HOME > 2011年バックナンバー > 7月 > メッセージ2011年7月24日

「偉大な神の元で生きる」

2011.7.24(SUN)
新城教会主任牧師 滝元 順
創世記1章1節

『初めに、神が天と地を創造した。』

 ハレルヤ!おはようございます。みなさんの前でメッセージを取り次がせていただけますことを、心から感謝しています。
 大変暑くなってまいりましたが、お元気でしょうか?教会に来ますと、神の祝福を受け取ることができますが、またお互い、祝福し合うことができるわけです。お隣の方々に「あなたを祝福します!」と声をかけてくださいますか?前後左右の方々に、「あなたを祝福します」と声をかけて祝福して下さい。
 社会一般では、「祝福します」という言葉をかけるどころか、「呪ってやる」とか「憎んでやる」とかいう言葉が多いものですが、教会はそうではなく、祝福し合うのです。

 先週、私は埼玉県の草加神召教会という天野先生の教会で、二日間奉仕をさせていただきました。私はいろいろな教会で奉仕をさせていただくのですが、日本である意味、最も元気がよく、リバイバルされている教会が天野先生の教会です。みなさんのお祈りに支えられ、素晴らしい聖会を持つことができました。
 土・日と奉仕をさせていただきましたが、土曜日はお一人お一人の解放の祈りの時間をもたせていただきました。そして日曜日には三回の聖会でメッセージさせていただきました。霊的解放の祈りによって、教会が変わってきたそうです。日本のリバイバルのために心合わせて働けることを感謝しています。
 少し、写真をお見せしたいと思います。

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 私たちの教会以上に、賛美も元気がいいですし、燃えていました。私たちもこのくらい聖霊に燃えなきゃいけないなと反省しました。右側が天野先生ご夫妻です。左の方におもしろい人がいますけれど、あの人は昔、女子プロの選手でした。でも、今は伝道師をしておられます。

 話は変わりますが、新城教会で今年から、音楽学校が始まりました。「シンシロ・プレイズ・ミュージックスクール」といいます。すでに何回かクラスがあったようですが、私は今まで一度もそのクラスを見ることが出来ませんでした。しかし昨日、やっと見ることができました。新しい世代の少年・少女たちが、将来の賛美リーダーや奏楽者を目指して、真剣な面持ちで授業を受けていました。それを見て私は感動しました。「この少年たちが・・・」というような感じでした。昨日の写真もお見せしたいと思います。

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 左下はシオン君でしょうか。体以上に大きそうなベースを弾いています。今日は礼拝の前に、子供プレイズタイムがあったのですが、彼らが演奏していました。なかなかうまかったです。
 これが全体の写真です。

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 一人、フーテンの寅さんみたいな、おもしろい人もいますけれど、だいたい若い方々です。しかし、どなたでも学ぶことができます。

 教会は、世代を超えて受け継がれなければなりません。一代だけで終わったらいけません。
 新城教会も始まって、六十年くらいになります。私は今年で六十歳ですから、六十年、この地域で伝道が継続されています。どこから始まったかというと、津具村という田舎から始まりました。私の両親が津具村に伝道に入ったのですが、そこには家がたった四軒しかありませんでした。行ってみて初めて、「ここじゃ将来性がない」とわかったようです。やがてこの場所に移って、教会が始まりました。

 八月十五日はJJJの働きが浜松であります。大勢の方々を誘っていただきたいと思います。この働きは東日本大震災の援助も含んでますから、大切な働きだと思います。特に遠州地区の人たちに福音を宣べ伝えなければなりません。なぜなら、その地域は地震で危ない場所です。普通地震は起こってから名前がつくものですが、起きる前から「東海地震」と名前がついています。赤ん坊が生まれるような感じで、絶対地震が起こると確信して、政府も起こってもらわないと困るという勢いで、準備しているわけです。もしかしたら、近い将来に起こるかもしれません。
 だから祈って戦わなければなりません。地震が起こらないように祈るのです。そうしたら、きっと主は哀れんでくださると思います。この夏はそのための戦いですから、是非とも協力して下さい。先週も、雅也先生がメッセージの時間のほとんどを使ってJJJを宣伝をしていましたけれど、そのくらい大切な働きであると理解し、参加してください。

 そして続く、十七日には、父の生まれ故郷、「津具村」で伝道コンサートがあります。津具はたいへん重要な場所です。来週の日曜日の午後、新城リバイバル聖会がありますが、その時、なぜ津具が重要なのかについてお話しさせていただきます。知ると唖然とします。こんな田舎がなぜ重要かがわかります。これにも是非出席していただきたいと思います。

 この地域で六十年間、福音宣教を続けさせていただいています。けれども、まだまだ六十年じゃ足りません。一歩外に出ますと、この辺は寺や神社が多いのです。合併して後の数は分かりませんが、合併する前の新城市の人口は三万五千人でしたが、寺は七十あります。神社は、小さな祠も含めると、百二十以上もあるのです。それが千年、二千年と続いているわけです。我々が外に出て、「新城教会は六十年間この街でやってますよ。どうですか?」と自慢すると、地域の人たちはこういうのです。「六十年?まだまだ甘いよ。うちの寺は千年も続いてるんだから。あんたたちも千年くらい続けたら、実を結ぶかもしれないよ。でも、その時、俺たちは二千年だ」と言われてしまいます。
 本当に長い間、暗闇に閉ざされている地域です。けれども、私たちはそこに福音の光を宣言しなければなりません。

 しかし、恐れることはありません。なぜなら、私たちの神は偉大な神だからです。どんな神様かというと、今読みましたように、『初めに、神が天と地を創造した。』創造主なる神です。
 聖書の言葉って、すごくシンプルです。『初めに、神が天と地を創造した。』本当に短い言葉です。しかしその背後に、どれだけ深遠な出来事があったのかは、誰も計り知ることはできません。
 『初めに』とは何を現すかというと、「時間」であると思われます。神は時間をも創造されたのです。始まりがあって終わりがある、それは時間です。時間は神の創造物です。
 続いて神が「天」、すなわち、宇宙も造ったし、「地」、地球と全ての生物、微生物に至るまで造られました。『初めに、神が天と地を創造した。』という短い言葉の中に、人知では計り知ることのできない、深いものがあるのです。私たちは、そんな偉大な神の元で生きることができるのです。何か気が遠くなりそうです。

 『初めに、神が天と地を創造した。』時間も造り、天も造り、地も造った神、どんなに大きな神様でしょうか?時々、「神がいるなら、目の前に出してくれ。出してくれたら俺は信じるよ」と言う人がいますが、見えたら本当の神ではありません。体があったら相当でかいです。宇宙全体を造られた神様ですから、めちゃでかいです。
 また微生物の世界といったら、顕微鏡で見なければわからないミクロの世界です。それを造った神様といったら、逆に、めちゃ小さい体も持っておられるのかもしれません。

 では、その方はいったい、誰なのか・・・。聖書にはその情報があります。コロサイ人への手紙一章十五節〜十六節を見ると、このように記されています。ここで「御子」という単語が出ていますが、御子とは「イエス様」のことです。「御子」を「イエス様」と読み替えると、

『イエス様は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物はイエス様にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られたのです。万物は、イエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。』

 神様とは誰でしょうか?それは、「イエス・キリスト」です。
 キリスト教は、本当にシンプルです。「初めに神様が天と地を造られました。・・・では、神様は誰ですか?イエス様です。」とシンプルです。ということは、それを単純に信じればいいのです。

 しかし、みなさん「単純」といいますけれど、現代は誰でも携帯電話を持ってると思いますが、老人の方々やお年を召された方々が持っておられる携帯電話は単純です。一発ボタンで目的の人にかかるような携帯です。iPhoneとか、この頃のスマートフォンはお年寄りが持ったら混乱します。しかしシンプルな、シニアフォンは簡単に使えます。誰でも「シニアフォンは単純だ」と思うじゃないですか。
 しかし、みなさん、単純なほど、その背後にすごい技術が隠されているのです。単純にするには、それだけ奥深いものがあるからです。奥深い理論があって、はじめて単純化することができるわけです。
 キリスト教も同じです。たいへん単純に見えますけれど、単純だけで終わってはいけません。単純は、その背後に深いものがあるのです。
 コロサイ人への手紙は、イエス様が神だという理解に到達していない時代に書かれたのです。当時は聖書は成立していませんでした。しかしパウロは、その理解に達したのです。そこには深い聖霊の働きと、み言葉に対する深い、神学的洞察があったのです。その結果として、「イエスが神だ」と気づかされたのです。単純に見える背後に、たいへん深いものがあったわけです。

 ということは、信仰の世界は単純でいいのですが、一方では深い部分も必要です。新城教会は単純な部分もありますけれど、一方では、深い部分もあります。今日の午後はサンデースクールがありますけれど、深い部分を扱ってくださる山崎ランサム先生がいます。ルカ文書を扱ってくださいます。そこで聖書の深い部分を知ることができます。深い部分を知る時、初めて信仰が単純になるのです。裏も表も単純だけだと、信仰は危ない方向にいきます。信仰を単純にするためには、深い部分がどうしても必要です。是非とも、深い聖書の学びをしてください。
 私はなかなか、サンデースクールに出席できないのですが、必ずDVDをiPhoneかiPadに落として、旅の途中に勉強しています。みなさんに負けないように、勉強しています。是非とも、深いところを知りながら、単純な信仰を持って神様に近づきましょう。その時、神の業が我々のただ中に現されるのです。

 先週、インターネットのニュースを見ていたら、おもしろいニュースが出ていました。それは創造主なる神がおられると、埼玉医科大学準教授の今中和仁という博士が講演していたからです。彼は心臓外科医ですが、「心臓外科医が語る脅威の人体」と題して講演した内容が掲載されていました。
 彼はクリスチャンです。心臓外科医となって、心臓の驚くべき仕組みを知って、人体は徐々に変化、形成されたのではなく、「神が人体の全てを創造された」ということを確信したと堂々と語っていました。それは興味深かったし、説得力がありました。

 実際の手術中の映像などを交えて、「骨とか筋肉というものは非常によく考えられてつけられています。曲がるけれど伸びないという所はありません。心臓が送り出す血液量は一分間で五リットルにもなります。一日に換算すると、ペットボトル一万五千本もの血液を送り出しています。」と、身体の驚くべき仕組みを説明し、人体の仕組みを知れば知るほど、「いかなる組織であれ、目的も意味もなく造られるわけがない」と確信するようになったというのです。
 特に、この心臓という器官には、小さいが凄まじいパワーの心筋があり、元は一つの細胞だったにも関わらず、それが完成するとバックアップ機能も備わっているというのです。全く別の組織ともネットワークを形成していて、なぜこんなことが可能なのか考えれば考えるほど、「神が創造された」とする以外に考えられないというのです。
 他の体の器官についても、なぜ肺が酸素を取り込めるのか、脳が記憶できるのか、感情はどこから来るのか、皮膚が熱いとわかるのはなぜか、免疫がなぜ外敵を認識して撃退できるのか、なぜ腎臓は不純物のみを排泄できるのか・・・、それらは全て神の御業である以外に考えられない、語りました。

 人間の形成について、これを進化論に即して考えるとすれば、もし段階的に代謝能力を獲得してきたなら、片っ端から乳児期に死亡する時代、全員重度知的障害だった時代などが生じたはずであるが、そのような時代があり得ないことから、「人体の組織は最初から全部できていたと思われる」と語り、研究のうちに彼はそれを確信したそうです。
 最初から、人の体は完成品として造られていたというのです。私たちは何気なく生きていますが、私たちの体にも天地創造主の神の凄まじいパワーが流れているわけです。
 みなさんに心臓はありますか?心臓は左ですか?右ですか?わかる人は心臓が悪いかもしれません。どっちに心臓があるのかわからないけれど、心臓は死ぬまで働き続けます。すごいパワーです。誰が作り、誰が動かしているのでしょうか?
 それは、天地創造なる偉大なる神が造ってくださったのです。天地宇宙を造った神は空の彼方におられるのではなく、身近におられるのです。
 みなさん、この事実に気づくだけで、人生はどのくらい変わるでしょうか。「私は神様から忘れられている」と言う人がいますが、絶対に忘れられてはいません。体がある以上、創造の神はあなたと共におられるのです。神はすぐ側におられ、いや、内側におられるのです。それがイエス・キリストです。私たちはすごい神様を知ってしまったのです。

 今日は昼の十二時に、古いアナログテレビが使えなくなります。アナログテレビは近頃、うっとおしかったですね。「あと何日、あと何日、あと何時間・・・」というカウントダウンが表示されていました。そしてまもなく、十二時でぷつっと切れるわけです。我々の人生も本来は、あのようなカウントダウンがあるのでしょうけれど、それがいつかわからないから生きていけます。
 今日の昼の十二時で、あのアナログテレビがゴミとなります。デジタル・テレビを買いましたか?先週は電気屋さんは、大忙しだったみたいです。デジタル放送を見ると、アナログテレビを見ることはできません。なぜなら、余りにも画質が違うからです。なぜデジタルは、これほど繊細に見えるのかと感動します。古いものが過ぎ去って、すべてが新しくなったようです。
 同様に、本物の神様を知ると、アナログからデジタルの変化どころではないのです。この神様を知ったら、私たちの人生は大きく変わるわけです。

 日本人は不幸なことに天地創造の神となると、全く目が塞がれています。諸霊というか、うごめく悪霊とかはビンビン感じるみたいですが、天地宇宙を造り、自分を造った神に気づいていないのです。なんと不幸なことでしょうか。
 神様という方は、そんなに難しい方ではなく、我々のすぐ側でご自分を紹介しておられます。

 この頃、電力事情で土・日出勤になった方々が多くおられて、その方々のために、木曜主日礼拝が始まりました。新城教会では日曜日にも礼拝があるし、水曜日にもあるし、木曜日にも始まりました。木曜主日礼拝を始めたのですが、十人くらいは来られかと思っていたら、意外に多かったです。先週は四十二名の出席でした。木曜・金曜休みの方々って意外に多いですね。これからの日本はどうなっていくのかと思います。
 そこで私は、今お話しした「神は存在します」という、今中教授のことを話しました。すると、そこに来られていた一人の方が、「順先生がきっと喜ぶと思って、今日、この本を持ってきました。」と言って、一冊の本をくれました。
 それは何かというと、夏になると嫌なのが、蚊です。蚊ってみなさん好きですか?本当に嫌ですよね。蚊ほど嫌な存在はいなかもしれません。潰すと、既に誰かの血を吸っていたりして、「誰の血だ、これは?」という感じです。一回吸ったんだから、もういいじゃないかと思うのですが、何回も吸いに来ます。
 私は以前、ケニアに行ったことがあるのですが、ケニアで蚊にさされるとマラリアになります。ナイロビの空港に降りたら、でっかい看板が出ていて、それは巨大な蚊の看板でした。そして、「マラリアに注意!」と書いてありました。本当に怖かったです。
 蚊がいっぱいいるので、体に蚊よけのスプレーをやりましたが、暑くてすぐに汗で流れてしまうのです。蚊が来ると、夜中でも電気をつけて、蚊を追いかけ、また、逃げ回っていました。
 しかし、蚊一匹を見ただけで、神の御業を知ることができるというのです。蚊がなぜ造られたのかは、天国に行って神様に詳しく聞いてみないとわかりませんが。

 私がいただいた本には、蚊という嫌な存在を、エンジニアリングという面から見たとき、蚊にどれだけの機能が搭載されているのか、というものでした。
 まず、飛行性能。蚊は前後左右、上下、どの方向にも自由に飛ぶことができ、もちろんホバリング(空中停止)も出来る。闇の中で狭い隙間を見つけて、中に入る航法システムも装備している。人間の皮膚が出している二酸化炭素を感知して、そちらの方向に向かって接近する。万が一にも、人間がぴしゃっと叩こうものなら、速やかに察知して回避行動を取る。
 皮膚の上に着陸地点を定め、難着陸して、しっかりと足がかりを掴んで身体を固定し、皮膚の下の血管の位置をさぐって針を刺す。その時、血液凝固防止剤を注入した上で、必要十分だけの血液を抽出する。針を抜き、重くなった羽に力を入れて再度離陸する。それは、すごい機能です。
 「それだけの機能が、あのサイズの体の中に入っている。蚊は重さにすれば数十ミリグラム。素材は、ほぼ、たんぱく質。これを人工的に造ろうとするならどうか。行動パターンのプログラムだけはコンピューターでなんとかなるかもしれないが、メカの方は全く手が出ない。人間が開発した工学でも、二酸化炭素探知とか、血液凝固防止剤注入とか、暗視飛行制御とか、着陸後の身体の保持とか、一つ一つに対する装置は作れるだろうが、それをあのサイズにまとめることは絶対に無理な話だ。たぶん重量のほうが数桁オーバーして、そうなると、飛行性能の話などする余地は全くなくなる。その上、蚊にはとんでもない機能がある。それは、生殖という機能で自己増殖していく。」とありました。
 同じ機能を持った蚊を、どんどん自己増殖をしていくのです。
 「人が自己増殖するような飛行機を作ったという話は未だ聞いていない。」と結ばれていました。
 本当にそうですね。飛行機が自動的に同じ飛行機を生んでいくなんて、聞いたことはありません。あのすぐれた性能を持った小さな物体は、どんどんコピーされていくわけです。重さにすれば数十ミリグラムのたんぱく質の小さな物体は、すごいハイテクです。誰が造ったのでしょうか。これを、進化論のせいにしちゃいけません。神様以外に考えられないのです。
 これから蚊を潰す時、少しは感動しながら、潰して下さい。

 この本はおもしろいです。著者は蚊に提案があるそうです。
 「我々としてはこんなに大きなぶさいくな体をしている以上、血だって売るほどある。少しぐらいは分けてあげてもいい。だが、君たちの方もいつかの約束を守って欲しい。すなわち、まず音をたてずにやって来ること。第二、かゆみが残らない採血方法を開発すること。第三にマラリアなどの悪い病原菌を持って来ないこと」とありました。
 観察力のある人だなと思いました。我々が周りを注意深く見れば、神様がおられるのがわかるのではないでしょうか。

 この神様に頼って、またこの神の元に生きることができるなんて、そんな大きな幸せはありません。
 私たちは神様を過小評価しているのではないでしょうか。神様を余りにも人間化しているのではないですか。イエス様は神様ですから、人の姿をとって、この地上に来られて、私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかって死なれましたが、甦ってくださいました。それを簡単に単純に考えていますけれど、その背後には、すごい神によるメカが、神の計画が隠されているわけです。私たちはこの神様を過小評価してはいけません。すごい神の元で生きていることを知る必要があるのです。
 そして、この神様に全ての重荷も委ねて、生きるのです。詩篇五十五篇二十二節、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 重荷があったら、委ねてくださいというのです。今も話しましたように、私たちの神様はすごい神様です。その方に、重荷をすべて委ねたらいいのです。
 現代社会は不安が多過ぎます。これから日本はどうなっていくのかわかりません。福島第一原子力発電所の事故は、未だに制御できていません。将来、日本はどうなるのか大きな不安があります。
 先日もそのことに関して、専門的に調査している人が、私に電話をくれました。「順先生、知ってますか?本当に危ないですよ」と言うのです。チェルノブイリで大きな事故がありましたが、それはすぐに放射能が放出されないように抑え込んだというのです。それは瞬間的なことだったそうです。
 でも、福島の場合、四ヶ月間、ずっと放射能が放出され続けているのです。だから空気中の放射能は少なくても、それが地に降り積もり、土地に与えている影響は全く予想がつかないというのです。今後五年、十年経つと何が起こるのか分かりません。
 その人はいろんなデータを持っていて、私を十分に脅かしてくれました。「東京は危ないですよ。息子さんも孫たちもいるでしょ・・」なんて言うのです。
 「じゃぁ、どうしたらいいんですか?」と聞くと、「日本に住まないことですね。日本で安全なのは、沖縄以外にはない」というのです。
 四ヶ月間も、放射能が放出され続けていて、どういう結果が今後出るのか分からないのです。それに関心を持って、研究すればするほど、すごい不安な要素があるというのです。放射能は見えないからいいですが、実際に見えたらパニックするでしょう。これから日本はどういう道を辿っていくのか、たいへん不安です。

 地震のことを考えてみても、東海地震が起こるかもしれないし、また、東京に地震が起こるとも言われます。東北であれだけでかい地震が起きると、どこで何が起こったって何も言えないのです。
 日本は本来、人が住む場所じゃなくて、神が大陸を守るための防波堤として作った島なのかな、なんて思うこともあります。世界で起こる地震の二割は日本近海だそうです。台風もご丁寧に、日本列島に沿って北上します。

 でも、先週、私にはすごく嬉しいことがありました。本当にうれしかったです。私たちの神は全ての権威を持っておられ、我々には「祈り」という武器があるからです。
 県民の森の祈祷会が毎週月曜日にあるのですが、それは二十数年続けられています。月曜日の夜は県民の森に行って叫ぶ!というのが、この教会の安全な原子炉です。私たちは毎週、どのような祈りをしているかといいますと、「祈祷会に来る人たちが恵まれるのではなくて、来られない人たちが恵まれるように」と祈っています。祈祷会に来ない方々は恵まれます。
 なぜなら、発電所とは、そこで電気が作られて、各地に配られて初めて仕事ができるわけです。私は、県民の森祈祷会は発電所だと考えています。そこで発電された聖霊のパワーが、新城教会に属する全ての兄弟姉妹・関係者に流れて行くように祈っています。だから、来ない人も毎週、力を受けるのです。

 先週、祈祷会に先立って私は祈りました。「今晩、何を祈ったらいいのですか?」と。みなさん、祈りの秘訣は、「何を祈ったらいいのか」を最初に祈ることです。すると神様が、祈りの課題を与えてくれます。それは、聖霊様が願っておられる祈りだから、祈ると答えが来るのです。
 先週は雨が降っていたので、教会で祈祷会を行いましたが、「何を今日は祈ったらいいのですか?」と祈ったら、ぽんっと心に祈りの課題を下さいました。それは「台風6号が逸れるように祈れ!」と語られました。
 私はどこで神様から語られたのかも覚えています。それはトイレの中です。「台風のために祈れ」と。

 先週は、大きな台風が日本に接近して来ました。報道によると、観測史上、最も雨と風が強い台風だと言われました。まともに来るとたいへんなことになると脅かしてましたよね。
 だから、「それが逸れるように祈れ」と主は言われました。それで、先週の祈祷会に来た人たちは知っていると思いますが、みんなで祈りました。台風が来ないように、特に、愛知県近辺に来ないように、どこかに行くように激しく祈りました。それで、何が起こったと思いますか?今日私は、台風6号の辿ったコースの画像を持ってきましたよ。

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 見てください。台風は帰って行きました。

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 近づいて来たけれど、愛知県に近づいたら、突然、向きを変えてお帰りになりました。これはたいへん稀なパターンだと報道されていました。
 「そんなの自然だ」と言うかもしれませんけれど、実際、私たちは祈ったから、信じています。あの時祈ったから、台風は向きを変えたと。
 全ての重荷を主に委ねて、祈ったらいいのです。私は本当に嬉しかったです。私は単純ですから。台風は向きを変えて「申し訳ない」というような顔をしたかは知りませんが、沖の方に戻って行きました。祈りによって守られたと信じています。祈ったら神様は答えてくれます。なぜなら、偉大な神様の元に身を寄せているからです。

 あなたは神の子どもだと言われています。このお方に、重荷を委ねて、心配を委ねたら、「正しい者が揺るがされるようには決してなされない」と言うのです。「俺。正しくない」と言うかもしれないけれど、イエス様の血潮によって、どんな人でも正しくされ、聖められます。正しい者とは主を信じるクリスチャンのことです。「決してあなたの人生は揺るがされることはありません」と聖書は断言しています。

 エレミヤ書三十三章三節は、神様の電話番号です。みなさん、よく覚えておいてください。神様の携帯電話番号です。そこに電話したら神様に繋がります。イエス様の持っている携帯番号は何番かというと、「エレミヤ三十三局の三番」です。みなさんで読んでみましょう。エレミヤ書三十三章三節、

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』

 英語だと、Call To Me.「わたしに電話して」と訳すことができます。「わたしを呼びなさい」、呼んだら答えてくれるというのです。
 子どもが大きくなると親はあまり関わらなくなります。なぜなら、自分でいろいろなことができるからです。「自分でやりなさいよ」と。
 神様も同じです。私たちを個人として、自由意志を与えてくださっていますから、自由に生きることができるのですが、「なんか困ったら、わたしに電話をしてね」と電話番号を残してくれているのです。それが、エレミヤ書三十三章三節です。「わたしを呼びなさい。そうすれば、わたしはあなたに答えますよ」というのです。

 単純に呼び求めたら、神様は答えてくれます。教会に来ると、「神様が祈りを聞いてくださる!」と分かるようになります。
 「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えなさい」とありますから、もしも今日、まだクリスチャンでない方がおられたら、今日のほうが明日より若いですから、是非、今日、主を信じていただきたいと思います。ここには子供たちから、お年寄りまでおられます。小さな時から主を信じると素晴らしいです。

 私には、孫が三人いるのですが、今度四人目が生まれます。今日は東京の孫も来たので、ちょっと嬉しいですが、私の家の近くに一人の孫が住んでいます。その名前を架語(かたる)といいます。
 彼女はこの頃、変な日本語をしゃべるようになりました。彼女の語る言葉こそ、本当の片言「かたこと」だと思うのですが、私のことを「じいじ」と呼びます。
 この頃、朝の六時半くらいにわが家に来るのです。困りもんです。五時半くらいに起きて、「じいじの家に行きたい、行きたい」と言うらしく、また、娘も都合がいいもんだから、「かたるが迎えに来てって言ってるよ」なんて言うもんだから、つい迎えに行ってしまうのです。
 でも、家に来ると私のことはあんまり好きではないみたいで、家内が大好きなんです。なんでも「ばあば、ばあば」なのです。「じいじの所においで」なんて言うと、「いや」という言葉も知っていて、「いや」と言います。

 しかし先週、おもしろいことがありました。私は、メッセージの準備を机のあるところでしていたのですが、架語が泣いていました。ずっと泣いていて、なんかお腹が痛いみたいでした。彼女は便秘する時があるみたいで、汚い話ですいませんが、彼女はうんこのことを「ちっち」と言うんですが、すごく固くなって出ないわけです。それでずっと苦しんでいました。
 すると、誰も教えないのに、なんと、あまり好きでもない私の所に来て、「じいじ、じいじ」と私を叩いて、「こっちに来て」と言うのです。「なんだ?」と言うと、私に「祈ってくれ、祈ってくれ」と言う動作をするのです。「祈って欲しいの?」と聞くと、泣きながら「うん」と答えました。「ちっち、ちっち、ちっち、」とか言って、苦しんでいるわけです。
 そこで、私は彼女を抱き上げて、彼女のために祈りました。「神様。まだ彼女は一才半ですが、あなたに頼っています。イエス様に祈ったら、祈りが聞かれると信仰を持っています。こうやって叫び求めています。どうか彼女がはっきりと、イエス様が癒してくださったと、わかりますように!ちっちが出ますように!アーメン!」と祈ったら、とたんに「ぶりっ」と音がしました。すると、ぷ〜んとあの嫌なうんこのにおいがしました。すると大きなのがごろっと出ました。祈った直後でした。
 彼女は一才半だけど、感動したみたいです。本当に感動したみたいです。「アーメンしたらちっちが出た。」それも、「じいじが祈ってちっちが出た。」
 私の株もだいぶ上がりました。あの時に祈って良かったです。彼女は祈りの力を体験しました。それから毎日、定期便のようにちっちが出るようになって、それまで彼女はご飯を小さな皿にちょっとだけ食べるくらい、食が細くて心配していましたが、癒されてから、なんと毎回、茶碗二杯くらい食べるようになりました。すごく食べるようになって、びっくりしました。神様はこんなチビの祈りも聞いてくれるのです。一才半でもイエス様はご自分を現してくださるお方です。すごいな〜と私も家内も感動しました。

 神様は「長いこと信仰を続けたら、あんたの祈りを聞いてやってもいいぞ。まだ努力が足らん。」なんて、言われる方ではありません。一才半のしっかりしゃべることもできないような、赤ん坊の叫びにも答えてくださる神様です。ましてや、私たち一人一人の祈りに答えてくださらないはずがないのです。天地宇宙を造られた神様を私たちは神としているわけですから、大船に乗った気持ちで、主に叫び求めることが大切です。

 今週は、この偉大なる神様の力を、皆さんが体験することが出来ますよう祈っています。
 神の力を体験するためには、やはり委ねることが大切です。「あなたの重荷を主に委ねよ」とありますから、委ねるとことが重要です。「委ねる」とは何かというと、まずは「祈り」です。
 祈りは、自分で抱えないで神に「助けてください」と委ねる行為です。「日々、常に祈りなさい」とありますから、私たちが常に祈るならば、神は答えてくださいます。
 でも、祈っても、なかなか委ねきれないところが辛いところです。神様は委ねきりなさいと言われているけれど、なかなか委ねきることができないのです。

 しかし、委ねるとはどういうことか。この頃、私の心の中に響いている一つの言葉があります。それが詩篇一二七篇一節〜二節です。

『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。』

 前にもお話しましたが、地震が来るかもしれないという情報を受け取ったら、精一杯回避できるように準備を整えなければなりません。この教会でも、来る来ないは別として、そういうことを今話し合っています。しかし、人間がどれほど努力しても、カバーできない領域があります。そこは「委ねる」ことが必要です。
 『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。』とありますから、精一杯の努力と共に、神の守りがどうしても必要だと告げています。しかし、ここに素晴らしい言葉があります。
 『主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。』とあります。みなさん、委ね切っている時とはいつでしようか。断食して神に祈っている時ではありません。人間が最も委ね切っているのは、やっぱり寝ている時だと思います。寝ている時は、完全無防備です。みなさんの中に、「私は地震があっても、火事があっても、起きそうもない」という人は、よく委ねておられる人です。
 昨晩、よく眠ることができましたか?眠ることができた人は、委ね切っておられた方です。全てを放棄しているわけですから。
 眠りは、人間にとってどうしても必要です。これは休みのためにも必要です。しかし、もう一つ、霊的な意味があります。それは何かというと、眠っている間は、神様に委ねている時ですから、神が働かれる時間なのです。今も、礼拝でゆっくり休まれている人がおられたら、それは委ねている人です。神様が働かれる時間です。

 ですから、夜寝る前に、「今から寝ますけれど、ゆっくり眠らせてください」だけではなく、「寝ている間に、主が働かれるように」と、祈って下さい。詩篇一二七篇にあるように、『主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。』と。すべての守り、必要を、神は我々が寝ている間に備えてくださるのです。

 新約聖書、マルコ四章二十六節〜二十九節を見ると、

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、実を結ばせてくださる神様です。日本のリバイバルも同じことです。眠っている間に、神が全てを備えてくださるのです。
 今週は、眠る前に、一つの祈りをしていただきたいと思います。「眠りはあなたに全てを委ねることを意味します。主よ、寝ている間に全てを整えてください。」と。

 天地宇宙を造られた偉大なる神、イエス・キリストに頼ることができるとは、なんと、幸せでしょうか。
 今日は、もう一度、心から主に感謝し、主の前に出たいと思います。今から聖餐式を行ないますが、偉大な神が人となってこの地上に来てくださいました。ご自分を現してくれました。愛を表してくれました。それを心から感謝し、聖餐式を行います。
 一言最後に、お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。あなたは天地宇宙を造られた偉大なる神様です。偉大な神の元で生きることができて感謝します。人となって地上に来てくださったイエス様、あなたの尊い十字架と血潮を心から感謝します。今、聖霊によって聖餐式を行ないます。祝福をお与えください。イエス様の御名を通して、祈りをお捧げします。アーメン。