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『主の手は短いのだろうか

2014年9月14日 (日)
新城教会牧師 滝元明
民数記11章23節

『主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」』

ハレルヤ!みなさんおはようございます。久しぶりにお話できることを感謝します。皆さん方にお祈りしていただき、尼崎と堺と八尾の集会を無事に終え、こうして礼拝できることを感謝します。
私は堺の集会を終えた後、ロンさんとティムさんと一緒に、加古川に行って集会をしました。その次は岡山に行き、神戸に行って、夜中に家に帰って来ました。それから八尾に行って集会をして日曜日に、大阪のライトハウスという教会に行って奉仕して帰って来たということで、忙しい日々でした。守られて感謝します。ロンさんもティムさんも元気に帰国されました。みなさんのお祈りを心から感謝します。

今日はみなさんと一緒に御言葉を学んでいきたいと思いますが、今読んでいただいた、主がモーセにおっしゃった御言葉です。

『「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」』

「主の手は短いかどうか」という言葉から学んでいきたいと思います。
また、イザヤ書五十九章一節~二節に、こういう事が書いてあります。

『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』

実は堺の教会に行く前に、なぜか分かりませんが、私のスネがとても痛くなりました。皿の近所ですが、すごく痛くなりました。そんなことはあまりないのですが、歩くのに痛みがあって、ちょっと歩きにくい痛みを感じました。これから堺で集会をするのに、心配になりました。

堺では「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」というタイトルでメッセージをしたのですが、その中で、十二年長血を患った女性の方がイエス様の所に行って癒やされたという、メッセージをする予定でした。
その時に私は「癒やしのメッセージをする前に、自分の足が痛くなったけど、十二年間長血を患った女性がイエス様しか癒やすことができないということで、イエス様の御衣のすそに触ったように、私も祈らなければいけないと思い、夜、この教会に来て、真剣にお祈りしました。悔い改めることは悔い改めて、真剣に「癒やしてください」とお祈りしました。すると感謝なことに痛みが全て消え、今は完全に癒やされました。神様にお頼りしてよかったなと思いました。

時に、私たちの人生の中に、突然病気になったりだとか、突然問題が起こったりとか、お祈りしてみても祈りが聞かれないことがありますが、今この聖書の箇所で見ると、イザヤ書五十九章の中には、

『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、』

と書いてあります。時々、何か問題が起こる時、私たちは自らを反省しなければいけません。どうして、こういう事が起きたか?なぜ祈りが聞かれないのか?ということを、私たちは謙虚に考えなければなりません。やっぱりそういう時に、私たちが考える時には、自分が主に喜ばれない罪を犯したとか、悪い思いを持ったかとか、人の悪口を言ったかとか、そういうことをいろいろと悔い改めなければいけないと思います。

聖書の中には、もし自分に罪があった時には、自分の罪を神の前で告白したら、すべての罪を赦してくださるとヨハネの手紙第一、一章九節に書いてあります。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』

私たちは、もし何か罪があったら、神様に「自分の罪を赦してください」とお祈りするべきです。私たちの中に、祈りが聞かれない理由には、いろんな側面があります。罪があったら聞かれないとか、不信仰だったら聞かれない。そういうこともあるけれど、ある意味においては、祈りが聞かれないということは、神様が愛を持って私たちをテストしていることもあります。テストをどう受けて、合格するかという事が非常に大切だと思います。

私も、今朝、この教会に来て、お祈りしていた時に、今日、メッセージする内容を考えていました時に、ふと思いました。あっ!あの時、イエス様が私に語りかけてくださった!と。
私はここで何回も話していますが、昔話になりますが、私が鉱山で働いていた時に、津具鉱山と八橋マンガンで働いたわけですが、八橋マンガンで働いている時に、すごく重労働でした。本当に慣れない仕事で、鉱石を積んで引き下ろす仕事だとか、初めての仕事で、ちょうど夏の頃で、私は金馬と呼ばれる鉱石運搬用のソリをかついで山を上がって行く時に、自分の心臓が破裂しそうなくらい苦しいことがありました。仕事に慣れていないからでした。
それから、毎日、ハンマーで石を壊している時、石が飛んで来て傷を負ったり、様々な痛みがあった時に、ある日仕事のために背中に傷を負って、血が流れて、家に帰った時に「鉱山苦しいなぁ!」と家内に愚痴をこぼしました。その時に家内が、私を見ながら泣き出しました。あんまり血が流れたりしているから、同情して泣き出したのだと思います。「イエス様、主人をどうか八橋マンガンから早く解放してください。苦しみから解放してください。」と、お祈りしてくれました。私も一緒に泣きながら、「イエス様、どうか一日も早く、楽な所に行くことができるように。」と祈ったことがありました。
それから聖書を開きました。ちょうど詩篇三十七篇二十三節の言葉を読みました。文語体の御言葉で、

『人の歩みはエホバによって定められる。その道をエホバは喜び給えり。』

今の訳し方はちょっと違っています。新改訳には、

『人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。』

とありますが、その時には、『人の歩みはエホバによって定められる。』とありました。「エホバ」というのは、今の訳し方では「主」と訳しています。エホバ神というのは、主なる神様ですね。『人の歩みは主によって定められる。その道を主なる神は喜び給えり。』
私はこれを読んだ時に悟りました。「あっ!そうか!僕が今、八橋マンガンでこの仕事をしているということは、主が決めた道で、主が喜ばれ、一生八橋マンガンで働けと言われたら働こう!」と決心しました。その時から、すごく楽になりました。
次の日から、私は鉱山で勝利を取りました。仕事も苦しいより、喜びに変わって、ちょうどそこに女性が四人一緒に働いていましたが、そのうち三人がイエス様を信じたし、私と一緒に働いていた男性が三人でしたが、一人もクリスチャンになって、お昼には一緒に賛美したり、お祈りしたりしました。
時々問題があって、「どうしたらいいか。こんな所は嫌だ!」と思っても、イエス様が「これを喜んでいるよ」と言ったら、喜んで訓練を受けることは非常に大切なことであり、私も良かったなと思いました。

八尾の集会に、新城から大勢の方が来てくださったようで、私も後から「えっ?そんなに大勢来てくださってた?」と思うほど、新城から大勢の方が応援に来てくださいました。その時、私の孫が「おじいちゃん!良かったよ!」と言いました。何が良かったかと聞いたら、「集会、すごく良かったよ!」というのです。そして、どのメッセージが良かったかと聞くと、「有賀先生のメッセージ、すごく感動した!」と言いました。私のメッセージじゃなくて、有賀先生のメッセージが良かったと言いました。有賀先生のメッセージ、どういうメッセージをしたか、覚えていますでしょうか。こういう話をしました。

有賀先生は一九四一年に、十二月三十一日にイエス様を信じて救われ、献身して、関西聖書神学校に入りました。家は石屋さんで、お父さんとお母さんに勘当されたというのです。二度とこの家に入って来るな!と言われたそうです。
そういう中で、実は、一九五六年か七年だったと思いますが、先生の出身は福島県白川市ですが、その街にスウェーデンの宣教師がいて、私に伝道集会でメッセージをするように頼みました。それで私は白川に十日間行きました。近頃の伝道集会と言ったら、一日か二日間ですが、その頃は十日間集会をして、すごく良い集会を持ちました。その時のことを有賀先生が話をしてくださいました。

私が白川に行く前に、家内に「旅費をちょうだい」と言ったら、家内が「今、金ない。」と言いました。我が家には片道の交通費すらありませんでした。
そうしたら家内が、「じゃぁ行って来る!」と、家内の持っていた着物の中で一番良い着物を持って、質屋に行きました。家内は私のために質屋に行ってくれ、その時にいくら借りたかよく覚えていないけど、だいたい三千円くらいだったと思います。三千円借りて来て、千円くらい家に残して、片道切符で白川まで行って集会をしました。
しかしその集会はすごく良かったのです。毎晩人がいっぱい集まりました。雪が降る一月でした。教会にぎっしり。その集会後、スウェーデンの雑誌に、「白川ベックルス」と新聞に出ました。「ベックルス」というのは、スウェーデン語でリバイバルということですが、「白川にリバイバルが起きた!」言われるほどの、すごい集会になりました。
最後の日曜日に、その先生は大きな人で、みんなの前で喜んで私を抱きかかえて、スウェーデンの人は感謝をする時に、男同士だったら肩をぱんぱん叩きます。私をぱかぱか叩いて、「滝元兄弟!良かった!」と喜んでくれました。
しかし私は、帰りの旅費がないから、いくら金をくれるかなと考えていました。そうしたら事務室で、ヤット・ストロームという先生と、アンダーソンという女性の先生が話をしていました。その人たちは日本語ができるけど、聞かれてもいい事は日本語で話しますが、聞かれてまずい事はスウェーデン語で話をしていました。私はスウェーデン語は分からないけど、何を話しているかはだいたい雰囲気で分かりました。
「タキモト…ペンガ…」とか言っていたのですが、「ペンガ」とはスウェーデン語でお金のことですから、「滝元にいくらお金を払うか」という話なのです。私はそれを見ても見ないような振りをしていました。女性の宣教師が三本の指を出しました。私は瞬間的に思いました。すごいリバイバル集会だったから「すごい!きっと三万円くれる!」と思いました。三万円くれたら子どもたちにおみやげを買っていくこともできるしと、すごく喜びました。しかしもしかして、三千円じゃないだろうな…と思いました。
その時はそれで終わったのですが、帰る前になったら、その宣教師が来て、「滝元兄弟、ありがとうございました。感謝の気持ちです。」と、お金をくれました。封筒を掴んだら、厚さで分かります。薄いわけです。
それから、早速、私は自分の部屋に飛び帰って封筒を開けてみました。いくら入っていたかというと、「三千円」でした。私はその時に悲しくて泣きました。「イエス様。たった三千円です。」
お金が無ければ、質屋から服を出すことはできないし、おみやげどころか、片道の電車賃で終わっちゃいます。しばらくの間、悲しくて、「たった三千円ですか…」と泣いていたら、その時に、聖霊様が『おまえはここに何のために来たのか?』と質問をされました。
「はい。伝道のために来ました。」『金目的のために来たのか?』「いや、そうじゃない。伝道です。」『じゃぁ、いいじゃないか。』「はい。分かりました。」いくら泣いても金が増えるわけじゃありません。私も顔を洗って、先生の所に行って、ありがとうございましたと言って帰って来ました。もちろん家内の着物も質流しにしてしまったのですが、あの時に、なぜ、あの宣教師が三千円しかくれなかったのか。それは私に対するテストだったのです。金のために来たか、福音のため、伝道のために来たのか。何のために来たのか。「はい!伝道のために来ました。」それでいいじゃないか。

それで終わってしまったのですが、それからしばらくしてから、アンダーソンという先生から手紙が来ました。「先生、もう一度来て伝道集会をしてください」と書いてありました。またこの人かと思いましたが、行きました。
そうしたら、その先生が、「先生、私は神様が結婚をさせてくれなくて子どもがないから、これから先生の家族のためにサポートしたい」と言って、子どもたちのために金をくれました。何年か私たちの家族を助けてくれました。
十二月になった頃に、十二月は伝道集会がない季節で、メリークリスマスじゃなくて、我が家はプアークリスマスという貧乏なクリスマスでした。その時にドイツからお金が送られて来ました。だれかというと、私を招いたヤット・ストローム先生でした。「神様があなたにお金を送れと言われたので送ります。」その方は、後にイスラエルの大使になった方です。
神様は、時々、問題がある時にテストをします。本当にイエス様を愛しているか、金のためか?いつでも「イエス様を愛します!」
私にとって、良いテストだったと思います。それを有賀先生が話してくださって恵まれたと思います。その時の白川での集会で、有賀先生のお母さんが、救われたのです。
私もそれを聞きながら、あの時にテストされて今日まで来ることができたことは感謝しています。

私たちも、これから信仰を持って、イエス様に仕えていかなければなりません。私たちはどこまでも、イエス様を信じたら、信仰を持つことです。「信じます!」と。
マルコの福音書十一章二十二節~二十四節で、イエス様がこんな事を語っておられます。

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』

他の聖書の訳し方には、「一粒ほどのからし種の信仰があったら、山に向かって『動け』と言ったら動く」とあります。神様は、絶対的に真実な方。力がある方。なんでも事を成してくださる方ということを、どんなに問題があって、駄目だと思う時にも信じなければいけません。

『はじめに神が天と地を創造した』とありますが、私たちが信じている神様は、天と地を創造した神です。
この間、十五夜ということで、私も月を見ました。あの日は、少し雲が出ていて見えづらかったですが、その次の日は綺麗で、「いや~、綺麗だな~。」見ていると、あの月は何もない空間に神様がかけている。また地球も何もないところにかけられた神様。すごい。
全能の神様を信じていくということは大切なことです。どんなに問題があっても、試練があっても、罪があったら悔い改めて信じたら、祈りを聞いてくださいます。だから失望してはいけない。まだ日本にリバイバルが来ないと、失望してはいけません。ルカの福音書十八章一節~八節、

『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。』

日本にリバイバル、大勢の人が救われるようにと祈っているけど、なかなか救われない。日本駄目かな~、と思うけど、失望してはいけません。続いて、こう書かれています。

『「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」』

今度の環・関西リバイバルミッションですが、正直いって、尼崎、堺、八尾の集会ですが、ある意味において、期待外れの所がありました。もっと大勢来るかと思いましたが、少なかったのです。新城から来た方は「大勢集まりましたね」と言ってくださいましたが、実際は期待したよりそんなに多くはありませんでした。甲子園だったら、三日間で十二万四千人も集まりましたが、今回は協力教会も少なかったですし、少なかったな~と感じました。
しかし聖書を見ると、祈りが聞かれないことも、いいことでもあるのです。

この間も、聖書を読んでいたら、ダビデ王が晩年になって、一つの罪を犯しました。どんな罪を犯したかというと、ダビデは家来たちに「イスラエルの民の数を数えなさい!」と言いました。
その時にヨアブという人が言いました。『王様、数は数えなくてもいいじゃないですか。神様は今の百倍も千倍も祝福してくださるでしょう』「いや!数えよ!」
という会話の中には、ダビデは王になって、「自分は王になった。イスラエルは自分のものになった。どのくらいの民が俺の支配下にいるか。」
彼はある意味において、傲慢なところがありました。それで強制的に民の数を数えさせたのです。その事が主の心を痛めたと書いてあるのです。何を痛めたのでしょうか。
サタンは、人に高ぶりを入れます。人数が大勢来たとか、人から褒められたとか、金があるとか、そういうことに目を向けさせます。ダビデはサタンに感動され、神の前に罪を犯しました。その時に、預言者がこう言っています。「三つの中から一つを選びなさい。三ヶ月の間、敵から逃げることがいいか。七年間、この国に飢饉を送るのがいいか。それとも、三日間、疫病を送ることがいいか。選べ。」

ダビデは「私は、人の手に陥りたくありません。神の手に陥りたいと思います。」と、その時にはへりくだりました。その結果、疫病が起き、七万人が死んだと書いてあります。天の使いが民を打っている姿を見て、彼は主を恐れました。
その時神はダビデに「贖いをしなさい」と告げました。それで彼は一つの所に行って、神の前に生け贄を捧げました。「神様、赦してください。高ぶって数を数えたことを赦してください。」と悔い改めました。
その時に、何と書いてあるかというと、『神はこの国の祈りに心を動かされた』と書いてあるのです。これは何かというと、私たちは数が多いか少ないかではなく、すべての支配権を神の手に明け渡し、傲慢な気持ちを捨て、例え少なくても、ミッションに多くの人たちが来なくとも、数ではないのです。
しかし、集会自体はすごく良かったです。音響をやってくださったジョージさんからメールが来て、「今までのうちで最高に良かった!」といわれました。
何が良かったのか。それは聖霊様が働いてくださったのです。本当に良い集会でした。環関西リバイバルミッションを通して、この国が癒やされ、あの集会で祈ったことが、日本の国の祈りを神が聞いて、心を動かしてくださったのかもしれないのです。
日本にリバイバルが来るということを、信じて、決して失望してはいけないということです。
私たちは失望しないで、信仰を持たなければなりません。「もう駄目だ。どうして!やっぱ祈りやねんって、祈ったけど、どうして?」ではありません。神は真実です。ですから、信じたことを、どこまでも信じていきましょう。

聖書を見ると、モーセについておもしろい事が書かれています。おもしろいというより、モーセという人は大預言者でした。イスラエル民族は四百三十年の間、エジプトに奴隷生活をして、彼を通して二百万くらいの人たちを解放しました。紅海を渡って、荒野を四十年間通って、約束の地、カナンにまで入ったわけです。しかし、そのモーセが、不信仰になったことがあります。
何かというと、みなさんもご存じのように、荒野で神様がイスラエルの為に天からマナを降らせたとあります。これは天使のパンだと書いてありますが、そのうちに、「混じって来た人」と書いてありますが、イスラエル人ではない、信仰を持っていない人たちが、毎日マナばかり食べるので、飽きて「混じってきた」彼らがつぶやいたというのです。何をつぶやいたかというと、「マナしかない。」
民数記十一章四節~六節、

『また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」』

「あぁ、肉が食べたい。こんなマナなんかもう飽きた!エジプトでは魚を食べとった!きゅうりも、すいかも食べたことを思い出す。にらもたまねぎもにんにくも!」「にらを食べたい!」「たまねぎ食べたい!」「すいか食べたい!」「ニンニク食べたい!」彼らは、おいおい泣いたというのです。
それで混じった人たちの泣き声で、つられてイスラエルの人たちもおいおい泣いたのです。不信仰な人たちの側にいると、やはり不信仰になります。だから、信仰のある友達を持たなきゃいけません。「肉が食べたい!スイカ食べたい!きゅうり食べたい!エジプトの生活を思いだす!」
モーセはそれを聞いて、苦しくなったのです。その時に、モーセが祈った祈りを知っていますか?モーセはすばらしい人だと思うけど、不信仰な祈りをしているのです。民数記十一章十一節~十五節、

『モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」』

あの大勇士のモーセがですよ。神様の前に、「重すぎます。」と言いました。何がかというと、二百万近いでしょ。徒歩の人だけで六十万人ですからね。肉なんか食べさせることはできません。「こんな苦しみに会わせないで、いっそのこと私を殺してください!」
偉大なモーセでも、不信仰というより、当然かもしれません。私がもしモーセの代わりになってたら、同じことを言うでしょう。「こんなに苦しいなら、殺してください!」こんなことを言っています。
その時に、神様は何と言われたかというと、民数記十一章十八節~二十節には『あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、一か月もあって、ついにはあなたがたの鼻から出て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」』

神様は「肉を与えてあげる!」と言いました。それに対して、モーセは何を言ったかというと、民数記十一章二十一節~二十二節、

『しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」』

こう言っているのです。みなさん、常識から言ったら、考えられないことです。「神様!牛を全て殺したって、一ヶ月も食べさせることはできませんよ。海の魚を全部捕ったって、二百万の人たちを食べさせることなんてできませんよ!そんなこと無理じゃないですか!」と言いました。
絶対無理だと思います。しかし神様は一体何をされたでしょう。神様がなさったことが書かれています。民数記十一章三十一節~三十二節、

『さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、‐‐最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた‐‐彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。』

神様という方は、とんでもないお方です。とんでもないということは、海のほうからうずら、うずらを知っていますか?うずらの卵、あるでしょ。あのうずらが飛んで来て、ばたばたと、二キュピトとありますが、一キュピトというのはだいたい四十五センチくらいです。それの二倍の高さで、一日の道のりをうずらが埋め尽くしたというのです。
彼らは喜んで、うずらを捕まえて食べて、彼らは蓄えたと書いてあります。私たちの信じている神様は、絶対に不可能と思えることを、することもできます。日本にリバイバルを現そうと思ったら、することもできます。しかし、問題は、私たちが信じるか信じないかが問題ですね。

家庭に起こる問題もいろいろあるかもしれませんが、「大きい!自殺したい!」モーセは「私の命をとってください!殺してください!」と言ったけど、そんな気持ちにならなくてもいいのです。『神を信じなさい!』「信じます!」

イエス様がこの地上に来て、私のために十字架にかかり死んでくださり、死人の中から三日目によみがえってくださった。今イエス様はこうおっしゃっています。天においても地においても一切の権威を持っている!
この天と地を造った真の神様を、もっと深く、問題があってもなくても、必ず、すばらしいことを成してくださると信じましょう。

環・関西ミッションが終わって、加古川の教会に行きました。加古川の教会は梅谷という先生で、その教会に何回も私は招かれました。去年も、夏に大きなホテルで、三日間の聖会を頼まれて行きました。その時に、その先生がこういう話をしました。
「先生、私たちは新城教会を模範にして、新城教会みたいになりたいんですよ。」と言っていました。礼拝は何人くらい集まっていますかと聞くと、「今は、平均三百六十人です。四百人になったら教会堂を建てようと思っています。」と言っていました。その為に、ものすごく広い田んぼを買いました。いくらで買ったのかと聞くと、「坪二万円です。」老人ホームも作りました。すごいです。
私が行った時の集会には四百五十人くらい集まりました。すごくいい集会でした。今度、何人くらい入る教会を建てるのかと聞くと、「平均四百人になったら、三千人の教会を建てたいと思います」と言っていました。信仰を持っていました。「三千人の教会を建てます。」
その次はシーサイド岡山という教会に行ったら、その教会も信仰を持っていて「先生!もう少ししたら、今度は飛行場の側に教会を建てたいと思います。千人くらいの教会にしたいと思います。」大きく建てるかどうかは問題じゃないけれど、問題は神を信じるかどうかです。これが問題です。我々が神の前に、信じて聖く生きるかどうかが問題です。聖書は、「アブラハム神を信ず。」信仰によって義と認められたと書いてありますが、アブラハムに空の星を数えてみよと言われました。「こんなに多くの星を造った神様は、約束をしたことは、必ず約束を守る」と信じたことにより、彼は義と認められたとあります。信じることには金はいりません。「信じます!信頼します!愛します!従います!信じ通します!」そうしたら、祝福されます。年寄りも、若い者も、みんな心から信仰をもってまいりましょう。信仰をもって、この聖餐にあずかりたいと思います。一言お祈りします。

愛する天のお父様、心から感謝します。あなたはおっしゃいました。主の手は短いだろうか。今、それが実現するだろうとおっしゃいました。不信仰を赦してください。あなたこそ日本を造られた神様です。世界を造られた神様です。できないことはない神様ですから、あなたを心から信じます。この教会にも祝福を与え、高ぶりのためではなくて、人々が救われるように祝福してください。お願いします。
イエス様、これからイエス様の御血、御肉に授かります。あなたは、血潮を流してくださったほど、肉を裂いてくださったほど、愛してくださっていますから、私たちもあなたを愛します。感謝してお祈りします。アーメン。