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『あなたは地球の管理人!パート7
~スーパーナチュラル管理人~

2014年9月7日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヘブル人への手紙 2章6節〜9節

『むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。熱い祈りに支えられ、「環・関西リバイバルミッション」を無事、三カ所終えることができました。心から感謝致します。祈り、奉仕してくださった多くの方に、心から感謝いたします。チームがひとつとなって、主の業を進めることができました。本当に感謝です。本当にたのもしかったです。
 甲子園ミッションが終わり、二十一年が経ちましたが、主が一人一人を成長させてくださり、このような働きが出来、心から感謝します。
 先週は八尾でミッションがもたれたのですが、地域の教会が多くの案内状を配りました。クリスチャンよりも、イエス様を知らない方々に来て欲しいということで、チラシがまかれました。その結果、チラシを持って、多くの方が会場を訪れてくださいました。
 昨晩の集会では明牧師のメッセージに応答し、多くの人が決心を表明しました。

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 この中には、初めて福音を聞いた方々もおられます。是非とも、実を結んで教会につながるよう、お祈りしていただきたいと思います。

 この夏、私たちの働きは熱かったのですが、雨が多く、なかなか大変な夏でした。しかし、皆、守られたことを感謝しています。
 秋も、収穫の秋といって、集会がたくさんあり、忙しい毎日が続きます。私の働きのためにも祈っていただきたいと思います。
 来週からは、フェルナンド先生とスペインに行きます。

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 毎年行っていますが、今回は「霊的遺産を残す」というテーマで、セミナーがもたれます。祈っていただきたいと思います。

 新城教会ではこの秋、大変すばらしい企画をしています。それは、今一番熱く燃えている教会ではないかと思われますが、草加神召キリスト教会の天野先生に来ていただいて、聖会を開催します。

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十月四日と五日は、是非とも、スケジュールに入れておいてください。先生が来られたら、聖霊が注がれます。聖霊の力を受けてください。
 聖霊の働きは、外側からの助けによって前進します。自分の背中がかゆい時、いくら自分で背中に手を届かせようとしても届かないけれど、隣の人に背中をかいてもらうとすぐにかゆみが止まります。同じように、かゆい所に手が届くのは、自分の教会の中というよりも、外から遣わされた器によって前進するのです。みなさんの中で、「私は、はっきりとした聖霊体験がない」という方は、ぜひ、聖霊の油をもらってください。
 四日土曜日は、夜七時半から、日曜日の礼拝もスタイルを変え、リバイバル聖会礼拝で行います。日曜日の夜は、新しい方々のための伝道会、「ゴスペルサパー」を開催します。是非とも楽しみにして下さい。
 今日は礼拝が終わりましたら、夏の感謝会ということで、バーベキューが用意されています。この夏の祝福を心から感謝し、ゆっくりと交わりをしていただきたいと思います。

 先々週、リバイバル聖書神学校で、公開講座がありました。中澤先生が来られ、近頃、私がよく話しています「被造物管理の神学」というテーマのセミナーがもたれました。それは、先ほど読んでいただきましたヘブル書二章を中心とし、「人は何のために造られたのか」というテーマのセミナーでした。大変、深く、興味深い学びができ多くを学び教えられました。三日間に渡って行われましたけれど、本当にすばらしいひとときでした。

 そこで引用されたのがヘブル書二章です。すでに「あなたは地球の管理人」というテーマで六回メッセージを語らせていただきましたが、今回は七回目になってしまいました。この箇所はよく引用した箇所ですが、もう一度読んでみたいと思います。じっくりと読んでみたいと思います。ヘブル書二章六節〜九節、

『むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」』

 ここで「彼」と表現されているのは、誰のことでしょう。前半は

『「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」』

と述べていますから、「彼」とは「人間」を指しています。しかし、伝統的なキリスト教の理解は、「彼」を、「イエス様だけ」に限定し、この箇所が、正しく理解されていないということでした。
 私たち人間は、大きな使命と目的をもって造られたことを、ここで述べています。二章八節に、

『万物をその足の下に従わせられました。』

とありますが、「彼」、すなわち人に、神が造られたものすべてを管理させる為に、被造物を足下に置いたというのです。これが本当だったら、すごいことではないでしょうか。神の創造物って、信じられないくらい多く、広範囲です。見えるもの、見えないもの、宇宙も含み、神はどれほど多くを創造されたのか分かりません。一滴の水の中にも、宇宙に匹敵する世界があります。また、人間の細胞の中には、DNAがあり、神の被造物は限りないのです。しかしそれらすべてを、人の足下に置いたというのです。
 この一言、そう簡単に信じることができないのは、あたりまえかもしれません。でも素直に読めば、そう書いてあります。

『万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。』

 「彼」、それは人間です。何一つ残らず、神は人の足下にご自分の被造物を置いたというのですから、大変なことです。
 この箇所がなかなか理解されなかったのは、当然かもしれません。あまりにもスケールが大きすぎるし、ちょっと信じがたいことです。しかしヘブル書の記者は続けてこう語っています。

『それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。』

 これは本当です。被造物が人間に従わせられているなんて、見たことがありません。人は万物を支配するどころか、様々なものに支配され苦しんでいる状況です。しかし、

『ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。』

 人はだめだけれど、イエス様だけは違ったぞ、というわけです。イエス様は神様ですが、人間として地上に来てくださいました。イエス様が地上に来てくださった時、神の座を捨て、人間として来てくださったわけです。私たちと同じように、血と肉を持つ存在でした。
 ここでは、人類は役割を果たしていないけれど、イエス様は違うぞと言っているわけです。伝統的に教会はそのことは、よく理解しています。だから、「イエス様すごい」と言うわけです。しかし実際は、イエス様が行った仕事は、人がやるべき仕事ですよ、という指摘です。
 そして九節、

『イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。』

 これは何を意味しているのかというと、イエス様の十字架と復活の意味について語っています。教会の十字架に対する伝統的理解は、「イエスさまは私たちの罪のために十字架にかかり、死んでくださった。それにより、永遠のいのちがもたらされた。この地上で苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、天国に行くことができる。それを目標にして生きていきましょう」という理解でした。
 しかしヘブル書の告げている十字架と復活の意味は、もちろん伝統的な理解はすべて含みますが、それ以上に、私たちに与えらた「使命の回復」だと告げています。
 元々、人間には、「栄光と誉れの冠」が与えられていたのです。詩篇八篇三節〜六節に、このように記されています。

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

 詩篇は、旧約聖書です。ヘブル人への手紙は新約聖書です。ヘブル人への手紙の記者は、詩篇八篇を引用したことが分かります。詩編に、「栄光と誉れの冠」が出て来ます。六節、

『あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』

 人に与えられた「栄光と誉れの冠」とは、神が造られた被造物を管理する権限でした。しかし、そんな大きな使命と権限をもらったのに、人間はその使命と権限を失ったのです。けれども、イエス・キリストの十字架と復活により、栄光と誉れの冠が回復したのです。
 十字架と復活は、人類に与えられた使命と権限の回復、すなわち、被造物を管理するという、管理人としての使命の回復でした。それこそ「栄光と誉れの冠」であると教えているわけです。

 これが本当ならば、私たちの人間の位置づけは、大きく変わるのではないでしょうか。私たちは毎日忙しく過ごしていますが、人間として生まれたならば、神が造られた膨大な被造物を管理する仕事がメインとなります。
 神が造られたものはすべて、人の足の下にあるというのです。それも、主イエス・キリストを信じた者たちの足の下にあるということです。
 これが事実なら、クリスチャンには、多くの社会的責任が課せられているはずです。ただ罪の世界から救われ、やがて永遠の世界に入って楽しむというような逃避的理解ではなく、社会においても、さらには地球環境全体に対しても、私たちは多くの使命を負うことになるわけです。

 人生って、様々な問題が起こります。しかし問題の背後には、目に見えない勢力、悪魔・悪霊どもが関わっていると言うのが、聖書のはっきりとした主張です。
 ヨブ記を読めば、ヨブのような人生は絶対に歩みたくないと思います。ヨブ記一章一節〜二節に、こんな風に書かれています。

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。』

 私たちが人生を終える時、このような一節が、記録として残されたら、すごいです。「愛知県新城市に滝元順という名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と記されたら、私の人生も成功です。しかし「滝元順という名の人がいた。彼は時には潔白ではあったけれど、灰色の部分も多かった。」なんて言われたら悲しいです。ある意味、ヨブは、クリスチャンの鏡と言ってもいい、そんな人物です。

『彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。』

と記録されています。旧約の時代、多くの子どもは祝福のシンボルでした。今の時代はそうでもありません。私は七人兄弟。貧乏の子だくさんなんて言われていました。文化的、時代的背景があるわけです。
 彼は潔白な人で、すばらしい人でした。しかし、そんな人物に、一日にして大きな試練が臨み、彼は持ちものすべてを失いました。家に帰ってから、ヨブ記一章、二章を読んでみてください。自分と重ねて読まないほうがいいと思います。こんなことが起こったら大変ですから。
 ヨブは大勢の使用人を使っていたのですが、一日のうちに、全員死んでしまいました。また十人の子どもたちも、一日のうちに死んでしまったのです。財産も失い、さらには、自分の健康さえ、失ったのです。

 その原因が何であったかといいますと、現実的には、「犯罪と自然災害」でした。強盗たちが襲いかかり、使用人たちは殺されました。また、自然災害に巻き込まれ、雷に打たれたり、大風が吹いて、死んでしまったのです。彼は悪性の腫物で苦しんだのです。今で言ったら、癌でしょうか。
 そんな不幸なことが起こったのです。しかしその背後に、目に見えない敵であるサタンが関わっていたと教えています。
 ヨブ記一章六節〜七節に、こんな風に書かれています。

『ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」』

 サタンとは、悪霊どもの親分です。彼は高い山の上にふんずりかえっているのではないようです。地を行き巡り、歩き回って来たというのです。もしかしたら、昨晩、私たちの横を通り過ぎたのかもしれません。悪魔は、世界中を見張ってるみたいです。
 そしてなんと、この潔白なヨブを攻撃する許可証を、神から受け取ったのです。許可証を持ってサタンが出て行った時、犯罪、自然災害、病によって、すべてを失ったのです。
 ヨブ記の情報に限定すれば、私たちが日頃見ている、様々な出来事の後ろに、目に見えない敵であるサタンと、その一味、悪霊どもが関わっていることになります。
 ヨブのように敵が分からなかったら、大変ではないでしょうか。
 以前にもお話ししましたが、ヨブ記の悲劇はどこにあるのかと、ある注解書にありました。そこには「ヨブにしても、その後の登場人物にしても、さらには神様にしても、真犯人が誰かについては、口にしなかったこと、これが悲劇だ」と記されていました。まさにそうです。ヨブ記は四十二章ありますが、一章、二章で述べられている天の会議に関しては、誰も気付いていないのです。ヨブの友達も、なぜ、こんな試練が起こったのかと、様々な論議をしているのですが、真犯人がサタンだとは気付かなかったのです。「それが悲劇だ」と書かれていました。
 しかし、「真犯人を知ることができるのは、読者のみである」と結ばれていました。「うまいな」と思いましたが、私たちには聖書という情報がありますから、ヨブが体験した試練の原因を、知る事が出来ます。
 近頃、犯罪も多いですね。テレビのニュースといったら、犯罪のニュースか、最近では自然災害のニュースです。あとは政治と経済のニュースです。本当に犯罪が多くなりました。
 昔はこの地域、どの家にも鍵がかっている家なんてありませんでした。学校から帰って来て、「遊ぼ〜!」と言って友達の家に入ることができました。部屋にも入ることもできました。後ろの扉から出ていくこともできました。しかし今では、どの家も鍵がかっています。
 私は古い人間なので、家に入っても、鍵をかう習慣がありません。でもうちの孫は我が家に来ると、すぐに鍵をかうクセがあります。それで私が入れなくなることがよくあるのです。そういう時代に生まれた子かなと思います。犯罪の後ろに、サタンが働いているのです。
 この夏、本当に自然災害が多かったじゃないですか。そこにも目に見えない敵が関わっていたという事です。

 クリスチャンが、管理人ならば、そのようなものさえ、本来なら、管理できないといけないはずです。なぜなら、私たちの足下に、すべてが置かれているからです。我々の足下に悪魔も悪霊も置かれているはずです。クリスチャンが、社会のために、地球環境のために、暗闇の力を打ち破ったら、地球も変わっていくはずです。
 今、世界には多くの問題があります。それは、誰のせいかと言ったら、ある意味、世界の教会のせいだと思います。教会が、クリスチャンが、役割を果たしていないからです。本当に申し訳ないと思います。
 私は、少なくとも、新城だけは、いや、そんなことは言ってはいけませんね。豊橋からも、豊川からも来られていますから、いや、名古屋からも来られていますから、新城教会に来られている兄弟姉妹に関わる街においては、使命を果たしたいと思うのです。しかし名古屋みたいな大きな街はちょっと無理かな…と、すぐに思ってしまうのですが、新城くらいなら大丈夫かなと。
 いずれにしても、ある限られた地域でも、責任をもって管理しなければならないと思うのです。霊的な問題が、すべての事象に隠れていることが分かります。

 しかし、ヨブはその事に気付きませんでした。ヨブの三人の友達が加わり、もう一人の若者も加わって、なぜこういう問題が起こったのかと、延々と論議するのです。
 私たちも、いろんな問題が起こったら、どうして問題が起こったのかと、論議します。
 この論議は二章後半から始まり、三十七章くらいまで続きます。しかし一言でヨブの主張をまとめると、「自分は無実なのに、なぜ、苦しまなければならないのか!」という事でした。そして「神の正義は、一体、どこにあるのか!」という主張でした。

 そりゃ、そうでしょう。ヨブは、私たちとは違って、潔白で正しく、悪から遠ざかっていたと、聖書に記されるほどのすごい人物でしたから。やはり、自らも自負があったわけです。「わたしゃ、正しく生きてきた!罪を犯していない!なのに、この試練はひどいじゃないか!」と。
 時々、そういうことがありますよね。「あの家になんで、あんな事が起きるの?神の正義はいったいどこにあるの?」と言いたくなるようなことがあります。まさに、それはヨブの主張だったのです。
 他の友達は、「いやいや、そんなこと言うけれど、ヨブよ、おまえにはまだ罪があるんじゃないの?」とか、様々なことを語り、論議が展開されます。しかしヨブは一貫して、「私は無実だ。なのに、なんでこんな試練を受けなければいけないんだ」と、神様にも文句を言うのです。神様はその間、ずっと沈黙されていました。

 時に神様は沈黙されることがあります。
 二〇一一年三月十一日、東北で大きな地震が起きました。その後、キリスト教会の中で、多くのセミナーが開かれたというのです。どういうセミナーかといったら、「その時、神は何をされていたのか」というセミナーだったそうです。一瞬にして、二万人も死んでいくような中で、神はいったい何をしていたんだ!と。
 ある意味、そういう風に感じるのも無理は無いかもしれません。一体、イエス様はどう思っているんだ!と。教会だって津波に流されたじゃないか!と。ヨブと同じような感じ方を日本教会も持ったわけです。セミナーでは様々な意見や提言が出されましたが、結論は「分からない」というのがほとんどだったというのです。
 ローマ法王の所に一人の子どもが来て、「法王様、なんでこんな事が起きたのですか?」と聞いたら、法王は「分からん」と答えたそうです。正直といえば正直ですが、なんらかの答えが欲しくて聞いたのに、何も答えることができなかったとは悲しいですね。
 「その時、イエス様は何をしていたのか」というセミナーでは、「イエス様は涙を流しておられた」という結論であったそうです。私なら、「涙を流す暇があったら助けてくれ!」と思ってしまいます。実際、人生ってそういう矛盾が結構あるわけです。「なぜ、神は助けてくれなかったのか」と。
 しかしその理由は、一つは、「目に見えない霊的な力が働いてた」という情報です。そして、もう一つの大きな理由があります。

 三十八章で、神が初めて口を開くのです。長いこと沈黙していた神様が、三十八章で初めて口を開かれるわけです。しかし一節〜四節を読んでみますと、こんな事を語られています。ヨブ記三十八章一節〜四節、

『主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。』

 ついに長く沈黙していた神様が口を開くのです。しかし、その内容は、『わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。』と、地球が造られた時、おまえはどこにいたんだ?それを見たのか?と、言っているわけです。
 三十八章を読むと、この地が創造されていく過程で何が起こったかと、神は語られ、さらには、宇宙のことさえも語っています。ヨブ記三十八章三十三節、

『あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。』

 三十九章にいきますと、動物たちについて、それも動物の習性について語っています。一部抜き出しますと、おもしろいことが書いてあります。ヨブ記三十九章十六節〜十七節、

『だちょうは自分の子を自分のものでないかのように荒く扱い、その産みの苦しみがむだになることも気にしない。神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったからだ。』

 人間は動物の中、一番弱い存在です。もしもお母さんが、周りが世話しなかったら、1分たりとも生きることができない存在です。でも他の動物は、産み落とされたら、すぐに立ち上がって餌をとるようになります。自分で生きていくわけです。
 ここではだちょうのことを言っているのですが、だちょうは自分で子どもを産んでも、卵を割ったりとか、自分の子どもを蹴って殺しちゃったりとか、そんなことをするわけです。人間は絶対にしません。それぞれの動物には、それぞれの習性があるのです。その理由について神様が告げています。

 ヨブの問いは、「自分は無実だ。なのになぜ苦しめられるのか。神の正義はどこにあるのか」と問いかけているのですが、その答えは、「地球がどうして造られたか知っているか?動物の習性を知っているか?」という答えだったのです。ある意味、「答えになっていない」感じです。

 しかしこれは何を告げているのかというと、ここに答えがあるのです。「神は、すべてを法則の中で造られた」ということを語っておられるのです。地球には、一つの法則があります。宇宙には一つの法則があります。太陽系も太陽を中心として、地球も他の星々も回っています。これらは全て、神の法則性の中で整えられているのです。
 実は、神がすべてを創造された時、私たち人間がよく口にする「自然界の法則」を同時に作られたのです。法則というものの中で、すべてが動いているのです。神が造られた法則の中、一番大きなものが、「自然界の法則」であろうと、先日のセミナーで中澤先生が語っていましたが、放っておけば、自動的に運用される自然界の法則があるわけです。

 先日、広島で大きな土砂災害があり、大勢の方が亡くなりました。また津波の被害も怖いですね。

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 これはたぶん合成写真だと思いますが、こんなのが来たら、ひとたまりもないです。

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 しかし、神が語っている言葉の中に、興味深いことがあります。ヨブ記三十八章八節〜十一節に、

『海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。』

 なんと神様は、海の水に、「ここでとどまれ」という、境を造ったというのです。これは神が造られた海の法則です。
 実は、三・一一の地震の時、こんな記事が載りました。「此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う」

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 これは、宮古市の姉吉地区でしょうか。ここでは津波の時、誰一人死ぬことがなく、一軒も流されなかったのです。なぜかというと、昔の人が石碑を建てたというのです。これです。

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 「此処より下に家建てるな」という石碑を建てたのです。それで、先人たちの教えをまともにとって、姉吉地区の人たちは石碑より上に家を建てたのです。だから、その集落は皆助かったのです。
 しかし石碑があっても、流された地区もあるのです。

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 他にも記念碑があるけれど、下に集落を作った地区は、津波の被害にあったのです。
 津波の被害があったりしたら、人は、「神様。なんであなたは助けてくれなかったのですか?」と訴えるけれど、神は、まず最初に自然界の法則を造ったのです。それはある意味、「最も優先されるもの」であり、放っておけば、その通りに動いていくわけです。だから、「此処より下に家建てるな」というような石碑があったら、それより下に家を建ててはいけないわけです。
 日々の生活の中で、人類は育んできた英知により、自然界の法則を読み取っています。
 車を運転する時だって、「この場所は四十キロで走ってください」という標識が立っています。でもその法則を無視し、百キロで走って、「神様守ってください」とは言えないわけです。

 私は病気にも法則があると感じます。私はよく病院にお見舞いに行きます。あまり長くないというような人の所にも、お見舞いに行きます。この頃、癌で亡くなる方が多いです。癌もステージ一とか、二とか、三とか、徐々に上がっていくわけです。それを放っておいたらどうでしょうか。必ず、医者が言うとおりに、ステージが上がって、やがて死んでいくわけです。「こういう病気になったら、こういう過程を通って死んでいく」という法則があります。
 例えば風邪を引いた場合、「熱が出て、鼻水が出て、こうなって、治っていく」という、法則があるじゃないですか。祈っても、祈らなくても、法則は、その通りに動いていくわけです。
 これは誰が造ったのかといったら、神様が最初に定められた法則であるわけです。天と地を造った時に、最初に神が法則を置かれたわけです。
 ある意味、ヨブが体験した自然災害なども、法則性の中で起こったものです。病気でも、様々な法則性の中で病気になっていくのです。「そのような法則がある」ということを、神は教えているわけです。それは、最も優先されるということです。
 私たちは、自然界の法則を無視出来ません。私たちは、その法則の大きな力のただ中で生活しなければならないのです。

 しかし忘れてはならないのが、同時に、自然界の法則をうまく利用して、人を陥れる、目に見えない敵がいることを、ヨブ記は教えているのです。

 先ほど、このヨブの悲劇というのは、ヨブ記に登場する人物、そして神様さえも真犯人について口にしなかったと言いますが、実は、神は真犯人について、最後の最後で、口にしているのです。
 ヨブ記四十二章で、ヨブは超自然的に回復され、二倍の祝福を受けるのです。しかし、その前、四十一章に、ひとつの生物が出て来るのですが、それが、「レビヤタン」という動物です。ヨブ記四十一章一節〜四節、

『あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押さえつけることができるか。あなたは葦をその鼻に通すことができるか。鉤をそのあごに突き通すことができるか。これがあなたに、しきりに哀願し、優しいことばで、あなたに語りかけるだろうか。これがあなたと契約を結び、あなたはこれを捕らえていつまでも奴隷とすることができようか。』

 レビヤタンという生物が出てきますが、私たちの世界では、いくら力がある百獣の王、ライオンにしても、人間は全て管理しています。檻の中に入れて管理しています。しかし、このレビヤタンは、人間に手に負えない生物だというのです。こんなの見たことがありません。レビヤタンとは、何を象徴しているのかというと、サタンのことです。悪魔のことなのです。それを自然界の法則の中で、動物を扱っている延長の中で、レビヤタンについて語っているのです。
 これはまさしく、ヨブに試練を与えた真犯人について語っているのです。それを語ったのちに、ヨブは超自然的に回復されるわけです。

 私たちは、自然界の法則のただ中に生きていますけれど、どのような生き方をしなければいけないかが分かります。ある意味、自然界の法則には逆らえないということです。崩れそうな場所に家を建てたら、やはりリスクを負わなければなりません。津波が来そうな場所に家を建てたら危ないわけです。それらもちゃんと考えないといけないわけです。また、車を運転する時は、交通法規を守らなければいけないわけです。それらは自然界の法則、人の英知によって培われ、見いだされた法則であり、守らないといけないのは、大前提です。
 しかし同時に、背後に、目に見えない悪魔の力が働くことも、しっかりと受け止めなければならないのです。
 放っておけば自動的に動く自然界の法則をうまく利用しながら、サタンは働き、人を陥れるのです。ゆえに、暗闇の力を打ち破る為には、自然界の法則をよく知り、戦う必要があります。

 しかしながら、私たち管理人とは、どのような存在かということです。人は、地球の管理人ですが、どのような管理権限が与えられているのでしょうか。それはイエス様の生涯を見ると分かります。使徒の働き十章三十六節〜三十八節、

『神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

 三十八節は、イエス様を人として扱っています。『ナザレのイエス』と呼ばれています。ナザレのイエスとは、「イエス」という名前は、当時、一般的な名前でした。エルサレムのイエスとか、ガリラヤのイエスとか、日本的に言えば東新町のイエス、新城のイエスと呼ばれるような、太郎さんとかと同じような名前です。
 ナザレのイエスとは、ナザレという村出身のイエスです。その人に神は力を与えたのです。聖霊の力を与えたのです。そして、イエス様は何をしたかというと、『神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』というのです。
 イエス様の働きは、まさに、自然界の法則に逆行する働きでした。風と波が荒れ狂う時、「黙れ静まれ!」と叫ぶと、ぴたっと風は止まりました。普通、低気圧が来たら、風が吹くのは当然です。けれども、黙れ静まれ!と自然の法則を逆行されたのです。
 また、病気になったら、一つのプロセスがあります。しかし自然のプロセスでは悪くなって死んでいくのを逆行させ、癒やしたのです。自然の法則を逆行させるとは、イエスさまは「スーパーナチュラル管理人」だったわけです。

 ということは、私たちクリスチャンも同様に、自然界の法則の中、超自然、スーパーナチュラル管理人としてこの地に君臨しているのです。
 教会で、奇跡が起こった、癒やしが起こったなら、何が言えるのでしょうか。それは自然界の法則が逆行したのです。ここには病が癒やされた人がいます。また、様々な問題、普通なら壊れるのが、建て直された人もおられます。それは自然界の法則に反しています。
 ロンさんとティムさんが今回も来られました。彼らの証しは、いつもただ一つです。「私は麻薬で、落ちるところまで落ちました」という証です。その麻薬というのは、この頃の危険ドラッグとか、そういうたぐいではなく、ヘロインと言うような、絶対にやっちゃいけない代物です。やったら死ぬというような、超危険な麻薬類です。彼らは、そういう麻薬をやっていたわけです。普通ならどうでしょう。そんなものを使ったら、死ぬのは当たり前です。それが、「みんなの祈りによって癒やされました。すでに二十数年経っています」と証しています。私たちは「ふ~ん」と気楽に聞いていますが、それは自然界の法則に全く逆行した奇跡です。
 なぜそんな事が起こったのでしょうか?それは、イエス様が自然界の法則を越える、「超自然の法則」で生きておられたからです。そして管理人も同じ権威を使う事が出来るからです。

 私たちには、超自然の法則を駆使する権限が与えられているのです。「そんな権限は、特殊な人にしか与えられていないだろうね」と、皆思います。しかしそれが悪魔の策略です。ヘブル書二章を見れば、人には、神の被造物すべてを管理する管理人です。神が被造物を造った時、最初に定められた自然界の法則の上に、私たちは立っているわけです。ゆえに自然界の法則を越えた、超自然の法則で働くことができるのです。それは特殊な人ではなく、人間なら、その権限を持っているのです。イエス・キリストを信じたら、栄光と誉れの冠が回復しているのです。
 あなたもスーパーナチュラル管理人として、働いて頂きたいのです。「祈りは聞かれないのが当然」ではないのです。私たちはスーパーナチュラル管理人です。神様が「行け!」と言われる場所に立ち、すべてを管理しなければならないのです。

 この頃の集中豪雨、これって絶対におかしいと思います。水は絶対に必要ですが、必要以上の水が空から落ちて来ます。現在、日本は空爆状態です。「こんなに水はいらない!」と、自然界の法則の上に立ち、勝利を宣言する必要があります。
 やがて三連動の地震が起きると言われています。そんなのが起きたら、日本はおしまいです。

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でも、管理人たちが、スーパーナチュラルな管理をしたら、日本は助かります。

 先週私は、神戸の、「神戸キリスト栄光教会」で奉仕をさせていただきました。神戸は、一九九五年に大地震が起こって、大変な被害を受けました。五千人近くの人たちが亡くなられました。一番大きな被害があったのが、神戸の中でも長田区という場所でした。すべてが焼けてしまったのです。その時の写真を見てください。

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 これは長田市場の写真です。戦争以上に焼け焦げ、ここに住んでいた多くの人たちが亡くなりました。しかし、左に何か一つ、建物が見えるでしょう。拡大してみます。

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 これは教会です。ほとんどが焼け焦げた中、この教会は無傷で助かりました。これが「神戸キリスト栄光教会」です。私が先週、奉仕をさせていただいた教会です。信徒の方々で亡くなった人は一人もおられなかったそうです。多くの人が亡くなられましたから、心苦しいところもありますが、これはある意味、超自然的な法則が働いたのではないでしょうか。祈りにより、本来は焼け焦げるところが守られたのは、運が良かったのではなく、クリスチャンに超自然的な法則を駆使する権限がある事を現していると感じました。今は新しい会堂が建ち、二百人以上の方々が毎週来られて、恵まれた教会になっていました。

 今後、どういう時代を迎えるのか分かりません。今、テレビのニュースを見ると、世界中、どん詰まっていると思います。どうなっちゃうのかな、まじめに直視したら、眠れなくなるくらいのことが、いっぱい起こっています。
 この頃、地震が多いと思いませんか?私の携帯にあんまり地震の情報は入りませんでしたが、近頃は震度四だ五だと、大きいのが毎日のように入って来ます。なんかまた、地殻が動き出したのかな?
 気候もおかしいし、なんかいろんな所で不具合が地球号に生じているみたいです。イエス様が帰られる直前かもしれないです。
 でも、私たちがスーパーナチュラルな管理人として働いたら、不具合もコントロールされるのではないでしょうか。聖書に書いてあることは、信じて行動しなければなりません。私たちがスーパーナチュラルな管理人ですから、地震が起きそうな場所に行き、「起きてはいけない!」、雨が降りそうな所に行って、「もうこれ以上降るな!」と、アンテナを張り巡らせ、地球の管理人として働くのです。イエス様だけをスーパーナチュラル管理人にしておいてはいけません。

 ざわめき五・五に「スーパーナチュラル」という歌があります。これは、イエス様がスーパーナチュラル管理人という歌ですが、これがクリスチャンの働きだと覚えて歌いたいです。今朝、義也さんに「ざわめき五・五を、持っていますか?」と聞くと『はい、持っていますよ』と、彼はドラえもんのポケットのように何でも出してくれます。グロリアシンガースの昔の曲も出してくれますから。
 それでは、スーパーナチュラルという、ざわめき五・五の歌を歌いたいと思います。イエス様だけでなく、私たちにも役割があることを覚えながら歌いましょう。

♪スーパーナチュラル♪

主イエスの力はスーパーナチュラル
病をいやし 死人を生き返らせる
主イエスの力はスーパーナチュラル
嵐を沈め 暗闇吹き飛ばす

スーパーナチュラル 主イエスは今も生きている
スーパーナチュラル 主イエスはみんなのあこがれ

主イエスの力はスーパーナチュラル
しるしと奇跡を行われる

 大きな拍手を、主におささげいたしましょう!アーメン!
 すべての人がスーパーナチュラル管理人です。そのためにイエス様は十字架にかかり、命を捨ててくださいました。今日は、スーパーナチュラル管理人としての権利が与えられていることを意識し、聖餐式を行いたいと思います。


 ハレルヤ。父なる神様、感謝をいたします。私たちにスーパーナチュラル管理人としての使命が与えられていることを感謝します。与えられた使命に生きることができますように。今週もその働きのために生きることができますように。聖餐式を感謝します。聖霊によって、御言葉によって、イエス様と一つになる事を宣言します。十字架によって死に、よみがえってくださったことは、栄光と誉れの回復である事を感謝し、今から聖餐を受け取ります。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。