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『良い知らせがあります!

2014年12月14日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書61章1節〜3節

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』


本当にすばらしい演奏を聴かせていただきました。今晩は、すごいコンサートになります。楽しみにして下さい。今日は、クリスマスということで、集まっていますが、メッセージタイトルにありますように、「良い知らせ」、それがクリスマスです。お隣の方に、「あなたに良い知らせがあります!」と、宣言し、ご挨拶していただきたいと思います。

日本人は、クリスマスについて誤解しています。サンタクロースの誕生日だとか、なんだか分っていません。イエス様よりも、サンタクロースが多く出て来たり、雪だるまが出て来たりと、意味を知らずして祝っています。クリスマスはイエス様の誕生会です。
先週もお話ししましたが、誕生会とは、赤ちゃん時代をお祝いするものではありません。今の自分を祝ってください、というのが誕生会です。同じように、今も生きておられる、イエスさまの誕生会をお祝いしなければなりません。

礼拝の時におもしろい写真を用意すると、子どもたちが喜んでくれます。iPadを使っているのですが、子どもたちが「今日はおもしろいのある?」と覗き込んで来ます。

こんなのがありました。

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「だから言ったじゃない。タバコ吸っちゃいけないんだよ」と。

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雪だるまの武器はヘアードライヤーです。昔はお世話になりました。
これが本物のかっぱ巻きです。

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また人間の表情って、まゆげで本当に変わるものですよね。平岡先生のまゆげも七変化しますが、こんな写真もありました。

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これらの写真は、今日のメッセージとは関係ありません。

今日は、「良い知らせがあります!」というタイトルでお話をさせていただきたいと思います。
何年か前に、空港に行きチケットとパスポートを出したら、職員がこう言いました。「滝元さん、あなたに良い知らせと、悪い知らせがありますが、どっちを先に聞きたいですか?」と言うのです。どっちも気になりますよね。すると、こう言うのです。「まず、悪い知らせを伝えましょう。あなたの席がありません。」と言われました。それ最悪じゃないですか、「えーー!」と言ったら、「しかし、良い知らせがあります。あなたのエコノミークラスの席がないので、ビジネスクラスにアップグレードしました。」と言われました。「あぁ、良かった!」と、「これは良い知らせだ!」と感謝しました。良い知らせが届くと、本当に嬉しいものですよね。

みなさん、どうでしょうか。今年一年、良い知らせと、悪い知らせと、どちらが多かったでしょうか。この頃、テレビを見たり、ラジオを見たり、新聞を見たりすると、良い知らせよりも、悪い知らせのほうが多いです。朝の七時のニュース。我々が寝ている間に、どんな悪いことが起こったのかなと思って見ます。またお昼のニュース。午前中仕事をしている間に、どんな悪いニュースが飛び込んできたかなという感じです。ニュースは、必ずしも、悪いものでなくてもいいはずですけれど、悪いニュースが多い今日この頃です。
しかし教会に来ますと、悪いニュースよりも、良いニュースが多くなります。新城教会の一年を振り返ってみると、良いニュースがやはり多かったように思います。
また、来年はこの教会にとって、新しい展開があります。今、司会をしてくれました岡本信弘先生が中心となり、プレイズ出版経営のレストランができます。これは良いニュースじゃないですか!

この頃、新城では、レストランというレストランが、どんどん潰れています。私がよく通っていた、駅の近くのレストランも、最近潰れたという知らせを聞いて、ビックリしました。三年前は、ナザレという、一番頼りにしていたうどん屋さんもなくなりました。食べ物屋が減っています。悪いニュースばかりです。でも、今度は新城にレストランができるのです。
そして、餃子屋さんができるというのです。餃子のドライブ・スルーです。ドライブスルーは、マクドナルドだけじゃなく、餃子の世界にも入って来たのです!何という名前の餃子屋さんか、知っていますか?これは、私がネーミングしました。
「ノブズ」です。これは信弘先生の「ノブ」です。私は彼が一生懸命がんばってやっていたのを見ましたから、彼がやがて死んでも、名前くらいは残ったほうがいい、餃子くらいは残ったほうがいいと考えて、あえて、みんなの反対を押し切ったのかどうかは知りませんが、主任牧師の権限かどうか分かりませんが、ノブズという名前を提案したら採用されました。「ノブズ」。濁点が二つでなんとなく、臭い気もありますが、餃子は臭いものですから、いいじゃないですか。新城教会を通して、良いニュースが地域に発信されているわけです。
そして今晩、こんなすばらしいコンサートがこの田舎で開催されるなんて、なんとも良いニュースです。良いニュースを聴くと、私たちの心は弾みます。でも、悪いニュースを聴くと落ち込みます。来年はどんな年になるのかな…。
今日、選挙をやっているみたいですが、人ごとみたいに言っていますが、私は昨日、不在者投票に行って来ました。来年はどんな年になるのか、本当に不安です。

しかし、聖書のメッセージは、常に、良い知らせです。イエス・キリストがこの地にお生まれになったのは、悪い知らせではなく、人類にとって、最高に良い知らせなのです。それも、突然知らされたのではなく、イエス様がお生まれになる何百年も前から、すでに預言されていたというのですから、驚きです。
それも、どんな時代に預言されたのかといいますと、イスラエルがどん底の、全く希望のないただ中で、その知らせが届きました。
イスラエルという国は、本当に不思議な国です。何千年も前から、彼らは常に、絶滅の危機のただ中にありました。
特に今日読んだ箇所は、イスラエル(ユダ)が、バビロニア帝国の捕虜となっていた期間でした。一度捕虜となったら、そこから解放されることは、まず、ありえないことです。世界の歴史を見ても、一度大国に支配されたら、そこから解放されるのは異例です。イスラエルは小さな国ですから、一度大国の手にかかったら、国が回復するなんて、絶対にありえない事でした。そんな中でイザヤという預言者を通し、預言が語られました。それが今日読んだ聖書の箇所です。イザヤ書六十一章一節〜三節、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』

これは、バビロニア帝国に捕らえられ、奴隷となっていたユダヤ人たちに、語られた預言です。「やがてあなたがたは解放されますよ!あなたたちは、元住んでいた場所に戻ることができます!」という、そんな預言でした。その預言の内容は、一人の人物が生まれ、全世界の王となり、救いとなる事まで預言されているのです。

『神である主の霊が、わたしの上にある。』「わたし」とは、イエス・キリストです。『主はわたしに油をそそぎ、』と書かれていますが、当時、誰かが王となる場合、頭の上に油を注ぐ儀式をしました。イエス様の上に油が注がれたというのは、イスラエルにやがて王が生まれますという預言でした。
この王が生まれると、『貧しい者に良い知らせを伝え』とあります。「良い知らせ」というのが、教会でよく使う「福音」という言葉です。そして福音の中身が何かを告げています。それは、心傷ついた者をいやすために、イエス様はこの地上に来てくださったというのです。

まず、イエス様がこの地上に来てくださった目的は、「心の傷を癒すため」であるのです。
現代社会には多くの問題がありますが、その根底に、心の傷があると言われます。今、学校とか、家庭でも、子どもたちの間に問題があります。子どもたちが心に傷を持っているので、校内暴力があったり、社会にもいろんな問題があるのです。やはり心の傷が関わっています。一度、心に傷がついてしまうと、なかなか癒すことは難しいようです。
心理学者や精神医学者を養成して、心の傷に対処するため、国はいろいろがんばっていますが、なかなか決め手がありません。しかしイエス様が来てくださる時に、心の傷は癒されるというのです。

ある心理学者がいうのには、人間の心には、スイッチみたいなものがあると言います。どうにも耐えられない事件に遭遇すると、ちょうど電気を使い過ぎると、ブレーカーが落ちるのと同じように、心のブレーカーが落ちてしまうというのです。
わが家も、この頃はなくなりましたが、古い家に住んでいた頃には、冬になるとよく、ブレーカーが飛んだものです。電化製品を多く使いますと、ブレーカーが飛んで、家中が真っ暗になってしまうのです。ブレーカーが外にあり、冬になると寒いので、家族の中で「誰か行って戻して来てよ!」と、いつも喧嘩していました。ブレーカーが飛んでしまうと、どんなに優れた電化製品があっても、使い物にならなくなるのです。
人間は神が造られた優れた作品ですが、たいへんな環境に出会い、心のブレーカーが落ちるのです。そのブレーカーは、人の手の届くような場所ではなく、結構深い場所にあるようです。一度ブレーカーが飛んでしまったら、そうやすやすとは、元に戻らないみたいです。
誰が、そのブレーカーを元に戻すことができるかと言ったら、人間を造ってくださった神しかいないのです。イエス・キリストが地上に来て下さり、私たちの壊れてしまった心のブレーカーを、もう一度、元に戻して下さるのです。
今日、皆さんの中で、「私は心のブレーカーが飛んでいるかもしれない…」という方がおられたら、修理をお願いしたらいいと思います。どんなに深い所に、人間の手の届かないような所にあったとしても、イエス様は地の一番深い所まで下りてくださった方ですから、ブレーカーを元に戻すことが出来ます。心の傷を癒してくださいます。

新城教会に初めて来られた方が、よく口にする言葉ですが、「ここは本当に明るい所ですね。」と言って下さいます。そんな時に、私はいつもこう話します。「この頃、教会に来られる九割以上の方々は、涙を流しながら来られるんですよ。でも明るく見えるとしたら、心が癒された証拠ですよ。」と話します。その姿を見て感動します。教会に来ますと、知らないうちに、神様と出会い、心の傷が癒される体験をします。
さらには、心の傷が癒されるばかりか、その傷を使って、私たちの人生を豊かにしてくださるのです。

いつも安城から来られている、河合さんがいらっしゃいます。もう八十歳になられるのですが、河合さんは若い頃、トヨタ自動車から注文を受けて、エンジンの型を作っていました。エンジンの型って、どういうものかというと、ここにもエンジンの写真がありますが、これを作るには、型が要るのです。

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型とは、エンジンの全く逆の溝です。金属に溝を掘って、トヨタ自動車に納入するわけです。普通は型をプレゼントしてもらっても、何も嬉しくないです。そんな溝をもらったって、なんの役にも立ちません。しかし河合さんの工場で型を作り、トヨタ自動車に納入すると、トヨタ自動車はそこに真っ赤に溶けた鉄とか、アルミニウムを注入し、エンジンができたわけです。
時に、人生の前半部分で、心に溝が掘られるような事もあるかもしれません。しかし高性能なエンジンなら、エンジンほど、深い複雑な溝が切られるのと同じように、そのままでは何の価値もない不必要な傷をイエス様に持って行くと、溝に愛を注ぎ、力を注ぎ、油を注いで、やがて型が取られる日が来るのです。そうすると何ができるのかと言うと、高性能エンジンになるわけです。
クリスチャンとは、イエス様に型を渡し、高性能エンジンに変えてもらった人たちです。そうすると、かつて体験した辛い出来ごとが、その人の人生を動かし、他の人を助けるほどの祝福につながるのです。
今日、「私には心の傷があります」という人がいたら、型をイエス様にお渡しし下さい。それを使って、高性能なエンジンに変えてくださるのです。

イザヤ書六十一章三節に、こんなふうに書かれていました。

『シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』

『灰の代わりに頭の飾りを』とありますが、かつて中近東では、本当に悲しい時、たとえば肉親が死んだとか、愛していた人が死んでしまったという時は、灰を頭からかぶり、深い悲しみを表現しました。葬式の時は、灰を頭からかぶり「悲しい!こんな最悪な日はない!」と悲しみを表したのです。しかし「頭の飾り」とは、お祭りの時の飾り物です。彼らは祭り好きで、祭りの時には着飾って、頭に飾りをつけて躍ったわけです。
どうでしょうか。灰をかぶるよりも、頭の飾りのほうが、ずっといいですよね。

『悲しみの代わりに喜びの油を、』…悲しんでいるよりも、喜んでいるほうがいいです。「喜びの油」とは、継続する喜びを意味します。一時の喜びではなく、継続する喜びを与えて下さるのです。
また、「憂いの心の代わりに、賛美の外套を着けさせてくださる」と約束しています。「憂い」とは、心配事です。一日中、心が心配で満たされている人がいます。しかし、イエス様と出会う時、今度は、賛美の外套を着るのです。
外套とは、寒い時にまとうものです。この頃、寒いですから、厚いジャンパーを着ると暖かいですよね。
同じす。賛美の外套をまとうと、心配ではなく、喜びが沸き上がって、歌が溢れるのです。心配で心が満たされるのと、歌で満たされるのと、どちらが良いですか。鼻歌が出る時は、だいたい良い事がある時です。鼻歌でも、賛美をしている人って、だいたい前の週に良いことがあった人ですよね。しょんぼりしていると、歌は出て来ないです。悲しみの代わりに、賛美の外套をくださるのですから嬉しいです。
そして、『義の樫の木、栄光を現わす主の植木』と、変えてくださるというのです。植木をいじるのが好きな人がいるかもしれませんが、植木が好きな人って、常に自分の庭の植木が気になります。常に手入れするわけです。
同じです。神様の植木としてくださるというのは、常に、私たちに関心を持ち、手入れしてくださるということです。植木に関心がある人は、植木が最高の状態でいるように、管理するのです。そのようにしてくださいます。

イエス様が地上に来てくださった目的は、私たちに良い知らせを伝えるためでした。もうすでにイエス様を信じていると思いますが、イエス・キリストとの出会いは、良い知らせです。これからも、イエス・キリストと共に歩む人生は、決して悪い知らせの中にいるのではありません。あなたに良い知らせがあります!

聖書の言葉を理解するために、一つの原則があります。それは、「いつ、どこで、誰に」、この言葉が語られたのかを知る事です。それを知ると、さらに味わい深くなり、神の言葉が真実であることが分かります。
実はイザヤ書の言葉は、先ほども少し触れたように、バビロンに捕虜となったユダヤ人に語られた言葉でした。国を失い、王を失った国民に対し、「あなた方に、やがて王を与えますよ!国を回復しますよ!喜び躍る日が来ますよ!」と語られたわけです。

事実、バビロニア帝国に捕囚されていたユダヤ人たちは、七十年間、バビロンに捕虜となっていたのですが、ペルシャの王クロスが、彼らを解放し、自分の国、ユダに帰還したのです。預言が成就したのです。世界史を見たら、その事実が分かります。
聖書に書いてある言葉は、神代の世界で起こった出来事ではないのです。すべて、人間の歴史のただ中で起こったことです。日本神話なんか、神代の世界で起こった出来事ですから、検証のしようがありません。しかし聖書の記述は有史以来、人類が神と交わりを持ち、神からの恵みをいただき、実現していった実録です。それを知りますと、神は、私たちに思いつきで何かをする方ではなく、ご計画をもって、確実に良い事をしてくださることが分かります。

実は、「心傷ついた者を癒す」とか、「捕らわれ人が解放される」という預言は、直に、適用してもよいのですが、最初に誰に語られたのかといったら、ユダヤ人に対して語られた言葉である事を、第一に意識し、理解しなければなりません。
人生の中で、いろんな苦しいことがあったり、悲しいことがあって、苦しむことがあるのですが、世界で一番傷を受けた国民って、どこの国民か世界史を調べて分かるのは、「ユダヤ人」です。こんな事を言ってはいけませんが、私は「ユダヤ人じゃなくて本当に良かった…」と思います。もしもユダヤ人の家に生まれたとしたら、今日、礼拝に集うことなんて不可能です。
神が、ヘブル民族を、選民として選びました。そこから、救い主イエス様が生まれたのです。それは、再び来られるイエス様により、世界が治められるという結論にまでつながる壮大な預言です。
ユダヤ民族は、小さな民族集団ですが、そこに置かれていた神の目的は、とんでもなく大きかったのです。ゆえに、悪魔もそのことをよく知っていました。何しろユダヤ人を滅ぼせば、神の計画はおじゃんになります。その為にユダヤ人を、無き者にしようとした事が、歴史を見れば一目瞭然で分かります。

さかのぼれば、ユダヤ人の原点はどこかというと、アブラハムという人物です。教会で、アブラハムについて時々、学びますが、アブラハムという一人の人物を通し、イサク、ヤコブと世代が続き、ヤコブがイスラエルと名前が変えられ、十二人の子どもが生まれ、その子どもたちがエジプトに移住するわけです。
しかしついには、彼らはエジプトで奴隷になってしまいました。四百三十年間、エジプトで奴隷となるのです。エジプトでも、ヘブライ人たちを殺そうという計画がありました。その後、バビロニア帝国もユダヤ人を捕虜とし、国を無くそうとしました。しかし神は、彼らを守り、解放してくださいました。
バビロンからエルサレムに帰った人もいましたが、帰らずに、ペルシャに残った人たちもいました。その時、ハマンという男により、残っていたユダヤ人を撲滅する計画が実行されようとしました。しかしエステルという一人の勇気あるユダヤ人女性によって、民族は助かったのです。そんな歴史についても、聖書は記しています。

しかし聖書に記録のない、歴史の隙間にも、ユダヤ人は絶滅の危機に瀕していました。旧約聖書が書き終えられ、新約聖書に至るまでに四百年間の隙間があります。これを「中間時代」と呼ぶのですが、その専門家が、リバイバル聖書神学校の山崎ランサム先生です。先生に聞いたほうがいいかもしれませんが、この中間時代にも、ユダヤ人撲滅計画がありました。
時代区分でいうと、それはローマ帝国前の、ギリシャ帝国の時代でした。ヘレニズム文化といって、西側の文化と、東側の文化がドッキングした時代でした。BC二年の事でしたが、アンティオコス四世という人物が、ユダヤ人を撲滅しようとしました。ユダヤ人たちは、旧約聖書に忠実な人たちでした。それで、帝国の方針に従わない民族であるとされ、旧約聖書の律法を学んだり、儀式をしたら死刑とし、ユダヤ人たちを絶滅寸前まで追い込んだのです。

その後出て来たのが、ローマ帝国です。イエス様がお生まれになったのは、ローマ帝国時代です。ローマ帝国は、イタリア、ローマのテヴェレ川のほとりから出て来た一つの勢力ですが、その頃、様々な大国が覇権を巡ってしのぎを削っていました。そんな中、ユダヤ人たちは、風前の灯火だったのです。しかし、ある意味、ローマ帝国によってユダヤ人たちは助けられました。彼らは、ローマとうまく手を組み、迫害を逃れた歴史があります。しかし彼らは、ローマの傀儡国になり、ローマから支配されるようになりました。
イエス様時代は、ローマ支配のただ中でした。聖書を読むと、イスラエルが自治権を持っていなかったことが分かります。イエス様が十字架につけられた時、ユダヤ人たちは死刑執行の権限を持っていませんでした。ローマに頼まないと死刑執行ができなかったのです。そこからもユダヤが傀儡国だったことが分かります。
その後、ユダヤ人たちはローマ帝国と衝突し、ユダヤ戦争が起こり、滅ぼされました。ヨセフスという歴史家によると、紀元七十年の戦争で百万人が殺されたと記録しています。

それから近代に至るまで、興味があったら、ユダヤ人の歴史を見てください。常に、迫害のただ中にありました。
近年においては、ナチスドイツにより、六百万人が虐殺されるという、悲惨な事件が起こりました。それもほとんど無抵抗で、一方的に虐殺されたのです。

ちょっとみなさん、自分に置き換えいただきたいと思います。日本民族なんて、アバウトなものですが、もしも日本人が、世界と敵対し、世界の国々が日本人を根絶やしにするため、二千年、三千年というスパンで、迫害し続けたら、どんな心境になるでしょうか?どんなにか、心に傷を受けるでしょうか?
実は、世界で、最も傷を受けた人たちは誰か。「それは私です!」なんて、言わないで下さい。みんなそう言うのですが、そうではないのです。ユダヤ人たちです。先日、私はそれに関連した本を何冊か読みました。「本当にかわいそうだな…」と。彼らは途切れなく迫害を受けています。

この二千年の歴史の中、彼らは迫害のただ中をくぐり抜けてきたわけです。特に歴史の中でも、十三世紀にカトリック教会が、「第四回ラテラノ公会議」という会議を開きましたが、私が勉強した中では、大きな転機になったように感じました。その会議における決定により、ユダヤ人と、異邦人と呼ばれるような我々の間に、最も大きな壁ができたと思われます。
実はその時、カトリック教会が、全ての職業から、ユダヤ人たちを追放し、土地の所有を禁止し、農業も禁止と、国際商取引も禁止し、すべての職業から彼らは追放しました。ユダヤ人たちは、特別な服装と、自分がユダヤ人であるという印のバッジをつけなければならなくなりました。ユダヤ人たちはディアスポラとして、ヨーロッパ全土に拡がっていました。どの地域においても、ユダヤ人たちは、特別な服装とバッジをつけることが義務づけられました。

みなさん、どうでしょう。日本人が、世界中に散らばっていたとして、日本人は日本人を表す特別な服装と、バッジをつけなければ殺される運命になったとしたら、どうでしょう。そんなひどいことはありません。
ユダヤ人たちは、そんな歴史を千年近くなめてきたわけです。ユダヤ人たちは、心に深い深い傷がついたと思われます。
やがて「ゲットー」と呼ばれる居住区が決められ、ユダヤ人たちは、ゲットーに強制的に移されたのです。ゲットーに住まい、特殊な服が着せられ、バッジをつけられ、激しい迫害の対象となりました。そしてすべての職業から、追放されたわけです。
ユダヤ人の家系に生まれたら、それだけで、厳しい迫害に生きなければなりませんでした。どんなに辛く、悲しい人生だったかと思われます。

その延長線上で、あのナチスの大迫害も起こったわけです。突然起こったのではなく、背景があるのです。ここにナチスの時代の写真でありますが、見てください。子どもにも、星印がつけられています。

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第二次世界大戦時には、強制収容所に入れられ虐殺されて行きました。特に有名なのが、アウシュビッツ収容所です。数え切れないほどのユダヤ人たちが、捕らえられ、殺されていきました。

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こんなに痩せこけるまで苦しめられ、迫害を受けました。これほど悲しい運命にさらされたのは、世界広しといえども、ユダヤ人以外にありません。迫害を最も激しく行ったのが、実は、カトリック教会です。そして、プロテスタント教会も、それに関わりました。
また日本も、その仲間に入りました。実は、日本は第二次世界大戦時に、三国同盟に入ったわけです。イタリアのムッソリーニと、ヒトラーと、東条英機の三人が仲良くなったわけです。ゆえに日本も迫害の仲間に入り、ユダヤ人虐殺を肯定したことになります。

しかし日本人の中には、なんとかユダヤ人を助けようとした人物もいました。この人は有名です。

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杉原千畝という人物は、リトアニアの大使だったのですが、ユダヤ人たちがヨーロッパから逃げる時、日本を通過するビザを、政府の意向に反して出したと言われています。
でも、これは逆の見方をしますと、日本が悪い国という証明です。実は、杉原さんは、日本国の意向に反してビザを出したという触れ込みになっていますが、それは嘘です。ビザとは、絶対に、本国の許可なしでは発行できないからです。例え、リトアニアの日本領事館がビザを発行したとしても、本国に入る時点で、はねられますから、そのビザは意味ありません。ユダヤ人たちの日本国内通過ビザを許可したのは、杉原ではなく、日本国政府でした。日本国政府が、杉原に指示した電文がここにあります。

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何と書いてあるかというと、「ただし、通過はこの限りではない。」とあります。「通過ビザは出しても良い。」という許可を、政府が杉原に出したから、ビザは発行されたのです。彼が日本国の意向に反し、ビザを出したとなっていますが、「日本は反ユダヤ国家である」ということを、戦後、国際的に宣伝する策略であったと言われます。
実は、日本人でユダヤ人を最も多く助けたのは、日本人が一番嫌っている東条英機です。彼は関東軍の参謀長をやっていて、大勢のユダヤ人が満州に逃げて来た時、国境を開けたのです。
歴史には政治的プロパガンダが絡んでいるので、真実が見えない部分があります。しかし日本は、三国同盟に入っていましたから、悲惨なユダヤ人撲滅計画に身を置いたことになります。

ユダヤ人の歴史を見たら、悲しい歴史がずっと続いていて、異邦人である私たちと、ユダヤ人の和解なんか、普通では、絶対に考えられません。
世界を見たら分かりますが、イスラエルと異邦人の間には、最も高い壁がそびえていて、何をやっても、越えることができっこない感じです。自由諸国とイスラム国家との、対立の壁どころではないのです。
時々、人生の中で、「この壁は絶対に越えることはできっこない。」という事件が起こります。先週もお話ししましたが、「あの人との回復なんか、ありえない。何が起こったって、ありえない。」と思います。
しかしその最たるものが、異邦人とユダヤ人との間の壁です。こんな環境で、二千年、三千年と暮らしてきたらどうでしょう。ユダヤ人たちは、異邦人に対して、はらわたが煮えかえるくらいの、大きな憎しみがあるはずです。どんなにお詫びしたって、許してもらえっこありません。

実は、日本に原爆が落とされましたが、そもそも、原爆は、最初は、ドイツに落とそうとして開発されました。それをユダヤ人たちが計画し、ユダヤの大富豪が、お金を出したのです。なぜなら、先にドイツが原爆を研究していたからです。ドイツが先に原爆を作り、ドイツが世界の天下を取ったら、世界中のユダヤ人たちが殺されてしまうからです。それでユダヤ人科学者、アインシュタインとかオッペンハイマーらが、原爆を先に製造したのです。けれどもドイツに原爆を落とす前に、ドイツは降伏したのです。だから原爆は、日本に落とされたわけです。歴史は本当に悲しいです。

こんな壁があったら、絶対に越えることはできません。しかし、聖書にはすばらしい言葉があります。それがどこに書かれているかというと、エペソ人への手紙二章十四節〜十五節、

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』

と書かれています。リビング・バイブルで読むと、

『キリスト様こそ、私たちの平和の道です。この方は、私たちユダヤ人とあなたがた外国人とを一つの家族とし、両者を隔てていた軽べつという壁を打ちこわして、平和をつくり出してくださいました。つまり、ご自分の死によって、相互の激しい敵意を、除いてくださったのです。その敵意の原因とは、ユダヤ人を特別扱いし、外国人をのけ者にする、ユダヤ教のおきてでした。そのおきて制度全体を無効にするために、キリスト様は死んでくださったのです。そして、それまで互いに対立していた二つのグループを、それぞれ自分の手とし、足とされました。こうして、私たちを融合させて、新しい一人の人間をつくられたのです。ついに平和が実現しました。』

今までの過去から現在の歴史の中で、絶対に越えることができない壁、それが「異邦人とユダヤ人との間にある壁」です。しかしイエス様が来られ、十字架にかかり、よみがえられた事により、現実、見えるところでは越えることができない壁に見えても、聖書は、「十字架が、すでに壁を砕いた」と告げているわけです。
イザヤ書の言葉と、ユダヤ人の歴史を合わせて見ると、心の傷とか、隔ての壁というのが、我々の考えているレベルとは、全くかけ離れた、巨大で、深いものであることが分かります。
しかしイエス様が地上に来てくださり、十字架にかかり、よみがえってくださった事により、世界で、どうにも越えることができない壁は、「すでに」壊されたのです。それが、偉大な十字架の勝利なのです。そのことに気づく時、今抱えている問題も、「解決しないはずはない」ということです。

いろんな問題を抱えているかもしれませんが、もしかしたら、ユダヤ人と比べたなら、まだまだ幸せだと感じるかもしれません。
イエス様は、究極的な傷をいやし、究極的な壁を壊すために、この地に来てくださったのです。それを歴史的にも知る時、人生にとって、越えることのできない壁は何一つないことを教えられます。

やがて、私たちは、敵対していたユダヤ人と一つになり、一人の王、イエス・キリストによって統治される国に入るのです。
イエス様がこの地上に、再び帰られるのを信じていますか。その時には、民族や文化をすべて越えて、主によって一つにされ、この地上に神の国は実現するのです。これこそ、福音ですよと、聖書は告げています。

クリスマスの時に、イエス様がこの地上に来られた目的を、もう一度、心に留めたいと思います。案外、私たちは、聖書の御言葉を直接、自分に適用しようとするのですが、さらに歴史的なところを見ていきますと、神は、一個人ではなく、地球全体を見渡し、歴史全体を見て、最も大きな問題を解決するために、ひとり子イエス様を遣わされたことが分かります。
ならば、私たちの人生も、絶対に保証してくださるに違いないのです。

最後に、エレミヤ書二十九章十一節の御言葉を読みたいと思います。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

ユダヤ人の歴史を学び、聖書の御言葉を知るなら、神が与えてくださる将来と希望という計画が、架空のものではなく、確実に神の手により実現するのを信じる事が出来ます。主イエス様が世界の王となり、統治してくださる国に私たちを入れてくださるという、これこそ、福音です。
私たちは、ユダヤ人ではなかったけれど、神の選びの民として受け入れられ、主イエス様と共にあることを、クリスマスの時期、もう一度、心から感謝しなければならないと思います。

最後にみなさんとご一緒にお祈りをしたいと思います。人類の深い傷、高い壁を壊すために、イエス様が地上に来てくださったことを、しっかりと心に留めると共に、私たちの人生も、その絶大な計画の中に含まれていることを、感謝したいと思います。
必ず、あなたに将来と希望を与えてくださるのです。そのことを、心に留めて、一言、祈りの時を持ちたいと思います。


ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめます。イエスさまが地上に来てくださった目的の根源について学びました。ユダヤ人たちが多くの苦しみを経て、どうにもならない深い傷や壁がある中、それを助け出す計画を人類に与えてくださいました。主よ、あなたの中に、究極的な解決があることを感謝します。人生の中で、越えることのできない壁はないことを信じます。癒されない傷はないことを信じます。
今日ここにおられます、お一人お一人の上に、特別な祝福と勝利を与えてください。一人一人の人生の傷に、癒やしを与えてください。今日は一人一人が、心癒され、元気になって、お帰りになることができますように。
また夜のコンサートにおいても、全員が癒され、元気になって、イエス様と出会って帰ることができますように。今日、良い知らせを、一人一人に宣言します。尊いイエス・キリストの御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。