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「そこでしか受けられない恵み」

2011.7.17(SUN)
新城教会副牧師 四元 雅也
ネヘミヤ記 8章10節

『さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」』

ハレルヤ。感謝します。五月八日以来のこの礼拝のメッセージの御用に当たらせていただきますことを心から感謝します。

 最近、梅雨も明けまして暑い日が毎日続いていますけれども、みなさんお元気でお過ごしでしょうか?最近、日本は巷ではいろいろと騒がしいといいますか、いろんなニュースが飛び交っていて、そういったニュースを聞いているだけでもなんか心が忙しいような気持ちにななります。梅雨が明けてまた最高気温が更新したとか、そうかと思ったらまた今週はどうも中頃にどうも台風がこの日本に来ていて上陸するかもしれないとか、電力事情がどうだとか、放射能がどうだとか、いろんなことがささやかれて、心が波立つようなそういう時期であります。けれども、今日は神様に心を向けて、そして神様から私たち一人一人が力をいただくような時になることを心から願っています。


 昨日から三日間の連休が全国的にありましてお休みですけれども、この教会では三日間に渡り、JJJの準備プログラムが行なわれております。昨日は、JJJの一ヶ月前スペシャルということで、JJJが行なわれます浜松に出向いて行きました。特に浜松の地が祝福されて、またJJJに多くの人々が来て下さるようにという願いを持って、午前中はJJJの会場で思いっきり賛美集会をして、またお祈りをして、また御言葉を学んで力をいただいて、そしてその午後からは浜松の地のとりなしに行きました。

 浜松の地にも祈るべきところがたくさんあるんですけれども、浜松にもこの時期に合わせて行なわれます偶像礼拝の祭りもありまして、そういった所にとりなしに行て、特にこの浜松の地を縛っている霊的な束縛に対して戦いの祈りがされました。

 そして、昨日の夕方は浜松の駅前の一番人通りの多い、スクランブル交差点の人が絶えず行き来しているような場所で、路上ライブとチラシ配布を行いました。ゴスペルを歌いながら案内をしてくることができました。

 昨日は、全部で四十七名の兄弟姉妹が参加されて、その中には浜松市のライフリバーチャーチからも、十名前後の兄弟姉妹が応援にかけつけてくださって、一緒に子供から大人まで大勢の方が重荷を持ってその準備のプログラムに集まって来て下さいました。

 ゴスペルクワイヤとセカンドフロアーの兄弟姉妹も賛美してくださったんですが、大勢の方たちが行き来している中ちょっと足を休めて賛美に聞き入ってくださいました。昨日は小さなお子さんも来ておられて、午前中の集会にはまだ小学校に入る前の子どもさんも一生懸命賛美をして祈ってくれました。午後のチラシ配布にはK君が来ておられたんですけれども、彼は前日になんと熱を出して寝込んでいたらしいです。午前中は休んで、熱が下がったと言うことで午後のチラシ配布に合わせて来てくれました。僕が見ていてもクワイヤーが歌っている目の前でちょろちょろと動きながら足を休めもせず一生懸命やっていました。普通だったら、こんな小さい子から渡されたら断れないと思うんですけれども、中には先を急ぐ方でさっさと行ってしまう方もおられました。後で聞いた話なんですが、あるおじさんに配ろうと思ったら、そのままさっと通り過ごされてしまったそうなんですけれども、彼は執念があります。後からついていって、チラシを後ろからその人の脇の下にさっと差し入れたそうです。それで、そのおじさんはびくっとして後ろを振り向いたら、小さな子どもがチラシを渡していたので、何も文句を言うことが出来ずに受け取って行ったそうです。小さな子が純粋に神様の良き知らせを伝えようと一生懸命になってチラシを配っているのには感動しました。


 今日はこの場所を借りて皆さんにJJJの宣伝をさせていただこうかと思います。

 ほとんどの方がご存知かと思いますけれども、JJJは八月十五日に行なわれますゴスペル・ジャズ・コンサートです。新城教会が中心になって行なう集会なんですが、めずらしいことに新城教会ではなくて浜松で行ないます。浜松のガーデンパークという、浜名湖畔の公園に立派な野外ホールがありまして、そこでおこなわれるゴスペルコンサートです。この名前がJazz for Japan in Jesus(ジャズ・フォー・ジャパン・イン・ジーザス)という名前で、JazzとJapanとJesusの頭文字を取ってJJJと私たちは呼んでいます。このコンサートがもう一ヶ月を切りまして、八月十五日に行なわれます。

 この集会は、もちろん福音を伝えるという意味もありますが、予想もしなかったことに東日本大震災が起きて、そして、日本が大変なことになってしまいました。そこで、このコンサートを一つ日本の復興ということも意識したチャリティーの意味合いも込めて、チケット代の一部を被災地にお送りさせていただくという、実際的な被災地支援という形もとってスタートしました。

 そして、今に至るまでに、いろんな活動がなされているわけですけれども、この働きを通して、日本が変えられるように。霊的な復興と実際的な支援の二つの柱で働きが進められています。

 聞くところによりますと、大震災で被災された方がこの地域にも避難民として在住しておられます。浜松市内にも聞きましたら百五十三名、八十世帯程の方が福島県から避難されているそうです。私たちは浜松市役所に掛け合って、全員の方に招待状をお送りさせていただきました。「無料でご招待します。お越し頂いた方には私どもが作っている復興支援のTシャツもプレゼントします。是非このコンサートに来て元気になってください」と言ってお送りさせていただきました。そして、おととい、その反応が避難民の方からあったそうで、コンサートに来てくださる方も何人かおられるそうです。

 この働きを通して、イエス様の名前をその方たちにご紹介して、そして救われることができれば、そして、本当の意味での復興がなされていけばということを願っています。

 今日は、午後からJJJにちなんだ集会が行なわれます。JJJスペシャル賛美集会という集会が行なわれますので、是非ともみなさんそちらにもご参加ください。

 JJJでは、教会スタッフ以外の方が大勢、重荷を持って奉仕に当たってくださっています。昨日も、五十人近くの方が来られたと申しましたけれども、この午後の集会では、教会スタッフではない方々が賛美を導いたり、祈りを導いたり、また、今までのJJJの働きの中でどういった奉仕が捧げられて来ているのか、被災地に向けての奉仕であったりとか、そういったことも映像を交えてみなさんにご報告させていただく時を持ちます。今日の午後の集会に出ていただくと、「今までこんなことをしていたんだ!」ということが、よくおわかりになると思います。

 僕も、傍らでみなさんが奉仕されている姿を見ていますが、皆お忙しい中で、すごく犠牲を払ってがんばっておられる姿を見ると、励まされます。きっとみなさんの中にも、今日の集会に出ていただくと、この集会の主旨というのを分かっていただいて、すばらしい事をしているんだということも覚えていただけるのではないかと思います。JJJの働きが、更に前進していく機会になればと思いますけれども、みなさんに是非その一旦を共に担って働いていただければと願っていますので、よろしくお願いいたします。

 また、当日のJJJにも是非参加してください。今日はこの礼拝の後でチケット販売促進の働きをさせていただきます。実は、まだこのJJJのチケットを買われていない方が結構おられます。千人を集めたい。千人来て欲しいと願ってやっておりますけれども、チケットの販売の方が思わしく伸びていませんので、みなさんにも協力していただいて、チケットも買っていただいて、また友達も誘っていただけたらと思います。今日はそのために礼拝後には皆さんにチケットを買っていただけるようお願いします。


 マタイの福音書二十二章の一節から十節に、神の国が王様の主催したパーティーのようだという御言葉が書かれています。王様が盛大なパーティーを催そうとして、いろんな準備をして、大勢の方に集まっていただけるように、しもべ達に招待していた人たちを迎えに行かせた所、その人たち次々と自分の商売であったり、仕事であったり、また都合で、しもべたちの誘いに皆異口同音で「申し訳ない。行けません。私はこれこれ用事がありますので」と断って誰も来なかった。王様は非常に残念がって、「招待していた人たちがいたのに、その人たちがふさわしい人達ではなかった。」と言い、半ばやけくそじゃありませんが、しもべ達に「誰かれ構わず無理矢理でも人々を引っ張ってきなさい」と命じました。

 そして、しもべ達が街へ繰り出して行って、出会う人みんなに声をかけて、そしてパーティーの会場がいっぱいになりました、という例え話があります。

 ここで、招待されていた人たちというのは、素晴らしいパーティーに出ていれば楽しい思いもすることができた、おいしいごちそうも食べられることが出来たかもしれない。良い思いを味わうことができたわけですけれども、それを貰い損ねてしまったわけです。

 この招待されていた人たちというのは、聖書の文脈を見るとイスラエルの民、ユダヤ人です。しかし、現代に生きる私たちにそれを適応して考えると、私たち一人一人クリスチャンのことをいうのではないかと思います。クリスチャンは神様によって、神の国を受け継ぐ子どもとしての権利が与えられて、ある意味では神様から招待を受けているような、そういう身分の者です。

 しかし、私たちも時として日常のこの世のことに心を奪われて、そして関心をよせて、なかなか神の国のことに心が向かない時に、せっかく与えられるはずの大きな祝福、また恵みを受け損なってしまうということもあるのではないかと思います。同時に、昨日、路傍に行って案内をしたように、誰それ構わず案内をしたというしもべ達の姿もクリスチャンに当てはまるかもしれません。

 私たち一人一人はある意味ではしもべ達でもあり、またある意味では招待されている人でもあります。JJJの働きは、大きな祝福を受けるための一つの良い機会だと思います。また、この働きのために一人一人が犠牲を払って、そして奉仕をする者となっていけたらなと思います。


JJJのこの一枚のチケットには、王様からあなたをパーティーに招待しますという招きが、ぎゅっと詰まっているものではないかと思います。「あなたに来て欲しい」と、神様が招待状を書いておられる。そんな風に思うと一枚のチケットは大事なものだと思います。この一枚のチケットに、ある意味では神様の良い贈り物、福音がぎゅっと詰まっています。このチケットを持っている時に、そのパーティー(ゴスペルコンサート)に参加することができる。そして、そこには何があるかというと、日本のために熱い思いを持って福音を届けたいと願っている、海外のトップアーティストのみなさん、それから先生方、それから日本で働いているミュージシャンたち。そういった人たちの「福音を伝えたい」という思いがぎゅっと詰まっているのではないかと思います。JJJのチケットは、多くの方たちに福音という扉を開く、一つの鍵になるような素晴らしいものではないかと思います。ですから、皆でこの働きのために重荷を持って祈っていただけたらと思います。


 私たちは半年ほど前からJJJの準備を始めているんですけれども、大変な労力を伴うものであります。この働きに携わっている方は、大きな犠牲を払っておられると思います。いろんな働きをすれば当然疲れるし、いろいろとストレスを感じることもあろうかと思います。でも、彼らはそれをむしろ喜んでやっています。「そこでしか受け取れない恵み」というタイトルを今日はあげさせていただいていますが、そういった奉仕の中に、「そこでしか受け取れない恵み」というのがあるのではないかと思います。

 第二コリント八章二節~四節をお読みします。


『苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。』


 ここで、試練の中であっても、満ちあふれる喜びを持つことができるということが語られています。これは神様の前に献金を捧げるという意味合いで語られている御言葉ですが、献金だけでなく、私たちのクリスチャンとしての歩みそのものの中にも、神様に捧げることができることがある、そのそのことを通して満ちあふれる喜びを持つ事ができるということを教えているのではないかと思います。JJJの中で奉仕されている姿を見て、「本当に神様がその喜びをみなさんに与えておられるのだな」ということを感じさせられています。


 最初にお読みした御言葉は旧約時代、ユダの国で大きな困難の時にあった時に語られたものでした。もう一度、お読みしたいと思います。ネヘミヤ記 八章十節、


『さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」』


 この時代に七十年という長い期間、イスラエルの国、ユダの国に暗黒を立ちこめらせるような出来事が起こりました。それは、彼らが国を追われて、捕囚の身となって、他国に連れて行かれて、そして七十年も奴隷生活を強いられるという出来事です。イスラエルの民は神様を信じていたので、祝福は自分たちのものだ、自分たちには神様がついていると自信を持っていました。しかし、彼らが偶像礼拝をして、神様の前に罪を犯し、そして悔い改めることをしなかったがために、最終的に、罪を犯したその報いとして国を取られるという悲惨な出来事に至りました。そのユダの国の首都であったエルサレムも破壊されて、そこにあった信仰の象徴であった神殿も壊されて、彼らは一時、国のない民になってしまいました。そして、敵国であったバビロンで七十年間過ごしました。

 しかし、神様の恵みと憐れみによって、七十年の時が満ちた時に、神様が約束されたように、彼らを元の国に戻されました。帰ってきた彼らがユダの国で見た光景は、破壊された街、壊された城壁、過去の栄光が見る影もなくなくなってしまった状況でした。

 彼らは立ちすくみ、泣いて悲しんだと思います。しかし、彼らはそんな

中でも奮い立たせられて、近隣の列強の国々の圧力を覚えながらも、必死になって国の復興を成し遂げようとがんばりました。

 そして、ついに復興の一つの節目を迎えて、エルサレムが再建された。そして、復興を神様の前で感謝する大感謝祭が行なわれた中で、ネヘミヤがユダの民に向かって「悲しんではならない」と、「今日は私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなた方の力を主が喜ばれるからだ」と。そのように復興に努力をして、城壁を建て直し、また神殿を建て直すということが、この時期にあったわけですけれども、そういったことに心を尽くして、力を尽くして働いてきた人たちに対して、「あなた方の力を主が喜ばれます」とネヘミヤは宣言しているわけです。

 今日本でも復興のために、いろいろな働きが各機関の手で進められています。JJJの働きも、この日本の復興のためにと被災地に二回ほど炊き出しに行かせていただいたり、Tシャツを作って、一枚買うと一枚被災地にプレゼントされますということを続けてやっていますが、これからもそういった働きが続いていきます。


 ちょっと話は飛ぶんですが、八月二日から六日にかけ五日間に渡り泊まりがけで被災地にボランティア活動に行こうという話も、JJJの働きの一環として計画されています。そういった活動も続けて行く予定です。


 話がまた変わるんですけれども、人間関係というのは、ある意味ではストレスがあるものです。私も人生のある時までは気がつかなかったんですけれども、いろんな人たちとうまくやってこの世の中で生きていこうとする時に、ある意味ではストレスを受けるということを覚悟しないとやっていけないことがあります。

 自分がある目的を持ったチームの一員になって、そして何人かの人たちと同じ目標に向かって活動していこうという時に、仮に私がそういう中の一員だったとして、私が何もそのストレスを感じていなくて、「いや~、楽しいな。僕が思い描いた通りに物事が進んで行っているな」という風に感じていたとしたら、多分私が感じなきゃいけないストレスを周りの人が背負って我慢しているのではないかと思います。チームで一つのことをやっていこうという時は、自分が周りの人たちのストレスを負い、また自分のストレスを周りの人たちが負いという、持ちつ持たれつの関係がないと、だんだんギクシャクして、事がうまく運んでいかなくなるのではないかと思います。


 先日、あるプレイズ出版の兄弟と交わりをしていて、その兄弟が「岡本信弘先生はすごいですよ。」というのです。何かなと思ったら、「営業のお客さんに「そんなこと出来ませんよ。はっはっはっ」と言って、笑い飛ばすことができるんですから。」というのです。なんのことかと思っていろいろ考えました。

 プレイズ出版は、皆さんご存知のように、デザインから印刷、製本、出版という一連の流れを一環して自社で行なうことができるという、出版会社です。これは、簡単にいいますがすごい技術の要ることです。一人一人が持っている技術は素晴らしいもので、プレイズの中で働いている方たちは、それぞれ与えられている役割を専門的にプロとしてこなしておられます。どこに出しても何も恥ずかしくない製品を作る立派な会社であるわけです。

 でも、いくら技術がある良い会社だったとしても、それを世の中に知らせていかない限り仕事ができません。世の中の人が知って、仕事をいただいて、初めて優秀なスタッフが仕事ができるわけです。その、世の中の人たちに知らせて、注文をいただくという働きをしているのが岡本信弘先生です。先生は牧師としても素晴らしいのですが、会社の社長としても素晴らしいです。先生は毎週のように東京やいろんな所に出向いて、お客さんと直に折衝をして、見積もりを出して注文に結びつけるという働きをされています。

 お客さんというのは、ご存知のように「いい物を少しでも安く買いたい」というのが身上です。ある物を買って、自分がどれだけ得した気分になれるかが一番の願いです。売る側と買う側は同じ人間同士ですけが、買う側はある意味で強くなります。「あなたから買おうとしてあげている」という感じです。自分もお客さんになると、やはり気が大きくなります。少しでも安く買いたいという願いから、いろいろと注文をつけたり、値切ったりするわけです。足下を見る人もいるでしょうし、自分はお客さんだからということで上から目線で無理難題をぶつけるような、厳しい態度をされる時もあるかもしれません。そういうお客さんに対して、こちらが無礙な態度であまり相手にしなかったら、怒って立ち去ってしまうかもしれませんし、そうなってしまったら元も子もないわけですので、そういう要求に対しても真摯に対応しなければなりません。けれども、なんでもかんでも言いなりになっていたら儲けることができないわけです。そういうお客さんとの駆け引きをするのが商売の醍醐味だと思うのですが、単純にいうと一方では一円でも安く買いたい、一方では一円でも高く売りたいというせめぎ合いがそこにはあります。そこで岡本信弘先生は笑いながら「そんなことできませんよ。はっはっはっ」ということができるというのは、すごいことだというのです。

 ある意味では真剣勝負の逃げも隠れもできない土俵のような場所で、お客さんと直に相対してお話をするわけですから大変です。そこで、無理を押してくるお客さんに対して、上から物を言うのではなく、下手に出ながら、その勝ち気な要求を上手くいなしながら、それでもこちらの言うべきことはしっかりと言って商談を自分のペースに持っていくという感じでしょうか。並の営業なら「うーん」と困ってしまうような状況でも笑ってしのいでしまう。そんな度量を持ってらっしゃるということがすごいのかなと考えました。それで、その兄弟に「そういうことなの?」と聞いたら、「その通り」と言ってました。

 このように「一円でも高く」、「一円でも安く」というお互いの目的の違うところを、お互いがぶつかり合いながらも少しずつ自分の意見を曲げて、両方が満足できる一つの結論に持っていこうとする。それが、商売の売り手と買い手の関係ではないかと思います。そこにも、人間関係の一つの縮図が現れているのではないかと思います。


 自分が自分の意見が全部正しいと思ってただ主張しているだけでは、周りの人たちも嫌になって逃げて行ってしまうわけです。相手の人の意見も聞きながら、自分の意見も言いながら、そこをなんとか折り合いをつけていきながら、というところに人間関係というものがあるのではないかと思います。今年の十月には、世界の人口が七十億を突破すると言われています。小さな子どもからお年寄りまで、性別も国籍も言葉も違う、そういう人たちが私たちの周りにはひしめいているわけですけれども、そういう中で、人間関係は重要なテーマだとです。 

 聖書には人間関係をどういう風に捉えて、そして、私たちがどのように良いものにしていくかということについて、ユニークな切り口で指針を与えてくれています。その一つにこんな御言葉があります。

マタイの福音書 五章三十八節~四十二節、


『「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。』


 「目には目で、歯には歯で」は、旧約聖書で神様がモーセを通してイスラエルの民に与えられた人間関係の戒めです。これは、一つ目を打たれたら相手の目を一つ打ってもいいという、ある意味では対等な関係を私たちの社会に定義づけている、一つの戒めであるわけです。

 でも、うちの子どもたちの喧嘩を見ても思うのですが、一発やられるとぼこぼこに返してやりたいというのが人間の恒です。「あっちの方が多く殴った。だからあっちの方が悪い」ということをよく言うわけなんですが、「人間関係というのはそういうものではなくて対等なんですよ。一発やられたら二、三発返してやりたい、というのではなくて、一発だけにしといてください。」そういう風に、お互いフィフティーフィフティーの関係というのを分かりやすく言っているのが、この「目には目で、歯には歯で」という御言葉であるわけです。

 しかし、三十九節から、これは、イエス様が言われた言葉で、とても有名な御言葉ですけれども、『あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。』と書かれています。よくノンクリスチャンの方から「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいとありますが、クリスチャンは実際そういう風にされるんですか?」と聞かれることがあります。なかなか一発殴られて、「こちら側もどうぞ」とばかりに反対の頬を向けるというのは難しいことだと思います。でもこれは、そのまま文章の通りに理解するよりも、人間関係の持ち方を分かり易い形で教えている御言葉であるわけです。

 旧約聖書時代に、人類全体に与えられた神様による戒めが、「目には目で、歯には歯で」なんですけれども、新約時代になって神様はもう一段階アップさせて、もっと素晴らしい、人間関係をうまく持っていく秘訣を、この御言葉の中で私たちに教えています。

 それは、求める者に拒まず、人に対して寛大であること。気前のいいこと。また謙遜であり、また憐れみ深くあること。自分が犠牲になってでも、相手が喜ぶであろうことを考えて実行するということ。これらをこの『右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。一ミリオン行けと強いるような者とは、二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。』という御言葉の中にイエス様はニュアンスとして込めておられるのではないかと思います。

 人に対して寛大な態度でありなさい。例え人が自分に対して悪いことをしても、それに報いてやろうとは考えずに、逆にその人の益になると思うことをしてあげなさいということが、この戒めの言葉の中に込められているのではないかと思うのです。

 これはある意味で「ボランティアの態度」といいますか、「奉仕の態度」ということができるのではないかと思います。

 

 先ほどからJJJのことを耳にタコができるほど申し上げていますけれども、このような機会が設けられ、教会のメンバー、神様の会衆である私たちが、その働きを協力して成し遂げていこうという、そういうことの意義も、今申し上げたような「奉仕の態度」という、そういった心を私たちに作り上げていくとものではないかと思います。

 JJJという働きをしていくためには、先ほども一つの目的を持ったチームということを話しましたが、自分の思いとか、自分の考えというものを犠牲にして、そして力を捧げ、また知恵を捧げ、能力とか時間とか、自分の持っているプライドとか、また自由とか、そういったものを捧げて一人一人が「奉仕の態度」を持って、その場所に身を置いている。そんな中で、この働きは一つの大きな力となって進んで行くのではないかと思います。そして、そのような場所に身を置くということを通して、それがまた私たちに「奉仕の態度」を身につけさせてくれる。そして、「奉仕の態度」を身につけると、今度はこの世にあって生きていく上で、この世の中の人間関係では得ることができない、クリスチャンとしての品性というか、「クリスチャンってなんか違うな、どこか素晴らしいものを持っているな」というものを人々に与える、そんな者になっていくのではないかと思うのです。

 それが、クリスチャンとして生きていくための力になっていくのではないでしょうか。クリスチャンとしてこの世の中で生きていくというのは、ある意味では、大変なこともあると思うんですけれども、私たちがそのような「奉仕の態度」から自分自身が練り上げられて、築き上げられていくということを通して、この世の中でクリスチャンとして生きていく上での力が神様によって与えられていくんじゃないか思います。

 これが、聖書の教える祝福された人生を送る一つの秘訣ではないかと思います。教会で奉仕の場に身を置くのは、そのような良い結果をもたらすのではないかと、JJJ を通して教えられました。


 ネヘミヤが「あなた方の力を主が喜ばれる」と言いました。主が喜んでくださる「あなた方の力」というのは何かというと、困難の中にあったその時代に、皆が自己犠牲を持ってその国の再建のために奉仕をし続け、エルサレムの街が建てられました。その力を「主が喜ばれました。」と、ネヘミヤが言っているのだと思います。この、「あなた方の力を主が喜ばれる。」また、別訳を見ますと、「主を喜ぶことがあなた方の力だ」とも書いてあります。「あなた方の力を主が喜ばれる」と、「主を喜ぶことがあなた方の力だ」というのが同じ一つの旧約聖書の御言葉の二つの訳です。同じことばですけれども、これが私たちが主を喜ぶということだと思います。

 僕もそのことをよく感じるのですが、教会で奉仕をすると、喜びが来ます。僕はその喜びがこうじて献身したようなところがありまして、「教会で奉仕するのって楽しいな。嬉しいな。」それをもっともっと味わいたくて、そして、会社を止めて教会に入って来たというのが、僕の献身の一つの原点であるわけです。みなさんご存知のように、毎週礼拝が開かれて、みなさんが神様の恵みを味わう中にも陰で奉仕をされている方がたくさんいます。

 カレー作りとか、伴奏とか、映像とか、送迎とか、受付とか、子供礼拝とか、警備とか、聖餐式の奉仕とか、昼食接待の奉仕とか、一日が終われば掃除もあります。これらの奉仕一つ一つが神様の前に私たちを祝福を受け継ぐものとして立たせる、祝福に預からせる力であるわけです。みなさんが捧げられます献金も奉仕の一つです。一つ一つに犠牲があるわけですけれども、同じように一つ一つに喜びがあります。また力が伴います。すごいことだなと思います。その喜びとその力が教会を建て上げてまた動かしている。そんな風に思います。


 人間関係の秘訣の話をしましたが、私たちにはもっと大切な方との関係があります。これは神様との関係ですけれども、神様との関係をどのように持っていくべきなのでしょうか。

 先日、ヤキマからジョー先生が来られて、この礼拝と午後の聖会、そして水曜礼拝で奉仕をされました。その奉仕の中で、こんな話をされていました。「あなたがクリスチャン人生を歩んでいく上で、あなたが教会に来て、そして恵まれて、そして平安をいただいて、そして不満のない、また快適な信仰生活を守ることができていると感じられているとしたら、どこかずれてしまっているかもしれません」と。「えっ?そうなの?」といろいろ考えさせられる話でした。


 先ほどの人間関係の話では、自分がある集団の中にいて、何もかも自分の思い通りに全てがうまく回っていると感じた時に、その時には周りの人たちはあなたに対してストレスを感じているかもしれないと話しましたけれども、神様との関係においてもそうかもしれません。

 私たちが「信仰生活、嬉しい。楽しい。問題がない。素晴らしい。平安だ。何も言うことはない」という風に感じていたら、もしかしたらイエス様があなたに対してストレスを感じておられるかもしれない。それは、イエス様とみなさん一人一人との関係にありますけれども、私たちが信仰生活を歩む上で、それぞれがそれぞれの力に応じて神様から委ねられた領域があります。神様が「これはあなたに託すよ。あなたにこのことをして欲しいんだ」と神様が願っておられること。それを全うすることがある意味クリスチャン人生であると思います。それはある意味、辛く犠牲を伴うことかもしれませんけれども、しかし、喜びでもあり、また更なる祝福に繋がる道でもある。そこにしかない、そこでしか受けることのできない恵みがあるということを、今日は覚えていきたいと思います。


 クリスチャン人生には、そこでしか受けることの出来ない恵みがいろんな所にあると思います。それを一人一人が見つけて、実行していく時に、それが、あなた方の力になり、喜びになる。そのようにこの聖書では教えています。そのようなものを本当にお互いに味わい、また、生活していく者となっていきたいと、そんな風に願っております。


 今日、お話ししたメッセージを通してお願いしたいことは、皆さんができることを持って神様に仕えていこうという思いを新たに持っていただきたいです。教会の中にはいろんな働きがあります。今日も、午後からJJJの働きがありますし、夜にはリバイバルミッションのセミナーもあります。ざわめきもあります。

 新城教会にはいろんな部門があって、いろんな奉仕の場所がみなさんの前にあると思います。できる奉仕を持って神様の前に仕えていく。そのことを今日、神様の前にもう一度確認して行きたいと思います。活発な教会はその分主からの喜びも大きくいただけるのではないかと思います。ですから、こういった一つ一つの働きがあることも、神様の大きな恵みではないかと思います。そのことも心から感謝できるものになりたいと思います。そして、いろんな形があると思いますけれども、その場に身を置く。祈りを持ってでもいいです。献金を捧げるということでもいいです。奉仕の場に身を置くということでもいいです。若者たちがJJJのために必死になって働いているそのように、自分自身もその思いを受け取って、そして神様の前に進み出る者となっていきたいと思います。その時に、「そこでしか受けることのできない恵み」が必ずありますので、そのために捧げさせていただきましょう。

 イエス様が今この場所におられて、みなさんの決意と、また信仰の告白を聞いてくださると思いますので、イエス様の前にお祈りの時を持ちましょう。


 一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、天のお父様。感謝致します。今日もあなたの御前に礼拝を持ち、こうして賛美を捧げ、また祈りをもってあなたの御前に進み出ることができて感謝します。また、今日、あなた方の力を主が喜ばれると、御言葉の中から「奉仕の態度」について、イエス様、あなたとの関係の正しいあり方について、また、この教会の中でなされる働きについて、私たちがもう一度考え、また一人一人があなたからの思いをいただく時を与えてくださったことを心から感謝します。どうかお一人お一人があなたの御前に更に整えられ、委ねられた領域を「奉仕の態度」を持って全うしていくことができるように。そこに新しい恵みの扉があることを信じて感謝します。この教会には、リバイバルのために様々な活動がなされています。その一つ一つの働きのために、私たちは自分に出来る奉仕を今までもされています。その中で、この教会にあなたが新しい恵みの扉を今日まで開いてくださったことも心から感謝します。

 さらに私たちをそのような奉仕へと進み出させてくださいますように。自ら喜びを持って、あなたの御前に、自分自身を捧げていくことができるように祝福してください。また、先生方もいろいろな場所に行き、力いっぱい奉仕をされています。どうぞその奉仕のためにも、この日本のリバイバルのために仕えていくことができるように、どうか助けてください。心からお願いします。

 今日、夜、行なわれますセミナーの上にも、祝福がありますように。また、一ヶ月後に控えたJJJの上にも祝福がありますように。主よ、これらの働きを通して大いなるリバイバルの業を現してくださいますように心からお願いします。

 イエス様の御名により、心から感謝してお祈り致します。アーメン。