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「私たちはどうすればよいでしょう」

2011.3.20(SUN)
新城教会牧師  上條 実

ルカの福音書10章25節~28節
『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 ハレルヤ!今日みなさんの前でお話ができますことを心から感謝します。だれもがそうだと思いますが、東北地方太平洋沖地震で皆が重たい気持ちがあります。私たちは恵まれた環境の中で礼拝し、食事などをしていますが、被災された方々のために祈り、テレビ報道等で見たり、聞いたりすると何とも言えない重い雰囲気があります。今日タイトルは「私たちはどうすればよいのでしょう」とつけさせて頂きました。大震災後のこういう時、私たちクリスチャンが何をしたら良いのか?どうしたらいいのか?ということを、みことばから学んでいきたいと思います。

 先週の木曜日から、SIR代表の滝元望が、仙台、盛岡など東北地区を慰問し、祈り、また訪問、そして物資等を運んで訪問してくれています。皆さんの中で、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、仙台市で牧会されていますN牧師先生はある小学校で避難されておられるそうです。その教会は海に隣接していると言っても過言ではない所に教会があり、今はまだ立ち入り禁止区域だそうですが、教会が津波によって流されてしまったとのことです。地震が起きた時、牧師夫人は教会から30分離れた所にいらっしゃったそうです。けれど地震後、津波に逆行して、車でご主人を迎えに行きご家族全員助かったそうです。その時ご近所のおじいさんがいらっしゃったので、「一緒に乗って避難しよう」と言ったそうですが、そのおじいさんは「わしはここを離れるつもりはない」と言って「仕方なく置いてきてしまった」と言っていたそうです。去年は東北リバイバルミッションをさせていただきました。ご協力下さった教会に連絡を取りましたが、ほとんどの所が連絡がつきませんでした。しかし教団教派のホームページ見るとほとんどの教会と先生方、教会員は無事のようでした。

 しかし震災の爪痕を見る時、本当に辛い思いがします。私たちはこんなに恵まれていていいのかなあと思わされています。同じ日本の中で苦しんでいる方々がいらっしゃる現実。私たちクリスチャンは、今何をしなければいけないだろうかと、先週考え、祈らせて頂きました。まず自分が出来ることは、「祈り」そして「義援金」また「救援物資を送る」そのような支援をして行かなくてはいけない。しかしそれらのことは皆がしていること。そのことは当然していくけども、今神さまがクリスチャンに何をしなさいと言っているのか?私はどうしたらよいのかと、主にあって自問自答していました。そんな中聖書を読んでいた時、ルカによる福音書3章9節~11節

『斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」』

 を読みました。ここはバプテスマのヨハネが皆に洗礼をささげている所です。彼の所に様々な人々が、バプテスマを受けるために集まって来ました。群衆はヨハネに『それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。』と問いました。またその後を読むと取税人が出てきて、「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」また兵士も出て来て、「先生、私はどうすればいいんですか。」とバプテスマのヨハネに問いています。「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とヨハネが語ったあとです。何か大震災のあと彼らがヨハネに質問していることば『それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。』という問いは、今の私たちの問いのような気がしました。今日本がこういう状況の中にあって、日本が痛み、苦しんでいるこの時、『それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。』と主に質問して答えを頂いて動かなくてはと考えさせられました。私は「日本人には愛がなくなり自分中心、物質主義であり、他人に対して愛のない国民になってしまった」と思っていました。しかし今回の震災後みんなが助け合い、譲り合っている姿を見る時「日本もまだこういう心があったんだ」と思いました。私たちクリスチャンも、すぐに行動を起こさなくてはと思います。でもまだ全体の状況がはっきりとせず、ただ「先生、私たちはどうすればよいのでしょう?」と祈るのみでした。そんな中先ほど読んでいただきました、有名なみ言葉が心に響いてきました。ルカ10章26節~28節、

『すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』

 ここはクリスチャンならよく知っているみことばです。私たちクリスチャンが、まずしなければならないことは、第一番目に「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」神様をまずしっかり愛していくということが今の私たちに求められている、一番大事な事だと教えられました。私たちはすぐに行動したい!すぐに何かやってあげたい!と思います。これはとっても大切なことです。だれもが思うことです。しかし、主が言われているのはそれではなく、まず第一番目には「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」ことことが今行わなくてはいけない事です。まず神を第一にしなさい。私たち一人一人クリスチャンが、心を尽くして主を愛することが大切。今しなくてはいけないことだというのです。
 ある方が今回の津波を見て「ノアの洪水のようでしたね」と言われました。、私も地震だけだったらこんなに多くの方が被災せず、亡くならなかったのにと思います。そしてノアの大洪水は創世記7章11節~12節

『ノアの生涯の600年目の第二の月の17日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、40日40夜、地の上に降った。』

とありますが、水の源、水の水門が張り裂けた、開かれたとありますが、まさにそのような情景だったと思いました。高い堤防も乗り越え、田畑や家、車などをのみ込んでいきました。そして創世記8章15節~22節には、

『そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」』

 全てが水でのみこまれた後、ノアは神さまが箱船からでなさいと言われました。ノア外には出て行き、その後何を一番初めにしたかというと、今読みました20節。

『ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。』

 とあります。ノアの家族は外に出た時「さぁ家を建てよう」とか「水は?」とか「食料は?」、と言うように復興を考えたのではありません。まず初めに主の祭壇を築いたのです。そしてきよい家畜、きよい鳥を選び主に全焼のいけにえをささげました。心から最高の礼拝をささげたのです。そうすると21節で、

『主はそのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」』

 全焼のいけにえをささげ、主を心から礼拝した時、そのなだめのかおりをかぎ「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」「わたしはこの地をほろぼすことはしない。」と言って下さったのです。私たちはもうこのような災害は望みません。主がどのような目的で今回の大震災が起きたかはわかりません。しかしもう二度と起きて欲しくない。地震が長野県でも、静岡県東部でも大きな地震が続き、地震が南下してきている気がします。またこの地域は、「東海地震」が来ると言われ続けています。しかし私たちはこの日本に、この地域に続けて災害が起きて欲しくはありません。今日まず

「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」

 私たちが初めにすることは、主への全焼のいけにえ。最高の賛美などの礼拝をささげることが最重要だと知ることができます。みことばを続けて読んでいくと創世記9章12節~17節

 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしであると虹がでました。今日私たちクリスチャンがまず一番始めに、主に立ち返り、主を礼拝する事なのです。心から主に礼拝しましょう。私たちの主は災いを与える方ではありません。守り、助け、祝福し、全てのことを益として下さる神です。

イザヤ書44章1節~4節には、

 『今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。』

 と書いてあります。今日生まれる前から、あなたという一人を計画し、あなたを愛し、豊かにして下さる。祝福して下さる。と約束をして下さっている神です。一点一画変わらないみことばです。信じましょう。またざわめきの賛美にもなっているみことばですが詩篇121篇5節~8節、

 『主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。』

 ここでも主が守ってくださるとあります。災いから守り、いのちをまもる神です。私たちは暗闇の支配者にごまかされ、「神さまの手にしがみついていないと落とされてしまう」ような感覚を持たされてしまいます。しかし私たちの神は、あなたの手が神を握るのではなく、神の手があなたを握って下さるのです。あなたをしっかり握りしめ、主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。と語って下さっています。また今回大震災のために祈っている時、神が与えてくださったみことばだと信じてご一緒に声を出してお読みしましょう。イザヤ書58章11節~12節です。

 『主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。』

 主は潤された園のようにして下さる。昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼んでくださると語って下さっています。信じましょう。だからまずこういう時だからこそ、主を礼拝しましょう。主に期待しましょう。無駄な心配や恐れを捨てて私たちは主の前に本当にへりくだって、心から礼拝しましょう。

 そして次に「私たちはどうすればよいのでしょうか」それは『隣人をあなた自身のように愛しなさい』ということです。今回の大地震を人ごととは思えず、何か協力したい。何か助けることはないかと考えています。聖書は「私たちはどうすればよいのでしょうか」とたずねる時、

『あなたの隣人をあなた地震のように愛しなさい。』

と言っています。もう一度お読みします。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』

 愛の反対語は、無関心だと言われています。私たちは無関心であってはいけません。もしあなたが被災していたら、復興するために日夜働くと思います。生活全部が建て直そうと必死だと思います。私たちクリスチャンは隣人を自分と置きかえて愛しなさいといっています。義援金や救援物資など様々な働きを積極的に行いましょう。私たちの霊的な耳を開かせていただいて、今私が出来る事を主に聞いて、実行したいと思います。司会者が読んで下さったみことばのあとには、何が書かれているでしょうか?それは良きサマリヤ人の話が書かれています。祭司もレビ人も、傷ついていた人を見ていながら、反対側を通って行ってしまったのです。しかしサマリヤ人は見て、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎほうたいをし、自分の家畜に乗せて、彼を宿屋に連れて行きました。またその宿屋でも介抱し、次の日、彼はデナリ二つを取り出して『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰り
その後に、ルカ10章37節、

『彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 『同じようにしなさい』本当に隣人をあなた自身のように愛して行きましょう。私たちは今まで無関心で愛を注げなかった所に関心を持たなくてはいけません。主にあって関心を持たなければならないところに関心を持たせて頂きましょう。私も東北の先生方と電話をして、「先生、大丈夫ですか?祈ってます。がんばってください」と励ましの意味で語っていました。しかし先週後半から、「がんばってください」と言っていいものかな、とふと思いました。向こうはがんばりすぎるほどがんばっているのに、「がんばって下さい」と言って良いのかと思いました。そんな時ある方から紹介して頂き「ブログにこんな事が書かれていました。」と教えてもらいました。そこにはこんな事が書かれていました。

「そろそろ「頑張って!」という励ましの言葉を変える時がきています。阪神大震災の被災者の方が、「震災の直後は頑張ってということばが励みになったが、やがてそれが苦しくなってきて、『私たちも頑張っています、お互い頑張りましょう』という言葉のほうが嬉しかった」。と言っていました。」

こんなことが書いてありました。簡単に言葉を発してはいけない。言葉も自分自身のように隣人を愛して行かなくてはいけないと思わされました。だから今日主の声をしっかり聞いて、無関心であったところも愛を持って実行して行かなくてはいけないと思います。私たちはイエスキリストから、無限大の犠牲的愛を頂きました。私たち新城教会は頭がキリストであり、私たちは各器官です。それぞれ気づくところ、感じるところ、関心事がちがうのです。だからめいめいが主に声を聞いて、「私は今、何をしたらいいんですか?どうしたらいいんですか?」と祈って下さい。そして主から声を聞いて、それを実行していただきたいのです。

 先週金曜日全日本リバイバルミッションへのメールに、感激するメールが届きました。それは韓国リバイバルミッションのために、よくご協力下さっている方からでした。それはある韓国の教会から、この東北地区太平洋沖地震で苦しんでいる所に、1万枚の毛布を作って届けたいので協力して欲しいとのことでした。韓国で今から毛布を作り、その毛布に刺繍をし、「韓国の教会があなたのために祈っています」とかなんでもいいので刺繍をして送りたいので、その手配をしてもらえないかと言うのです。それもその韓国の教会名を出さなくても良い。全日本リバイバルミッションが送ると言うことにしてくれれば良いと言うのです。私はどこに電話をしていいかもわからず、スタッフにも相談し色々調べました。しかしガソリンが不足し物資があっても、被災者に届かないことを報道で聞いていますので、どうしたら良いだろうと検討していました。すると韓国から電話が来て、「インターネットでガソリンが不足して、輸送手段がなかなかないみたいですね。だから毛布ではなく、他の方法でご協力します。」と言われました。韓国でも真剣に祈って下さり、この日本のために愛を注いで下さっています。新聞を見ると「私はこれだけ義援金を送りました」と写真をのせて義援金を渡している記事があります。しかし私たちは隣人を自分自身のように愛しなさい。とあります。また聖書には右の手でしていることを左の手で知られないようにとあります。韓国の教会に本当に感謝しました。日本は韓国に対して多くの苦痛を与えてきました。しかし愛して下さっているのです。それも名前を隠してと言われる時、自分が恥ずかしくなりました。私たちは主の声を聞き、それを実行しましょう。隣人が苦しんでいるのならば、自分が苦しんでいるかのように、愛し実行しなければいけません。震災ばかりではなく、隣人を愛しなさいとみことばから、私たちが無関心になっているところに関心を持つ必要を教えられます。それも良きサマリヤ人のように敵に対して、良い感情を持っていないところに関心を持ち、愛を実行していく必要があります。一番の隣人とはいったいだれでしょう。私だったら妻です。家族、兄弟。また、親族、地域の人たち、または世界の国に対して愛を持ちましょう。主から声を聞いて、「これをしなさい。この人を愛しなさい」と言われた時「震災とは何も関係がないんだから、そんなことはまず置いておいて苦しんでいる人だよ」と言うのではなく、あなたが主から声を聞いて、教えられた方々に愛を実践して下さい。主はあなたに必要なことを語ってくださいます。ある方は礼拝に座っている隣の方かもしれません。ある方は身内また、一番身近な人。家族かもしれません。一人一人の賜物があり、一人一人体の各器官です。教えられたことを実行しましょう。まず、主の前に静まって祈りたいと思います。行動する前に静まりましょう。主の声を聞きましょう。あなたが祈って教えられたことを実行しましょう。今日はまず始めに、思い切って主を礼拝しましょう。全焼のいけにえをささげましょう。心から賛美をささげましょう。またこれから聖餐の時を持ちます。また献金の時があります。心から礼拝しましょう。全焼のいけにえとしてささげましょう。そしてその後、隣人をあなた自身のように愛しましょう。主の声を聞いて、実行しましょう。お祈りします。

 愛する天のお父様。私たちはどうすればいいでしょう。まずあなたを心から愛することを行わせて下さい。そして主の声を聞かせて下さい。無関心であったことを赦してください。主の声を聞いて実行できるように、また隣人を自分自身のように愛することができますように。今日この礼拝を全焼のいけにえとして受け取って下さい。そして主よ、霊的な耳を開いてください。そして語ってください。主よ、今霊的な耳が閉じてしまっています。無関心になってしまっています。赦して下さい。隣人を愛することができる愛を与えて下さい。そして実行できませんから、愛を実行できる器に作り変えてください。一歩、踏み出す勇気と力を注いでください。今日主の前にへりくだります。私は何も出来ません。あなたに生かされています。イエス様が私のために十字架にかかって葬られて3日目に甦ってくださったことを、心の底から、感謝します。この犠牲の愛を私に与えて下さい。今から行う聖餐の時も祝福してくださいますように。尊い主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。