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「幸せって何だろう?」

2010.10.24(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

第一テモテへの手紙 6章6節〜8節
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日はこうして共に礼拝が守れます事を感謝します。
 「リソス」の爽やかな青春を思い出すような歌声を聞くことができまして、感謝します。「君なら大丈夫だよ」と歌って下さいましたが、私には「君でも」と歌ってほしかったな、と思いました。今朝も主が一人一人に祝福を与えてくださっていることを、感謝します。

 今週は韓国のコチャンから、13名の先生方や信徒の方々が来られます。日本に来て一緒にとりなし、祈りたいと願い来られるのですが、是非とも、みなさんも祈りに参加していただきたいと思います。
 コチャンという場所は重要な所で、ある意味、日本の根源とも言うような場所です。日本神話の里みたいな所で、昨年、主が偶然というか計画の中でその場所に導いてくださいました。そしてその街で日本のためにとりなす祈りが始まり、今年は新城に来てくれることになりました。日本のリバイバルに大きな関わりがあるのではないかと思っています。明日は交わり会もありますし、セミナー等もありますからお越しになっていただきたいと思います。

 みなさんのお祈りに支えられ、約二週間アメリカで奉仕をさせていただきました。どこでも主が働いてくださり、皆様方のとりなしの祈りを強く感じる二週間でした。本当に感謝します。
 まずはイリノイ州に行き、その後ニュージャージー州、ニューヨーク州、メリーランド州で集会を行いました。いろいろな教会から奉仕を依頼されましたが、どこでも祝福を見ることが出来ました。心から感謝します。

 少し写真を撮って来ましたのでお見せしたいと思います。
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 イリノイ州の田舎は360度地平線というような場所です。そこにあるアメリカ人の教会で奉仕をしました。ジョー先生と一緒に霊的戦いセミナーを3日間やりました。
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 通訳の方も、現地にいる日本人の方で、その方が霊的解放を受け、そこから働きが始まりました。もう2年続けてやっていますが、地域の教会の方々が集まっています。また来年も是非やってくださいと、継続性のある働きをさせていただいています。
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 これは、ニュージャージーの韓国教会ですが、熱く、聖霊に燃えていました。リバイバルに燃える、若い人たちの集会でした。
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 これはニューヨークのロング・アイランドにある教会です。伝統的な雰囲気の教会です。後ろを見るとパイプがいっぱいあって、私にはあまり似合わないような教会でしたが、この教会もリバイバルに燃えていました。
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 これはメリーランド州の教会です。韓国リバイバルミッションで賛美リードをしてくださったアンジヨンという兄弟がいたのですが、彼のお父さんが牧会している教会です。数百人の方々が集まっている大きな教会です。そこで3日間のリバイバル聖会をさせていただいたのですが、熱く燃える集会となりました。本当に皆さんのお祈りに支えられました。
 このような集会は、私一人ではなかなか手に負えません。ですから、私と家内と、それからいつも一緒に行ってくれるのが、信弘先生の娘の泉ちゃんです。彼女は本当にすばらしい賜物があります。英語はぺらぺらですし、韓国語もぺらぺらです。そして、海外で車も運転します。
 韓国教会だと、集会が終わってから大勢の方々ために祈らなければなりません。時には、数百人の為に祈ります。一人一人の祈りの課題を聞い祈ったら、誰かが自分の生い立ちから話されると、一人だけで終わってしまいます。それで一人一人に紙を渡し、名前と祈って欲しい課題を書いてもらうことにしています。それを片っ端から、泉ちゃんが現場で訳すのです。それを通訳者の所に持って行き、私は日本語のメモを見ながら祈ります。祈ると、聖霊さまが働いて、いろいろな現象が現れる事が多いです。もう少し具体的な祈りが必要かなと思われる人を、私は家内に渡します。そうすると、一晩で大体二百人くらいの解放の祈りが出来ます。かなり疲れますけれども、素晴らしい集会となります。
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 また、今回は集会の合間に、各地にとりなしの祈りに行きました。これは、「カホキア」と言って、イリノイ州にあるのですが、日本の平安時代と同じくらいの年代にインディアンの人たちが、数万人規模で都市を作っていた場所です。ここを見ますと、アメリカに最初に入って来た人たちが、アジア人だということがよくわかります。
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 これは彼らの墓ですが、日本にある古墳と同じ形をしています。日本と同じような祖先崇拝、偶像礼拝がアメリカで長いことなされていたのです。
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 ここは、ニューヨークを作る原点となった場所です。この場所から石を切り出してニューヨークを作りました。「ベアーマウンテン」という場所です。そこに是非とりなしに行ってください、ということでした。フリーメーソンという団体の人たちが作った塔で、不気味な場所でしたが勝利を祈りました。
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 大きな岩を礼拝している場所です。岩が焦げているのですが、岩の上で小動物を殺して魔術をやっているようです。今月は10月ですけれども、10月はアメリカは「ハロウィン」と言って、大きな祭りがあるのです。日本の「盆」と同じです。それは偶像礼拝であり、祖先崇拝ですが、人々はあまりそれに気づいていないようです。今回、そのテーマでもお話をさせていただきました。
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 移動は飛行機を使ったり、ある時はレンタカーで移動しました。レンタカーを借りてくるように泉に頼んだら、小さい車を借りて来るように頼んだのですが、こんなでかい車を借りてきました。車で何百キロも移動するのですが、彼女は運転もうまいです。でかい車でもへっちゃらです。車に乗り込んだら「みなさんゆっくり寝ていてください。私が全て運転しますから」と、たくましいというか、心強い限りです。
 でも、私は彼女の運転を見て「ちょっとスピードが速いんじゃないの?」と注意したのですが、後ろを見たら、既にパトカーが追いかけていました。それで捕まって、20マイルオーバーで200ドルの罰金でした。しかし、彼女は強かったです。全然びびってませんでした。「今までにアメリカで3回捕まったことがあるから、大丈夫だ」とか言って平気でした。私たちのほうが心配しました。
 しかし、こういうことを通しても、神様が生きていることがわかります。なぜなら、200ドルの罰金だったのですが、200ドルって結構なもんです。彼女は「円高だから大丈夫だ」とか言ってましたが、そんな問題じゃないと思ったのですが、一緒に行ったムン先生が「泉ちゃんかわいそうに。私が百ドル献金させてください」と言って彼女はすぐに100ドルをゲットしました。
 そして、ある教会に行きました。集会が終わったら、彼女の近くに座っていた人が彼女の所に来て、「集会中に、あなたが必要を感じてるって神様が言われました。あなたに献金するように語られたので、これをあなたの必要のために使ってください」と言って、封筒を手渡したのです。全員で焼き肉を食えと言って封筒をもらったのかと思ったら、「いや、私が必要を感じてるから、くれるって言うんですよ」と言って、封筒を開けたら、いくら入っていたと思いますか?なんと、100ドルです。それで、罰金200ドルは支払えたのです。いや〜、主は生きているな〜と思いました。
 今日は泉ちゃんをフィーチャーしています。彼女は主のために一生懸命がんばっていますから、助けてくれています。

 今回は、ちょっと戦いもありました。私の奥さんが途中で合わない化粧品を使って、顔に湿疹ができてしまいました。家内は少し落ち込んでいましたけれど、二回も病院に行きました。ニュージャージーで一回、マンハッタンで一回病院に行きました。普通じゃなかなかアメリカの病院には行けないと思いますが、太い注射をされました。向こうは医療費がむちゃくちゃ高いのですが、感謝な事に全部ただでやってもらいました。それで良くなりました。

 アメリカは大きい家が多いです。
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 この家に泊めてもらったんですが、豪邸です。
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 この家もでかいです。家の中で自転車がいるくらい広いんです。嘘じゃありません。それで、私は家主に「ビデオ撮っていい?」と聞いたら「いいよ」と言いましたので、撮ってきました。みなさんの中で、家を建てようと思っている方、参考にしてください。
 家の建坪は400坪だそうです。お宅は何坪の計画ですか?25坪ですか?それはこの家の玄関と同じ広さです。400坪の家に住んでいるのはたった数人です。寂しくないかいと思うんですが、いくつもテーブルが並んでいて、博物館みたいです。韓国人の方ですが、こっちに来て事業が成功し、すごい家に住んでいます。お客さんが何百人来ても入れる感じです。新城教会の教育館が300坪ですから、それより100坪広い家に住んでいる人がいるんですね。「土地はどこまであるのですか」と聞くと、「向こうに見える森までだ」と言っていました。

 さてここで、もう一軒の金持ちの家を皆さんにお見せしたいと思います。今年は、私はいろんな国に行きましたが、ネパールにも行きました。次に見せたいのは、ネパールの山地族の豪邸です。
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 これが山地に住むお金持ちの豪邸です。なんでお金持ちの家だとわかるかというと、
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 ご覧のように、かまどが二つあるからだと言いました。普通、かまどは一つしかないけど、金持ちだと二つあると言うのです。
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 この付近の子供たちは、みんな裸足です。2、3年前はみんな裸でした。古服を韓国の教会が配ったので、今はみんな服を着ています。でも、去年あげた服をそのまま着ていると言っていました。
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 ここはどこかと言うと、ペルーです。今年の六月に私はリマの郊外の貧しい地域に行きました。そこで撮った写真ですが、私たちを大歓迎して夕食会をしてくれた時の写真です。このダイニング、なかなか素晴らしいダイニングじゃないですか。先ほどのアメリカのダイニングとは違い、周りにはいろんな廃品が転がっています。
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 大歓迎の大ごちそうなのです。

 今、様々な場所をお見せしましたけれど、今日はなんか関係ない事を語っているなぁと思っているかもしれませんが、これらは全て、本日のメッセージに関係あるのです。

 今日は、「幸せって何だろう?」というテーマでお話をさせていただきたいと願っています。さて、聖書の幸せの概念は、どういうものでしょうか。
テモテへの手紙第一 6章6〜8節、

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。

 世界に出て行きますと大きな家に住んでいる人もいれば、私たちから見たら貧しい場所に住んでいる人たちもいます。世界中の人たちは、少しでも多く利益を受けようと、金持ちになりたいと願って生活を営んでいます。それはどの国の人も変わらないのですが、幸せって何かを一言で現せば、「満ち足りた心」が、幸せの条件ではないかと思うのです。

 アメリカの豪邸の奥さんと話をしたら、大きな家に住んでいるのですが、もっと広く大きな家に引っ越したいと言うのです。なぜかと聞くと、「狭い」と言うのです。その人は精神的に悩んでいて、毎晩、睡眠薬を飲まないと寝れないと言っていました。私はその方のために、お祈りをさせていただきました。それを見て、何が幸せかと言えば、「満ち足りている」と思えることが、一番の幸せだと感じました。

 みなさんはどうでしょうか?今、満ち足りていますか?今を満足していますか?満足しているならば幸せです。衣食があればそれで満足すべき、と言っています。
 今日、みなさんは朝ご飯は食べましたか?朝ご飯を食べて教会に来られたと思います。また立派な服を着て教会に来られましたね。ということは、それで幸せなのです。それで満足しなさい、というのです。
 「満ち足りる心」が大変重要です。上を見ればキリがないと言われますが、満ち足りる心があれば幸せです。満ち足りる心がなければ、どんなに素晴らしい家に住んでいても不幸せです。

ここではまた、「大きな利益を受ける道とは何か」についても教えています。それは、「満ち足りる心を伴う敬虔」だと言うのです。
 「敬虔」というのは、どういう意味かと言うと、それは「神を深く礼拝し、敬う人」のことを指します。「あの人は敬虔な人ですね」と言うのは、「神を深く礼拝し、敬っている、神様のことをいつも思っている人」それが「敬虔な人」と定義できると思います。満ち足りる心を持ち、敬虔に生きるならば、なんと、大きな利益を受け取ることが出来ると言うのです。この世の世界観と、聖書の世界観はだいぶ違うのです。聖書を学ぶ時、それらに気づかされます。
テモテへの手紙第一 6章6〜10節、

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 私たちは、資本主義の社会に生き、資本主義経済の価値観のただ中で活動していますから、一円でも多く金を得ようと過ごしています。でも聖書が警告していることは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だ」と言うのです。「お金」を否定しているのではないのです。何が悪いのかと言うと、「金銭を愛する」ということが、「あらゆる悪の根」だと言うのです。「私の恋人はお金です」というあなたは、危ないですよ。それは、あらゆる悪の根ですから。
 私たちは金銭をコントロールしなければいけません。また、与えられた物で満ち足りる心を養っていかなければならないのです。
マタイの福音書 6章20〜24節、

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 イエス様は「自分の宝をこの地上ではなく、天にたくわえなさい」と語られました。
 やがて私たちはこの地上から出て行かなければなりません。やがて天国に行くのです。しかし、地上で主のために働いた全ての行ないは、天に宝として積み立てられるのです。私たちが天国に行った時、地上で神のために働いた報いを受けることが出来ます。そこは決して虫もつかないし、錆もつかないし、盗人が穴を開けて盗むようなこともないのです。だから、この地上に視点を置くのではなく、天を見上げて進んで行きなさいというのが、聖書の教えです。
 「宝のあるところに、あなたの心もある」とありますが、実は人間は、目で物を見ているのではなく、意思で見ているのです。「宝のあるところに、心もある」とありますが、人は関心があるところに目を向けます。
 この頃、ドラゴンズが優勝しましたよね。ドラゴンズ・ファンの方々は相当にエキサイトしたと思います。ドラゴンズの動向は全て把握していたと思います。でも、野球に関心がない人は、どこが優勝したのか、どうなっているのか、全然見えなかったと思います。私なんかあんまり野球は好きじゃないので、信弘先生のようにドラゴンズにはあまり関心がないのです。私はどっちでもいい方なのですが、信先生は全部知っていました。岡本家はみんなドラゴンズファンで、昔、滝元家がジャイアンツファンで、それでちょっと喧嘩していたところもあったんですが、本当に馬鹿なことで揉めたりするわけです。
 私たちはどんなところに関心を持っているのかで、入ってくる情報が変わってきます。
 ここでイエス様が言われているのは、「体の明かりは目だ」と、「それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」と言われましたけれど、目が健全というのは、近眼だとか老眼ではなく、「どういう視点で生きているか」であるわけです。
特に先ほど述べられていたように、「満ち足りる心を伴う敬虔」によって生きるならば、幸せに生きることができるのです。そして、「金銭を愛することがあらゆる悪の根だ」ということを、しっかり知って、そのような目を持って生きるならば、幸せに生きることが出来ます。私たちの目を健全にしてもらわなければなりません。
マタイの福音書 6章24節、

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 神と富に同時に仕えることは出来ないとあります。これは比較対象ですが、「仕える」とは、人格的なものにしか出来ません。物に仕えることはできません。
 神様は、人格を持った存在です。「富」とは何かというと、これは経済活動の所産ですから、存在ではありません。本来ならば「神にも仕え、富にも仕える」という比較対象は成立しないはずです。しかしイエス様は「神にも仕え、富にも仕えることはできない」と語っています。
 実は、新改訳聖書では、「富」というところに*印がついていて、下を見ますと、「マモン」と記されています。以前にも、ここから少し話をさせていただいたことがあるのですが、「マモン」が、「富」を現す言葉という説と、もう一つ、「マモン」とは、カナン地方のフェニキア人、ペリシテ人の信仰していた神々の一人という説があります。
 実はこのマモンというのは、ただ単なるお金とか富ではなく、富やお金を司る悪霊だと言うのです。神にも仕え、「マモン」というような、金銭・経済を握っている悪霊に同時に仕える事は出来ない、と言っているのです。この説の方が分かりやすいと思うのです。なんと、この「マモン」という悪霊は神と対比されるくらい、パワフルだというのです。
 ある意味で、現代社会を見るならば、神に対抗する勢力は、経済ではないかと思われます。経済の背後に、「マモン」という悪しき力が働いていることを、知る必要があります。
 日本はどうでしょうか?お金が儲かるということで、いろいろな神々が礼拝されています。近くの豊川稲荷も、お金を儲けさせてくれる神ということで、人々は拝みに行きます。日本には、お金を儲けさせてくれると言う悪しき力がたくさん存在します。
 私たちは、「神にも仕え、マモンにも仕えることはできない」という御言葉を理解する必要があります。経済的領域に巧みに、サタンが罠を張っているのです。

 先日、ある牧師が語ったメッセージをネットで読みましたら、何年か前にもそれを紹介させていただいたのですが、「マモン」という霊的な力に影響をされるとどんな症状が起きるのか、ということが語られていました。それは主観的なものかも知れませんが、間違ってはいないと思います。十項目あげられていましたので、みなさんもチェックしてみて下さい。
 まず一番目に、マモンの霊に惑わされると、「お金のことでいつも心配になる」とありました。いつもお金のことが心配という人は、マモン神の影響だと言うのです。
 また、「お金の管理がなっていない」、この頃も、お金の管理が出来なくて問題が起きることが多いですよね。また、「お金が常に不足している、あるいは不足感に悩まされる」、四番目に、「私にはそんな余裕がない、という考えがいつもある。」五番目に、「度重なる衝動買い」となっていました。衝動買いに負ける方は、マモンに負けているのかもしれないです。
 六番目に、「ケチ」、七番目に、「強欲、拝金主義」、八番目に、「不平不満」、九番目に、「負債に縛られる」、十番目に、「お金に対する過大評価」。それらの症状はマモンの霊の惑わしだと語られていました。これがどこまで本当かどうかは分かりませんが、なんらかの影響があることは確かです。やはり、神に対抗する敵の力が経済界には働いているのです。
 でも、私たちが聖書の御言葉に従って歩むならば、そんな中でも守られ、祝福を受けることができるのです。
マタイの福音書 6章31〜32節、

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 私たちは時々、お金のことを心配したり、衣食住のことをいろいろと心配するのですが、父なる神様は、私たちの全てを知っておられます。「主は全てをご存知だ」という信仰を持つ事が大切です。
そしてこの御言葉に続きます。マタイの福音書 6章33〜34節、

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 幸せになる条件は何かというと、「神の国とその義を第一に求める」そうしたら、必要は全て与えられると、約束しているのです。「満ち足りる心を持つ敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」と、パウロは語りましたが、イエス様も同じ事を語られています。「神の国と神の義を第一にしたら、全てが与えられる」というのです。

 実は、アメリカに行きますと、やはり日本以上に富んだ国で、あんな大きな家に住んでいたり、とてつもないお金持ちに出会ったりします。もちろん、貧しい地域もあるのですが、信じられないくらい資本主義経済が発展しています。アメリカは資本主義で成り立っている巨大な国家だという印象です。

 今、世界の中心的主義は、「資本主義」になってしまいました。今から数十年前は、共産主義が一世を風靡した時代があり、共産主義が世界を乗っ取ってしまうのではないかと危惧しました。しかし社会主義国家のソ連も崩壊してしまいましたし、今では中国も資本主義経済を導入しています。現在、共産主義を掲げる国は本当に少なくなりました。
 私の小さい頃は、「共産主義に乗っ取られないように」という恐怖感があり、日本も共産党に乗っ取られ、クリスチャンは迫害されるのではないかと心配していましたが、知らないうちに、ドイツの東西の壁も崩され、みんな資本主義になってしまいました。そして、その資本主義が一番発展した国が、やはりアメリカです。

 実は、今回アメリカに行く時に、一冊の本を飛行機の中で読みました。これはクリスチャンの本とは関係ないのですが、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という題の、マックス・ウェーバーというドイツの宗教社会学者が書いた本です。彼の評価もいろいろあるので、一概には言えないところもあるのですが、おもしろいので読んでみました。
 キリスト教は、16世紀に大きな転機を迎えます。それが何かというと、「宗教改革」です。それまでは、ローマ・カトリックが強い勢力を持っていたのですが、16世紀に、ルターとかカルビンという人物が出て、また、社会運動も同時に起こり、長いこと続いたローマ・カトリックではなく、もう一度信仰の原点に戻ろうという運動が起こりました。
 新城教会はプロテスタント教会に属していますから、宗教改革によって生み出された教会の一つです。
 実は、このマックス・ウェーバーという社会学者は結構鋭い視点を持っていて、彼が何を言っているのかと言うと、資本主義というのが大阪商人の中からも出ず、中国の華僑たちからも出て来なかったというのです。
 普通はどうでしょうか?資本主義経済が発達すると思われるのは、お金を扱って、お金が好きで好きでたまらず、そんな中から経済活動が活発化し、資本主義が生まれるように思うのですが、実はそうではないと言うのです。
 資本主義が生まれたのは、どこからかというと、プロテスタント運動というか、宗教改革によって生まれたと言うのです。普通では全然考えられないことを彼は語っています。
 宗教改革とは、ある意味、お金持ちに対する反発でした。長い間、ローマ・カトリックに乗っ取られ、大きな荘園が出来、教皇と教会関係者に支配され、富を独り占めされていたのです。そして農民たちが小作人として使われるような構図がありました。ですから宗教改革者たちは、皆、お金や富みに対して反発しました。
 しかし、そんな中から、世界の中心的イデオロギーである資本主義が生まれたと言うのです。資本主義には宗教的概念が根源にあると分析しているのです。それが正しいかどうかは別として、ある意味で頷けると思いました。

 マルチン・ルターという人物が、宗教改革を始めたのですが、彼の主義主張の特徴は、「天職」と言いまして、当時は世俗的と考えられていた職業が、「神から与えられたものだ」という主張でした。その考えはカルビンなどにも受け継がれ、「職業は天職であって、神から与えられた使命を全うするために、禁欲的生活をする」というものでした。「禁欲」がどういう意味かと言うと、欲望を我慢するという静的な考えではなく、自分の行動の全てを、一定の目的のために組織するという意味でした。スポーツ選手や受験勉強などもそうですが、目的を達成するために全身全霊を込めて、自分を律しながら進んでいくのです。
 職業も神のために、また人のために、全身全霊をもって我が身を律しながら、働くという考え方が宗教改革によって生まれたというのです。
 普通では、お金なんかノーというような人たちが、なんと自分に与えられた仕事を「神様からもらった天職」と考え、仕事の中で「神の栄光を現していこう」と、敬虔に生きて努力したと言うのです。

 実は、アメリカは、ピューリタンという一つのグループが中心となって出来た国とも言えます。その人たちは、清く・貧しく・美しくというような概念を持った人たちでした。しかし彼らは自分に与えられた仕事を天職として、自分を律しながら、真剣に働いたのです。その結果何が生まれたのかというと、結果的に、多くのお金が残ったというのです。そして、そこから資本主義経済の形態が生まれたというのです。

 聖書が言っている通り、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」と、私たちが神のために一途に生きて行く、神の国と神の義を第一にして生きていくと、全てが与えられますという御言葉が、宗教改革を通して知らない内に実践されたわけです。そして、気がついたら、多くの富が残っていたというのです。それは聖書の原則の実践でした。
 けれども、今の、資本主義経済には最初の考えは跡形もなく消えて、かなり変わってしまっていると、ウェーバーは嘆いてはいるのですが、私たちが祝福されるためには、神の原則に従って歩んでいくことが重要であり、与えられているポジションに不満を持つのではなく、置かれている立場は、神が与えてくださったと固く信じて、一生懸命神の栄光を現す為に働くならば、結果的に大きな利益を受けるのです。そのように、敬虔を伴った満ち足りた心で歩んでいくならば、歴史が証明しているように、気がつくと、大きな利益に繋がるのです。
 我々はとかく、大きな利益を受けようと、金銭を愛する考えを中心として動きやすいのですが、そこには答えはないのです。そのほうが自分に対して得であると行動をしてしまうのですが、そうではなく、聖書の教えで歩んで行く時、気がついた時に大きな利益を得ているのです。
 パウロがこんな風に言いました。ピリピ人への手紙 3章13〜14節、

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 彼は、目標を目指して一心に走ったと言いましたけれども、私たちの人生もこうありたいですね。神の栄光のために、神の国の拡大のために、一心に走って行く。そして、気がつく時、私たちのに祝福が留まっているということです。
 案外、私たちは、それが逆になり、祝福を求めるために神を利用するような考えに陥りやすいのですが、そうではなく、パウロと同じように、「目標に向かって一心に走っていく」それが、最も豊かになる秘訣です。また、幸せな人生のための最も重要な原理です。
 パウロが「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」と言いました。私たちはいろんな立場に置かれていますが、栄冠を受けるまで、全ての誘惑や、全ての悪しきものをはねのけて、一心に走る時、結果的に、人生は豊かになりますし、周りも祝福されるのを見ることができるはずです。

 「神の国とその義を第一に求めなさい。そうしたら、全てが与えられます」と言われましたが、「神の国」とは何でしょうか?
 イエス様がこの地上に来られた時、旧約聖書時代には起こらなかったことが、突然起こり始めました。それは何かというと、神の国が現れたのです。
ユダヤ人たちは、神の国の現れを強く求めていました。「神の国が来ますように、神の国が来ますように」と毎日のように祈っていました。今回、イスラエル旅行に行かれた方々は、イスラエルの現実を見られたと思います。今でも、嘆きの壁の所に行くと、ユダヤ人たちが多く集まって真剣に祈っています。何を祈っているのかというと、「神の国が来るように」と祈っているのです。
 この「神の国」というのが、どのように描かれていたかと言うと、「神の国が来たら、全てがうまく行く、きらびやかな花畑が地上に降りてくる」というような概念でした。

 しかし、イエス様が来られた時に、何が起こったかと言うと、なんと悪霊が追い出されるということが起こりました。今までイスラエルにおいて沈黙していた存在が明らかになりました。それはすごくショッキングなことだったようです。人々は悪霊が追い出される光景を見て、「これはなんだ。ベルゼブルという悪霊の親分を使って、イエスは仕事をしているのではないか」とけなしました。その時に、イエス様は一番厳しい言葉を語られました。それは、聖霊様の働きを悪霊の働きだとユダヤ人が語ったことに対して、その罪は赦されないと言われました。その後、「聖霊によって悪霊が追い出されているとしたら、それは神の国があなたがたのただ中に来ているのです」と語られました。

 実は、神の国とは、ユダヤ人が思っていたような、きらびやかな概念とは、全く違い、沈黙の存在が露にされるという、悪霊どもが追い出されるということだったのです。彼らはそれを受け入れることができませんでした。そして、イエス様を拒否してしまいました。

「神の国とその義を第一に求めなさい、そうしたら全てが与えられます」とは、もちろん、私たちが神を第一にして、神のために生きて行くことですが、「神の国」は何かと言ったら、それは「暗闇の力が打ち砕かれること」、それがイコール、「神の国そのもの」なのです。
 ということは、「私たちが、神の国の兵士として、神の軍隊にしっかりと加わって戦って行く時、気づくと必要は全て与えられます」ということを意味しているのだと思います。

 私は近ごろ、韓国教会で奉仕する機会が多いのですが、韓国に行きますと、日本と違いまして、男性が結構しっかりしています。韓国は草食系男子は少ないのです。なぜかと言うと、お隣の韓国には徴兵制があり、みんな20歳くらいになると、兵隊に行かなければなりません。
 それは、ある意味で、男としての誇りでもありますが、やはり青春そのものと言うか、徴兵を避けて通ることはできないのです。若者たちはその年代に近づくと、たいへん緊張するのです。なぜならば、2年以上親元を離れて、兵士としての厳しい訓練を受けなければいけないからです。今までお母さんが全てをやってくれて、何もかも整えられていたのが、入隊したら、全て自分でやらなければいけないし、今までとは全く違った環境になり、すべてが変わってしまうからです。だから、日本のようなひきこもりとか、そういう問題は少ないというのです。なぜなら、やはり、徴兵制があって、社会に緊張感があるので、そんなことは言っていられない、というのです。

 先ほども、「幸せって何だろう?」と言いましたが、私はネパールの山の中に行って考えさせられました。そこには何もありません。食べる物もやっとという感じで、着る物も一枚か二枚くらいしかないのですが、結構そこの子供たちは明るく、悲壮感などはありません。
 リマの郊外に行って、アンデスから降りて来た人たちの難民キャンプのような場所にも行きましたけれど、そこにも大勢の子供たちがいました。しかし、すごく明るいのです。「俺たちはこんな惨めな生活をしてる」なんて、全然言っていません。彼らは明るく生きています。「ここにひきこもりの人はいますか?」と聞くと、「みんな外に出ているじゃん」と言っていました。それはそうだな、と思いました。ひきこもる場所もないのです。精神的に苦しんでいる人たちもいなくて、みんな元気なのです。豪邸はないかもしれませんが、彼らは元気なのです。
 本当に、人生って、何が一番幸せなのかって一概には言えないと思いました。大きな家に住んでいても、寝る時に睡眠薬が必要だと言っている人よりも、山の上の子供たちのほうがずっと幸せじゃないかなと。満ち足りる心を持つのは、すごく重要だと思いました。
 満ち足りる心、敬虔、これは、「神の国を第一に求める」ということです。それは、何かと言ったら、「神の軍隊に加わる」ということです。

 徴兵制があって、韓国の若者たちが軍隊に入ると、何が起こるかと言うと、兵士たちの目的はただ一つです。それは、「敵と戦い、敵を倒す」ということだけに終始するのです。そのための情報を二年間くらい押し込まれるのです。
 けれども、その間の、食事も、住まいも、医療も、例えば病気になった時とか、全ては政府によって整えられます。そして、家に帰ると貯金まで貯まっているのです。

 私たちクリスチャンの生活も同じだと思います。私たちが「神の国とその義」を求め、神の軍隊に入隊して、主のために一心不乱に働く時、気がつくと、神の目的を達成のためには、神は全てを私たちに与えて下さるのです。そして気がつくと、なんと貯金まで残っているという、利益まで出ているのです。これが神の国の法則ではないかと思います。

 今、価値観が多様化している時代ですけれど、教会に来たならば、神の国と神の義を第一にして、主の兵士として、パウロと同じように、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る、このような生活を送っていくならば、気がついたら必要なものは全て整えられるのです。

 主は一人一人に目的を持っておられ、その場、その場が天職なのです。それは神があなたに与えたポジションであり、その中で栄光を現そうとされています。そのために自分自身を律して、真剣に主に仕えて行く時、必要な全てが与えられるのです。

 今回、アメリカで大勢の牧師先生に出会ったのですが、二人の牧師から、同じ預言を受けました。それが、本当かはわかりませんが、普通に食事をしている時に、「順先生、神様が今、語っていることがあるんだけど、告げてもいいですか?」と言われるのです。何を言われたかと言うと、「新城教会に大きなリバイバルが近いうちに起きるって、主が言われるのだけど、その時、私を忘れないでね」と言いました。神が教会に大きなリバイバルを用意しているというのです。
 他の場所に行ったら、また同じことを言われたのです。何か電話して連絡したのではないかと思うくらい、同じことを言われました。「近い将来に、新城教会に大きなリバイバルが起きる」それは神々しい雰囲気の中ではなくて、一緒に食事をしているような中で語られたのですが、もしかしたら、神が教会に大きなリバイバルを起こそうとされているのかなと感じました。それが知らない人たちから語られましたので、本当かも知れません。そのために何を準備したらいいのかと考えさせられました。

 しかしそれは、私たちが主の兵士として、一心不乱に仕えていくことが重要であると教えられました。そんな中で、気がついた時に、大きな利益、すなわちリバイバルが与えられるのではないでしょうか。
 人生が、利益中心で生きて行くと、結果的に大変なことになってしまいます。お金を愛したら大変なことになると聖書は語っています。しかし、神の国と神の義を第一に求めていったら、歴史が証明しているように、資本主義が神の国を求める人たちの中から結果的に生まれたのと同じように、人生の中に、大いなる勝利が現されると期待しています。

 今回アメリカに2週間くらい行って、主が大きな啓示を与えてくださったと、心から感謝しています。私たちは豊かになるためとか、教会が大きくなるためではなく、一心不乱に、神の国拡大のために働いていきたいです。そうすれば、気がついた時、大いなるリバイバルが教会に訪れているでしょう。
 また教会に属している全ての兄弟姉妹が、そんな思いを持ち、働くならば、その時が早まるのではないかと思います。

 お一人お一人、「私は幸せだ、生きてて良かった」と言える人生を歩んでいただきたいと願っています。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける秘訣です」…この御言葉を心に刻んで、今週も主のために心を一つにして、働いていきたいと願っています。
 最後に一言お祈りさせていただいて、メッセージを終わります。


 ハレルヤ、天の父なる神様、御名をあがめ、心から感謝します。
 あなたは聖書の中に、祝福される原則を置いておられることを感謝します。今、私たちに、満ち足りる心を与えてください。主よ、あなたのために、更に敬虔に生きることができますように。神の国の拡大のために、前進することが出来ますように。
 今日ここにおられる一人一人の上に、特別な祝福を与えてください。イエス様の御名を通して、勝利を宣言して、祈りを御前にお捧げいたします。 アーメン。