HOME > メッセージバックナンバー > 2014年バックナンバー > 11月 > 11月16日

『左か右か

2014年11月16日 (日)
新城教会牧師 滝元明
箴言19章14節

『家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日はこうして久しぶりに講壇に立てることを感謝します。
 先週私は茨城県の土浦の教会に行きました。開拓教会で、その教会の礼拝は、牧師先生の家族が五人、それから信徒の方が五人ということで、だいたい十人くらいの教会に招かれましたが、とても恵まれまして、三十人から四十人集まって、いい集会を持つことができて感謝します。

 これから聖書をみなさんと一緒に学んで参りますが、今日は今読んでいただいた箇所から、学んでいきたいと思います。

『家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。』

というテーマでお話をします。

 なぜこの話をするかといいますと、十一月二日、これは日曜日ですが、日曜日の夜、今日もここに来ていますが、豊根の熊滝兄弟姉妹から、息子さんが結婚するので、私に結婚の司式をしてくれということで、浜松にアビーラトール教会という教会があります。普通の教会ではなく、結婚式のための教会です。すごく大きいです。イギリスの教会が最近、下火になってきているので、その教会を買って来て、結婚式のための会堂として作ったものです。立派なステンドグラスのあるすばらしい所でした。そこには披露宴をする場所もあります。そこでやってくれということで、本当は長男がいれば長男が行ったと思うのですが、私が頼まれて行きました。
 その結婚式の二日くらい前に、打ち合わせに行きました。そうしたら、教会の結婚式と、向こうは商売でやっていますから、違うのです。係の方がいろいろと説明しました。式の時間は二十分。「メッセージは何分したらいいですか?」と聞くと、「三分」と言うのです。その前に聖書朗読があったり、お祈りしたり、宣誓があったり、誓約書に名前を書かしたり、指輪を交換したりということで、「三分間話してください。」みなさん、三分でメッセージをするのは難しいですよ。私もすごく緊張しました。
 まず最初にベルが鳴ります。そうしたら、「どうぞ、先生、出てください。」それから聖歌隊と、独唱する人も一緒に出ます。講壇の上にあがって、それから「これから式を始めます。」そして、まず新郎入場です。それが終わったら、新婦がお父さんと一緒に入場です。そして、今度は子供が指輪を持って来るので、その指輪を聖歌隊の人に渡してください。いろいろと細かいのです。私もすごく緊張しました。甲子園でメッセージしたけど、甲子園よりも緊張しました。
 三分間で何をメッセージしたらいいかということで、ずいぶん祈りまして、勝君は豊根村の出身ですが、その奥さんは、葵さんという方ですが、その方自身は関東平野、栃木県の鹿沼市の出身です。二人は山梨県の大学で一緒に勉強して、その時に仲良くなって、今度結婚するのですが、鹿沼市の方から二十四人、親戚の人たちがバスに乗って来るし、こちらの方たちもクリスチャンじゃない。私は何を話したらいいかと思って、ずっと祈っていました。
 そこで、与えられたメッセージが今日のメッセージでした。

『家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。』

 なぜこういう話をしたかというと、みなさんもご存知だと思いますが、アブラハムがロトと一緒に羊を飼っていました。たくさんになったら、ある時、アブラハムの人たちと、ロトの家族、ロトは、アブラハムの甥なのですが、争いました。その時に、アブラムがロトに話しました。「俺たちは親戚だ。だから争っちゃいけない。だからひとつ、分かれようじゃないか。」
 そこでアブラハムが提案したことは、「あなたが左を選んだら、私は右に行く。あなたが右を選んだら、私は左に行く。」そう言ったのです。
 ロトは、お父さんは亡くなっていたので、アブラハムと一緒に、行くところも知らずに一緒に付いて行き、一緒に行動していたわけです。そのロトが何をしたかというと、目を上げて見たら、下の方に死海がありますが、死海の側にソドムとゴモラという町がありました。そこは、『主の園のように潤っていた』と書かれていますが、すごくいい、エジプトのようだったと言います。
 その時ロトは、「おじさん!あっち!僕は向こうがいい!」と、選んだわけです。
 考えてみると、ロトは恩知らずです。おじさんからお世話になって、「どちらか選んで」と言われたら、普通だったら、「おじさんがいい方を選んで。僕が後から選ぶよ。」と言うものですが、それを見た時に、「こっち!」と言ったのです。
 そこで、ロトはソドムとゴモラのほうに行って、聖書を見ると、ソドムの近くにテントを張ったと書いてあります。アブラハムが住んだ所は、ベエル•シェバという所に住みました。私もベエル•シェバに行ったことがありますが、案外平ですが、ソドムとゴモラが見える近所は山だったと思います。あまり良い所ではない。それでもアブラハムは、「私はこっちを選ぶ。」と選んだわけです。

 けれども、どちらが祝福されたかというと、神様はアブラハムを祝したのです。ソドムとゴモラは罪がはびこり、聖書を見ると背倫と肉欲の町とあり、天から最後には火が降って滅ぼされてしまった。
 しかし、山のほうを選んだアブラハムは、神様が『あなたの末から地の諸族は皆祝されるんだ』と、すばらしい祝福をいただきました。

 これを見ると、山を選んだ人が祝されたということで、そこで私が話したことは、「豊根村は正直いうと山です」と話しました。今、人口が千二百人しかいない所です。鹿沼は関東平野です。広い所から、わざわざお嫁さんが山に来るとは、奥さんになるのは大した人だと思って、特に、親戚の人たちに「葵さんが豊根に来ることは、すばらしいです。祝福されます。」とメッセージをしました。
 私も自分の家内の事を話しました。私の家内も東京の娘で、山の中に入り、祝されたと話をしました。山の中に入ることは、勇気がいることです。
 私の家内は、案外気性が強いというか、あまり人前で泣いたことがありません。泣き言を言ったことがないのですが、結婚して、東京から津具に入った時に、後から言いました。「驚いたよ。あんなに山の中だとは思わなかった。」というのです。今では道が舗装されていますが、その当時はバスが落ちるかもしれないような、ガタガタ道を行きました。そして、私の家の周りには、家が四軒しかない。
 それから、私の家族も反対して、「東京のばばあに騙された!」と、随分、家内が年だから「ばばあ」と悪口を言いました。
 母親が私にこう言いました。「明。悪いことは言わんけどな。東京の人はとにかく悪賢くて、馬の目も抜いてしまうというぞ。おまえ、東京のばばあに騙されたんだ。目を開け!」というのです。父親も、「馬鹿野郎!東京のばばあに騙されて!」と、ものすごく怒りを持っていました。

 ですから、私の家内が初めて私の両親に会った時に、「はじめまして。清子でございます。」と、挨拶した時に、私の父も母も、じろーっと睨みつけていました。「あぁ、このばばあか。」と。
 そして、住んだ所は、うちの前にしいたけの乾燥場があり、そこに入りました。その時に私の家内は初めて、気を失いました。倒れました。ショックを受けたと思います。
 そして気がついた時に、泣きながら「イエス様、ここから早く連れ出してください」と祈りました。家内が泣いた事をあまり見たことがないけれど、その時は田舎に入ったということで、考えてみると、そこから早く出してくださいって言ったけど、一年半近くその家に住んで、次に八橋に住んで、こちらに来たのです。
 私も家内が山の中に入ってくれたことは、とてもすばらしかったことだと思って感謝しております。

 みなさん私たちの人生にも、左か右か、選択しなければならない時があります。先週は嬉しいことがありました。プレイズ出版の岡本先生が、老人ホームやレストランを作るということで、起工式がありました。恵まれました。すごく寒かったですが、すごく恵まれました。
 考えてみると、私がここに来た時、岡本姉妹が救われて、その時は随分借金もあって、どん底でイエス様を信じ、それからスーパーを始めました。しかし今では、スーパーが六店舗もできて、息子の信弘先生はプレイズ出版の社長として、今度は老人ホームもできる。それはやはり決断があったのです。「イエス様に従って行こう!」と。
 今はあまり迫害がありませんが、あの時分、イエス様に従って行くといった時に、岡本さんのところでは親戚が会議を開きました。「おまえたち、キリストを止めろ!」と、兄弟みんな集まって来たそうです。しかし、どんな事があってもイエス様に従って行きます!イエス様を選んだということですね。

 みなさんも、今日ここに来ていることは、イエス様を信じる選択です。親戚がなんというか、親がなんというか、でも、信じます。信じたということは、ある面で、イエス様を信じるということは、革命みたいです。祝福される道を選択しなければなりません。

 どちらを選ぶかということは、目の前を見て、「こっちがいい!」という、利益的なことではなく、神様の御心を選ぶことが大切です。

 実は私はこの話をする時に、苦い一つの思い出があります。というのは、私が東京でイエス様を信じて救われて、それから一九五〇年の一月から二ヶ月半、私は穐近という先生の教会でお世話になりました。それからこちらに伝道に来たのですが、家内はすでに献身して働いていたし、大原先生という方と先輩が働いていました。そこで私は二ヶ月半、楽しい時を持たせていただいたのですが、その時に、日本はすごく貧乏でした。それでよくアメリカから、洋服なんかを送ってくださいました。
 あるときミセス穐近が、「兄弟たち、いらっしゃい。背広が送って来たから、一つ取りなさい。」と言いました。そこで私は一番下でしたが、「どうぞ。お取りください」と言った時に、私はさっと、一番いいやつに目を留めました。
 「僕はこれがいい!」と言ったのです。そうしたら、大原先生という方はできていて、「兄弟、着てごらん!」と言われ、着てみました。「いや〜、いいね〜、兄弟。似合うよ!良かったね!」と言ってくださいました。
 私はその途端、悲しくなりました。イエス様を信じて救われているのに、本当だったら私が新米ですから、私から、「みんな選んで!」と言って、それから選ぶべきことを「これ!」といいやつを選んだ。すごく悲しくて、私は外に出て、神様の前に泣きました。「イエス様、こんなに醜い心を持っていることを赦してください。いい洋服を選んだことを赦してください。」
 その時に、「もうこれからは洋服は要りませんから、どうか信仰を与えてください。その汚い心を取り去ってください。」こういう祈りをしたことを、私は今でも忘れることができません。

 私たちの人生の中で、やはり自分中心はいけません。ピリピ人への手紙に、こういう事が書いてあります。ピリピ人への手紙二章三節〜四節、

『何事でも自己中心や虚栄することなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも省みなさい。』

 何事でも、自己中心。やはりイエス様を信じる前は自己中心で、自分が一番中心で、その次に人で神様。しかしクリスチャンになったら、ひっくり返ります。神中心で、人で、自分でなければ幸せになりません。だけど私みたいに自己中心はいけない。何事でも自己中心や虚栄、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
 クリスチャン生活は、人の益を考え、自分よりも人が幸せになることを考えなければいけませんね。ですから、この聖書の御言葉というのは、大変すばらしいと思います。

 聖書を見ると、祝福されるかどうかは、一つは選択があります。今朝も、昨日も読みましたが、ダニエル書を見ると、すばらしい事が書いてありますね。ダニエルは、七十年の間バビロンの捕囚になりました。

 実は、ちょっと話は違いますが、先週、全日本リバイバルミッションの実行委員会がありました。来年はどうしようかという話をしたのですが、みなさん祈ってください。来年は沖縄で集会をすることになりました。何日間やるかといったら、七十日間の集会をすることになりました。七十日です。みなさん、今までで一番長いと思います。七十日の集会をします。東京で四十日をやったり、大阪で四十日をやったりしたことはあるけど、今度は七十日やるのです。なぜかというと、来年は「戦後七十年」ということですから、日本が回復する時になるように行います。
 沖縄に、アメリカが上陸したのが、四月一日に上陸しました。戦争が終わったのは六月二十三日です。だから集会を四、五、六月の三ヶ月の間でやりましょうと決まりました。
 ちょうどバビロン捕囚から七十年で、帰って来て祝されたことも書いてありますから、来年は何としても、リバイバルが起きるようにと考えています。

 また十一月にはインドのナガランドで集会をします。順牧師はインドから帰って来たのですが、来週は報告会をしてくださるそうですから、みなさんも期待してください。

 捕囚になった人たちの中で、ダニエル、それからハナヌヤ、ミシャエル、それからアザルヤという四人の青年のことが書いてあります。ダニエル書というのは、私も調べたら、名前があるのです。ダニエル。
 私の名前は明ですが、なぜ明かというと、私は十一人兄弟の九番目に生まれました。九月二十日で、あんまり大勢だったから、親が「なんて名前をつけるか。まぁ、飽きたから明にしておけ。」と、簡単なことですね。飽きたから明にしておけ。
 だけどみなさん、ダニエルという名前には、「神は裁き主。」こういう意味があるそうです。ハナヌヤというのは、「主は恵み深い。」ミシャエルというのは、「神は比類なく尊い。」それから、アザルヤというのは、「主は生きている。」という意味の名前がついています。

 その時に、バビロンの王の食べる食べ物、飲み物を飲んで、三年間の間、優秀な人たちを訓練して、テストをして合格したら、王様に仕えるということでした。その時、王様の食べる食べ物、飲み物に彼らは抵抗がありました。
 ユダヤ人たちは、旧約聖書を見ると、ひづめが割れて反芻する動物は食べてもいい。反芻していないのは食べてはいけない。旧約時代ですから、彼らは守っていたわけです。例えば、「牛は食べてもいい」とか、「豚は食べてはいけない」とか、いろいろ規定があったわけです。だから、「バビロンの王様の食べる食べ物、豚肉なんか食べたくない」と。
 それからもう一つは、バビロンでは、食べ物を必ず偶像に捧げました。偶像に捧げた物を下ろして食べるという習慣がありました。日本でもありますね。仏様に捧げるとかいろいろあるでしょ。だから、「偶像に捧げた物は汚れているから、自分たちは食べたくない!」こう考えて、飲み物でも、神に捧げた酒が出たりするから、「俺たちは食べたくない!」聖書を見ると、『彼らは心の中で食べたくない!と心に決めた』とあります。

 それから宦官の長の所に行き、「お願いです。私たちは王様の食べる食べ物や、飲み物を飲みたくありませんから、どうぞ野菜と水だけをください」と頼みました。
 すると宦官が、「いや、もし君たちの顔が悪くなったり、痩せてしまったら困る。十日間、テストしてください」と、テストをしたわけです。他の場所では豆だとも書いてありますから、野菜といっても、豆も食べたと思います。十日間経ったら彼らの血色が、他の人よりも良くなっていたそうです。「じゃぁ、よろしい!」ということで、彼らは三年間の間、野菜、水でがんばってどうなったかというと、聖書を見ると、神様が彼らに対して祝福を与え、結論から見ると、他の人よりも十倍の知恵が与えられたと言うのです。
 十倍も違った。彼らは大きな決断だと思います。十倍も知恵が与えられ、バビロンのトップの位についたわけです。
 私たちの人生も、やはり、考えなければなりません。

 先週の日曜日、私は、二回メッセージをしました。一つはどんなメッセージをしたかというと、「こんな大きなご利益はどこにもない」というメッセージをしました。それは私が甲子園ミッションの時に書いた本からです。
 なぜかというと、この九月にアメリカに行ったときに、アメリカでゴスペル•ベンチャーズチャーチという、日本人が集まる教会に説教に行きました。そうしたら、そこに一人のご婦人がいて、その方はその教会で今奉仕をしている方でした。その方が、「滝元先生!先生に会えて嬉しいです!」何が嬉しいかというと、「先生に二十年ほど前、私は埼玉県でお会いしたんです。」と言うのです。「埼玉のどこ?」と聞くと、寄居という町に私が集会に行った時、その教会の会員だったというのです。
 「その時に私は会社に勤めていたので、会社の社長や友達をいっぱい誘った。」と言うのです。その時のメッセージが、「こんな大きなご利益はどこにもない」というメッセージだったそうで、それを聞いて、ある会社の社長が決心したというのです。特に何を語ったかというと、偶像は絶対に拝んでいけない!偶像を拝んだら三代、四代の呪いがある。偶像から離れたら、千代に至る祝福がある。イエス様を信じたら永遠のいのちを持つ、という祝福の話を私はしました。
 そうしたら社長は、「よし!俺は信じる!」と、キリストを信じたそうです。次の日に会社にあった神棚や札など、全部取って焼いてしまって、自分の家にあった仏壇も焼いてしまって、クリスチャンになったそうです。「今、クリスチャンになったんですよ」と言いました。「良かったな!」と思いました。その話を二十年前にしたので、そのメッセージをしなきゃいけないと思って、「こんな大きなご利益はない」という説教しました。偶像を拝んではいけない!イエス様を信じたら千代に至る祝福を与える!
 という話をしたら、一人の奥さんが来て、こう言いました。「先生、今日の話、とても良かったです。だけどね、先生、私は関西の出身で、姫路の近くなんだけど、私の主人の家がクリスチャンじゃないので、今度、四十九日ではなくて、百日の年忌があって、そこに行かなければいけないのです。私はクリスチャンで、主人はクリスチャンじゃないけど、私は今までは四十九日なんかに行くと、やっぱり親戚がクリスチャンじゃないので、手を合わせて焼香をして、心の中ではイエス様!と祈っていたんだけど、今日話を聞いて、これは間違いだということがわかりました。今度はしっかりと立ちたいと思います。」と言いました。
 クリスチャン生活には戦いがあるのです。絶対に偶像は拝みません。親戚が何というか。嫁の立場・・・。しかし焼香して手を合わせて、「イエス様」と祈ったら、イエス様が喜ばれるかどうか。どう思いますか?
 私は「しっかりと旗をあげて、クリスチャンだと言いなさい!迫害されても、しっかり立ちなさい!」と励ましました。「はい。今度はしっかり立ちます。」と言われました。

 人生には、大切な時に、いろいろ選択があるのです。私はイエス様を信じて、燃えて燃えて、献身しました。将来は自分の郷里に帰って伝道しよう、と思いました。
 私はそれまで、日本農業研究所という所にいました。ある時のこと、一人の先生がこう言いました。農業経済学のテストがありました。「点数を発表する。」三十人くらいしかいませんでしたが、「大したやつがいる。百点取ったやつがいる。滝元明。」私だったのです。あまり頭の良くない私が、百点取ったのです。その時に、ぽっとなりました。「よし、そうだ。将来は、私は農業経済学の学者になろう。」一番頭のいい人は学者だと聞いていたので、「学者になろう!」それが夢でした。だから農業研究所でいろいろな研究やって、いわゆる農業経営のことを勉強していました。

 しかし、その次の年に救われました。毎晩のように伝道するようになり、「将来は津具に帰って伝道しよう!」と思った時、私の研究室の先生、大学の教授ですが来て、こう言いました。西村光一という先生でしたが、「滝元君。この二年、君の仕事を見ていて、本当にすばらしい能力を持っているとわかった。だから、来年からは研究室に来てくれ。」それは、私の夢です。一番いい話でした。
 しかし私はもうすでに、伝道者になりたいと思っていましたので、先生に断りました。「先生。ありがとうございます。しかし僕はクリスチャンになり、これからキリスト教の伝道をしたいと思います。将来は、自分の村に帰って伝道したいと思いますから、せっかくいいお話ですが、お断りします。」
 これは人生の境です。どちらか。親から見れば、研究室に入って、将来学者になると言ったら、すごく喜ばれるところです。しかし、家に帰ったら、「気が狂った。馬鹿野郎!」とやられることは確実です。
 その時、西村先生という方はいい方で、「そうですか。それはすばらしいです。私は戦争中、中国に行ったけど、中国に宣教師が大勢来ていて、宣教師が農業を教えながら伝道をしていたから、滝元君も農業を教えながら伝道してください。」と言われました。これは選択です。

 時々、人生で大切な時、右か左かという時があるのです。
 先週、上條実先生のメッセージがありました。帰って来て聞きました。「今日、実先生のメッセージどうだった?」「良かったよ!」すごく良かったそうですね。言葉を回復しなければならないということで、私も早速、印刷したものを読みました。いや〜、今までにない良いメッセージだと思いました。良いメッセージをしてくれると、やっぱり、説教というのは難しいと思います。今度は俺がしなきゃいけないけど、何をしなきゃいけないかということです。
 その前の四元先生も、すごい事を語っていたでしょ。難しいことを、よくもあんなに覚えたなと思いました。いや〜、すごい!新城教会はメッセンジャーに恵まれています。
 上條先生が、紀元二千六百年には日本でお祝いがあった。その時に何をしたかというと、キリスト教会のクリスチャンたちが、青山学院に二万人集まって、宮城遥拝をしたり、国歌を歌って、最後には明治神宮に行ったりして、みんな偶像に頭を下げた。偶像に頭を下げたことを悔い改めなければいけない!というメッセージだったです。私も関心したんですが、その時に私は「あぁ、そうか。本当に日本は罪を犯した。」

 私もちょうどその時、小学校六年生だと思いますが、二千六百年、お祝いがありました。今でも忘れることができません。その時はなぜ、そんなお祝いするかわかりませんでした。
 なぜそういう問題が起きたかというと、「天皇現人神。」生きている神様だということで、天皇を礼拝しなければならない。誰でも、伊勢神宮に必ず拝みに行かなければならないと言ったのです。それまで日本では、伊勢神宮ではなく、日光東照宮を拝ませていたのですが、政治が天皇中心に変わったから、伊勢神宮に代えたのです。それから太平洋戦争に突き進んだわけです。弾圧があったわけです。キリスト教の人たちは弾圧されるのを恐れたわけです。だから妥協したのです。

 しかし聖書を見ると、エリヤがカルメル山において、バアルの偶像をやっつけました。天から火を呼び下すのが本物の神だ!ということで、とにかく真剣に祈った時に火がくだって、バアルの予言者たちを全部殺しました。
 しかし次の日に何があったかというと、王の奥さんが手紙をよこしたわけです。イゼベルという女でした。「あなたの命が明日、あなたの上にあったら、神々が私を幾重にも罰するように。」アハブの奥さんが、アハブはカルメル山に行ったのですが、この奥さんは姦淫の女だったのです。「明日、エリヤの首がついていたら、神々が私を罰するように」と聞いた時に、あれだけ勝利したエリヤは何をしたかというと、逃げたのです。殺されちゃいかんと逃げたのです。
 荒野に逃げて、それからカラスがパンを持って来て養ってくれた事も書いてありますが、彼がこう言っています。
 「神様!私一人だけ、あなたのしもべとして残りました。みんなは偶像を拝んでいます。それなのに今、私の命も取ろうとしています。」エリヤは、「たった一人、私が生ける神を信じている。みんなは偶像を拝んで、今、私の命を取ろうとしています。」
 その時に、神様は何と言ったかというと、エリヤにこう言いました。「わたしはバアルに膝をかがめない者を七千人残しておいた。」
 不思議なことですね。「私一人しか生ける神を信じている人はないですよ!」と言ったら、「いや、七千人、偶像を拝まない人を残しているよ。」と言ったのです。

 戦争中、クリスチャンが全員、神社に頭を下げたのではないのです。戦争中にも、しっかりした人がいたのです。戦後七十年ですが、キリスト教会をリードしたとのは、いろいろな教会がありますが、誰でも知っているのは、本田弘慈先生、安藤仲一先生、羽鳥明先生たちが福音派をずっと引っ張りました。
 本田弘慈先生は、本田クルセード。日本福音クルセードといって、それで一緒に働いたのが有賀喜一先生です。日本中で集会をしました。あの先生だけで、百万人に福音を伝えたというほどの、すごいメッセンジャーでした。
 それから安藤先生。私は尊敬しています。この教会にも来てくださった先生。立派な先生でした。心から尊敬しています。スイスのローザンヌの世界伝道会議だとか、オランダに行った時に一緒で、私より先輩です。二人とももう亡くなりました。私は近くでみていて、「いい先生だったな」と思います。
 戦後、日本を引っ張った先生たち、神に用いられた人たちはどういう人たちかというと、偶像礼拝をしなくて、牢屋に入れられた人たちなのです。日本でも天皇礼拝をしない、偶像を拝まない、そういう人たちは、牢屋にぶち込まれたのです。安藤先生は何年間も、牢屋の中の独房に入れられ、正座したまま聖書を読んで祈っていたと言われました。
 あの方たちは立派な方たちで、だから同盟教団も祝されていると思います。あの先生のゆえだと思います。

 本田弘慈先生、背が小さかったけれども、この教会でもクルセードをやりました。すばらしい先生。私は本田先生の書いた本を読みました。読んだ時に、本田先生は神戸の関西聖書学校を出て、神戸の御影の近所で、路傍伝道をやったりしていた時、警察が調べに来たそうです。「君が神学校の生徒に教えた本やノートをよこせ」と、持って行ったそうです。
 ある時のこと、二階でひざまずいて静かに聖書を読んでお祈りしている時に、下で、大きな声で、「こんにちは!」という声がしたそうです。そうしたら奥さんが来て、「あなた。警察が来ています。」「来たな!」と思ったそうです。そうしたら、「御影警察署の者です。署まで来てもらいたい。」ついに来たな!と思って、警察に連れて行かれた。何のためでしょうか?それから長い間、毎日のように尋問された。みなさん、何が問題か。
 ある時のこと警察が、「君、僕をクリスチャンにするつもりで一つ、話をしてみてくれんか。」と言われ、「神が天と地を創造した。アダムが堕落したことから、救い主イエス•キリストが来たことから、イエス•キリストが来られて、十字架にかかりよみがえられたこと、そのイエスが天に帰られて再び再臨なさる。そして世界を裁かれます。やがてイエス•キリストは再び帰って来ます」と話したそうです。
 そうしたらノートを出して、「君、キリストが再臨される時に、世界を裁くと書いてあるが、その時に、天皇も裁かれるということか。」と言われたそうです。「裁かれます」と答えたそうです。
 「靖国神社が偶像だと言うけれども、靖国神社は偶像じゃないよ。これは皇室の先祖だ。君は靖国神社はどう思うか?」「はい。天皇の先祖が祭ってあるかもしれませんが、あれは偶像です。」
 その時に、「君の思想は危ない。」と言われ、手錠をかけられたそうです。それから毎日のように、日曜は除いて尋問されたそうです。天皇が神かどうか。
 今だったらどうでしょう。「天皇?人間ですよ。」マッカーサーが入った時に、人間宣言をしています。その時分は、天皇がいたら、直立不動で「天皇様!」と返事しなければならないし、「人間で罪人です。」なんて言ったら、すぐに牢屋にぶち込まれるところです。本田先生には戦いがあったのです。
 その時に、奥さんと二人で、御影の山の上に祈りに行ったそうです。お祈りして、「主よ、いつまでこういう事が続くでしょうか。」と祈っていた時に、奥さんがお祈りしました。奥さんはちょうど赤ちゃんがお腹の中にいて、こう祈ったそうです。「神様、私の主人は助かりたいと思っているんです。これが間違いです。主人が死ぬ気になりますように。一粒の麦として死ぬ気になりますように。」こう祈ってくれたというのです。みなさん、普通だったら、ご主人が助かってほしいと思うものですが、「主人が助かりたいと思っているのが間違いです。主人が死ぬ気になりますように。一粒の麦として死ぬ気になりますように。」
 その時に、はっ!と思った。「あぁ、自分は妥協している。わかりました。死にます!ハレルヤ!」と、嬉しくなったそうです。

 次の日、警察署に連れて行かれた時に、刑事に話したそうです。「昨日は家内と一緒に山にあがりまして、私が命が助かりたいと思っていたのが間違いで、死ぬ気で今日は来ました。何でもしてください。死ぬ気で来ました。」その時に刑事がこのように言いました。「いや〜、今日、君の顔は変わっている。優しくなった。」それから、あと二回だけ取り調べを受けただけで、先生は、刑務所に入らなかったと書いてありました。

 その一年の後、ホーリネスの弾圧があり、横浜のホーリネスの先生たちが牢屋の中で死んだりしたのです。日本ですべてのクリスチャンが、戦争中に悪かったのではないのです。悪い人もいた。良い人たちも残した。
 インマヌエルの蔦田先生も、長いこと牢屋に入りました。ですからみなさん、私たちもやはりイエス様を信じて、どんな苦しみがあろうとも、イエス様を信じていく。

 私は旧約聖書の中で、一番感動するのは、アブラハムです。神様が、「あなたの末によって、地の諸族は皆祝される。」とそうおっしゃったけど、「私には子どもがない。私のしもべが跡継ぎになるのでしょうか。」
 「いや、あなたの末から出た子を通して祝福される。」
 それで彼は年をどんどん取って来て、とうとう、奥さんが不信仰になって、「あなた。神様はそう言ったけど、子どもをくれないから、私の女中、ハガルと結婚して子どもを作りなさい。」ということで、結局、ハガルと結婚して、イシュマエルができたわけです。
 しかしそれから神様が現れて、「あなたの末によって地の諸族は皆祝される。」聖書を見ると、神様は約束を果たすために、アブラハムが百歳、奥さんのサラが九十歳。胎が死んだような状態でも身ごもって、生まれたのがイサクです。かわいかったと思います。かわいがって、かわいがって、そうしたらお祝いした時、ちょっとイシュマエルがからかったので、「追い出せ!」ということで、サラが追い出しちゃって、かわいそうなところもあります。
 しかし、愛して愛している時に、神様がこうおっしゃった。アブラハムに向かって、「あなたが愛するイサクを、わたしが示す山に行って燔祭として捧げなさい。」こう言ったのです。みなさん、どうでしょうか。燔祭ということは、神様の前に殺して焼いて捧げることです。全焼の生け贄。「あなたが愛するイサクを捧げなさい。」みなさん、こんなことを言われたらどうでしょうか。「一人子を燔祭として捧げなさい。」
 普通だったらね、「ちょっと待って!神様。あなたは私の息子イサクによって祝福すると言ったでしょう。それを捧げるんですか?全部焼いて捧げるんですか?」文句を言うと思います。しかし、アブラハムは、一言も文句言っていない。「わかりました。」
 明くる日、イサクを連れて、若者と一緒に彼は何日間行ったかといったら、三日間、ずっと旅をして行ったのが、モリヤの山です。この時のイサクは十何歳で、何歳とは書いてありませんが、かなり大きかったのです。彼は薪をしょって、火を片手に持って、お父さんと一緒にあがって行く時に、「お父ちゃん、火と薪があるけど、燔祭の羊がいないけどどうするの?」「山の上にあがったら、神様が備えてくれるよ。」

 みなさん、心境を考えてみてください。三日間ということは、イエス様が亡くなられて三日間黄泉に下ったように本当に暗黒の時間、一緒にイサクを捧げる。山の上にあがって、薪を積んで、イサクを縛った。イサクも従順だと思います。「神様がおまえを捧げろと言ったんだ。」「そう。お父さん。どうぞ、自由にしてください。」言って、縛られたと思います。それから斧を出して、殺そうとした、その瞬間に、天の使いが「アブラハム!待ちなさい!手をつけちゃいけない!殺しちゃいけない!」
 その時に神様がおっしゃったことは、「あなたは一人子さえも惜しまないで、わたしに捧げようとした。だからわたしは自分をさして誓う。必ずあなたを祝福し、恵んであげる。」だから、新約聖書の初めは、『アブラハムの子、ダビデの子、イエス•キリストの系図』とありますが、神様は心を見られたのです。

 みなさん、私たちの人生にとっても、一番愛するものは何か。イエス様を愛することです。選択もあります。みなさん、今日、礼拝に来るにも戦いがあったかもしれませんね。「あぁ、今日は行けないかもしれない。」しかし、みなさん、選択です。神に従うか、人に従うか、どちらを選ぶか。そのことによって祝されますから、私たちも右か左か。今日、私にとっても、あなたにとっても、選択される時があると思いますが、私たちも心からイエス様を信じて、従ってまいりましょう。
 神様は、悪い方ではない。もし神様の御声に聞いたら、神様はすばらしい千代に至る永遠の祝福、また、イエス様が再臨した時には復活することができるし、千年王国には主と共に王となると書いてありますから、イエス様の祝福を心から感謝して、イエス様に従ってまいりましょう。これで私の話は終わります。一言お祈りして、聖餐にあずかります。みなさん、自分に今日語られた事を一緒にお祈りしましょう。


 愛する天のお父様。左か右か。アブラハムは信仰の父と呼ばれていますけど、行くところ知らずして、出て行きました。また、良い所ではない、悪い所を取って、イサクも捧げた。そのことによって、あなたご自身がアブラハムを友と呼びましたけれど、私たちもあなたの御前に喜んで従います。
 今日まで、新城教会を祝してくださいましたけれど、命をかけて、私たちも愛していくことができますように。先輩たちが命をかけたように、私たちも命をかけてイエス様に従うことができるように導いてください。
 聖餐にあずかります。父なる神様が御一人子であるイエス様を十字架の上に、惜しまないで与えて、私のために犠牲となって死んで葬られ、よみがえられました。今日はイエス様、あなたがおっしゃったように、パンを取って「これはわたしのからだである。あなた方のために裂くからだだ」と言われました。また杯を取って、「あなたがたの血である」とおっしゃいました。「わたしの血潮だ」とおっしゃいましたから、イエス様、あなたを愛して従っていくことができるように、弱い人がいたらいやされるように、また主よ、迷っている人がまっすぐになるように、従って参りますから、祝福してください。イエス様の御名によって祝福してお祈りします。アーメン。