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『あなたの隣人を愛しましょう!

2014年12月7日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカ10章25節〜28節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』


 ハレルヤ!おはようございます。こうして、みなさんと共に礼拝が守れますことを、心から感謝しています。今も、聖歌隊のすばらしい「今日まで守られ」という賛美を聴きました。十二月になり、二〇一四年も、今日まで守られてきたことを、心から感謝します。二〇一五年も、御手の中で守られますよう、お隣の方に、「あなたに神の祝福と守りがありますように」と、声をかけてご挨拶いただきたいと思います。どうぞ!

 昨夜遅くに、父から電話がかかってきました。親父から電話があることは、ほとんどありません。しかしけっこう遅くに電話があったので、何かあったのかな、と心配したのですが、東京から電話がありました。「おい!ロンさんのコンサート、すっごく良かったぞ!」と感動して、電話がかかって来ました。昨夜は、関東地方でロンさんと、一行のコンサートがあって出席したそうですが、本当にすばらしかったみたいです。
 是非ともみなさん、来週の日曜日は、新城教会でコンサートがありますから、お越しになっていただきたいと思います。ここにポスターがありますが、今回は、今までとは違った、すばらしいコンサートになると期待しています。

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 今日から新城教会のクリスマス集会がスタートします。怒濤のような十二月のスケジュールが始まるのですが、本日は東京集会のクリスマス会があります。土曜日には、子どもクリスマス会があります。子どもクリスマス会は、毎回、五百人近くの子どもたちが集まります。プレゼントがもらえることもあるのですが、すごいです。どこから湧いて来たのかと思うほど、子どもたちが大勢来ます。
 最初に全員で、「イエス様を信じれば」を大合唱します。

♪イエス様を信じれば天国に行ける
 イエス様を信じないと地獄に行っちゃうよ♪

 この歌を歌うわけです。大合唱です。そうすると、次の週、ちょっと学校で問題になるみたいです。子どもたちが学校で、この歌を大きな声で歌うからです。
 しかし、この歌が本当ならえらい事です。多くの人たちに、真理を伝えなければならないからです。
 今、世界はどこに向かっているのか、たいへん不安です。日本の方向性も、本当に心配されます。これから選挙もありますが、祈らなくちゃいけないと思います。誰かが、世界のすべてを正しく裁いて、善悪の決着をつけてくれないと、世界は行き着くところに行きそうです。それは滅びです。

 クリスマスには、「平和」というテーマがあります。クリスマスの季節になりますと、なにか心の中に喜びが湧いてきます。十二月になると、巷はクリスマスムード一色です。日本は年間に三回、宗教が変わると言われます。十二月二十五日までは、皆、クリスチャンっぽくなるわけです。仏教の家でさえ、クリスマス会をやります。
 教会に来られた方に聞きました。「お宅の宗教なんですか?」『仏教ですよ。でも、クリスマス会はやるんですよ。』「どんなクリスマス会をやるんですか?」と聞いたら、『ケーキを買ってきて、仏壇にあげて、それから下ろして食べる。』と言っていました。わけのわからんことをやっている感じです。

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 クリスマスは、ケーキを食べる会だと勘違いしています。クリスマス会はケーキを食べる会ではないです。

 クリスマスに関して、私は一つの疑問があります。それは何かというと、必ず、このようなクリスマス風景が、様々な所で紹介されるからです。

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 イエス様の誕生会がクリスマスですが、必ず出てくるのが、ベイビージーザスです。弱く小さなイエス様が出てくるからです。
 どうでしょうか。みなさんの誕生会に、生まれた時の写真を持ち出し、「本当にかわいい!」とか言って、毎年、誕生会をやったら、結構、本人は腹が立つと思うのです。誕生会であなたは、「今の俺を見てくれ!、今の私を祝ってくれ」というはずです。
 でもどうでしょうか。イエス様の誕生会となると、途端に、赤ちゃんが出て来るのは、悪魔の策略のように感じます。毎年、クリスマスにイエス様の力がリセットされてしまうのではいけないと思います。今のイエス様を見ないといけないのです。こんな写真がありました。

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 誰かわかりますか。この下の少年は私です。このおばさん、私の母です。今、九十二歳です。人間は、失ってから分かるものです。

 やはりイエス様の誕生会に関しても同じです。
 生まれたばかりのイエス様、それもすばらしいですが、今のイエス様に目を向けなければいけないのです。死を打ち破り、よみがえられたイエス様。後に来られるイエス様に、目をとめるべきです。
 今年の新城教会のクリスマスは、ベイビー・ジーザスに目をとめるのではなく、今も生きておられ、後に来られる主イエス様に、目をとめたいと思います。黙示録の中に、こんな言葉があります。私はこの言葉が大好きです。ヨハネの黙示録一章八節、

『神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」』

 神である主、イエス・キリストです。今いまし、昔いまし、後に来られる方。はじめであり、終わりである方。この方が、私たちの神です。今生きておられる、やがて来られるイエス様を、クリスマスにお迎えしなければいけないと思います。生まれてくださってありがとう!よりも、今生きている主イエス様を礼拝し、やがて来られる主を待ち望むのです。
 クリスチャンにとって最高の栄誉は、生きている間に、イエス様が帰って来られるのを見る事です。それが一番すごいと思います。それは聖書の最大のクライマックスです。私たちが死んでから、主と共に戻ってくるのもいいですが、地上で主の再臨を体験できたら最高です。私たちはその事を願わなければなりません。
 今年のクリスマスは「やがて来られる方」というテーマで、主を待ち望んでいきたいです。その時、いのちが溢れるクリスマスになるのではないかと思います。

今日お読みした聖書箇所は、何度も学んだことがある言葉ですが、これは本当に重要な箇所です。ルカ十章二十五節から二十八節です。一人の律法の専門家が、イエス様がどのくらい聖書に精通しているかを試したかったわけです。
 「先生!何をしたら、永遠のいのちを得ることができるのですか?」と、ひっかけ問題のような、質問を投げかけたわけです。
 実はイエス様の時代は、モーセ五書を基本とする、純粋な旧約聖書の言葉から、かなり遠く離れて来ていた時代でした。宗教家ラビという存在がいまして、神の御言葉にさまざまな解釈を付け加えていました。イエス様もそんな宗教家の一人だろうということで、「何と答えるだろうか」と、律法学者はひっかけ問題を出したのです。回答によっては、つついてやろうというところだったのでしょう。
 だから、イエス様は少しむかついたみたいです。逆に、この専門家に質問を投げかけています。それは重要な問いでもありました。「律法には何と書いてあるか、知っていますか?」と問われた時に、しかし、この律法の専門家は、基本に忠実に、正しく答えました。

「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

 そのように答えました。その時にイエス様は、律法の専門家に言いました。
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 いのち溢れる生活に必要なことは、難しくないのです。たった「二つ」だというのです。それは何かといったら、神を愛する、そして、隣人を愛する。この二つを心がけ、実行したら、いのちを得ることができるのです。
 コインには、裏と表があります。それは切り離すことが出来ません。それと同じです。神を愛することと、隣人を愛することは、決して切り離すことができないのです。
 コインを使う時は毎回、思い出していただきたいと思います。神様を愛することと、隣人を愛することは表裏一体で、切り離すことができないと。毎日私たちが、神である主を心から愛し、隣人を愛することを、心がけなければいけません。

 神様を愛しておられますか?愛しているから、礼拝に集っていると思います。クリスチャンになると不思議です。神様は目に見えませんが、その方に対し、イエス様に対し、愛情が湧いてくるからです。そして信頼感が湧いてくるのです。一度も会ったことのない方ですが、実在されている方として、自分の心を向けることができるようになります。これは救われている証拠です。
 教会に来ても、イエス様のことなんて思い浮かんだこともないといったら、ちょっと問題ですが、教会に来て、なんだか知らないけど、「イエス・キリストに心が向いていくなぁ。」というのは、聖霊の働きであり、救われている証拠です。
 すでに、ここにおられる方々は、皆、主を心から愛しておられる方ばかりだと思います。
 でも、ただ心にかけるだけでなく、『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』とありますから、全力で愛することが重要です。
 やはりクリスチャンになったら、「全力」という言葉を、キーワードにしなければいけないと思います。一度しかない人生ですから、全力で主を愛し、全力で隣人を愛する人生を送りたいものです。
 神を全力で愛するといっても、やはり姿が見えないですから、どういうふうに愛していいのか、分からない所もあります。しかし、神を愛することを補完し、本当の意味で神の愛を理解する為に必要なのが、「隣人を愛する」という行動に含まれているわけです。
 隣人愛を実行すると、神を愛することも分かってくるというのです。

 隣人愛に関しての具体的例を、イエスさまは挙げられました。それが有名な、良きサマリヤ人のたとえ話です。ルカの福音書十章二十九節〜三十七節、

『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 エルサレムからエリコという町に行く街道は、大変険しい道でした。今は舗装されていて、車が通る道路ですが、昔は細い道がくねくねとエリコという町に向かって続いていました。エルサレムからエリコは、千メートル以上の標高差があります。距離は直線距離にして四十キロ足らずです。ということは、本当に険しい山道なのです。ですから、強盗が隠れるのには、恰好の場所で、旅人を、たびたび襲っていたのです。
 実際の情景を見ると、聖書も立体感が出て来るのですが、またイスラエルに行けたらいいと思います。絵を用意しました。

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 強盗が出て来て、旅人を襲った!ということですね。
 これを準備していたら、こんなのがありました。

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「二月十三日、銀行強盗の日」いろんな記念日があるもんですね。二月十三日って、私たちに聖霊が注がれた記念日ですが、一方では銀行強盗記念日なのです。ジェシー・ジェイムスという男が、アメリカで最初に銀行強盗を行って、成功した日らしいです。こんな日、別に記念することはないと思うのですが。
 この頃、いろんな強盗がいますが、元祖強盗はやはりイエス様時代、エルサレムからエリコに下る途中の強盗みたいです。この旅人は強盗から半殺しにあい、倒れていたのですが、そこに他の旅人が近づいて来ました。まずは祭司、レビ人という、宗教家が通りかかったというのです。イエスさまに質問しているのも宗教家でした。彼らは、神を愛するとか、隣人を愛するということを、知識的にはよく知っていたのですが、全く、実行していない人たちでした。知っていても、こっそり通り過ぎてしまったのです。
 けれども、傷ついている人を助けたのは、サマリヤ人でした。それも、ただちょっとだけ助けたのではなく、とことん助けたのです。自分の目的地があったのにも関わらず、倒れていた旅人を抱え、自分のロバに乗せ、宿屋にまで連れて行って、宿代を払って、とことん介抱し、倒れていた人のために、全力を尽くしたのです。

 イエス様は言われました。「この三人の中で、誰が、この旅人の隣人になったのですか?」
 律法学者は答えました。「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えました。彼は「サマリヤ人」とは言いませんでした。イエスさまは「じゃぁ、あなたもその通りにしてください。」と言われたのです。

 私たちも教会で、いろんな知識を得ることができるのですが、やはり実行することが大切です。イエス様時代の律法学者たちは、多くの知識はあったけれど、実行しなかったのです。
 しかしこのサマリヤ人は、異教徒です。サマリヤという地域は、かつてアッシリアという大国が攻め込んで、他民族が住むようになり、イスラエルの十部族と混ざって、以来、何百年も経っていました。隣のユダとは文化や習慣が変わっていました。そこには土着の偶像やアッシリアの神々があり、ゲルジム山という山を聖地とし、偶像を拝んでいた異教徒たちでした。しかし、異教徒であるサマリヤ人が、旅人を助けたのです。

 知識的に神様を知るだけではなく、行動が必要ですよ!と、イエスさまは律法学者に対し、嫌みのように、当てつけのように語られたわけです。このストーリーの中から、私たちは多くのことを学ぶことができます。

 これは、倒れた人を助けたという話でもありますが、同時に、民族問題を扱っている箇所でもあります。
 ユダヤとサマリヤは地理的にくっついており、隣に、サマリヤ人という、他民族が暮らしていたわけです。しかしエルサレムからエリコに下る道は共通の道で、二つの民族の人たちが一緒に使わなければならない道だったのです。そして、そこに強盗が出没していたわけです。
 ユダヤ人がぶっ倒れていたら、サマリヤ人は、ちょっと嬉しかったのです。「あっ!ユダヤ人が倒れている!やった!」という感じです。またサマリヤ人が倒れていたら、ユダヤ人は「あっ!やった!」と、通り過ぎていたわけですね。
 このストーリーで、倒れていたのは多分、ユダヤ人です。ユダヤ人が倒れていたのにも関わらず、同胞である、祭司とか、レビ人は横を通り過ぎたのですから、最悪です。彼らは、教えておきながら、同胞も助けていないわけですから。
 しかし、助けたのが、日頃はトラブっている隣の民族、サマリヤ人が助けてくれたというです。

 私たちも、国際社会の中に住んでいますが、日本人って、「俺たちは単一民族で、特別だ」という、変な誤解があります。これを捨てなければいけません。ナガランドに行きますと、前回もお話ししましたが、日本人と同じ顔の人たちが住んでいます。どうしてかと言うと、遠い昔、その近所に住んでいた人たちが、東に移動し、中国大陸に入り、朝鮮半島に入り、さらに南下して、日本に来て定着したからです。
 しかし、長い時間経つとどうでしょうか。「私はサマリヤ人。」「私はユダヤ人。」「私は日本人。」「私は中国人。」「私は韓国人。」というに、「国々」ができてしまうわけです。けれども聖書は、国を越えて、お互いに愛しあうことが大事ですと、教えているわけです。
 この教会は、感謝なことに、いろんな国の方々が来られています。それは、すばらしいことだと思います。是非、日本人の方々は、枠を取り払い、お互いに兄弟姉妹として、愛し合うことに心がけていただきたいのです。

 実は先週は、二組の結婚式がありました。週報にも、そのことが報告されています。心から感謝をしています。新城教会に長いこと、結婚式がなかったのです。それで、「これは祈らにゃいかんな…」と思いました。それで、今年の秋、この教会で結婚が多く与えられるように祈ろう!と、特別、祈り会を持ちました。
 そして、「どこを、とりなして祈ったらいいんですか?」と、主に祈った時、私の頭の中に来たのが、結婚式場でした。
 この頃、どうでしょう?結婚式って、クリスチャンでなくても、九十パーセント以上が、キリスト教式なんですよね。そして、日本で一番大きな教会って、どこにあるかといいますと、本物の教会ではなく、結婚式場の偽教会です。この地域にある結婚式場を調べたら、二十くらいありました。大小様々です。みんな建物には、十字架がついています。本物の教会かと思うと、そうではないのです。結婚式場は結婚式を、商品として売っているのです。本物の教会ではなく、偽物教会のほうが街では有名になっているのは、まずいなと思ったのです。
 本来、キリスト教式の結婚式は、教会でやることが一番大事です。もちろん結婚式場も、本物の牧師を雇って、結婚式をやっていますが、あの教会が日本で一番大きな教会なのです。偽の教会が一番大きいというのは、問題だなと思って、この近所の結婚式場の全てをとりなして祈りました。本物の教会が一番有名になるようにと祈りました。
 そうしたら、結婚式がこれから増えるかもしれないな、という雰囲気が今、あるわけです。

 昨日も結婚式がありました。昨日は、日本人と中国人のカップルでした。Oさんが、Sさんと結婚されました。
 私はこの結婚式の前に、ご主人になる方を何回か教会に呼んで、お話をし、祈りました。「国を越え、言葉を越えて、一つになることが重要だ」とお話をさせていただきました。
 日本人と中国人を比べると、お互いに様々な特徴があるわけです。今日も中国の方がおられるかもしれませんが、日本人は中国人に対して、何と言うかというと、「中国人は声がでかい!」と言うでしょう。「中国人は本当に声がでかいんだから!」と、言っちゃうわけです。
 でも、それを言ってはいけません。なんで声が大きいか知っていますか?それは、そういう教育を受けているからです。
 逆に日本人は声が小さいのです。私もこの頃、耳がちょっと遠くなって、スタッフ会の時も、スタッフたちがぼそぼそ話すと、何を言っているのか分からない時があります。しかし聞こえない、というのもしゃくなので、聞き返すこともできなくて、そのまま聞き逃す事もあります。しかし中国だと、幼い頃から、「もっと大きい声でしゃべれ!」と、教育を受けるわけです。自分の意志をはっきりと伝えるために、しっかりと声を出す訓練です。日本も軍国主義の時代は、すごく声が大きかったそうですが、だんだん声が小さくなりました。
 日本語は、結論を最後に言えばいいので、結構、都合のいい言葉でもあるわけです。顔色を見ながら話せばいいわけです。「私は教会に行こうかな。行かまいか。行ったほうがいいな…。」と思ったら、「私は教会に…行きます。」とか、「来週コンサートに行ったほうがいいかな、行かないほうがいいかな…。」と考えて、「行きます」とか「行きません」と、最後に結論を出すわけです。
 中国語は違います。「私行きます!」と最初に言うのです。大きな声で、「私行きます!」と最初に結論を宣言する言語です。
 そういう教育を受けておられる方々です。日本がたまたま、そういう教育を受けていないから、声が小さいわけです。日本語の文法もあいまって、日本人という、一つのキャラクターが作られているわけです。

 私たちが心がけなければいけないのは、お隣の国の方々、民族の方々に、愛を現し、良きサマリヤ人としての立場を取らなければいけないのです。
 この教会に、日本人の方も、また韓国の方も、また中国の方も、おられますよね。国を越えて、言葉を越えて、背景を越えて、お互いに助け合っていくところに、神の栄光を見、永遠のいのちにつながる道が用意されているのです。

 人生の中で、誰かと壁ができると、幸せになれないですよね。みなさんはどうでしょうか。今、私は誰とも壁がなく、嫌いな人とか、心引っかかる人は誰一人いません!という人は幸せです。
 「私はあの人、大嫌い!あの人の顔を見ただけでむかつく!」とか、そういう人は本当の祝福を受けることができないです。いのちを得るためには、隣人を愛する、近くの人を愛することも、重要なテーマです。
 教会に来ると、隣人を愛することを、聖書から学びますから、自分を調整することができます。それはすばらしいと思います。今日、ぜひとも、自分の心をリセットして、帰って頂きたいです。ちょっと苦々しく思っている人とか、あんまりよろしく思っていない人がいたら、それをリセットします!その人を祝福します!という立場に立って、神を愛したら、いのちがそこに流れます。

 私は牧師をやっていますが、牧師の世界も、案外狭い世界なので、あまり好きじゃない牧師もいました。それは良くないことですが、私には一つの体験があります。私は今回、ナガランドにカメイ先生と一緒に行ったのですが、「いや〜、この方と一緒に行くのは奇跡的だな…」と感謝しました。
 二十年以上前に、ある一つの壁が崩されなかったなら、この事は起こらなかったからです。それで感動しました。
 それが何かというと、実は、どこの教会とは言いませんが、ある牧師があまり好きではありませんでした。その方はすでに亡くなられたので、話しても良いかもしれませんが、あまり好きではありませんでした。
 その教会は、熱心で、新城にも伝道に来てくれました。すぐ近くに高校があるのですが、チラシ配布をしていました。私たちがやらないから、いけなかったのですが、チラシ配布をしていました。
 「どうぞ。教会に来てください。でも、あそこにある白い教会、新城教会っていうんですよ。あそこには行ってはだめですよ。うちの教会に来てください。」と言って、自分の教会のバスを高校の横につけ、若者たちを連れて行きました。
 その教会は、聖霊の働きとか、霊的戦いが大嫌いで、「あの教会で教えていることはおかしいです。」とか言うのです。噂話というのは、絶対に羽が生えて飛んでいって、本人の耳に入るものです。どの世界にも、お知らせ鳥みたいな人がいて、報告してくれるわけです。その教会のことも、「順先生にお知らせします。あの先生がこういう事言っていましたよ。」それを聞いて、「くっそー!」と思いました。

 でも、一九九二年です。私たちに聖霊が注がれ、その後、霊的戦いが始まりました。そんな中、この教会も分裂し、私も傷ついたところがありました。
 そうしたら、子どもたちに聖霊が注がれ、子どもたちが私の所に来て、神様から教えられた言葉を告げてくれるようになりました。「順先生。心が濁ってますね。」なんて言われました。「えっ?なんで?」と言うと、「誰かを憎んでいるでしょ。憎んでちゃ駄目ですよ。イエス様はそのように言われていますよ。隣人を愛しなさい。」
 子どもたちにそんなことを言われて、おまえたちには言われたくねぇ!と思いました。ある時、「順先生の心に蜘蛛の巣がはっている!」なんて言われました。「頭に剣が刺さっている。」とも言われました。悪く思っている人たちを祝福しなければならないと、子どもたちを通して教えられました。
 神様って、ちゃんと見ているんだなと思いました。今まで悪く思っていた人たちのために、祈らなければいけないと思いました。教会が分裂し、他教会に行ってしまった人たちのことを、あんまり良く思っていなかったけれど、その人たちの家の前に行って、「主よ。この人たちを祝福します!」と、祝福の祈りをするようになりました。
 自分の心はそこまでついて行ってなかったけれど、「祝福します!」と宣言するのです。宣言すると不思議です。心に詰まっていたものが、どっと流れるような感じでした。汚い話ですが、詰まっていた水洗便所が開通するような、「あぁ!なんかすっきりしたな!」というような感じでした。これは大事な祈りだなと思って、いろいろ祈るようになりました。

 それで、近くにトラクト配布に来て、私たちの悪口を言っていた教会にも行って、とりなして祈るようになりました。今でも覚えていますが、夜の十時くらいに行ったのですが、教会には電気がついていて、若者たちが活発に動いていました。私は「この教会を祝してください。この教会がはっきりと、聖霊について、霊的戦いについて知ることができますように。」と祈るようになりました。その教会は、若者たちが大勢集まっていて、多い時には三百人くらいいたそうです。
 しかしある日、また、お知らせ鳥のような方が来て言いました。「順先生!知っていますか?あの教会に問題が起きたんですよ。それで教会が壊れてしまって、今、半分以下になってしまったのです。牧師も落ち込んで、なんかノイローゼのようになったみたいですよ。お知らせします。」とか言われました。
 その時私は、「それは気の毒ですね〜。」といいながら、顔がにこっとしているような自分がいました。
 これはいかんいかんと思ったのですが、自分に対して悪い人たちが倒れると、なんか喜んでしまう嫌なところがあるのです。しかしその様な時が、ある意味、勝負かもしれないのです。

 良きサマリヤ人の話から、敵が倒れた時、その時が、関係回復のチャンスだということも学ぶ事が出来ます。普段、サマリヤ人がユダヤ人の所に行って、「ユダヤ人さん。一緒に仲良くしましょう。」と言ったって、なかなかうまくいきません。しかしユダヤ人が倒れている時、サマリヤ人が助ければ、文句なしに、一つになることができるでしょう。それは、一つのチャンスなわけです。
 うまくいかない人がいたら、その人と関わるチャンスが与えられるように、祈ってください。「じゃぁ、今日から、敵が倒れるように祈ろう!」そんなことは、いけません。一番よい、きっかけが与えられるように祈ったらいいと思います。

 ある日の事、教会のスタッフが、「順先生!あの教会の先生が、来たよ!」というので、「何しに来たの?」と聞くと、「会堂を見せてほしいと言っている。」というのです。
 私はこう言いました。「俺は出て行かないからさ、おまえ見せてやれよ。」と言って、悪いですね。私は隠れていました。
 しばらく経って、もう帰ったかなと思って覗いたら、教育館の二階の広場あるでしょ。そこにお茶なんか出して、接待していました。お茶なんか出さずに早く帰ってもらえばいいのにと、ちょっと思いましたが、私はいないことにしていたのです。
 そうこうしていたら、私の部屋って、その側を通らないと牧師室に行けないのです。どうしても必要な書類ができてしまって、「いやだな。」と思いましたが、私は祭司長、レビ人のような顔をして隠れて、側を通り過ぎようとしたら、その先生に見つかりました。
 「順先生!ここに来てくれますか?ちょっとお話ししたいことがあるんです!」と、呼ばれました。そうしたら彼がこう言いました。「今日私は、別に教会堂が見たくて来たのではない。」と言うのです。「私は、あなたにお詫びしたくて来た。」と言いました。そして、開口一番、「順先生、今まで新城教会にいじわるしていて、ごめんね。」と言いました。「やっぱり、そういう意識があったんだ」と思いましたが、彼は「ごめんね。」と言いました。私は「大丈夫だよ!」と答えました。本当は、大丈夫じゃなかったですが、「大丈夫だよ!」と言いました。
 すると、彼が私にこう言いました。「僕ね、一生懸命、教会を大きくしようと思ってがんばってたけど、この頃、教会が壊れちゃった。本当にショックだ。そこで、ある牧師に、これからどうしたらいいかと相談したら、『そういう時は聖霊を求めないと駄目です』と言われて、今まで聖霊のことなんか考えてもなかったけど、真剣に聖霊様を求めるようになった。」と言うのです。
 そして彼は、聖霊のバプテスマを受けたというのです。彼は聖霊に触れられ、変えられたらしいのです。
 聖霊を受けると、人って変わるもんですよね。私もそうです。一九九二年二月十三日、銀行強盗記念日ではなく、私にとっては、聖霊体験記念日です。本当に変えられました。私は新しくされたのです。

 聖霊が注がれると何が起きるかというと、見えないものが見えるようになるのです。
 大地震の時って、何が見えたかというと、普段じゃ見えないものが、見えるようになったわけです。それが建物の土台でした。こんな弱い土台じゃ、倒れるのは当たり前だ!もう一度、土台から造り直されたわけです。
 教会も同じです。聖霊が注がれると、教会の土台が露わにされ、個人に聖霊が注がれると、自分の罪に気づかされます。聖霊様が来てくださったら、ルンルン気分だ!と思いがちですが、そうではなく、土台が見せられるのです。
 聖霊が来る時に、「罪について、義について、裁きについて教える」とありますから、その教会もそうだったみたいです。聖霊が注がれたら、教会の土台が見えるようになってしまったというのです。

 一九九二年に、この教会に霊的戦いが始まったのですが、それは聖霊の雨が降ったわけです。雨って、どうですか?自分の所だけに降っているように思うけれど、そうではなく、地域全体に降っているわけです。同じです。リバイバルは、使徒の働き二章を見ると、エルサレムの二階座敷で祈っていた、百二十人だけに注がれているように見えるけれど、そうではなかったのです。町中から、人が集まって来たのです。他の国の人たちまで集まって来たのです。ということは、町全体に聖霊が注がれていたのです。
 九二年に、この教会に聖霊が注がれたのは、この教会だけでなく、地域全体に主が、なんらかのことを始められたのです。雨が降っている時、バケツを伏せておいたら、水は溜まりません。しかし、開けたら水が溜まるのと同じように、地域全体に聖霊の雨が降っている時、地域にある教会が、バケツを上に向けたら、やはり水が溜まるわけです。
 その教会、聖霊のこととか、霊的なことから離れていたのですが、新城で聖霊の働きが始まった時、同じように、聖霊の雨が降っていたのです。バケツを伏せていたのですが、いろんな問題があって、伏せていたのを元に戻したわけです。上に向けたわけです。そうしたら、水が溜まったのです。教会の中に聖霊様の働きが始まったのです。
 同時に土台が見えるようになったのです。この教会でも、聖霊が注がれた時、個人的解放が起こったのと同じように、その教会でも、霊的解放が起こって来ました。

 今日は時間がないので、あまり話しませんが、すごいことがこの地域に起こりました。
 一人の娘さんに、聖霊が注がれ、その背後に働いていた、悪しき力が現れました。しかしその教会は、その人を解放することができませんでした。それで私たちに協力を要請して来ました。その人は地域の寺の娘さんでした。でも、その方が教会に来て、イエス様を信じて、悪霊の力から解放されました。
 結果的に、何が起こったかといったら、その家は、四人家族だったんですが、坊さん一家全員が、クリスチャンになり、寺をやめました。寺をやめる時に、何をしたかといったら、トラクトを作りました。どこでトラクトを作ったかというと、プレイズ出版で作りました。その坊さんが書いた自分の証の原稿を見て、ちょっとびっくりしました。「私は長い間、和尚をやっていました。良いことをやっていたと思っていたけれど、悪霊に仕えていたことが分かりました。」と書いてありました。だから私はちょっと、ソフトに校正してあげました。

 坊さんは教会に来て、イエス様を信じたのです。なぜならその教会が、地域のとりなしの祈りをしたからです。和尚さんが一番好きなことは、葬式の注文が入ることだったそうです。でも、教会が祈るようになったら、和尚さん、葬式から帰って来ると、必ず三日間くらい頭痛が取れなくなって寝込んでしまったそうです。それが毎回続いて、おかしいなと思っていた時、娘に連れられ教会に行って祈ってもらったら、治ったのです。そんなことから、だんだんと、「あれ?今までやっていたことは、間違っていたかもしれない。」と分かり、最終的には、家族全員がクリスチャンになりました。
 和尚さんのバプテスマ式、すごかったと聞きました。和尚さんは、バプテスマの時に、和尚証明書を持って来たそうです。そしてみんなの前で、「私は今まで和尚をやっていましたが、今日からやめて、クリスチャンになります。」と宣言し、和尚証明書を破ってしまったそうです。破った途端、聖霊が注がれ、和尚さんは、聖霊の風にぶっ飛ばされ、倒れてしまったそうです。そんな事が起こって、寺をやめちゃったのです。

 そして当時、その教会に宣教師として来ていたのが、カメイ先生だったのです。
 私があの時に、「この人たち、イヤ!」と言っていたら、ナガランドには行けませんでした。あの時から神様が、ちゃんと準備されていたんだなと思います。壁がある人たちは、その向こうに、神の目的と御心があると考えたほうがいいかもしれません。その壁が壊れますように!と、祈ったほうがいいと思います。日本と壁がある国々とか、民族と一致してたら、すごい事が起こるわけです。祈らなくちゃいけないですね。
 良きサマリヤ人とは、壁を越える者たちのことを意味するのではないかと思います。

 良きサマリヤ人は、傷ついた人を「宿屋」に連れて行きました。宿屋とは、今日においては、教会をも意味します。今度の日曜日、クリスマスコンサートがありますけれど、周りにいる人たちを、教会にお連れする、良きサマリヤ人の働きから始めてなければいけないと思います。
 まだイエス様を知らない家族とか、友人の方々を、クリスマスの時、是非とも教会につれて来て下さい。そこで傷が癒され、永遠のいのちを得ることができるよう、私たちは働かなければならないのです。

 今週は、神を愛する、隣人を愛することに、心をとめて生活しましょう。もう一つは、自分と壁がある人がいたら、その人の祝福を祈って下さい。すぐには和解ができないかもしれないけれど、祈り始めたら、必ずきっかけをくれるのです。それは後になって、うわっ!こんなすごいことが、この中に含まれていたのか!とびっくりすることが、起こってくるはずです。それが、良きサマリヤ人のたとえの中に含まれているような気がします。

 様々な事を語らせていただきました。一つ一つの事柄を心にとめ、この一週間、過ごしていきたいと願います。
 このクリスマス、ベイビージーザスではなく、やがて帰って来られるイエス様に心を向けたいと願っています。一言お祈りさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。あなたは生きておられる神様ですから、ありがとうございます。私たちはすでにイエス・キリストを信じて、永遠のいのちが与えられています。このすばらしい福音を、多くの人たちに伝えることができますように。良きサマリヤ人のように、行動できますよう、お願いします。今週からクリスマス集会が始まります。その中で、私たちを良きサマリヤ人としてください。人生の中で、苦い思いを持ったり、壁があったり、決してありませんよう、お願いします。
 主よ、今日は、イエス様が私たちを赦してくださったように、私たちも多くの人たちを赦し、受け入れ、祝福を祈る者とさせてください。
 今日、ここに備えられた聖餐式を、心から感謝します。御言葉と聖霊によって、パンとジュースを祝福し、イエス様とひとつにして下さい。
 良きサマリヤ人であるイエス様、あなたの心を私たちの心とさせてください。イエス・キリストの御名によって、聖餐式を祝福し、祈ります。アーメン。