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ニューイヤー・セレブレイション

2015年1月1日(木)
新城教会主任牧師 滝元順

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ハレルヤ!新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
昨晩は、夜の九時から十二時まで、「カウントダウンワーシップ」という集会がありました。毎年恒例なのですが、その中で新城教会の、私以外の六人の牧師たちが、二〇一五年に向かって、神から受け取ったみ言葉をそれぞれ語りました。私はいつもその集会を楽しみにしています。なぜなら、次の年のために、主から受け取ったみ言葉ですから、一年の指針となるからです。私は毎年、それらのみ言葉を指針とし、心に留めながら歩むことにしています。主がキリストのからだにくださったみ言葉通りに、導かれることを体験しています。

六人の先生方が語ってくださったメッセージは、後ほどプリントされ、みなさんのお手元に届きますので、それをじっくりと読んでいただけるのが一番よろしいと思うのですが、昨晩、参加できなかった方々のために、ダイジェストとしてまとめさせていただきましたので、ご紹介させていただきます。それはごく一部ですから、すべてだと思わないで聞い下さい。

毎回、誰からメッセージを語るのかは、くじ引きで決めます。でも適当にではなく、祈らせていただき、私がくじを作る係をさせていただいています。今年は、公畑フェルナンド先生が一番くじを引きました。

彼が引用した箇所は、詩篇九十一篇三節〜十節でした。大変すばらしい御言葉です。

『主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。』

こんな一年になったら、すばらしいですね。強調点は、九節の『それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。』でした。
日本語では、「避け所」と訳されていますが、スペイン語の聖書によりますと、「私の希望である主」と訳されているそうです。そして、「希望を捨てない」ことが、御言葉の実現のために重要だと語ってくれました。
時に、人生には様々なことがあります。そして希望を失なうことさえあります。教会では、「信仰と希望と愛」について学びますが、信仰とは信じ切ることです。しかしそこには、なかなか到達できず力がいります。希望とは、信仰までは到達できなくとも、信じ切ることはできないけれど、「期待する」という意味ではないでしょうか。
時に、信仰を持つことができないような、大きな壁に出会うことがあるかもしれません。しかし希望を持ち続けることが、主からの恵みをいただく、重要ポイントだと話されました。聖書に出てくる様々な人物は、試練の中でも希望を捨てなかった結果、二倍のものを受け取ったのです。

二〇一五年が始まり、どのようなことがあるのか、皆目、見当がつきません。例え何があっても、主に期待し、希望を持ち続けることが、祝福を受ける秘訣であるということでした。
ヨブは突如として彼を襲った大試練により、どん底までたたき落とされた人物でした。しかし、彼は最後の最後まで、希望を捨てなかったのです。四十二章に行くと、彼は二倍を受けて回復しました。様々な人物が、希望を捨てなかったことにより、主からの恵みをいただいたという、希望のメッセージを語ってくれました。
今年、主に期待し、希望を持って、歩んでいきましょう。

続いては、滝元明牧師でした。彼は今年で八十六歳になります。しかし、「自分が現在、八十五歳であることを意識したことがない」と言っていました。それはボケのせいか、それとも真実なのか分かりませんが、元気なことは良い事です。今年受け取ったみ言葉は、第一列王記三章五節であると言いました。

『その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」』

これはソロモンに語られた言葉ですが、主が明牧師にも、「あなたに何を与えようか。願え。」と、語ってくださったというのです。
もしも今日、神が現れ、「あなたに何を与えようか。願え。」と言われたら、何を願いますか。「今日一つだけ、あなたの願いをかなえてあげよう。」と言われたら、あなたは何を願いますか。今、頭の中に札束が飛んでいる人がいるかもしれません。健康という二文字が浮かんでいる人もいるかもしれません。様々な願い事があります。

明牧師は、「私は四つのことを祈った」と言っていました。
まず第一に、日本のリバイバルのために、やはり天皇家が救われるように祈ったというのです。
もう一つは、「自分の妻が九十二歳だけれど、十歳若返るように祈った」というのです。なかなか大胆な祈りですよね。ばあちゃんが十歳若返ったら怖いなと思いますが、もしもその祈りが聞かれたら、私の妻のためにも祈ろうと思います。しかし聖書を見ると、若返った人のことが記されていますから、それも夢ではないですよね。今年は歳を取るのではなく、若返る年になったらいいですね。
また、悪魔に盗まれたものが、二倍になって取り戻されるように祈ったそうです。そしてヨシュアの祈りのように、「一生涯、主に仕え通すことができるように」と祈ったと語っていました。
主は今年、私たちに「あなたは何をして欲しいのですか。願いなさい。」という言葉をくださっているということです。すばらしいですね。

でも自分を中心として願うのではなく、「わたしの夢をかなえてくれないか。」と主は語られています。私たちは、主が持っておられる夢をかなえるために、存在しています。自分の夢の実現ではなく、「主の夢の実現のために何を願ったらいいか」を考え、主に祈るなら、今年は必ず、祝福を受けるに違いありません。
そして、もう一つ受け取ったみ言葉が、イザヤ書五十九章十九節だそうです。

『そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。』

今年は主の息が吹きまくる年になると信じます。「東のほうでは主の栄光が恐れられる」とありますが、イスラエルから見て、東の果ては日本じゃないですか。主の栄光が恐れられるような、息が吹きまくる一年となることを願ってやみません。


続いて岡本信弘先生が語りました。引用した箇所は、ガラテヤ書六章七節〜九節でした。

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』

ここにも「失望せずにいれば、時期が来て刈り取ることができます」とあります。希望を捨てないで、種を蒔き続けることを語られました。
自然界には法則があって、種を蒔いたら、必ず実を結びます。これは自然界の法則です。神が天と地を造られた時、最初に置かれた法則があります。それは私たちが「自然界の法則」と呼んでいるものです。それは、宇宙の法則の中で、最も重要な、人々に強い支配を与えている法則です。「種を蒔いたら収穫する」とは、神が定めた法則です。これは、すべてに通じる法則のはずです。見える世界も、見えない世界にも、この法則は適用されるはずです。
人生は、種を蒔くようなものです。どんな種を蒔くかで、やはり収穫物も変わって来ます。自分の人生を振り返ったら、誰でも分かると思います。「私は人生の前半で悪い種を蒔いてしまったな…」という人は、良いものを刈り取ってはいないはずです。放蕩な生活をしたら、必ず、その結果が後に出て来ます。どんな種を蒔くかは、気をつけなければならないわけです。

昨日語られたことは、神は一人一人に、「その人しか蒔くことのできない種」を準備されているという事です。そして、手の中には、すでに神からゆだねられた、聖霊によってゆだねられた種があるというのです。
しかし、「一年に、これだけの種を蒔いてください」と言われても、「それを蒔ききっていないのではないか」という指摘でした。今年は、神からゆだねられた、自分にしか蒔くことのできない種を、蒔ききっていこうという話でした。
特に、信弘先生は、プレイズ出版の社長として、新しい事業をはじめています。それは神から与えられたビジョンです。今年は期待して下さい。三月には「雲の柱」という、知る人ぞ知るイタリアンの名店が開店します。私は期待しています。
雲の柱は、出エジプトの時に出て来たものです。あれは動いたり、止まったりするのです。だいぶ長く止まっていたのですが、動き始めます。主の時に動くわけです。そして、ノブズ餃子も動きます。
老人の方々の施設も、六月でしょうか。始まります。これらは主から与えられたビジョンで、それを受け取ったのが信弘先生でした。私にそういう事を言われたって、絶対に実現は無理だと思います。「おまえ、餃子作ってくれ!」と主から言われたって、僕、餃子嫌いですから。彼は、何よりもまして餃子大好き人間です。イエス様の次に、奥さんの次に、彼は餃子が好きです。やはりそういう個人の特性も使いながら、その人にしかできない仕事を委ねて下さるわけです。それを、「自分の欲のためにでなく、主の為に使ってください」というメッセージでした。
ガラテヤ書一章十節も合わせて語られていました。

『いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。』

このみ言葉が引用されたことは、本当にすばらしいです。私たちの活動って、だいたい自分の夢の実現の為に行ってしまうのですが、そうではなく、神の夢の実現のために、人の歓心を得ようとするのではなく、神の夢を実現するために、与えられた種を蒔き続けなければいけないですね。
今年、あなたにしか、私にしか、蒔くことができない種が渡されているはずです。それを確実に蒔ききりたい、と決心しました。私しか蒔くことができない種があると、近頃感じています。それを精一杯、人の歓心ではなく、神のために、蒔いていきたいと願っています。


続いて、四元雅也先生が語ってくれました。エレミヤ書五十一章十九節、

『ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。』

「分け前はこんなものではない」というテーマで語られました。主がみなさんに用意されているものは、想像する以上に、大きなものだと語りました。主に大きく期待してください。
神の夢は、人間の夢とは違います。それを掴むことは、とんでもなく大きなことです。そのために私たちは日々、準備しなければいけないと語られました。

特にルカ十章の中から、最も大切なことについて語り、それは、「神を愛することと、隣人を愛すること」だと述べられていますが、神を愛する姿がどこに現されているかというと、十章最後の、マルタとマリヤの態度とイエス様との関係に現されています。マリヤは、マルタとは違って、イエス様の足下に座り、イエス様から聞くことを最大の喜びとしたのです。
しかしマルタは、イエス様の接待のために、気を遣い働きました。もちろんマルタの働きも重要ですが、マリヤは、イエス様が自宅に来られた時、イエス様の足下に座って、イエス様から聞くことを喜びとしました。その時、イエス様がルカの福音書十章四十二節、

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

と、イエス様は言われました。「最も大切なことは一つだけだ」というのです。それは何かというと、イエス様の足下に座り、直接聞くことが、最も大切だというのです。
今年一年、どんな時にも、イエス様の足下で、主からの声を聞きたいものです。

しかし、彼のメッセージは深かったです。このマリヤは、ベタニヤのマリヤというマリヤでした。彼女は後に、何をしたかというと、イエス様が十字架につく前に、非常に高価なナルドの油を持って来て、それも、三百グラムをイエス様の頭から足の先まで注ぎました。それを見ていた弟子たち、特にユダが、「なんでそんな無駄なことをするんだ。それを三百デナリで売れば、多くの貧しい人を助けることができる」と、自分がその金をせしめてやろうと、ユダは考えていましたからそう発言したわけです。でも、イエス様は、ヨハネ十二章七節、

『イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。』

そしてマルコの福音書十四章九節、

『まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。』

と、マリヤがイエス様に香油を注いだことを、高く評価されています。これは何を意味するのかというと、主の足下にひれ伏し、主から聞くのは、主がマリヤに用意していた、特定の時の為の準備だったという事です。
私たちも、主から毎日、聞くわけですが、それは、私たちの将来に訪れるであろう「神の時」の準備です。マリヤはその準備のために、主の足下にひざまずいていたのです。やがて時が来た時、マリヤは、彼女以外、誰にもできないことを実行したのです。それがイエス様の葬りの準備となったのです。その行為は、今に至るまで、世界中で記念となっています。
人生には、必ず、神の時が訪れます。日々の単純に見える主との交わりを、「これが何になるんだろう…」と思わないでいただきたいのです。主が特定の時を準備しておられます。今年それが起きるかもしれません。それは、とてつもなく大きなことであるわけです。
それは「こんなものではない」という御言葉につながります。マリヤの行為は、今の時代から見るなら、「とてつもなく大きなこと」をした事がわかります。彼女は、ただ油を注いだだけですが、それはとてつもなく大きな行為となりました。神が用意されている「神の時」は、とてつもなく大きなものです。


続いて、上條実先生が語りました。イザヤ書四十二章九節、

『先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」』

今年、主は、新しいことを計画されています。私たちのただ中に、新しいことを始めようとされているのです。しかし、それが起こってから気づくのではなく、今年は、「起こる前にあなたがたに聞かせよう」というのが、メッセージのポイントでした。
突然、事件が起こり、倒れてからやがて起き上がり、とりなしの祈りに出かけて行ったりすることが結構多いです。「こんな事件が起こりました!祈ってください!」と教会には祈りのリクエストが届きます。それで「そうですか」と言って、事件の内容を聞き、とりなしの祈りに出かけるのです。
しかし、今年はそうであってはならないというのです。何か事が起きる前に、主から告げていただき、先回りで、勝利を勝ち取る年になると語られました。そうなったら、すばらしいじゃないですか。

去年も、そうなるように祈っていました。そうなった部分もあったし、ならない部分もありました。でも今年は、確実にそうなってほしいです。私たちは地球の管理人ですから、神からの知恵をいただいて、先回りして、管理するものにならなかったらいけません。事件が起こってから、メンテするのでは、管理人としては失格ですよね。事件や事故が起こらない前に、ちゃんと破れ口を修復するのが管理人の仕事です。
今年は管理人として、事件が起きる前に、しっかりとメンテし、管理できるように、主からの声を聞きたいものです。

イエス様が十字架にかかる直前に祈った時、天から声が聞こえました。でも、周りの人たちは、「雷が鳴ったんだ!」とか、「御使いがあの人に話したんだ!」とか言って、内容を把握できませんでした。でも、聖書はその時の声をしっかりと記録しているのです。「わたしは栄光をすでに現した。またもう一度栄光を現そう。」と記録しています。
この声が聞こえたのは、イエス様のためではなく、「あなたがたのためだった」とあります。そこも引用されていましたが、私たちが主から語られる言葉を事前にしっかりと受け取り、事が起きる前に祈り、管理する者にならしていただきたい、というメッセージでした。
今年、そんな油注ぎをもらえたら、すばらしいじゃないでしょうか。先回りして、すべての破れ口を先に塞ぐ教会になったら、教会に属するすべての方々は、平安のうちに過ごすことができるはずです。是非とも、このメッセージを心に留め、祈っていただきたいと思います。


 最後に語ったのは、滝元開先生でした。彼が引用した箇所は、第一サムエル記五章一節〜四節まででした。

ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。』

ある時、神の箱という、旧約聖書の神の臨在のしるしである、最も重要なものが敵に奪われました。神の箱は、事もあろうに、ダゴンという偶像の宮に安置されてしまったのです。一大事です。そうしたら、何が起こったかというと、なんと、ダゴンの宮を開けてみたら、ダゴンが倒れて、頭と両腕が取れて倒れていたのです。そんなことが起こったのです。
これは何を意味するかといったら、主の臨在がある時に、敵は倒れるということを現しています。私たち日本人は、ダゴンの宮のただ中に住んでいるようなものです。毎日のように、偶像礼拝の現実を見聞きします。しかし私たちが神の箱としてただ中に入って行ったら、主の臨在が敵を倒すのです。
家族が救われてなく、偶像がある部屋に住んでいるかもしれません。しかし、神の宮として、契約の箱として敵の面前に入り、主を賛美する時、主の臨在が敵を倒すのです。今年は恐れないでください。どんな場所でも、敵に打ち勝つ権威を主は与えてくださっています。
敵の面前で、主を賛美しなければなりません。賛美は、主の臨在をもたらすために、神が用意された武器です。敵の面前で主を賛美する時、勝利を宣言する時、敵は打ち破られるのです。

昨年、新城教会で大変すばらしいことがありました。それは、若者たちを海外宣教に送り出すという、初の試みがあったからです。二十四名の若者たちが、その半分は中高生でしたが、ネパールに宣教に行きました。私も過去に二回、ネパールに行きました。私もいろんな場所に行きますが、「ネパールは大変な所だな。」と思いました。その場所に、いつかうちの若者たちを放り込んでやろうと、祈っていました。そういう提案をしましたら、それが通り「行く人、いるかな?」と思ったら、二十四名も参加してくれました。
しかしあのツアーに参加した子どもたちが、みんな変わったというのです。やはりかわいい子には旅をさせろ、というやつです。彼らは考えてもみなかったような環境に、ホームステイなんかしちゃったわけです。去年のネパール宣教報告会、楽しかったですよね。一人一人が、その体験を生々しくというか、楽しく、語ってくれました。
私は聖徒君の証し、忘れることができないです。ホームステイした家は、寝る所に鶏がいたり、牛がいたりして、ネパール人の牧師と一緒に、シングルベッドに二人で寝たというのです。どこを向いて寝たらいいのか分からなかったというのです。「天上を見れば、天上が落ちてきそうだし、汚いし、一方は壁で、壁も汚くて臭いし、ネパール人の牧師の背中も臭いし、下を向いて寝ようとすると、シーツも一ヶ月くらい洗っていないようなシーツで、どちらを向いて寝ていいか分からなかったと言いました。「暗く長い夜でした。」という証しでした。私はその場所に行ったことがありますから、良く分かります。
彼らはそういう所に行って、やっぱり変わったみたいです。帰って来てから、父親から見ても変わった!と、雅也先生が話していました。
それを聞いて嬉しかったです。あの計画は、神から種を受け取ったんだなと思います。「さて、今年はどこに送ろうかな…」と、今、祈っています。やっぱり、新城教会もだんだん高齢化しております。私は六十三歳。親父は八十五歳。どんどん高齢化していて、今度は若い人たちが育っていかなければなりません。その為には、若い人たちを育てなければいけないわけです。ということは、若い人たちが育つように、私たち、おじちゃんおばちゃんは、愛の目を持って支援しなければいけないですね。
やはりそんな中、敵の面前に若者たちを送り出し、霊的戦いを肌身で感じさせるのは、一番重要ではないかと思います。今年も、一番良い場所、彼らにとっては最悪の場所が与えられるよう、祈ってください。もちろんリーダーは開先生です!私は世代が違います。違った所に導かれていると思います。他にも適した人たちが種を持っていますから、是非とも祈っていただきたいと思います。


今、紹介しましたが、六人の先生方は、今年の指針となるすばらしいみ言葉を語って下さいました。お互いを補完するかのような形で、主がメッセージを与えてくださったことに、心の底から主の御名をあがめます。
さて、最後に私に与えられたみ言葉を紹介させていただいて、まとめさせていただきたいと思います。

私に与えられたみ言葉は、創世記七章一節です。

『主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。』

これはノアに語られた言葉です。昨年、与えられたみ言葉は、自分にとっても、意外なみ言葉でした。私の頭の中に、それまでなかったことを告げられました。それが、黙示録二十二章十二節〜十七節でした。

『「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』

特に、「来てください!マラナタ」という言葉を受け取りました。今回の先生方のメッセージにもありましたが、主が帰られる日が、非常に近くなっている今日この頃だというのです。
私は、イエス様が再臨されるという事柄に関して、もちろん聖書に書いてありますから、いつかは、そういうこともあるんだろうなと信じていました。しかし、自分とはあまり関係のない、遠い未来に起こるくらいの理解でした。
しかし去年、そうではなく、「マラナタ!主よ、来てください!」と、待ち望んで祈れと主は語ってくださいました。私たちが最も注目し、祈りを集中しなければいけないポイントは何かといったら、主がこの地に帰って来てくださるということです。
主のお帰りに関して、日曜日にもお話しさせていただきましたが、ベクトルが、案外、上に向いているのです。神の国に携え上げられる、この地球から脱出する、というようなイメージで捉えているのです。
しかし聖書の神の国は、そうではなく「逆ベクトル」です。主がこの地に戻って来られるのです。空中再臨があったとしても、七年間は離れても、その後この地に戻って来るのです。イエス様が帰って来られるとは、私たちを連れ去るためではないのです。地球の王となるために、帰ってくださるのです。私たちは。主が一刻も早く、この地に帰ってくださるように、真剣に祈らなければならないのです。そして、その日が非常に近づいている、今日この頃だということです。

今、世界には多くの問題があります。根本的解決はどこにあるのでしょうか。それは局地的なリバイバルや、ある特定の国のリバイバルでは用をなさないのです。世界の問題の根本的解決は、主が地球の王にならないと、問題は解決しないのです。もちろん私たちは、この国のリバイバル、新城のリバイバルを祈っています。けれども、根源は主がお帰りになり、世界の王となってくださることが目標です。それを、しっかりと抑えながら、街のリバイバル、国のリバイバル、世界のリバイバルを祈っていかなければいけないのです。
私たちクリスチャンが、教会が、「主よ、来てください!」と、主ご自身のお帰りを祈り求めないと、主は帰ることができないのです。

そして、主が帰って来る日は、ちょうど「ノアの日」とよく似ているというのです。

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ノアの洪水、みなさん、ご存じでしょうか?ここに一つの絵があります。洪水が起きる前、ノアのじいさんは、山の上で船を作り始めました。みんな、「あのじいさんは、なんて馬鹿なことをしているんだ!狂っている。船は海の上に浮かべるものなのに、山の上に作って、何を考えているんだ!」とあざ笑っていました。しかし、ノアは神の言葉を聞いて、箱船を作っていました。やがて、その事が起こりました。

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大雨が降って、箱船に入ったものだけが助かったのです。こんな事が歴史の中に起こったわけであります。世界にかつて、大洪水が起こった事が、様々な古代の石碑や書物に記録されています。
マタイの福音書二十四章三十七節〜三十九節、

『人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。』

イエス様が帰られる日は、ある意味、みんなが「うまくいっているじゃないか。平和じゃないか。安全じゃないか。何も問題ないぞ。」というただ中に、帰って来られるのです。しかし、箱船、すなわち、イエス・キリストを信じた者たちのみが、主の再臨にあずかることができるのです。
私たちの福音宣教は、ある意味、丘の上で船を造るようなものかもしれません。多くの人たちは「教会は一体、何やってるんだ。キリスト教の教えなんて、日本に合わないよ。」と言うかもしれません。しかし、私たちは福音を伝え続けなければならないのです。
人々が予想だにしないような時に、突然、イエス様は帰って来られると言うのです。突然、帰って来られるのです。
しかしながら、その日を予想できる情報も、聖書は多く記しています。

特にこの「ノアの洪水」と、「主が帰られる日」が聖書では、対応しているのです。ノアの時代の前後が、どういう時代であったかを学ぶ時、主が帰られる時期も予測がつくわけです。
ノアの洪水の記録は創世記七章ですが、六章を見ると時代背景が分かります。創世記六章一節〜七節、

『さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。』

実は、ノアの洪水に至る前提に何があったかというと、人の罪がありました。はじめ、人は、永遠に生きる存在として造られていたのですが、人が罪を犯すたびに寿命が縮まって行きました。それは以前にもお話しさせていただきました。
人間の根源に「情報」があるのです。

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それは遺伝子情報、DNAです。A・G・C・Tという、たった四つの物質の組み合わせで、人のすべてができているのですから、驚きです。

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三十億くらい暗号情報が並んでいるです。こんな情報、誰が置いたのでしょうか。神以外にありません。情報を置くことができるのは、知的存在以外にありません。
はじめの情報はどういうものだったかというと、人は決して死なない、不死をまとった存在でした。しかし蛇と出会った時、死ぬ者となったのです。さらに、この創世記六章で、寿命がガクっと落ちているのです。
それをグラフにするとこうなると、以前にも見せましたが、ノアの洪水までは、平均年齢が九百二十九歳でした。うちのばあちゃんなんか、まだ十分の一しか生きていません。これからまだ長いね。

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しかし、ノアの洪水以降、神様が言われたとおりです。寿命が落ちて、百二十歳が最高になってしまいました。今、ギネスに登録されているのも、百二十以上の人はいないです(現在世界最高齢は百十一歳)。本当に神が言われたとおりです。

特に、寿命が下がったのが、ノアの洪水の直前です。六章はなかなか理解が難しい箇所ですが、一つ言えるのは、人が、悪霊が介入するような性的行為を行ったということです。それは性的罪です。生殖行為は、神が人類に子孫を残す為に与えたものです。しかしこの命を受け継ぐ行為に、悪霊が関わると何が起こるのでしょう。命が破壊されるはずです。
性的な罪が人類はびこった時に、今まで九百代だった寿命が、百二十才まで落ちたのです。
現代社会はどうでしょうか。性的な罪が世界に蔓延しています。それは何を意味するのか。今の科学と対応させるならば、遺伝子に悪い変化が及ぶということではないでしょうか。若い方々も、様々な誘惑があったとしても、絶対に負けてはいけません。それはみなさんの命に関わることだからです。神の警告を無視し、命の領域で一線を越える時、寿命が削られても人類は文句を言えません。
医学が発達しているのにも関わらず、不治の病が多くあります。その原因が、遺伝子的問題だと言われます。そこには世代を超えた、性的罪が関わっているのです。
ノアの方舟の前、世界には性的罪が蔓延し、ネフィリムと呼ばれるモンスター的な存在まで現れた事を教えています。「こりゃ大変だ。こんな人類、長く生かしておいたら大変なことになる」と、神はノアの洪水によって、人類を一度リセットしたのです。

これは世の中が性的に乱れきった時期に、主が帰って来られることを示唆していると思います。
実に、現代人は、汚れの中に生きています。しかしクリスチャンは、主をお迎えするために、聖さを身にまとわなければいけないのです。
もしも今年、イエス様が帰られたら、箱船に入れる人は幸いです。そのためには、「汚れから離れ、聖い生活をしなさい」と、主は語られています。
特に与えられた、七章一節の言葉は、

『主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。』

ノアの時代、ネフェリムが現れて、性的罪が蔓延し、偶像礼拝が蔓延し、どうにもならない汚れた世界になっていました。しかし神はノアを見て、「あなたは正しい。」と言われたのです。彼は汚れた世界のただ中で、聖い生活をしていたのです。それで、彼と家族は、箱船に入ることができたのです。

イエス様が帰って来られるその日、主を信じる者たちにとっては最高の日となりますが、主を信じない者たちにとっては、さばきの日となるわけです。この日に備えて生きることは、大変重要です。特に今年、主は『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。』と語られている気がします。
昨晩、二〇一四年最後の聖餐式を行いましたが、本当に恵まれました。若者と、お年を召した方々とグループを作り、共に聖餐式を持ちました。それは何のためかといったら、私たちの生きているこの時代に、主が帰って来られるように祈り、聖餐式を持ったからです。それが起こったら、どんなに素晴らしいじゃないですか。今日、こうして一緒に礼拝を守っているただ中に、主が帰って来られる。そんなすばらしいことはありません。地上で、愛し合い、過ごしている家族のただ中に、主が帰って来られる、家族全員が箱船に入る、こんなすばらしいことはありません!
今年は会衆のただ中に、主が帰って来てくださるよう、「この世代」に、主が帰ってくださるよう、祈りましょう。
「マラナタ!主よ来てください!」と祈れ、と主が語られているような気がしてなりません。

それが、私たちの世代に起こるか否かは、誰にも分かりません。しかし、その事を祈り続ける時、主は帰って来られるのです。
私たちの時代に、『あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを見た。』それでノアは家族と共に、箱船に入ったのです。そのような年となったら、最高です!


最後に二〇一五年に対する預言的メッセージとして、先生方のメッセージをまとめさせていただきます。先生方のメッセージをよく読んで、ご自分でまとめてくださっても結構ですが、私なりに、まとめさせていただきました。



<<二〇一五年に対する預言的メッセージ>>

どんな場合でも、希望を失ってはいけません。希望を持ち続けるなら、二倍のものを受けるでしょう。今年は戦後七十年であり、日本の解放の年です。日本のリバイバルは、世界に大きな影響を与えます。あなたのほしいものを、わたしに願いなさい。わたしはそれをしましょう。

自然界には「種を蒔いたら収穫する」という法則があります。あなたに委ねられた種を、自らの手でまきつくしなさい。人の歓心の為にではなく、わたしの為に、御霊によって種を蒔きなさい。その時、多くの収穫があります。

マリヤはわたしの足下に座り、み言葉に耳を傾けました。それは彼女が来たるべき時に備える為でした。
今年わたしは新しい事をします。あなた方が備えているなら、わたしはあなたがたに、その事を知らせます。

主の臨在が、敵を倒します。敵の面前で賛美し、わたしを誉め称えなさい。世界はさらに悪が増大し、人の心は汚れに傾くでしょう。しかし、あなた方はさらに聖くなりなさい。なぜなら、わたしの帰る日が近づいているからです。

洪水の日に一家そろって箱船に入ったノアのように、家族、教会に属するすべての者たちが、そろってわたしと出会えるよう、祈り備えなさい。
わたしの夢をかなえる為に、働く教会になってください。


このようにまとめさせていただきました。二〇一五年、主からいただいた御言葉のとおりに進みますように。主は近いのです。心を引き締め、この世の流れに従う者ではなく、何を言われても丘の上で箱船を作り続けたノアのようになりたいと願っています。最後に一言、お祈りさせていただいて、新年のメッセージにかえさせていただきます。


ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめ、心から感謝をいたします。このような歴史的な時代に生かされていることを、心から感謝します。あなたが持っておられる夢が、この地に実現するために、私たちを用いてください。このようにして、主からの御言葉をいただくことができ、この恵みを心から感謝します。この御言葉が、今年は確実に実現しますように。
一人一人に与えられた種を、育て、蒔ききっていくことができますように。
マラナタ。主よ、帰って来てください。共に礼拝しているこの世代に、主よ。帰って来て下さい。私たちは心から希望します。今年がその年となりますように。この時を心から感謝し、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。