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『主の夢をかなえる為に。

2014年10月5日 (日)
草加神召キリスト教会 主任牧師 天野弘昌師
第二列王記4章1節〜7節

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 みなさん、おはようございます。主に大きくハレルヤを三回賛美していただけますでしょうか。ハレルヤ三回しましょう。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!私たちの主は最高の主に大きな拍手をしましょう。アーメン!ハレルヤ!感謝します。

 今日は、こんなに素敵な教会に、小さな者をお招きいただきまして、改めて感謝をいたします。先生方をうちの教会に何度も何度もお呼びしているので、その関係で呼んでくださったのかなぁと思っています。
しかし、今回、なんか「Fire!」というタイトルでの聖会だそうです。来るまで全然知らなかったんですけれども、来て、まさにFireだなぁと思っています。
 日本で最もリバイバルしている教会は、この教会だと思います。人口比で比べたら、すごいと思います。一九九二年、主の火がくだり、この教会に大いなるリバイバルの業が成されました。それからたくさんのすばらしい事柄、今まで教会であんまり味わったこと、あるいは聞いたり見たりした事のないような事が起きました。印刷所ができたり、学校ができたり、これからは高齢者の施設ができるとか、もうありとあらゆる、教会にとっては夢のような話、多くの日本の教会は三十人、四十人で、そのまま大草原の小さな家くらいの教会になっているのですが、この教会は違います。世界で起きているリバイバルが、この日本に、それもこのような人口の少ない所に起きているって、まさにこれは神業。神の奇蹟以外の何ものでもありません。先生方も油注がれてすばらしいですけれども、聖霊様がここにいらっしゃるから、御霊によって始められたことは、御霊によって仕上げられる。それがこの教会の本当の姿だと思う人は、大きくアーメン言いましょう!アーメン!
 みなさん、ついて来ていますか?まだ私はセカンドギアくらいです。最初からトップだとみんなついて来られないので、がんばります。もう結構歳を取っているんですけれども、大丈夫だと信じます。

 さぁ、みなさん、今日はこの限られた時間、と言っても、夜の六時まで大丈夫だということで、だいぶ予定が変更されたのですが、いずれにしましても、今回、この教会で、私が語らせていただきたいことは、この御言葉、このメッセージ!というのを持って来ました。
 今日のタイトルは「魂の収穫のために!」です。
 「魂」とは、イエス様を信じる人々のことを言います。ですから、この魂、イエス様を信じる人たちがこの地域、もうまもなく、もうすでにか、分かりませんが、田んぼが色づいて刈り入れるばかりになって収穫が近いように、イエス様を信じる人たちが、たくさんあふれ出るためには、どうしたらいいでしょうか。そのために私たちができることは何でしょう?そんなことをみなさんに問いかけながら、テーマとして、お話ししたいと思います。一言お祈りさせてください。

 天のお父様。幸いな、油注がれた主の臨在の教会に小さな者を招いていただき、ありがとうございます。神様、あなたはここにいらっしゃいます。一切のものを一切のものによって満たす方が満ちておられる場所、一九九二年にすばらしい天の窓が開かれて、驚くべき事が起こりました。それ以来、今日までこんなに祝福し、多くの地域に、多くの教会に、また日本全体、世界に広げられる主の福音の輪がここまで導かれていることを、ありがとうございます。
 しかし、新しい時代、新しい一ページをと、今回、このようなファイヤー聖会が開かれました。神よ、語る者は小さく足りない者です。しかし、主は偉大な方であり、Great God! 神様にできないことはありません。どうか主よ、今日、すばらしい事が起こりますように。
 ここに集っておられる方々に、すばらしい主の霊的な目が開かれ、生きている事、生かされている事が、どんなにすばらしいことで、どんなに意味あるかを知ることができるよう、お願いいたします。聖霊様、今日も認め、歓迎します。
 日本全国、諸教会を覚え、祝福してください。またこのすばらしい新城教会を祝福し、新しい一ページの大いなるターニングポイントとしてくださるよう、お願いします。
 聖霊様、一人一人に触れ、理解を超えたあなたによる知恵と啓示の御霊によって臨んでくださるよう、みなさんの心の中にある願いと祈りすべてを合わせて、心から感謝し、私のために命をかけ、十字架の死にまで従ってくださった私の主、イエス様のお名前によって、心から感謝して、祝福してお祈りします。アーメン。

 もう一度イエス様に大きな拍手をしましょう!アーメン!
 魂の収穫、救い、伝道というのは、何度も何度も、聞いて聞いて聞いている話だと思うのですが、私は伝道が大好きです。魂が救われるって、こんなに素敵なことだって、今更ながらよく分かるようになりました。滝元明先生はじめ、ここにいらっしゃる先生方、また兄弟姉妹たちは、そのことをよく知っていると思います。
 私はアッセンブリーという教団に属している者です。アッセンブリー教会は世界にもいっぱいあるのですが、それゆえに、たくさんの宣教師が来ます。前にもちょっとお話ししたと思うのですが、宣教師が日本で伝道するためには、いろんな事を学んだり訓練を受けて来るのです。しかしながら、なかなか人との関係が築き上げられないので、最初はトラクト配布をしたり、一戸建ての家を訪問したり、マンションだとだいたい管理人に注意されるので、そんなことをします。
 そんな中で、一人の宣教師、かなり体がでかい方でした。百九十センチくらいある方でした。ダイエット、ダイエットと言いながら、ピーナッツバターを朝ずっと塗りたくって食べている、そういう先生と一緒に伝道をしていました。東京には成城という場所がありまして、これは異常・正常の正常ではなくて、成城大学という大学がある側近くに、すごい一戸建ての家々が連なっているのです。その家々は、門構えが大きくて、場所によっては、プールまであるような家です。大豪邸。そんな所に伝道する先生の真意はよく分かりませんが、私も付いて行きました。
 そして、一軒一軒、訪問していく中で、非常に、辛くて、苦しくて、寂しい家に出会ったのです。ほとんどが門前払いなのですが、この家だけは、入れてくれました。ピンポーンとやったら、むこうから声が聞こえて、おばあちゃんが通してくれたんですね。居間のほうにいま通すというのは、私のダジャレでごじゃれでございまして、申し訳ない。みなさん、シャレを言った時にはちょっと笑っていただくと、私も話しやすくなって、油注がれるんじゃないかなと、そんな気がします。

 いずれにしましても、このおばあちゃんが、居間に通してくれ、お茶を入れに行ってくださったのです。ところが、このテーブルに、おばあちゃんが用意してくださったであろうお皿に、ピーナッツが置いてあったのです。ピーナッツって、アメリカ人、弱いのです。先ほども言ったように、ピーナッツバターを塗りたくって、ダイエットと言っている方ですから、もう臭いに負けたのです。おばあちゃんの許可もなく、一つ食べたって分からないだろうという、そういう肉的に弱い人間の実情が出まして、一つ食べたのです。食べたら、美味しかったのです。昔、コマーシャルで、たぶん知らないと思うんですが、「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」というのがあったのですが、もうピーナッツが止まらなくて、全然意識なく、食べちゃったわけです。最後の一個だけ残った時に気付いて、あぁ!まずいことをした!江戸っ子というのは一個だけ残す文化だって教えられたので、一個残そうかなと思ったけど、おばあちゃんだから、きっと記憶が定かではないだろうから、皿の中のピーナッツをさらりと食べる。これダジャレ。みなさん、小技に反応してくださいね。そして、全部食べたのでございます。
 すると、おばあちゃんがその時に、お茶を持って来てくれたのです。そして、お茶をその先生に出そうとした瞬間、なぜか不思議なのですが、声を低くしながら泣き始めたのです。泣き始めた時に、宣教師の先生は「おばあちゃんは記憶が定かではないと思っていたんだけど、覚えていたのか」と思って、顔をあげることができなかったのです。
 すると、そのおばあちゃんが言いました。「アメリカ人の方。最近私は歯が悪くて、チョコレートピーナッツのチョコだけ舐めて、置いておいたピーナッツ、食べてくださって、本当にありがとうございます。」と言ったそうです。これ、本当にあった話です。
 この宣教師の先生、「あぁ!おばあちゃんの唾液付きのピーナッツを全部食べた!」と。その時に、やっぱり内側にいらっしゃる聖霊様が教えたんですね。ここでおばあちゃんの徳を高めるために、何かいい言葉はないかな?と思って、「おばあちゃん、美味しかったです」と言ったのです。
 おばあちゃんはこの言葉に心を打たれ、それからバイブルスタディーをして、その半年後にイエス様を信じて救われたのです。アーメン!みなさん、イエス様を信じるって、いろいろな機会やチャンスがあるのです。

 私は、古舘伊知郎って、知ってますか?報道ステーションの。あの人の家の側に住んでいました。私なんか教会に興味も関心もないのに、犬が私に吠えたことがきっかけになり、バイブルスタディーに誘われたのが、最初のきっかけです。
 バイブルスタディーといっても、聖書には興味はありません。でもみなさん、知っていますか?昔、「百万ドルのえくぼ」というテレビコマーシャルに出た人がそこにいて、足の長いものすごい美しいトップモデルだったのです。この人がバイブルスタディーをするからと言われて、それから毎週休まないで教会に行ったのです。非常に動機が不純でしょ。
 でも、動機が不純でも神様に聖められて、ちょっとはマシになって、イエス様を伝える者になったって、神様の奇跡かなぁと思っています。

 また、私の通っていた大学の教授、聖書研究会をやっていて、非常に高尚な聖書の学びをしてくださいました。聖書の釈義をギリシャ語、ヘブル語からして、大学生に教えるのです。最初の新入生歓迎会の時には二十人くらい集まり、半年後には十人くらいになり、五人、最後には一人くらいになってしまうのです。難しくて分からない。
 でも、その一人が救われるのです。なぜ救われたのかというと、不思議なんです。先生が聞いたのです。「兄弟!私のどの聖書の解釈、釈義に感動して、イエス・キリストを信じたのかね?」そうしたら彼は言いました。「先生、ごめんなさい。先生のお話は全然分からなかったんですが、僕が来るたびに、先生が靴をきれいに並べて、スリッパを置いてくれる、その後ろ姿にイエス様を見たんです。」嬉しいような、悲しいような。
 救霊のために、収穫のために、意外と理解ができないようなことを通して主は働いて、救いに導くことを覚えていただきたいのです。アーメンでしょうか?

 みなさんがイエス様を信じるにあたってのきっかけって、いろいろあったと思うのです。そのきっかけを少し思い出してください。あるいは、これからイエス様を信じる人にとっては、すばらしい機会、チャンスだと思うのです。その機会、チャンスを通して救われ、救いをずっとたどりますと、すごいですよ。
 私の場合ですと、自分の師は、山城晴男という先生が導いてくださいました。この山城晴夫とは、この近くの人です。浜松で救われて、浜松の近くに、浜松城があるのですが、浜松城の公園にある教会、今、菊池和雄という先生ですが、そのお父様は菊池竜之介という先生で、この先生を通して救われたのです。菊池竜之介は、昨日話した、弓山喜代馬というアッセンブリーの最初の人によって救われたのです。弓山喜代馬先生は、C・F・ジュルゲンセン先生という先生から救われたのです。彼は、ドイツ系のアメリカ人です。どいつ?ドイツ系アメリカ人です。すなわち、それをずっと辿りますと、ヨーロッパに戻り、最終的にはイエス様の十二弟子に戻り、十二弟子はイエス様にたどり着くのです。

 救いは、今日まで、全世界に広がって、辿ると、必ず、イエス様に行き着きます。辿ったら、変な人に行った!ということはないのです。必ずイエス様に辿り着くのです。
 ということは、私たちはバトンをもらって、このバトンを次の人に渡す、大きな使命があることを信じる人、アーメン言いましょう。みなさんの救いは、自分だけのものではないのです。自分を通して、次々と、世代間にまたがって、成就していきます。さて、聖書に戻りたいと思います。

 さぁ、みなさん、魂の収穫のために、解き明かすといったら大げさですが、ちょっと証詞を含めてのメッセージは、この箇所です。第二列王記を、ちょっとご覧いただきたいと思います。第二列王記四章一節〜七節、

『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

 みなさん、アーメンでしょうか?
 草加バージョンでやっていただいていいですか?「この御言葉があなたの祝福となりますように」と、すっごい満面の笑み、笑顔で、多くの方々に挨拶していただきたいと思います。「この御言葉があなたの祝福となりますように!」と、ちょっとだけお時間いただきたいと思います。お願いします。
 「この御言葉があなたの祝福となりますように!」アーメン!みなさんの笑顔、素敵ですね。子どもたちも、少し眠りかけている顔なんですが、笑顔でにこにこしている顔を見ると、本当に嬉しくなります。ハレルヤ!
 小さなお友達から、私の人生の先輩の方々まで、いっぱいですね。すごいですね。ゆりかごからなんとかまでくらいの、勢いで、この教会は成長しています。
 日本全国、諸教会、いろいろ回らせていただいたのですが、こんなに年齢層の広い教会って、そう多くないと思います。だいたい大きな教会は、若い人が中心だったり、年配の人たちがいるような教会が多いのですが、この教会は、あらゆる年齢層がいることを、主に感謝したいと思います。

 さて、愛するみなさん、魂の収穫のために、第二列王記から、エリシャについて少し学びたいと思っています。エリシャという人物は、誰の弟子だったかって、ご存じだと思います。エリヤの弟子です。エリヤは、今回のテーマのように、火が非常に関係しています。あのバアルの預言者、アシュラの預言者たちと戦った時、四百人プラス四百五十人、八百五十人対一。その時に、火がくだって、彼は勝利したのです。
 さらに、『火の戦車を見るならば、あなたは、あなたの願い通りになる』と言われたのです。執拗なまでに求めて、求めて、求めたのがエリシャです。
 みなさん、ご存じのように、もう少し前をご覧いただきますと、第二列王記の二章あたりに、ギルガルから始まって、ベテル、エリコ、ヨルダンにいたるまで、同じ言葉が使われています。「わたしは決してあなたから離れない。」執拗なまでに、飢え乾いて求めたのです。
 愛するみなさん、聖書全体、一貫しているのは、祝福される人と、そうでない人の違いは、主ご自身に飢え乾いた人を神は祝福します。「命がけで私に近づく者はいないのか?」と言われるのが神様です。
 愛するみなさん、いかがでしょうか。こんなに祝福されて、こんなに整えられた教会になりますと、この教会は違うとは思いますが、少しゆっくり、まったり、しがちなのです。自分が何もしなくたって、教会は維持、安定しているし、たとえ自分が伝道しなくたって、誰かが伝道するので、救われるし、洗礼式はある。自分は教会に属して、それなりの祝福を受けます。
 私の教会も、そういった時期を通りました。けれども私は大きくチャレンジしました。チャレンジして、チャレンジして、チャレンジした時に、だんだんと心がもう一度原点に戻って、「あの時の、あの頃の、私に戻りたい!」と、飢え乾いて、祈りに専心したり、断食をしたり、徹夜祈祷をしたり、飢え乾いて飢え乾いて、「神様!主の火がくだったあのリバイバルを体験したいです!」と、あの頃の人たちはみんな思うのです。

 愛するみなさん、いかがでしょう。この教会は一九九二年にリバイバルが起きた。その頃からいた方はどのくらいいらっしゃいますか?結構多いですよね。みなさん、覚えていらっしゃるのではないでしょうか?
 私たちの教会でもリバイバルが起きた時に大変でした。その事は昨日もちょっと話しましたが、私は燃える芝の前のモーセのような体験をしました。私の体は残っているのに、霊は引き上げられて、将来に渡るところの主のビジョンを見せていただいた話をしました。
 そればかりではありません。救われる人たちがどんどん押し寄せてまいりました。その押し寄せて来る方々の中に、求道者、まだ未信者。未来、信じる方。未信者。こだわります。未信者の方々が来られて、すごい体験をしました。
 祈ると倒れる。イエス様をまだ信じていない方も倒れる。倒れた方から、なんか不思議な風が吹いて来る。扇風機もないのに、その人の体から風が、ぴゅしゅーっと、その風に打たれた人は倒れる。みなさん、大丈夫ですか?こういう話。大丈夫ですか?リバイバルの特異な、特別な現象だと思いますが、そんな事が起こりました。

 ある兄弟は左官屋さんでした。ビルの十階くらいのマンションを建てる時、やぐらを組んで、五階の所で左官屋さんなので、壁をやっていたのです。しかし足を滑らせて、落ちました。落ちたのにも関わらず、彼は無傷で、何のけがもしなかった時に、教会に駆け込んできました。
 「先生!すごい事が起こりました!僕は今、五階から落ちたのに、白い衣を着た方にふわ〜っと地面にゆっくり落とされて、何も傷がないんです!」みなさん、大丈夫ですか?大丈夫ですか?リバイバルって、そういう、しるしと不思議が行われるのです!

 ある時には祈っていると、誰も酒気を帯びていないのにも関わらず、なんか不思議です。うちの教会は赤いカーペットにしているのは、その理由なのですが、ワインの香りが漂ってくるのです。ワインの香りがふわ〜っと香り、香りを吸って、そのまま倒れて酔っ払うのです。ワイン飲んでないのに!
 いずれにしても、私たちはリバイバルを体験しちゃったんです。一九九八年三月二十九日です。それがどういう年かというと、実はリバイバルはこの教会から学んだのです。当時、「カイロス」という雑誌が出ていました。このカイロスの中に、明確に記されていたことは何かというと、一九九八年三月二十九日はどういう日か、知っていますか。
 一九四八年に、イスラエルが建国されました。それから七×七+一。五十年目。つまり、ジュビリーの年。ヨベルの年と呼べる、ヨベルの年。この日、九八年、五十年目の一月元旦が、ユダヤ暦。三月二十九日、今の私たちの暦。その日!
 いいですか?もう一度言います。ジュビリーの年の一月元旦、一九九八年三月二十九日に、私たちの教会にリバイバルが起きたのです!
 この教会と同じように、リバイバル教会とその日から呼ぶようになりました。天の窓が開かれ、もうここでは話すことができないような、もう話しちゃった、ある程度しか話すことができないような事柄が、たくさん起きたのです!
 イエス様を信じる人たちが、どんどん押し寄せて参りました。イエス様のために自分の人生を捧げる献身者が続出しました。教会に神学校ができました。教会の建物が拡大してまいりました。アウトリーチで教会がどんどん伝道に出て行きました。ですから、今、私たちの教会には、四十二の教会があります。地域、あらゆる地方に教会を建てることができるようになったのは、リバイバルが起きたからです。

 みなさん、リバイバルが起きるとおもしろいのです。この教会もそうだったかもしれませんが、世界の神の器と呼ばれる人たちや、とりなし手たちが集まってきました。本当に不思議でした。オーストラリアで有名なヒルソングチャーチって、知っていますよね?あのヒルソングチャーチのインターセッサーの人がお祈りをしていたら、「日本の草加、ライスクラッカーの街に行け!」という声を聞いて、来たのです!
 その人は実は、今の、ブライアン・ヒューストンの前の、お父さん、フランク・ヒューストンの時代に、ずっと草創期から、インターセッサー、とりなしの祈りをしてきた人です。その人が主の御声を聞いて、うちに来ました。それだけではありません。
 その人と同行してきたのは、誰かというと、シンガポールの、当時の経団連の会長を連れて来ました。経団連の会長は、大企業のものすごい代表取締役で、シンガポールでものすごい有名な人です。埼玉県の煎餅の街、草加に、わざわざご夫妻で来ました。何しに来たかというと、家内が前もって、聖書から神のメッセージをいただいていました。それは何か?「海の富が来るから備えなさい」という言葉でした。「海の富が来るから備えなさい。」なんだろう?家内はずっと祈っていた時に、海の富が、シンガポールの経団連の会長からもたらされました。すごいなぁと思います。

 彼は、私たちを、生まれて初めてファーストクラスでイスラエル旅行に招待しました。ニュークリエイションという教会のイスラエルツアーに無料で、ファーストクラスで行くことができました。そればかりではありません。私たち夫婦は、しばらくの間、最高級のもてなしを受けました。その後、私たちの教会のスタッフたちが十五人、ヒルソングカンファレンスに無料で行きました。みなさん、いい話だと思いません?リバイバルが起きるとすごいですよね。海の富が来たのです。
 そればかりではありません。彼は、日本のリバイバルのために、魂の救霊のために、いくらでもお金を出すから、好きなことをやりなさい!そういう人、どうですか?新城教会にもいらっしゃるかもしれませんが、さらに必要だと思う人、アーメンを言いましょう。アーメン!なんか先生が一番大きな声ですね!
 福音のためにはどうしても経済も必要です。ゆえにその人たちは、経済をもって、私たちを祝福してくださいました。丸五年間、必要な経費を全部負担してくれました。ですから一教会で、日野原先生を呼んだり、レーナ・マリアさんを呼んだり、数千人を一教会で集める集会をすることができたのも、彼らの海の富です。リバイバルが起きると、すごいのです。理解を超えた事が起こるのです。飢え乾いた人、アーメンを言いましょう!

 もうまったりとした漫然とした状況の中で幸せな中で、これでいいなというクリスチャンライフを過ごしておられる方、もちろんそれでもよろしいですが、さらに一歩、さらに一ページをめくる時に、神様のこの教会に対するご計画が成就します。そうでないと、天に帰った時に、もう一生というよりも、永遠に後悔が残るでしょう。「あなたがもし祈って求めていたら、こんなものをわたしは用意していたのに。残念だったね…」と言われないように、みなさん!「あなたが求めたら、わたしはこんなにすばらしい人々を、あなたと親しい仲間にしたのに…残念だったね…」と言われないように、私たちが求めるならば、主は与える方です。
 求めよ、さらば与えられるのです!叩けば、開かれる!探しなさい、そうすれば、見つかります!アーメン!

 今日、昨日の夜よりも人数が多いわりに、アーメンが小さいと思います。大きなアーメンを言う人は、申賢均先生がよく言ったように、大きな祝福があります!アーメン!それなりの祝福を受けたい方は、それなりのアーメンを言ってください。余計ですが。
 私はそのような、リバイバルが起きる時にものすごい業が起きて、イエス様を信じる人たちが起きたことを今でも忘れることができません。リバイバルの話ばかりしていると、終わらなくなってしまいますので、聖書に戻ります。

 愛するみなさん、リバイバルが起きる前に、私たちが何をするべきかが、ここに明確に書かれています。それは何かというと、このエリシャと、預言者のともがらの妻の家族とのやり取りに注目していただきたいのです。この女性は、非常に深刻な状況の中にあったと思われます。聖書の記事をご覧いただきたいと思います。

 『預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。』

 ただ普通に言ったのではないのです。叫んで言ったのです。第二列王記四章一節を見ると、『預言者のともがらの妻のひとり』という代名詞というか、形容詞がついているのって、すごくないですか?そして、『あなたのしもべである私の夫』と、ここも形容詞がついているのです。たぶん意味深。何か彼女の内側を少し吐露するような、含みがあるように読めてなりません。普通ならば、「預言者の夫が」、あるいは、『預言者のともがらの妻のひとり』ですから、自分の夫も預言者学校に行っていたと思われます。ですから、「その夫が」と言えばいいのに、わざわざ、『預言者のともがらの妻』と書いてあるのです。
 そればかりではなくて、『あなたのしもべである私の夫』とあります。「夫」と言えばいいのに、わざわざ『あなたのしもべである私の』とついているのです。意味があるのです。みなさん。「なんで、こうなったんですか?」と言っているのです。そう読めませんか?あなたのしもべであるのにも関わらず、預言者のともがらの妻にも関わらずです。

 東京あたりでやる時は、結構激しくやらないとみんな聞かないんです。関西の場合は、おもしろく話さないと聞かないんです。関西の人たちがいると、おもしろいですよ。バーンっとやると、痛てぇ〜!とやってくれるのです。そしてボーリングみたいにびゅーっとやると、ひゅ〜っとみんな飛んでくれるのです。本当に関西って楽しい所です。そして、私の前の司会者がぼけてつっこむのです。ダジャレが本当に新鮮に聞こえるようで、ダジャレでも相当ウケるのです。ダジャレでおしゃれでしょ?とかいうと、ひゅ〜!とか言って、おもしろいんです。みなさんはどうでしょうか?この辺は中間地点ですので、いろいろなジョークがあると思いますけど。

 『預言者のともがらの妻』、すごくないですか?また、『あなたのしもべである私の夫』長くない?意味があるのです。すなわち、この女性は、ありえない、想像・想定外のことが起きたのです。夫が死んじゃったのです。ダジャレあまり言わないほうがいいんですが、おっと!おっと!いや、やめよ。そういう状況なのです。
 それだけじゃない。夫が死んだら、自分の生活の必要経費がまかなえないでしょ。ですから、借金をしていたのでしょうか。自分の息子さえ、奴隷に売らなければならないほど、非常に深刻な状況です。

 愛するみなさん、いかがですか。みなさんの周りに、深刻な、人生に疲れ果て、この社会の中でもみくしゃにされて、もうとことん落ち込んでへこんでいる人たちって、近くにいません?だいたい、そういう人を見ると、普通、一般的には、距離をおいて、当たらず触らず、少しほとぼりが冷めるまで、少し距離を置こう。向こうからメールや電話がきたら、すぐに返すのはやめよう。そういう心境ってありません?ここが私たちの大きなポイントです。

 エリシャは、そういう深刻な状況の人を見た時、彼の取った態度行為は、実に私たちが学ぶべきことだと思います。最も深刻な人の目の前に、わざわざガチで向き合うのです。ガチで向き合って、一時の瞬間的な必要に答えるというような、下世話な御利益的なことを、彼はしないのです。彼がしようとしている事は、御利益を超えた、超御利益。御利益じゃないのです。”超”御利益なのです。御利益を超えちゃっている!すなわち、一時の刹那的な必要を満たすのではなくて、この人の根本的な問題の発露である本質的な原因に触れて、根本的にその人を造り替える、変革する、神ご自身に介入していただいて、完全な変革をもたらそうとするのが神の器なのです。アーメンですか?
 こんなに元気よく、力強くやっているのは、みなさん、是非とも一つでもあなたの心に残るように、「主よ!助けてください!」という思いでやっているんですね。アーメン!

 みなさん、この御利益を超えた超御利益は何かというと、質問に出てまいります。すごくないですか?「何をしてあげようか?」なんていう、とぼけた言い方。とぼけたじゃないのですが、神様の介入を待ち望むかのように、神様はいつも、ソロモンの時もそうですが、「何が願いか?」と聞きます。するとソロモンは、神の御心にかなう願いをしたのです。ゆえに、あんなに知恵まで与えられ、求めていない財まで豊かに与えられました。
 同じようにエリシャも、「何をしてあげようか?」と言ったのです。その時に、「あなたの家にはどんなものがあるか言いなさい」と、彼女の持っている物に注目します。第一番目のポイントを見てください。まだ第一番目のポイントかって、大丈夫です。すぐ終わりますから。

 第一番目のポイントは、「①主はあなたの持っているものに注目!!」
 私たちと無関係な、何の関わりもないもの、自分が慣れていない、自分にとってふさわしくないものをもって祝福しようとはしない。あのダビデが、サウル王の鎧を必要としなかったように、神様の注目ポイントは、あなたに与えられている、あなたの持っているものに注目しているのです。
 愛するみなさん、いかがですか。持っているのに、この女は何と言ったかというと、エリシャは彼女に言った。『何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。』と言った時に、次、ちょっとご覧ください。『彼女は答えた。「はしための家には何もありません。』「何もありましぇん!」と言ったのです。
何もありませんと言ったのは、よく考えたら嘘でしょ。嘘つきです。何もないんだったら、全部ないんです。何もないのです。
 なのにその後、ちょっと思い出したかのように、『ただ、油のつぼ一つしかありません。』と言ったんですよ。どうですか、みなさん。「油のつぼ一つしかありましぇん」と言ったのです。最初の言葉、なんなの、あれ?「はしための家には何もありましぇん!」と言ったのに、思い出したかのように、「油のつぼ一つしかありましぇん」と言ったのです。
 これが、私たちによくありがちなのです。祝福を失う大きなポイントです。神様はあなたに持っているものに注目し、それを通して、祝福したいと願っているのに、私たちの頭は「何もない!」と思っている。全面否定。すなわち、持っているものを思い出したかのように、それも、「油のつぼ一つしか」ですよ。「しか」ですよ。「しか」!!みなさん、「しか」と言ってくださいますか。一、二の三、はい!「しか!」「しか」ですよ!

 私は田原米子さんの講演会に行ったことがあります。

田原米子.jpg

みなさん、ご存じだと思いますが、もう天に召されましたが、彼女は小田急線だったと思いますが、自殺未遂をした。手も足も全部なくなってしまって、ただ、指が三本が残りました。しかし講演会の中で、彼女が言うことはいつもこうでした。「私には指が三本もあります」って言ったのです。「三本も」と。
 みなさん、普通だったら、あと残りの手七本と、足十本だから、十七本ないから、「三本しか」と言ってもいいのに、彼女の人生は聖書的に「三本もある」と言ったのです。ゆえにどうなったでしょうか?彼女はこの三本の指で、すべての普通の人ができる仕事や働きや価値や、自分のすべてをまかなうことができたのです。「三本も」という信仰は、「三本しか」という不信仰と、大きな差になるのです。
 愛するみなさん、この女性も、まず、全面否定し、なおかつ、「つぼ一つしかありません。」

 私は韓国の大教会の牧師先生がメッセージをしている時に、聞いたことがあるのです。その時、感動しました。でも最初は、えっ?って頷けなかった。「私たちの教会は今まで一生懸命伝道して来た。しかし、神は私たちに七十五万人しか与えていない。みなさん真剣に祈りましょう!」と言った時に、私は「も」でしょ?と思いました。みなさん、どうですか?七十五万人「も」神様が与えてくださったことに感謝すべきなのに、「しか」と言いました。
 でも、その先生の、もっと深い意味は、「私たちの韓国は、人口のまだ七十パーセント、六十パーセントはクリスチャンじゃない!私たちはもっと福音を伝えなければならない。私たちは七十五万人しか救いに導いていない!」これは良い意味での「しか」です。この先生はこうやって悔い改めに導きました。

 改めて私たちは、この「しか」と「も」の使い方に、非常に注意しなければなりません。この女性は、誤った否定的な「しか」という言葉を使ってしまったために、大変な状況になりました。
 第一番目のポイントは、「①ー1:過小評価していませんか?」ということです。愛するみなさん、あなたの中に、すばらしい神様の隠された、良きものがあるにも関わらず、それを過小評価して、大したものではない、こんなの人に見せられない、こんなの人に何も覚えられていないと思うようなものってありませんか?あなたの内側にある神様からの良きもの、賜物であったり、あるいは人間関係であったり、あなたに与えられた、私には理解できない様々なものがあるはずなのに、それをあなたご自身が「しか」と思っている。あるいは全面否定しているものはないでしょうか。

 私は今、若い青年たちに、このチャレンジをしています。あなたに神様が託したすばらしいものを見つけなさい。その賜物と召しに従う時に、神はダビデのように栄光を現してくださる!という時に、彼らに目が開かれて、自分が過小評価していたあのことが、こんなにも神の手にかかるとすばらしいものになるんだ!と、ものすごく今変えられています。
 愛するみなさん、新城教会のみなさんも、もしかしたらまだ自分の持っているものが全面否定されていたり、あるいは「しか」と思うようなものがあったら、今日、この二〇一四年十月五日、新しい一ページを踏み出すために、あなたも決意決断していただきたいのです。「神様、ありがとうございます!過小評価していたことを赦してください!」神の手にかかるならば、すばらしいことが起こることを信じます!アーメン!そういう選択をしていただきたいのです。

 さらにこの女性は、その時に、エリシャのチャレンジに見事に自分の弱さの内側を吐露しました。すると、この後、エリシャは、四章三節のところ、

『すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家に入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。』

と言います。一時の刹那的な彼女たちに必要なものを与えるのではなくて、彼女が持っている油のつぼに注目し、油のつぼである油を入れるための器を持って来なさいというチャレンジ。ここに見事な、神の絶妙な摂理的な介入があるのです。「油を入れる器をあなたは持っていないかもしれないけど、借りて来なさい!」もう、なりふり構わず、プライドを捨てて、そのために真剣に隣に行って借りて来なさいと、みなさん、隣近所って嫌じゃないですか。ましてや、預言者のともがらですよ。まして、主に従ったしもべなのに、自分の夫は死に、息子たちは奴隷に売り飛ばそうとされている、そんな状況の中で、頭を下げて、「器を貸してください」と言うのは、相当チャレンジです。自分との戦いです。自分のプライドとの本当の戦いだと思います。
 でもそれをも越えて、彼女は息子たちに器を借りに行かせるのです。ここに信仰が芽生えたかと思われます。

 すると、第二列王記四章五節を見てください。

『そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。』

 これは神様の、特別な隠れた部屋で行われる、秘技といいますか、介入による何か神様の特別な祝福なのです。隠れた所にいらっしゃる方が、どんどん油をその借りて来た器についでいくのです。そして、器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」
 みなさん、今日のテーマは、「器を持って来なさい。」ご一緒しましょう。さんはい!「器を持って来なさい!」アーメン。「火を持って来なさい。」はい!「火を持って来なさい!」そうです。器を持って来、油が注がれ、火を点ける時に、うわーっと燃えるのです。カチカチ山じゃないですけど、ここに火が点いたら、うわーっと、今まで「伝道しろ〜!」とか、「伝道しなさい!」と教育指導されていた人が、「やだよ」と言っていた人たちが、火が点いたら、熱くてしょうがないから、やむなく、いや、伝道の御霊の火が点いたので、うわーっと走っていくように、この子どもたちは、器を持ってきたその器に、油がどんどん注がれるのです。だからお母さんは「もっと器を持ってきなさい!」と、信仰的になっているのです。

 でもね、お母さんの今までの生活、今までの教育、しつけ、子どもたちはちゃんと霊的なDNAを受け止めているのです。子どもたちは何と言ったかというと、もちろん子どもたちが借りに行ったから、その現状、状況は知っているのです。目に見える範囲では。人間的には分かっているので、みなさんね、あんまり否定的な言葉なので、一緒に言うのは止めたいと思いますが、見てください。子どもたちは何と言ったかというと、「もう器はありましぇん」と言ったのです。分かりますか?
 「もう器はありません」と、子どもたちは、お母さんのDNAをちゃんと引き継いで、否定的な言葉をちゃんと言ったのです。だから何が起こったかというと、その次を見てください。すごくないですか。神様って見事だなと思うのです。「もう器はありましぇん」というと、油は止まったのです。
 でも神様はすべての必要を満たす方だから、彼女の家は十分暮らしていけるだけの油は注がれたという、主の恵みとあわれみは豊かなのです。

 でもね、この子どもたちが、もし新城教会の子どもたちだったら、きっと、こういう風に言ったと思います。「器はありません」とは、新城教会の子どもたちは言わない。きっと、こう言うと思います。「きっと器はまだあります」と言ったかもしれません。そうでしょ?この新城市だけじゃなくて、豊橋とか、豊川とか、いろんな所に子どもたちは行って、器を借りてくるんじゃないですか?隣だけじゃなくて、隣町まで行って。「器はありません」じゃなくて、「器はきっとあります!」と、新城教会の子どもたちは言ったと思います。

 でも、草加の子どもたちはどういう風に言うかというと、「主が器を用意してくださいます!」ちょっとずるい?「主が器を用意してくれる!」と、もし言ったら、この話、変わったんじゃないかと思うのです。どういう風に変わったかというと、この油はいくらでもつがれるのです。だって、無尽蔵の豊かさと富を持っている方が注いでいるから、もうこれは、果てしなく、とめどもなく与えられる油なのです。
 求めるだけ与えられ、器があればどんどん与えられるのに、「器がありません」と言った時に止まった。じゃぁ、「主が器を用意してくださるでしょう」と言ったら、主は動かざるを得ないでしょ。「よっしゃ!器よ!飛んでけ!」と、器がどんどん飛んで、そしてまるでアドナイ・イルエの神様ご自身が、すべての器を用意したかのように、器がぼんぼん来て、油がうわーっと注がれて、エリシャのともがら、預言者のともがらのうちだけが祝福されたんじゃなくて、その隣近所まで、みんな油の注ぎによって、豊かにされて、その町が、もっと大きく言うと、国家的な油が注がれて、国全体が、「神様、ハレルヤ!」と言ったと思いません?

 どこに違いがあるのでしょう?「言葉」です。私たちの思いと信仰です。「器はありません」じゃなくて、「器をきっと主は用意してくだいます!」そういうリバイバル教会でしょ、みなさん。ですよね?アーメン!
 私がなんでこんなことを言うかと言いますと、今まで自分の人生の中で、あるいはミニストリーの中で、これってすごく鍵だなと思っています。マイナス的なものを神様は利用、用いて祝福するのです。例えば、みなさんのよくご存じの有賀喜一先生ですとか、奥山実先生と私はロシア宣教の働きに、ちょっとお手伝いというか、「天野先生も一緒に行こう」と言われて、行きました。
 初めてロシアに行った時には、北朝鮮かなと思うくらい、空港も暗くて、由紀さおりさんに会ったことだけが唯一の慰めでした。そうしてですね、街の前には、なんとかつなぎ、あれは仏教用語だから言いませんが、なんとかつなぎでずっと並んでいるのです。そして、「買ってください」「買ってください」と、自分の古い洋服だとか、そういうものを売っているのを見た時に、なんて貧しいんだろう。社会主義が崩壊した直後といってもいいのでしょうけれども、もうひどい状況で、そんな中でみんな、自分たちのアイデンティティとか、自分たちの社会主義というか、共産主義的な価値観が崩壊して、これから何を求めていったらいいんだろうという時の聖会でした。
 ゆえに彼らはものすごい飢え乾いていて、その飢え乾いている働きの中で、私も招かれ伝道大会があったのです。私も一応、一人の講師として、講壇に座っていました。

 ところが、たくさんの証し人がいて、その中の証し人の中心はだいたい元やくざという人なのです。出て来たのは、最初はシシリアンマフィア。二人目は香港マフィアなのです。二人とも共通していることは何かというと、「俺はよ〜、俺は今まで何人殺したんだ。この手でよ〜」と、そういうのです。するとみんな、ロシアの人たちは怖がって、ずっと引いているのが分かるのです。早く変わって私が恵みのメッセージを語りたいなと思っているのに、証しの八十パーセントは、「俺はこうした、ああした。」もうガタイがでかくてスキンヘッドで、背中にはタトゥーを入れて、見るからにそっち系の人だと分かる、そういう容貌なのです。容姿そのものが怖いのにも関わらず、話が怖くて、「俺はよ〜、はははっ!」とか言って、バーンっとやると、関西の人じゃないのに、ロシアの人は逃げていましたよ。それくらい怖いのです。
 でもね、最後は、残りの五分で仕上げるのです。「でもよ〜、こんな俺をよ〜、十字架のキリストが愛してくれてさ〜」と、そういうなんか涙、涙の、そういう話が始まるのです。「おまえたち俺のような者をイエス・キリストは救ってくれたんだから、おまえたちは全然大丈夫だよ。俺くらい罪深い者はいない。でもキリストの罪の赦しと悔い改めによる実は本物だぜ!」と言うのです。すると、あんだけ引いていたロシアの人たちが、だんだん前に出てくるのです。
 そして、「今からよ〜、この中で、イエス・キリストを必要とするなら、前に出て来いよ〜」と言うのです。「今から十数えるからよ!テン!ナイン!エイッ!…スリー!トゥー!ワン!カモンベイビー!」とか言うと、ロシアの数千人の人が、前にうわーっと、そして講壇の前にうわーっと泣いて、悔い改めて、私の出番、結局なくなりました。すごくないですか?

 すなわち、神様はそういうマイナスをプラスに変えて、彼らの過去の恥部と思われる、絶対に人には言えないようなことを、主にあって赦された者として用いて、それを過小評価したり、あるいは自虐的に葬り去りたい、死ぬまで墓場に埋めたいというマイナスさえもプラスにして、神を愛する人々、すなわちそのご計画に従って召された人々のためには、神様はすべてのことを相働いて、益としてくださることを私は知っている。みなさん、アーメン?
 マイナスとマイナスをかけてまで、プラスにしてくださる方が、私たちの主です。だから愛するみなさん、あなたが過小評価しているようなもの、あるいはマイナスとしか受け取れない、いや、全面否定してしまいたいような事でさえも、主の手にかかるなら、プラスに変えられる。

 私の母は、自分の息子を失った時に、自虐的に傷を受けました。でも癒やしを受けて、兄は死んでしまいましたが、一粒の麦が豊かな実を結ぶために母を用いました。たくさん苦しんでいる人、人の慰めや励ましを受けても癒やされがたい人たちの所に私の母が行くと、自分の息子を失った痛みと苦しみは誰よりも分かるので、ただ共鳴、共感するだけではなく、主の御霊によって、その人たちを救いに導いたのが、私の母でした。
 兄を失ってなかったら、あんなに多くの実を結ばなかったのです。改めて、マイナスを主は用いるのです。あなたの過小評価しているものを用います。最後にまとめて終わります。

 では、この二番目のポイントは何かというと、「②からの器を用意することが大切!」であると、申し上げます。そして、「②ー2:根拠の乏しい否定的な言葉を言うべきではない!」ということを、ぜひとも覚えてください。思ったり、感じたとおりに、ぱっと言ってします。「無理!」とか、「駄目!」とか、「えぇ!」とか、そういうふうに反応するあなたはいませんか?
 うちの教会でも最近、それ、いろんな意味で扱っているんです。もう忙しい時に、何か頼むと、すごい顔をして睨みつけられて、「無理です」とか言うのです。「無理なのは分かっている。みんなも無理な状況。でも、無理だけど、神様にあってできる可能性はないかな?」なんて最初は言っていたのです。でも、「ありません!」なんて、そういうんですよ。ひどいですね。
 でも、愛するみなさん、私たちは油注ぎのために祈り、主の栄光のために用いられたい!過小評価しているものをプラスに変えてくださいという信仰をチャレンジし続けたら、最近うちの教会の子たちは、「今までの私だったら無理だったと思います。でも、今は大丈夫です!神様が共にいてくださいますから、できます!」と言うような人たちが、ちらほら出て来ました。アーメン!全部じゃないですよ。改めて、体質を改善していく、これ重要だと思います。

 最後にこれを話して終わります。今から五年前くらいに、私は大変な病気になりました。先生方にもすごく祈っていただいて、リバイバル新聞という新聞にもこのような記事が載って、その後も、順先生が助けてくださって、私たちに霊的解放の祈りをしてくださいました。

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 私は今から五年前にこの病気になりました。余命半年と言われました。まだ四十代でしたが、その時に私は体調が非常に思わしくなくて、疲れが溜まり続け、普通に起きることができないから、これはなんだろうと思って、病院に行ったら、これは大変な病気ですと言って、大学病院に紹介されて、そして精密検査をした時に、年配者がよくなる病気なのに、四十代の私がなりました。多発性骨髄腫と言われました。
 それはいわゆる白血病の一種で、骨髄バンクでそのことをしないと、半年後には死んでしまうし、その治療をしても髪の毛は抜けていくという、よくテレビに出て来るような状況になると言われたのです。私はもう、本当に恐れおののきました。
 昔から私は、「ピンチはチャンスだ!神様はきっと栄光を現してくださるに違いない!」と思っていたのに、自分のからだが悪化しますと、そうたやすく信仰的な発言ができない自分がいました。
 でもみなさん、知ってください。私はこの時に、すごい体験をしたのです。自分の死を宣告された時に、私でも、自分が生きるという生に対して、めちゃくちゃ執着心があることを覚えたのです。
 みなさんどうですか?余命何か月とか言われた時に、「はい!分かりました!もうイエス様を信じて、復活の希望があります!」「分かりました!半年後に天に召されること、ハレルヤ!感謝します!」って、そのままお祈りされないで、天に召されて行く方、どれくらいおられますか?これは、そうとう悟っている方だと思います。

 私の場合は、確かに天に召される約束はあるけど、自分にはもう一つのビジョンがあるのです。その絵を見ていただいてもいいですか?

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 WRCというビジョンが神様によって与えられました。このために是非みなさんにもお祈りいただきたいので、貴重な時間、ちょっとだけ使わせていただきたいのですが、どういうことかというと、この建物の土地が、隣に、ものすごくあるのです。
 その写真の中に、パチンコ屋さんがあるのです。で、このパチンコ屋さんは、いわゆる北朝鮮系のお店で、どんどんお客さんが来ている。

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 これは私の家から見ているのですが、私は祈ったらくじ引きでこれを当てまして、すごいんです。三十階建てのビルが駅前に出来まして、

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「神様、ここを絶対にください!もしここを与えられたら、日本の関東一円をずっと毎日祈ります」と約束して祈ったら、その日、くじ引きがありまして、私が願ったその場所は四百六十九倍でした。だから無理だなと思って、ロットを引いたら、一という数字が出て、「カランコロン、カランコロン、大当たり!」と言われて、「一」という意味は、一番最初にこのマンションの部屋を選ぶ権利を得たのです。すごくないですか?

 その場所から見ているのですが、向こうの赤い建物があるんですが、今、あれはないんです。約千坪あって、その後ろの白い建物から、後ろの建物、あの七つの建物はうちの教会の建物です。この赤い建物は全部消えたんです。今千坪の土地が実は、空き地になっています。 今、このオーナーさんとやり取りしていて、二年間の猶予をくださっています。みなさん是非とも、私たちの教会に十億与えられるように祈ってください。私たちはもう海の富から、あらゆる世界から、献金によって、この土地が与えられて、建物が、WRCがばーんっと建つことになっていて、WRCというのは、World Revival Centerの略なんです。
 ある人が言いました。「WRCというビジョンは立派だけど、真ん中のRが抜けたら大変なことになる。」そのRとは何かといったら、リバイバルだと。リバイバルが起きなかったら、本当にわずかなWCしか建たないよと、言われて、あぁ!そうか!リバイバルだ!そうか!リバイバルだ!とずっと祈っている、そんな話です。

 そんなことで、さっきの話に戻りますが、私は、そのようなビジョンを神様からいただいたのに、四十代で天に召されたら、このビジョンを私は見ることもなく天に召されるじゃないですか。それも神様の御心なら、しょうがないですけれども、あのモーセのように、カナンを見ながらネボ山で死んじゃったのと似てて、私はモーセと全然違いますけれども、なんか残念だなって、私の内側があんまりにも悔しくて、霊的憤りと言ったら、語弊があるかもしれませんが、あまりにも悔しくて、すごい枕を叩いて祈りました。「もー!!!本当に神様!なんでこんな、年取った人しかならない病気に私をしたんですか!」とか、もう私の全部内側の思っていること、感じていることをはき出しました。
 みなさん、時々、そういうのをやったほうがいいと思いますよ。神様は、ゴミ箱のように私たちの祈りを聞いてくださる時があると思います。私は徹底的に祈って、すっごい祈って祈って、祈りました。枕も二つくらい潰しました。
 そして、本当に心の中にあるものというか、思いや感情をすべて出すと、少し平安が来ます。でも、ちょっと反省があるのです。「ちょっと言い過ぎたかな」とかね、「ちょっと感情的になりすぎて、もう少し理性的に、節度をもって、神の前に真摯に祈れば良かったな」とか、いろんな事を思いました。
 そして、「神様、本当にごめんなさい。こんなに弱くて、こんなにだらしない私を赦してください。」と言ったら、ようやく悔い改めたら、主の臨在が来るのです。私のベッドの上に、ものすごい濃厚な臨在がぶわーっと、もうなんとも言えない、不思議な天国が下りてきたような感じになったのです。そうしたら、主の細き御声がぶわーっと響くのです。「あなたの願いは何か?」と。聖書に書かれているようなことが言われるじゃないですか!その時にまた私の感情は腹立たしくなって、「そんなの知ってるじゃないですか!」と、本当に私はこんな者なのです。思っている事をすぐ言っちゃって、時々傷つけちゃうという性格が、家内によってだいぶ整えられてきましたが。
 そして、「神様、あなたは知ってるじゃないですか!僕は四十代であの多発性骨髄腫なんてなりたくもなかったのに、あなたがそれを許して、そしておじいさんのように私を死なせるなんて、うぅっ!うぅっ!」と、すごく泣きました。
 すると、神様は、しばらくずっと黙っているのです。そして私も少し感情がおさまって、「ごめんなさい。またやってしまいました。」と言ったら、また臨在が来るのです。
 そして、「何をして欲しいのか?」と、また聞かれるから、「神様、私の唯一の願いは、このリバイバルミッションと全く同じなのです。日本にリバイバルが来ることです。魂が救われることです。一億二千六百万人、絶対絶対このままじゃ駄目です!天下にイエス・キリスト以外に救いはない!」って、明先生のあの垂れ幕のように、ずっと祈りました。「神様、この日本を滅ぼさないでください!日本にあわれみを与えてください」と、ずっと祈った時に、「あなたは自分の死に対してあれほど祈った祈りを、この事のために祈っていたか?」と言われた時に、どっひゃーっとしました。すごくないですか。神様って。

 実はこの教会に来るにあたって、神様からの声を聞きました。この教会に対して、主が何と言ったかというと、すごいですよ。私は書き留めたんですが、みなさん、聞きたいですか?アーメン!
 この教会に対しての神様の期待感はマックスですね。何と言ったかというと、書いたものがどっかに行っちゃいましたね。あれ?でも、私は覚えているので大丈夫だと思います。覚えています。
 神様がこの教会に対して言われたことは、「わたしの夢を実現してほしい」と言われたのです。「わたしの夢を叶えてほしい」と言ったのです。この教会に対してです。「わたしの夢」って、なんだか分かりますか?みなさん。一人も魂が滅びることを願わないと言ったのです。「わたしの夢を叶えてほしい。そのために、もっとあなた方の霊性が活性化されるように、わたしは願う」と言われたのです。
 霊性というのは、霊的な祝福と油注ぎがもっと溢れて、「わたしの夢を叶えてくれ」と、この教会に主は言っているのです。

 私はこれを聞いた時に、もう愕然として、神様の言われること、考えていることって、あまりにも次元が違っていて、遙か超越していて、まるであの放蕩息子のお兄さんのように、「私のものは全部おまえのものだ。私はあなたといつも一緒にいるじゃないか」と言われて、どっひゃーっとするような声をかけるのです。
 この教会に対して、「わたしの夢を叶えてくれ」って、個人的にみなさんに言われている主がいらっしゃるとしたら、どうです?みなさん!私たちが救われ、私たちが導かれ、整えられているのは、主の計画、主のビジョンの実現のためにみなさんが生かされているということを受け取ってもいいんじゃないでしょうか。みなさん。そのためには、油注がれなければならない。霊性が引き上げられなければならないと主は言われます。

 私に関しては、「あなたは自分の事に関しては、こんなに命がけで祈るのか…。」と言われた時に、それはそうですよとは言えなかった。「神様!ごめんなさい!私は自分の命のために、こんなに今まで味わったことも、経験したこともないような祈りを捧げました。でも私は…」
 私の頭の中にパッとよぎりました。これを言ったら、絶対主の御手は動くなと思ったのです。確信したんです。私はこれを言うのは覚悟がいったのですが、言いました。「神様、もし私の命を長らえさせてくださったら、今まで自分のために祈った祈りを超えて、魂の救いのために祈ります!」と、言ったんです。聖霊様のお助けをいただいて祈ったのです。
 そうしたらみなさん、すごいです。もう、うわーっと、重圧みたいに私に押し寄せてくるような力が私を塞いでいたのが、シュッと、ものすごく軽くなりました。同じベッドの上で、五分前の自分と、五分後、全然変わって、ハレルヤ!と
 何かが起きたと思って、私は翌日、またその大学の権威のある、専門のお医者さんの所に行って、「先生、すいません!もう一度再検査してください!」と言ったら、もうすごい怪訝な顔をされました。「何を言ってるんだ!早くしないと、治療を始めないと大変になるぞ!」と言いたい顔がよく分かったけど、「本当に申し訳ないですけど、いくらでもお金を、いくらでもじゃない、必要なだけは出しますから、お願いします!」と、頭を下げたら、ふんっという感じで、カルテを回して、再検査したのです。

 再検査して、どうなったか、みなさん、おわかりでしょ?何もなかったらこの話はしなかったの。本当にすごい!すべての数値が正常値に戻ったのです!それから五年も経って、この数値は上がっていない。アーメン!先生方の祈りにもよって、本当に治ったのです。

 愛するみなさん、是非とも覚えてください。「器を持ってきなさい。」器とは、「多くの人々、主の器たちを連れて来なさい」ということでしょう。そして器は、みなさんの家、みなさんの持ち場、立場、みなさんの職場、学校、そこも器でしょう。そこに主は油を注ぎたいと願っておられます。「この器を持って来なさい」と言われる主は、この新城教会の天の窓を開いて、いくらでも無尽蔵に油を注ぐことのできる方なのです。この方から油を受けましょう。そしてみなさんの人生、生活が変えられましょう。みなさんがリバイバルの戦士になりましょう。魂の救霊のために立ち返りましょう。地獄を空にし、天国をいっぱいにしましょう。みなさん、アーメンでしょうか?

 みなさん、どうぞ立ち上がりましょう。祈りの時を持ちましょう。手をあげて祈りましょう。

 天のお父様、ありがとうございます。新城教会をあなたが選んでくださって感謝します。リバイバル教会として、あの一九九二年に、聖霊の火を、炎を与えてくださって、ありがとうございます。その火は、今もなお、この教会に燃えています。今もなお、先生方、兄弟姉妹の内側に燃えています。その燃えている火は、くすぶることなく、燃えて、燃えて、燃えて、燃えて、溢れて、多くの人々に飛び火することを信じます。信じます。信じます。
 どうか器を持ってきなさい。器を持ってきなさい。器を持ってきなさい。あなたの願う、あなたの夢を叶えるために、どうかこの教会に、油を注いでください。力と権威を与えてください。偉大な主の御名が現されますように。お願いします。お願いします。お願いします。

 みなさんの中で、わずかな時間だけかもしれませんが、分かりませんが、油を欲しいです、油注ぎをください!天の窓を開いて、私に油をください!本当に飢え乾いておられる方、あなたを通して多くの器が持って来られて、その人々にさらに主は油を注いで、「器はありません」と言わない、器を用意してくださる、救われる魂を用意してくださる、もっと主は滅びゆく魂をこの教会に連れ来たり、主の霊に満たして、主の計画の通りに、過小評価しているものでさえも用いて、その人しかできない福音宣教が、その人しかできない召しと賜物が成就するようにと願っています。
 愛するみなさん、いかがでしょう。そう願う方、そう祈りたい方は、どうぞ前のほうに、短い時間ですが、お越しください。そして、先生方も含め、私も手を置いて祈らせていただきたいと思います。みなさんの頭に油が注がれるように、油が注がれるように、油が注がれるようにお祈りしたいと思います。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!
 主に期待しましょう。天の窓が開かれて、主があなたの頭に、足のつま先、かかとに至るまで、油を注いでくださると信じて、祈りたいと思います。祈りたいと思います。祈りましょう。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!主を三回賛美して祈りましょう。主よー!主よー!主よー!