HOME > 2010年バックナンバー > 12月 > メッセージ2010年12月19日

「死の陰に住む者達への光」

2010.12.19(SUN)
新城教会牧師 滝元 順

イザヤ書 9章1節〜7節
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 ハレルヤ!おはようございます。ゴスペル・クワイヤーの力強い賛美を聴かせていただきましたけれども、今日はメッセージの前に、もう一つのクリスマス・プレゼントがあります。それは、今週の水曜日にクリスマス祝会があるんですが、そのために中村智恵子先生がハワイから来てくださいました。
 ハワイリバイバルミッションが3年前に行われ、大変、先生ご夫妻にはお世話になりました。ご主人の中村裕二先生は、体調を崩して大変なところを通られたのですが、先週、先生のブログを読んで、本当に嬉しかったです。病も良くなってきて、元気になったというレポートがなされていました。
 今日は奥様の智恵子先生が来てくださいました。水曜日の祝会は、「ハワイの暖かな風が届ける、心のこもったクリスマス」というキャッチフレーズと共に、チラシが届いていると思いますが、しばらく智恵子先生の歌声をお聴きいただきたいと思います。

<中村智恵子さん>
 主人が病気になって最初は苦しんでおりましたけれども、今はだいぶ、おかげさまで、みなさんの祈りによって元気を取り戻して、来年に向かって心の準備をしているかと思います。ここにもいち早く来たいと願っているのではないかと思います。その前に、私が来ておりますけれど、今年、9月に彼が痛みの中で苦しむ時、不思議と1ヶ月の間に12曲が、彼が言うには、天から降ってきたといいますか、天からダウンロードされた曲がありまして、薬などにも頼っておりましたが、痛みがあり、苦しい時には、彼は与えられた賛美を自分で聴きながら、癒されると信じ、慰めを経験しました。その中から、彼が最も愛する「強くあれ、雄々しくあれ」という、曲がありますので、今朝は、その曲を歌わせていただきます。聴いてください。


 水曜日には、たっぷりと聴くことができますので、お時間のある方は是非とも、お越しになっていただきたいと思います。また、水曜主日礼拝はインターネットでも配信されますので、家でも見ることが出来ます。
 今週はクリスマスの週であり、世界中でイエス様の誕生がお祝いされます。クリスマスは、イエス様の誕生をお祝いする日です。私たちも時々、誕生日を祝ってもらいますが、誕生日に、赤んぼうの時の写真を持ってきて、「これがあんただよ」と毎回言われたら、嫌な思いがします。しかし、案外、イエス様の誕生日は、いつも赤ん坊の裸のイエス様、馬小屋のイエス様が出て来るんです。それではいけないと思います。
 イエス様は今年で2010歳になられます。そんなにも大きく成長されたと言いますか、今もなお、生きておられるイエス様を、心から礼拝しお祝いしたいものだと思います。

 イエス様の誕生は、お生まれになる前から、ちゃんと預言されていました。私たちのように、「あんたは偶然生まれてきたんだよ、間違って生まれてきたんだよ」というような存在とはちょっと違います。もちろん、誰一人として間違って生まれた人なんていないのですが、イエス様の誕生は、聖書の預言通り、神のご計画通りに生まれたお方です。
 イエス様がお生まれになる700年前、預言者イザヤがこんな預言をしました。それが先ほど読んでいただいた箇所に記されていました。
イザヤ書 9章6節、

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 イザヤの時代、「ひとりの男の子が生まれる、しかし彼は力ある神だ」という、人が神になるという概念はありませんでした。ユダヤ教の世界は、唯一の神、天地宇宙を創られた神を礼拝していましたから、一人の男の子が生まれ、その人が神なんて、全く彼らの中にはない概念でした。しかし、そんな中で神はイザヤに語りかけました。「ひとりの男の子が与えられます。それは不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君だ」と。
 イエス様はただの人ではなく、人手によらずに地上に来られた、神御自身であったのです。

 また、イエス様がお生まれになった背景も記されています。
イザヤ書9章2節、

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 イエス様が生まれた国は、今のイスラエルですが、なぜイエス様がイスラエルにお生まれになったのだろうかと時々考えます。教会に来て、聖書を読み始めると、理解に苦しむ箇所があります。なぜならば、馴染みのない名前や地名が多く出てきますから、もう少し分かりやすい場所にイエス様が生まれてくださっていたら、聖書が分かりやすいと思います。「今日、新城でイエス様がお生まれになった」とか、「イエス様が豊橋で十字架についた」とか、近所での出来事ならば聖書も親しみ深いかもしれないけれど、なんでイスラエルに生まれたのかと思います。
 しかし、イエス様がイスラエルに生まれたのも、預言的側面がありました。実に、ユダヤ人、すなわちヘブル民族は、歴史を見ると世界で最も苦しんだ民族であることがわかります。常に虐げられ、支配され、打ちのめされてきた民でした。イスラエルの地理的位置を思い浮かべていただくと分かると思うのですが、イスラエルは、当時の大国エジプトが側にあり、中近東には、歴史を見るとアッシリア、バビロニア、ペルシャなどの大国が、常に興亡していました。また、ヨーロッパ大陸にも挟まれていましたから、ヨーロッパにも大きな国々が起こり、その狭間にイスラエルは位置していました。大国の王たちが他の国に攻めて行く時、必ずイスラエルは踏まれ、支配されました。彼らは常に苦しみの中で生活していました。ある意味で、世界で最も苦しんだ民と言っても過言ではないと思います。

 ここに述べられているように、実に、「死の陰の地に住んでいた者たち」と表現されていますが、死の陰の地に住んでいた者たちが、ユダヤ人たちと言えるのです。ユダヤ人たちは、近年に至るまで、多くの迫害を受け、苦しみを受けて来ました。
 しかし、そんなただ中にイエス様がお生まれになりました。それが何を意味しているのでしょうか。それは、最も苦しんで虐げられている人々のただ中に、救い主がお生まれになったということです。

 この原則は、私たちの人生にも適用されます。人生の中で、最も暗い、どん底の状態に、救い主は来られ、そこから働きを始めてくださるのです。それを預言的に表しているわけです。
 案外、教会に来られる背景は、どん底の中で来られるのかもしれません。しかし、そのどん底こそ、神の光が届く場所であると教えています。

 「苦しみのあった所に闇がなくなる」と預言されています。特に、イエス様が活動された地域がどのような場所であったかと言うと、
イザヤ書 9章1節、

しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 イエス様が活動の中心とされたのは、「ガリラヤ地方」でした。ガリラヤ地方とは、イスラエルの中でも、さらに虐げられていた、苦しみを受けていた地域でした。歴史を見ますと、ガリラヤは、アッシリアという大国に支配され、人々は連れ去られたり、アッシリアの人たちがそこに来て住みついたりして、イスラエルでも、特殊な地域として差別を受けていました。
 そもそも、イスラエルは世界の中でも苦しみを受けてきた国でしたが、その中でも更に、暗い場所が「ガリラヤ地方」でした。
 しかし、イエス様の活動の中心が、なんと、国の中で最も虐げられ、差別されていた、ガリラヤを中心とされたのです。これは現代を生きる私たちにとっても、大きな希望です。
 時に、私たちはいろいろな問題で、どん底に落とされる時もありますが、その時こそ、その場所こそ、神の祝福を受け取るチャンスではないでしょうか。
イザヤ書 44章23節、

天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるからだ。

 ここに、「地のどん底よ喜び叫べ」とあります。ざわめきの中にも、この中から作られた賛美があります。「天よ喜び歌え。地のどん底よ、叫べ」と賛美していますけれど、普通はどん底で喜び叫ぶなんてことは、できないと思うのですが、イエス様は、地のどん底に光を投げ込むために、生まれてくださったのです。
 今日、もしも「私はどん底」という方がおられたら、そんな中にイエス様は来てくださるのです。

 ダビデが歌った詩篇の中に、大変有名な箇所があります。詩篇23篇です。みなさんご存知だと思いますが、ご一緒に読んでみたいと思います。
詩篇23篇1節〜6節、

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 4節に、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」と、ダビデは歌いました。先ほどもイザヤの預言の中に「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」とありましたが、救い主は、死の陰の谷に落ち込んだ人たち、死の陰の地に住んでいる人々のただ中に来られたのです。

 イスラエルに行きますと、「ワジ」と呼ばれる、雨が降ると突然水が出て、砂漠を削って自然に出来た深い谷があります。そんな谷に旅人が落ち込むなら、大変なことになりかねません。イスラエルに行きますと、そんな谷があるのです。その谷は大変危険でもあるのですが、一方では重要な場所でもあります。
 イスラエルの半分は砂漠性気候でして、からからに乾燥しています。そんな中で水を見つけるのは大変です。
 我々、日本人は「水を買う」という概念が、ほとんどありませんでしたが、近年になり、水を買う習慣が出てきました。この頃、教会の前の自販機にも「水、120円」と書いてあります。私が小さい頃なんて、水を買うなんて絶対にあり得ませんでした。水はタダに決まっていると思っていました。でも、これは日本ぐらいで、世界に出ますと水は貴重であり、お金を出して買わなければいけないことがよくわかります。日本は水が良いので、水道水だって飲むことができますけれど、一歩日本から外に出るなら、そう簡単に水を飲むことはできません。
 私は今年2月、ネパールに行きました。ヒマラヤの麓で水は良さそうですが、生水を飲んだりしたら大変なことになります。
また、ペルーの山の方に行きました。そこも乾燥していて、水と言っても、給水車が来て、住んでいる人たちのために給水するわけです。
 その水を覗いてみたら、「これは飲んだらまずいだろうな」と私は思いました。私と一緒に行った友人は、その水で作ったジュースみたいのをちょっと飲んだようです。その後、ひどい下痢になったようです。
 水というのは、大変重要なものであります。イスラエルを見ると、水は本当に貴重品です。水がなかったら生きることが出来ないのです。しかし、その水があるのがどこかと言いますと、高い所には水はありません。水は低い所にあるのです。水は、低い所を流れて行きます。谷底は、水が流れる所なのです。

 実は、谷底には水がありますので、旅人は、谷に落ち込まないように、それを避けながら、同時に、喉が渇いたら、谷底にまで降りて行き水を飲みました。谷に行かないと、水が流れていないので、注意深く谷まで降りて行って水を汲みました。
 しかし、水を必要としているのは、人間だけではなく、動物も必要とします。谷底は、水があるが故に、いろんな動物も集まる危険な場所なのです。そこには、猛獣も集まるのです。

 谷底とは、命の水もあると共に、旅人にとって最大の敵が潜んでいる場所でもあります。ですから、詩篇の記者は、「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません」と歌いました。
 谷は、命を保つ水もあるけれど、そこには猛獣もいます。しかし、神の約束は、その谷においても守って下さるという約束です。
 私たちの人生も、イエス・キリストに出会う瞬間は、順調な時よりも谷底です。どうにもならない中で、命の水を発見するのではないでしょうか。
 皆さんも、命の水であるイエス様に出会ったのは、山の上ではなく、谷底であったかもしれません。
同時に、そこには命の水もあったけれど、戦いの現場でもあったのを体験したと思います。しかしそんな場所でも、主は敵の前で、食事を整え、油を注いでくださるという約束が、詩篇23篇です。さらに、
詩篇42篇1節〜2節、

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

 ちょうど喉が渇いたら水を求めるように、人はどん底において神を求めます。やはり「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」の御言葉は真実です。問題があると、案外、私たちは神を心から慕い求めます。
 時に、人生は、試練や苦しみがあるかもしれないけれど、その時こそ、神を求めるときであり、神と出会うチャンスなのです。

この箇所から賛美が作られています。「鹿のように」という賛美ですが、昔よく歌いましたが、みなさんご存知でしょうか。一度歌ってみましょう。

♪谷川の流れを慕う鹿のように
主よ、我が魂、あなたを慕う
あなたこそ我が盾、あなたこそ我が力
あなたこそ我が望み、我は主を仰ぐ
主イエスこそ我が盾、主イエスこそ我が力
主イエスこそ我が望み、我は主を仰ぐ♪

 自分の人生のことを考えてみても、やはり、谷底に落ちた時に、主が命の水を与え、敵の力を打ち破ってくださったことを体験しました。それは、まさに、クリスマスのテーマそのものです。
 イザヤを通して預言されていた通りに、イエス様はこの地上に来てくださり、テーマ通りに、人生に関わってくださるのです。ですから、私たちは心から感謝しなければなりません。

 新城教会に多くの方が来てくださっていますけれど、クリスチャンホームに生まれた者たちはちょっと違うのかもしれませんが、ほとんどの方々が、どん底で命の水と出会ったという経験があるかもしれません。しかしそこで主は敵を打ち破ってくださり、敵の面前で食事を整え、頭に油を注いでくださったわけです。

 先日、この教会に属する一人の方からメールをいただきました。「2000年の3月に順先生が語ったメッセージを読み、感動しました。なぜなら、私のことが語られていたからです」とメールにありました。
私は2000年3月に、どんなメッセージを語ったのか、全く忘れていましたのでもう一度読んでみました。
 その方は、10年くらい前から、この教会に来てくださっている方なのですが、振り返えれば、谷底状態で教会に来たけれど、10年経ってみて、敵の面前で食事が整えられ、油注がれ、敵に対する権威が回復し、敵を見下ろすようになったというのです。それに感謝して、メールをくださったようです。
 私も、当時のことを思いだし、「主は10年間で、こんなに素晴らしいことを行って下さったのか!」と感動しました。

 その方は、当時、ある教会に通っておられたようです。なぜ教会に行かれたかと言ったら、やはり家族の中でいろいろな問題があり、特に子供さんの問題で教会に相談に行ったようです。でも、なかなか解決が得られなかったようです。
 そんな中、「もしかしたら、この問題は霊的な問題で、周りに目に見えない敵がいるのかも知れない」と感じたそうです。それで当時通っていた教会の牧師に、相談したそうです。
 すると、その牧師は「私はそうは思わない」と答えたそうです。けれども、私の所にその牧師から電話がありました。
 どんな内容だったかと言うと、「もしもし。うちの教会に来ている一人の奥さんが、あんたに祈ってもらいたいと言ってるけど、いいですか?」と言う電話でした。私は「もちろんです。なんでも手伝います!」と答えました。
 するとその牧師は、私にひどいことを言いました。「でもね、順先生。私は、あなたの祈りには全く期待していませんから」と言うのです。
 期待していなかったら、なんで電話をかけてくるのかと思いましたが、続けて、「私はそれは霊的問題ではないと思う。ただ単に環境の問題だと思う。だから、環境さえ変えれば解決する問題だと思う。だから私はそう言ったんだけど、その人は霊的問題だというから、あなたの祈りには期待していないけど、仕方ないので一応祈りを頼む」と言う事でした。
 そして、最後に、「私は過程の報告はいりません。欲しいのは、ただ結果だけです。」と言いました。
 それを聞いて私はむかつきました。「それが人に物を頼む時の態度かよ」と思い、断ろうかと思いました。
 家内がよく言うのですが、「あんたクリスチャンじゃなかったら、大変な人だったわ」と。私は、ちょっと気の荒いところもあって、中学生の頃は喧嘩大好き少年でした。それも自分よりも弱い相手と喧嘩するのが好きでした。そういうところもあり、その牧師の言い方にむかついて、電話を切ろうと思いました。しかし、そういう時が霊的戦いなのです。

 聖書の中に、「人の怒りは神の義を実現するものではありません」とヤコブ1章20節にありますけれど、時々、私たちは怒って「もうやだ!」と放り投げてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、そのような時こそ、案外、霊的戦いなのです。
 私は、「あんたの祈りには全く期待していませんよ」と言われましたが、不思議と聖霊によって我慢する力が与えられました。
 「もちろん私に期待しないでください。私は主に期待しますから。お祈りさせていただきます」と言って、教会へ来ていただきました。

 聞いてみましたら、その方の親族の中では、この2、3年、5月になると死人が出ていたそうです。また、仏壇の後ろに置かれている、過去帳を調べてみたら、その家系に属する長男は皆、5月に亡くなっているのが分かったそうです。それがわかって、ぞっとしたようです。
 そして、その年も、「今年は大丈夫か…」と思っていたら、結婚したばかりの親戚の若いご主人が、彼も長男だったらしいのですが、交通事故で死んでしまったというのです。その年もそんな事件があったもんだから、「これは何か霊的な関わりがあるのではないか」と感じたそうです。それで、私の所に連絡があったそうです。
 その方は、当時どん底でしたが、その後、詩篇23篇にあるように、「どん底に水があり」、また、「どん底は戦いの現場」であることを体験したのです。
 そして、何が起こったかと言うと、10年経った現在、問題が消えて、家族のみんなが幸せになりました。さらに、その方が新城教会に来なかったら、この人は救われなかっただろう、あの人は救われなかっただろうな、という人たちを数えれば、少なくとも20名はいます。
 そして、更なるどん底の方も続けて癒されたのです。

 その方が教会に来てしばらくすると、家族が徐々に変わって行きました。それが周りにも噂となって広がりました。
 ある日、ある会社で、昼休みにその事が話題になったそうです。「あの家族に問題があったけど、新城教会に行ったら良くなったそうだよ」と、話題になったそうです。するとある人が横でその話を聞いていて、「その話ってなんですか?」と詳しく聞いたそうです。
 なぜなら、その家にも大きな問題があったからです。実は、その人の奥さんが、精神的に重い病に苦しめられていて、どうにもコントロールができない状態であったからです。
 今でも忘れることができませんけれど、暮れになると入院患者は家に帰されるのですが、年の暮れに、ご家族の方が親戚も伴って、奥さんを教会に直接連れて来られました。
 その女性を見たら、本当に気の毒な状態でした。一見して、そう簡単には治るような感じではありませんでした。まさに、「私の祈りには期待しないで下さい」と言いたかったです。
 でもクリスチャンではない人たちが教会に期待して来られましたから、一生懸命に祈ってあげました。そして、来られた方々に、目に見えない敵がいるというお話をさせていただきました。
 その病気の女性も、初めて教会に来られたのですが、「周りに見えない敵がいるかもしれない」という話が心に留まったそうです。そして、敵は偶像の神々と繋がっているという事に関心を持ったのです。それで家に帰った時、家にある偶像を全て集めて、袋に入れてしまったそうです。
 私は、その後、教会のスタッフと共に、その方が病院に戻らず、まだ家におられると聞いたので訪問しました。するとその方は、台所に布団を敷いて寝ておられました。

 私は「きっとイエス様が癒してくれますよ」と話しました。しかし、そんなことを話しながら、「なかなか無理だろうな…」と思いました。その人のためにお祈りをして、帰ろうとしたら、台所の床下収納庫の中から袋を取り出しました。私はみかんか何か、お土産をくれるのかなと思って、喜んで中身を見たら偶像でした。袋の中には札や偶像類が入っていました。そして、「これを処分して下さい」と頼まれました。
 「お土産じゃなくて偶像か…」と思いましたが、「わかりました。処分します。」と帰ろうとしました。
 すると、家の前に高級車が停まっていました。私は「素晴らしい車ですね〜」と褒めると、彼女がこう答えました。「車はいいかもしれないけれど、いくら車が良くても私は15分も車に乗ることができません。」と言われました。
 私は、「あなたはやがてこの車に乗り、新城教会まで東名高速道路をぶっ飛ばして来るようになりますよ」と言いました。すると、彼女は、そんな事信じられないという顔をして、「へっへっへ」と笑いました。私もちょっと、大げさなことを言い過ぎたかな…、と思いました。
 けれども、その後、その方はどうなったかと言うと、今日も来られているかもしれませんが、東名高速道路をぶっ飛ばして、毎週のように教会に来られています。

 教会には、皆さんになかなかお伝えすることが出来ない、どん底から救い出され、元気になった方々が多くおられます。
 私は先週も御言葉を読みながら、本当にイエス様の誕生は、まさに谷底にいる人たち水を与えるものであり、そこにいる猛獣をやっつける時、勝利がやってくるというイザヤ書の預言の通りだと大変感謝しました。

 一人が谷底から解放されると、その人を通して、次の人が解放されるのです。それは神の国は人手によらずに進んでいくことを象徴しています。
 実は、最初に、子供の問題で来られた方は、親族の中で長男が5月に死ぬという、悲しい経験をしていました。少し、恐いですよね。
 教会に来られた年の5月も、親戚の長男が結婚したばかりで、奥さんと子供を残して、5月祭りに行く途中、交通事故にあって死んでしまったそうです。ご主人を失った奥さんは、悲しみに暮れ、その後子供と共に行方不明になってしまったと言われました。結婚して、子供が生まれ、これからだという時にご主人に先立たれたわけですから、相当悲しかったと思います。

 私は10年ほどまえにその話を聞いて、行方不明になった奥さんと子どものために祈りました。しかし、会ったことも無い人なので、その後あまり祈ることはありませんでした。
 しかし神様の働きは本当にすごいです。前にも一度そのことをお話したかもしれませんが、私は、何年か前に三島にある教会から招かれて、集会に行き、霊的戦いセミナーを行いました。そこで「私たちの教会に、5月になると死人が出るような家があって、それも長男ばかりが死にました。」と話をしました。そして、「問題を繰り返すような人がいたら、どうぞ残ってください。祈りますから」と案内をしたら、ほとんどの人が残りました。
 私は、その日、集会が終わったら新幹線で新城まで帰る予定でした。事前に新幹線の時刻を見て、この時刻に祈りを終え、駅に行けば新城まで帰ることができると調べておきました。それで、その時刻に合わせて、解放のための祈りをしていました。
 でも、人が少なくなったかと思うと、いつの間にか追加されたりして、時間内に祈りが終わりそうもないので、困ったなと思っていました。
 私は、万が一のために、その電車に乗り遅れたら、浜松止まりの新幹線があったので、それも一応調べておきました。浜松から東海道線に乗ったら、夜中の一時くらいに豊橋に着く列車がありました。万が一、最終におくれたら、それで帰ろうと思っていました。でも、それはあまり使いたくありませんでした。
 このままだと最終の新幹線に間に合いそうもないので、祈りを早めに切り上げて帰ろうと思いました。しかし私の心の中に聖霊様が、「最終の最終があるじゃないか。全員、祈ってから帰れ」と語られたように感じました。
 「おまえが最終の最終で帰ったって、おまえの人生は別に変わるわけじゃない。そのくらいサービスしろ」というような感じでしたので、私は「わかりました。最終の最終にします」と決断して、全員の為に祈りきりました。
 やがて全ての方々のために祈りきり、「さ〜、帰るぞ!」と思ったら、一人の子連れの女性が出て来ました。それで、その方を最後に祈ることになりました。それで、「何を祈ったらいいですか?」と聞くと、その方がいろいろと話し始めました。

 「私の人生にはいろいろありました。私は一度結婚したのですが、主人が交通事故で死にました。それで、全国を転々とするようになって…」と話されました。私は、「あなたにそっくりな体験をした人の話しをしましたよ。その人の親族が私たちの教会に来ていて、先ほどセミナーで話したけど、聞かなかったの?」と聞くと、「ちょうど子供が騒いで外に出ていたので、聞けませんでした」と言うのです。私は、「聞くべきだったね〜」と言って、内容を少し説明してあげました。
 しかしその人の人生とあまりにもよく似てると思い、「ところであなたの名前は?」と聞くと、びっくり仰天でした。なんとその2人が、以前、行方不明になった女性と子供であったからです。以前、聞いたストーリーの本人が、なんと、私の目の前に立っていたのです。

 それは、本当に不思議中の不思議というか、神の働き以外の何ものでもありません。

 なぜその教会にいるのかを彼女に聞きました。彼女はご主人を失ってから家を去り、全国を流れ流れ、最近その町に来たそうです。
 駅前に来たとき、ギターを弾いて歌っている青年たちがいたというのです。そしてそれが賛美歌だったと言うのです。若い頃、賛美歌を聞いたことがあって、しばらく歌声に耳を傾けていたそうです。また教会に行ってみたいな、となつかしく思って、青年達に話しかけたそうです。「あたなたちはどこの教会の方々ですか?」と。
 すると、「はい。駅の近くの教会です。ぜひ、来て下さい。」と誘われて、彼女は教会に通うようになったのです。
 教会の人たちも、その人の過去について全く知りませんでした。私は偶然のようにその教会に招かれ、セミナーの中でその人の親族の話をしたのです。しかし、会衆の中に、なんと私が語った、行方不明になった2人がいたのです。その方は子どもと共に、今でも元気にその教会に集っています。
 いや〜、神様の働きはすごいです。まさしく、死の陰に住む者たちへの光ではないでしょうか。
 イエス・キリストを信じる時、谷底で主と出会います。そここそ戦いの現場であり、戦いに勝利するとき、働きは、さらに広がっていくわけです。私たちの道は全て、主によって導かれるのです。

 外務省で働いていた人から聞いたのですが、天皇が外に出る時には、全て台本が作成され、台本どおりに天皇は行動するそうです。どんな台本を作るのかと言うと、天皇が3歩歩いたら何をするか、という3歩ごとの台本が作られ、全てコースが決められ、警備から全てを決定するそうです。3歩ごとに管理されたら大変ですよね。みなさん、天皇家に生まれなくて良かったですね。庶民はどこにでも行けますから。
 天皇の歩みは、3歩ごとシミュレーションされるそうですが、私たちが谷底でイエス様と出会う時、何が起こるかと言うと、詩篇に次のように記されています。
詩篇 139篇3節、

あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

 天皇は3歩ですけど、私たちは神に歩みを「ことごとく」知られているのです。谷底に落ちても、そこで主と出会い、今度は私たちの歩み一歩一歩を導いてくださるのです。そんな人生に変えられるのです。
 イザヤ書の41章の1節から4節の御言葉は、主が私に与えてくださった御言葉であると信じています。この箇所はイエス様ご自身のことを語っていますが、同時に我々の人生、キリストと出会った者たちの人生にも重なっています。
イザヤ書 41章1節〜4節、

島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。

 41章3節に、「彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く」とありますが、谷底で主と出会う時、命の水が与えられ、今度は「彼は彼らを追い」とあるように、敵にやられるのではなく、「敵を追いかける」ようになるのです。
 「敵を追いながら、まだ歩いて行ったことのない道を、安全に通らせてあげます。」と約束されています。その道を与えるために、地上に来てくださったのがイエス様であり、クリスマスです。
 「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」とありましたが、まさしく最も虐げられ、差別されていた民族の中に、主はお生まれになり、主によって回復された人々は、今度は敵を追うようになるのです。通ったことのない道を、安全に通って行く人生に変えられるのです。その為にイエス様はこの地上に来てくださったわけです。
 「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とありましたが、私たちがイエス・キリストを信じる時、自分の努力ではなく、万軍の主の熱心が全てを成し遂げてくださいます。
 この教会におきましても、主がそのような業を行ってくださっているのは、クリスマスのテーマそのものが教会の中に、また、一人一人の人生に、現されている証拠です。クリスマスに、一人でも多くの方にこの道を紹介して差し上げたいものです。

 今週はクリスマス集会がいくつかあります。次の日曜日は26ですが、新城教会のクリスマス礼拝です。「26日?クリスマスケーキも安くなるじゃん」と言わないでください。日本が26日でも、アメリカは25日ですから。26日にクリスマス会も良いのではないでしょうか。
 イエス様は谷底に降りて、救いの道を用意してくださる方です。この週も心から、主に仕えて行きたいと願います。
 もしも、谷底におられたら、今日こそチャンスです。そこに水があります。周りの敵を打ち破る時、主の勝利が現されます。

 最後に、みなさんと共にお祈りし、聖餐式を行ないます。最後に一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神様。御名を崇めて心から感謝を致します。あなたが地の最も深い所まで降りてくださり、我々を助けてくださったことを、心から感謝します。
 ただ助けるだけでなくて、敵を追うまで回復してくださることを感謝します。教会で奇跡が起こされていることを、話しましたけれども、これからもどうかそのような業がどんどん起こりますように。その原点である、イエス様の十字架を心から感謝します。
 私たちもイエス様と同じ、勝利の人生を歩む事ができますように。イエス様の犠牲を心から感謝します。
 私たちのために生まれてくださった事を心から感謝し、今から聖餐式を行ないます。どうかこのパンとジュースを聖め、御霊によって、御言葉によって、イエス様、あなたと一つとならせて下さい。
 イエス・キリストの御名によって、祈りを御前に祈りをお捧げいたします。アーメン。