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「This is who I am 〜これが私です〜

2011.6.12(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
ピリピ人への手紙 3章20節

『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は共に礼拝を守ることが出来、本当に感謝します。
 まずは、韓国リバイバルミッション、春川とソウル、両方とも大変祝福されたミッションを持つことができ、心から高い所からですけれど、御礼を申し上げたいと思います。
 私はソウル大会がうまくいくか心配していましたが、大変素晴らしい聖会となりました。今回は、ユー・ストリームというコンピューター映像で全世界に発信されましたから、韓国に行かずとも、日本でもご覧になることが出来たと思うのですが、みなさんの中で、「私はソウルミッションに、ユーストリームで出席しました」という方はどのくらいおられますか?
 結構おられますね。ありがとうございます。一緒に戦うことができたことを、本当に感謝ます。

 今も聖歌隊の素晴らしい賛美を聞きましたけれど、イエス様の十字架の勝利を歌った歌でした。イエス様は十字架にかかって、三日目に甦られました。そして、四十日間、この地上で甦られたことを示されて、天に帰られました。
 天に帰られる前に、「あなた方は力を受けるまでは、都に止まって祈っていなさい」と告げられました。弟子たちはその御言葉を信じて、約束を信じて、二階座敷に集まって祈っていました。十日目が過ぎた時、突然天が開かれ、聖霊が注がれました。それが教会の誕生となりました。
 実は、今日はどういう日かといいますと、教会の誕生日である「ペンテコステの日」です。先日、復活祭がありましたけれども、復活祭から数えて五十日目に当たるわけです。聖霊が注がれて、新しい時代、教会の時代が来たわけであります。そんな延長線に私たちは過ごしているわけです。
 しかしイエス様の十字架と復活という大いなる勝利がなかったなら、私たちはここに存在することは出来ません。その大いなる勝利をかかげて、日本だけではなく、世界に出て行くことができるのです。

 先週、上條先生がメッセージを語る前、ソウル・リバイバルミッションの映像を見せしていましたよね?私はちゃんと、この礼拝に出席していました。どこから出席していたかというと、韓国から出席していました。なぜなら、先週、私は午後から礼拝の奉仕だったので、午前中は空いていたので、自分の部屋でこの礼拝の全てに参加することができました。

 今回、なぜ、心配していたかと言いますと、ソウルにおきましては、特別な教会にお願いしたわけではなく、ほとんど百パーセント、日本側が準備し、呼びかけてミッションを行ないました。ですから、どのくらい集まるのか全く未知数でした。
 だから私は、蓋を開けるのが少し怖かったです。誰も来なかったらどうなっちゃうかと、私がある意味韓国で中心的に働きましたから、少し不安だったんです。けれども、どこから集まって来たのか、多くの方が来てくださいました。霊的にも素晴らしい集会となりました。
 多くの方が日本のことに興味を持ち、関心を持って、祈ってくださっている現実を見て、本当に主の御名を崇めました。みなさんのお祈りがあったこそ、出来たのだと思います。
 今回、通訳、賛美の奉仕者など、何もかも、私たちが韓国で活動中に出会った人たちと共に行いました。出会った人たちの中から、共に働くことが出来る人たちに声をかけ、日本側のスタッフを中心に集会は準備されました。そして、このように韓国と一つとなって、出来ました。これは神の御業以外の何ものでもありません

 今回のミッションを通して、主が私たちに与えてくださった御言葉がなんであったかと言いますと、先ほど、映像の最後にも出ていましたけれど、ピリピ人への手紙三章二十節の言葉でした。

『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。』

 今日のメッセージのタイトルは、ちょっと格好をつけまして、英語のタイトルをつけました。「This is who I am 〜これが私です〜」としました。
 私のメッセージはあまり深くなく、適当なものですが、新城教会には大変素晴らしい人材が揃っていまして、午後からは山崎先生が「ルカの福音書」を深く講義してくださいます。みなさん是非とも出席して下さい。ルカ文書は先生の一番の得意分野ですから、深い学びをすることができます。私のメッセージは浅いですが、浅くていい面は、水かさが低いので溺れないことです。聖書は「深い」領域を持っているのです。みなさん、是非とも学んでいただきたいと思います。
 また今年は、ミュージックスクールも開校されました。いろんな賜物があって、一人一人に与えられた各器官の賜物によって、神の国は進んで行くわけです。

 この頃、外来語が多くなって、日本語の中から外来語を取り去ってしまったら、日本語として成り立たなくなってしまいます。太平洋戦争の時は、アメリカと戦争していましたから、全て英語をカットしました。
 ですから、結構変な日本語を使っていたらしいです。野球用語は全て英語です。「ストライク」「アウト」を「よしっ!」「だめっ!」とかにしていたわけです。
 しかしこの頃じゃ、多くの英語や他国の言葉が入って来ています。そんな中、近頃よく使われる言葉で、結構、英語の中でも難しい言葉だと思うのですが、日本語化しているのが、「アイデンティティ」という言葉です。
 「あなたのIDを見せてください」とか、コンピューターやEメールでも、IDを入力しない使えません。しかし、よく使っている「アイデンティティ」とはどういう意味か、正確に知っているでしょうか?この言葉の意味を調べてみました。

Identity/ アイデンティティ
 共同体(地域・組織・集団など)への帰属意識。
「私」を「私」たらしめ、一貫性、同一性を与えているものは何か、ということへの意識、自己確信。他者や社会によって承認され、認識される自己の同一性(すなわち身元)。「自分が自分である証」

 このようになっていました。「自分が自分である証」と最初に言ってくれればわかりやすいですが、上から読むとわけがわかりません。「私はこういう者だ」という証明が、「アイデンティティ」という言葉の意味であるわけです。
 私は、前回メッセージを取り次がせていただいた時、「肩書き」という話をさせていただきました。以前、有名な大学の学長をして、退職された先生と話をしたことがあるのですが、その方がしみじみ語っておられました。「人生って寂しいもんですよ。学長をやっていた頃は、名刺一枚で仕事が出来ました。そこには○○大学学長、○○博士、いろんな肩書きがついていて、それだけですぐに話が出来た」と言うのです。
 「自分の立場について、今まで私は悩んだことがありませんでした。でも、退職したら、名刺に書く肩書きが何もなくなっちゃったんですよ。だから、本当に寂しいです。これは体験してみないとわからない。」と言われました。
 「私はこれです!」と主張できるものがなくなる時、結構辛いものだと言うのです。
 初めから、肩書きなどない方がいいなと思ったのですが、私も退職する日が来るのか分かりませんけれど、多分、どうってことはないと思います。
 でも、肩書きが多くあったりすると、結構自分自身を失うのではないかと思います。「これが私です」と言えるものがあるかどうかは、人生を支える為に、大変重要です。

 今回、春川とソウルの両方に、二人の女の子がグループ、「リナ&カナ」という方々が来てくださいました。彼女たちの歌は大変うまいです。双子で声がとてもよく合っていて、技術的にも大変優れていて、素晴らしかったです。韓国で大変人気でした。
 彼女たちはどういう方々かと言うと、日本に住んでおられますが、「在日韓国人三世」の方々でした。その方たちが来てくださいました。
 在日韓国人の方々は、日本に多く住んでおられますけれど、日本と韓国を繋ぐ重要な橋のような存在です。それは現実的にも、霊的な世界においても、大変重要です。彼女たちに霊的な意味合いも含めて、今回、奉仕をお願いしたのですが、大変素晴らしい奉仕をしてくださいました。また一度、新城教会にもお呼びしたいと願っていますが、歌も素晴らしかったですが、彼女たちの証しも心を打ちました。
 彼女たちは在日韓国人の三世として、日本に生まれて、日本で教育されましたから、日本語しかできませんでした。でも国籍は、日本に住んでいても韓国の国籍を持っているわけです。だから韓国に興味を持って、高校生になった時、韓国に留学したそうです。
 自分の祖国に帰ったら、きっとみんな「同胞が帰って来た」と喜んでくれると思って留学したそうです。しかし韓国に行ってみたら、そうでもなかったと言うのです。韓国に帰って、自分の家に帰ったと思ったら、「あなたたちは韓国人じゃない」と言われたり、見られたりして、「あれ?私は日本では、韓国籍を持っていて、韓国人だと思っていたのに、韓国に来たら韓国人に見られない・・・。また、日本では日本人と見られない。実際、私は何者なのだろう・・・」と大変悩んだ時期があったと、真実な証しをしてくださいました。
 これからどうしようかと、落ち込んでしまったそうです。しかしそんな時に、真剣に神の前に出て、涙を流して祈っている時、一つの御言葉が与えられたそうです。それが、どんな御言葉であったかというと、『私たちの国籍は天にあります』という御言葉だったそうです。
 「私は、日本人でも、韓国人でもない。国籍は天にあるんだ!」と、初めて苦しみの中でこの御言葉に気づいたと、証しをしてくださいました。

 私たちは、それぞれの国に属していて、ある国の国民というアイデンティティを持っています。今日ここに集まっておられる方々は、ほとんどが日本人ですが、他の国々の方々も来てくださっています。自分がどこの国に帰属するのかで、アイデンティティが生まれます。
 私は韓国での奉仕が多いですから、韓国に行くと、私は滝元順という個人以前に「日本人」というアイデンティティが韓国の方々の前に現されます。
 いつも話すことなんですが、私たちはこの国に住んでいる時は、自分が日本人であることを意識することはほとんどないのですが、一歩、海外に出ますと、出た瞬間から、国の代表として、日本人としてのアイデンティティが前面に出るわけです。海外の人たちが私たちをどのように見るのかというと、「あ〜、あの日本人が・・・」と、「日本」として見るわけです。
 ですから、国際化が進んだ社会において、我々が日本人としてのアイデンティティをよく理解して、世界に出て行かなければならないと思います。なぜならば一人の行動が、日本全体を代表するような立ち場になるからです。

 それと共に、日本が過去に行った事柄に関しても、共有しなければならない立ち場に立たされます。今日はみなさんの前で安心して、リラックスしてメッセージを語らせていただいていますが、先週の日曜日は韓国教会でメッセージを語っていました。韓国の教会でメッセージさせていただく時には、やはり、私は日本人として、過去から現在に至る過程に住んでいる者として、過去に触れないわけにはいけません。
 時々、クリスチャンは、誤解をしていまして、過去は全て過ぎ去って新しくなったから、過去のことを取り扱うのはおかしいという意見があるからです。しかしそれは間違いです。
 私たちは、過去があるがゆえに現在があるわけです。現在があるがゆえに、未来があるわけです。過去、現在、未来は決して切り離すことが出来ないのです。人はそのような立ち場の中に存在するわけです。我々は、時の流れ中の瞬間に生きているです。
 先ほども、「主よ導きの」という賛美歌を歌いましたけれど、何か意味のわからない歌詞もありましたよね。「ときちょうかわにさおさすわれは~、なんだその意味は?」と。なんだかわけがわからなくて、子供たちはどういう風に考えて歌っているのだろうかと心配しながら歌っていましたが、どういう意味なのでしょうか?「時という川の中に竿をさし、舟を漕いでいる」という意味なのでしょうか?私にもよくわかりませんが、たぶん、そうだと思います。もしかしたら違うかもしれませんが・・・。
 私たちは「時」という川に竿をさし、とは言っても今はそんな舟はありませんが、航海しているようなものです。それは過去から現在、未来に流れる川に、私たちは身を置いているのです。
 となると、韓国などに行きますと、私たちは日本が過去に行なった事柄に関しても、途端に、そのことに関して意識しなければならないのです。日本人とは、過去も含んだ上で日本人としてのアイデンティティを求められるのです。
 ですから、私は、韓国の教会に行きましたら、まずは、歴史的なことに関しても話します。
 「私はこう見えましても、戦後の人間でございます」と話すのですが、そうすると、だいたいみんな笑います。なんでみんな笑うのでしょうか。どうも戦後の人間に見られていないようです。「私の父や母、おじいちゃんやおばあちゃんの時代に、みなさんの国に迷惑をかけたことを許して下さい。」と話します。すると会衆の方々がキリストの愛によって許してくれて、日本人というアイデンティティの私に対して、心を開いてくださり、初めてメッセージが成り立つわけです。
 ですから、韓国の教会で奉仕する場合、前半の部分が勝負です。その辺のところをうまく会衆の皆さんに伝え、心を開いていただいて初めて私のメッセージが伝わるからです。いきなり出て、新城教会でよくやるようなジョークを言いながらメッセージをしても、「何を言うんだ、あの日本人はなんだ」となってしまうわけです。だから私はいつも祈りつつ、働きます。「日本の宣教団体が主体的に、韓国で奉仕するのは難しいものだ・・・」とつくづく感じます。それはなぜかと言えば、日本が過去に行なった罪ある行動の故です。今でもそれは大きな影響を与えているわけです。

 どこの国の歴史教育も、やはり都合のいい歴史しか教えていませんから、日本も過去に行なった悪事は、あんまり強く印象づけて教育していません。だから一般の人々は「なんかありましたっけ?」というような感覚の人が多いのです。しかし、やった方じゃなく、やられた方は、結構傷になっていて、憎しみとして残っているのです。その現実に接するとき、このままじゃいい結果にならないだろう、と痛切に感じます。
 時々、テレビのニュースで、アジアの諸国が日本に対して、厳しい意見を持っている現実について報道されます。日本人は、なんであんなことをアジアの人々は言うんだろうと思うかもしれません。しかしそれなりの理由があるのです。やはり、なんらかの和解がなければ、日本も祝福されませんし、相手も祝福されません。

 今回、韓国リバイバルミッションのテーマとなった御言葉は、先週、上條先生が語っていた、エペソ人への手紙二章十四節〜十六節です。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』

 イエス様が十字架にかかり、甦ってくださったのは、和解のためだったのです。また、敵意が取り去られるためであったと述べられています。
 教会の使命は、どこにあるのかというと、社会の中から、家族の中から、個人の中から、いや、国の中から、敵意を取り去り、和解を押し進める働きです。その使命が教会に委ねられているのです。
 エペソ人への手紙は、ユダヤ人と異邦人という対立の構図の中で、大きな敵意があったと言います。しかし、イエス様が地上に来てくださり、十字架にかかり、甦ってくださったことにより、互いの敵意の壁が打ち破られ、異邦人とユダヤ人が一つとなって、新しい人が生まれると約束されています。

 実は、この和解の務めと回復の働き、すなわち、敵意を取り去る働きは、政府に任されている仕事ではなく、神が教会に任せた仕事なのです。
 私たちも時々、人生の中で色々な敵意が生じ、なかなか一つになることができないことを体験します。みなさんの人生の中でも、多かれ少なかれ、人間関係の中で敵意が生じたり、和解できないで苦しんでいた時期もあったかもしれませんし、今も壁がある方もいるかもしれません。個人的な敵意、壁も重要な和解のテーマです。
 しかし聖書を見ていきますと、それ以上に、敵意の壁とは、異邦人とユダヤ人というような「民族間にある敵意の壁」であるのです。それを取り去ってくださるというのが、聖書の大きなテーマであり、教会が果たさなければならない使命であるのです。今回も韓国での働きを通し、強く示された領域でもあります。
 福音とは、敵意を取り去り、二つのものを一つにして和解させる重要な役割を持っているのです。
 私たちがイエス・キリストを信じ、福音を受け入れるのは、そこに神との和解が起こるのです。その結果、敵意が葬り去られ、自由になるのです。

 私は今年の韓国リバイバルミッションのために、長く祈って来ました。二〇〇九年に初めて韓国リバイバルミッションがあった時は、いろいろなテーマを主が与えてくださり、新鮮な思いでメッセージを語ることが出来たのですが、今回、あまりピンっと来るものがありませんでした。何を話せば良いのか、二〇〇九年に語ったことを焼き直して話せばいいかと思っていたのですが、やはりそれではいけません。
 講壇からメッセージを語らせていただくことは、神の言葉を取り次ぐわけですから、いつも心がけていることは、イエス様が今日の礼拝の講師として立たれたら、何を語られるだろうかということを考えます。
 「六月十二日。ペンテコステの日の礼拝のメッセージは、イエス様です!」と言ったら、素晴らしいですよね。そうしたら、大勢集まってくれると思うのですが、私では、「なんだ。また順先生か・・・」というところもあるかと思います。
 イエス様がもしも講壇に立ってくれたら、何を語って下さるだろうかと考えます。私も、講壇に立たせていただく以上、六月十二日にイエス様が語られるメッセージの代弁者になりたいと考えています。ですから、話をする前には祈って、「主よ。何を語ったらいいですか?」と祈ることにしています。そんな中で心に響いたメッセージを語ると、一人一人の心も準備され、御言葉がとどまると思います。イエス様が語りたいと思われていることと、全く別の話をしたら、人々は受け取ってくれないと思います。

 特に、韓国で奉仕するときは、そもそも韓国と日本の間には歴史的な壁がありますから、先ほども申し上げたように、日本人として講壇に立つ時に、韓国対日本というフィルターを通して評価されますから、「日本人の話か。そんなの聞きたくない」という意識が働いていると思います。でも、そんな壁を乗り越えて話すことができるとしたら、やはり聖霊様の働きによるのです。
 そのためには真剣に祈ると共に、日本と韓国の間の歴史についても知らないといけません。ただ「ごめんなさい」と言っても、「あんた。ごめんなさいって言うけど、日本が過去に何をやったのか、ちゃんと知って謝っているわけ?」と言われ、「いや、何かやったみたいだけれど、とにかく韓国の教会に行ったら、まずはごめんなさいから始めろっと言われるもんですから・・・」という態度なら、相手はさらに傷つきます。どういうことで、なんで謝るのかという理由を知って、本当に悪いところは悪いと謝る必要があるのです。ですから、私も、韓国と日本の間の歴史を真剣に勉強しました。

 私は大学の時は、工学部でありまして、生涯の中で最も嫌いな科目は、国語と社会でした。国語と社会なんかこの地上から消えたらいいと思っていました。「そういう科目で良い点を取るやつは男じゃない」というような変な考えがありまして、勉強なんてしたことがありませんでした。だから私は文法もよく知らないし、漢字もあまり知りません。しかし家内はよくできます。私はいろいろと原稿を頼まれることが多いのですが、書いてすぐに送るのではなく、一度、家内に見せます。すると、「何これ?意味がわからん。文法的におかしい。接続詞がおかしい」とチェックされます。
 また私は現実主義者で、歴史なんて大嫌いで関心もありませんでした。この新城に住んでいて、新城の歴史に気づいたのは、一九九二年からです。霊的戦いが始まってからやっと気づきました。けれども、今は、歴史の専門家みたいになってしまいました。なぜかというと、それを扱わないと仕事が出来ないからです。
 韓国と日本の間の歴史をいろいろと勉強してみると、日本という国に生まれたことは、未来に向かって重い十字架を負わされていると気づかされるのです。そして、もしも私になんらかの使命を負わされているのなら、険しい十字架の道かもしれないけれど、その十字架を負って行かなければならないと考えるようになりました。しかしまさか、私が歴史を扱うようになるとは、夢にも思いませんでした。
 今回、韓国で奉仕する前に、「この領域について韓国で語りなさい」と主から示された領域がありました。それがエペソ人への手紙四章二十六節〜二十七節でした。

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 実は、聖書を読んでいきますと、様々な罪がリストアップされていますけれども、罪というのは、必ずその背後に悪魔・悪霊どもの働きがあります。聖書はなぜ「罪を犯してはなりません」と告げているのかというと、「俺が気に入らない」と神様が気分を害するということ以上に、「それをやったら、あなたに益になりません。罪は、その背後に必ず悪の力が働いていて、罪を餌にして、悪魔・悪霊どもが侵入するから、あなたの安全のために、罪から離れなさい」というのが、聖書の主張です。
 教会に来ると、罪についていろいろと学びますから、堅苦しいと私も初めは思っていました。私も牧師の息子に生まれましたから、教会はやってはいけないことが多すぎると思っていました。小さい時から、モーセの十戒を何度も何度も暗唱させられて、父親は子供祈祷会の中で、モーセの十戒をみんなに暗唱させていました。私はやがて天国に行けたら、まず最初にモーセに会いたいと願っていました。そして、モーセに文句を言ってやりたいと思っていました。
 「おまえはなんだ。四十日間も、山で神様と出会って交渉しただろう。なんで十を五くらいに圧縮できなかったんだ。もっと一生懸命に交渉したら、人生はもう少し楽しかったんだぞ」と言ってやろうかと思っていたのですが、そうじゃないのです。これは敵との繋がりができるからです。
 そんな中、悪魔という最も強い存在が、人生に介入する瞬間がどこにあるかというと、今読んだところです。

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』

 先週、みなさんはどのくらい怒りましたか?時々、本当に頭に来るような時があると思います。でも、この怒りという感情は別に悪くはありません。なぜなら、それは神が与えた感情ですから。怒りたい時にはみなさん、十分怒ってください。子供が悪いことをした時、親が怒らなかったらどうでしょうか?「いいよ。いいよ。」とだけ言っていたら、悪い子に育ちます。
 殴られても何も怒らないで、「へへへっ」と笑っていたら、気持ちの悪い社会になります。やはり怒りがあることによって、人は生活できるわけです。
 しかし、ここに注意書きが添付されています。「怒っても、罪を犯すな」というのです。怒りが罪に変わる瞬間、それは同時に悪魔が関わる瞬間です。それは、どういう注意書きかというと、「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」と言うものです。

 日本人の一日の概念はあいまいです。一日の概念は、夜中の十二時から次の日の夜中の十二時までが一日だと思うのですが、我々が一日の概念として捉えているのは、朝起きてから、夜寝るまでが一日です。しかし、ユダヤ人の一日の概念は、夕暮れ時から夕暮れ時までです。それは一日を把握しやすいです。夜中も一日の中に入るわけですから、なんだか得した気分がします。我々のように、起きてから寝るまでが一日ではなくて、夕暮れ時から夕暮れ時までが一日です。
 『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』というのは、「一日の中で怒りとか憎しみが生じたとしても、その日一日で全ての怒りを処分しなさい。次の日に持ち越さなかったら、罪になりません。悪魔に機会を奪われることはありませんよ」ということです。

 私は結婚するまで、全く意識していなかったことが一つありました。それは食品の「賞味期限」です。私は、賞味期限が食品に表示されていることすら知りませんでした。昭和二十六年生まれですから、出された食べ物は真っ先に手を出して食べるというような、食糧難の時代に生まれましたから。特に、我が家は七人兄弟で、全てが七等分されるわけです。私は今でも特技は七等分されたケーキでも、一瞬にして、どれが一番大きいかを判別する能力があります。それに自動的に手が伸びるという浅ましいところがあります。今は私と家内の二人しかいないのに、大きい方を取ってしまうということがありまして、「あんた二人しかいないよ」とよく言われたりします。
 だから、賞味期限なんか関係なく、食べておかしければ吐き出すという主義でした。でも、私の家内はそのことをちゃんと知っていました。
 賞味期限は期限内に食べたら、体のために益となるという表示です。でも賞味期限が切れた食品を食べるとどうでしょう?益となる食物が、害になるわけです。

 「怒り」という感情にも賞味期限がありまして、一日の間の怒りをその日のうちに消費すれば、生活を豊かにしますけれど、二日、三日、四日と怒りが続くと、賞味期限切れの食品を食べるのと同じで、害になるのです。悪魔が機会を捕えて、人生に侵入するきっかけとなるわけです。
 腐った食べ物なんか食べたらどうでしょうか?ばい菌が腹の中に侵入するきっかけとなります。
 我々も憎しみが生じたとしても、相手が何をしたかはともかくとして、自分の安全のために、怒りから離れなければいけなのです。憎しみを放棄しなければならないのです。このことを、今回のリバイバルミッションの働きの中で強く示されました。

 私たちが誰かに対して憎しみを持ち続けると、憎しみの背後には悪霊どもがいますから、それらが呪いの力となって、相手に攻めて行くわけです。そしてその悪霊どもが、相手を圧迫するわけです。
 同時に、憎しみは、悪魔が機会を捕えて、憎しみを発信している者の背後にも回り込み、攻撃を仕掛けるのです。憎しみは、自分にも相手にも悪しき軍団が送られ、どちらも祝福されません。
 ゆえに『怒っても罪を犯すな』と聖書は語っています。いろんなことがあったら、「和解しなさい」と告げています。

 実は、日本と韓国という枠組みの中で、奉仕する時、日本が過去に行なった罪は許しがたく、憎まれても当然です。
 しかし、率直なところ、韓国の教会で奉仕させていただいて感じるのは、教会の中にも、日本に対する憎しみを感じます。それは日本が行なった罪ゆえに、しょうがないことはわかります。しかし、クリスチャンの中にも、怒りとか憎しみがあって、敵対心があることを感じます。特に、ある意味、社会よりも教会の中にその傾向が強いような気がします。私は、なんでだろうかと思いました。

 それで、歴史を調べてみました。実は日本は、韓国だけではなく、中国にもひどいことをしました。朝鮮半島に関しては、併合して日本として扱いました。朝鮮半島に住んでいる人たちに関して、「見下したりしない、本土と同じレベルで扱います」という約束で始まったのですが、現実はそうではありませんでした。全てに格差があり、差別がありました。こちらから向こうに行った人には給料を高くし、現地の人には低くして差別したり、また、強制的に働かせたりしました。
 特に、民衆の中に、日本人に対して強い憎しみが湧き上がったのは、この間、ある学者の本を読んだら、興味深いことが書いてありました。
 みなさんの中でも体験した方がいるかもしれませんが、太平洋戦争の後半、日本は武器を作る金属さえなくなってしまいました。それで、金属という金属はすべて供出させたのです。寺の釣り鐘さえ、また韓国においては教会の釣り鐘さえ、武器を造るために強制供出されたのです。
 韓国に行きますと食器は全て金属です。それも全て出させたのです。箸は日本では木ですが、韓国は金属ですから、それも出させたというのです。それで、民衆からの支持を大きく失ったのです。
 その中でも、韓国の人たちが特に怒ったのは何かというと、韓国は先祖崇拝の国ですが、先祖崇拝でチェサという儀式をやるのですが、そのチェサの道具は全て金属です。その道具を全て奪ったというのです。それは命を取られるよりも、憎しみになったというのです。やはり先祖崇拝が強く関わっていたんだと思いました。
 韓国で独立運動が起こりましたが、独立運動がどこから起こったかというと、実は、その中心となったのがキリスト教会でした。キリスト教と天道教、仏教が一緒になり、特に、リーダーシップを取ったのがキリスト教でした。日帝は日本教会も迫害し、特に韓国教会を強く迫害しました。政治犯として牧師達を捕まえ拷問し、苦しめ殺しました。日本が苦しめたのは牧師などの教会のリーダーたちでした。
 一番傷を受けたのは、韓国の教会のリーダー格の人たちが傷を受けたわけです。そういう背景があった為か、大きな憎しみが教会の中に入ったように思います。独立運動が始まったのはどこからかというと、日本からです。それは、私たちが現在、東京集会を行っている、東京水道橋にある「韓国YMCA」から始まったのです。今日も、東京集会があって行くのですが、そこから始まっています。
 私たちは重要な場所で集会を持っているんだと気づきました。そんな理由があって、教会の中にも日本に対する反発もあって、許せない気持ちがあるように感じました。この憎しみがある以上、日本も祝福されないし、韓国も祝福されないのです。このことは、歴史的な関わりもあって難しいテーマであり、センシティブな領域ですが、やはり語る必要があるのではないかと思いました。

 それで私は、今回の集会の中で、『怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』という御言葉から話をさせていただきました。
 もちろん日本が過去に行った事柄は許し難いことですが、自分たちの安全のためにも、許すという立ち場に置き換えられなければならないと、お話しさせていただきました。それは、大変インパクトが強かったようです。

 そして私は、その怒りはどこにあるのかと話しました。それは、そもそも、国民というアイデンティティの中に、怒りが組み込まれていると話しました。そこに集まっておられる方々は主に韓国人でした。その方々に向かって、「韓国のみなさん、聞いてください。今から私が言うことに対して、どういう反応をしますか?」と言いました。
 韓国に行きますと竹島問題は、すごく大きな問題です。この付近の人たちに竹島と言っても、「竹島?蒲郡の島に何かあるわけ?」というかも知れません。韓国では竹島じゃなくて、独島(ドクト)と呼ばなければならないのですが、そこは日本が領有権を主張しているのですが、韓国も同じように主張しています。
 韓国に行くと、どこでも「ドクトは韓国のものだ」と、教会も、クリスチャン以前に政治的です。賛美のプロジェクターの背景が、韓国では竹島だったりするのです。それを見ながら賛美したりします。
 それで、私はこのように言いました。「今から叫ぶ言葉をみなさんはどのように反応しますか?ではいきます。竹島は日本の物だ!!」「みなさんはアーメンと言いますか?」と言ったら、絶対言わないのです。
 「何を言うんだ。あの日本人は。」と、絶対、怒るわけです。ということは、韓国人、日本人という枠組みゆえに、すでにその中に、添付ファイルのように、憎しみや怒り、が添付されているのです。

 「私は日本人。アメリカ人。韓国人。」という国の枠組みがあれば、いくら一致しましょうと語っても、一致することのできない、永久に一致できない壁があるのです。
 今日もいろいろな国々から集まっていますけれども、日本人というアイデンティティを持っているだけで、また、韓国人というアイデンティティを持っているだけで、越えることの出来ない壁が永久に存在するのです。それは、どうしようもありません。そのような一物を持ちながら、「握手しましょう。」ではいけません。

 では、私たちのアイデンティティをどこに持ったら良いのか?「これが私です!」というアイデンティティを、「日本人。韓国人。○○人。」ではなく、今日、最初に読んだ御言葉。『けれども、私たちの国籍は天にあります。』というところに、置かなければ解決できないのです。
 「This is who I am.」、「私はこれです。天国人です」と、そこにアイデンティティを置くならばどうでしょうか。この世の国々という枠組みの中に既に置かれている憎しみや、怒りの壁の影響を受けることはありません。どこの国とも一つになることができるのではないでしょうか。そのことをソウル・リバイバルミッションでお話しさせていただきました。

 それは、ただ日本、韓国だけでなく、今日、ここに集められた三百人以上の方々一人一人にも言えることです。それぞれ、私たちはアイデンティティを持って、「俺はこういう者だ。私はこういう者だ」という主張がありますけれど、それを横において、中心に「私たちの国籍は天にある。天国人だ」という揺るがないアイデンティティを持つならば、お互いの間にある壁は消えるのです。憎しみも消えるのです。なぜなら、神の国は完全な場所だからです。そこには悪魔・悪霊どもは一匹たりとも入ることが出来ない場所だからです。私たちのアイデンティティを、この世ではなく、神の国に置かなければならないのです。

 私たちは、日本のリバイバルを叫び、日本のリバイバルのために祈り、働くと言いますが、すでにこの「日本のリバイバル」という言葉の中に、すでに壁があり、憎しみ、差別、その他さまざまな霊的力が関わっているのです。そこには乗り越えることができない壁があるのです。「日本のリバイバル」という枠組みとアイデンティティは、他国に対して限度があるのです。
 でも、私たちが、「国籍は天にある」という天の国人として、「神の国を拡大する」という理解で日本のリバイバルを受け止め、進めて行くのなら、決して限界はありません。その中に敵の力は働くことはできないし、悪しき力も介入出来ないわけです。

 今日、私たちのアイデンティティを、「私たちの国籍は天にあります」というところに置きたいと思います。
 ガラテヤ書 四章六節〜八節、

『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。』

 私たちは一人の父親の子供であると述べられています。ある家族のメンバーとして規定される為には、「この人が私の父親で、この人が母親だ」という共通の認識によって、家族のメンバーになるのです。
 私たちもこの地上に住んでいますけれど、父親は誰か?実は、この地上には究極的には父親は二人しかいません。それは、「天の父なる神」と、もう一人は「偽りの父」です。ヨハネ八章四十四節に記されています。人類の選択できる父親は、天の父なる神様か、または、偽りの父のどちらかです。
 しかし、イエス・キリストを信じた者たちは、天の父なる神様から生まれた神の子です。そして、国籍は天にある、と宣言されています。このアイデンティティーを、私たちが中心に据えるのならば、日本と韓国、日本と中国、日本とアメリカ、というような国々の間にある憎しみや問題も乗り越え、解放されて自由になるのです。

 我々は共通の認識を持たなければならないのです。今日、いろいろな背景の中から集まっておられますが、私も、あなたも、一人の父親、天の父なる神様から生まれ出た神の子であるという認識です。そして、私たちの国籍は天にあるということです。あなたは日本人である以前に、天国人です。
 それを中心に据えておくならば、様々な壁のある世界に住んでいても、乗り越えていくというか、それらの上に立ち、影響を受けることなく生活できるはずです。

 今日、私たちは「国籍は天にある」ことを認識し、一人の父親、父なる神様から生まれ出た者、共通の父を持っている認識の中で歩むのです。周りにある憎しみの壁や、その他様々な悪い影響は、我々に影響を与えることは出来ないのです。
 自分の中に、「苦い思いがある。あの人に対して許すことができない思いがずっと続いている」と気づくなら、すでに賞味期限切れの食べ物を食べているのと同じですから、十字架の血潮で洗い流してもらって、自由になりましょう。

 最後に、もう一度、共通のアイデンティティーを認識し、共に聖餐式にあずかりたいと願っています。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。あなたが共通の父であることを心から感謝します。アバ父なる神様。あなたを誉め讃えます。
 私たちは、「神の国の国民。国籍は天にある」という御言葉をしっかりと受け止めます。今、心の中のすべての憎しみや、苦々しい思いがあったら、それも消し去ってください。神の国の国民として、この地上を歩むことができますように。
 今から聖餐式を行ないますが、どうかこの一時を祝してください。十字架の血潮によって、全てを聖めてください。今日はペンテコステの日ですが、聖霊様が私たちを満たし、扱ってくださいますように。感謝を持って、イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。