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「幸せになる秘訣」

2010.11.21(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

使徒の働き 20章34節〜35節
あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」


 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日はこうしてみなさんの前でメッセージを語らせていただけますことを本当に感謝しています。
 今も素晴らしい演奏を聴かせていただきましたけれども、新城教会には素晴らしい音楽の賜物を持っておられる方が多くおられて、毎週素晴らしい賛美を聴かせていただけることを、また、共に賛美できますことを本当に感謝しています。
 先ほど、ある方から「これ聞いてみて」とある音楽を聴かせていただいたんですが、何かと思ったら、なんと、30年前に私が歌っていた「グロリアシンガース」でした。こんなに長いこと聞いてくださっているのかと、本当に感動しました。私はほとんど、自分の音を持っていません。そういえば、昔は真剣に音楽をやっていたな、今は職種が変わってしまったな・・・。人生、変わったもんだ、と懐かしく思いました。
 私も昔は賛美の働きをしていました。また賛美リードなんかもやっていましたが、今では「あの頃の順ちゃんはどこに行っちゃったのか?」という感じです。
 でも、今はこうして御言葉を語ることが出来るようになって、本当に感謝しています。私は幸せだな、と本当に思っています。今まで生きて来れて、本当に幸せだと感じています。

 つい最近、3人目の孫が生まれました。3人目ともなると、少し感動が薄くなるところもあり、まだ実際に会っていないんですが、名前を聞いたら、「たみちゃん」だと言ったので、なかなか古風な名前を付けたなと思ったら、「『たみ』じゃない。『たみぃ』だ、と言われました。海外でも通用するように「多実」と書いて「タミー」と読むそうす。

 私はこの11月で、結婚して34年にもなるんですが、主が今まで支えてくださったことを心から感謝しています。
みなさんも教会に来て、いろいろ人生が変わったと思うんですが、真理に触れる時、真の神に触れる時、幸せになることができます。教会は、みなさんのための「幸せ応援団」になりたいと願っています。

 聖書とは全然関係ないんですが、「この頃、小話をやらないね」と言われたので、ちょっとやってみたいと思います。

 中学生の時、バスケ部の顧問の先生が「君たちにはとても素晴らしい素質がある。だからたくさん練習すれば絶対に強くなるんだ。がんばろう!」と語った後で、「で、明日の練習はお休みにします。」としめた。とても熱いけど、ちょっとずれている。

 小学校5年の息子が学校からもらってきた書類に、その日の体温を書き込む欄があったので、体温を計らせた。計り終えたので「何度だった?」と聞くと、「365度!」と答えた。
 小数点が見えなかったみたいですね。

 歯医者が嫌いな弟は、歯を健康に保つためにキシリトールガムを噛んでいたところ、ガムが歯にくっついて、かぶせた歯が取れて歯医者に行った。

 もう一つ、おもしろいのがありました。

 ある男が、高速道路を北に向かって走っていると、急にトイレに行きたくなり、サービスエリアに立ち寄った。手前の個室は使用中だったので、その隣に入った。便器に腰を下ろそうとしたその時、隣から「やぁ、元気?」と声がした。
 男性は皆そうだが、トイレで見知らぬ人と話をするのは、まずない。男は見知らぬ人だったので、ためらいがちに「まぁまぁだよ」と答えた。
 すると、隣人は、「そうか。それで今何してる?」と言ってきた。妙だと思ったが、男はこう答えた。「君と同じだよ。」
やがて、隣の男は声を潜めてこう言った。「おぃ、後でかけ直すよ。隣の個室に俺の話にいちいち答える変な奴がいるんだ。」

 これらを読んで笑えたんですが、笑うと幸せな気分になりますよね。教会に来て、ハッピーになって帰られたらいいなと思います。
 2週間前私は「幸せってなんだろう?」という題でお話させていただきましたけれど、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」と話しました。私たちが「満足する」ということは、幸せのための大変重要な条件です。

 そして、今日は「幸せになる秘訣」について聖書から学んでいきたいと願っています。
先ほど、パウロが一生涯、自分の働きの中心として据えていた言葉が読まれました。そんな中、使徒の働き20章35節、

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

 パウロはキリスト教会で偉大な使徒であるわけですが、彼が一生涯のミニストリーの中心とした概念、理念がなんであったかと言うと、「労苦して弱い人たちを助ける」ということが中心だと言うのです。
 パウロがイエス様と直接、会ったのかどうかは分かりませんが、何しろ、イエス様から学んだ中心が、「受けるよりも与えるほうが幸い」、すなわち「幸せ」だということでした。

 聖書を読むと、日頃、私たちが考えている幸せの概念と、大分開きがあることに気づかされます。実は、幸せの中心が、なんであるかということに関して、申命記にこんな言葉があります。
申命記10章11〜13節、

そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らは入り、その地を占領することができよう」と言われた。イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

 先ほども、「主をおそれよ」と賛美をしましたけれども、「おそれる」とは、「恐い、恐い」というのではなくて、「畏敬の念」を持って神を敬い仕えて行く事です。それは、「あなたの幸せのためですよ」と言うのです。「私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ること」、これが「あなたの幸せのために重要だ」と語られています。同じ申命記に、こんな言葉があります。
申命記6章3節、

イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。

 「イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。」とあります。イスラエルとは、主を信じるクリスチャンのことです。今日は嬉しいことに五人の方が洗礼を受けられます。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けることは、結構大きな決断だと思います。それは主の命令に聞き従うことです。
 教会に通い出すと、「イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい」という、聖書の御言葉に耳を傾けるようになります。「そうすれば、あなたは幸せになる」と約束されています。

 私たちは何気なく教会に来ているかもしれません。特に、クリスチャンホームの子供たちは、生まれた時から教会に行くのが当たり前になっているかもしれません。私なんかそうでした。始めはなんでこんな所に生まれちまったんだ、という感じで、日本の牧師ってあんまり立場が良くないので、韓国の牧師家庭に生まれたほうが良かったかと思いますが、今週は韓国に今年最後の奉仕に行くのですが、日本は教会があまり盛んではないので、教会の息子に生まれて「不幸せだな」と思っていたんですが、知らないうちに、神の御言葉に触れるようになりました。それが自然でした。
 今日もクリスチャンホームの子ども達が来ていますが、礼拝中に私の似顔絵なんか書いていたりして、遊んでるように見えるかもしれないですが、耳は開いているわけです。知らない内に御言葉を聞いています。そんな中、自然に幸せになることが出来るのです。
 「イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい」とありますけど、今日は「幸せになる秘訣」を聞いて、行う者になりたいと思います。

 ある律法の専門家がイエス様を試そうと、「先生、何をしたら永遠の命を自分の物として受け取ることが出来るのですか?」と質問しました。永遠の命とは、何にも比べることが出来ない、大きな幸せです。死後、どこに行くのかはっきり決まっているということは、本当にすごいことです。私たちはやがて、この地上から出て行かなければなりません。しかし心配することはありません。死後の世界は決まっています。永遠の命がありますから、天国に行くことが出来るのです。この地上では時々、悲しい別れなどがありますけれど、主を信じる者は、やがて天国で「全員集合!」なのです。みんな集合して、死も苦しみも悲しみもない所で、永遠に過ごすことができるのです。

 先週、私はあるおばあちゃんの所に、病院訪問しました。初めて会った方で、クリスチャンではない方でした。様子を見たら、そんなに長くはないと見えましたので、回りくどく話すよりも、単刀直入に話したほうがいい、と思いましたから、「おばあちゃん。死んだらどこに行くかわかりますか?」と尋ねました。すると、「わかりません」と言いました。私は「イエス様を信じたら、永遠の命をもらって、天国に入ることが出来るんですよ」と言ったら、おばあちゃんの目が輝いて、「私もそれが欲しいです」と言ってくれました。「じゃぁ、おばあちゃん、祈りましょう」と言って、一緒に「イエス様を信じます!」という、告白の祈りをしました。嬉しかったです。単刀直入に言うもんだな、と思いました。
 私は、初め、おばあちゃんにこう話しました。日本人は、三つの死後の世界観を持っています。一つは「輪廻」です。輪廻とは、死んでまた戻って来るというものです。でも、戻ってくる場合、「人間」に生まれ変われる保証はなく、もしかしたら犬かもしれないし、虫かもしれないし、どこに生まれるのかわかりません。
 二つ目は、先祖の霊となって、空中にふわふわ行き場を失って漂うのです。家族に拝んでもらうと行き場が変わるようです。しかし家族が忙しくて拝みが足らないと、鬼になって、家族を祟るというものです。私はおばあちゃんに、「三つの内一つを選んで下さい。輪廻がいいですか?先祖の霊になって、自分の家族を祟りたいですか?それとも天国に行きたいですか?」と聞くと、「天国に行きたい!」とすぐに答えてくれました。それで、イエスさまに祈りました。天国行きの切符を手に入れたに違いないのです。それが一番の幸せです。
 続いて、イエス様が教えた幸せの条件は、ルカによる福音書10章26節〜28節、

「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 実は、幸せになるには、「神を愛する」ことが大切だと言うのが聖書の一環した主張です。しかし、神を愛すると言っても、目に見えるわけではありません。目に見える相手なら愛することもできます。
 私は結婚して34年経ちました。家内だけを、34年、一途に愛して来ました。よくぞやってきたな、とは思いますけれども。家内もそう思っていると思います。見える相手を愛するのは可能ですけれども、神さまは目に見えないわけですから、どうやって愛したらいいの?という感じです。
 でも、神を愛するとは、裏返せば、同時に隣人を愛することだと言うのです。そして、そこで語られたのが、あの有名な良きサマリヤ人の話です。

 ある人が旅の途中に強盗に襲われ、道ばたに倒れ、瀕死の重傷を負っていたそうです。その所に最初に「祭司」と言って、牧師みたいな立場の人が、通りかかりました。彼はぱっと見て「関わるとちょっとやばいな・・・」と、見てみないフリをして行ってしまったそうです。時々、私たちも電車に乗っていて、目の前におじいちゃんおばあちゃんが立っていたりすると、「席をあげなければいけない!」と思っても「いや、席を立つのは大変だな」と思うと、寝たフリをする手を私も使ったことがあります。それよりもずっとひどいです。なんと怪我した人を放って、行っちゃったのです。
 その後に、レビ人が来ました。レビ人というのは、教会のスタッフのようなものです。「あっ、やだな」と逃げたという感じです。
 最後に「サマリヤ人」という人が来ました。実は、そのサマリヤ人とはどういう人かと言うと、倒れていたのはユダヤ人でした。通りかかったのはサマリヤ人。それは互いに喧嘩していた相手でした。敵が通りかかったのです。けれどもサマリヤ人が、倒ユダヤ人を助けたというのです。どんな風に助けたかと言うと、現場で初期手当をし、ぶどう酒を注いで消毒をし、包帯をして、自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、そこで本格的な手当をして、宿代まで払い、「十分、看病してあげてください。もしお金が足りなかったら、帰りに払いますから」と言い残して、とことん犠牲を払ったと言うのです。それが、隣人を愛することであり、幸せの秘訣だとイエスさまは語られました。

 普通から考えたらどうでしょうか?敵が倒れているのに助けるなんて、あり得ないと思います。しかし、幸せの秘訣とは、自分のために生きるのではなく、誰かのために隣人になって、助ける働きをすると、知らないうちに自分も幸せになる、ということです。

 先日もテレビでやっていたそうですが、統計的に、ボランティア活動に参加している人たちは、元気だというのです。精神的にも、肉体的にも元気だというのです。ボランティア活動というのは、自分の意志で、ある人を助けたり、いろいろと社会に奉仕したり、自分の利益にはならないけれども、誰かのために奉仕することです。ボランティアなんか疲れるな、腰が痛くなる、時間がもったいない、と思うのですが、実際に統計をとってみると、誰かのために一生懸命生きていくと、精神的にも肉体的にも、健康になるという統計が出ているそうです。やはり、これは聖書が言う幸せの条件と同じです。

 教会に来て「幸せ」を学ぶ時に、パウロがイエスさまから学んだように、「受けるよりも与えるほうが幸い」と言われましたが、自分のためではなく、誰かのために奉仕し、祈っていくことが幸せに繋がるのです。

 実は、聖書は、時には強烈なコントラストを描いて教えています。その一つが、幸せ絶頂の人が、不幸のどん底に落ちたストーリーです。そして、そこからどのように回復したのかを、強烈な印象と共に語っている箇所があります。それがどこかと言いますと、皆さんもご存知の「ヨブ記」です。
 ヨブ記は、難解な書物と言われ、何回読んでもわからん書物です。しかし、これをよく読んでいくと、私たちの人生を、ある意味、代表的に描いているところがあるのではないかと思います。
 みなさんにも、ヨブ記を読んでみてください。わかりにくかったらリビングバイブルで読むと面白く読めます。あれは意訳なので、聖書を忠実に、というわけではないんですが、全体像を知るためにはいいと思います。
 ヨブ記を見ますと、ヨブがどんな人であったか記されています。ヨブ記1章1節〜5節、

ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

 ヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた人だった」とあります。その結果として、彼は東の人々の内で一番の富豪だったと言います。子供たちにも恵まれ、財産にも恵まれ、ヨブ一族の楽しみは、「それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの3人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた」というのです。
幸せですよね。「自分の日」というのは誕生日ではないかと思います。お互いに、自分の誕生日にパーティを開いて、毎回楽しんでいました。そんな他人も羨むような幸せな家族でした。
しかし、ある日、その一家に誰も考えもしなかった、大きな試練が降り掛かりました。彼は主の前にも正しく歩んでいた人であったわけです。にも関わらず、大きな試練が訪れました。

 ある日、幸せの絶頂期にあったヨブの所に、一つの悲しい知らせが届きます。雇い人と家畜が強盗に襲われ、さらには、雷が落ちて焼き殺されたという情報でした。また、しばらくすると、七人の息子と三人の娘の家が大風で倒れて、下敷きになって全員死んだというものでした。10人子供がいたのが、一瞬にして全員死んでしまいました。同時に自分の財産も、雇い人たちも、すべて無くなってしまい、一瞬にして、不幸のどん底にたたき落とされました。
人生とは、本当にわからないものです。今まで幸せだと言っていても、明日何が起こるのかわからないと、ヨブ記は教えているのかもしれません。

ヨブは本当に打ちひしがれたと思います。そんな不幸のどん底のヨブに、追い打ちをかける更なる不幸が襲ってきました。ヨブ記2章7節から見てみると、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪種の腫物が出来たというのです。ヨブは土器のかけらを取って自分の身を掻くという、痒みも痛みもあるという、地獄のような苦しみでした。子ども達は全員死に、財産もなくなり、自分の健康も奪われてしまったのです。最悪の状況です。
 ヨブはそんな試練があっても、神様を呪うこともせず、主に仕えていました。そんな彼をみて、彼の妻はこう言いました。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を呪って死になさい。」
 ひどい事を言いました。こんなことをヨブの妻が語ったものだから、彼女は「世界の悪妻の一人」に数えられてしまいました。ヨブは奥さんに言いました。
ヨブ記2章10節、

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

 なかなかこういう信仰の姿は、見習いたいけれど、見習うことは出来ないですね。幸せの絶頂から、どん底に落とされたのですから。

 次に、何が起こったかと言うと、彼には親友たちがいました。エリファズ、ビルダデ、ツォファルという3人の友です。彼らがヨブの姿を見たら、あまりにも悲惨で惨めで、言葉も出なかったそうです。記録によると7日7晩、一言もしゃべらないでヨブと一緒に泣いていたというのです。
 人生の中にはいろんな苦しみや試練があるわけですが、周りに支えてくれる友がいるのは幸せです。教会に来ますと、酸いも甘いも共にする仲間が出来るわけです。それも永遠の仲間です。時には喜びを共に喜び、悲しみも共に分け合うのです。そのような永遠の仲間が、教会に来ると出来るわけです。ヨブも3人の親友を持っていました。
 しかし、仲間たちはヨブのことを心配して、お見舞いに来たけれど、次第にヨブを責めるようになりました。彼らが何を言い始めたかというと、「こんな大きな試練があるということは、ヨブには相当な罪がある」とヨブを責めました。
 私たちも試練があると、「罪があるのかもしれない」と、反省することがあります。私も人生の中で何回かありました。でも、このヨブは、初めから述べられているように、「潔白で正しく、完全な人」でした。にも関わらず、こんな試練が起こったのです。人生は、理由がわからない事が多くある、ということをヨブ記は教えていると思います。

 私たちは何でも理由づけをしたいものです。しかし理由づけが出来ない、どう考えても理由がわからない事柄も結構あります。教会に来てクリスチャンになって、万事幸せになるのかな、と思っても、時にはいろんなことがあったり、試練があったりするわけです。そんな中、反省して、「何か罪があるのだろうか。そんなはずはないのにな〜」と言って、いろいろと考えさせられるものです。
そして神さまに、「理由を教えてください」と祈っても、なかなか理由が分からないこともあるわけです。

 しかし、彼の3人の友人たちは次第に、ヨブが何らかの、隠している罪があるに違いないと責め立て始めました。途中から、バラクエルの子エリフという、若者なが加わり大きな論争となりました。
 最終的に、3人の友人の「罪があるから試練を受けた」という考えを神は拒否され、エリフという若者の言葉を受け入れられました。
 エリフは、人生の試練に対する意味をある面において解き明かしています。要約すると、「神は人に対して何の負債も負わない。災難とは刑罰というような、時には、意味もあるけれども、目的が達成された時には、神は以前にも増して祝福してくださる」と述べました。
 時々、「神を信じたのに、こんなことが起こって…。どうして!」という事もあるかもしれませんが、神対人という立場において、神は人間に対して何の負債も負ってはいないと言うのです。しかし時にはいろんな事があったとしても、神は良いお方だから、目的が達成された時には、神は以前にも増して祝福してくださるのです。
 人生の中で、試練があったり、悲しみがあったりして、どうしてこんなことがあるのだろうかと、理由がわからないことがあるかもしれません。けれども、神は全ての事柄を最終的には良くしてくださるお方です。日本の神々のように、神にもなれば、鬼にもなる存在ではなく、全てを良くしてくださる神なのです。
 ローマ人への手紙にこんな言葉があります。これは、大変重要な言葉だと思いますから、皆さん、ご一緒に読んでみましょう。
ローマ人への手紙 8章28節、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 これは、クリスチャン生活の中心に据えておくべき言葉だと思います。私たちの人生にはいろんな事が起こるかもしれません。ある時は理由がわかる事柄、ある時はわからない事があるのかもしれませんが、ここで言われていることは、「神を愛する人々」、主を信じている人たちは、「神のご計画に従って召された人々」ということです。

 先週は、「私たちは神の大使です」という話をさせていただきました。今日ここにいるお一人一人、もれなく、神の計画に従って召された人々です。ということは、「神が全てを働かせて益として下さる」というのです。
 「自分は今ハッピーです」という方もおられますし、「苦しみの中にあります。試練の中にあります」と言う人もおられるでしょう。しかし神を信じる者にとっては、全てのことを働かせて益としてくださる、ということを堅く信じることが重要です。
 全てのことを働かせて、神はあなたに益をもたらせ、幸せにしてくださるのです。隣の方に宣言してあげてください。「神は全てのことを益としてくださいます!」と宣言してください。神様は全てのことを良くしてくださいます。

 先週、ある本を読んでいたら悲劇について書かれていました。最も大きな悲劇は何かと言うと、第一に、「神をもたないヨブ記ほど、恐ろしい悲劇はない」と記されていました。本当にそう言えると思います。
 ヨブ記を読んでいくと、二転三転、四転五転と、いろんなことがあったけれど、神はヨブを最初の2倍の祝福で回復してくださいました。もしも、ヨブに神様がおられなかったらどうでしょうか?神のおられないヨブ記ほど悲惨なことはないのです。
 私たちの人生の中も、ヨブほどではないかもれませんが様々なことがあります。もしもその中に、神がおられなかったら本当に悲惨です。
 人生にいろんなことが起きるのは、誰でも同じかもしれませんが、その中に神がおられること程、力強く、心強いことはありません。

 そしてもう一つヨブ記には悲劇があります。それは、「登場人物の誰一人として、ヨブに災いを与えた真犯人について、口にしなかったことだ」とありました。
 ヨブ記は、1章から42章まであるのですが、登場人物は、ヨブ、ヨブの奥さん、3人の友達、もう一人の友達です。その誰一人として、ヨブに試練を与えた真犯人に言及しなかった、気づかなかったのです。
 誰一人、真犯人に気づかなかった。「真犯人を知ることが出来るのは、ただ読者のみだ」とありました。
 みなさん、聖書は情報の書です。実は、試練をもたらしたのは誰であったかと言うと、神ではなかったのです。それは神と取り引きして、許可を勝ち取ったサタンでした。彼が出て行った時、大きな悲劇が起きたわけです。

 ヨブ記は、いろんな側面から、人生に起こってくる試練や問題を扱っていると言えます。「理由がわからない事もある」と告げながら、また、もう一方では、「目に見えない世界で、人に不幸をもたらす存在がいる」ことも教えています。
ヨブ記 2章7節、

サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。

 サタンが神の前から出て行って、ヨブの健康に触れた時、足の裏から頭の頂にまで、どうにもならない病になって倒れたのです。雇い人たちも、財産も、子供たちも死んだのも、全て、神の前から許可証をもらって出て行ったサタンの仕業でした。でも、そのことに関しては、誰一人として気づかなかったのです。

 人生の中には、永遠の世界に入るまで理由がわからないこともあると共に、もう一つは、このように目に見えない敵がいるのです。そのことについて知るのは、重要です。
 教会に来て、神様もおられるけど「敵もいる」と気づかされる時に、勝利を得ることができるのです。

 実は、新約聖書に、イエス様の行動を記録している「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」という四つの四福音書があるのですが、「マタイ、マルコ、ルカ」は、共観福音書と言って、同じ様な視点でイエス様の生涯を扱っています。その中で、最も多く記録されている事柄は何かというと、「イエス様が病をいやした記事だ」というのです。
 先週一冊の本を読んだら、マタイ、マルコ、ルカの福音書から、イエス様の行われたいやしのをピックアップすると、並行記事も含めると、「50話」に上るというのです。マタイに18話、マルコに15話、ルカに17話です。
さらには、断片的ないやしの挿話、弟子達によるいやしの奇跡などを含めると、なんと「115話」にも渡るというのです。
 イエス様の働きの一番大きな働きは、なんであったかと言うと、人々をいやす働きでした。やはり病は大きな問題です。これだけ医学が進んでも、なお、征服されていない病は山ほどあります。けれども、イエス様が来られたのは、人々をいやすためだったのです。
 マタイ、マルコ、ルカ、三つの中で断片的な挿話などを含めたら、115話もいやしについて書かれていると言うのです。

 そのいやしの中で、患者の病名を拾い上げると一番多いいやしは何かというと、「汚れた霊からの解放」だそうです。それが、述べにして「48話」で最も多い、次いで「盲人の癒し」が19話。「らい病のいやし」が九話。「足なえの人が立ち上がる」が七話。他にも、耳の聞こえない人、中風、死からの甦りがあります。
 しかし一番多いのが何かというと、「汚れた霊からの解放」です。マタイ、マルコ、ルカの中で、合計48話も述べられているというのです。

 ヨブ記の記述と併せると、いかに人が霊的な世界から、攻撃をくらっているのかを、表しているのではないかと思いました。
私たちは、見えない世界から様々な攻撃を受けながら、毎日生活しています。でも、目に見えないわけですから、どうやってはね除けたらいいのか、敵がいっぱいいる中で、どうやったら幸せに生きることが出来るのでしょうか。本当に難しいテーマです。
 でも、そんな中、見えない敵がいる直中に住んでいても、勝利の生活をさせてあげます、というのが聖書の主題です。恐れることはありません。そんな中でも、主からの教えに心を留め、行動することが重要です。

 実は、このヨブ記が「難しい」と感じるのは、こんな事が書かれているからです。ヨブ記2章3節、

主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」

 ヨブは、全く潔白で、非の打ち所がない人物だったにも関わらず、サタンが神をそのかしたというのです。そして、何の理由もないのに、ヨブは滅ぼされたというのです。
 「ひどいじゃないの、神様。ヨブは神を愛したのに、命令を守ったのに、ひどい目にあったじゃないですか。何で?信仰も熱心にならんほうがいいのかな〜」という感じです。
 神がサタンにそそのかされるなんて、あなたは本当の神様なのですか、と疑ってしまいます。そして、何の理由もないのに滅ぼされることもあるのかと、そんな風に疑問を持つのですが、聖書は深いのです。やはり聖書は、表面的に読むだけでなく、深く学び、理解することが重要です。
 新城教会に付属して神学校もありますから、神学校に入学して深く学ぶとよろしいかと思います。実はこの箇所を深く研究しますと、ヨブ記には鍵の言葉がある事に気づかされます。
 聖書を読む中で、「鍵の言葉」を見つけることが重要です。「ヨブはいたずらに神を畏れましょうか」とサタンが語っているんでが、この「いたずらに」が鍵言葉です。
 「いたずらに」というのを、他に訳し変えると、「何の理由もないのに」となります。先ほども、「私をそそのかして、何の理由もないのに」とありました。この「いたずらに、何の理由もないのに」というのは、ヘブル語で「ヒッナーム」という語です。これがヨブ記を解く鍵言葉だと言うのです。
 ヨブ記を深く研究すると、神はサタンにそそのかされるような存在ではない事が分かります。サタンもいたずらに、人を神に訴えるわけではない、そこには必ず合法的な理由があるというのです。
 ヨブは完璧に見えた、でも、そんな中にも、悪魔は合法的にヨブを訴える理由を見出したと言うのです。本当に悪魔は目が鋭くて、ヨブは完璧に見えたけれど、神の前に訴えられたのです。
 どんなことを訴えられたのかと言うと、サタンによれば、

「人間の信仰は全て物質的であれ、精神的であれ、利己的な物である。神の栄光のためのみに神を信じる信仰は考えられない。たとえヨブが潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていた人物であったとしても、そこには、必ず人間本意の根拠がある」と主張したのです。

 サタンの訴えは、「神の栄光のためと言いながら、ヨブは人間本意の根拠があるじゃないか」というのです。その点を訴えて、神から許可証を受け取ったというのです。
実は、ヨブは正しい人だったと書かれていますけれども、聖書をよく読んでいきますと、ヨブの義とは、彼自身のプライドにもなっていました。子供たちが罪を犯すのも許すことができなくて、宴会が終わると子供たちのために祭壇を作って神の前に生け贄を捧げたりしていました。
 もう一つは、彼の祈りが、自分の身内の祝福に終始していたのです。悪魔はそれをよく知っていました。

 ヨブが最終的に、いつ、どのようにして回復されたかと言うと、ヨブ記の42章9節、10節を読むとわかります。
ヨブ記 42章9節〜10節、

テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された。

 ヨブが試練から回復した理由は何でしょう。ヨブは、正しく見えたし、信心深く見えた、しかし彼の中心は「人間本意」だった、もちろん祈り深い人だつたけど、自分の家族とか身内の為だけ祈っていたというのです。「自分が正しい」ということが自慢だったわけです。そこには、人間本意的な、自己実現的原理が働いていたのです。サタンはそれを鋭く見抜いて、神の前に訴えたのです。
 でも、そこから回復されたのが、どの時点であったかと言うと、42章の、「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄を元どおりにされた。主はヨブの所有物もすべて二倍に増された」と記されています。
 彼は完璧な人間に見えたけれども、サタンは目敏く訴えていた、しかし、いろんな試練を通して、最終的に、ヨブは自分を訴える友人達の祝福を祈ったのです。その時に何が起こったかと言うと、瞬間的に、ヨブの試練が消え去り、失ったものが2倍となって返ってきたのです。

 神様はこのような大きな試練を通して、ヨブが「神の栄光のみ」と言ってはいたけれども、根底では人間本意、自己実現の信仰から、神の栄光のみという信仰に高めたかった、とある解説書に書かれていました。
 私たちも時々、自分の幸せ、自分自身、自分の家族、と足下の幸せだけに目を向けるのですが、実は、パウロが「受けるよりも与えるほうが重要だ」ということを、イエス様から中心的に学んだと語ったあの一言には、結構深い意味があります。また、良きサマリヤ人の例えにも、深い意味があります。

 私たちが、自分のことだけを考えていると、幸せになることができないし、サタンに訴えられる可能性があるかもしれないけれど、私たちが、誰かの幸せを願って犠牲を払う時、幸せを受けることができ、目に見えない戦いでも勝利が出来るということを、ここで教えていると思います。

 実はこの、「ヨブが友人たちのために祈った」という「祈り」の言葉は、ヘブル語では「パーラール」が使われています。これはどういう祈りかと言うと、普通の祈りではなくて「とりなしの祈り」です。
 この教会に1992年に聖霊様が注がれて、とりなしの祈りが始まりました。私たちの教会の働きの中心は、とりなしの祈りです。これは、地域のために、国のために、海外のために、自分にはあまり得がないように見えるかもしれないけれど、とりなしの祈りをしなさい、と主が語られて十数年になります。自分のためだけでなく、他の人たちのために、何の利益もないような、自分から見たら遠くにいる人たちのために働いたり、奉仕をしたり、犠牲を払うことが、実は、足下固めのために、たいへん重要だったのです。
 ある意味で、新城教会は田舎にありながら、少しでも祝福されたとしたら、知らない内に、神の重要な原理を実行していたからだと思います。
 毎年、いろんな場所でミッションがあります。今年は東北でありました。大体、東北でミッションをやっても、新城教会に何か利益があるとは思えません。ほとんど利益はありません。お隣の韓国でやって、何の利益になるのでしょうか?少しぐらい、韓国人からキムチを貰ったり、そういうことはあるかもしれないけれど、あまり利益にはなりません。
 私は今週、また韓国で4日間奉仕があるんですが、あまり得にはならないんじゃないか、もっと足下固めろよ、と思うかも知れません。しかし実は、教会も「自分の教会だけ!自分の教会の祝福!」とやっていると、サタンに訴えられるけれど、なんの利益もないような人たちのために働くと、サタンは究極的な訴えを取り下げなければならないのです。そして、霊的戦いにも勝利するのです。

 とりなしの祈りを学んで、自分のためだけじゃなくて、他の人たちのために心を砕いて祈って行く時、気がついた時に、ヨブが二倍に回復されていたように、祝福を受けるのです。ヨブ記の結論も、そんな所にあるのではないかと思います。

 先週も話しましたけれども、クリスマスはとりなしの祈りに重要な時期でもあります。12月に向かって、私たちは真剣に地域のためにも祈っていかなければいけないと思います。午後から、クリスマスのための霊的戦いセミナーと油注ぎ祈祷会を行います。是非出ていただきたいと思います。新城教会の歴史を見ると、12月は、あまりいい事がありませんでした。変な事件があったり、12月になると少し緊張します。
やはり、地域のために、国のために祈らなければいけない、いろんな歴史的な背景があるような気がします。
 そんなことも掴んで、私たちは11月後半から12月に関して、この国の守りのために、世界の守りのために心を砕いて祈る、とりなしの祈りは、大きな勝利として返ってくるのです。

最後に、みなさんへのチャレンジとして、みなさんの祈りのエリアを拡大していただきたいと思います。
 自分のことだけでなくて、問題があるかもしれないけど、他の方々のために祈る時、気づいた時、主が回復を与えてくださるという、見えない世界の法則を使って祈りましょう。それは一つの原則だと思います。

 みなさんの周りを見渡した時、あの人のために祈ってもなんの利益はない、と思うような、更には、「あの人本当に嫌い。ちょっと敵みたい。倒れていたら踏んづけてやろう。」なんて思わないで、良きサマリヤ人のように助けましょう。
 サマリヤ人にとっては、ユダヤ人が倒れていたら「踏んづけてやろう」というような相手でしたが、その人を助けました。それが隣人になるということでした。そのような人がいたら祝福を祈ったり、自分の利益外の所に祈りを置くことが、結果的に、一番重要なことなのです。
パウロは「イエス御自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた御言葉を思い出す事を万事につけてあなた方に示して来たのです」と語りました。
万事につけて、この事が言いたかったと、「受けるよりも与えるんですよ」と。彼が一番強調したかったのがその点にあります。

 人生には様々な出来事があるかもしれないけど、神は万事を益としてくださいます。それと共に、私たちが勝利する秘訣は、自分のためだけでなく、誰かのためにとりなしの祈りをする、また、働いてあげることが回復に繋がるのです。目に見えない原則を共有し、学び、一週間を始めたいと願っています。

 イエス様は誰も、成し遂げなかった人類のために身代わりとなるという、大きな業を成してくださいました。人間は罪を犯しましたから、滅びて当然だったのです。その身代わりとなって下さいました。イエス様御自身こそが、良きサマリヤ人でした。
今日はそんなイエス・キリストの十字架の血潮を心から感謝して、聖餐式を行いましょう。自分のためではなくて、誰かのために祈ってあげる事を実行したいと思います。
 最後に一言お祈りします。

 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。
 今日は幸せになる原則、秘訣について、学ばせていただいたことを心から感謝します。主よ、今日は、私たちが自分のことではなくて、誰かのために心を裂いて祈ることができますように。そして、あなたが教えてくださった、「受けるよりも与える方が幸いだ」というみ言葉を実践する者にさせてください。
 今日、ここに来られたお一人お一人、全員が幸せな人生を送ることができますように。この時を心から感謝します。一人一人を良き物で満たしてくださり、全てを益としてくださいますように。イエス・キリストの御名により、勝利を宣言して祈ります。
 アーメン。