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「キリストにある成長」

2011.1.23(SUN)
新城教会牧師  岡本信弘

ローマ人への手紙 12章1節~5節
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

ハレルヤ! 主の御名を心から賛美いたします。
2011年を迎え、早や1ヵ月が経とうとしていますが、みなさんのお祈りに支えられて、健康でこの場所に立つことができることを感謝しています。
寒い日が続き、先週は、この地方でも何年かぶりで雪が積もりました。困った方もいらっしゃったと思いますが、子どもたちは大喜びでした。
皆さんに祈っていただいている娘の泉ですが、今は、大学の語学クラスに入って韓国語を勉強しながら、少しミッションのお手伝いをしているという状態です。先日、韓国ミッションの事務所のことで電話をした時、「今日は疲れてしまった」と言うので、「どうした?」と聞いてみると、「こっちは今、昼間でもマイナス16度だよ。雪は積もっていないけど、空気が冷たくて、その中を歩き回わるだけで疲れてしまった」とのことでした。そんな寒さを私も経験したことがないのでわかりませんが、「それは大変だなぁ」と思わされました。また娘のためにお祈りいただければ幸いです。
先週もご案内しましたが、4月にイスラエルツアーがあります。チャプレンは、明先生で、賛美リードとして開先生も行くことになり、雑用係として私が一緒に行かせていただきます。新城教会の最強トリオ、というわけではありませんが、楽しい旅となると思いますので、是非ご参加ください。

私は、昨年12月31日のカウントダウンの聖会で、2011年に与えられた御言葉として、申命記1章から、「向きを変えて出発せよ」と語らせていただきました。今日は、その御言葉を踏まえて、「キリストにある成長」と題してお話ししたいと思います。
新しい年を迎えると、今年こそ少しは成長したいと願い、何かを始めたりするわけですが、いつしかその意気込みもどこへやら、そんな思いも忘れてしまいます。私もそのようなことを繰り返して、なかなか成長できない者ですが、今年こそ、成長を遂げさせていただきたいと思います。
私たちクリスチャンが、またこの教会が、キリストにあって成長する要素をいくつか考えてみたいと思います。
成長をはかるのに、私たちの目に見えるかたちで教会の人数が増えていく、また教会が大きくなっていくということが、一つの目安であると思います。私は幼い時からこの教会に通い、人数の少ない頃のことを知っていますが、神さまの祝福によって教会が成長し人数も増やされて、会堂も広げられ教育館も建てられてきました。最初の頃は、田舎で、人も増えないから、「まず生んで増やそう」と明先生が言ったそうですが・・・。だからというわけではないと思いますが、今も新城教会では、次から次へと赤ちゃんが誕生して名前も覚えられないくらいです。しかし、家族増えていくことは大きな喜びです。
詩篇127篇5節には『幸いなことよ。矢筒に矢を満たしている人は。』とあるように、人が救われたくさんの人が集い、増え広がっていくということは、喜びであり、教会にとって恵みであり、素晴らしい祝福です。
少し前に、仕事の打ち合わせで、ある教会を訪問しました(そこの牧師先生は、名の知れた方です)。その教会の礼拝出席者は、5、60名で、恵まれた教会と聞いていました。しかし、会堂を見ると、折りたたみの椅子が2、30ほどしか並べられておらず、おかしいなぁと感じました。その時に牧師先生が、「以前は、もっと多くの信徒がいたのですが、色々と問題があって、今は2、30名です」と言われました。ここまでは、「そうか、今の日本の教会の現実だ」と納得ができました。しかし、そのあとの言葉に驚かされました。「でも、このくらいの方が問題も起きないし、アットホームでいちばんいいですよ。ですから、最近はあまり伝道をしていません」と言われ、ちょっとがっかりした気持ちになりました。確かに人数だけが増えればいいというものではありません。また、人数が多くなれば、いろいろな人が来られますから、確かに問題も増えるでしょう。しかし、問題を恐れて伝道をしないというのは、それこそサタンの思うつぼです。教会はサークルではありません。人の救いは、神さまがいちばんに願っていることであり、私たちに委ねられた使命でもあります。そのことを忘れてしまったら、教会は教会でなくなってしまいます。一人でも多くの人がキリストに出会い、永遠のいのちを獲得していくこと、これが教会の成長にはかかせません。
 どうしたら救われるのでしょうか。
『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(ローマ人への手紙10章9~10節)
イエスさまを「神です。主です」と告白するだけで救われる、簡単なことです。何の努力も代償も必要ありません。しかし、なぜ人は簡単に信じられないのでしょう。それは、救いを邪魔するサタンの支配下、暗闇の中にいるからです。
使徒の働き26章18節には、『それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』とあります。
皆さんどうでしょう。明るい部屋から突然暗い部屋に入ると、真っ暗で何も見えません。しかし、しばらくその暗闇の中にいると、だんだんと目が慣れて辺りが見えてきます。そうすると、その暗さが気にならなくなるように、私たちが一つの罪を犯した時には良心が痛みます。しかし罪を重ねていくと、それがいつしか罪だと気がつかなくなってしまうものです。しかし、ここにいらっしゃるみなさんは、暗闇にいたにもかかわらず、その暗闇の中に光を見いだすことができました。その光こそがイエス・キリストであり、素晴らしい救いです。その結果、みなさんは、暗闇から光に移され、サタンの支配から神の支配に立ち返らせ、罪の赦しを得、御国を受け継がせる者とされたのです。まず、光なるイエスさまを信じ、告白するところから私たちのクリスチャン人生が始まります。
しかし、救われたばかりの人は、生まれたての赤ちゃんと同じです。右も左もわからない、といった状態だと思います。クリスチャンホームの子どもたちがここにもたくさんいますが、知らないうちに大きくなっていて、時々ビックリしますが、赤ちゃんは、放っておけば成長するというわけではありません。お母さん、お父さんがおむつを替え、ミルクを飲ませます。病気になったときには、看病もして面倒を見てあげなければ、生きていくことができないのです。成長すると、自分で大きくなったように錯覚したりしますが、そうではありません。愛情によって成長させられてきました。教会でも救われた人が成長するために、祈り、支えていく必要があります。
救われた人が成長していくために、何がいちばん重要でしょうか。まず重要なことは、礼拝に参加することです。ある人は、礼拝に出席してもしなくてもよいと考える人がいますが、それは大きな間違いです。礼拝に出席することは、私たちにとって、大きな力となり、祝福となります。そして、礼拝でメッセージを聞くことも大事ですが、神さまを礼拝すること、神をほめたたえ、賛美するも私たちの礼拝の目的であり、重要なことなのです。
 詩篇22篇3節には『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』とあります。時々、賛美が終わった頃に来て、メッセージだけを聞いて「恵まれました」とおっしゃる方がいらっしゃいます。もちろん御言葉によって恵まれますが、私のように歌が下手な者でも、賛美をすると恵まれ、喜びが湧きあがってきます。それは、主が私たちの賛美を受け取ってくださり、喜んでくださるからこそ、喜びに満たされるのです。ですからみなさん、思いきって賛美し、主をほめたたえてください。メッセージを聞くだけよりももっと恵まれます。
 私たちが信仰生活をしていくにあたって、祈りがとても重要です。先ほど、子どもの話が出ましたが、子どもは、食べ物を与えれば体は大きくなります。しかし、それだけでは人間として成長したとは言えません。親と会話することによって知識を得、いろいろなことを学んでいくわけです。ですから、小さな子どもさんがいる方は、ぜひたくさん話かけて育てられたらいいと思います。
同じように、私たちも会話が必要です。それが祈りです。祈りは、父なる神さまとの会話です。神さまに祈るとき、心が豊かにされ、信仰を深めていくことができるのです。
また、赤ちゃんは、だんだん成長すると、ハイハイをし、立って歩くようになります。子どもが初めて立つのを見るのは、親として本当にうれしいものです。クリスチャンも、いつまでも寝返りもうてないような者ではいけないと思います。成長してしっかりと自分の足で立てるようになっていくことが大切です。
みなさんは自分で祈っていると思います。しかし、その祈りを振り返ってみると、「イエスさま、あれが足りませんから与えてください。今日はこのことがありますから、助けてください。子どもが病気ですから、治してください」と、願い事ばかり祈っている自分に気が付かされます。もちろん自分にできないことを神さまに祈るわけですから、願うことが悪いのではありません。しかし、私たちが誰かのために祈り、他の人のためにとりなしをしていくことが、祈りによって成長させていただく大きな要素です。少しの時間でも、他の人のために祈ってみてください。そのような祈りこそ、神を喜ばせ、あなたを成長させるのです。
また、御言葉を蓄えることも必要です。みなさんは、礼拝においてメッセージを聞いておられますが、たとえ私のように早口で、話がうまくない者のメッセージでも、神が自分に与えてくださったものだと御言葉を受け取る時、必ず恵まれると信じます。みなさん一人ひとりの受け止め方が大切です。
御言葉を学ぶということは、私たちの人生の軌道修正をするのにとても重要です。今の時代、世の中は、どんどん悪い方向へと進んでいます。いじめが急増し、不品行や不倫が当たり前かのように思われています。また、昔には考えられなかった、通り魔殺人や、無差別殺人のような犯罪も増えています。それを見る時、本当に大丈夫かなと不安を覚えます。しかし、こんな時代の中にあって、正しく生きるために御言葉が必要です。御言葉は、永遠に変わらない真理であり、私たちの生きる道を示してくれるものです。ですから、メッセージを聞くとともに、自宅で聖書を読み、『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』(第1ペテロ2章2節)とありますから、赤ちゃんが成長していくためにミルクを飲むように、ぜひ御言葉を蓄えてください。
私は小さい頃、明先生から「御言葉を覚えなさい」といつも教えられました。今は、記憶力が低下して、なかなか覚えられませんが、小さい頃に覚えた御言葉は、覚えています。ですから、子どもたちに御言葉を覚えさせたらいいと思います。
先日、昨年のチリの落盤事故にまつわる、こんな話を聞きました。チリの聖書協会から日本の聖書協会に、バイブルトーク(聖書を録音したもの)を送ってほしいという要請がきたそうです。要請を受けた方も、アメリカやヨーロッパではなく、なぜ日本にその要請がきたのかと不思議に思ったそうですが、日本は、そういった分野の技術が優れているのだそうです。それで、スペイン語の聖書が録音されたバイブルトークを、チリに何十台か送り、すごく喜ばれたそうです。その後の報告は伺っていませんが、きっと閉じこめられた人たちのところに届けられたと思います。
閉じこめられた時、もちろん食料は必要です。しかし、それだけでは心を強くすることはできません。心の食物として、御言葉が必要です。そのことを、この話を通して教えられました。
神の御言葉を食べる、御言葉を蓄えていく、それは、私たちが毎日食事をするのと同じように重要なことであることを覚えてください。
今は、礼拝に出られない方のために、インターネット配信もされていますので、ぜひできるだけ礼拝に参加して、成長していく恵みを受けていただきたいと思います。 

 また、御言葉を聞くだけではなく、実践していくことが重要です。
『私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』(ヤコブの手紙2章14~17節)
 私たちが、信仰を持っているといっても、それを実践していかなければ成長していくことができません。
先日、情熱大陸という番組を見ました。ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、その時に紹介されていたのは、ミャンマーで医療活動を行っている吉岡という医師でした。彼は、クリスチャンではないと思いますが、無報酬で、ミャンマーの貧しい人たちに手術を施し、今までに1万人以上の人を救ってきたと聞き、興味が湧きました。貧しい国で衛生環境も悪いなか、どうしてそこまで頑張れるのだろうと見ていた時、彼の一言が私の心にとどまりました。レポーターに、「どうしてそこまでするのですか?」と聞かれた彼は、「理由などない、ただそこに患者がいる、だから助ける。一人でも多くの人を助けることに迷いはない」と、晴ればれとした顔で言いきっていました。すごい人だなぁと思いました。
また、こうも言っていました。「私が患者に会って直接感謝の言葉をかけられることはありませんが、私は平気です。私も、いつからそのようになったのか分かりませんが、きっと自然になったんですよ。自分の欲を手放し、チャンスがあれば自分の思いを止めないことが大切です。また、『自分の人生をより豊かに生きる』という考え方も非常に大切です。そこで必要なのは、自分の人生と他人の人生が重なるように生きていくことです。しかし、他人のために、とばかり思っていては駄目です。自己犠牲とは、そんなに簡単にできることではありません。ではどうすればよいでしょう。簡単です、自分の人生を豊かにすればよいのです。そして周りを豊かにしていけばよいのです。」
彼は、淡々と語っていましたが、なかなか言えることではないなあと思いながら見ている時、聖書の有名な御言葉が頭に浮かびました。
『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』(使徒の働き20章35節)
最近ニュースで聞いたのですが、多くの子どもたちが、自分で欲しい物を得るためにお金を貯めて買うなどの努力をしなくても、「欲しいな」と思うものは、すでに目の前に用意されているように育てられているそうです。与えられることが当たり前になっているのです。しかし、大人になってまで与えられるわけではないので、欲しい物が手に入らないと、自分が欲しいから、自分が必要だからということで、人を傷つけ、人殺しまでして奪い取るような問題がたくさん起きていると報道されていました。しかし、ここに挙げた御言葉にあるイエスさまの方法は逆であり、自分で受けてきたものを、他の人に分け与えることが大切であり、そのほうが幸いであると語られています。そうしていくなら、私たちは成長できると教えています。
神さまは、今、あなたが必要なものを全部知っていて用意してくださっています。それと同時に、自分のために使うだけでなく、みなさんが誰かに分け与えるために必要なものが預けられているということを知ってください。
『受けるより与える方が幸いである』という御言葉は、物質的なことを言っているだけでなく、自分が受けた恵みを他の人に分かち合うということも意味します。人に話すことによって、自分が成長できるのです。ですから、証しすること、伝道することが成長の秘訣でもあります。
ルカの福音書10章27節に『「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。』とあるように、あなたが、全身全霊をもって神さまを愛し、また今、隣に座っている人のために祈り、隣人を自分自身を愛するように愛していくなら、成長するのです。

冒頭に言いましたように、昨年末のカウントダウン聖会において、申命記から語らせていただきました。
『私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」』(申命記1章6~7節)
イスラエルの民は、430年の奴隷生活から解放され、エジプトを出て、約束の地カナンを目指して意気揚々と進んでいきましたが(これは、クリスチャン人生の縮図だともいわれています)、さまざまな問題が起こり、不信仰に陥り、疲れ果て、ホレブ(シナイ山のふもとの村)という場所に住み始めました。そこにとどまり、生活にも慣れ、「約束の地に導く」という神さまの契約を忘れて、「このままでもいい」と思ってその地に安住してしまいました。
そんな時に、『あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。』と声がかかったのです。この言葉を聞いた彼らはどうしたでしょうか。攻め上るべき地を前に不安を覚え、「私たちより先に人を遣わし、その地を探らせよう」と提案し、12人の斥候を遣わしました。戻ってきた斥候たちは、全員、その土地が素晴らしい所であると報告しましたが、12人のうち10人は、「あそこには巨人がいて、私たちは勝つことができない。だから上っていかない方がいい」と民の心をくじき、「主の命令に逆らった」のです。このことは、イスラエルの民は、ヨシュアとカレブ以外、約束の地に入ることができなかったという大きな事件に発展しました。彼らはなぜつまずいてしまったのでしょうか。
ローマ人への手紙12章3節には『 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』とありますが、イスラエルの民は、神の恵みを知りながら、神さまの計画を知りながら、いつしか人の考え、人の言葉、肉の目で見たものに振り回され、信仰持つことができず、進んでいくことができませんでした。これは、神への裏切りであり、彼らの高ぶりによって、勝利を得ることができなかったのです。
この箇所から、主の命令に従うことの大切さ、従順さを教えられます。どんな時でも神さまの命令に聞き従うなら、必ず勝利を得ることができることを覚えてください。
信仰生活には、学校や地域、会社での偶像との戦いなど、さまざまな戦いがあります。しかし、その時には、いつも神さまの側につかなければなりません。
ローマ人への手紙12章2節には、『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』とあります。
自分を変えるとは、難しいことです。悪いと思いながらも、みんながやっているからいいじゃなかいと軽く考え、いつしかそれに流されてしまってはいないでしょうか。また、「どうせ自分なんか駄目だ!」と投げやりになってはいませんか。多くの場合、人と比べて自分は劣っているとか、あれができないとか、人からの評価を気にして「私は何もできません」と言うことが多いと思います。そのような人に対して、パウロはこう語っています。
『いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。』(ガラテヤ人への手紙1章10節)
私たちに必要なのは、人を見るのではなく、主を見上げていくと同時に、神さまが私たちの見えるところではなく、見えないところを見ておられるということをしっかりと握ることです。
『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第2コリント人への手紙4章18節)
見えないものを成長させるために、神さまは「心の一新によって自分を変えなさい。今こそ向きを変えて出発しなさい」と語っておられると思います。そのことを覚えて、この一年、素晴らしい祝福の年となるように祈って、御言葉に従って歩んでいきたいと願います。
最後に一つ御言葉を読んで終わりにしたいと思います。
『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(ローマ人への手紙12章4節)
一人でできることは限られています。教会には、子どもから年配の方々までおられ、さまざまな国の方もいます。才能ある賜物を持っている人も大勢います。
一般の会社のセミナーで聞いたことですが、会社には、いてもいなくてもよいと言われる社員が、全体の20パーセントいるそうです。しかし、その20パーセントの社員を排除したならその会社がすごく儲かるかというと、そうではないそうです。もしその人たちを排除したなら、残った内の20パーセントが、またできない人たちになるというのです。なぜかというと、逆にすごくできる社員が20パーセントいるそうですが、そのできる人たちは、できない人たちを補おうとするので、そのできない人たちがいなくなったら、できる人のモチベーションが下がって、全体的には悪い影響が出るというのです。
みなさんの中には、会社で言えば、自分もできない20パーセントに入っていると思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、教会では違います。みなさん一人ひとりがキリストのからだの部分であって、それぞれが神さまに選ばれた、大切な人なのです。
そして、『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』(エペソ人への手紙4章16節)とあるように、それぞれに与えられている賜物と役目を果たしてこそ、全体が機能します。
 昨日は、サッカーの試合をご覧になったかもしれません。日本は劇的な勝利を収めました。
サッカーは、どんなに素晴らしい選手がひとりで頑張ったところで、ゴールを決めることはできません。それぞれの選手が、それぞれのポジションを守り、その役割を担い、お互いに協力し合い、その連係プレーでゴールを決め、勝利することができます。
 私たちも、誰かではなく、みなさん一人ひとりがそのポジションをしっかり担う時、キリストのからだが建てあげられ、大きな成長を遂げられるのです。ですから、キリストに選ばれ、弟子とされ、勇士とされたことを覚え、どんな時にも揺るがない信仰を持って主に仕えていきましょう。