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「聖霊の力を受けよう」

2011.2.13(SUN)
新城教会牧師  滝元 順

使徒の働き 1章3節〜8節
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 ハレルヤ!今、素晴らしいヘブンリーキングダムの賛美を聴かせていただきました。私はこの歌が大好きです。「イエスの名によって街を勝ち取りましょう。主の御名によって街を歩き回りましょう」という歌でした。この街を政治的ではなく、権力によらず、能力によらず、聖霊によって勝ち取ることができたら素晴らしいです。さらに私たちは、街のために祈り続けていきたいと願っています。

 みなさんに祈っていただき、先週の「霊的戦いセミナー」も、そんなに人数は多くなかったんですが、充実したセミナーを持たせていただきました。心から感謝いたします。
 また、今週から韓国に行きますが、是非とも祈っていただきたいと思います。今年は再び「韓国リバイバルミッション」があります。五月と六月に春川とソウルにおいて行われます。是非とも、みなさんお金を貯めて、暇を作ってお出かけいただきたいと願っています。
 一月に私はペルーに行っていまして、モードが南米モードになっていますので、韓国モードに切り替えるのが大変ですが、今年は韓国のためにがんばって働きたいと願っています。神の法則とはおもしろいもので、自分のために働いていると、なかなか祝福はありません。しかし誰かのために、自分とは関係のない人たちの祝福を祈り、働いているうちに、気がつくと自分の足下も祝福されているという法則です。
 神様は、全ての働きを既に用意してくださっています。私の大好きな聖書の言葉の一つは、エペソ人への手紙二章十節です。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』

 今日、ここにおられる一人ひとりは皆、神の作品です。誤って生まれた人は誰一人いないのです。全員、神の計画の中で、神の作品として造られたのです。ここに三百人以上の方々が集まっていますが、お顔を拝見すれば、一人ひとり、よくぞこれだけ違った顔ができたもんだと感心しませんか?もしも神様が、鯛焼きのように、人間を大量生産していたら、同じ物が出来ると思いますが、全部違うということは、一点一点手作りということです。
 でも、神様もいつも人を造っていると、やはり、少しは似た人もいます。あれ?あの人と私は似てるな、とか、この人とあの人は似てるな・・・、とか。結構、似ている場合があります。昨日こんな画像を見つけました。
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 全員同じ顔をしていませんか?これは、今、論議を呼んでいるそうでうす。これは作り物の写真か、それとも、本物かと。見れば見るほど、司君みたいな人たちがずらっと並んでいます。本当によく似ています。時にはこういうこともあるかもしれません。しかしこれも神の作品を表しています。似てしまうということは、同じ方が造っておられるからです。でもこの写真は偽物です。

 私たちは神の作品ですから、一人一人、手作りで造られました。そして、『その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』とあります。人生の中にはすでに、「良いものが備えられている」というのが、聖書の教えです。
 「良いもの」をみなさんは、どのように定義づけるのでしょうか?いろんな定義の仕方があると思います。人というのは、それぞれ考え方が違いますから、良いという価値観にもいろいろあります。
 理科の時間に先生が、「氷が溶けると何になる?」と子供達に聞いたそうです。ほとんどの子たちは、「氷が溶けると水になる」と答えたそうです。しかし一人の少年だけが、「氷が溶けると春になる」と答えたそうです。いや〜、なかなか文科系の詩的な少年だと思いませんか。
 「良い」という定義にはいろいろあるかと思いますが、聖書の「良いもの」という定義は、実は、「聖霊様」のことなのです。
 今日、みなさんと共に読んだ聖書箇所は、イエス様が甦ってから、天にお帰りになる前、弟子たちに語られたみ言葉です。使徒の働き一章三節から八節のところを読んでいただきましたが、使徒一章五節、

『 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』
 そして、八節、
『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

と語られました。
 今日のメッセージの題は、「聖霊の力を受けよ」という題です。今日、この二月十三日というのは、私にとって忘れることの出来ない記念日でもあります。あの日はもう少し寒かったと思うのですが、一九九二年二月十三日、新城教会に、聖霊様が力強く訪れてくださった記念日です。あの日がなかったら、今日はありません。あの日がなかったら、ここに集っておられる方の半分もいないかもしれません。本当にそのくらい大きな出来事でした。
 聖書に記されていることは、私たちのただ中にも起きるのです。そして、それが一番良いものだと聖書は、私たちに教えています。
 マタイの福音書 七章七節〜十一節、

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』

 『求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』と、イエス様は語られました。実は、それが聖霊様のことなのです。
 ルカの福音書 十一章九節〜十三節、

『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』

 「良いもの」とは、「聖霊様」のことです。一番良いものは何かというと、それは聖霊様です。
 クリスチャンになったら、三つの理解が必要です。今日も、バプテスマを受ける方が二人おられます。嬉しいですね。本当にこの頃、多くの方がバプテスマを受けて、イエスは主であると告白していることは、本当に素晴らしいです。
 バプテスマを授ける時、どのような名前で授けるかと言ったら、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」と聖書は告げていますから、私は「父と子と聖霊の名によって、バプテスマを授けます」と宣言して水中に沈めます。完全に沈めて、全てが満たされるようにと祈りつつ行います。「父なる神様、子なるイエス様、聖霊様にどっぷりとつかる」ことが重要です。
 それは、どういうことかというと、「父なる神様」とは、「私たちにとって神は一人しかいない、全宇宙に神はひとりしかいない」という宣言です。
 また、「子なるイエス様の名によって」は、「イエス・キリスト以外に救いはない」ということです。この世の中には、たくさんの神々の名があるかもしれないけれど、救いの名は、「イエス・キリスト以外にない」のです。
 携帯電話をお持ちだと思いますが、みなさんの携帯にかけるためには、一つの番号しかありません。「一桁くらい間違ってもかかるだろう・・・」と思っても、絶対にかからないのです。番号がどんぴしゃで、桁数を満たさないとかからないのと同じように、天地宇宙を造った神に通じるためには、一つの名前「イエス・キリスト」しか使えないのです。
 日本人は、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」と、なんでも神々の名前を使えば聞いてくれるように思っていますが、それは間違っています。イエス・キリストの名前以外、真の神に通じる道はないのです。だから先週も「わたしが道であり、真理であり、命なのです。わたしを通してでなければ決して、父のところに行くことはできません」と学びました。

 そしてもう一つの理解が重要です。それが「助け主なる聖霊様」についてです。私たちを助けてくださる、神の霊である聖霊様です。父と子と聖霊は、「三位一体」なるお方です。その神が私たちの所に来てくださり、包んでくださる瞬間が、父と子と聖霊の名によるバプテスマです。そして「聖霊」が私たちに与えられるという理解が重要です。
 ですから、バプテスマ式の時には、「父と子と聖霊によって」と宣言をして授けるわけです。
 でも、この三番目の「聖霊の力」とか、「聖霊のバプテスマ」に関しては、私たちが、しっかりと目的を意識する必要があります。聖霊に満たされ、力をもらうためには、何が必要かということが今日、私たちが学ぶ主題です。
 ルカの福音書 十一章五節〜十節、

『また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』

 これは、何を語っているかというと、真夜中に、自分の知り合いが家にやって来て「おなかがすいた」と告げたのです。それで隣の家に行って、「ちょっと開けてくれないか?友人が家に来たんだけど、彼に出してやる物がないんだ。すまないけど、パンを三つ貸してくれないか?」と夜中に言ったのです。
 みなさん、どうでしょうか?夜中に隣の人が「パンを三つ貸してくれ」なんて言ったら、いくら友達でも腹が立ちます。だからこの隣の友人も、「面倒をかけないでくれよ。子供たちだって俺だって寝てるんだから。」と告げています。
 でも隣人は、ひたむきに「頼むから貸して。お願いしますよ!」とでかい声で騒いだのです。それで友達だからというのではなく、うるさいからとパンを貸したと言うのです。
 ここで語られている三つのパンとは、「求める、探す、叩く」につながっています。この良いもの、聖霊様を私たちが頂くためには、求める、探す、叩くという、ある意味、「ひたむきさ」が必要であると教えているのです。
 父なる神様はひとり、救い主はイエス様だけを告白したら救われますが、聖霊様に満たされるためには、ここに記されているように、「求め、探し、叩く」という、ひたむきさが必要だと教えています。

 イエス様も弟子たちに言われました。「聖霊が下るまで、あなたたちは祈り続けなさい」と、彼らに祈りを要請しました。いつになったら聖霊が下るとは言われなかったけれど、彼らは、二階座敷に集まり、ひたむきに祈っている中、十日目に天が開かれ、聖霊が注がれたのです。
 そこで彼らは力を受け、全世界に散って行きました。ちょっと前までは、イエス様を裏切ったような、あの弟子たちが、なんと聖霊の力を受けて、迫害をものともせず、世界に出て行った結果、私たちにも福音が届いたのです。そこには弟子達のひたむきな「求め、探し、叩く」という姿と態度があったのです。

 私たちも同じです。夜中にパンを貸してくれと訪問してきた友人は、「俺が腹が減ったからパンを貸してくれ」ではないのです。友人が「腹が減ったんだけど何かない?」と言ったのです。「うちには何もないけど、そうだ、隣の家に行ってパンを借りてこよう!」と自分の友人のために、夜中にそんな行動をとったのです。
 お隣さんは、たまに来る友人よりも近い関係です。夜中にそんな行動をとったら、お隣との関係が壊れてしまうかもしれないのに、彼は出て行って、友人のために隣の家のドアを叩き、パンを受け取って来たのです。
 聖霊の力は、自分のためではなく、まだ救われていない多くの人たちのため、日本のリバイバルのために、必要としているのです。
 もちろんイエス様を信じた時、聖霊の力は与えられますが、それは自分の信仰生活を維持するくらいの力です。しかしここで述べられている聖霊の力とか、聖霊のバプテスマは、自分の信仰維持の為ではなく、誰かを救い、助けるための力でなければならないのです。それが良い事であり、神はそのことを心から願っておられるのです。
 私たちは、この三つのパン。とりわけ最後の「聖霊なるパン」を受け取る必要があります。

 旧約聖書にも同じような記事がありまして、旧約は、新約の影になっているわけです。サムエル記第一を見ると、イスラエル初代の王様サウル王様が、聖霊の力を受けた様子が記されています。サムエル記第一、十章三節〜六節、

『あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町に入るとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。』

 サムエルはサウルに預言しました。「あなたは、三つのパンを持った人に出会います。その人は三つのパンの内、二つをあなたにくれます。そのパンを受け取ったら、なおも進んで行くと、今度は、神の預言者たちに出会います。その時、あなたに主の霊が注がれて、あなたは新しい人に変えられるのです。」と預言しました。
 私たちも、すでに二つのパンは受け取りましたが、もう一歩進んで、三つ目のパン、すなわち、聖霊を受けるのです。私たちは救われて、その場に安住していてはなりません。さらに良きものがあるのです。それは何かというと、聖霊様です。聖霊の力です。それを体験したら、人生は大きく変わります。
 アメリカでリバイバルの指導者として用いられたチャールズ・フィニーは、聖霊のバプテスマを受けた時の様子を次のように述べています。
 「聖霊は、私の肉体を、魂を貫くように下ってきた。その印象はまるで電気の波のようで、何度も私を越えて行った。それは、まるで愛の波が幾重にも押し寄せてきたかのようだった。他にどのように表現すればよいのか、わからなかった。それはまさに、神御自身の息のようだった。」と。
 このように彼は聖霊体験をレポートしています。
 私たちも、自分が救われて、それで終わりではなく、一歩進んで三つ目のパンをゲットしようじゃありませんか。そのために必要なのは、「求め、探し、叩く」という「ひたむきさ」がどうしても必要です。

 私は、この頃、よくメッセージの中で昔話をするのですが、新城教会の歴史をしらない方もいるので歴史を語っているつもりです。
 私はこの教会に生まれ、教会の歴史をずっと見ていますが、近頃、教会に来られた方々は、昔、新城教会がどんな風だったのか、あまり知らないかもしれません。昔も今と同じ場所に教会がありました。赤い屋根の小さな教会がありました。
 その頃流行っていた賛美歌がありました。それは「村の小さき教会、今もそこにありや~」という歌でした。私もその賛美歌が好きで歌っていましたら、ある時父が「そんな不信仰な歌は歌うの止めよう」と言うのです。「十年経っても、二十年経っても、同じ村の小さな教会、それって、全く成長してない教会じゃん!」という歌だからです。それで、その賛美歌を歌うのを止めました。そして、みんなでリバイバルを祈り始めました。今は感謝な事に祝福されています。
 ここに赤い屋根の教会がありましたが、あの頃の教会を知っている人はどのくらいいますか?三分の一もいないですね。四分の一くらいでしょうか。知らない人たちのために、写真を用意してきました。山口昭長老がいつも写真を用意してくれています。
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 右のほうの建物が最初に出来て、左は後に付け足したので、変な格好の建物です。いや〜、懐かしいですね。なんか昔の記憶が呼び起こされるようです。教会の中も見たいですか?中にもご案内します。
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 こんな感じの内部でした。近くの映画館がつぶれて、その椅子をもらってきて使っていました。なんとちぐはぐな感じでしょうか。講壇のほうから見ると、こんな感じです。
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 これはいつの写真かご存知ですか?私の結婚式の時の写真です。会堂の上にバルコニーがあって、当時、そこがクリスチャンホームの子供たちのたまり場になっていました。
 私たちはクリスチャンホームに生まれたんですが、全く聖霊の働きには関係のない男たちでした。クリスチャンホームの子たちが多くて、いつも学校が終わると、みんな教会のバルコニーに集合しました。
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 もう一枚の写真。これは、私の披露宴の時の写真です。披露宴には見えませんね。村の宴会みたいです。

 学校が終わると、クリスチャンホームの子たちが集まって、互いに勉強なんか教えあったりしました。勉強を教えたよりも、遊んでばかりいました。夏休みなどは都合が良かったです。先輩・後輩が大勢おりましたから、誰かが読書感想文を書くと、学年が違いますから同じ読書感想文を提出するのです。
 一人、読書感想文を書くのがうまい男がおりまして、彼が書いた文章を他の者が学校に提出したら、なんとそれが「最優秀作品」に選ばれてしまいました。それで表彰状をもらったようですが、「自分は罪を犯してる」という顔つきで表彰状をもらいに行きました。
 日曜日の礼拝なんか、礼拝が始まる時刻まで教会のバルコニーで寝ていまして、賛美が始まると、みんな急いで起きて下に降りてきました。寝ころびながらズボンを履いて、礼拝堂に入っていくような生活をしていました。本当に不真面目でした。みなさんは真面目です。子供たちも偉いですね。
 私たちはそんな生活をしておりまして、お互いにいたずらをよくしまして、寝てるうちに、こっそりとマジックインキで、誰かの顔に眼鏡とか髭を書くのです。お互い、鏡を見る暇はありませんから、そのまま礼拝堂に降りて行くのです。マジックで顔にいたずら書きされた子供たちが、礼拝にまじめな顔をして並んでいました。それは古き良き時代でもありました。

 しかし全く、神様の働きとは無縁の者たちでした。そんな私たちにも、聖霊様が訪れてくださいました。それがいつかと言うと、一九九二年の二月十三日、先ほど開先生は、「二月十一日の礼拝を始めます」と間違えましたけれど、今日は二月十三日です。
 夜中の十一時くらいでしたが、愛知県民の森で祈っている時、激しく聖霊様が訪れて下さいました。あの時のことは忘れることができません。ちょうど甲子園ミッションが計画され、その準備段階でした。当時は、バブルが陰ってきた時期で、それでもまだまだ、全てのコストが高かったのです。甲子園で集会をやろうということで、全国の教会が献金してくれて、事務所を始めることができました。でも、ひと月の経費が五百万円ほどかかりました。そんな時代でした。
 甲子園を借りて集会をやろうというのですから、いろんな作業があるわけです。私たちに経験があったわけでもなく、始めてみて、初めてわかりました。「これは乗り出すべきではなかった!」と。
 本大会は一九九三年の十一月でしたので、一九九二年の一月に事務所をオープンしました。初めから五百万円くらいかかりました。しかし二月になったら、お金が百万円くらいしかありませんでした。私はそれを見て、本当に、血の気が引くような思いでした。「たった百万でこれからどうするの・・・。どうしたらいいの?」と、本当に心が暗くなりました。
 私たちは毎週のように、西宮の甲子園球場の側にある事務所に通っていました。その事務所から窓を開けると、阪神甲子園球場全体が見えるわけです。私が窓を開けると平岡先生が「順、窓を閉めろ」と言うのです。なぜかと聞くと、「球場を見ると不信仰になる」と言うのです。球場を見ると勇気が湧くのではなくて、「見ると不信仰になるから閉めろ」と言うのです。私も同じ心境で「いいよ」と言って閉めていました。
 「これからどうする?先生が全て知ってると思って一緒に始めたのに・・・」と言うと、「俺はよく知らんよ」なんて言われて、本当に暗くなりました。でも、これは祈るしかないと思いました。

 一九九二年の二月。寒かったですけれど、一週間、甲子園ミッションの祝福とリバイバルのために、教会スタッフやミッションスタッフたちを呼び出して、徹夜祈祷を行うことに決めました。
 私たちはそれほど、真剣に祈ったことはありませんでした。一週間、愛知県民の森に入って、主に助けを求めてひたすら祈ったら、きっと答えてくれると信じて祈り始めました。
 初めは三十人くらいで祈りに来ていたのですが、三日、四日たつと、みんな疲れてしまって、やっぱりさぼる人も出るわけです。「俺、今日、風邪引いた・・・」とか言って、最後の祈祷会はたった八人でした。みんな疲れきって、声も出ないような状態でした。
 しかし、最後の晩に聖霊が激しく訪れてくださいました。あの夜のことを、私は今でもよく覚えています。三十分くらい祈ったら帰ろうと思っていた時でしたが、祈っている場所の外から、私の耳には音が聞こえ出し始めました。あの場所は時々、飛行機が飛びますから、はじめは飛行機だと思いました。それがどんどん近づいてくるような、津波が近づいて来るような感じでした。私は、「やれやれ一週間も祈ったもんだから、ついに耳に来ちまった・・・」と、何度も耳を触ったのを今でも覚えています。
 すると突然、波が私たちに覆いかぶさって来たのです。そしてそこで祈っていた人たちのほとんどが、固いコンクリートにぶっ倒されてしまいました。私たちが考えもしないことが起きました。

 あの頃、この教会に来ていた方は、そのことをよくご存知だと思います。何が教会に起こっているのか、全くわかりませんでした。しかしまさに、聖霊様が訪れてくださった瞬間でした。
 その後、いろんな問題がありましたけれど、聖霊様に触れていただいてから私たちは変えられました。甲子園ミッションの活動の二年間は、自分であって、自分ではないようでした。なんか操り人形のように、神様に操られて、全国を飛び回りました。あの本大会は、日本のキリスト教の歴史に残るほど、祝福された集会となりました。
 甲子園ミッションは、県民の森で起こった聖霊の注ぎが、球場全体に注がれたような感じでした。みんなが聖霊に満たされ、グランドに出て踊り始めるようなことが起こりました。
 それを見ながら、すでに天に帰られましたが、田中先生がこう言われました。「おい順。県民の森で起こったのと同じことが、甲子園球場で起こったな。これはリバイバルだ!」と。甲子園球場にも聖霊様が訪れてくださいました。あの日がなかったら、今はないと思います。

 初めは、たったの八人でしたが、聖霊に燃えて、人が変わってしまったようでした。それを見て周りは、だいぶ引いていました。
 イエス様の弟子達も、初めは百二十人が聖霊の注ぎを受け、その後、世界中に広がっています。少ない人数でも、聖霊様に触れていただくと、周りがどんどん変化していきます。

 九十二年、私はそのことをこの目で見、体験しました。二月十三日の夜は、たったの八人でしたが、その後、どんどん広がって行きました。次の日には三十人くらいになって、その次は、百人位になって、どんどん広がって行きました。
 そんなことがあっても、なお疑っている人もいました。岡本信弘先生は八人の中にはいませんでした。ですから、彼は何が起きたのか、疑っていたみたいです。今でも覚えていますけれど、私たちが体験したことを、新幹線の中で彼に話しました。しかし彼は言いました。「俺はそんなこと、信じられない」。
 岡本信弘先生は、甲子園ミッションの事務局を一緒にやっていましたから、先生が聖霊様に触れてもらわないと困るな、と思っていました。そして、私は彼のために祈りました。「主よ。彼にも触れてください」と祈りました。
 ある日私はプレイズ出版の当時は小さな事務所に行きました。すると、彼が涙を流して泣いていました。私は何か悪いことがあったのかと思いました。誰かが死んじゃったのかと思って心配になりました。しかしそれは、彼に聖霊様が触れておられたのです。聖霊によって彼は涙を流して祈っていたのです。なんとそれ以来、彼の人生は大きく変えられました。それで、プレイズ出版が出来たのです。当時は小さな印刷機一台で印刷をしていたのですが、聖霊の力を受けたら、みんな素人だったのですが、今や押しも押されぬキリスト教界をリードする出版社となったのです。あれは聖霊の働きによるものだと確信します。
 教会の働きも、プレイズも、ミッションも、神学校も、全て聖霊様が訪れてくださった瞬間から始まりました。
 一九九二年の八月のリバイバルミッションニュースが見つかったので、みなさんにお見せしたいと思います。

 この激しく叫んで祈っている男は誰だと思います?岡本信弘先生です。あの冷ややかな男が、ここまで激しく叫ぶとは!この写真をミッションニュースに載せた時、いろんな反響がありました。あまりにも激しすぎるとか言われました。けれども、事実、彼は聖霊様に触れていただき変わりました。みなさんに聖霊が臨む時、人知を越えたことが起きるのです。
 サムエルがサウルに、「あなたは新しい人になります」と言いましたが、私たちも、新しい人になるのです。

 聖霊様に触れていただくには、先ほども話しましたが、「求め、探し、叩く」という、ひたむきさが重要です。私たちも、真剣に主を求めました。その結果、リバイバルがこの教会に広がっていきました。
 しかしそれは決して自分のためではなく、「友達に出してあげるパンがない」という動機です。ひたむきに隣の家に出向いてパンを頼んだように、私たちも、日本のリバイバルのために、真剣に聖霊を求める必要があります。
 この新城教会には、既にその歴史があるのです。そして、必ず、神は次の段階を用意しておられるのです。

 聖霊は油にも例えられるのですが、聖霊の支配がある人生は正しい道に導かれます。ヨハネの手紙第一、二章二十七節、

『 あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、‐‐その教えは真理であって偽りではありません‐‐また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。』

 現代は情報化時代ですので、聖書も簡単に手に入るし、いろんな先生方のメッセージもすぐに聞くことが出来ます。また、聖書の解説書だっていっぱいあって、勉強しようと思ったら、神学校もあります。
 しかし、キリスト教が始まった時代は、情報がありませんでした。印刷技術もありませんでしたので、聖書もありませんでした。でも、考えてみてください。今、私たちが学んでいるキリスト教の基礎は、全て、初代教会の中で形成されたものなのです。情報のない、今とは全く違った環境の中で形成されたのです。
 聖書を読んだらどうでしょうか?見事だと思いませんか?よくぞここまでうまく出来たと思います。理論的にも本当にしっかりしているし、「聖書は誰が書いたのかな?」と、よくぞ道を間違えないで、変な方向に行かないで、正しい道を歩み続けたものだと感心します。
 当時はすでにギリシャ神話の世界が広がっていましたし、カナンの偶像礼拝なんかもあったただ中で、少数の人たちでしたが、聖霊の力を受けて、それらの影響をはねのけて、キリスト教の基礎を作りました。それは何が言えるのでしょうか。それは『キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。』
 情報がない時代でも、聖霊様が弟子達を導きました。誰かが教えてくれるわけではなかったのですが、道を間違えないで正しい方向に進んでいったのです。それは聖霊様の働きでした。

 現代は昔と違い、逆に、情報が多過ぎる時代です。何が正しくて、何が間違っているのかわからない今日この頃です。でも、聖霊の油注ぎがあったら、道を外さないで歩むことができます。
 聖霊の油注ぎは、ちょうどカーナビのようです。みなさんもカーナビを使っているかと思いますが、カーナビは目標を設定すると、少しぐらいコースを外れても目的地へと戻されます。「コースを外れました」、「リルートを開始します」とか言って、うるさいと思いますが、目的地に戻すのです。
 聖霊様の働きも同じです。聖霊の油注ぎをもらう時、目標に向かって、道を外さずに生きることができるのです。

 また、聖霊の油注ぎは、あらゆる危険からあなたを守るものです。歴代誌第一、十六章十九節〜二十二節、

『そのころ、あなたがたの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』

 イスラエルの民は、世界から見たらごくわずかな人たちでした。出エジプトをした時、周りは敵だらけでした。すぐに潰されてもおかしくない状況でした。しかし彼らは聖霊によって守られ、導かれたのです。
 周りがどんなに危険な状態であっても、神が油注がれた民の盾となったのです。神は敵たちに宣言しました。『わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。』と。
 聖霊の油注ぎをいただくと、神はサタンに宣言するのです。『わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。』と。

 また、「くびきが砕かれ、いやしが起こる」と約束されています。そして、「敵の策略を見抜く力が与えられる」と聖書は約束しています。聖霊の力が臨む時、くびきが打ち砕かれるのです。イザヤ書十章二十七節、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。』

 この言葉を他の訳で見ますと、「くびきは油注ぎによって砕かれる」と訳されています。
 「くびき」って知っていますか?二頭の家畜を繋ぐ道具です。昔はよくあったのですが、くびきに繋がれている牛は、いつも二頭一緒に行動しなければならないのです。そのような人もいるのではないでしょうか?いつも問題に繋がれていて、問題と共に行動するのです。いつも悪習慣に繋がれ、悪習慣と共に行動しているという人もいるかもしれません。
 でも、聖霊が注がれる時、くびきが打ち砕かれるのです。そして、いやしが起こり、敵の策略さえも、見抜くことができるのです。

 第二列王記にエリシャという預言者が出て来ます。彼は聖霊の油注ぎを持っていました。第二列王記六章八節〜十二節、

『アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」』

 エリシャには、聖霊の油注ぎがあったゆえに、敵がイスラエルを攻めようとする時、そのプランを王が妃と一緒に、寝室でひそひそと話していても、それさえも読み取り、事前に軍隊を派遣し事なきを得たのです。
 みなさん、私たちが聖霊の油注ぎをもらうと、敵の策略を見抜くのです。私たちの人生は先回りして、敵の力を打ち破り、勝利の道を歩むのです。聖霊の油注ぎをもらう時、人生が大きく変わるのです。
 使徒の働き十章三十七節〜三十八節、

『あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』

 イエス様は、「良いわざをなした」と記されています。「良いわざ」それは、聖霊様による業です。その業とは、「悪魔に制せられている全ての者を癒した」ということです。私たちも聖霊の力を受ける時、良いわざをなすことができると聖書は教えています。
 そのために、必要なのは、「求め、探し、叩く」ことです。今日、私たちは、聖霊様の力を求め、探し、叩きたいと思います。
 既に良いものが与えられていると思いますが、さらに主は、良いものを用意しておられます。それは三つ目のパンです。
 「一九九二年の二月に聖霊を受けたから、もういいや」ではなくて、さらに求め続け、探し続ける必要があります。なぜなら、私たちの周りには、苦しんでいる人たちが多いからです。なんとかしたいと私はいつも考えています。教会に来てくださり、まだまだ、問題で苦しんでいる方もおられます。どうしたらいいのか、申し訳なく思います。しかし解決策はただ一つだけです。それは聖霊の力を求める以外にありません。
 聖霊により、新しい扉が開かれ「良いわざがなされる」、これが聖書の約束です。
 今日二月十三日、特に新城教会に主が訪れてくださった記念日に、心から主を求め、探し、叩く、ひたむきな思いに変えていただき、あの日をもう一度思い出して感謝すると共に、二〇一一年には、どうしても新しい扉を開いていただきたいと願っています。
 最後に、みなさんとご一緒に、祈り、聖さん式を行いたいと思います。主が、ここに新しい油を注いでくださるように、聖霊の力を注いでいただけるように、ご一緒に祈りたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様、御名をあがめて、心から感謝します。
 この二月十三日、あなたが力強く訪れてくださり、敵の力が打ち砕かれた日であることを心から感謝します。今日も、あなたがこの礼拝の中で聖霊を遣わし、敵のくびきをへし折ってくださっていることを感謝します。
 今、私たちをくびきにつなぐ、敵の力が完全に打ち破られますように。その力が砕かれますように。
 主よ、私たちは自分のためではなく、隣人のためにパンを求めます。主よ、どうか、私たちにパンを与えてください。
 あなたもこの地上で聖霊に満たされて仕事をしたように、私たちも聖霊によって満たしてください。この国のリバイバルのために訪れてください。感謝します。
 今からの聖さんの式を祝福してください。御言葉と聖霊によって、聖さん式を行ないます。主よ、今日は、イエス様と一つにさせてください。
 また、私たちがいただくパンを、「三つ目のパン」として聖さん式に与ります。今日は皆に聖霊を注いでください。
 感謝を持って、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。