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『主の夢をかなえる為に。

2014年10月12日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き1章3節〜8節

『イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

 ハレルヤ!おはようございます!今日もみなさんと共に礼拝を守れますことを、心から感謝します。
 今、後藤早織さんのすばらしい演奏を聴きましたが、彼女は月一回、豊川市民病院でボランティアで演奏しています。いろんな曲を弾くのですが、その中に、賛美歌も混ぜて、演奏を通して人々が癒やされますように祈りつつ、教会もそれに協力して、真剣にとりなしの祈りをしながらやっています。先週は、結構大勢の人たちが集まり、演奏が終わったら、一人のおじさんが来て、「今日あなたの演奏を聴いていたら、私、癒やされました!」と言って来られたそうです。そのおじさん、血圧が下がったんですって。病院の診察室ではなく、賛美を聴いていて血圧が下がったそうです。みなさんも、礼拝に出て、主を賛美をして、血圧を下げ、健康になって帰っていただきたいと思います。賛美には力があります。

 先週は、天野先生が来てくださり、すばらしい働きをしてくださいました。みなさん、恵まれましたか?「アーメン!!」
 天野先生を通して、主が預言的な言葉を、新城教会に与えてくださいました。神様がこの教会に望んでおられることは何かについて、告げてくださいました。聖会の前に先生は真剣に祈ってくださったみたいです。そうしたら、「わたしの夢をかなえてください」と、主は新城教会に語られていると言われました。その言葉を聞いて、なんか感動しました。「俺たちが主の夢をかなえて差し上げるのか!」って。
 「主よ、私の夢をかなえてください!」という祈りは多かったのですが、「主の夢をかなえさせてください」って、すごいなと感動しました。
 実は、私たちは、本来、主が持っておられる夢をかなえるために、存在しているのです。

 イエス様の夢とは、何でしょう。神様の夢というのは、一体、何でしょうか。今日、読んでいただきました使徒の働きの一章を読みますと、それが何であるか分かります。
 イエス様がこの地上に来られた時に語られたメッセージの中心は、神の国でした。
 みなさんは、「神の国」のイメージをどのようにお持ちでしょうか。伝統的な教会は、本来の神の国のイメージをかなり変えてしまったような気がします。聖書をじっくり読めば、神の国はどこに現れるのかというと、他の星ではないのです。他の宇宙ではないのです。なんと、この地球、私たちの目の前に、神の国は現れるのです。それは、霊的な意味を越えて、現実の世界に実現するのです。
 先日、中澤啓介先生が、リバイバル聖書神学校で、「被造物管理の神学」という講義をしてくださいました。その中で、「聖書はどのように読んでも、神の国は私たちの目の前に現れるとしか読めない。」と語っておられました。
 案外、何か苦しいことがあると、「おぉ、主よ。神の国に連れて行ってください。天国に連れて行ってください。」と、他の星に移住するような気持ちで祈ります。しかし「神の国とは、あなたがたの目の前に現れるのですよ。」これが、主が語られた中心的メッセージです。

 なぜ、イエス様はよみがえられたのでしょうか。それは、この地にやがて神の国が現れることを証明するため、よみがえってくださいました。一章三節に、

『イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。』

と、記録されています。『苦しみを受けた後、』とは、十字架の死と復活の後です。よみがえられて後、開口一番に語られたことは、以前と同じように、神の国のことでした。
 その時、弟子たちは、『主よ。今こそ、イスラエルのために、国を再興してくださるのですか。』と質問しています。弟子たちの視点は、自分たちの国イスラエルの回復でした。イスラエルはローマに支配されていましたから、ローマの支配から解放される事が、神の国の実現と考えていました。イエス様は、その意見を否定されませんでした。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』と答えられました。それは、イスラエルの回復と、神の国の実現はつながっているからです。
 そのために、「あなたがたは世界に出て行きなさい」と語られたのです。「神の国が地上に現されるためには、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、そして全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい。」と主は語られたのです。なぜなら「この御国の福音は、全世界に宣べ伝えられ、そして、終わりが来る」と言われたからです。
 福音が全世界に伝えられると、イエス様は帰って来られるのです。すでに、あらゆる方法で世界宣教がなされています。イエス様が帰って来られる直前の時代に私たちは生きているわけです。
 神がもっておられる夢、それは、この地に神の国が実現する事です。イエス様がエルサレムで王となり、全地を治められるというのが、聖書が教える究極的な神の夢なのです。

 前回もこの場で語らせていただきましたが、「私たちは神の協力者」であると学びました。私たちは神の計画に協力しているのです。
 私たちは、神の計画、すなわち、この地球に、現実的に神の支配が訪れることです。この計画に私たちは賛同し、その計画に協力しなければならないのです。
 「わたしの夢をかなえて下さい」と主が言わるならば、主がこの地に帰って来られ、この地を治められるという、究極的な目的に協力して下さいという意味であると信じます。そのように、この教会に語っておられるのではないでしょうか。私はその言葉を聞いて、たいへん感動しました。

 そのための手段が、全世界に出て行って福音を宣べ伝えることです。全地に福音を伝えることが要求されます。
 一九九二年、激しく聖霊が注がれ、その後、全日本リバイバルミッションが始まりました。今や宣教のために、日本全国、地の果てにまで遣わされるようになっています。この働きは、主の夢をかなえるための働きです。みなさんの周りに、まだイエス様を知らない人たちが多くおられるはずです。その方々に福音を伝えるのは、主の夢をかなえることに他なりません。

 悪魔の究極的な目的は何でしょうか。それは、ただ人を苦しめると言うような、レベルではないのです。イエス様が帰ってこられる道に、立ちはだかる働きです。もしもイエス様が帰って来られたら、悪魔・悪霊どもは捕らえられ、永遠の地獄に投げ込まれてしまうからです。なんとしても、イエス様が帰って来られるのを阻止したいわけです。彼らは、あの手この手を使い、イエス様が再びこの地に帰って来られないように、働いているのです。私たち教会は、主の帰られる道に立ちはだかる、暗闇の力を打ち破るために働かなければなりません。

 イエス様の弟子たちは、「明日にでも主は帰って来られるかも知れない」という、緊迫感を持って、働いていました。第一テサロニケ四章十六節〜十七節、

『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』

 ここは主がこの地に帰って来られる瞬間について述べられています。『次に、生き残っている私たちが、』と、語っています。パウロは、自分が生きている時代に、主が帰って来られると確信していたようです。それからすでに二千年も経ってしまいました。未だに、主のお帰りは果たされていません。
 その理由の一つが、立ちはだかる者たちがいるということです。しかし主が帰ってこられる瞬間、『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。』と述べられています。「号令」とか「ラッパの響き」とは、当時、ローマ軍の「突撃ー!」という号令と、進軍ラッパです。
 主が帰って来られる瞬間、それは霊的戦いの終結を意味します。最後に、主が戦いの決着をつけてくださるのです。主の再臨とは、霊的戦いの最終勝利宣言です。サタンに対して、最終的な勝利の宣言が主の再臨です。その日に向けて、教会は、主が帰られる道を備える地上軍なのです。教会は局地戦を勇敢に戦い、悪の勢力を打ち破り、司令官とその軍勢が上陸できるように整える働きです。その重要な働きが、宣教の働きです。

 実はこの地域は、日本のキリスト教史に残るような、大変意味のある地域です。今、リバイバルミッションが宣教活動を世界に向けて発信していますが、これは偶然に起こったことではありません。
 以前にもお話しさせていただきましたが、明治のはじめ、この地域で、大きなリバイバルがありました。それが私の父と私が生まれた、当時は、「北設楽郡津具村」でした。今は「設楽町津具」という村に、リバイバルが起こったのです。
 ここに津具の風景が出ていますが、たいへん寂しい風景です。

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 こんな寂しい山村に、なんとリバイバルが起こり、地域住民の半分くらいがクリスチャンになったそうです。あの津具村に教会ができ、三十年くらい牧会がなされていたというのです。今でも津具に行きますと、牧師であった村井与三吉という先生の顕彰碑が立っています。牧師の記念碑なんて、日本にはほとんどないです。その記念碑を誰が建てたのかというと、津具村の村人が建てたのです。興味があったら、場所を教えますから、行ってみてください。あの津具村に、「村井与三吉先生の碑」と記された、村人がお金を出し合って建てられた立派な記念碑があるのです。それがかつての教会跡地に建っています。それを見ただけでも、相当な事がこの地にあったのだと推測できます。記念碑を建てるに当たり、お金を出した村人の石碑もあります。

 しかし残念なことに、そのリバイバルは消えてしまったのです。この近くに海老という場所があるのですが、海老にも教会がありました。新城にも明治時代には教会がありました。けれども、全て潰れてしまいました。悲しいことです。
 今、私たちがこうして礼拝を守っているのは、ただ単なる事ではなく、悪魔に奪われたこの地の祝福を取り戻す、神の大きな計画の一環なのです。

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 「村井与三吉先生」の碑と書いてありますが、この文字を書いたのは、有名な人物が書きました。

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 ノーベル平和賞に三回もノミネートされた、キリスト教精神の社会運動家、賀川豊彦が書いているのです。賀川豊彦は、この村井先生の姿にたいへん感動したそうです。それで信仰を回復したらしいのです。しかし残念ながら、三十年くらい続いた津具教会は、その後、滅びてしまいました。
 けれども不思議です。村井牧師が死んだ数年後、村でキリスト教に反対していた反対派の中から、一人の人物が生まれるのです。それがこの人です。

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 彗星のごとく現れたのが滝元明。それは偶然ではなく、主が一度灯した火を回復する為なのです。神の持っておられる夢を、かなえたいのです。
 その後、この村に、かわいい男の子が生まれました。

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 真ん中いるちょっと目つきの悪い男の子、それは今、みなさんの前に立っている男です。
 新城教会があるのも、偶然ではないのです。主の夢をかなえるために、一度灯された火を回復するために、主が教会を建てられたことが分かります。
 この頃、教会に来られた方々の為に、新城教会の歴史を少し話します。これが、はじめのメンバーです。

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 新城市内の元ダンスホールを買って教会にしました。

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 こんな会堂がこの場所にありました。抱かれているのは、ざわめきの開先生です。

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 そして、ちょっと、増築しました。

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 一九八〇年、健在の会堂が建ち、献堂式の時の写真です。会堂が白くてよく見えません。神の大きな計画があって、事がなされたのです。

 しかし、この地域で始められた主の業が、なぜ消えたのかも考えなければならないのです。火が消えた原因を探り、二度と消えない火に置き換えるのは、教会の重要な使命です。新しい世代にはその使命が課せられています。
 先回も話しましたが、私たちの働きは、やがて火を持って試されるというのです。主は評価をどのようになされるのかと言うと、イエス様が帰って来られた時、一人一人の地上で行った仕事の出来具合をテストをするのです。
 どんなテストかと言うと、火をつけるテストらしいです。火をつけて燃やして、「残ったものがあなたの報い」ということらしいのです。「火がつけられたら、何が残るのかなぁ…」と、私も不安になります。教会も同じです。新城教会という教会が、かの日には、イエス様の前に立たされ、聖徒たちの面前で火をつけられるのです。「あれ!何もなくなった!土台だけが残った!」では、悲しいです。一生の後悔どころか、永遠の後悔になります。そうならないように、私たちは永遠に残る材料で、教会を建てたいものです。
 この地域にリバイバルが起こったのにもかかわらず、その火が消えた理由を、しっかり探り、材料を置き換える働きは、主の夢をかなえる為に、たいへん重要だと思います。

 話は変わりますが、日本で「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれたら、「私は仏教です。」とか、「神道です。」「クリスチャンです。」とか答えるわけですが、「無神論者です。」と答える人が結構、多いですね。
 しかし欧米諸国に行って、「無神論です。」と答えは、一番嫌がられます。無神論者とは、たいへん重い言葉で、絶対言ってはいけない言葉の一つです。多くの日本の知識人たちが、海外での自己紹介の時、「私は無神論者です。」と答えて、どん引きされたという、失敗談をよく聞きます。これはなぜかというと、実は、ヨーロッパの深く、長い歴史が関わっています。

 キリスト教は、はじめは純粋なものでした。しかしローマに入ってから、国教化し、ローマ・カトリック教会が生まれてから、おかしな方向に向かっていきました。教会が支配者の手に渡り、人民支配の道具となったからです。
 ローマ・カトリック教会は、「異端審問所」を設け、異教徒たちを迫害し、皆殺しにしようとしました。私は先月、スペインに行きましたが、マドリードで一番有名な観光スポットは、マヨール広場です。そこもかつては、異端審問所があって、ローマ・カトリック教会の信徒以外は、皆、殺されました。ユダヤ教徒、イスラム教徒、特に、無神論者は皆、首を切られました。だから、ヨーロッパにおいて無神論と発言するのは、命に関わる重大な発言なのです。ゆえに、いくら無神論者でも、「無神論」とは口が裂けても絶対に言えなかったのです。
 現実には、ヨーロッパにも、神を信じない人々は、結構大勢いました。それで彼らは、身を守る為にも一つのグループを作りました。それはある意味で、命を守る為の無神論者たちの隠れ蓑です。それは、聖書の教えから全くそれた考えを持った人たちの集う教会でした。それが、何という教会かというと、「ユニテリアン・チャーチ」という教会でした。聞いたことがあるかもしれません。その人たちの主張は、こうです。

・ユニテリアン(Unitarian)
 プロテスタント教会の教派の一つとされているが、三位一体論に反対し、神の単一性を主張し、イエスの神性を否定する人たちの群れを指す。十八世紀後半、英米で起こった。

 私たちの信仰の中心は、父なる神様、子なるイエス様、聖霊様がひとつという三位一体の信仰です。それは四世紀に確立された、聖書の真理です。みなさんは、それを信じますか?しかし信じる為には、聖霊の働きがなかったら、信じられないのです。神を信じていない人には分からない理解です。「一+一+一=三」「一+一+一=一。なんで?」となるわけです。聖霊様の働きがないと、三つが一つだというのは信じられないのです。
 だから、「この三位一体は信じられん。」という主張です。そしてもう一つ、「イエスが救い主だなんて信じられん。まぁ、彼は、優れた人物だったから、俺たちの人生の手本にでもしよう。」という理解でした。このような人々が作った教会、それが「ユニテリアン・チャーチ」と呼ばれる教会でした。

 実は、アメリカは、誰によって基礎が作られたのかというと、ユニテリアンと呼ばれる、当時の知識層の人たちによって土台が作られたのです。
 そして、日本に来た最初の宣教師たちも、その影響下で来たのです。また、明治政府は、ユニテリアンの宣教師たちを、わざわざ日本に呼んだのです。なぜ呼んだのかというと、この人たちは、唯一神とは言うものの、他の宗教に寛大な態度を取っていたからでした。仏教でも、神道でも、なんでも一緒。みんな一緒にやっていこうや!というような人たちでした。それで明治政府は「キリスト教の背後にある西欧文化は欲しい。しかし、自分の国の宗教を否定されては困る」ということで、ユニテリアン宣教師たちを呼んだのです。
 そして、その世話人が誰かというと、みなさんが好きなこの人です。

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 福沢諭吉です。彼は、ユニテリアンの人たちを招き、大学を作りました。その大学出身の方もおられるかもしれませんが、慶應義塾大学です。そんな土台から、日本のキリスト教会は、始まっているのです。

 今、ユニテリアンチャーチは、日本のどこを見ても存在しません。しかし身近なところに存在しているのです。それは、みなさんも、よく知っているはずです。ユニテリアンの人たちは、三位一体を否定し、イエスの神性を否定するというのが、特徴であり、基本姿勢です。
 ところで、みなさん、この人たちを、知っていますか?

・エホバの証人(Jehovah’s Witnesses)
 伝統的キリスト教が教える三位一体説の否認、イエス・キリストは神の意向を行う代理人と認めるが、神性を認めず礼拝の対象とはしていない。

 「エホバの証人」のルーツは、結構、深いのです。実は、アメリカの建国そのものに関わる苗床から、生まれたのです。ユニテリアンという、ヨーロッパの深い歴史の中から出て来た、日本でいえば無神論者のような人たちが作った教会を、苗床としています。このテーマをしっかりと理解し、彼らの救いの為に、とりなし、祈っていかなくてはいけないと思わされます。

 実は、賀川豊彦も、「唯一館」という、日本に最初に出来たユニテリアン・チャーチのメンバーでした。新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造というような、日本の著名な指導者たちも皆、その苗床から出てきたわけです。どおりで日本の教会、うまく成長しないわけです。うまくいきそうだという時に、どんっと落ちる理由があるわけです。
 私たちは、父なる神様、子なるイエス様、聖霊様の三位が一つであると信じ、今もなお、聖霊は働き、イエス様こそ、私たちの救い主であるという、真理を宣言することは重要な真理の戦いです。

 この地域にも、ある種のリバイバルは起こったのかもしれません。しかしそれは、私たちが今、考えるようなリバイバルとは違ったのではなかったかと思われます。しかし主は、それらをもう一度取り戻し、木や草や藁で火を付けたらなくなる働きではなく、永遠に残る働きに置き換えようとしておられるのだと思います。純粋な福音をこの地域に宣言し、語り続けるのは、教会の現代における重要な使命であると言えます。
 三位一体の神を信じることができるのは、幸せです。これは聖霊による知恵がなかったら理解できないからです。

 初代教会の人たちは、イエス様が帰られる道を準備したいという一心で、彼らは信仰生活を送っていました。「主の道を整える」という一点で、彼らは信仰生活を送っていたのです。私たちは何を目標に、信仰を守っているでしょうか。案外、目の先のことだけで、信仰生活を送っているのかもしれません。
 『神の国とその義を第一に求めなさい。そうしたら、すべてのものが与えられます。』という御言葉があります。歌にもなっています。この御言葉を、どのように理解しておられますか?
 私の小さな頃からの理解は、「イエス様を第一にしたら、すべてが与えられる」という理解でした。もちろんそうだと思います。
 しかし「神の国とその義」とは、「神の国の実現」です。主が帰って来られ、この地を治められるという、究極的な目的を第一にしたら、すべてが付け加えられるのです。案外、私たちは、目の前にある事のみを、目標として歩んでいるのかもしれません。主が帰られる道を用意し、主の偉大な計画の協力者として、歩んでいきたいものです。

 先ほども第一テサロニケ四章のところから、『号令と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。』と学びました。この言葉で、パウロはテサロニケの教会の人たちを励ましました。
 そして、終末の時代に生きるクリスチャンらに、どのような心得が必要であるかを、五章に記しました。お帰りになりましたら、五章を読んでいただきたいと思いますが、「主が帰られる道を用意する者たちの心得」。それが、五章の中に記されている事柄です。五章十四節から、みなさんでご一緒に読んでみたいと思います。第一テサロニケ五章十四節〜二十三節、

『兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。』

 これが、主の夢をかなえる勇士たちが、常に心得なければならない事柄です。
 私の中学、高校の時代、「生徒手帳」という手帳がありました。そこには生徒の心得が記されていて、当時は、絶対になくしてはいけない大切なものでした。
 私は中学生の時、大失敗をしました。生徒手帳を胸ポケットに入れて、野原に遊びに行き、野壺、肥溜めに生徒手帳を落としてしまったからです。超やばかった。生徒手帳を肥だめに落としてしまったのです!昔は生徒手帳を落とすと、すごく怒られました。後から始末書を書かされたりして、たいへんでした。私はなんと理由をつけようかと、まずは、すぐに家に帰ってじゃぶじゃぶと生徒手帳を洗いました。しかし、生徒手帳は黄色く染まって、くさくて使えなくなりました。その時、なんと理由をつけたか忘れましたが、再発行してもらった思い出があります。あの頃、生徒手帳はなぜか、権威がありました。中には、「この学校の生徒たちの心得。一、○○。二、○○。」と書いてあって、髪型までイラストで指定されていました。
 あれは多分、戦時中の、「軍隊手帳」の名残だと思います。ここには戦争に行った方がおられますが、軍隊手帳を肥溜めにでも落としたら、銃殺ものでしょう。その中に記されている規律は、たいへん厳しいものでした。
 主の兵士たちにも、「聖徒手帳」があります。主からその手帳が手渡されています。そこに何と書かれているかというと、まずは、十四節と十五節。

『兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。』

 それは軍隊手帳のように厳しいものではなく、素晴らしい内容です。
 教会には、いろいろな方がおられます。「新城教会は赤ちゃんからお年寄りまで、満遍なく来ておられますね。」と、天野先生が言われましたが、こういう教会は案外少ないのかも知れません。教会に集まっている人たちは、それぞれ文化も習慣も違うし、お互い、たまにはむかつく事もあるかもしれません。でも、「寛容でありなさい」というのです。生まれた環境、育った地域の文化は、そう簡単には変えることができません。

 みなさんに祈っていただきたいのですが、来年は戦後七十年ということで、それを意識し、沖縄でリバイバルミッションを開きたいと願っています。
 来週は父と平岡先生が、向こうの先生方と話し合うために沖縄に出かけて行きます。御心の働きができるよう、祈っていただきたいと思います。

 沖縄に行きますと、本土とは文化が違います。「集会は七時半から」と、ちゃんとチラシにもポスターにも書いてあるのに、教会に電話がかかってくるのです。「もしもし、今晩七時半からの集会って、何時から始まるんですか?」と。七時半と言ったら、七時半じゃないか!と思うのですが、沖縄では標準的には一時間くらいは遅れるのです。沖縄の教会に奉仕に行きますと、七時半から集会が始まるというのに、牧師先生が「食事に行きましょうね」と言って、食事に連れて行かれるのです。「七時半から集会なんですけど、いいんですか?」というと、「いいんです。いいんです。」と、まぁ牧師先生からして、そういう感じですから、みんな遅れてくるだろうなと。みんなゆったりしているわけです。でも本州から行く者にとっては、むかつくわけです。七時半といったら、七時半からやろうよ!と。

 しかし北海道に行くと、まったく真逆なんです。七時半というと、七時頃に、みんな教会に集まって座っているのです。えっ!まだ時間になってないじゃん!というと、向こうはいつ吹雪になって、家に帰れなくなるか分からないから、なにしろ早めに始めてくれという文化です。いや〜、リバイバルミッションもなかなか大変です。しかしいろんな事があっても、寛容でなければいけないということですね。

 教会は、いろんな背景から集まりますから、時には「この人ちょっとむかつく」とか思ったとしても、寛容さが大事だと聖書は告げています。
 『気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助けてあげなさい。』というのです。中には気ままな人もいるわけです。「あれ?今日、礼拝あったんでしたっけ?」と、二日後くらいに教会に来る人もいるし、ちょっと気が弱かったり、そういう人もいるわけです。でも、そのような人を裁いてはいけないのです。寛大に受け入れあっていかなければいけない。これが聖徒手帳の最初に記されている事項です。すばらしいですね。
 今日、礼拝後にカレーを食べる時にも、この事を心得て下さいね。食べるのが早い人もいます。遅い人もいます。口の中に食べ物を一度入れてから、いっぱいにして、モルモットのように噛んでいるスタッフが一人いるのですが、食事が出た瞬間、すべてがなくなる信先生のような方もおられます。そういう人が一緒に食堂に入ると、完璧にむかつくわけです。お互いにですね。でもお互い、愛し合わなければいけないと言っているわけです。

 しかし『気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助ける』というのは、軍事用語らしいのです。パウロはローマの軍隊を見ながら、この事を書いたらしいのです。
 実は、ローマ軍は、戦争をする時、一つの戦術を持っていました。それは、こういう感じだったらしいのです。
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 横一直線に並んで、「突撃ー!」と号令がかかったら、全軍が横一直線で全力で敵に突進したのです。
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 横一列で敵に向かっていく戦術だったのです。そういう中で、気ままな人がいて、「あっ、おしっこ、おしっこ!」とか、「怖い!」とかびびっていると、全体がみだれて、戦争に負けてしまうから、互いに励まし合ってくださいと告げたわけです。誰も引き下がる者がいないように、弱気になる人がいないように、お互いに寛容であり、励まし合って、戦っていきましょうというのが真意なのです。

 私たちは、どんな働きをしていても、各自の戦いは「最前線」なのです。「順先生は霊的戦いをやっているから、最前線だな」と言わないでください。どんな立場でも、皆、最前線なのです。様々な役割があるかもしれないけれど、それは最前線を守っているのです。だから教会には無駄な人は誰一人いません。みんな一つとなり、敵に立ち向かう場所なのです。『誰も悪を持って悪に報いないように、お互いの間で、またすべての人に対していつも善を行うように努めましょう。』とも言われています。

 そして有名な言葉、十六、十七、十八節。これは、ひとかたまりで理解してもいいと思います。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

 これは賛美にもなっていますよね。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』これは、神の御心そのものです。今週も、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝して生きるならば、あなたは勝利者です。そして、主の夢をかなえるために、用いられるのです。
 いつも祈るなんて、不可能じゃないかなと思うのですが、これは、「いつも祈り心で生活しなさい。」ということです。この一週間、祈り心を持って、何をするにも、祈り心で生活してみてください。すばらしい週になると思います。

 そしてまた、「すべての事について、感謝しなさい。」と言っています。
 先日、ある、この箇所に関する注解を読んだのですが、ちょっとハッとさせられました。「すべての事柄について感謝しなさい。」を、どのように受け取りますか?例えば、交通事故にあって、「あっ!交通事故にあった。感謝します。」とか、病気になって、「この病気も、神様のプレゼント。感謝します。」と言って感謝する人がいます。しかし、それは違うというのです。
 事故とか病気に感謝なんかできないです。感謝には、感謝を受け取る対象があるわけです。それは、すべてのことについて「神に」感謝しなさい。神様に感謝するのだと。
 つまり、どんなことが起こっても、その中にも神の主権があることを認め、神に感謝を献げるのだと。起こってきた悪い出来事を受け入れることとは違うと、ありました。本当にそうだなと思いました。
 案外、こういう所にも、ひっかけがあると思います。病気になっても、多くのクリスチャンが、「病気になったことを感謝します。」と言います。病気がなんで感謝ですか?そうではなく、「神に感謝する」のです。神を誉め称えるのです。どんな状況の中でも、神は主権的に私たちに働いてくださると宣言するのです。
 十九節に、

『御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。』

 一九九三年に、シンディ・ジェイコブスがこの教会に来て、「この教会に神学校が出来ます。」と言いました。そして、「印刷所が出来ます。」また、「音楽学校が出来ます。」と言いました。その頃、そんなことは私たちは全然、考えてもみませんでした。
 信弘先生が中古の印刷機を買って来て、カチャンコ・ガチャンコ、あっ、紙が詰まった!というような感じでやっている時、印刷会社は無理だろうと思っていたけれど、今はどうでしょうか。プレイズ出版は、押しも押されぬ、日本一のキリスト教会の出版社、印刷会社となり、今度は新しい事業も始めるというじゃないですか。あれは預言の成就です。
 神学校が始まるなんて、なんでそんな学校が始まるのかと思っていましたが、「リバイバル聖書神学校」が始まりました。山崎ランサム先生のような、突然変異のような頭の良い方も加えられ、彼の影に隠れて我々は働いています。神様は不思議なことをなさいます。
 そして、新しい賛美がうまれ、日本語から英語に直されたり、他国の言葉に直されると預言されましたが、今やざわめきが世界で働いています。また、音楽学校もあります。
 あれは主が語って下さったと思います。預言を目標にしたって、絶対にできるものではありません。気がついて、あれ?実現しているぞ!と。
 では、なぜ実現しているのかと言うと、神の究極的な目的があるからです。それは何かというと、主が再び帰って来られ、ご自分の王国をこの地上に造られるという、大きな目的です。これに私たちは賛同し、同意し、働いていかなければなりません。これこそ、主の夢をかなえる事であります。

 この第一テサロニケ五章二十三節を読んで終わりにしたいと思いますが、

『平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

と、パウロは結びました。イエス様がいつ帰って来られても、聖い心で、聖い霊で、聖いからだで、主の前に立つことをいつも心がけてください、と告げられています。悪はどんな悪でも避けてください。これが、主の夢をかなえる者たちに対する、聖徒手帳に記されている事柄です。
 今週、私たちは、この事を心にしっかりととめながら、主が王となって治めてくださるその日を夢見ながら、働いていきたいと願っています。
 イエス様は十字架にかかり、死んで、よみがえってくださいました。なんのためだったのでしょうか。私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えてくだるためでした。しかし、そこで止まってはいけません。もう一歩進んで、私たちが地の管理者として、主が帰って来られる道を備える勇士となる、それが十字架の最も究極的な意味合です。
 救われたならば、主の偉大な計画に賛同し、仕える者になりたいと思います。今からそんな気持ちで、聖餐式にあたりたいと思います。一言祈ります。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたの夢をかなえさせてください。あなたの協力者として、協力したいと願っています。新城教会が、かの日に、主の御前に立たされた時に、永遠に残る材料で教会を建てあげたいと願います。一人一人の人生も、そのようでありたいと願っています。
 主よ、あなたの夢をかなえるために私たちを使ってください。そのために、聖餐が用意されていますから、感謝します。主への深い愛と共に、献身の心を持って受け取ることができますように。イエス・キリストの御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。