神から出たことなのか、そうでなければ文字通り自殺行為ではないか、と。
 しかし主はこう言われました。「夜にミデヤン人の陣営に下って行きなさい」と。そして夜、今のような電気が無い時代なので、彼はミデヤン人の陣営の天幕に行くことができました。そこで、彼は天幕の裏で二人の話を聞きました。ひとりがもう一人にこう言いました。士師記七章十三節〜十四節、

『ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」』

 ギデオンにはたった三百人の戦士しかいませんでしたが、ミデヤン人の一人の人の夢を聞くと、そこには十万人以上の敵がいましたが、彼は立って三百人の戦士のもとへ戻り、こう言いました。「行こう。神はミデヤン人を私たちの手に渡された。」と。
 夢を持っている人は、人間が計算するように考えるのをやめ、王の王である方の考え方で考えるのです。これこそ聖霊の言葉です。聖霊は人間の理性を超えて働くことを認めるべきです。

 次に、幻です。私の後について言ってください。「幻を見るようになる!」
幻を見る人と言うのは、聖霊からの幻には限定しませんが、そういう幻を見る人は止まることのない人です。
 一つの例をあげますと、たとえ障害があっても飛行機を発明したライト兄弟は、一九〇三年、約百十年ほど前の事ですが、最初の飛行を成功させ、二百五十メートル飛ぶことに成功しました。たった二百五十メートルでした。五十九秒間飛行しただけでしたが、そこから飛行機が誕生したのです。しかしそれまでに、千回以上失敗をしていたのです!千回墜落し、千回うまく作動せず、羽を直し、飛行機が飛ぶように力を尽くしました。千回もです。
しかし彼らは成功するまで諦めませんでした。
 なぜなら一つの幻、夢を持っており、彼らは幻を見る人たちでありました。人が持つ幻がこうだとしたら、神の霊が私たちに与える幻は、もっと優れてすばらしいものではないでしょうか?もう倒れることもなく、意気消沈することもありません。それは聖書中にあることです。

 なぜ最初にアブラハムの記述を読んだのかと疑問に思ったかもしれませんが、なぜなら、これこそが神がアブラハムに対して行いたかったことです。それは、彼を苦悩から出すために「幻」を与えるということだったのです。
 彼は天幕の中にいて、こう考えていたでしょう。「神様は私を裕福にしたが、私にはあのダマスコのエリエゼルという奴隷しかいない。私の財産の相続人は彼になるのだろうか。神は私に子どもをくださらない、私に跡取りをくださらなかったから。」と。アブラハムは泣き始め、「主よ!あなたが子孫をくださらないなら、この全てのものは誰のためなのですか?」と言うと、神は彼に約束して言いました。「あなたに子を与える。」と。そして神様はアブラハムを天幕から出して、こう言われました。「星を数えなさい。」アブラハムは数え始めました。神様はその後こう言われました。「数えることができるか。あなたの子孫はこのようになる。アブラハムよこの幻を受けなさい。星をよく見なさい。このようにあなたの子孫はなるのだ。数えきれないだろう。それは何千万となるのだから!」と。一つの幻が彼の心を変えました。そこには、アブラハムは信じた、と書いてあります。つまり彼の苦悩は終わりを告げたのです。終わったのです。

 もしあなたに借金があるとして、だれかが来てこう言ったとします。「借金はいくらですか?私がすべて支払いましょう。」どれだけの人がそういう人がいたらいいなと思いますか?もし、誰かがそう言ってくれるなら、あなたのすべての苦悩はそこで終わります。
 もし医者があなたにこう言ったとします。「この薬を飲めば、あなたの痛みは消えますよ。」と。そう言ったなら、その時あなたの苦しみは終わります。これと同じことを神様はあなたに言っておられるのです。あなたの苦悩を終わらせる御言葉を神様はあなたに与えます。神はあなたに幻を与え、あなたの人生の苦悩を終わらせます。そして勝利を手にすることを知るのです。

 幻を持った人は苦難に耐え、必要な時を待ち、来るべき戦いに立ち向かいます。なぜなら、幻があるからです。神の言葉を持っているからです。神の預言の言葉を持っているからです。神から来る夢を持っているからです。幻があるからです。神はそれらを私たちが弱さを感じる時、失望している時に与えてくださり、あなたに、さあ星を数えてみなさいと言うのです。
 神様は「アブラハムよ、年をとっている妻を見てはいけない。彼女が不妊であることも見てはいけない。彼女が九十歳であることも見てはいけない。自分のしわを見てはいけない。百歳であることを気にしてはいけない。星を見なさい!」と神様は言いました。そして彼が星を数えて行くうちに、彼の幻は変えられたのです。

 兄弟姉妹、この人生での神の約束一つ一つは、あなたにとって星の一つ一つのようです。苦悩の時がありますか?もちろんあるでしょう。いつも、そのような苦悩のときはあります。しかし次の聖書箇所を見てください。
詩篇三十四編十九節、

『正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。』

 星を数えなさい。そして、神の御言葉を見なさい。それを調べてください。その星を数える時に、こう言えるのです。「神様は私に約束して下さった。それを信じます。この苦悩から脱出します。」と。幻を持った人は立ち止りません。夢を持っている人は疲れ果てることはありません。なぜならそれは神の幻だからです。

 そしてこれが現代の私たちのための聖霊の言葉です。
もう一度、ヨエル書二章二十八節を読みたいと思います。

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。』

 預言の言葉を持っている人は征服者になることができます。神の言葉を持っている人は心を変えられます。なぜ神様は星を数えなさいと言ったのでしょうか?それは、約束と言う幻を見ることができれば、それがなされるからです。アブラハムは霊の目で見ることができたので、そうなりました。たぶん初めは名前を知っている星から数え始めたかもしれません。「あ、これ知ってる、これも知っているぞ」と。
 しかし霊の目で見ていく内に、神の幻に圧倒されていくのです。あなたが神の幻を見ることができるなら、それはあなたのために、もうなされるのです。これは私たちの神の霊的世界の話です。神の幻です。

 エリヤがエリシャに言ったことをご存知ですか?「私はあなたのために何をしようか」と聞きました。その日はエリヤが天へ登る日でした。エリシャは「あなたの二倍の霊が欲しい。」と言いました。エリヤは、こう答えました。「私があなたのところから取り去られる時、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたになされよう。」と言いました。エリヤはエリシャを霊的世界へ呼んだのです。「もし見ることができるなら」と言いました。
 多くの事がこの教会でも起こっていますが、最初は順先生が霊的な目で見る必要がありました。幻を見ることができるなら、それはなされます!神から発せられたことを信じることができる人は幸いです。なぜならそれはそのようになるからです。
 もしあなたが数日のうちに与えられる祝福を感謝してひざまずく幻を見ることができるなら、それは、そうなります。もし今年あなたが実を結ぶ幻を見ることができるなら、そうなります。もしあなたがあまりある豊かな年だという幻を見ることができるなら。そうなります。もし主があなたを繁栄させるという幻を見ることができるなら、そうなります。もしあなたが待ちわびている物を主が与えてくださるという幻を見ることができるなら、そうなります。もしあなたが癒やされるという幻を見ることができるなら、そうなります。もしあなたがいつもこの教会に来て賛美している幻を見ることができるなら、そうなります。
 神様にこう言ってください。「霊の幻を与えてください」と。幻を見ることができれば、そうなるのです!夢、幻、預言のことば。もしそれを見ることができるなら、それがあなたになります!
 神はあなたをあなたの天幕から出し、星の数を数えさせます。それはあなたが幻を見ることができるまで。それを信じる時、あなたのものになります。
信じたものは幸いです。なぜなら主から出た言葉はそのようになるからです。それではお祈りしましょう。

 主よ、今日のこの朝の御言葉を感謝します。一人一人の魂に受け取ったこの御言葉が、レーマとして心を燃やし、信じることができますように。幻、預言、夢、神の霊から来るすべてのものが、また特に聖書の神の言葉やメッセージについて、私たちが幻を見ることができるなら、それは私たちのために成されます。信じることができるなら、そうなります。アブラハムは信じました。そして義と認められました。父よ、あなたの教会に、あなたの約束の言葉、夢、預言、幻を与えてください。ヨセフも夢を持っていました。支配者の夢を持っていました。逆境が私たちの夢を枯らせませんように。私たちの天幕が抑圧や悲しみという天幕になりませんように。私たちの目を開いてください。そして、あなたの星を数えることができるように、あなたの約束を数えることができるようにしてください。そして、信じることができるようにしてください。私たちを助けてください。あなたの約束を信じることができるように。あなたの預言の言葉を宣言することができるように。そして、もうすでにあなたが与えると言ってくださったものを受け取ることができますように。
イエス様の名前によってお祈りします。アーメン。

 神があなたに約束してくださった事は、あなたに与えたすべての夢は、あなたのために果たされます。アブラハムは信じた時に義と認められました。私たちもそう信じましょう。祝福がありますように。