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「信仰の基礎を見直す」

2011.5.22(SUN)
新城教会牧師  岡本 信弘
テモテへの手紙第一 6章19節

『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

 皆さん、おはようございます。
 先回、礼拝の奉仕をさせていただいたのは一月二十三日でしたので、早いもので四カ月が経ちました。この間、いろいろなことがあって長いような短いような気がしますが、いつも皆さんのお祈りに支えられ、守られていることを感謝します。
 今日も、私たちは主を心から礼拝するためにここに集められました。今も、力一杯賛美をささげましたが、礼拝において力を頂いて、今週も喜んで主に仕えていきたいと思います。
 さて今日は、先ほど読んでいただいた御言葉より、「しっかりした基礎を築きあげる」ことについて、学んでいきたいと思います。

 御言葉の初めに、「まことのいのちを得るために」とありますが、まことのいのちとは何でしょう。
 マタイの福音書十六章二十六節には
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とあります。
 私たちクリスチャンは、すべてのものを手に入れたとしても、まことのいのちを持っていなかったら何もならない、ということをよく知っています。しかし、クリスチャンでない人たちも、この三月十一日に東日本に起きた震災を通して、人間の知恵、人間の力、金といったものではどうにもならないとことがある、ということに気付かされたのではないかと思います。

 新しい年度になり、会社や学校に慣れる頃、五月病になる人があるそうです。私はなったことがないのでよくわからないのですが、五月病とは、新しい学校になじめない、疎外感を感じる、新しい職場でうまく仕事が覚えられない、人間関係がうまくいかないなどの壁にぶちあたり、環境に適応できない不安定な状態を言うようです。
 五月病についてインターネットを見ていたら、こんな統計が出ていました。二〇一一年四月に就職した新社会人に、一カ月経った心境や体調の変化を聞いたものです。
 「疲れがたまってきた」という人が四七%、「まだ緊張している」が四〇%、「業務についていけるか不安」が三一%、「早く慣れようと焦る気持ちがある」が二三%など、心の不安定さを物語っています。そしてさらに、「正直、仕事を辞めたいと思う」と答えた人が一一%とありました。この不況下に仕事を辞めたら、もっと大変になると思うのですが・・・。

 どんな人にも悩みがあり、多くの問題を抱えていますが、私たちクリスチャンは、世の人とはちょっと違います。ここには、ひとり暮らしの人や、会社において、家庭においても、クリスチャンは自分だけという方が多くいらっしゃると思います。しかし、あなたを友と呼んでくださり、あなたに永遠のいのちを与えるまでにあなたを愛していてくださるイエス・キリストが、あなたと共におられることを忘れてはなりません。

 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(第一ヨハネ四章九節)

 まことのいのちとは、イエス・キリストによって与えられる永遠のいのちです。この永遠のいのちを持っているということは、何にも勝る恵みです。私たちは、この先、どんな悲しいこと、苦しいことがあろうとも、この永遠のいのちだけはどんなことをしても手放なしてはならないということを、ぜひ覚えていてください。

 続いて「未来に備えて」とありますが、皆さんは、未来に対してどんな準備をしていますか? どんなことを考えていますか? 若い時は、どんな大学に行こうか、どんな仕事につこうか、どんな人と結婚したいかなど、いろいろな夢があります。
 四月二十九日には大勢の方々に来ていただき、祝福をしていただいて、我が家の長男が結婚式を挙げることができましたことを神様に感謝するとともに、高いところからですが、皆さまに心から感謝いたします。ありがとうございました。いろいろな方に、「二人はどうですか?」と聞かれて、何と返事をしたらよいか困るのですが、仲良く楽しくやっているようです。
 人生には、このように楽しく、幸せだと感じられることもたくさんありますが、伝道者の書十二章一節に、「「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」という言葉があるように、何の望みも喜びもないと思う時が来ます。しかし、私たちクリスチャンには永遠のいのちがあり、天国に行くことができる望みがあります。
 皆さんは、天国ってどんなところかと考えることがありますか?

 私は四月に、恵みによってイスラエルに行かせていただきました。実は私は、海外の食事がまったく合わないので、海外に行くのが苦手です。ですから、イスラエルに行くつもりはなかったのですが、明先生から「ぜひ一緒に行ってほしい」と依頼され、家内も行きたいと言ったので、皆さんのお世話係として参加させていただきました。
 全部で三十六名の方が集められました。大勢集められたことは感謝なことですが、旅行で人数が多いということは、トイレに行くにも時間がかかりますし、まとめる意味では大変です。また、メンバーの年齢を見たとき、六十歳以上の方が半分以上で、たくさん歩くし、体調を崩したりしないかなどと心配をしながらも、行かれる方が恵まれて、楽しい旅ができるようにと、準備をしました(明先生のメッセージの中で語られていましたが、ガイドの方の話がよく聞こえるようにと、イヤホーンを用意したことは皆さんにとても好評でした)。
 いよいよ当日を迎え、空港に、皆さんが元気で集まってこられ、手続きをしようとしたとき、ひとりの方がパスポートを忘れてしまったことがわかり、みんなの中に動揺が広がりました。ほかのものなら何とでもなるのですが、パスポートではどうしようもなく、困ったなぁと思っていました。
 その方の家は、空港から車で一時間半くらいかかるところで、簡単に取りに行くことができません。電話をかけ続けていましたが、家にもご主人にも連絡が取れず、その方もあきらめて、「仕方がありません。明先生に会えただけでもよかったです。皆さん、楽しんできてください」と笑顔で言われたので、その言葉が余計にずしっと心にのしかかりました。私たちはその方とお別れして、暗い気持ちで飛行機に乗り込みました。しかし、なんと飛行機が飛び立つ十分位前に、その方が飛行機に乗り込んでこられました。私たちは、何が起こったのかと、目を疑いました。
 その方は、帰ろうとしておられたのですが、家の留守番電話に残したメッセージを聞いたご主人が、パスポートを持って来てくださったのです。飛行機の出発は八時五十分だったのですが、パスポートが届いたのは八時三十分、その方が飛行機に現れたのは、八時四十二分くらいでした。先に乗り込んでいた人たちは皆あきらめていたのですが、現れたその方を見て、驚きの声をあげ、拍手がわき起こりました。そして、心から主に感謝し、喜びをもってその旅を始めることができたのです。
 行くときは、二十時間くらいかかり、空港での待ち時間も長く、イスラエルに着いてすぐに旅が始まったので、初日は皆さん随分疲れたと思います。しかし、六日間、天候も守られ、本当に祝福された旅でした。
 最終日に、「今回の旅行はいかがでしたか?」と聞くと、「先生、もう夢のような、天国のような一週間でした」と何人かの方が答えてくださいました。天国のよう・・・それは大げさではないかなとその時は思ったのですが、帰りの飛行機の中で考えました。主婦の方は、いつも朝起きて、掃除をし、洗濯をし、食事の準備をする。でも、ここではそんな心配はなく、ホテルではたくさんの種類のおいしい食べ物が並んでいて、食べたいだけ食べて(私はほとんど食べませんでしたが)、バスに乗って出発する。今回は開先生が共に行ってくださったので、行く先々で力一杯賛美をささげ、明先生のメッセージで恵まれ、イエスさまが歩まれたところをたどる。それは、天国のような毎日だっただろうなぁと思いました。
 また、皆さん買い物もとても楽しんでおられました。私はそれを見ながら、お金のことは心配はしませんでしたが、たくさんになった荷物を持って帰ることができるのかなぁと、心配になりました。そんなことが心配になったくらいで、本当に毎日楽しい旅でした。
 イスラエルには世界各国から人々が訪れるわけですが、ベテスダの池に行ったとき、ガーナのクリスチャンの方と出会い、そこで共に歌い、踊り、祈り、恵まれたときを持つことができました。
 私たちは天国のような時を過ごしましたが、本物の天国は、もっと素晴らしいところだと思いますので、天国に入るまで、喜んで主に従っていきましょう。

 次に「良い基礎」とあります。良い基礎とはどんな基礎でしょう。
 家を造るときに、家の中は見ますが、床下を見て基礎を確認する人はほとんどいません。しかし、建物は、基礎がいちばん重要です。聖書にはこのようなたとえがあります

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(マタイ七章二十四~二十五節)

 家を築くためには、しっかりした頑丈な基礎が必要です。すでに建っている家も、これからのことを考えるとき、補強したり、築き直す必要がありかもしれません。同じように、私たちの信仰生活において、しっかりした土台の上に信仰が成り立っているかどうかを確認し、弱いところは補強することが必要です。 

 昨年末の越年聖会において、私は申命記から、「向きを変えて出発せよ」というタイトルで、二〇一一年のためのメッセージを語らせていただきました。

 「私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。『あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。』」(申命記一章六節)

 「向きを変える」。言葉で言うのは簡単ですが、かなりの覚悟と確信がなければ、向きを変えることは難しいと思います。
 イスラエルの民は、エジプトで四百年以上奴隷生活をしていましたが、モーセに従って、出エジプトしました。しかし彼らには、約束の地に導き入れられるのだという明確な確信がなく、ただ奴隷から解放されるという喜びだけでエジプトの地を出たので、ホレブに着いたとき、そこに長い間とどまってしまいました。そのようなとき、神さまから、「あなたがたは長い間ここにとどまっていたから、向きを変えて出発しなさい」と声がかかったのです。しかし彼らは、「はい、わかりました」と神さまの言葉にすぐに従って出発するという決断ができませんでした。その結果、約束の地カナンに入ることができなかったのです。
 皆さんは、一年、五年、十年と信仰生活を続けておられます。その中で、神さまから「向きを変えなさい」、今進もうとしている道を「そこじゃない、違う道へ行きなさい」と言われたことがあるかもしれません。「はい、そうします」と従ってこられましたか。「いや、なぜですか神さま。こちらの方がいいじゃないですか」と反発してこられましたか。神さまから声をかけられたとき、しっかりと祈って、神さまのみこころに従っていくことを選び取って行ける者になりたいと思います。

 東日本大震災で大きな問題になっているのは、原発です。原発は、以前から危ないと言われ続けてきましたが、電力をたくさん供給できるとか、この方法がいちばんいいとか言われ、仕方がないと受け入れてきました。福島でも、危ないと分かっていながら、恩恵を受けることもたくさんあるので、反対できなかったということもあると思います。今日本は、電力供給のあり方を根本から見直す時期に差し掛かっているのではないかと思います。
 この間、報道でよく耳にしたのは、「想定外」という言葉でした。今後、私たちの生活においても、交通事故に遭ったり、大きな病気をしたり、事件にまきこまれたりと、想定外の問題が起こる可能性は十分にあります。そんな事態が起きたときには、私たちの計画とは関係なく、強制的に路線が変えられてしまいます。
 強制的にそうさせられる前に、私たちは守りを祈ると同時に、主の導き、主の御心を求め、祈ることによって何をすべきかを教えていただき、忠実に従うことが大切です。御心に忠実に従うということは、時には大変な努力をして生活を改めなければならないこともありますが、そうすることによって、良い基礎が築かれていき、祝福へとつながるのです。

 今年初め、開先生が私に「何年間かずっと、新しいざわめきのDCを出したいと思っていたのですが、年末の信弘先生のメッセージを聞いて、これはここにとどまっているべきではない、向きを変えて出発する時だと示されました」と言ってこられました。前回のCDも、プレイズ出版が資金協力をして発売されたこともあって、私のところに相談に来たのです。その時は、「そんな急に言われても、何百万円もかかるものを簡単にはできないよ。もう少し祈って」と、もう一度祈ることを求め、すぐに「やろう」とは言いませんでした。しかし実のところ、話を持ちかけられる前から、不思議に「そろそろ相談に来るかもしれないな」という予感がありましたし、プレイズ出版でも、今なら資金的なサポートもできるだろうという時期でした。
 祈りの答えをもって再度、開先生が来たとき、これが神さまの時だと受け止め、前に進んだとき、先回、開先生が礼拝でメッセージされたように、普通ではあり得ないようなビッグアーティストたちの協力を得て、レコーディングがされました。私は音楽に疎いので、ミュージシャンの名前を聞いてもほとんど知らないのですが、その世界ではトップの方たちばかりだそうです。短期間にCD製作が進み、先週の金曜日に出来上がり、今日、新城教会で発売されることとなりました。今から一曲、少しだけ皆さんにお聞かせします。

 いいですねぇ。素晴らしいCDですので、皆さん是非お買い求めください。私はよく大声で賛美をします。家族からは、「音が外れている」と、時々指摘を受けますが、人に聞かせる賛美ではありませんので外れていてもかまわないのです。思い切って喜んで賛美をするなら主が喜んでくださいます。賛美は力ですので、CDを買って一緒に賛美してください。

 良い基礎について、もう少し考えてみましょう。
 基礎を造り、その上に建物が建てられていくわけですから、どんな時にもびくともしない強固な基礎を造ることが必要です。
 地震が起きたとき、上の建物が高ければ高いほど揺れます。先日の東日本大震災は、私たちの予想をはるかに超えた被害がありました。その日、私は東京のプレイズ出版の事務所にいました。そこは、八階建てのマンションの四階ですので、かなり揺れました。事務所のすぐそばにある公園は避難場所に指定されているのですが、みるみる人が増えて、あっという間に何百人もの人であふれかえっていました。幸い、プレイズの事務所は物が少ないこともあって、ほとんど被害がなかったので、私はそのまま仕事を続けていました。
 余談ですが、私は阪神淡路大震災の時には滋賀県にいて、新潟に地震が起きたときは、新潟に向かっている途中でした。また、ハワイに地震が起きたときには、明先生と一緒にハワイのホテルにいましたし、今回は東京、というように、大きな地震が起きるときには新城にいたことがなく、割と地震に近いところにいることが多いのですが、いつも守られてきたことを感謝します。

 震災のあと、ミッションの協力のもと、新城教会の青年たちを中心に被災地に炊き出しに行くという話が持ち上がりました。丁度、息子の結婚式の次の日だったので、行かれないと思ったのですが、式が終わってから車で夜走っていけば間に合うことが分かったので、私も是非行かせていただきたいと思い、出かけて行きました。次の朝、先に出かけていった兄姉や現地の兄姉と合流し、炊き出しをし、大変喜んでいただきました。
 ゴールデンウィークに行われたミッションの集会に、仙台から内藤先生が来られて、津波に襲われ命からがら逃げたことや、その後の町の様子などを伺い、ある程度の情報を得ていましたが、実際に、がれきの山となった町を通り、津波に飲み込まれた場所に立った時、言葉を失ってしまいました。そして、ここに住んでいる人たちはどうなったんだろう、これからどうなるだろうと、いろいろな思いが込み上げて来て、涙が出てきました。
 復興支援は急ピッチで進められています。しかし、被災地における本当の試練はこれからだと思います。今も衣食住に困っていることは確かですが、日本は豊かなので、しばらくすれば物は供給されていくでしょう。しかし、先程も言いましたように、皆が心配している原発の問題が解決されるまでには、まだまだ時間がかかるでしょう。私たちクリスチャンは、そのような問題の解決のためにも、真剣に祈っていくことが大切です。

 原発の問題と同時に、深刻な問題があります。家族を失い独りぼっちになってしまった、会社がつぶれて職を失ってしまった、これからどうやって生きていったらいいのかわからないなど、未来が見えないことです。そのような問題を抱え、心を病んでいる人が多くいます。心のケアや霊的な回復がなかったら、人は生きていくことができないと思います。阪神淡路大震災の後には、自殺者が急増したそうです。夢を失い、生きる気力をなくしてしまったのです。
 私たちは、心を病んだ人たちが、神の元に来ていやされ、まことのいのちを得ることができるように祈らなければなりません。
 人は目に見えるところで一喜一憂しますが、聖書にはこのように書かれています。

 「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第二コリント四章十八節)

 確かに目に見えるところの豊かさや恵みも大事ですが、本当は、見えないところの方がもっと重要であり、クリスチャンとしての本当の強さも、見えない部分にあります。
 ここで皆さんに一つ質問をしますが、あなたは、どのくらいの地震や津波に耐えることができますか? といっても、実際の地震や津波に対してではありません。クリスチャン人生においてです。
 例えば、津波で家が一瞬のうちに流され、職も失ってしまったとき、あなたの信仰の土台がどのくらい揺れるでしょうか。また、家族を失い独りぼっちになったとき、「私は大丈夫」と言うことができる信仰があるでしょうか。そのような場合にも揺るがない信仰を持つためにも、しっかりとした基礎が必要です。そしてその基礎は、地震が起きてからでは間に合いません。今、恵まれているこの時に準備し、良い基礎を築いておかなければなりません。そうは言っても、「大丈夫だろうか」と心配があるでしょう。しかし、クリスチャンには解決があります。

 「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント十章十三節)

 あわれみ深い神さまは、たとえ試練にあったとしても、必ず脱出できる道を備えてくださっていることを忘れてはなりません。ですから、恐れないで、主に信頼してください。信頼するということは、基礎を強固にすることです。

 今回の震災において、私は日本人に対する見方が変わりました。人は誰でも、自分さえよければいい、隣の人はどうでもいい、私が幸せならいい、という考えを持っているものですが、今は、ずいぶん変わったのではないかと思います。今まで無関心だった若者たちの中にも、日本は大丈夫だろうか、避難生活をしている人たちに何かしてあげることはないか、と考える人がすごく増えているそうです。そして、積極的に現地に出向いてボランティアをしている人が大勢います。ゴールデンウィークには、現地でも処理しきれないほどの人たちが現地に向かったそうです。
 その一方で、こんな現象が起こっているそうです。
 自分の友人が休みを取って、犠牲を払ってボランティアに出かけているのに、自分は仕事が忙しくて行かれない。経済的に余裕がないから義援金も送ってあげられない。避難所では、今も温かい食事を食べられない人がいるのに自分は、毎日美味しい食事を食べている。こんなことをしていていいんだろうか、と自分を追い詰め、罪悪感を感じている人が多いというのです。そのような気持ちになるのも分かる気もしますが、そう思う必要はありません。
 クリスチャンの方たちの中にも、そのように思っておられる方もいらっしゃると思います。しかし、神さまは、私たち全員が被災地に行くことを望んでおられるわけではありません。
 
 「ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」(コロサイ人への手紙一章二十三節)

 この御言葉が示すように、まず自分の土台をしっかりと築き直し、信仰を持って私たちが遣わされている場所で、できることをさせていただくことが大切であり、与えられている使命を全うすることを神さまは願っておられるので、人と同じことができないからといって罪悪感を持つ必要はありません。

 私は先週、東京で仕事をしてから夜の便でソウルに行き、大会の準備をし、再び東京に戻り仕事をしてから新城に戻るという、過密なスケジュールの中を過ごしました。
 韓国には日曜日を挟んで三日間しかいられませんでしたが、春川とソウル、それぞれ大会が行われる会場に出向いて打ち合わせしたり、資料を作ったりと、夜中まで準備を手伝ってきました。また、十六日の夜には、韓国ミッションのための祈祷会があり、私も参加しました。四十~五十人くらいの方が集まっておられましたが、その中で、「今から、韓国のために祈るチームと、日本のために祈るチームに分かれて祈りましょう」というお勧めがありました。私は、日本のために祈るチームに入り、日本の霊的現状をお話しし、祈りの課題を挙げました。ほとんどの方が韓国人でしたが、日本のために一つひとつの課題に対して、大声で、ある人は涙を流し、真剣に祈ってくださっていました。その祈りは力強く、私が大声を張り上げてストップをかけないと、祈りがやまないほどの真剣さでした。
 日本に来たこともない韓国の人が、それほどまでに日本を愛し、日本のリバイバルのために、日本がいやされるために祈ってくださっている姿を見て、心から感謝し、勇気づけられました。韓国に行ったことがない方が多いと思いますが、人ごとだと思わず、是非、韓国のためにもお祈りください。
 韓国では少ないスタッフで準備を進めています。私は、まだまだやらなくてはならないことが山ほどあるのを見て、本当に大変だなぁと思いながらも、「できることからやるしかない。頑張れ」と励まして帰ってきました。その後も、韓国でスタッフとして働いている娘から、「あれはどうしよう、これはどうしよう」とSOSのメールが届いて、日本にいながらも準備をさせていただいています。とにかく、働き人に健康が与えられ、よき準備ができるように、是非お祈りください。
 そして、春川の大会が、今週の水曜日から開催されます。
 ある人は奉仕者として、ある人は、ゲストとして最前線で働く人たちもいれば、参加者として行く人もいます。また、行きたくても行けない人も多くいます。自分は、何も奉仕ができない。何の役にも立たないと思っている人がおられるかもしれません。しかし、それぞれに、神さまから委ねられた持ち場があります。私たち一人ひとりが、神さまの家族として、主の勇士として神さまが選ばれています。行かれる人も行かれない人も、皆が戦いのチームであり、皆さんの祈りにこの戦いの勝利がかかっているといっても過言ではありません。私は、この働きは、単に集会の祝福を求めるものではなく、韓国のリバイバル、日本のリバイバル、そして世界のリバイバルにつながるものであると信じています。是非、祝福を祈っていきましょう。

 聖書の中に、次のような御言葉があります。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ四十章三十一節)

 走ってもたゆまず、歩いても疲れない、そんな力を頂きたいですね。
 私が最近読んだ「鷲のように」という本に、こんな話が載っていました。
 鷲は、空の王者と言われますが、大きい鷲は翼を広げたら二メートル近くあり、その大きな翼をはって真っ青な空を悠然と王者のように飛びます。しかし、そんな鷲であっても、空中高くまで行くためには、何度も何度も羽を動かし、上に上がっていくのです。しかし、一度気流に乗ったら、ただ翼を広げているだけでグライダーのように、何時間でも空中を飛び続けることができるのです。しかしその鷲でさえ、突然の突風にやられて骨を折って、傷を負うことがあります。そんな時、鷲はどうするかというと、命がけで自分が生まれた岩山の巣に必ず戻っていき、巣に入り、三週間ほど飲まず食わず、微動だにしないでそこにとどまっているのです。そうすると、傷ついた羽が全部抜けおち、そこから新しい羽が生え、骨折した部分は完全に元通りになり、再び力を得て、空に飛び立って行くのです。

 私たちも、困難にぶつかり、弱さを覚え、もうだめだと思うときがあります。しかし、私たちには、帰る場所があります。私たちを慰め、力を与え、身を寄せることができる神さまがいらっしゃるのです。鷲が傷ついたとき、自分の生まれた巣に戻るように、私たちも主の元に行くなら、新たに力を頂いて再び上ることができるのです。イエスさまこそがすべての源であり、土台なのです。イエスさまを心に据えることが、私たちの基礎を築き上げる点で、重要なことです。

 最後にひとつの御言葉をお読みします。エペソ人への手紙二章二十~二十二節です。

 「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

 土台である主に信頼し、それぞれがしっかりとした基礎を築き上げると同時に、その上に自分自身を建て上げ、イエスさまによって組み合わされていくとき、成長したクリスチャンとなることができます。私たち一人ひとりは、もう一度主の前に出て、神さまから教えられたことを顧み、自分自身の信仰の基礎をしっかりと立て直し、どんな地震や津波が来てもびくともしない信仰の家を築きあげていきたいと思います。